- Jコース(馬道地区健康推進委員おすすめ)吉原仲之町通りルート
馬道地区健康推進委員より一言
馬道地区の活動
いつも楽しくウォーキングしています。楽しく歩いてください。
歩行距離:5.1km、歩行時間:77分、消費カロリー:230kcal、歩数:7、286歩
コース 踏破記
今日は台東区の「Jコース(馬道地区健康推進委員おすすめ)吉原仲之町通りルート」を歩きます。酉の市発祥の鳳神社をスタート地点として、矢先稲荷神社・浅草寺を除く浅草名所七福神のうち七社を巡ります。
スタート地点:鳳神社
↓
- @吉原辨財天
↓
- A吉原神社
↓
- C見返り柳
↓
D石浜神社
↓
- E橋場不動尊
↓
- F今戸神社
↓
- G待乳山聖天
↓
ゴール地点:浅草神社
スタート地点の鳳神社から歩き始めます。鷲神社は「おとりさま」の通称でも呼ばれ、11月の例祭は「酉の市」として江戸時代中期から広く知られています。足立区花畑の大鷲神社の「おおとり」に対し、鷲神社は「しんとり」と称されました。明治初年の神仏分離に伴い、隣接する長国寺から独立し鷲神社となりました。
鷲神社
鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が十一月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音・新吉原・猿若町芝居小屋を控え、賑いをみせた。一の酉、二の酉、年によって三の西とあり、世俗に三の酉があると火事が多いと言われる。酉の市は、当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊手は幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ツ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。
OTORI SHRINE
There are two gods to which the Otori Shrine is dedicated Amenohiwa-shi-no-mikoto and Yamato-takeru-no-mikoto. According to the legend of the shrine, Yamato-takeru-no-mikoto felicitated his victory on his wayback from his expedition by hanging a rake on the small shrine for Amenohiwashi-no-mikoto. It occurred on the Day of the Cock in November, so that the day was subsequently chosen as the date of the festival. The
Cock Fair was developed in the middle of the Edo era as the poetical feature foreboding the arrival of winter. There is the First Cock Fair, the Second Cock Fair and, depending on the year, the Third Cock Fair. The year having the Third Cock Fair is said to have many fires. Originally, the Cock Fair was a fair to sell rakes for practical use as a kind of agricultural product or implement. Subsequently, a rake was said to be useful in collecting fortune and assets. Therefore, it has been regarded as the charm for bringing about commercial prosperity or luck.
今日は10月の下旬ですが、境内では早くも縁起物の熊手を売る露天の木組みが始まっています。
見所ポイント@の「吉原辨財天」は、弁財天本宮(吉原神社奥宮)とも呼ばれ、昭和十年に吉原神社に合祀されたため、正確には独立した神社ではありませんが、現在も鎮魂碑等多くの遺構を残しています。
鳥居をくぐり奥へ進むと弁財天の御影が描かれた弁財天の社殿があります。
社殿の前に花園池(弁天池)の名残をとどめる小さな池があり、鯉や金魚も放たれています。
新吉原花園池(弁天池)跡
江戸時代初期までこの附近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(1657年)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和三十三年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正十二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正十五年に造立されたものである。昭和三十四年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
SITE OF THE SHIN-YOSHIWARA HANAZONO POND (BENTEN POND)
Until the early 17th Century, this area was marshland with many lakes. In 1657, the wetland was reclaimed and the pleasure district, Shin-Yoshiwara, was established. This pond was left alone and from a certain period, Benten Shrine was worshipped on its shores. Presently, this Benten Shrine is considered one of the shrines on the Seven Lucky Gods of Good Fortun in Asakusa and many come to worship it on New Year's. The pond was called the Hanazono Pond or the Benten Pond. In the Great Kanto Earthquake of 1923 many people sought refuge by its shores and 490 of them perished. The giant statue of the Bodhisattva Avalokiteshvara near the Benten Shrine was built in 1926 in memory of their souls. Most of the pond was filled up in 1959 when the Yoshiwara
Building was constructed and now only traces of it remain.
観音様は、関東大震災で溺死した人々の供養のために大正十五年に造立されました。
吉原遊郭は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼を担いました。昭和三十三年に成立した売春防止法によって遊郭は廃止され、昭和三十五年にその名残りを記す碑が地域有志によって建てられました。碑文は共立女子大学教授で俳人・古川柳研究家の山路閑古によるものです。
花吉原名残碑
吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊廊で、元和三年(1617年)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。明暦三年(1657年)の大火を契機に、幕府による吉原遊廊の郊外移転が実行され同年八月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊廊を「元吉原」という。新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「売春防止法」の成立によって廃止された。その名残を記す当碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
Monument in Memory of Hanano Yoshiwara
Yoshiwara was the only red-light district approved by the Edo government, and was set up in 1617 at what is now Ningyo-cho in Nihonbashi situated in Chuo-ku (Fukiya-cho Higashi-donari). The name of Yoshiwara is said to originate from the fact that the town was created by reclaiming a marsh area where ditch reed (Yoshi) grew in abundance. The government executed the order to move the Yoshiwara red-light district to a suburban area due to the disastrous fire in 1657, and Yoshiwara was moved to the location of present-day Senzoku in Taito-ku (Senzoku-mura in Asakusa) in August of the same year. The Yoshiwara in the new location was called "Shin-yoshiwara" as opposed to "Moto-yoshiwara", the original red-light district. Shin-yoshiwara was extremely prosperous as one of the greatest entertainment district in Edo. became a part of the splendid Edo culture, and was the scene of many historical events, before it was abolished in 1958 with the establishment of the Anti-Prostitution Act. This monument in memory of Shin-yoshiwara was set up by local volunteers in 1960. The epitaph is written by Yamaji Kanko, a haiku poet, a researcher of the old senryu (old satirical seventeen-syllable poems), and a professor at Kyoritsu Women's Education Institution. Until the residence indication was changed in 1966, various town names that were related to Yoshiwara, such as Shin-yoshiwara Edo-cho, Kyo-machi, Sumi-cho and Ageya-cho, remained.
見所ポイントAの「吉原神社」は、明治五年(1872年)に新吉原遊郭の四隅に祀られていた開運稲荷大神・九郎助稲荷大神・榎本稲荷大神・明石稲荷大神と、往昔よりの玄徳稲荷社を合祀して創建されました。江戸時代から吉原廊はたびたび大火に遭いましたが、明治八年(1875年)の全焼後、吉原大門外の高札場の所に社殿が造営されました。その後も数回の火災に遭い、大正十二年(1923年)の関東大震災で焼失後、昭和九年(1935年)に新社殿を造営して現在地へ遷座しました。昭和二十年(1945年)の空襲で再び焼失し、昭和四十三年(1968年)に再建されたのが現社殿です。昭和十年(1935年)には吉原弁財天を合祀しています。
YOSHIWARA SHRINE
This shrine is dedicated to Inari, the god of business prosperity and Benzaiten, the goddess of protecting women.
拝殿の向かって右に末社のような小さな社があります。説明書きには「お穴様」と書かれていて、なんでも神様は社の中ではなく地中にいらっしゃるのだとか。お穴様の横には、天燈鬼・龍燈鬼の石像が建っています。天燈鬼・龍燈鬼とは、四天王に踏みつけられる邪鬼を独立させ、仏前を照らす役目を与えられた鬼のことです。
吉原神社から「一葉記念館ルート」が分岐しますが、「吉原仲之町通りルート」は直進して吉原大門交差点に向かいます。吉原大門交差点の脇に一本の柳の木が植わっています。大井町の浜川橋や南千住の泪橋は罪を負った人達が親類縁者と別れを惜しんだ別離の場所ですが、吉原大門の見所ポイントCの「見返り柳」は人生の悲哀は全く感じられませんね。柳の袂に石碑と案内板が立っています。
見返り柳
旧吉原遊廓の名所のひとつで、京都の島原遊廊の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、
きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
見返れば意見か柳顔をうち
など、多くの川柳の題材となっている。かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。
MIKAERI YANAGI(Looking-back willow tree)
This is one of the memorial spots in the Yoshiwara licensed red-light district, a willow tree which is said to have been planted following another willow tree at the gate of Shimabara red-light district in Kyoto. This tree was called "Looking-back willow tree" because visitors returning home from the district looked back at
this spot feeling painful reluctance to leave. This tree has been subjects of many Senryu poems such as
Kinuginu no usirogami hiku yanagi kana
Mikaereba ikenka yanagi kao wo uchi
New trees have taken its place several times because of the Great Kanto Earthquake and air-raids during World War II. The tree now standing used to be a little northward of its present site. It was transplanted due to road construction and re-zoning.
吉原大門交差点を渡り、日の出会商店街とアサヒ商店街を進みます。どちらも道路の両側に昭和レトロなお店が建ち並んでいます。
「玉姫稲荷神社」は、天平宝字四年(760年)に創建されました。武蔵国豊島郡王子村(現・北区)の王子稲荷神社とも関係があるといわれています。また新田義貞が北条高時を追討すべく鎌倉に進撃(鎌倉の戦い)する際に、玉姫稲荷神社で戦勝祈願したという故事もあり、歴史ある神社であるといえます。
TAMAHIME INARI SHRINE
The festivals called "Kon-Kon Kutsu Ichi" and "Kutsu no Megumi Matsuri Ichi," the festival of shoes, are held every year at this place.
玉姫稲荷神社の社殿は昭和二十年(1945年)の東京大空襲で全焼し、戦後まもなくは台東区立田中小学校(現在は閉校)の奉安殿を譲り受けて祭祀を行い、昭和二十八年(1953年)に各社殿が再建されました。玉姫稲荷神社の氏子には地場産業である製靴業者も名を連ねており、毎年11月に「靴のめぐみ祭り市」と題して、靴の大安売り市が開かれています。
明治通りに面して、平賀源内の墓碑が建っています。平賀源内は江戸時代中頃の人物で、本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家など、多彩な人物として知られています。発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介や火浣布(石綿を布にしたもの)の開発があります。また、土用の丑の日にウナギを食べる風習は源内が発祥との説があります。商売がうまくいかない鰻屋(源内の知り合いの鰻屋という説もあります)が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の元に相談に赴きました。源内は、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めました。すると、その鰻屋は大変繁盛しました。その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したというものです。
ちょっと寄り道した路地に面した小さな広場に巨大な地蔵尊が建っています。
HAUNTED JIZO
So-called, because in olden days it is said that the steel hat on his head would move, and the Jizo (a guardian deity of children) himself would speak to passers-by.
手前のお地蔵様と比べても、その巨大さが実感できます。
お化け地蔵
「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ三メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治四十年刊「東京名所図会」には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保六年(1721年)の建立。関東大震災で二つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政二年(1790年)に建てられた。総泉寺は、昭和四年板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。
OBAKE (BOGY) JIZO
Once upon a time, this area was within the premises of Sosenji Temple. The bogy Jizo is located at a corner of the Sosenji Temple and initially it was called "baby-raising Jizo." But the Jizo, an image in stone, had a large hat and a large height of more than 3 m. So, some people said that the hat moved in direction, and then they used to call it obake (bogy) Jizo. According to the foundation stone of the Jizo, it is recorded that the Jizo was built in 1721 and broken into two pieces after the Great Kanto Earthquake but it was repaired with the head portion replaced.
橋場公園にはいろいろな遊具が設置されています。最近はシニア向けのフィットネス器具もありますが、利用している人は少ないようです。
ぶらさがり棒と腰ひねりベンチは柔軟性を保つのに役立ちます。
ぶらさがり
ぶらさがり用のバーをつかんで、ゆっくり体重をかけてぶらさがり、背中・肩周りのストレッチをします。
ツイストベンチ
@ベンチに深く腰掛け、背筋を伸ばして上部の手すりをつかみます。
A上半身を左右にひねって、背中・腰周りのストレッチをします。
明治通りの先に巨大なガスタンクが三基並んでいます。かってはこの地でガスを製造していたそうですが、今はどこから入ってくるのでしょうか?私は都市ガスは海外から輸入された天然ガスをそのまま使っているものとばかり思っていました。
隅田川に架かる明治通りの橋が白鬚橋(白髭橋ではありません)です。
白鬚橋の袂に「対鴎荘跡」の案内板が立っています。
対鴎荘跡
隅田川畔の橋場一帯は、風光明眉な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鴎荘もそのひとつで、明治時代の政治家三条実美(一八三七年〜一八九一年)の別邸であった。「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(一八七三年)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れている。隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鴎荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ三メートル余。側面に「昭和六年歳次辛末五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。対鴎荘は、昭和三年(一九二八年)、白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。
(注記)対鴎荘の「鴎」の字は当て字です。本当の文字はUnicode形式になるので便宜的に「鴎」の文字を使いました。
REMAINS OF TAIOSO
Taioso was the villa of sanjo Sanetomi (1837-1891), statesman in the Meiji Era. He fell ill in Octoder of 1873 and rested quietly in this villa. the Emperor Meiji
was very anxious about his health and visited this villa himself to comfort Sanjo. This monument was created by a citizen who owned the villa later to commemorate
the Emperor's visit . The villa was relocated to the Tama-Seiseki-Kinenkan at Tama City to allow the construction of the Shirahige Bridge in 1928.
明治通りを渡って、川の手通りを北に向かいます。隅田川の土手にふたつの案内板が立っています。
対鴎荘跡
対鴎荘は白鬚橋西詰の地に明治六年(1873年)明治の元勲三条実美の別邸として建築された。
いそがしき つとめのひまを
ぬすみ来て 橋場の里の
月をみるかな
三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである。
Former Site of the Taioso Residence
The Taioso was built around here in 1873 as a suburban residence of Sanjo Sanetomi, a leading politician in the Meiji period. He sought elegance similar to that of Kyoto and wrote poems expressing his admiration for the landscape in Hashiba. Hashiba has a long history and was a quiet area until the early years of the Meiji period. From this riverbank, people were able to enjoy the idyllic scenery of the Mukojima area where a row of cherry trees stood on the bank in front of a dense forest.
これより東へ約二十メートル
橋場の渡し
対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約百六十メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。「江戸名所図会」によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、「伊勢物語」の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。大正三年(1914年)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。
Hashiba Ferry
This is a ferry crossing from Hashiba to Terajima in Sumida City on the opposite bank some 160 m away. It was also called "Shirahige Ferry". According to "Edo Meisho
Zue", it was called "Sumida River Ferry" in the olden days and story has it that Ariwara no Narihira, whose romancing is said to have inspired the "Ise Monogatari" (The Tales of Ise), crossed the Sumida River via this ferry. However, the boat launch had moved several times around here and it is difficult to determine the exact position. It was used by many people until the bridge was built in 1914.
明治通りを渡った角に、石浜城址公園があります。石浜城は、中世の武蔵国に存在した日本の城ですが、正確な所在地については意見が分かれています。現在の台東区浅草七丁目付近、あるいは荒川区南千住三丁目付近が候補地となっています。石浜(石濱)は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、この付近に武蔵国と下総国(千葉県)の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされています。築城年代は不明ですが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、南北朝時代の文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けています(武蔵野合戦)。室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて扇谷上杉氏の庇護下に入り、石浜城を拠点としました(武蔵千葉氏)。この際、弟の自胤も赤塚城に逃れています。ですが、下総回復は達成できず、扇谷上杉氏の没落後は後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎え、豊臣秀吉による天正十八年(1590年)の小田原征伐によって没落し、石浜城も廃城となりました。石浜城は、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」にも登場しています。
あらかわの史跡・文化財
石浜神社と隅田の渡し
ここより北方に石浜神社がある。石浜神社は聖武天皇の神亀元年(724年)に創祀され、中世においては千葉氏などの崇敬を集めて大いに栄えたと伝えられている。また朝日神明宮とも称し、伊勢詣でのかわりに参詣する人々が絶えなかったという。隅田の渡しは、平安時代の編纂物の「類聚三代格」や、歌物語である「伊勢物語」にも記される渡しで、この辺りは古くから交通の要衝の地として賑いをみせていた。石浜神社境内には、隅田の渡しを背景にした歴史と光景を偲ばせる「伊勢物語の歌碑」や「亀田鵬斎の詩碑」(区指定文化財)が残る。
Ishihama Shrine and Sumida Ferry
From here you can see Ishihama Shrine. It was founded in 724 and is said to have prospered greatly in medieval times being an object of worship by the Chiba Clan and others. Ishihama Shrine was also called Asahi Shinmei-gu, and there were a number of people who visited this shrine instead of making a pilgrimage to Ise Shrine. The Sumida ferry was recorded in the collection of laws and regulations compiled during the Heian period and in the narrative "Ise Monogatari (The Tales of Ise)". This area has long been prosperous as a hub for transportation. On the precinct of Ishihama Shrine, there are the Poetry Monument of Ise Monogatari, and the Poetry Monument of Kameda Hosai (designated cultural property of Arakawa City) that remind us of the history and site of the Sumida ferry.
見所ポイントDの「石浜神社」は神亀元年(724年)に創建され、隅田川の西岸(石浜と呼ばれた長く伸びる微高地)に鎮座しています。源頼朝が奥州征討の折に戦勝を祈願し、また元寇の際には朝廷から鎌倉幕府七代将軍・惟康親王を勅使として戦勝を祈願させました。いずれの戦役にも勝利したことから、中世以降は関東武士を始め多くの人々の崇敬を集めることになりました。この地域には中世の鎌倉・南北朝時代から安土桃山時代頃にかけて石浜城が存在し、石浜神社付近が城跡候補地のひとつとされていて、東京都の遺跡地図上では石浜神社北側が埋蔵文化財包蔵地となっています。
境内にふたつの案内板が立っています。
石浜城址(石浜神社)
石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573年〜1591年)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡の後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。石浜神社は、聖武天皇の時代・神亀元年(724年)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・宇都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の祓(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(1838年)刊行の「東都歳事記」の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。
Site of Ishihama Castle (Ishihama Shrine)
Ishihama Castle was home to the Musashi Chiba Clan in the middle of the Muromachi period and lasted for more than 100 years in the war-torn era. The castle was thought to be abandoned after the lord Chiba Tanemura's residence from 1573 through 1591.
Although there are various arguments about the location of Ishihama Castle, the area around Ishihama Shrine is considered to be one of the more likely places. Ishihama Shrine is an ancient shrine that is said to have been founded in 724 during the rein of Emperor Shomu and revered by Minamoto no Yoritomo, Chiba Clan, Utsunomiya Clan, and others. The "Nagoshi no Harae (annual Shinto ritual of purification)" held on June 30th in the Edo period was famous for its splendor and was introduced as a summer feature in the illustration of the 1838 edition of "Toto Saijiki (Eastern Yearbook)".
真先稲荷と田楽茶屋
真先(崎)稲荷は、天文年間(1532年〜1554年)、石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、対岸の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦七年(1757年)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んで、おおいに繁盛した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。
Masaki Inari Shrine and Dengaku Teahouses
Masaki Inari is said to have been worshipped by the Chiba Clan, the lords of Ishihama Castle, from 1532 to 1554. Originally, it existed on the Sumida River bank and the area in front of it was known as a scenic spot. Also, it is said that the emerging fox from the hole of the rear shrine was famous along with the fox in Mimeguri Inari
Shrine on the opposite bank. The number of people visiting Masaki Inari Shrine increased from the middle of the Edo period and, by the middle of the 18th century, there were many teahouses such as Kinoeya and Kawaguchiya that prospered selling dengaku (tofu baked and coated with miso) made from Yoshiwara tofu. Visitors to Yoshiwara often came to this place, and the Senryu Verses make references to Masaki
Inari, Dengaku and Yoshiwara.
都鳥は在原業平の和歌ですが、その案内板が藤棚の脇に立っています。
都鳥
名にし負はば いざ言問はむ 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと
この有名な和歌は、平安時代初期の歌人である在原業平が京の都から、石浜の辺りを訪れた際に詠んだもので「伊勢物語 東下り」と「古今和歌集」に収録されて(い)ます。業平が隅田(橋場)の渡しにて隅田川を渡る際に京都では見慣れぬ鳥を見かけ、渡守に問いかけたところ「都鳥です」と答えた。そこで、「都という名を負っているならば、さあ尋ねよう都鳥よ。私の恋い慕う人は無事に過ごしているであろうか」と望郷の念を込めて詠みました。当社境内には、文化二年(1805年)に建立された都鳥の歌碑があり、碑には波をあしらった渡し船の図を配し、流
れるような見事な仮名書きで「伊勢物語」本文の一節も刻まれています。古代から「都鳥」と呼ばれ親しまれてきたこの鳥は「ゆりかもめ」のことで東京都の鳥に指定されています。現在も毎年冬になると石濱神社付近の隅田川川畔にも数多く飛来して来ます。
石浜神社は、少し変則的な鳥居(笠木の断面がカマボコ型の神明鳥居)がある事で知られています。第一鳥居は1780年に建立され、荒川区の登録有形文化財になっています。笠木(一番上の横棒)の断面がカマボコ型の靖国鳥居になっていて、おそらく全国でも石浜神社だけで、石浜鳥居と俗称されています。749年建立の第二鳥居も荒川区登録有形文化財になっていて、第一鳥居と同じく、笠木の断面がカマボコ型の石浜鳥居です。
荒川区指定 有形文化財・建造物
石浜神社鳥居(寛延二年八月哉生明銘)
寛延二年(1749年)八月哉生明(陰暦三日)の建立。主石材は花崗岩。建立者は石浜在住と推定される水埜則祐。銘の撰者は儒者の鳴鳳卿(成島錦江)。石工は小出氏。橋場町名主を含む商人等五十七人が寄進した。笠木の小口がカマボコ型で、柱の傾斜が大きいという特徴を持ち、同形式の安永八年(1779年)銘の一の鳥居等とともに神明鳥居系の石浜鳥居と呼ばれる。江戸の歴史、文化、信仰を知る上で、また鳥居研究において大変貴重である。
力石がずらりと並んでいます。38貫は142.5kgに相当します。
ということで、石浜神社を後にします。
見所ポイントEの「橋場不動尊」は、天平宝字四年(760年)に寂昇によって開山されました。当初は法相宗の寺院でしたが、長寛元年(1163年)に教円坊(もしくは長円)によって、天台宗に転宗しました。江戸時代には、玉姫稲荷神社の別当寺になっていました。橋場不動尊の本尊は、良弁の作といわれている不動明王です。ただしこの像は秘仏であり、代わりに前立本尊としての不動明王が安置されています。この前立本尊は鎌倉時代に作られたものと推測されています。
橋場通りを南下して見所ポイントFの「今戸神社」に向かいます。今戸神社は、康平六年(1063年)、源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれています。また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれています。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B−29が昭和二十年(1945年)3月10日に焼夷弾を投下(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われましたが、その都度再建され、現在の社殿は昭和四十六年(1971年)に再建されました。昭和十二年(1937年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡という名称から現在の今戸神社と呼ばれるようになりました。今戸神社は浅草七福神のひとつである福禄寿も祀っています。鳥居の前には、一対の縁結びの「招き猫」の看板が掛けられています。伝記によりますと、浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放しましたが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草寺境内三社権現(現浅草神社【三社様】)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったということです。戦前合祀された白山神社の祭神である伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神を祀っていることから、縁結びに御利益があるとされています。看板の下には、「沖田総司の終焉の地」と書かれています。今戸神社は、新選組の有力メンバーであった沖田総司終焉の地として、境内に石碑が建っています。但し、招き猫の伝説も沖田総司終焉の地の根拠も定かではありません。
今戸神社
應神天皇
御祭神 伊弉諾尊・伊弉冉尊
福禄寿
当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(1063年)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。従って應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比盗_社の御祭神にして、嘉吉元年(1441年)千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神崇敬されております。昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。
IMADO SHRINE
Enshrining Fukurokuju, the God of Wealth and Longevity. One of the shrines of the Shichi-fukujin, the Seven Gods of Good Fortune-a place of interest in Asakusa, and a station on the "pilgrimage to eight Shitamachi shrines."
都立浅草高等学校は、平成十八年(2006年)に、台東商業(全・定)・上野・両国・墨田川・小松川・小岩の定時制課程を統合し、都立では2校目の単位制高校として台東商業高校校舎を継承して開校されました。午前部・午後部・夜間部の3部制に分かれて授業が行なわれています。学校教育法では、「必須科目を含む74単位以上を取得すること」という卒業資格取得条件が決められています。単位制高校とは、学校教育法で決められている単位を修得すれば卒業が認められる高等学校のことです。
「たいとう健康都市宣言あこがれ像」は、都立浅草高等学校に面した山谷堀公園内に建っています。作者は朝倉文夫氏です。
たいとう健康都市宣言
健康は、私たちがいきいきとした豊かな生活を営む源であり、万人の願いである。健康を保持増進するためには、心身の健康づくりに対する一人ひとりの自覚と健康的な生活習慣の実践、個人と家族と地域が共に支えあう社会、安全で快適な生活環境の整備が不可欠である。台東区は、すべての区民が健康で文化的な生涯を送ることができるよう、区民と地域社会と区が一体となって健康施策を積極的に推進することを誓い、ここに健康都市とすることを宣言する。
山谷堀公園を横切り、待乳山聖天に向かいます。山谷堀公園は、かっての山谷堀を埋め立てて緑道化した公園です。「山谷堀」は、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐために掘られた人工の水路でした。山谷堀の水源は石神井用水(音無川)で、水流は根岸から箕輪(三ノ輪)を通って大川(隅田川)への出入口である今戸まで続いていました。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されています。山谷堀に架かっていた橋は、親柱や欄干がそのまま残されています。
山谷堀公園
ここは、かつては山谷堀と呼ばれる水路であったが、経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、 東京都により昭和五十一年(1976年)頃から暗渠化された。区がその上部を公園として整備し、昭和五十二年以降に山谷堀公園として開園した、幅約9メートル、長さ約740メートルの公園である。平成二十九年(1017年)から令和二年(2020年)、老朽化により全面改修工事を実施した。隅田公園から桜の並木が続き、春は桜越しに東京スカイツリーを眺めることのできるビューポイントとなっている。埋め立てられる前の山谷堀には、下流から、今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本堤橋の9つの橋が架けられていたが、埋め立てに伴い、全て取り除かれている。公園の両側にある護岸や橋の親柱が、水路であった面影を残している。
Sanyabori Park
A canal called Sanyabori used to flow here, but urbanization caused it to become polluted and smelly and the metropolitan government covered it over in 1976. From the following year, Taito City created Sanyabori Park above the waterway, a ribbon of parkland 9 meters wide and about 740 meters long. The park was undergoing thorough a renewal from 2017 to 2020. Lined by cherry trees stretching to Sumida
Park, it is renowned for springtime views of cherry blossoms with Tokyo Sky Tree in the background. Nine bridges spanned Sanyabori before it was covered. Starting at the downstream end, they were the Imado Bridge, Shoten Bridge, Yoshino Bridge, Shohoji Bridge, Sanyabori Bridge, Kamiarai Bridge, Jikata-shinbashi Bridge, Jikata Bridge, and Nihontsutsumi Bridge. The bridge revetments and pillars remain providing lasting images of the former waterway.
待乳山聖天公園の一画に、「池波正太郎生誕の地」の碑が建っています。池波正太郎は戦後の日本を代表する時代小説・歴史小説作家で、戦国時代・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、映画評論家としても著名でした。また、美食家としても知られています。
池波正太郎生誕の地
作家・池波正太郎(1923年〜1990年)は、大正十二年、旧東京市浅草区聖天町61番地に生まれました。この年の9月に関東大震災が起こり、生家は焼失してしまいましたが、その後も少年期・青年期を台東区で暮らしました。昭和三十五年(1960年)、「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」・「剣客商売」・「仕掛人・藤枝梅安」などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生み出し、このあたりもたびたび舞台として描いています。「大川と待乳山聖天宮」というエッセイでは、「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しています。生家は、待乳山聖天公園の南側(現台東区浅草7丁目3番付近)にありました。
山谷堀は今戸橋の先で隅田川に合流していました。今戸橋の西側には小高い丘があります。丘全体が本龍院の境内になっています。本龍院は聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつです。山号が「待乳山」、本尊が歓喜天(聖天)・十一面観音であることから、見所ポイントGの「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」とも称され、浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られています。
待乳山聖天
待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(601年)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨み、かつての質屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
哀れとは夕越えて行く人も見よ
待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。
MATSUCHIYAMA SHODEN
Matsuchiyama Shoden is one of the subordinate temples of Kinryusan Sensoji Temple. Its proper name is Matsuchiyama Honryuin. Located alongside the Sumida River and near the Takeya Ferry. It was called a noted place featuring a good view in the Edo Era. Here there are many Nishikie prints of the Edo Era and poems by famous men of letters and painters like Toda Mosui dealing with the scenary of this place. Its main building was destroyed in the Great Earthquake of 1923 and the Seconed World War, but it was rebuilt in 1961. Radishes seen in its compounds are known as the symbol of health and family harmony while purses represent commercial success.
隅田公園の中を通ってゴール地点の浅草神社に向かいます。公園の中に、「花」の歌碑が建っています。誰でも一度は聴いた歌詞とメロディーですね。
花の碑
春のうららの隅田川
のぼりくだりの舟人が・・・
武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和三十一年十一月三日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。武島羽衣は、明治五年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治三十三年、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。羽衣二十八歳、廉太郎二十一歳の時であった。滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の三年後、明治三十六年六月二十九日、二十四歳の生涯を閉じた。武島羽衣はその後、明治四十三年から昭和三十六年退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和四十二年二月三日、九十四歳で没した。手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。その情景は、歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。
MONUMENT OF "HANA"
The monument of "Hana" was built in honor of Takeshima Hagoromo, a songwriter and professor, by his former students in 1956. He wrote a famous Japanese song titled "Hana", which lyrically expressed the beauty of the Sumida River; it starts "Sumida flowing through the warmness of spring time while many people on boats moving upstream and downstream are enjoying the spring and nature." Composer of this song was Taki Rentaro, an assistant professor of Tokyo Music School (presently Tokyo National University of Fine Arts and Music), and Hagoromo also became the professor in the same school (Tokyo Music School) in 1897. Both of them worked together and completed the song "Hana". Hagoromo was born in the family of a cotton cloth wholesaler in ihonbashi
in 1872. He became a scholar on Japanese literature and was also known as a writer with an expressive lyrical style. The monument has his own writing copied and seulptured on the stone.
隅田公園は桜の名所としてだけでなく、梅の名所としても有名です。
梅めぐり散歩道
■梅と日本文化
梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました。平安時代になり、梅は上流社会の流行花木となり、和歌などに多く歌われました。梅にまつわる話では、菅原道真が大宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」が有名です。安土桃山時代には、中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また江戸時代には、梅の品種が改良され、紅、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に作られるようになりました。江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し、「梅めぐり散歩道」を整備しました。
隅田公園を出て、東参道・二天門通りに入ります。通りの北側と南側に分断されて花川戸公園があります。公園の入口に、花川戸公園についての解説を記した「歴史と文化の散歩道」の案内碑が建っています。
花川戸公園
この花川戸公園は、昭和二十五年に台東区立の公園として開設され長く親しまれてきた。昭和六十二年度、花川戸公園は園内の歴史的事物を大切に護りながら、未来の人々にも愛されつづけられる公園になるよう整備された。公園東側の池は、この地に伝わる一の塚伝説の舞台である姥ケ池を、公園の修景に配慮して表わしたものである。また、広場に設置された模様や絵タイルは、台東区の代表的な自然地と、それに深く関わりながら人々によって育み見守られて来た文化的な事物を表わしている。
花川戸公園にはふたつの見所があります。ひとつは姥ヶ池跡です。
東京都指定旧跡
姥ヶ池
姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。昔、浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死ぬ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。
Historic Places
Ubagaike (Ubagaike Pond)
Ubagaike Pond used to be a large pond leading to the Sumida River in the past, but was reclaimed in 1891 and converted to a park by former Asakusa Ward. Its name is derived from the legend concerned with a stone pillow owned by Myoonji Temple (a sub-temple of Sensoji Temple). According to the legend, an old woman and her daughter lived in a house at Asajigahara. The old woman was killing many travelers with stone pillow, who were taken by her daughter asking for a night's lodging. When a traveler stayed there, the daughter acted as substitute for him in order to dissuade the old woman and killed by her with stone pillow. The old woman deeply lamented and threw herself into the pond. Afterwards, village people called it "Ubagaike" (mean old woman's pond).
もうひとつは、市川団十郎の十八番の「助六」の歌碑です。助六の歌碑は、九世市川団十郎が自作の歌を揮毫して、明治十二年(1879年)に浅草の仰願寺に建立しましたが、関東大震災で崩壊し、長く土中に埋もれていたものが発見され、昭和三十三年(1958年)にこの地に再建されました。
助六歌碑
碑面には、
助六にゆかりの雲の紫を
弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。歌碑は、明治十二年(1879年)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川1−4−6)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(1713年)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(1832年)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間870)に墓がある。
BALLAD MONUMENT OF "SUKEROKU"
The role of Sukeroku in the Kabuki play of the same name, which is one of the 18 classical pleces of Kabuki, has been played by the actors succeeding the name of Danjuro since Ichikawa Danjuroll played the role for the first time in 1713. The ballad monument was erected at the Koganji Temple in 1879 by DanjuroIX and other people in commemoration of a man called Sunaga Hikobei in Nihonbashi, who offered much back-up to Danjuro IX. It collapsed in the Great Earthquake of 1923 and was left buried for a long time. It was re-discovered, however, and was moved to this location thanks to the efforts of the sons of the caretakers at the time of the original erection of the monument.
「履物問屋街発祥碑」の石碑も建っています。履物問屋街発祥碑は、花川戸公園内に平成二年(1990年)に建立されました。江戸時代後期の天保改革で、天保十三年(1842年)に日本橋から猿若町に幕府公認の芝居小屋「中村座」・「市村座」・「河原崎座」(後に「森田座」)が移転してきました。「猿若三座」と呼ばれ、役者や芝居関係者が多く住んだこともあり、和装履物問屋が軒を並べました。これが「花川戸」の問屋街発祥の誕生の要因となりました。現在でも、「江戸通り」沿いなどに、靴や鞄など革製品を取り扱っている専門店70店余りが軒を連ねる「花川戸靴・はきもの問屋街」があります。年末には「花川戸はきだおれ市」が開かれています。
二天門からゴール地点の「浅草寺」に入ります。現在の二天門は慶安二年(1649年)に浅草寺の東門として創建されました。当初は境内にあった東照宮の随身門でしたが、明治十七年(1884年)に神仏分離によって随身門に安置されていた随身像が浅草神社に遷座した際、名称を随身門から二天門と改められました。扁額の「二天門」の文字は、太政大臣の 三条実美の筆になるものです。二天門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重であり、国の重要文化財に指定されています。平成二十二年(2010年)に改修を終え、創建当時の鮮やかな姿に蘇りました。
二天門[にてんもん](重要文化財)
この二天門は、慶安二年(1649年)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺の東照宮は元和四年(1618年)に建立されたが、寛永八年(1631年)と同十九年の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(十七世紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和三十二年に寛永寺の厳有院殿(四代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。二天門は昭和二十五年、国指定重要文化財に指定された。
Nitenmon Gate (Important Cultural Property)
Nitenmon Gate was evidently built circa 1649 as the east gate of Senso-ji Temple, but throughout the Edo period it was considered the zuishinmon (guarded gate) of Tosho-gu Shrine, which was built to the west of Senso-ji's Kannondo Hall, hence guardian statues were housed on either side of the gate. Tosho-gu Shrine was built at Senso-ji in 1618, but was destroyed in fires along with other buildings at the Senso-ji Temple complex in 1631 and 1642, after which Tosho-gu was relocated to Momijiyama inside Edo Castle. After the decree forbidding the fusion of Shinto and Buddhism was issued, the guardian statues at the gate were re-imagined as Jikoku-ten and Zojo-ten, which are two of the four main protective deities (called ten in Japanese, from Sanskrit deva), hence the name of the gate was changed to Nitenmon, or the "Gate of the Two Deities".
The two statues currently flanking the gate were made in the early Edo period
(the latter half of the 17th century) by the Buddhist sculptor Yoshida hyoubu of Kyoto's Shichijo district (they are now designated by Tokyo Prefecture as Tangible Cultural Properties). They were moved in 1957 from Chokushimon Gate at Kan'ei-ji Temple's Genyuin Mausoleum (the mausoleum to Tokugawa Ietsuna, the 4th Tokugawa shogun). In 1950 Nitenmon Gate was designated as a National Important Cultural Property.
二天門を入った右手に浅草神社が鎮座しています。浅草神社の主祭神は、浅草寺の創建に関わった土師真中知・檜前浜成・檜前竹成で、この三人の霊をもって「三社権現」あるいは「三社様」と称されるようになりました。推古天皇三十六年(628年)3月18日に漁師の檜前浜成・檜前竹成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かりました。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは聖観音菩薩像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになりました。その後土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺としました。これが浅草寺の始まりです。土師真中知の没後に真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・竹成を神として祀ったのが浅草神社の起源であるとされています。
浅草神社
明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649年)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868年)三社明神、同六年浅草神社と改称した。現在の社殿は慶安二年十二月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。
ASAKUSA SHIRINE
The Asakusa Shrine had its origin in the joint enshrinement of Hinokuma no Hamanari, Hinokuma no Takenari, who picked up the image of Kannon, the main idol of the Sensoji Temple, from the Sumida River, and Haji no Matsuchi, who made the image as the target of the people's worship. The present shrine building was reconstructed by Tokugawa Iemitsu in December 1649. It is highly rated as the representative building of the Gongen structure of the early Edo Era, and has been designated as an important cultural asset of the nation. The Sanja Festival, held in May every year, is one of the three biggest festivals in Tokyo.
ということで、台東区で十番目の前半部「Jコース(吉原仲之町通りルート)」を歩き終えました。ゴール地点は浅草寺です。引き続いて、「Jコース(一葉記念館ルート)」を歩きます。
戻る