Iコース(雷門地区健康推進委員おすすめ)  

コース 踏破記  

今日は台東区の「Iコース(雷門地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。花川戸公園をスタート地点として、浅草寺や浅草の歓楽街、上野公園・不忍池を巡って湯島天満宮に至ります。  

スタート地点:花川戸公園
@浅草寺
A伝法院
B松葉公園
C曹源寺
D両大師橋
E不忍池弁天堂
F旧岩崎邸庭園

ゴール地点:湯島天満宮


スタート地点の花川戸公園から歩き始めます。公園の入口に、花川戸公園についての解説を記した「歴史と文化の散歩道」の案内碑が建っています。

花川戸公園

この花川戸公園は、昭和二十五年に台東区立の公園として開設され長く親しまれてきた。昭和六十二年度、花川戸公園は園内の歴史的事物を大切に護りながら、未来の人々にも愛されつづけられる公園になるよう整備された。公園東側の池は、この地に伝わる一の塚伝説の舞台である姥ケ池を、公園の修景に配慮して表わしたものである。また、広場に設置された模様や絵タイルは、台東区の代表的な自然地と、それに深く関わりながら人々によって育み見守られて来た文化的な事物を表わしている。




花川戸公園にはふたつの見所があります。ひとつは姥ヶ池跡です。

東京都指定旧跡
姥ヶ池

姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。昔、浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死ぬ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。

Historic Places
Ubagaike (Ubagaike Pond)

Ubagaike Pond used to be a large pond leading to the Sumida River in the past, but was reclaimed in 1891 and converted to a park by former Asakusa Ward. Its name is derived from the legend concerned with a stone pillow owned by Myoonji Temple (a sub-temple of Sensoji Temple). According to the legend, an old woman and her daughter lived in a house at Asajigahara. The old woman was killing many travelers with stone pillow, who were taken by her daughter asking for a night's lodging. When a traveler stayed there, the daughter acted as substitute for him in order to dissuade the old woman and killed by her with stone pillow. The old woman deeply lamented and threw herself into the pond. Afterwards, village people called it "Ubagaike" (mean old woman's pond).




もうひとつは、市川団十郎の十八番の「助六」の歌碑です。助六の歌碑は、九世市川団十郎が自作の歌を揮毫して、明治十二年(1879年)に浅草の仰願寺に建立しましたが、関東大震災で崩壊し、長く土中に埋もれていたものが発見され、昭和三十三年(1958年)にこの地に再建されました。

助六歌碑

碑面には、

   助六にゆかりの雲の紫を
      弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲

の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。歌碑は、明治十二年(1879年)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川1−4−6)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(1713年)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(1832年)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間870)に墓がある。

BALLAD MONUMENT OF "SUKEROKU"

The role of Sukeroku in the Kabuki play of the same name, which is one of the 18 classical pleces of Kabuki, has been played by the actors succeeding the name of Danjuro since Ichikawa Danjuroll played the role for the first time in 1713. The ballad monument was erected at the Koganji Temple in 1879 by DanjuroIX and other people in commemoration of a man called Sunaga Hikobei in Nihonbashi, who offered much back-up to Danjuro IX. It collapsed in the Great Earthquake of 1923 and was left buried for a long time. It was re-discovered, however, and was moved to this location thanks to the efforts of the sons of the caretakers at the time of the original erection of the monument.




「履物問屋街発祥碑」の石碑も建っています。履物問屋街発祥碑は、花川戸公園内に平成二年(1990年)に建立されました。江戸時代後期の天保改革で、天保十三年(1842年)に日本橋から猿若町に幕府公認の芝居小屋「中村座」・「市村座」・「河原崎座」(後に「森田座」)が移転してきました。「猿若三座」と呼ばれ、役者や芝居関係者が多く住んだこともあり、和装履物問屋が軒を並べました。これが「花川戸」の問屋街発祥の誕生の要因となりました。現在でも、「江戸通り」沿いなどに、靴や鞄など革製品を取り扱っている専門店70店余りが軒を連ねる「花川戸靴・はきもの問屋街」があります。年末には「花川戸はきだおれ市」が開かれています。



花川戸公園は 中央を道路が横切るために南北に分断されています。その南側の公園内に奇妙な石のオブジェが置いてあります。

石の舟

旧福井中学校の礎石を基盤として、その上に大きな玉石を設置しました。その石には浅草小学校の子供たちと制作チームスタッフが造ったブロンズの人や動物の頭部(顔)が埋め込まれています。台東区の公共施設の礎石を過去として、玉石を地球とみたて、皆で造った人間や動物がその地球に生きる多くの生物の今を意味して、それらが東京スカイツリーを眺め見つめることで未来に思いを巡らします。




二天門から見所ポイント@の「浅草寺」に入ります。現在の二天門は慶安二年(1649年)に浅草寺の東門として創建されました。当初は境内にあった東照宮の随身門でしたが、明治十七年(1884年)に神仏分離によって随身門に安置されていた随身像が浅草神社に遷座した際、名称を随身門から二天門と改められました。扁額の「二天門」の文字は、太政大臣の 三条実美の筆になるものです。二天門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重であり、国の重要文化財に指定されています。平成二十二年(2010年)に改修を終え、創建当時の鮮やかな姿に蘇りました。

二天門[にてんもん](重要文化財)

この二天門は、慶安二年(1649年)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺の東照宮は元和四年(1618年)に建立されたが、寛永八年(1631年)と同十九年の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(十七世紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和三十二年に寛永寺の厳有院殿(四代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。二天門は昭和二十五年、国指定重要文化財に指定された。

Nitenmon Gate (Important Cultural Property)

Nitenmon Gate was evidently built circa 1649 as the east gate of Senso-ji Temple, but throughout the Edo period it was considered the zuishinmon (guarded gate) of Tosho-gu Shrine, which was built to the west of Senso-ji's Kannondo Hall, hence guardian statues were housed on either side of the gate. Tosho-gu Shrine was built at Senso-ji in 1618, but was destroyed in fires along with other buildings at the Senso-ji Temple complex in 1631 and 1642, after which Tosho-gu was relocated to Momijiyama inside Edo Castle. After the decree forbidding the fusion of Shinto and Buddhism was issued, the guardian statues at the gate were re-imagined as Jikoku-ten and Zojo-ten, which are two of the four main protective deities (called ten in Japanese, from Sanskrit deva), hence the name of the gate was changed to Nitenmon, or the "Gate of the Two Deities". The two statues currently flanking the gate were made in the early Edo period (the latter half of the 17th century) by the Buddhist sculptor Yoshida hyoubu of Kyoto's Shichijo district (they are now designated by Tokyo Prefecture as Tangible Cultural Properties). They were moved in 1957 from Chokushimon Gate at Kan'ei-ji Temple's Genyuin Mausoleum (the mausoleum to Tokugawa Ietsuna, the 4th Tokugawa shogun). In 1950 Nitenmon Gate was designated as a National Important Cultural Property.




二天門の左右に祀られた持国・増長の二天像は、昭和三十二年(1957年)に上野寛永寺の厳有院(四代将軍徳川家綱霊廟)から拝領した像です。門に向かって右が持国天で、左が増長天です。持国天と増長天は四天王に数えられる仏さまで、四天王は仏教の守護神であることから武装した姿に造られます。持国天は東方を、増長天は南方を守護するとされ、仏舎利を収める仏塔やお釈迦さまの周囲に安置される例が多いようです。向かって右側の持国天は、左手を上げて密教法具を持ち、右手を腰にあてる姿勢を取っています。向かって左側の増長天は持国天と対称的な姿勢を取り、右手に法具を掲げ、左手は腰に当てています。元来は全身に華やかな彩色が施されていて、今でも顔や鎧に古来の鮮やかさが残されています。どちらも「寄木造」という鎌倉時代以降に流行した複数の木材を組み合わせる技術で造られています。


右側が持国天、左側が増長天です。


二天門を入った右手に浅草神社が鎮座しています。浅草神社の主祭神は、浅草寺の創建に関わった土師真中知・檜前浜成・檜前竹成で、この三人の霊をもって「三社権現」あるいは「三社様」と称されるようになりました。推古天皇三十六年(628年)3月18日に漁師の檜前浜成・檜前竹成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かりました。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは聖観音菩薩像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになりました。その後土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺としました。これが浅草寺の始まりです。土師真中知の没後に真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・竹成を神として祀ったのが浅草神社の起源であるとされています。

浅草神社

明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649年)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868年)三社明神、同六年浅草神社と改称した。現在の社殿は慶安二年十二月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。

ASAKUSA SHIRINE

The Asakusa Shrine had its origin in the joint enshrinement of Hinokuma no Hamanari, Hinokuma no Takenari, who picked up the image of Kannon, the main idol of the Sensoji Temple, from the Sumida River, and Haji no Matsuchi, who made the image as the target of the people's worship. The present shrine building was reconstructed by Tokugawa Iemitsu in December 1649. It is highly rated as the representative building of the Gongen structure of the early Edo Era, and has been designated as an important cultural asset of the nation. The Sanja Festival, held in May every year, is one of the three biggest festivals in Tokyo.




現在の社殿は徳川家光が再建したものです。



境内の一画に、久保田万太郎の句碑「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」という碑が建っています。その隣に、寄り添うように川口松太郎の「生きると いうこと むずかしき 夜空かな」という碑も建っています。久保田万太郎(明治二十二年【1889年】11月7日〜昭和三十八年【1963年】5月6日)は日本の小説家・劇作家・俳人で、浅草生まれの耽美派(三田派)の新進作家として登場し、築地座を経て文学座創立に参加しました。新派・新劇・歌舞伎の脚色や演出と多方面に活動を展開し、日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなしました。小説・戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒を盛り込んだ情話で長く活躍しました。文人俳句の代表作家としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰しました。川口松太郎(明治三十二年【1899年】10月1日〜昭和六十年【1985年】6月9日)は浅草生まれの小説家・劇作家で、芸道物・明治物・時代物・現代風俗物などを広く執筆しました。巧みな筋立てと独自の話術で庶民情緒を描いた大衆小説を執筆して多くの読者を獲得しました。また、松田昌一の名前で映画や演劇脚本も手がけ、大映専務などを務めました。特に、新生新派の主事として自作小説の脚色や演出を担当して昭和期の新派に欠かせない人気作家となりました。作品の多くは新派の代表的演目となり、第1回直木賞を受賞し、映画化されて大流行した「愛染かつら」の作者としても知られています。川口松太郎は、久保田万太郎を終世の師と仰いでいました。

川口松太郎句碑

川口松太郎ハ明治三十二年十月一日浅草今戸二生レル。昭和十年第一回直木賞受賞ノ「鶴八鶴次郎」ヲ初メトシテ、小説脚本二名作多ク、文壇劇壇二多大ナ足跡ヲシルス。特二新派俳優花柳章太郎水谷八重子等ニョッテ演ジラレタ情緒豊カナ諸作品ハ観客ヲ魅了ス。這般ノ功績ニヨリ三十八年菊池寛賞受賞。四十年芸術院会員。更二四十四年「しぐれ茶屋おりく」ノ一篇ニヨリ吉川英治文学賞受賞。四十八年文化功労者ニ叙セラレル。最晩年渾身ノ筆デ連載小説「一休さんの門」ヲ脱稿後、昭和六十年六月九日永眠ス。行年八十五才。三回忌二因ミ、故人ノ終世ノ師久保田万太郎ノ傍ラニ同ジク句碑ヲ建テテ逝者ヲ偲ブ。

   生きると いうこと
   むずかしき 夜寒かな




粧太夫は吉原の遊女でしたが、蕋雲の号を持つ教養高い女性でした。

粧太夫碑(蕋雲女史書の柿本人麻呂歌碑)

   ほのぼのと明石の浦の朝霧に
      島かくれゆく船をしぞ思う

有名な万葉歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは、碑文にあるように蕋雲女史である。蕋雲は文化年間(1804年〜1817年)、遊里新吉原の半松楼に抱えられていた遊女で、源氏名を粧太夫といい、蕋雲はその号である。粧太夫として当時の錦絵にも描かれており、書を中井敬義に学び、和歌もたしなむ教養ある女性で、江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎から蕋雲の号を贈られたほどの人物であった。この歌碑は、人麻呂を慕う太夫が、文化十三年(1816年)八月、人丸社に献納したものである。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現(現在の浅草神社)の裏手にあったが、明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷社のかたわらに移され、昭和二十九年十一月、現在地に移された。

MONUMENT TO YOSO-OITAYU
(In memory of K.N.H Miss Zuiun,
using calligraphy inscribed one of his Waka poems on this monument)

  Honobonoto Akasi no ura no asagiri ni
    sima kakureyuku hune wo sizo omou

The famous Man-yo poet, Kakinomoto no Hitomaro inscribed this poem in ancient Japanese phonetic characters (Man-yo-gana) using the calligraphy of Miss Zuiun, an intellectual of that period. She was a courtesan and called Yoso-oi Tayu. Zuiun was her pen name. She was an excellent calligraphist, Waka poetess, and a caltured woman, who was often depicted in coloured woodblock prints. This monument was offered to Hitomaro-sha (a shrine to worship Kakinomoto no Hitomaro) in August of 1816 by Yoso-oi Tayu who adored Hitomaro. The shrine was destroyed after the Meiji Restoration, except for this monument which was moved here in November of 1954.




狛犬は外部からの厄災を退ける役割があり、一般的に一対が参道を挟み向き合って設置されます。この夫婦狛犬は江戸初期に作られ、形状が珍しく大変貴重なものであり、その寄り添って佇む様相から「良縁」・「夫婦和合」・「恋愛成就」のご利益があるとされています。



浅草寺の本堂(観音堂)は、ご本尊の聖観世音菩薩を祀る中心堂宇です。慶安二年(1649年)に徳川家光が願主となって再建された旧本堂は昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲により焼失しましたが、その後全国の信徒からの浄財によって、昭和三十三年(1958年)に現在の本堂が再建されました。旧本堂を基本にして鉄筋コンクリート造りで建てられ、入母屋造りの大屋根は急勾配かつ棟高であるために遠方からも望むことが出来ます。かつては現在の3倍の重量の本瓦で葺かれていましたが、安全強化のために軽量のチタン瓦に葺きかえられ、平成二十二年(2010年)に営繕が完了しました。本堂へ上がる階段の上部にせり出した向拝には、直径4.5mの大提灯が吊られています。



本堂の手前には宝蔵門があり、雷門と同じ「小舟町」の大提灯が吊られています。関東大震災まで日本橋は江戸の魚河岸であり、界隈は「江戸湊」として繁栄を誇っていました。江戸湊は諸国の産物が集まる荷揚場であり、集散地でもありました。その地続きである小舟町には産物を扱う商人が店を構え、財をなしていました。大提灯はこの商人らが小舟町の繁栄と信徒の心意気を示したもので、 万時二年(1659年)に小舟町の町名を大書きした大提灯を浅草寺に奉納したのが始まりです。その後も三百年以上の歴史と伝統を連綿として今に受け継いでいます。前回は、江戸開府四百年にあたる平成十五年十月に新調奉納されました。この大提灯は、当時の小舟町の繁栄を今に伝えるもののひとつになっています。



境内には旧二天門(宝蔵門の前身)の礎石が残されています。

旧仁王門礎石

慶安二年(1649年)十二月二十三日、旧本堂と共に三代将軍徳川家光公により、再建落慶した旧仁王門(国宝指定 現宝蔵門と同規模)は、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら昭和二十年(1945年)三月十日の東京大空襲により本堂・五重塔(家光公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。その後、現本堂に続き昭和三十九年(1964年)四月一日、仁王門を宝蔵門と改めて同跡地に再建されました。この三つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘出された礎石です。旧仁王門には十八本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭い、ひび割れ破損し、原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約1.2m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約1.4m角、高さ約1m。この礎石の下部と周囲は10〜15cm径の玉石と粘土で突き固められていました。江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑 として受継ぎたいと存じます。




今では子供が迷子になってもマイクで親が呼び出せますが、江戸時代には張り紙で情報交換をしていたそうです。宝蔵門の脇に石柱が建っています。

迷子しるべ石

昔迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、「江戸」市内の繁華な地に建てられたものの一つ。安政七年(1860年)三月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(現宝蔵門)前に造立したが、昭和二十年の空襲で倒壊したため、昭和三十二年に再建された。




本堂と宝蔵門の間を通って西方向に進みますと、左手に五重塔が空高く聳えています。浅草寺に塔が始めて建立されたのは本堂・雷門・宝蔵門と同じ天慶五年(942年)のことで、武蔵守平公雅によると伝えられています。本堂に向かって西側に三重塔、東側に五重塔が建ち、ふたつの塔が左右に配された「薬師寺式伽藍」ではなかったかと考えられています。この塔は長久二年(1041年)に火災によって倒壊しましたが、長い年月を経て寛永十二年(1635年)に再建されました。しかし、寛永十九年(1642年)に再び火災により焼失し、徳川家光により慶安元年(1648年)に五重塔は再建されましたが、三重塔は復興されませんでした。この慶安の五重塔は本堂の東側に位置し、現在も礎石が残っています。江戸時代には、上野寛永寺五重塔・芝増上寺五重塔・谷中天王寺五重塔と共に、「江戸四塔」として親しまれました。昭和二十年3月14日に東京大空襲により焼失し、現在の塔は昭和四十八年11月1日に鉄骨鉄筋コンクリート造りの回廊式塔院の上に五重塔を建てるという「塔院造り」の方法で再建されました。



五重塔の案内板が立っています。

五重塔

そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。浅草寺五重塔は、天慶五年(942年)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和二十年三月の戦災によって惜しくも焼失した(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)。以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和四十八年に現在の五重塔を再建するに至った。地上からの高さは約五十三メートルある。

The Five-storied Pagoda

This pagoda, founded in 942, was rebuilt by Tokugawa Iemitsu in 1648. It burned in 1945 during World War II and was reconstructed in 1973. On that occasion, memorial tablets of devout believers who had passed away were placed in the pagoda's foundation, and a bone relic of the Buddha presented by Sri Lanka was placed in the topmost storey of the pagoda.




現在の五重塔は本堂の西側に建てられていますが、かつてはその場所に三重塔が建てられていました。しかし、寛永八年(1631年)に焼失し、慶安元年(1648年)に再建された旧五重塔は本堂の東側に建てられました。その礎石が残っています。

旧五重塔跡

五重塔とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安する仏塔の一つで、古くから寺院に建立されてきた。この場所は、江戸時代の慶安元年(1648年)、徳川家光によって再建された旧国宝の五重塔(木造・高さ三十三メートル)が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置していた。浅草寺の五重塔は、天慶五年(942年)平公雅により創建され、その後いく度か炎上するもその都度再建されている。江戸時代、家光再建の五重塔は、上野の寛永寺・谷中の天王寺・芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていた。また、歌川広重・歌川国芳などの浮世絵の格好の画題としても全国に知られ、朱塗り・碧瓦(未申にあたる裏鬼門の方角の第三層には、羊角猿面の鬼瓦が葺かれる)の美しい姿を見せていたが、昭和二十年(1945年)の戦災で惜しくも焼失した。




五重の塔の南側には、見所ポイントAの「伝法院」があります。伝法院は、浅草寺の本坊(寺院内において僧侶が生活を送る居住空間及びその建物自体を指します)である伝法心院の通称です。客殿・玄関・書院などからなり、回遊式庭園は小堀遠州の作と伝えられています。

伝法院(名勝・重要文化財)

伝法院は浅草寺の貫首が居住する本坊の称号である。客殿は安永五年(1776年)、玄関は翌六年の建築である。客殿は大規模な方丈形式の建物で、仏壇を広く構える内陣三室を並べた平面構成に特徴があり、本尊阿弥陀如来坐像(台東区指定文化財)を安置する。六月の山家会(伝教大師の忌日法要)、十一月の霜月会(天台大師の忌日法要)をはじめ、故人の追善供養、寺内徒弟の加行などが行われる。台所・小書院・大書院・新書院は明治後期から大正期に復興した建造物である。伝法院の主要建物六棟は平成二十七年に国重要文化財に指定された。建物の背後には、大池泉を中心とする池泉庭園があり、江戸時代初期の作庭と考えられている。伝法院庭園として平成二十三年に国名勝に指定された。池には京都表千家の茶室、不審庵を模した天祐庵(東京都指定文化財)がある(非公開)。

Denbo-in Hall (Places of Scenic Beauty/ Important Cultural Property)

Denbo-in Hall is the name of the residence of the head abbot of Senso-ji Temple. The main reception hall was built in 1776, and the main entrance was completed in 1777. The building is in the shape of a large square. The composition of the hall is remarkable for its planar arrangement of the three rooms making up the inner sanctuary, with a particularly large Buddhist alter. The principle image of the hall is a seated Amitabha Buddha (Designated Cultural Property of Taito City). Various rites and rituals are held here throughout the year. The kitchen and libraries were added to the complex in the Meiji and Taisho periods (late 19th to early 20th centuries). The six main structures that make up Denbo-in Hall were designated in 2015 as National Important Cultural Properties. Behind the structures is a garden centered on a large pond. The garden is thought to have been constructed in the early Edo period (17th century). In 2011 the garden was designated as a nationally-recognized scenic spot. On the edge of the pond is a teahouse called Tenyu-an (Cultural Property designated by the Tokyo Metropolitan Government; not open to the public) of the Omotesenke school of tea, which was built to resemble the Fushin-an Teahouse in Kyoto.



伝法院通りから見た伝法院の正門です。案内板は仲見世通りに面して立っています。


浅草寺の境内には沢山の堂や記念碑が建っています。浅草寺の山号「金龍山」の由来を記した案内板もありますね。

金龍権現

寺伝の縁起によれば、浅草寺ご本尊観音さまのご示現にあたり、天より百尺ばかりの金龍が舞い降りて、その功徳を讃え観音さまをお守りしたとされることから、浅草寺の山号を「金龍山」という。これにより奉安されたのが、この「金龍権現」である。このことに因み、現在、三月十八日と十月十八日の年二回、浅草寺境内にて寺舞「金龍の舞」が奉演されている。




淡島明神は女性の守り神だそうです。下北沢近くの森巌寺にも淡島堂がありましたね。森巌寺に淡島堂が勧請されたのは、森巌寺開山した清誉上人が持病の腰痛に悩んでいた折り、淡島明神に祈願せよと夢の中で霊示があり、灸を施したところ腰痛が完治したため、淡島明神をこの地に勧請して堂を建てたといわれています。

淡島堂

淡島堂は、元禄年間(1688年〜1703年)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勧請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年二月八日、ここで針供養が行なわれ、女性の参詣人が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。

AWASIMA-DO

Awasima-do was built in the late 17th century to worship a god called Sukunahikonano-mikoto who is enshrined at Kada shrine in Wakayama prefecture. This god is famous as a guardian of women. Especially during "needle memorials" when express gratitude by bringing used sewing needles and sticking them into Tofu (bean curd), the shrine attracts a lot of people.




針供養の塔も建っています。針供養とは、折れたり、曲がったり、錆びたりして使えなくなった古針を供養し、近くのお寺や神社に納める行事です。針供養は各地の社寺で執り行われていますが、主に淡島神社(粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われます。

建立の記

この針供養之塔は、大東京和服裁縫教師会が五十周年の記念事業として発願し、全国和裁団体連合会の御協賛と裁縫をたしなまれる多くの方々の御助勢とにより、昭和五十七年十月十七日に建立されました。省みますれば昭和十年二月八日「折れ針」への感謝と裁縫関係者にお呼びかけし、古来の伝承に伴い浅草寺淡島様の御宝前で、供養の法会を営ませて頂いてより、次第に同じ志の方々が増え都内をはじめ近県からも「折れ針」を持って参詣され、懇ろにご供養なさる方々が、年々多くなりつつありますことは報恩の美風を普く世に伝へるためにも誠に有難く喜びに堪へません。




六角堂は浅草寺内で最古の遺構と言われています。「HEXAGONAL」は「六角形」のことです。六角堂のご本尊は日限地蔵尊です。日限地蔵尊は、慈悲の心でこの娑婆世界だけでなく地獄や餓鬼道にもおもむき、衆生を救われる仏さまです。特に、この日限地蔵尊は何かのお願い事に対し、日数を定めて祈願すれば古来より霊験があるとされています。

東京都指定有形文化財(建造物)
浅草寺六角堂 一棟

六角堂は「浅草寺誌」(文化十年編)に元和四年(1618年)の建立とあり、江戸時代初期の建築と考えられ、浅草寺内では最古の遺構である。木造で単層の六角造り瓦ぶき形式で、建物中央の直径は1.82メートルあり、一面の柱真々は0.91メートルである。建物の基礎は、六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、その下部に十一段の石積みをした1.5メートル余りの井戸状の穴が掘られている。六角堂という特異な形式であり、都内においては遺例の少ない建造物で、貴重な文化財である。もとは東方21.8メートルの場所(現・影向堂の南基壇上に元位置の明示あり)に建っていたが、平成六年十月境内整備のためここに移された。

東京都文化財保護条例(昭和五十一年三月三十一日改正)により文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替えてください。

Tangible Cultural Property (Building)
Senso-ji-Rokkakudo

Wooden structure, One-story, Hexagonal style, Light weight tile roofing (a pantile that combines broad concave tiles and semi-cylindrical convex tiles), Lacquered in red, 1.82m inner diameter, 0.91m side length (distance between pillar centres) According to Senso-ji-Shi (chronicle of 1813 edition), Senso-ji-Rokkakudo was built in 1618 and is therefore the oldest architecture in Senso-ji. This building is valuable since hexagonal architectures are rare in Tokyo. It was originally located 21.8m further east (the original location is inscribed on the south podium of Yougou-do), but moved to its current position in October 1994 due to rearrangement.




浅草六区のルーツは、ここ奥山にあったといわれています。

奥山(新奥山)

江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう、著名な場所であった。奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと思われる。明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。

Shin Okuyama

In the Edo period this area was the most famous amusement quarter of Edo city and called "Okuyama". Many people came to see street performances and spectacles here. After the Meiji period the prosperity district moved to the west area of Sensou-ji called "Asakusa Rokku" and it flourished as the most thriving entertainment downtown in Japan. Nowadays this place was named "Shin-Okuyama" and many monuments which remind us of the past are built.




神社には力石が展示されていることが多いのですが、お寺に力石は珍しいですね。浅草寺の力石は一見すると墓石みたいです。尚、持ち方は違いますが、現在の重量挙げの世界記録はジャークで265kgだそうです。さすがに百貫の巨石を頭の上に持ち上げることはできなかったでしょう。

力石

力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。正面の「力石・熊遊の碑」は、明治七年(1874年)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。




「半七塚」と彫られた巨石が鎮座しています。その対面には蝦蟇(ガマ)のように見えますが、霊獣なのだそうです。

半七塚碑

「半七」とは、捕物小説家の岡本綺堂(1872年〜1939年)の代表作の一つ、「半七捕物帳」の主人公の名である。この碑は、昭和二十四年(1949年)に半七を慕う「捕物作家クラブ」(現在の日本作家クラブ)の同人らにより、綺堂の業績を称えて建立された。碑の裏には、「半七は生きてゐる 江戸風物詩の中にわれ等後輩の心のうちに」と、「銭形平次捕物控」を著した野村胡堂(1882年〜1963年)の撰文が刻まれる。

青蛙神像

半七塚碑に対面するように、一匹の丸々としたカエルがいる。よく見ると変わった姿をしており、前足は二本、後足の代わりに尻尾の足が一本伸びている。これは中国の霊獣「青蛙神」であり、福をもたらす存在として特に道教で信仰された。「青蛙堂鬼談」シリーズがあるように、綺堂は青蛙神に大きな関心を寄せていた。この像は半七塚を静かに見守っているようである。




「映画弁士塚」なる記念碑もあります。碑の右半分には、かっての名弁士の名前が列挙されています。碑の前には当時の映画会社の社長の名前が記された石碑も建っています。建設者の大蔵貢は活動写真の弁士を経て新東宝社長になり、その後大蔵映画を起こして社長になりました。歌手の近江俊郎の実兄になります。この弁士塚は、大蔵貢が弁士時代の盟友たちを顕彰するために、日本映画大手5社に呼びかけて1958年に建立したものです。

映画弁士塚

明治の中葉、わが国に初めて映画が疲来するや、これを説明する弁士誕生。幾多の名人天才相次いで現れ、その人気は映画スターを凌ぎ、わが国文化の進展に光彩を添えたが、昭和初頭トーキー出現のため姿を消すに至った。茲に往年の名弁士の名を連ね、これを記念する。




ようやく浅草寺の境内を抜け、五重の塔通り(旧元木場館通り)に出ます。木馬館は大衆演劇の劇場として知られていますが、元々は明治四十年(1907年)に日露戦争の勝利を記念するために昆虫学者の名和靖によって元木場館通りに設立された昆虫館でした。花屋敷と並んで、家庭的な遊び場であり、メリーゴーランドが設置されていたことから木馬館と呼ばれることになりました。昭和初期には、関西で流行していた安来節を興行の常打ち小屋となり、戦後は映画館として使用され、現在は大衆演劇の劇場になっています。



浅草フランス座演芸場東洋館(通称:東洋館)は、漫才・漫談などを中心とした演芸場です。北野武はエレベーターボーイをしながらコントやタップダンスを学び、東洋館で芸人への第一歩を踏み出しました。兼子二郎(後のビートきよし)と出会い、後の漫才ブームの牽引役となる「ツービート」を結成したきっかけとなった場所でもあります。主な出演者には、八波むと志・南利明・渥美清・関敬六・谷幹一・佐山俊二・東八郎・萩本欽一/坂上二郎・ビートたけし/ビートきよしなど、蒼々たる芸人を輩出しています。



木馬館のはす向かいの通りには多くの飲食店が建ち並んでいます。「まえ田」は明治40年に創業した老舗の大衆食堂で、「牛すじ煮込み」が絶品とのことです。店先で飲んでいるおじさんはこれまた名物のおでんをつまみにしています。



明治六年(1873年)に浅草寺境内は公園に指定され、浅草全体は一区から七区に区画が設定されました。浅草六区には、かつて演芸場や映画館が建ち並び、オペラや歌舞伎などあらゆる演目が上映されていました。浅草六区通りは僅か100mほどの商店街ですが、通りには浅草を育て愛した文人や芸人の名跡が至る所に残されています。



浅草六区通りから国際通りに出ます。雷門一丁目交差点の角に宮本卯之助商店西浅草店があります。初代清助が文久元年(1861年)に土浦で山城屋という屋号で太鼓店を創業したのが始まりで、明治二十六年(1893年)に四代目卯之助が浅草聖天町に店を構えました。大正十五年(1926年)に大正天皇の大葬用楽器一式を製作し、その後宮内庁御用達となりました。現在の西浅草店は昭和二十三年(1948年)に開店しました。浅草神社御本社神輿(一之宮・二之宮・三之宮)は宮本卯之助商店が製作したものです。昭和六十三年(1988年)には、西浅草店の4階に世界初となる太鼓専門の博物館「太皷館」が開設されました。



浅草でお好み焼き屋といえば、昭和十二年(1937)年創業の「染太郎」ですね。平屋の店舗の左半分が生い茂った樹木で覆いつくされ、外観からして老舗の雰囲気があります。名物は四方をお餅で固める「しゅうまい天」なのだそうです。生地にひき肉と玉ねぎを入れてかき混ぜた後、ちょっと隙間をあけてお餅で囲いを作り、間に生地を注ぎます。生地がある程度固まったところでお餅の幅を詰めて四角く成形します。お餅と生地がくっついたらひっくり返し、お餅が膨らんできたらもう一回ひっくり返します。ソースではなく、かるく醤油をかければ完成です。ひき肉のジューシーな味わいと外側のモチモチした食感が組み合わされたのが「しゅうまい天」と呼ばれるようになった所以だそうです。もうひとつの名物が焼きそばです。染太郎の焼きそばはソースを垂らす前から麺が茶色になっています。麺を染めているので、店名が染太郎になったのだとか。



浅草菊水通りに面して、東本願寺(浄土真宗東本願寺派の本山)の広大な境内が広がっています。江戸開府前後からの歴史を持ち、明暦の大火の後に神田から移転し、関東大震災での焼失等を経て、「浅草本願寺」から「東京本願寺」、さらに「東本願寺」と名を変えてきた複雑な経緯があります。

THE TOKYO HONGANJI
The Headquarters of the Higashi Honganji Sect

Approximately 400 years ago the Tokyo Honganji temple was established in the city of Edo (modern Tokyo) under the patronage of Shogun Tokugawa Ieyasu by Kyonyo Shonin (1558-1614), the 12th successor descendant of Shinran Shonin (1173-1262), founder of Jodo Shinshu Buddhism. At this temple the 25th Supreme Primate Otani Kosho (Ko-nyo Shonin) Temple Master and Monzeki, has carried on Shinran Shonin's blood and Dharma succession to date. The Tokyo Honganji is at present the headquarters of the Jodo Shinshu Higashi Honganji Sect with a following of some 400 temples. Historically, the city of Edo was constantly ravaged by fire and the Honganji was no exception. On several occasions when the city was destroyed, the temple was reduced to ashes. But every time such a calamity occurred the strong religious devotion of Honganji followers led to swift reconstruction. In more recent times the Kanto earthquake of 1923, with its ensuing fires destroyed the temple, but the principal image and major temple treasures were saved. In 1939 the present main hall was constructed, utilizing for the first time in Japan a concrete form of the traditional style of Buddhist temples. The principal image of the main hall, Amida Nyorai, was enshrined in 1609 and has miraculously survived the numerous calamities to date. It is not only an object of religious veneration, but is also regarded as an "Important Historical Property" of Tokyo Prefecture. The Asakusa columbarium, bearing a giant temple bell cast approximately in 1630 on its roof tower, is located within the temple grounds. There is also the Otani Hall and Memorial Hall, which are both used for a variety of church activities as well as public lectures, and other research and educational activities. Under the leadership of the 25th Supreme Primate of the Higashi Honganji, His Eminence Kosho Ko-nyo Otani, the Tokyo Honganji preserves the orthodoxy of Shinran Shonin's teachings in the international city of Tokyo. The temple has become the living symbol of blood and Dharma succession in Jodo Shinshu Buddhism and works to propagate the spirit of Mahayana Buddhism towards all who seek spiritual salvation. The door to this living Buddhist temple is open towards all races, nationalities and peoples of the world.




東本願寺は、朝鮮通信使(朝鮮国から日本国に派遣された外交使節団)が江戸を訪れた際の宿泊所として利用されました。案内板には朝鮮語の解説もあります。

東本願寺と朝鮮通信使

朝鮮通信使とは、朝鮮国から日本国に派遣された外交使節団であり、平成二十九年十月、「朝鮮通信使に関する記録―17世紀〜19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」が、ユネスコ「世界の記憶」に登録された。東本願寺は、朝鮮通信使が江戸を訪れた際の宿所として、四回利用された。ただし、当時の建物は、関東大震災で焼失し、現存していない。

The Joseon Tongsinsa were diplomatic missions dispatched from Joseon-dynasty Korea to Japan. The "Documents on Joseon Tongsinsa/Chosen Tsushinshi: The History of Peace Building and Cultural Exchanges between Korea and Japan from the 17th to 19th Century" were added to the UNESCO Memory of the World Register in October 2017. On four separate occasions, the temple Higashi Honganji provided lodging for these diplomatic missions when they visited Edo. However, the original structures were lost to a fire in the Great Kanto Earthquake and no longer exist.




また、東本願寺の銅鐘は都内でも有数の大きさになっています。

銅鐘(どうしょう)

本銅鐘は、総高302センチ、口径165.5センチあり、その大きさは区内随一であり、都内でも有数のものである。東本願寺十三世宣如上人が誌した銘文によれば、寛永七年(1630年)に伽藍整備の一環として鋳造されたものである。東本願寺は明暦の大火(1657年)以後、現在の地に移転したと伝えられるが、移転に際して本鐘も移された。本鐘を制作した鋳物師は明らかでないが、撞座や龍頭、下帯にみられる唐草文の意匠から、近世初期に活躍した長谷川越後守吉家による鋳造と推定される。本銅鐘は区内に現存する銅鐘の中でも古いものに属する。加えてその大きさからも、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上で貴重な遺品であることから、平成十五年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。

Bronze Bell

At 302 centimeters from its base to its top and with a base diameter of 165.5 centimeters, this bronze bell is the largest in Taito-ku and one of the largest in Tokyo. According to an inscription by Higashi Hongan-ji Temple's 13th Supreme Primate Sennyo, the bell was cast in 1630 during construction on the temple complex. Higashi Hongan-ji is said to have been moved to its current location after the Great Fire of Meireki (1657) that destroyed much of Edo, and the bell was relocated with it. It is not clear who cast the bell, but from the arabesque design seen on the reinforced striking marks, the "dragon head" crown, and the sound ring, it is presumed to have been cast by Hasegawa Echigo-no-kami Yoshiie, a caster who lived at the beginning of the early modern era. This bronze bell is one of the oldest extant in Taito-ku. Its age and large size make it an important artifact in terms of shedding light on casters active at the beginning of the early modern era and the casting technigues in use at the time. For this reason, it was included in the list of tangible folk-cultural properties of Taito-ku in 2003.




合羽橋南交差点を含む西側一帯は、かって松葉町と呼ばれていました。

旧町名由来案内 下町まちしらべ
旧松葉町

この付近は元禄十一年(1698年)に勅額火事といわれる大火に見舞われ焼失した。跡地には多くの寺院が移転し、門前町が開かれた。本町は、明治二年(1869年)それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられたという説もある。

江戸上水道恩人の墓

神田上水は江戸に初めて開設された上水道で徳川家康が天正十八年(1590年)に大久保忠行に命じて造らせた。やがて江戸の人口もふくらみ、新たに上水道の増設にせまられた。そこで命じられたのが加藤右衛門、清右衛門の兄弟。羽村から多摩川の水を引くことになった。難工事の末、承応三年(1654年)に完成した。幕府は兄弟の功を賞して玉川の姓を与えた。聖徳寺に眠る。




聖徳寺の門前には、記念碑と案内板が建っています。

東京都指定旧跡
玉川庄右衛門および清右衛門墓

庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水開削工事の請負者で、江戸の町人と言われているがその出身地は明らかではない。玉川上水の開削工事は、四代将軍家綱の承応二年(1653年)一月十三日に幕命が下り、二月十一日に着工された。工事費として幕府から7500両が下賜されたという。羽村から四谷大木戸に至る43キロの導水部は、承応三年(1654年)六月二十日に完成した。その後給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水準を今日に伝える貴重な文化財である。近世都市江戸の水道施設建設の功績により、兄弟は200石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄八年(1695年)に、弟の清右衛門は翌年の元禄九年に死去した。明治四十四年(1911年)政府は、玉川兄弟の功績に対して従五位を追贈した。

Historic Places
Tamagawa Shoemon oyobi do Seiemon Haka
(The Graves of Tamagawa Shoemon and Seiemon)

Tamagawa brothers are the contractor of Tamagawa Josui (Tamagawa Water Supply) in the Edo period. It is said that they were in a status of townspeople by birth, but it is not clear. They applied to the Shogunate for the improvement of water supply for Edo city suffering from water shortage, so they got some budget for the construction from the Shogunate in 1653. They built a water intake dam at Hamura of Tama River and completed the water supply of 43km to Yotsuya Okido in the next year. However, their budget was so short that they sold their own house and invested into the construction. Having achieved great success, they were rewarded with 200 koku by the Shogunate, allowed to adopt a surname "Tamagawa" and appointed to a manager of Tamagawa Josui. Shoemon died in 1695, and Seiemon died in the next year. The gravestone with conical top is for Shoemon, besides with square top is for Seiemon. Both were destroyed by the Great Kanto Earthquake, and were reconstructed at the present place by a support group.




合羽橋南交差点の南西一帯に見所ポイントBの「松葉公園」があります。戦後再開されたNHKのラジオ体操の中継はこの地から始まったのだそうです。

ラジオ体操制定五十年
ラジオ体操中継放送再開発祥記念

ラジオ体操は、昭和三年天皇陛下ご即位を記念し国民の健康増進を目的として郵政省(当時逓信省)簡易保険局が制定し、日本放送協会の電波にのせて全国に放送してから五十年国民の愛好するところとなり体力づくりに大きな役割を果しつつあったが、第二次世界大戦の影響を受け、昭和二十二年八月三十一日で放送も一時中断の止むなきに至った。その後、戦後の復興とともに、昭和二十六年五月六日、三年八ケ月ぶりにラジオ体操の放送が再開され、昭和二十七年六月二十八日中継放送再開の第一声が、ここ松葉公園から全国に放送された。これを機として台東区ラジオ体操連盟が発足し、次いで東京都ラジオ体操会連盟及び全国ラジオ体操連盟と発展し、今や全国に二千万人を突破する今日の隆盛を見るに至った。ここにラジオ体操制定五十年と中継放送再開発祥の地を記念して永く後世に伝える。




公園内には遊具が整備され、ぶら下がり棒も設置されています。人影はありませんが。



合羽橋南交差点から合羽橋交差点まで北上し、左折した先に見所ポイントCの「曹源寺」があります。曹源寺は「かっぱ寺」とも呼ばれています。

「かっぱ寺」の伝承

巨獄山曹源寺は曹洞宗に属し、天正十六年(1588年)に和田倉(千代田区)に開かれ、のち湯島天神下に移り、明暦の大火(1657年)の後、現在地に移転したと伝える。当寺の通称を「かっぱ寺」という。伝承によると文化年間(1804年〜1817年)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための堀割工事にとりかかった。このとき、かつて川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、堀割工事が完成した。この河童を目撃すると商売繁盛したという。この伝承が「かっぱ寺」という通称の由来であり、「合羽橋」(合羽橋交差点の付近にあった)という橋の名もまた、この伝承に由来するともいわれる。当寺には河童大明神が祭られるほか、合羽川太郎の墓とつたえる石碑があり、「てつへんへ手向けの水や川太郎」という句が刻まれている。

The Folklore of Kappa-dera Temple

The common name of Sogenji Temple is Kappa-dera. A Kappa is a mythical creature that is said to live in water. According to a legend, at the beginning of the 19th century there lived in the vicinity a raincoat maker named Kappa Kawataro. In Japanese the word for "raincoat" is also "kappa". This was once a basin with poor drainage, therefore rains would often bring floods causing undue trouble for the residents. Because of this, Kawataro began the construction of a series of drainage ditches with his own finances. The project was, said to have been completed only with the assistance of the kappa living in the Sumida River whom had been helped by Kawataro in the past. It is said that those who actually witnessed the river kappa thrived in business. This legend is the origin of the name "Kappa-dera." Furthermore, the name of "Kappa bashi" (a bridge that once stood at the Kappa bashi intersection) is also said to come from this legend. At the temple they celebrate the Kappa Daimyojin and there is a stone monument that is said to be Kappa Kawataro's grave.




入口の内側には奇妙な石像が建っています。頭に杭が打ち込まれていますね。ふたつの丸い窪みは目でしょうか?なんか、雰囲気がE.T.に似ている。。。



かっぱ橋本通りを西に向かいます。昭和通りの手前にコンクリート塀で囲まれた一画があります。銀座線の車両が所属する東京メトロの車両基地である上野検車区なのだそうです。突然、電車のヘッドライトが現れて吃驚します。



昭和通りを渡り、JR線に沿って少し南に下りますと長い路線橋が上野公園に向かって上がっています。見所ポイントDの「両大師橋」という橋名なのだそうです。



ちなみに、「両大師」とは、上野寛永寺開山天海僧正と平安時代の高僧慈恵大師良源を指します。

両大師

正保元年(1644年)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立。天海僧正は慶安元年(1648年)朝廷より慈眼大師の諡号(没後に贈られる号)を受けたため、「開山堂」または「慈眼堂」と称した。その後、天海がもっとも尊敬した平安時代の高僧慈恵大師良源をも安置したため、慈眼大師天海とともに一般には“両大師”と呼ばれるようになった。天海僧正の像は木造の坐像で、寂後まもなく制作され、多くの天海像の中でも優れたものの一つ(東京都指定有形文化財)。良源を描いた「元三大師画像」は、室町時代初期の制作。優れた画風を有し、江戸庶民の信仰を受けてきた(台東区指定有形文化財)。また、江戸時代初期の銅・銅燈籠が現存。いずれも、国の旧重要美術品である。

RYODAISHI (TWO SAINTS)

The Ryodaishi was first built in 1644 to commemorate two saintly monks who were called the high priests Ryogen in the 10th century and Tenkai in the early 17th century (Tenkai opened the Kan-eiji Temple in his time.) The statues of these two Saints are enshrined here, and thus the name, Ryodaishi (that means two Saints) was given. These two Saints performed many meritorious deeds throughout their lifetimes and after their deaths, the Imperial Court awarded them a single title 'Daishi' and observed the many contributions to the development of Japanese Buddhism.




両大師橋の左手には国立科学博物館があり、道路に面してロケットが空を睨んでいます。

日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げた
ラムダロケット用ランチャー
重量47t・ブーム19m・発射角度約64度

昭和四十五年(1970年)2月11日、鹿児島県の東京大学宇宙航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構JAXA)から、世界最小(当時)の人工衛星を積んだラムダ4S型ロケット5号機(注1)が、ここに展示されているラムダロケット用ランチャーにより、「無誘導打ち上げ方式(重力ターン方式)」(注2)で打ち上げられた。打ち上げ場所となった大隅半島にちなみ「おおすみ」と名づけられたこの人工衛星は、33年間飛び続けた後、平成十五年(2003年)8月2日、北アフリカ上空で大気圏に再突入し、消滅した。昭和四十一年(1955年)の1号機から4度の失敗を乗り越え、人工衛星投入に成功。日本は昭和三十年(1955年)4月のペンシルロケット発射実験から、わずか15年でソ連(現・ロシア)、アメリカ、フランスに次ぎ、世界で4番目に人工衛星の打ち上げに成功した国となった。このランチャーは、昭和四十九年(1974年)まで一連のラムダロケットの実験に使用された後、当館に移管・展示されたものである。

注1
ラムダ4S型ロケット5号機
全長16.527m、直径0.735m、総重量9.399t

注2
無誘導打ち上げ方式(重力ターン方式)
この方式は日本で考えられたもので、第3段ロケットで投入軌道と水平になったときに、第4段に点火、制御し、人工衛星をただ1回の姿勢制御だけで軌道投入するものであった。軌道は、近地点高度335km、遠地点高度5、150km、軌道傾斜角31度の長楕円軌道であった。




見所ポイントEの「不忍池弁天堂」は、江戸初期の寛永年間に天台宗東叡山寛永寺の開山慈眼大師天海大僧正(1536年〜1643年)によって建立されました。天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。例えば「寛永寺」というお寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守勝隆公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺」に見立てたお堂を建立したのです。琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない不便だという理由で寛文十年頃に陸道が造られました。昭和二十年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和三十三年(1958年)に復興し、また昭和四十一年(1966年)には、芸術院会員であった児玉希望画伯による龍の天井絵が奉納されました。

弁天堂

寛永二年(1625年)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661年〜1672年)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。弁天堂は、昭和二十年の空襲で焼失し、昭和三十三年九月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保三年(1832年)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。大祭は、九月の巳の日で、已成金という。

BENTEN-DO

This Benten-Do was constructed by Mizunoya Katsutaka in the early 17th Century. He was a lord of the present day Shimodate city, Ibaraki prefecture area. He made a man made island and made it a subsidiary of the Benten at the Hogon-ji temple on Chikubu Island in Lake Biwa (Shiga prefecture). At the time, it seems that crossings to the island were made by boat but a stone bridge was erected in the late 17th Century and since then it has been visited by many people. The original hall and important Cultural Assets were destroyed by a US air raid in 1945. It was rebuilt in 1958. The "Kin ryu (golden dragon)" on the ceiling of the hall is a work by the painter Kodama Kibo and the dragon on the ceiling of the water basin was painted by the famous early 19th Century artist Tani Buncho.




もうひとつ、辨天堂の案内板があります。

東叡山 寛永寺 不忍池辨天堂

■辯天堂の縁起
このお堂は、江戸初期の寛永年間に、東叡山寛永寺(天台宗)の開山、慈眼大師天海大僧正によって建立されました。天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく建立するにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。不忍池は、辯天さまの持つ琵琶の形に似ている滋賀県の琵琶湖に見立てられ、また元々あった聖天(しょうてん)さまが祀られた小さな島は竹生島に見立てられ、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して、島を大きく造成することで竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)」を見立て、このお堂を建立したのです。太平洋戦争の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、昭和三十三年(1958年)に復興し、また昭和四十一年(1966年)には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が、また門下による季節の花の絵が奉納されました。

■辯才天の縁日「巳の日」
辯天堂にお祀りされるご本尊さまは秘仏「辯才天」です。学問や音楽と芸能の守り神として広く信仰され、また「辯財天」とも書くことから、金運上昇といったご利盆があります。なおこのお堂の辯才天は、八本の腕それぞれに悪や災難を遠ざける徳の象徴である仏具を持つ「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」さまです。辯才天は、もともとインドのサラスヴァティー河の神格化から生まれたインド伝来の女神です。そのため河川が曲折して土地を「蛇行」することから、水と蛇と深い関わりがあると古来より考えられました。そのためこのお堂では毎月の「巳の日」を縁日としています。またこのお堂のご本尊さまは、顔が翁で体が蛇というお姿の「宇賀神」を頭上にいただいています。辯才天と宇賀神はいずれも水と深く関わり、水は豊かな産物の元であることから、どちらも五穀豊穣につながる福神として古来より信仰されてきました。毎年九月に行われる「巳成金(みなるかね)大祭」では、年に一度の秘仏ご本尊のご開帳と、小判のお守りや福財布をお授けしています。

■七福神のはなし
不忍池辯天さまは江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」のひとつです。七福神への信仰は江戸時代に大変に盛んになりましたが、これを広めたのが天海大僧正であったと言われています。当時は七福神が宝船に乗った絵を正月に買い求め、枕の下に敷いて「よい初夢」を期待するという風習が広く行われていました。現在も谷中七福神めぐりの期間は多くの参詣者を集めています。




「不忍池」の名前は、かつて上野台地と本郷台地(向ヶ岡)の間の地名が忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来するとの説があります。他には、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になったという説、ここで男女が忍んで逢っていたからという説があります。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていたそうです。

SHINOBAZU POND

A charming pond with scenes for every season, such as cherry blossoms, lotus, and migrating birds. In the center you can see Bentendo Temple.




見所ポイントFの「旧岩崎邸庭園」は不忍通りを越えた奥の小高い丘の上に広がっています。長い石垣の上には煉瓦塀が再現されています。桟瓦とは、断面が波形をした瓦のことで、S字の山の部分の連なりが障子の桟のようなのでこの名前が付けられました。

煉瓦塀

当初は、煉瓦積み黒漆喰仕上げの塀であり、桟瓦が葺かれていた。黒漆喰仕上げは耐水性と耐火性に優れた工法で商家や蔵に用いられることが多かった。耐震補強工事の際に発掘された瓦を使用し、当初の様子が一部復原されている。

Brick wall

At first, it was a wall of the brick with black plaster finish and San-Gawara (the crosspiece roof tile) was put on the top. The black plaster finish was often used for the merchant's house and the warehouse by an excellent industrial method in the water resistance and fireproof. A part of first appearance has been restored by using the tile excavated when earthquake resistant reinforcement is constructed.




旧岩崎邸庭園は、三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を都立公園として整備したものです。

旧岩崎邸庭園の歴史

旧岩崎邸庭園内の建物は、三菱の創業者岩崎家本邸の旧宅です。庭園内の建物のうち洋館と撞球室は、近代日本の建築界に大きな足跡を残したJ.コンドルの設計で、明治二十九年に建築されました。洋館は木造2階建て、地下室付で、イギリス17世紀初頭のジャコビアン様式を基調とし、明治洋風建築を代表する建物です。洋館に併置された和館は書院づくりを基調とし、棟梁は政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた大河喜十郎と伝えられています。和館内には橋本雅邦が下絵を描いたとつたえられる障壁画が残っています。昭和三十六年(1961年)に洋館と撞球室が重要文化財に指定されました。昭和四十四年(1969年)には和館大広間と洋館東脇にある袖塀が、平成十一年(1999年)には宅地、煉瓦塀、実測図が国の重要文化財に指定されています。

Kyu-Iwasaki-tei Gardens history

Kyu-Iwasaki-tei Gardens is the former main residence of the Iwasaki family, the founder of Mitsubishi. This garden consists of three buildings built in the Meiji era- a western-style residence, a Japanese-style residence, and a billiard room, as well as a lawn garden. It has been designated by the national government as an important cultural property. The western-style residence and separate billiard room were designed by Josiah Condor, who has been described as "the father of modern architecture in Japan". They are some of the most representative examples of Japan's western-style architecture of the Meiji era. The design of the Japanese-style residence, which was built alongside the Western-style residence, was based on the classic Shoin style. This prestigious building was created by the master Japanese carpenter, Okawa Kijuro, who was a famous craftsman of the era. Screens and fusuma sliding door paintings, the sketches of which are believed to have been the work of Hashimoto Gaho, a well-known painter of the period, can still be found in the residence.




旧岩崎邸は明治二十九年(1896年)に岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の久彌の本邸として建てられました。往時は約1万5000坪の敷地に20棟もの建物が並んでいました。現在は3分の1の敷地となり、洋館・撞球室・和館の3棟だけが現存しています。木造2階建・地下室付きの洋館は、鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドルの設計で、近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが往事のままの雰囲気を漂わせています。

旧岩崎家住宅(重要文化財)

明治から昭和にかけての実業家、岩崎久弥のかつての住宅。明治二十九年竣工した。設計者はイギリスのジョサイア・コンドル。上野の博物館(現在の東京国立博物館)や鹿鳴館など数多くの官庁の建造物の設計監督にあたり、十九世紀後半のヨーロッパ建築を紹介して日本の近代建築の発展に指導的役割を果たした。同一敷地内に洋館・社交の場、和館・生活の場を併立する大邸宅は明治二十年頃から建てられたが、岩崎邸はその代表例であり、現存する明治建築として貴重である。洋館(木造二階建地下室附)正面に向かって左半分が主屋でスレート葺の大屋根をかけ、その右にやや規模の小さい棟が続く。両者のあいだの玄関部には塔屋がたち、角ドーム屋根となっている。南側のベランダには装飾を施された列柱が並び、全体的にはイギリス・ルネッサンス風となっている。洋館左側に建つ撞球室(ビリヤードルーム、木造一階建地下室附)とは地下道でつながれている。洋館と撞球室は昭和三十六年に重要文化財の指定を受け、昭和四十四年には、和館内の大広間と洋館の袖塀一棟が追加指定を受けた。

FORMER IWASAKI RESIDENCE (IMPORTANT CULTURAL ASSET)

The former residence of Iwasaki Hisaya, who was an industrialist from the Meiji to the Showa periods. Constructed in 1896. Designed by English architect Josiah Conder. He played a leading role in introducing 19th Century European architecture into Japan and contributing to the development of modern architecture in Japan by designing many structures such as the Museum (now the Tokyo National Museum), Rokumeikan, and various government buildings. The palatial home which consists of the Western wing for social events and the Japanese wing for living space was based on a style that began in The Iwasaki residence was typical of this style and is an important example of Meiji architecture. The Western wing and the pool room was designated as important cultural assets in 1961 and in 1969. Also designated were the grand hall of the Japanese wing and another section of the Western wing.




旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家の屋敷地でした。その時からあったと思われる推定樹齢400年といわれる大銀杏の木が聳えています。12月上旬には大銀杏の葉が黄色に色づき、洋館とのコントラストを楽しむことができます。

推定樹齢400年 イチョウ 雄、幹周7.4m

江戸時代、越後高田藩榊原家屋敷時代よりこの地にあったと思われる大イチョウ。イチョウは老木になると幹枝から「乳」あるいは「垂乳」と呼ばれる乳房状のこぶが垂れ下がることがあり、このイチョウにも見られます。12月初旬の黄葉の季節には、洋館正面玄関のステンドグラスを黄金色に染め上げ、やがて降り積もる落葉は、またたく間に車寄せ広場を黄金色の絨毯で埋めつくします。




正面に聳える洋館は、建築面積が160余坪・木造2階建・地下室付の建物です。下見板張りペンキ塗り仕上げの外壁、天然スレート葺の屋根、玄関上部が角ドームの塔屋、庭に面した南側には二層のベランダが付いています。1階にはホールを中心に諸室が配され、主に接客に利用されました。例外的に当主久彌の書斎があり、日常的に使用されていました。通路の西端は、和館へとつながる渡り部と連結しています。2階には婦人客室や集会室など、来客用ではありますが比較的プライベートな空間が配されていました。現在はない浴室には、バスタブとともにシャワー設備がありました。洋館の地階には、都市ガスを利用したボイラー室や倉庫などが設けられていました。地階と撞球室はタイル張りの通路で結ばれていました。

洋館

明治二十九年(1896年)、三菱を創設した岩崎家の本邸として竣工。設計は英国人建築家、ジョサイア・コンドル。当時としては珍しい木造2階建て地下室付きの建物は、イギリス・ルネサンス様式を基調とし、主にゲストハウスとして用いられた。玄関のある建物北側と館内には、随所にジャコビアン様式の装飾が見られる。また、米国ペンシルベニアのカントリーハウスのイメージも取り入れられ、南側にはコロニアル様式の2層のベランダと列柱が見られる。東側サンルームは明治四十年(1907年)以降に増築されたものである。

Western Residence

This structure, design by the british architect Josiah Condor, was built as the Iwasaki family's residence in 1896. The wooden two-story building, including a basement which was very rare in those days, embodies the basic style of British renaissance architecture. It was mainly used as a guest house. Jacobian-style ornaments can be seen at the north entrance of the building and elsewhere inside the residence. In addition, Pennsylvania country-house architecture was adopted, and colonial double-layer verandas and pillars can be seen on the south side. The sun room on the east side was added after 1907.




折角なので邸内を見学してみます。旧岩崎邸の概要を記した案内板が立っています。

旧岩崎邸概要

本邸は、明治二十九年(1896年)、三菱を創設した岩崎家の本邸として建てられた。ジャコビアン様式を基調にした洋館と木造ゴシック風デザインの撞球室は、ともに英国人建築家のジョサイア・コンドルにより設計されたものである。和館は大名建築の流れをくみ、現存する大広間は書院造りを基調に建てられている。建物及び庭は、いずれも和洋の両様式が併置され、明治時代以降の日本の上層階級の住宅を知るうえで貴重な遺構である。

Facts about the former Iwasaki residence

The Iwasaki Garden, built in 1896, was one of the residences of the Iwasaki family, which founded the Mitsubishi Financial Group. A unique feature of the estate is the combination of both Japanese-style and Western-style structures. The Western-style residence was designed by the British architect Josiah Condor and is based on Jacobian-style. The Japanese-style residence was designed in the Damiyo style. Iwasaki Garden remains an important monument of the Meiji-era to understand the living arrangements of upper-class people of that time.




洋館各部の説明が続きます。

正面玄関 [洋館1階]

ステンドグラスは当時のもの。床には目地のないモザイクタイルが敷き詰められ、賓客を迎えるにふさわしい装飾を見ることができる。ファサードの列柱は、バンド飾りをまわしたジャコビアン様式となっている。玄関のある北側の装飾にも、ジャコビアン様式のデザインが多数見られる。

Main Entrance [Western Residence 1st Floor]

Stained glass and jointless tiles are employed, resulting in a building suitable for accommodations for distinguished guests. Jacobian-style pillars can also be seen here.

ホール [洋館1階]

鹿鳴館時代を彷佛とさせる1階中央のホール。天井の意匠、床の木組、暖炉のしつらえなど、随所に手の込んだデザインが施されている。各室に暖炉が設けられているが、こうした設備の有無が本格的な洋館の証のひとつとされる。日常は西側通路で結ばれた和館から移動する際にスリッパを使用し、外国からの来客があったときにだけ靴を履いたという。

Main Hall [Western Residence 1st Floor]

The same type of design can be found at Rokumeikan, a famous Jance hall from the Meiji Era. Luxurious decorations are seen in various places, especially on the ceilings, on the wooden floors and at the Areplace. Similar fireplaces can be seen in many rooms here, proof that this home was designed in true Western style. The Iwasaki family would usually wear slippers here when coming from the Japanese residence. However, they would change into shoes when guests from abroad visited.

大食堂 [洋館1階]

主に来客の際の食堂として用いられ、日常は和館の食堂が用いられました。ときとして岩崎家の子弟が当主久彌に呼ばれて、ナイフやフォークを並べてテーブルマナーを教わることがあったといいます。食堂と厨房を結ぶ扉はノッカーがあり、上下が別々に開く造りで、食事の進み具合を見て料理が出されていたことが想像されます。

Main Dining Room [1st Floor of Western-Style Building]

This was used mainly as a dining room when there were guests. The Japanese-style building was used for everyday dining. The master of the house at the time, Hisaya, is said to have summoned the Iwasaki family children here on occasion to set out arrays of knives and forks and teach them table manners. There is a knocker on the door between the dining room and the kitchen. The top and bottom halves of the door are fashioned to open separately, and it is easy to imagine the cooks and waiters watching the progress of a meal to judge when to serve the next dish.

ベランダ [洋館1階]

南側1、2階には、コロニアル様式の大規模な二層のベランダが設けられている。1階にトスカナ式の列柱、2階にイオニア式の列柱が立っている。床には多色象嵌のビクトリアン・タイルが、一面に敷き詰められている。

Verandas [Western Residence 1st Floor]

Colonial-style verandas were built on both the first and second floors on the south side. Tuscan-style pillars on the first-floor veranda and lonian-style pillars on second-floor veranda are featured here. Various colors of Victorian-style tiles are used on the floors.




旧岩崎邸のタイル(ミントン製)

旧岩崎邸庭園の洋館南側ベランダ床に用いられているものと同じタイル。旧岩崎邸庭園のタイルは、長い間ヴィクトリア朝時代のものとしか知られていなかったが、最近この1枚が発見されたことによって、裏面の刻印が確認され、ミントン製のタイルであることが明らかになった。

来歴

洋館の設計者であるジョサイア・コンドルは、来日前、母国英国での修業時代に、ヴィクトリアン・ゴシック派建築家の中有心的人物の一人であったウィリアム・バージェス(William   Burges【1827年〜1891年】)の事務所で働いていた。師であるパージェスは、ピュージンの建築理念が基となって設立されたケンブリッジ・キャムデン協会の会員で、後期ヴィクトリアン・ゴシック建築をリードした人物として広く知られている。こうした関係からコンドルは、久彌の理想をかたちにしようとしたのだろう。その方法のひとつとして、ヴィクトリアン ゴシック様式を壮麗に彩ったミントンのタイルをイメージ、前庭への重要なアプローチであるベランダの床をミントンのタイルで飾ったのである。さらに、部屋の用途によりデザインの異なる暖炉を各部屋に配置し、そのいくつかもまたミントンのタイルで装飾を施している。こうした装飾の数々は、洋館がもつ静謐な様式美をより特徴づけることになった。

ミントン(MINTON)

1793年、ロンドンやストーク・オン・トレントで活躍した銅版彫刻師のトーマス・ミントンにより創立され、1798年よりボーンチャイナの製造をはじめる。1840年、初めてミントン社を訪れたヴィクトリア女王から賜った最初の注文により高い評価を得て、1856年には英国王室御用達となった。以来、世界の王室で愛され続ける陶磁器ブランド。19世紀にミントンのタイルは建築用の材料としてだけではなく、そのデザインのバリエーションの見事さで知られていた。英国内では、ロンドンのウェストミンスター・国会議事堂などに用いられ英国以外でも、米国ワシントンの国会議事堂などの重要な建築物に使用されている。個人邸にミントンのタイルが用いられた例は非常に少ないとされる。




洋館婦人客室の天井刺繍

天井を飾る華やかな花鳥文様の刺繍は、建築と共に今日までオリジナルな形で伝えられている貴重な例であり、室内装飾用刺繍としても注目に値します。明治二十年〜明治三十年頃は優れた美術織物が作られた時期で、その大きな原動力となったのが明治二十三年に竣工した皇居造営に伴う内装や家具に用いるための装飾染織品のご用命であったとされています。従来の日本人の生活の中に無かったカーテン・卓布・壁貼布・椅子貼布などを新しく、しかも世界に誇ることができるものを作る。その要請に応え、室内装飾としての染織品が開花していきました。この天井刺繍もそうした時期に作製されたものです。図案のモチーフは小鳥やアーカンサス葉をあしらったバラの花束と、大輪の菊花の2つですが、32面のパネルの図様表現はそれぞれに異なっています。修理のために天井から下ろしたところ、裏面には退色していない鮮やかな色彩が保たれていました。丹念な美しい刺繍で、こよりや綿を用いて立体感や輪郭をはっきりと出す技法がとられています。




サンルーム [洋館1階]

明治後期に増築されたといわれる東側のサンルーム。室内から台形に角度をもって張り出したベイウィンドーがデザインに採り入れられている。館内には暖炉、スチームがあるが、サンルームには暖房を補う役割もあった。

Sunroom [Western Residence 1st Floor]

This room is thought to have been added in later years. It features a uniquely-shaped bay window. Though there is a fireplace and heater in the room, the windows would have provided heat as well.




洋館地下に広がる空間

このらせん階段を下り左手に進むと、洋館の東側に位置する撞球室(ビリヤード場)へ移動するための地下道へつながっています。地下は洋館地上部分とほぼ同じ面積があり、スチームストーブ用の蒸気を生み出すボイラー室や調理室、倉庫、使用人用の水洗トイレなどのバックヤード機能も備えていました。




洋館と撞球室をつなぐ地下道

窓の外に見える井戸のような四角形の石組は、地下道のための通気口です。この下には洋館と撞球室(ビリヤード場)をつなぐ地下道が設けられています。通路には白い焼き付けタイルが全面に貼られ、天井には光取りのためのガラスがはめ込まれています。




小岩井農場は岩崎久彌が創設したのですね。

岩崎久彌が愛した小岩井農場

小岩井農場は明治二十四年(1891年)、岩手山南麓に開設されました。共同創設者の小野義真(日本鉄道会社副社長)、岩崎彌之助(三菱社社長)、井上勝(鉄道庁長官)3名の頭文字をとって「小岩井」と命名しました。その後、明治三十二年(1899年)、岩崎久彌が岩崎家の事業として引き継ぎ、近代日本の農牧業の発展に寄与しました。農牧業に造詣の深かった久彌は、小岩井農場を愛し毎年夏には家族と一緒に避暑に訪れました。朝早くから、農場の中を歩き回ったり、馬に乗って遠出をしたり、農場での生活を楽しんでいたそうです。




洋館と結合された書院造りの和館は当時の名棟梁大河喜十郎の手によるものと言われています。



和館に入ります。床の間や襖には、明治を代表する日本画家・橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画などが残っています。現存する大広間を中心に 巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。

和館内部と橋本雅邦

洋館は主にゲストハウスの役割を持ち、和館が岩崎家の日常生活の場となっていました。和館は、往時は14部屋もの居室が並ぶ豪壮な屋敷でした。現存する和館は、書院造りを基調とした広間、次之間、三之間、待合室の4室からなります。主に岩崎家の冠婚葬祭に使用されました。床柱、鴨居、長押、欄間、天井板など部材には、檜や杉の大木が使用されています。また、和館建具の意匠として、岩崎家の家紋である「重ね三階養」を基調にした装飾が随所に配されています。床の間の壁絵、襖絵、板絵には、春から冬までの四季折々の景観が描かれています。その障壁画のほとんどは、明治期日本画壇の巨匠、橋本雅邦に岩崎久彌(三菱三代社長)が制作を依頼したと伝えられています。本邸完成の前年、明治二十八年(1895年)の第4回内国勧業博覧会に際して岩崎彌之助(三菱二代社長)の後押しにより「龍虎図屏風」(重文・静嘉堂文庫美 術館収蔵)を出品するなど雅邦と岩崎家とのつながりが見てとれます。金泥や銀泥を用いて描かれた障壁画には、随所に雅邦らしい筆致を見ることができます。狩野派の伝統的な画法の上に遠近や明暗など、西洋の合理的な空間処理を用いたといわれるように、穏やかながらも新鮮な空間構成が漂っています。床の間の絵に描かれた「富士山に波」の図は、こうした画風をよく表しています。雅邦の功績は大きく、フェノロサや岡倉天心らの支援を受けながら、東京美術学校(現東京芸術大学)に奉職し、伝統絵画の近代化に重要な役割を果たしました。また、職を辞してのちに日本美術院創立に参画するなど後進の指導にも尽力し、日本画壇に大きな功績を残しました。門下には、横山大観、下村観山、菱田春草、川合玉堂など、日本画壇に名を残す多数の画家がいます。

橋本雅邦(はしもとがほう)
天保六年(1835年)、江戸木挽町狩野晴川院の邸内に生まれる。父は川越藩主松平周防守の抱絵師橋本晴園養邦。弘化四年(1847年)、幕府絵師狩野勝川院雅信の門に入る。号は勝園雅邦、別号に十雁斎、克己斎、酔月画生などがある。同門に狩野芳崖がいた。明治十五年(1882年)第1回内国絵画共進会で銀賞。この頃フェノロサの知遇を得る。同二十一年(1888年)、東京美術学校奉職。翌年、岩崎邸そばの本郷区龍岡町に居を移す。同二十三年(1890年)、内国勧業博覧会で一等。同三十一年(1898年)、岡倉天心とともに日本美術院を創立して主幹。明治四十一年(1908年)、逝去。

Hashimoto Gaho and the Japanese-Style Building Interior

The Western-style building served mainly as a guest house, and the Japanese-style building was where the Iwasaki family lived their daily lives. In former times, the Japanese-style building was a grand mansion with 14 sitting rooms. As it exists today, the Japanese-style building consists of four rooms in the classic Shoin style: the main audience hall, adjacent second and third chambers, and a waiting room. These were used primarily for Iwasaki family weddings and other such ceremonial events. The materials used for the alcove pillar, lintels, tie beams, transom panels, ceiling panels, and other such structural components are taken from great logs of Japanese cypress and cedar. The sliding doors and other such fixtures in the Japanese-style building are also liberally decorated with designs based on the motif of the Iwasaki family crest, which consists of triple overlapping diamond shapes. The surface paintings in the tokonoma alcove, on the sliding paper doors, and on the wooden panels depict seasonal scenes from spring to winter. most of the surface paintings are said to have been commissioned by Iwasaki Hisaya (the third-generation president of Mitsubishi) from Hashimoto Gaho, a noted painter in the Japanese style during the Meiji Era (1868-1912). The nature of Gaho's connection with the Iwasaki family can be seen, for example, in the support given by Iwasaki Yanosuke (the second-generation president of Mitsubishi) to a submission by Gaho to the 4th National Industrial Exhibition in 1895, the year before the mansion was completed. The work Gaho submitted, a set of folding screens depicting a dragon and tiger, has been designated an important cultural property and is housed in the Seikado Bunko Art Museum collection. Painterly touches typical of Gaho can be seen throughout the surface paintings made using gold and silver pigments. The use of perspective and chiaroscuro in paintings of the traditional Kano school style has been said to demonstrate the application of a Western, rational handling of space, and the effect of the rooms is at the same time serenely traditional and freshly modern. The scene of "Mount Fuji and Waves" painted in the tokonoma alcove is a fine example of this painting style. Gaho was an artist of great accomplishments. While receiving support from such cultural figures as Ernest Fenollosa and Okakura Tenshin, he also held a position at the Tokyo Fine Arts School (now Tokyo University of the Arts), and performed a major role in the modernization of traditional Japanese painting. After resigning his position, he played a part in founding the Nihon Bijyutsuin (Japan Art Institute), devoted himself to guiding the next generation of artists, and left a major record of accomplishments in the Japanese art world. The disciples of Gaho include numerous artists renowned in Japan, including Yokoyama Talkan, Kanzan Shimomura, Hishida Shunso, and Kawai Gyokudo, among others. Hashimoto Gaho Gaho was born in 1835 in the mansion of Kano Seisen'in in the Kobiki-cho area of old Edo. His father was Hashimoto Seien Osakuni, an official painter for Matsudaira Suo-no-Kami, the Daimyo of Kawagoe. In 1847, he became a disciple of Kano Shosen'in Masanobu, who was an official painter to the court of the Shogun. His nom de plume was Shoen Gaho, and he also used the names Jugansai, Kokkisal, and Sulgetsu Gasel, among others. Kano Hogal was also a member of the same school. In 1882, Gaho won a Silver Prize at the 1st Naikoku Kaiga Kyoshinkal (Domestic Painting Competition). It was around this time that he began receiving significant support from Fenollosa. In 1888, he took a position at the Tokyo Fine Arts School. The next year, he moved to Tatsuoka-cho in Hongo Ward, near the Iwasaki mansion. In 1890, he won First Prize at the National Industrial Exhibition. In 1898, he founded the Nihon Bijyutsuin (Japan Art Institute) with Okakura Tenshin and became its head. Gaho died in 1908.




庭園は生憎と工事中でした。大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。



別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の木造建築で、洋館から地下道でつながっていま す。

撞球(どうきゅう)室(ビリヤード場)

設計は洋館と同じく英国人建築家のジョサイア・コンドルで完成は明治三十年(1897年)以降とされる。日本には珍しいスイスの山小屋風の木造建築で、校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、木造ゴシックの流れをくむ建物である。

Billiard Room

This room, also designed by Josiah Condor along with the Western residence, was built sometime after 1897. It was designed to resemble a Swiss-style wooden mountain hut, which is very rare in Japan. The wooden Gothic structure, with its Large roof, deep eaves, and engraved pillars, is rare in Japan.




プレイはできませんが、建物の内部を見ることができます。

撞球室(ビリヤード場)

建築面積138u、地上1階と地下室からなり、明治三十年(1897年)以降に完成したと言われています。洋館と同じくジョサイア・コンドル設計の木造建築です。校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、アメリカの木造ゴシックの流れを汲むデザインで す。コンドルが「スイス・コッテージスタイル」と呼んだように、玉突場の天井のトラス構造などにスイスの山小屋のような特徴が見られます。壁には、3種類の金唐革紙が貼られており、平成二十四年度の修復工事により往時の姿に蘇りました。当時ビリヤードは紳士の嗜みごととされ、同じコンドル設計の鹿鳴館や旧古河庭園洋館にも撞球室が設けられています。しかし、別棟で撞球室が造られることは極めて稀なことで、洋館とは地下通路でつながっています。ベランダの前のガラスがはめ込まれた部分は、地下通路の明かり取りになっています。昭和十年代には、図書室として使うようになったとのことで、ビリヤード台は残念ながら残されていません。

Billiard Room

The exact date of construction of the billiard room is unknown. However, it was built sometime after the completion of the Westernstyle building in 1896. It was also designed by Josiah Conder. The wooden building is representative of the Gothic style, with its flat log walls and carved columns, and resembles a Swiss mountain lodge. Conder himself called it the "Swiss Cottage Style". It was designated as a nationally-important cultural property along with the Western-style building in 1961. Brown-embossed "Kinkara-Kawashi" style wallpaper was used in Billiard room. It is connected by an underground walkway to the Western residence.




ということで、台東区で九番目の「Iコース」を歩き終えました。ゴール地点は湯島天満宮です。次は台東区で十番目となる「Jコース(馬道地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。Jコースは途中に分岐するルートがあり、ふたつに分かれています。最初に、「(吉原仲ノ町ルート)」を巡ります。Hコースと一部重なる区間がありますね。






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