Kコース(清川地区健康推進委員おすすめ)  

清川地区健康推進委員より一言
清川地区健康推進委員の活動の特徴

年数回、各々違ったコースを担当健康推進委員が作成し、楽しく笑顔のウォーキングを実行しています。

歩行距離:5.1km、歩行時間:77分、消費カロリー:230kcal、歩数:7、286歩


コース 踏破記  

今日は台東区の「Kコース(清川地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。石浜公園をスタート地点として、山谷堀公園や墨田川左岸を巡って石浜公園に戻ります。  

スタート地点:石浜公園
@アサヒ商店街・日の出会通り
A玉姫稲荷神社
B東浅草小学校
C見返り柳
D山谷堀公園
Eあこがれ像
F待乳山聖天
G台東リバーサイドスポーツセンター
H言問橋
I桜橋
J白鬚橋
K明治天皇行幸・對鴎荘遺跡の碑
L橋場不動尊

ゴール地点:石浜公園


スタート地点の石浜公園から歩き始めます。「石浜」は、浅草の北・隅田川の西側一帯の古い地名です。現在の町名は「清川」になっていますが、石浜公園と隣の石浜小学校の名前に古い地名が残っています。石浜公園は台東区内に15ケ所ある関東大震災からの復興の際に小学校と公園とをセットで整備した復興小公園のうちのひとつです。ちなみに、隅田公園は復興大公園になります。公園の中心部分にラジオ体操台があります。震災復興公園にはラジオ体操台が設置されていることが多いのですが、当時はこうした演台や指揮台のようなものが重要視されていたのでしょう。面積2972平方メートルの広場の中に様々な遊具が点在しています。カラフルな色彩のマットつき大型複合遊具・マットつきブランコ・ツーウェイスベリ台に加えて、フェンスで囲われた砂場も備えています。周囲には、イヌマキの木・カヤの木・ビワの木・ミカン類の木が育ち、日時計のオブジェが設置されています。



石浜公園から見所ポイント@の「アサヒ商店街・日の出会通り」に出ます。どちらも道路の両側に昭和レトロなお店が建ち並んでいます。



アサヒ商店街から一歩奥に入った通りに面して、見所ポイントAの「玉姫稲荷神社」が鎮座しています。「玉姫稲荷神社」は、天平宝字四年(760年)に創建されました。武蔵国豊島郡王子村(現・北区)の王子稲荷神社とも関係があるといわれています。また新田義貞が北条高時を追討すべく鎌倉に進撃(鎌倉の戦い)する際に、玉姫稲荷神社で戦勝祈願したという故事もあり、歴史ある神社であるといえます。

TAMAHIME INARI SHRINE

The festivals called "Kon-Kon Kutsu Ichi" and "Kutsu no Megumi Matsuri Ichi," the festival of shoes, are held every year at this place.




玉姫稲荷神社の社殿は昭和二十年(1945年)の東京大空襲で全焼し、戦後まもなくは台東区立田中小学校(現在は閉校)の奉安殿を譲り受けて祭祀を行い、昭和二十八年(1953年)に各社殿が再建されました。玉姫稲荷神社の氏子には地場産業である製靴業者も名を連ねており、毎年11月に「靴のめぐみ祭り市」と題して、靴の大安売り市が開かれています。



日の出会通りは土手通りに突き当たる吉原大門交差点で終端となりますが、交差点の手前に見所ポイントBの「東浅草小学校」があります。前身は、明治六年(1873年)に開校した待乳山(まつちやま)小学校です。待乳山小学校は、関東大震災の震災復興小学校として昭和三年(1928年)に昭和モダンな校舎が竣工しました。ちなみに、台東区内で戦前築の小学校舎が現役の公立小学校として使われているのは、黒門小学校と東浅草小学校のみです。平成十三年(2001年)に隣接する田中小学校と合併して東浅草小学校と校名を変えました(校舎はそのままです)。



東浅草小学校に隣接して、警視庁の第六方面本部があります。警視庁には、第一方面から第十方面まで10個の方面がありますが、第六方面は台東区・荒川区・足立区の警察署を統括しています。



土手通りは、かっての日本堤の跡地に出来た道路です。

日本堤

日本堤は新吉原への道のひとつとして、浮世絵や歌舞伎の題材にも取り上げられ、江戸の名所として賑わいを見せた。日本堤が築かれたのは、新吉原ができる37年前の元和六年(1620年)とされ、その理由は、低湿地帯である浅草・下谷を隅田川出水による氾濫の被害から防ぐためであった。江戸幕府が全国の諸大名に命令して築堤したことから、「日本堤」と呼ばれるようになったといわれるが、由来は諸説ある。浮世絵を見ると、吉原に向かう遊客相手の茶屋などが日本堤沿いに立ち並んでいる様子や、遊郭の中にいる猫が酉の市帰りの客を見下ろしている場面、田圃の中で狸に化かされた人たちのユーモラスな様子などが描かれている。

Nihonzutsumi

Nihonzutsumi was one of the ways to Shin-Yoshiwara. It was also featured in Ukiyo-e and Kabuki themes, and it appeared as a popular place in Edo. It's said that the Nihonzutsumi was constructed in 1620, Shin-Yoshiwara was built only 37 years ago. It was constructed to prevent damege caused by flooding of the wetlands of Asakusa and Shitaya by the Sumida river. The Edo shogunate commanded the leading powerful warlords nationwide to build an embankment, so it came to be called Nihonzutsumi. There are various opinions about its origin. Please look at the Ukiyore prints. (Ukiyo-e means Japanese woodblock prints.) The Ukiyo-e prints show from the left: Guest tea shops along the embankment to Yoshiwara, a cat' s eye view from a cat in a brothel looking down tourists returning from the Tori-no-ichi festival, on the right, the picture shows luminous figures in a paddy field bewitched by a tanuki.




「吉原」の語源には、遊廓の開拓者である庄司甚内の出身地が東海道の宿場の吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説があります(葦=悪しに通じるのを忌んで吉とつけた)。江戸幕府の開設間もない元和三年(1617年)、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生しました。徳川家康の隠居地であった駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊廓がありました。吉原はそのうち五か丁を大御所家康亡きあとに駿府から移したのが始まりとされています。明暦三年(1657年)に発生した「明暦の大火」で日本橋の吉原遊廓も焼失しましたが、幕府開設のころとは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田圃に移転を命じられました。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は新吉原と呼ばれました。

新吉原

明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には3、000人の遊女が在籍していた。遊郭の周囲には堀がめぐらされ、出入口は吉原大門の一箇所のみだった。新吉原の中央にあった大通りでは、春には桜、秋には紅葉を一時的に移植し、特別な空間を演出していた。浮世絵を見てみると、遊客が名残を惜しんで振り返った位置にあったとされる「見返り柳」や、大門(おおもん)と桜並木と艶やかな遊女の様子が描かれ、当時の賑わいを見ることができる。

Shin-Yoshiwara

A government-sanctioned pleasure quarter, Yukaku, was relocated to northern Asakusa after the Great fire of Meireki of 1657, and the new district became known as ShinYoshiwara. The Yukaku was surrounded by a moat and entered by a single guarded gate (Yoshiwara-omon). The enclosed pleasure quarter housed 3,000 Yujyo (women who entertain customers, sometimes cultured and trained in the classical arts of Japan, from calligraphy to dance) at its peak. Yoshiwara's blossom was depicted in Ukiyoe (Japanese woodblock prints). Mikaeri-Yanagi(Willow of regret) standing outside Yukaku at a position where customers would turn back and be reluctant to leave (Ukiyoe), Omon and the avenue of cherry trees (Ukiyoe (2), and fascinating picture of Yujyo (Ukiyoe 3) illustrates prosperous days.




吉原大門交差点の脇に一本の柳の木が植わっています。大井町の浜川橋や南千住の泪橋は罪を負った人達が親類縁者と別れを惜しんだ別離の場所ですが、吉原大門の見所ポイントCの「見返り柳」は遊女との恋情を喪失した遊び人が名残惜しく佇んだ場所で、人生の悲哀は全く感じられませんね。柳の袂に石碑と案内板が立っています。

見返り柳

旧吉原遊廓の名所のひとつで、京都の島原遊廊の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、

   きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
   見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。

MIKAERI YANAGI(Looking-back willow tree)

This is one of the memorial spots in the Yoshiwara licensed red-light district, a willow tree which is said to have been planted following another willow tree at the gate of Shimabara red-light district in Kyoto. This tree was called "Looking-back willow tree" because visitors returning home from the district looked back at this spot feeling painful reluctance to leave. This tree has been subjects of many Senryu poems such as

   Kinuginu no usirogami hiku yanagi kana
   Mikaereba ikenka yanagi kao wo uchi

New trees have taken its place several times because of the Great Kanto Earthquake and air-raids during World War II. The tree now standing used to be a little northward of its present site. It was transplanted due to road construction and re-zoning.




見所ポイントDの「山谷堀公園」は、かっての山谷堀を埋め立てて緑道化した公園です。

山谷堀

かつて山谷堀は、北区王子の音無川を通り隅田川に流れる水路だった。遊郭が新吉原に移転した後、当時の江戸の人々にとって、猪牙舟に乗って山谷堀を通り、吉原の遊郭へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。その後、山谷堀は、経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、東京都により昭和五十一年(1976年)頃から暗渠化された。掲載写真は、暗渠化される前の山谷堀の様子である。昭和五十二年(1977年)以降、台東区が上部を公園に整備し、山谷堀公園となった。

Sanya bori (Sanya moat)

Sanya moat was once a waterway on the Otonashi river in Kita Ward which flows into the Sumida river. After the entertainment district moved to Shin-Yoshiwara, Daimyos in Edo at that time were able to take a luxurious boat to go along Sanya moat and go to Yoshiwara to play. But, the common people walked. Nowadays, Sanya moat has become a problem due to water pollution and bad odors coming from it. The moat was concreted over to create a culvert by the Tokyo Metropolitan Government from about 1976. The photographs show the state of Sanya moat before the construction work. In 1977, Taito Ward constructed a long park on the culvert and it became Sanya bori Park.




案内板に添付されている掲載写真です。



山谷堀公園には多くの遊具が設置されています。



山谷堀に架かっていた橋は、親柱や欄干がそのまま残されています。地方橋(ぢかたばし)は、地方出身者が多く住んだ場所に架かっていた橋ということから名付けられた橋名ではありません。「地方」とは舞踊で踊る人(立方)に対し、唄・浄瑠璃・三味線・囃子などの演奏者(地方)の意味で、それらの人が多く住んでいたことから名付けられたといわれています。



都立浅草高等学校は、平成十八年(2006年)に、台東商業(全・定)・上野・両国・墨田川・小松川・小岩の定時制課程を統合し、都立では2校目の単位制高校として台東商業高校校舎を継承して開校されました。午前部・午後部・夜間部の3部制に分かれて授業が行なわれています。学校教育法では、「必須科目を含む74単位以上を取得すること」という卒業資格取得条件が決められています。単位制高校とは、学校教育法で決められている単位を修得すれば卒業が認められる高等学校のことです。



見所ポイントEの「あこがれ像」は、都立浅草高等学校に面した山谷堀公園内に建っています。作者は朝倉文夫氏です。

たいとう健康都市宣言

健康は、私たちがいきいきとした豊かな生活を営む源であり、万人の願いである。健康を保持増進するためには、心身の健康づくりに対する一人ひとりの自覚と健康的な生活習慣の実践、個人と家族と地域が共に支えあう社会、安全で快適な生活環境の整備が不可欠である。台東区は、すべての区民が健康で文化的な生涯を送ることができるよう、区民と地域社会と区が一体となって健康施策を積極的に推進することを誓い、ここに健康都市とすることを宣言する。




かって、吉原通いの遊客が乗った小舟が復原されています。山谷堀は、かつては「よろず吉原、山谷堀」と歌われ、江戸名所のひとつに挙げられた風情ある場所で、船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったといわれています。江戸時代には新吉原遊郭への水上路として隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」ともいいました。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされ、河口岸には船宿や有明楼などの料亭などが建ち並び、芸者遊びなどもできて、江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近かったために山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれました。「堀」と言えば山谷堀を指すくらいに有名な場所でした。明治時代になって遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和時代には肥料船の溜まり場と化し、永井荷風の記述によると、昭和初期にはすでに吉原は衰退していて、山谷堀も埋め立てが始まっていました。戦後の売春防止法の施行による吉原遊郭の閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられました。かっての猪牙舟を復元した模型が公園内に展示されています。

猪牙舟

猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷船とも呼ばれていた。当時の江戸の人々にとって、舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源は、舟の形が猪の牙に似ているからというものや、長吉という人が考案した「長吉舟」が訛って「ちょきぶね」になった、と諸説あり、速度の速い舟であった(1尺=30.3センチメートル、1寸=3.03センチメートル)。浅草聖天町出身の池波正太郎の作「鬼平犯科帳」の中にも多く登場している。

Chokibune

Chokibune was a type of open boat with a pointed prow, used as a taxi on the rivers and canals of Edo. After the licensed pleasure district was relocated to Shin-Yoshiwara, so many of the swift, small boats plied the Sanyabori canal that they were also known as sanyabune (Sanya boats). For Edoites, it was the height of luxury to ride a boat down the Sanyabori for a visit to Yoshiwara. Chokibune is written with the characters for "boar tusk boat," for like a tusk they were long and narrow and pointed, about 30 feet (909 cm) long and 4.5 feet (35 cm) wide at the middle, although some say "choki" was originally a corruption of Chokichi, the name of a boat designer. The boats are often seen in films and manga based on the Onihei Hankacho novels by Ikenami Shotaro, who was a native of the Shodencho neighborhood in Asakusa.




地名の「今戸」は「今戸焼」の由来となりました。

今戸焼

今戸焼とは、江戸時代から明治時代を中心に、 今戸やその周辺で焼かれてきた焼き物で、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。今戸焼職人は瓦や日常の生活道具などを製造販売して、庶民の需要に応えていた。今戸焼の土人形は、江戸東京の代表的な郷土玩具で、今戸人形と呼ばれ親しまれたが、明治半ば頃には衰退してしまった。関東大震災(1923年)後、今戸人形の伝統を引く製作者だった「尾張屋」金沢春吉(1868年〜1944年)の尽力によって一時復興したが、春吉の死後その動きも弱まった。現在では、受け継がれた型や製法を基に職人が製作を続けているが、周辺の都市化や震災・戦災などにより多くが区外へ移り、今戸に1軒を残すのみである。台東区では「今戸焼作り」の技術を区の生活文化財に指定し、人形や寺社の縁起物の製造をおこなっている職人を今戸焼の技術の継承者として認定している。

Imado ware

Imado ware is a representative ware of Edo (former name of Tokyo) produced during the Edo and early Meiji periods in Imado and surrounding neighborhoods. Imado potters thrived living up to daily needs of city residents engaging in the production of tiles and daily necessities. Ceramic figurines called Imado dolls were typical knick-knacks in the city until their popularity waned near the end of the 19th century. After the Great Kanto Earthquake of 1923, a temporary revival of the Imado doll tradition was led by KANAZAWA Harukichi (1868-1944) of the Owariya shop, but interest again faded after his death. Today there are still a few artisans producing the dolls using legacy molds and techniques, although 20th-century urbanization, earthquakes and war have driven most of them out of the city and there is only one maker left in the Imado neighborhood. The Imado ware production technique has been designated a Livelihood Cultural Property of Taito City, and some artisans who carry on the production of dolls and religious talismans are recognized as successors to the technique.




山谷堀公園内には今戸焼の置物が展示されています。鉄砲狐とは、その形状が鉄砲の弾に似ていることからそのように呼称されました。主に稲荷神への神社の奉納用として用いられ、今戸焼きの狐の中でも代表的な存在といえます。特徴としては、今戸焼きの鉄砲狐は底が抜けている形です。かつては江戸(東京)中の稲荷神社へ今戸焼きの狐が奉納されていましたが、今では見た目の近い瀬戸物の鉄砲狐に取って変わられつつあります。

「鉄砲狐」

正面を向いて台座の上に座っているこの狐は、台東区有形民俗文化財の型を基に復元したものです。顔を横に向けて座っているものや大小様々な狐の型から姿形が受け継がれており、今も稲荷神社の授与品として作られています。江戸時代に稲荷勧請が流行り、今戸焼職人以外の人たちも内職として彩色をしている様子が「今戸の狐」の噺に残されています。

Teppo Kitsune (Bullet-like Foxes, Gun Foxes)

There are several views on the origin of the name but the bullet-like-shape is regarded as the most likely prospect. Fox figurines, seated and facing forward on pedestals can literally be translated as "gun foxes" and the Teppo Kitsune were restored on the model of Tangible Folk Cultural Properties of Taito City. The form evolved from ceramic figures seated and facing sideways, and from various large and small fox shapes. Teppo Kitsune are still made as lucky apotropaic charms and auspicious gifts of Inari Shrines. Praying for the coming of Inari deity (deity associated with foxes, rice, household wellbeing, business prosperity and general prosperity) was common during the Edo period, and a traditional tale called "Imado Foxes" tells of people other than professional Imado potters painting Inari figures as a side job.




猫たちがいろんな方向を向いて座っています。

「座猫」

顔を横に向けて座っているこの猫は、台東区有形民俗文化財の型を基に復元したものです。大小様々な座猫や招き猫の人形の型が今も受け継がれており、このように顔を横に向けて座る猫の姿は、江戸時代の錦絵にも描かれています。

Sitting Cat

Sitting cat figures facing sideways have been restored on the model of Tangible Folk Cultural Properties of Taito City. Cat figures sitting above are the examples of the shapes of the Sitting Cat. A variety of old sitting cat and beckoning cat figures of various sizes still exist, and sitting cats facing sideways are portrayed in woodblock prints of the Edo period.




踊り雀もあります。「雀百まで踊り忘れず」の意味は、幼い時に身につけた習慣や若い時に覚えた道楽は幾つになっても直らないことの例えです。ここでの「踊り」とは、雀の飛び跳ねるさまのことで、雀は死ぬまで飛び跳ねる習性が抜けないように、若い頃に身についた習性は年を取っても変わらないことをいいます。「舌切りすずめ」のお伽話は、太宰治が1945年に執筆した「お伽草紙」の中に収録されています。

昔々、あるところに心優しいお爺さんと欲張りなお婆さんの老夫婦がいました。ある日、お爺さんは怪我をしていた雀を家に連れ帰って手当てをしました。山に帰そうとしましたが雀はお爺さんにたいそう懐き、お爺さんも雀に情が移り、名をつけて可愛がることにした。しかし、雀を愛でるお爺さんの様子をお婆さんは面白くなく思っていました。お爺さんが出掛けたある日、お婆さんが井戸端で障子の張り替えに使うために作った糊を雀は食べてしまいました。怒ったお婆さんは「悪さをしたのはこの舌か」と雀の舌をハサミで切ってしまい、痛がる雀にお構い無しにどこにでも行ってしまえと外に放ってしまいました。そのことを聞いたお爺さんは雀を心配して山に探しに行くと、藪の奥に雀たちのお宿があり、中からあの雀が出てきてお爺さんを招き入れてくれました。雀はお婆さんの糊を勝手に食べてしまったことを詫び、怪我をした自分を心配して探しに来てくれたお爺さんの優しさに感謝を伝えました。そして仲間の雀たちと大変なご馳走を用意してくれ、歌や踊りで時が経つのを忘れるほどもてなしてくれました。帰りにはお土産として大小ふたつの葛籠が用意されていました。お爺さんは自分は年寄りなので小さい方のつづらで十分と伝え、小さな葛籠を背負わせてもらい、「家に着くまでは開けてはならない」と約束されて雀のお宿をあとにしました。家に帰り中を見てみると金や銀、サンゴ、宝珠の玉や小判が詰まっていました。欲張りなお婆さんは、大きな葛籠にはもっと沢山宝物が入っているに違いないと、雀のお宿に押しかけ、大きい方を強引に受け取りました。雀たちから「家に着くまでは開けてはならない」と言われましたが、帰り道で待ち切れずに約束を破り葛籠を開けてみると、中から魑魅・魍魎や虫や蛇が溢れるように現れ、お婆さんは腰を抜かし気絶してしまいました。その話を聞いたお爺さんは、お婆さんに「無慈悲な行いをしたり、欲張るものではない」と諭しました。

「踊り雀」

台東区有形民俗文化財の原型を基に復元したものです。「雀百まで踊り忘れず」の諺や、おじいさんを踊りで和ませる雀が登場する「舌切りすずめ」の昔話があります。

Dancing Sparrow

This figure was restored on the model of Tangible Folk Cultural Properties of Taito City. Sparrows appear in traditional proverbs and stories, including the “Tongue- Cut Sparrow" story about a sparrow that danced to soothe an old man.




「福助」は江戸時代中期に現れた招福の縁起物人形で、頭額が以上に大きく、背は低く、多くは髷を結い、裃を付けて正座しています。これを座布団の上に安置して神酒・供物を供え、福を祈る風習が京阪地方で始まり、江戸に伝わり、全国へも伝播したものです。今では瀬戸物の福助さんが主流ですが、素朴な手作りの福助さんにも捨てがたい味わいがあります。元々は伏見人形に「お福」のみしかなく、夫婦ものに仕立てるために作られたのが「福助」の起こりともいわれています。更に、福助の由来に関しては諸説が有り、その中でも有名なのが三説あります。

京都 呉服屋大文字屋説
八代将軍吉宗の頃、伏見の百姓下村三郎兵衛に彦太郎という子供が生まれました。この子は頭が大きく背が低くて耳たぶが垂れ下がっていましたが、9歳で上長者町の大文字屋に奉公に出て主人に認められ、やがて独立して伏見京町に大文字屋の支店を出すまでになり、名前も彦右衛門と改め、名古屋からお常という嫁をもらい、妻の実家の名古屋で木綿の足袋・腹がけと「大」と染めた手ぬぐいを売り出したところ、これが大あたり。あっという間に大店の主人に出世しました。これを見ていた伏見の人形師たちが彦右衛門の人形を作り、福助と名づけて売り出したところ、これも大流行したというものです

摂州 百姓佐五右衛門の息子説
百姓佐五右衛門の息子佐太郎は頭が大きく背が低かった為、その容貌をからかわれて村に居たたまれなくなり、小田原宿で「福助」の名前で見世物に出たところ、これが人気を呼び、旗本に30両で買われ、屋敷に奉公に上がりました。すると彼のおかげでその旗本は色々と幸運に恵まれ、佐太郎はその屋敷に奉公していた女中と結婚し、その絵姿を描いて売り出したら これが又流行したとのことです。享和四年(1804年)のことだとされます。

伊吹 もぐさや亀屋説
滋賀の伊吹山のふもとの柏原という宿場の代々伝わるもぐさや「亀屋」に番頭福助がいました。この番頭は正直一途でお店の創業以来伝えられた家訓をまもり、ふだんの日から裃を着け、扇子を手放さず、道行くお客さんを手招きしてもぐさをすすめ、常にお客に対して感謝の心をあらわし、おべっかを言わず、真心で応え続けました。そのため商売が大いに繁盛し、主人もまた福助を大事にしました。やがてこの話が京都にも広まり、伏見の人形屋が耳にして福を招く縁起物として福助の姿を人形にうつしたのが始まりといわれています


「福助」「お福」

台東区有形民俗文化財の型を基に復元したもので、夫婦にして飾られる縁起物です。江戸時代、近くには江戸歌舞伎興隆の場となった浅草猿若町がありました。夫婦の会話に歌舞伎役者と今戸焼の「福助」が出てくる落語「今戸焼」は、江戸庶民の日常の機微を伝えています。

Fukusuke and Ofuku

These good-luck charms, restored on the model of Tangible Folk Cultural Properties of Taito City, represent a husband and wife. In the Edo period, the nearby Asakusa Saruwaka-machi neighborhood was a flourishing Edo Kabuki theater district. The traditional Rakugo story "Imado-yaki (Imado ware)" features a husband and wife speaking of Kabuki actors and the Fukusuke of Imado Ware, conveying some of the everyday cultural nuances of the people of Edo.




縁起物の招き猫もありますね。

「招き猫」

顔を横に向けて手を挙げているこの猫は、道具として使われる招き猫で、本来は背中が開いており、底に灰を敷いて炭を置き、点火用の火種をいけておくためのものでした。招き猫人形の資料として、嘉永五年(1852年)の藤岡屋日記「浅草観音猫の由来」と武江年表に、三社権現(現・浅草神社)鳥居の傍らで、老女が今戸焼の丸〆猫、招き猫を並べて商う旨が記されており、同年の歌川広重の錦絵「浄瑠璃町繁華の図」には、(〆に○)と書かれた提灯の下で招き猫の人形を手に持つ人物が描かれています。

Maneki Neko (Beckoning Cat)

Facing sideways with one paw raised, this figurine is both decorative and functional. The back is an open cavity in which ashes could be spread to keep burning coals available for fire starting. The earliest records of maneki neko are from the mid-19th century. An entry on "the origin of Asakusa Kannon temple cats" in the Fujioka Diaries, and a listing in the Buko Nenpyo (Chronology of Edo), both mention that in 1852 an old woman was selling Imado ware maneki neko and Imado ware marushime no neko figurines beside the main gate of the Sanja Gongen (now called Asakusa Shrine). Also in 1852, the woodblock artist Hiroshige published a print entitled "Jorurimachi hanka no zu" (Bustling scene in Jorurimachi) showing a person holding a maneki neko beneath a paper lantern inscribed with the character for shime.




昔は河童が住むほどに長閑な隅田川だったのでしょう。

「河童」

これは道具として使われる河童で、本来は背中が開いており、底に灰を敷いて炭を置き、点火用の火種をいけておくためのものでした。台東区の昔話には、隅田川の河童が縁起物の焼き物になったお話「今戸のかっぱ」があります。

Kappa (Water Sprite)

This mischievous Japanese water sprite figure is both decorative and functional. The back is an open cavity in which ashes could be spread to keep burning coals available for fire starting. There is a folk tale from Taito City about the "Imado Kappa", a kappa from the Sumida River that turned into a ceramic good luck talisman.




山谷堀公園は都道314号線とぶつかったところで終端となります。その地点に架かっていた橋が今戸橋でした。付近の高台は「待乳山」と呼ばれていました。

待乳山・今戸橋

待乳山は現在の浅草七丁目にある小高い丘で、真土山・真乳山とも書かれた。聖天様をお祀りする「待乳山」は、地中より突然隆起して現れた霊山で、その時金龍が天より降って守護したと伝えられている。江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌の題材にもなっている。江戸時代、待乳山でお参りをし、天狗坂(待乳山聖天境内)を下っていくと隅田川と山谷堀の合流する地点にある今戸橋に出た。今戸橋界隈は茶屋や船宿が立ち並び、夜景を描いた浮世絵の窓の灯りからも、賑わっていた様子がうかがえる。浅草聖天町出身の池波正太郎作の「鬼平犯科帳」の中にも、今戸橋の近くにある船宿が登場している。

Matsuchiyama/Imado Bridge

Mt. Matsuchiyama is a small hill in present Asakusa 7-chome and the Matsuchiyama Shoden enshrines Shoden (Nandikesvara, Ganesh in the Buddhist pantheon). It said that the sacred mountain of Matsuchi suddenly raised itself from the earth and a golden dragon descended from heaven to protect it. During the Edo period (1603-1868) Matsuchiyama was renowned as one of the finest scenic viewpoints in the Eastern Capital and prized as the subject of many Ukiyoe and poetry for its superb prospect. Strolling in Edo period starting from a visit to Matsuchiyama Shoden and going down through Tenguzaka (precincts of the Matsuchiyama Shoden) leaded to Imado Bridge where Sumida River and Sanyabori Canal converged. The Imado Bridge neighborhood was lined with tea houses and boat houses, and radiant windows depicted in the night views of Ukiyoe symbolize the bustling atmosphere of the area then. Ikenami Shotaro from Asakusa Shoden-cho (present Asakusa 6-chome, 7-chome) features boat house near Imado Bridge in his masterpiece "Onihei Hankacho (Onihei Crime Files)"..




本龍院は聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつです。山号が「待乳山」、本尊が歓喜天(聖天)・十一面観音であることから、見所ポイントFの「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」とも称され、浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られています。

待乳山聖天

待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(601年)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨み、かつての質屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、

   哀れとは夕越えて行く人も見よ
   待乳の山に残す言の葉

の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。

MATSUCHIYAMA SHODEN

Matsuchiyama Shoden is one of the subordinate temples of Kinryusan Sensoji Temple. Its proper name is Matsuchiyama Honryuin. Located alongside the Sumida River and near the Takeya Ferry. It was called a noted place featuring a good view in the Edo Era. Here there are many Nishikie prints of the Edo Era and poems by famous men of letters and painters like Toda Mosui dealing with the scenary of this place. Its main building was destroyed in the Great Earthquake of 1923 and the Seconed World War, but it was rebuilt in 1961. Radishes seen in its compounds are known as the symbol of health and family harmony while purses represent commercial success.




今戸橋跡のはす向かいに、見所ポイントGの「台東リバーサイドスポーツセンター」があります。台東リバーサイドスポーツセンターは、墨田区民の体力増強や健康増進のために、安心してスポーツを楽しんでもらうための総合施設です。屋外施設としては、一周200mのトラックがある陸上競技場、人工芝の野球場(2面)、テニスコート(5面)、少年野球場、屋外プール(夏季開催:大プール・小プール・幼児用プール)があります。屋内施設としては、バドミントン・バレーボール・バスケットボールなどが可能な競技場、柔道場、剣道場、弓道場(和弓・アーチェリー)、相撲場、エアーライフル場、卓球場、トレーニング室等があります。台東リバーサイドスポーツセンターでは、年間を通じて様々なスポーツ教室を開催したり、一般開放日には個人で自由に競技を楽しむことができるように運営しています。



隅田公園の中を通って言問橋に向かいます。公園の中に、「花」の歌碑が建っています。誰でも一度は聴いた歌詞とメロディーですね。

花の碑

   春のうららの隅田川
   のぼりくだりの舟人が・・・

武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和三十一年十一月三日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。武島羽衣は、明治五年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治三十三年、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。羽衣二十八歳、廉太郎二十一歳の時であった。滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の三年後、明治三十六年六月二十九日、二十四歳の生涯を閉じた。武島羽衣はその後、明治四十三年から昭和三十六年退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和四十二年二月三日、九十四歳で没した。手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。その情景は、歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。

MONUMENT OF "HANA"

The monument of "Hana" was built in honor of Takeshima Hagoromo, a songwriter and professor, by his former students in 1956. He wrote a famous Japanese song titled "Hana", which lyrically expressed the beauty of the Sumida River; it starts "Sumida flowing through the warmness of spring time while many people on boats moving upstream and downstream are enjoying the spring and nature." Composer of this song was Taki Rentaro, an assistant professor of Tokyo Music School (presently Tokyo National University of Fine Arts and Music), and Hagoromo also became the professor in the same school (Tokyo Music School) in 1897. Both of them worked together and completed the song "Hana". Hagoromo was born in the family of a cotton cloth wholesaler in ihonbashi in 1872. He became a scholar on Japanese literature and was also known as a writer with an expressive lyrical style. The monument has his own writing copied and seulptured on the stone.




隅田公園は桜の名所としてだけでなく、梅の名所としても有名です。

梅めぐり散歩道

■梅と日本文化
梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました。平安時代になり、梅は上流社会の流行花木となり、和歌などに多く歌われました。梅にまつわる話では、菅原道真が大宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」が有名です。安土桃山時代には、中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また江戸時代には、梅の品種が改良され、紅、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に作られるようになりました。江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し、「梅めぐり散歩道」を整備しました。




かって隅田公園内に、マスコミ報道によって付けられた呼び名の「アリの街」という労働者の生活協同体がありました。そこに「蟻の街のマリア」と尊称された女性がいました。

「アリの街」跡

昭和二十五年(1950年)、この地に戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が誕生しました。人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれました。「アリの街のマリア」として知られる北原怜子は、全国の戦争孤児の救済に尽力したポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士に導かれ、裕福な家庭の出身ながら、病に冒され二十八歳の短い生涯を閉じるまで、アリの街に移り住み、子ども達を支え続けました。昭和三十五年(1960年)、アリの街は東京都の要請により江東区に移転されました。北原怜子の活動は後に映画や舞台化もされ、平成二十七年(2015年)にカトリック教会から日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得ました。

The Site of the Ant Village

In 1950, here arose a communal living place, where people who lost their homes and family members in the war were making a living by collecting waste. It was called the Ant Village because people worked hard and helped each other like ants. Satoko Kitahara, known as "Maria of the Ant Village," was born into an affluent family. She was guided by Zeno Zebrowski, a Polish monk committed to taking care of war orphans across Japan, and moved to the Ant Village to keep supporting children until a fatal disease ended her young life at the age of 28. In 1960, the Ant Village was moved to Koto City at the request of the Tokyo Metropolitan Government. Later, Satoko's efforts were made into a film and a play. In 2015, she was the first Japanese woman to be declared Venerable by the Catholic Church.




言問橋の手前の小さな広場に「東京大空襲犠牲者追悼碑」が建っていて、「あゝ 東京大空襲 朋よやすらかに」の碑文が記されています。

戦災により亡くなられた方々の碑

隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。




石碑の横にコンクリート片が並べられています。

言問橋の縁石

ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干(らんかん)を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年三月十日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。




見所ポイントHの「言問橋」は隅田川に架けられた橋で、国道6号線(言問通り)が通っています。橋が架けられる前は、この場所に「竹屋の渡し」という渡船場がありました。言問橋は、大正十一年(1923年)に発生した関東大震災の復興事業として架橋された425の橋のひとつです。両岸から伸びる桁(突桁)が川の中の2つの橋脚を支点として中央の桁(吊桁)を支持する上路形式のゲルバー橋で、両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれました。「言問」という名称は在原業平の詠んだ、

   名にし負はば
      いざこと問はむ都鳥
         わが思ふ人はありやなしやと

という歌に因むといわれていますが、業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」のことであり、言問橋との直接の繋がりはないようです。また、東京大空襲により、言問橋上で多数の犠牲者が出たのには理由があります。東京大空襲の際、浅草方面の人が「川の向こうに行けば助かる」と思い言問橋を渡ろうとしました。しかし対岸の向島・本所地区もすでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となり、そこに焼夷弾が落ちたことにより多数の死傷者を出したのです。



言問橋を渡って土手下に下りますと隅田公園があります。つまり、隅田公園は隅田川を挟んで両側にあるのです。あまり知られていませんが、公園内には隅田公園魚つり場もあります。



隅田公園の左岸(墨田区側)には多くの木々が植えられています。衛生用品の大手メーカーであるユニ・チャームの創業者の高原慶一朗氏の寄附によって造られました。

高原基金の森

この森(公園)づくりは、高原慶一朗氏(ユニ・チャーム株式会社 創業者)の寄付をもとに、財団法人都市緑化基金が、全国の自治体から特色ある森づくりのプランを募集し、選考委員会で選定したものです。「高原基金の森」は、地域の持つ個性、優位性、潜在能力を「いましか」「ここしか」「これしか」であらわされる特色のある森づくりをめざしています。この森が全国に広がり、21世紀に生きる人と社会が、健全さと豊かさを得られることを願っています。

■この森の概要■

名  称: 隅田公園「新・墨堤桜の森」
面  積: 17、081、46u
特  色: 
向島堤の桜は、江戸幕府八代将軍徳川吉宗が植えたのが始まりとされており、以来、江戸の花見の名所として多くの人々に愛され、今日に至っております。「新・墨堤桜の森」は、墨堤や隅田公園の植栽地を整備して、これまで植えられていたソメイヨシノとは異なる品種の桜や、さまざまな花木を植栽することにより、新たな名所づくりをめざしております。
主な樹木: 
サクラ・センリョウ・ヤマブキ・ジンチョウゲ・ツツジ・マンリョウ・ミツマタ・ユキヤナギ・ヘデラ・コデマリ・クチナシ・タマリュウノヒゲ




高速道路の下に小さな石庭が造られています。

石庭の隅田川

この石庭は、隅田川上流の山あいから湧き出た清水が渓谷や平野を貫流して東京湾にいたる川筋の風景を石組で平面的に表わしたものです。




一匹のオットセイがスカイツリーを見上げています。

GTS GEIDAI TAITO SUMIDA Sightseeing Art Project

GTS観光アートプロジェクトは、東京藝術大学(G)、台東区(T)、墨田区(S)の頭文字からなる三者共催の地域連携プロジェクトです。

ソラニハ Soraniwa 2012年度制作

ここに訪れた方の憩いの場となり、東京スカイツリーを眺めながらコミュニケーションが生まれるような場になる事を願って、私たちはここに「ソラニハ」と名付けた作品をつくりました。空を眺め憩うための庭、あるいは彫像と共に見上げた空の先には・・・と言う意味を込めています。




三囲神社(みめぐりじんじゃ)は、元は田中稲荷と称していました。創立年代は不詳ですが、伝承によれば、近江国三井寺の僧・源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土しました。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像がありました。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3回回って死にました。三囲の名称はここに由来するといわれています。江戸時代の豪商であった呉服屋の三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めました。理由は、三囲神社のある向島が三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたためです。社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」があります。三井グループ各社の総務部によって三囲会が組織されていて、年に4回代表が一堂に会し祭典を催しています。また、閉店した池袋三越前にあったライオン像も寄贈されています。三囲神社には、隅田川七福神のうち「恵比寿」・「大国神」が祀られています。



三囲神社の大鳥居と隅田川の対岸の山谷堀とを結んでいた渡しは、「竹屋の渡し」と呼ばれていました。

《墨田区登録文化財》
堤下の大鳥居と竹屋の渡し

隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークのひとつとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらず、対岸からでも鳥居の貫(ぬき:柱同士を水平方向につなぐ材のこと)より上が見られるほどの大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年(1862年)の建立です。三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しは、ちょうどこの大鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったとも伝えられています。昭和五年(1930年)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。




鬼平犯科帳には、三囲神社の大鳥居辺りの土手を「みめぐりの土手」として作品の中に取り込んでいます。

鬼平情景 みめぐりの土手

「大川の隠居」に登場します。大川(隅田川)の土手のうち三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える辺りを指したようです。作品名になった大鯉が現れる直前の場面で、舟から暮色に沈む風景を描写しています。土手の奥には長命寺、寺嶋のくろぐろとした木立が望まれ、目を転ずると浅草寺の大屋根が月光をうけている。概ねこのような内容ですが、両岸の寺社の位置関係がよく分かります。竹屋の渡しで結ばれたこの流域からは鬼平犯科帳には三囲神社、対岸の待乳山聖天をはじめ料亭、船宿が多く登場します。「大川の隠居」では平蔵が友五郎を誘って、山谷堀の今戸橋近くの船宿〔嶋や〕に上がります。杯を交わしながら、平蔵が亡父遺愛の銀煙管に煙草を詰めるところで実に小気味のよい結末となります。




葛飾北斎は、宝暦十年(1760年)に江戸の本所(現在の墨田区)で生まれ、浮世絵師として多くの作品を残しました。北斎の画業は欧州にも波及し、ジャポニスムと呼ばれるブームを巻き起こして19世紀後半のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼしました。墨田区では北斎の偉業を称えて、区内のあちこちに作品を展示・紹介しています。この作品は、三囲神社(当時は田中稲荷と呼ばれていました)の初午の祭りの様子を描いたものです。

新板浮絵 三囲牛御前両社之図

版元・伊勢屋利兵衛から板行された「新板浮絵」の一枚です。浮絵とは西洋の遠近法を取り入れた浮世絵技法の一つで、手前が浮き上がって見えることから名づけられました。文化(1804年〜1818年)中期、葛飾北斎50歳頃の作品とされています。手前に鳥居のあたまだけ見えているのが特徴的な三囲神社は隅田川沿いの名所のひとつで、かつて田中稲荷と呼ばれ毎年2月の「初午の祭り」には多くの人出がありました。寛政十一年(1799年)年のご開帳は特に盛大で北斎も作品を奉納したと伝えられています。画面左奥には牛御前(現牛嶋神社)も描かれています。

Shinpan Ukie Mimeguri Ushi no Gozenryousha no Zu

A print from the Shinpan Ukie series printed from the original Iseya Rihee woodblock. Ukie, which means "floating picture," are prints using the ukiyoe techniques to which Western styles of perspective have been added, and they are so named as the foreground seems to stand out as if floating. Katsushika Hokusai created this print between 1804 and 1918 when he was around 50 years old. Only the top of the torii gate can be seen in the foreground, but the impressive Mimeguri Shrine was a famous place along the Sumida River, and many people attended the "Hatsuuma Festival", which was known as Tanaka Inari, held in February every year. This was particularly popular in 1799, and it is said that Hokusai donated this work to it. [Ushi Gozen] (currently Ushijima Shrine) is written at the back of the left-hand side of the print.




見所ポイントIの「桜橋」は、台東区と墨田区の姉妹提携事業として1980年に工事が始まり、1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持っています。形状は平面のX字形の特異な形をしていて、お花見のシーズンには両岸の桜を楽しむために多くの花見客がこの橋を渡ります。



桜橋の袂にはワシントンから里帰りした桜の木が植えられています。

桜橋とポトマック帰りの桜 ワシントンからの贈り物

台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和五十二年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和六十年に桜橋が完成しました。この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。

Sakura Bridge and cherry trees back from Potomac - as a present from Washington D.C.

In 1977 (Showa 52). Taito-city and Sumida-city made a sister-city agreement since they are facing over the Sumida River. As a commemoration project, construction of a bridge for pedestrians along Sumida Park was planned and "Sakura Bridge" was completed. In constructing this bridge, some cherry trees were sent from Washington D. C. The cherry trees of Potomac riverside of Washington D. C. is one of the famous place in the world. The end of Meiji era, Mrs. President Taft visited Tokyo. She was fascinated with the cherry blossoms in Mukojima, and hoped to plant cherry trees in Washington D. C. In response to her wish, Mayer of Tokyo city, Yukio Ozaki presented it to Washington D.C. After about 70 years, the posterity of cherry trees has returned to the ground in Mukojima.




土手の上の遊歩道の一画に古びた常夜灯が保存されています。

常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴

この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。

Joyato and ferryboats
water transportation of Sumida River and the symbol of Mukoji taste

The place where put this "Joyato (night-light)" was precincts of Ushijima shrine once. Although Ushijima shrine was relocated to its present location with construction of Sumida Park, only this "Joyato" was left behind here because it was an important mark in "Bokutei". "Takeya-no-watashi (ferryboat)" was set up this neighborhood once, and many visitors were carried to sightseeing areas. They enjoyed cherry blossom viewing at spring, fireworks at summer, and Karyukai (the world of geisha girls, women with refined manners) in Mukojima in Meiji era for instance. This "Joyato" was very important role then because lighting technologies had not developed yet. In Meiji era, many painters preferred to express the taste of Mukojima by painting the matching of cherry blossoms in "Bokutei" and this "Joyato". It remains its figure as the suitable symbol of Mukojima in those days..




もうひとつの案内板が立っています。

墨田区指定有形文化財
石造墨堤永代常夜灯

石造墨堤永代常夜燈は、高さ5メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子十七名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治四年(1871年)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます。発起人十七名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成二十八年七月二十一日、墨田区指定有形文化財に指定されました。

Treasury stone night-light at the banks of the Sumidagawa river

This lantern is one of the cultural properties in Mukojima being famous for its cherry blossoms, built by parishioners of the Ushijima-jinja shrine in 1871.




隅田川に架かる明治通りの橋が見所ポイントJの「白鬚橋」です。橋名は東岸にある「白鬚神社」に因んでいます。なお、「白(髭:くちひげの意)橋」と誤記されることがありますが、「白(鬚:あごひげの意)」が正しい表記です。白鬚橋が架かっている場所には元々「橋場の渡し」と「白鬚の渡し」という渡船場がありました。特に橋場の渡しは、江戸時代の文禄三年(1594年)に千住大橋が架橋されて主だった街道筋が移されるまでは隅田川を渡る中心地でした。伊勢物語の東下りの中で在原業平が有名な「言問」の歌を詠んだのはこの渡しとされています。



白鬚橋の袂に見所ポイントKの「明治天皇行幸・對鴎荘遺跡の碑」の案内板が立っています。

対鴎荘跡

隅田川畔の橋場一帯は、風光明眉な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鴎荘もそのひとつで、明治時代の政治家三条実美(一八三七年〜一八九一年)の別邸であった。「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(一八七三年)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れている。隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鴎荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ三メートル余。側面に「昭和六年歳次辛末五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。対鴎荘は、昭和三年(一九二八年)、白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。

(注記)対鴎荘の「鴎」の字は当て字です。本当の文字はUnicode形式になるので便宜的に「鴎」の文字を使いました。

REMAINS OF TAIOSO

Taioso was the villa of sanjo Sanetomi (1837-1891), statesman in the Meiji Era. He fell ill in Octoder of 1873 and rested quietly in this villa. the Emperor Meiji was very anxious about his health and visited this villa himself to comfort Sanjo. This monument was created by a citizen who owned the villa later to commemorate the Emperor's visit . The villa was relocated to the Tama-Seiseki-Kinenkan at Tama City to allow the construction of the Shirahige Bridge in 1928.




見所ポイントLの「橋場不動尊」は、天平宝字四年(760年)に寂昇によって開山されました。当初は法相宗の寺院でしたが、長寛元年(1163年)に教円坊(もしくは長円)によって、天台宗に転宗しました。江戸時代には、玉姫稲荷神社の別当寺になっていました。橋場不動尊の本尊は、良弁の作といわれている不動明王です。ただしこの像は秘仏であり、代わりに前立本尊としての不動明王が安置されています。この前立本尊は鎌倉時代に作られたものと推測されています。



石浜図書館の角を右折してゴール地点の石浜公園に戻ります。右手の路地に面した小さな広場に巨大な地蔵尊が建っています。一画に巨大な石仏が聳えています。

HAUNTED JIZO

So-called, because in olden days it is said that the steel hat on his head would move, and the Jizo (a guardian deity of children) himself would speak to passers-by.




手前のお地蔵様と比べても、その巨大さが実感できます。

お化け地蔵

「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ三メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治四十年刊「東京名所図会」には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保六年(1721年)の建立。関東大震災で二つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政二年(1790年)に建てられた。総泉寺は、昭和四年板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。

OBAKE (BOGY) JIZO

Once upon a time, this area was within the premises of Sosenji Temple. The bogy Jizo is located at a corner of the Sosenji Temple and initially it was called "baby-raising Jizo." But the Jizo, an image in stone, had a large hat and a large height of more than 3 m. So, some people said that the hat moved in direction, and then they used to call it obake (bogy) Jizo. According to the foundation stone of the Jizo, it is recorded that the Jizo was built in 1721 and broken into two pieces after the Great Kanto Earthquake but it was repaired with the head portion replaced.




ゴール地点の石浜公園に戻ってきました。スカイツリーがよく見えますね。ということで、台東区で十一番目の「Kコース(清川地区健康推進委員おすすめ)」を歩き終えました。地区健康推進委員おすすめコースはこれで終了し、次は台東区で十二番目の「Lコース(上野・浅草コース)」を歩きます。






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