- Lコース(上野・浅草コース)
歩行距離:2、2km、歩行時間:33分、消費カロリー:99kcal、歩数:3、143歩
コース 踏破記
今日は台東区の「Lコース(上野・浅草コース)」を歩きます。台東区役所をスタート地点として、かっぱ橋本通り・菊水通り・雷門通りという浅草三大商店街を巡ります。
スタート地点:台頭区役所
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- @曹源寺
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- A本覚寺
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- B松葉小学校
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- C東本願寺
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- D雷門
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ゴール地点:水上バス浅草発着場
スタート地点の台頭区役所から歩き始めます。台頭区役所は昭和二十二年(1947年)に下谷区と浅草区が合併して台東区が成立した際、旧下谷区役所庁舎がそのまま台東区役所本庁舎として利用されました。一方、旧浅草区役所庁舎は台東区役所浅草分庁舎として利用されました。台東区役所はその後老朽化により建て替えが行われ、現在の庁舎は昭和四十八年(1973年)に竣工し、昭和四十九年(1974年)には浅草分庁舎も統合されました。浅草分庁舎の跡地には、現在浅草公会堂が建っています。
台東区役所の東隣に広徳公園があります。公園といっても遊具等の施設はなく、園内に喫煙所があることから、大人の休息場所といった感じです。所在なさげなお年寄りが石垣に腰を下ろしていますね。園内には福島県南会津町より植樹された花々が美しい花壇があり、丁寧に手入れされた花が下町の風景を彩っています。道路に面して廣徳禅寺遺址の石碑があり、台東区役所が廣徳寺の跡地に建てられたことを物語っています。この公園の名称も廣徳寺に由来しているのでしょう。
台東区が設置した案内板が立っています。石碑に彫られた七言絶句の解説もありますね。「七言絶句」とは、一句七言で四句からなる漢詩のことです。廣徳禅寺は昭和四十六年までこの地にありましたが、元々は早雲寺の子院として元亀・天正の頃(1570年〜1592年)に小田原で創建された寺院でした。小田原城落城の後、徳川家康が神田に再興し、寛永十二年(1635年)この地に移転してきました。江戸庶民からは「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれるほど広大な敷地を擁し、会津藩主松平氏・柏原藩織田氏・阿波藩蜂須賀氏等の菩提寺として江戸屈指の禅林と仰がれていました。明治維新後は檀家の諸大名がなくなり、さらに関東大震災で堂宇を悉く焼失し、荒廃してしまったといわれています。台東区から広徳寺に台東区役所敷地として提供して欲しいと懇望され、広徳寺は塔頭円照院のあった練馬区へ移転しました。石碑には、練馬区への移転に際して住職雪底和尚の詠んだ句が刻まれています。
廣徳禅寺遺趾
この地は、昭和四十六年まで廣徳寺があった場所で、この石碑は、練馬別院に移転の際に、廣徳三十世雪底和尚によって詠まれた七言絶句を記したものです。また、石碑の裏側には、廣徳寺が移転した理由が記されています。なお、この解釈にあたっては、廣徳寺海雲和尚のご協力を賜わったものです。
【七言絶句】
高掲法幢三百戴 タカク ホウトウヲカカゲテ サンビャクネン
(禅宗を掲げて下谷の地に移って、300年が経った)
已憂斯地累兒孫 スデニ コノチヲウルエテ ジソンニツナグ
(時代の移り変わりや環境の変化もあったが、今日まできた)
無邊廣大先人徳 ムヘンコウダイナル センジンノトク
(未来永劫受け継がれるためにも、代々、世のため人のためにおこなってきた)
纔勒碑陰去故園 ワズカニ ヒインヲオサメテ コエンヲサル
(碑陰【石碑の裏面】を記して、この地を去ります)
【石碑裏面】
廣徳寺は、希叟宗罕禅師が明叟和尚を小田原に招き、創建したとされ、その年代は、元亀天正の頃と推定される。天正十八年(1590年)に豊臣秀吉により小田原城が落城し、その際、廣徳寺も焼失した。その後、徳川家康が江戸の神田(昌平橋付近)に再興。そして寛永十二年(1635年)に下谷に移っておおよそ300年が経った。当時は、江戸屈指の禅林と仰がれた。昭和四十五年9月、台東区より敷地を新庁舎建設用地として懇望され、時代の情勢を鑑み、これを受託し、練馬の別院へ移すことにした。この地を去るにあたり、先人達の深い恩に感謝し、石碑を建て移転の経緯を記し、後世に残すものである。
Former Site of Kotokuzenji Temple
Kotokuji Temple stood here until 1971 when it was moved to Nerima. In its place was erected this stone monument engraved with a 4-line poem that was written with 7 characters per line by the 30th head priest of the temple, Settei Osho. The reason why the temple was moved is explained on the back of the stone monument. The poem was translated with the cooperation of the priest of Kotokuji Temple, Kaiun Osho.
道路の脇に「台東区ウォーキングマップ」の案内板が立っています。「Aコース」から「Mコース」と「橋めぐりコース」の全ルートが地図に書き込まれています。いろんなコースを歩いたものです。
かっぱ橋本通りに入ります。かっぱ橋本通りは、浅草の国際通りから上野駅入谷口近くの昭和通りまでの1.2kmを結ぶ道路で、寛永寺の高僧が浅草寺に詣でる「御成道」として整備されました。浅草は江戸以来の繁華街として庶民の娯楽の中心であったため、明治・大正時代には浅草と上野をつなぐ幹線路として終日賑わいをみせていました。明治時代には、線路の上に車両をひいた馬が走る「馬車鉄道」が運行したこともあります。「かっぱ橋」の名称の由来にはふたつの説があります。ひとつは、今はない新堀川の整備を行った雨合羽の商人の合羽屋喜八の伝承です。今から200年ほど前の文化年間の時代、この辺りは水はけが悪い低地で、雨が降るたびに洪水となって人々は困り果てていました。そこで、合羽屋喜八が私財を投じ、水路を造る工事に着手しました。しかし工事はことのほか難航しました。これをみた隅田川の河童たちが同情し、喜八の良心にも心を打たれて、夜な夜な工事を手伝い、工事は無事に完成したと言い伝えられています。通称かっぱ寺とよばれる曹源寺には、合羽屋喜八の墓があります。もうひとつの説は、橋の近くにあった、伊予新谷加藤家下屋敷にまつわる伝承です。屋敷に住んでいた下級武士たちは、内職に雨合羽を作っていました。その雨合羽をこの橋にかけて乾かしていたことから「合羽橋」と呼ばれるようになったと言われています。
何故か歩道脇の街路灯に、七夕物語がイラスト付きで並んでいます。
一、
天上の全てを司る天帝には、天の川の東側に織姫という働き者の娘がおりました。織姫は星の雲から七色の糸を紡ぎ出し、美しい錦を織り上げては人々を喜ばせていました。
二、
天の川の西側には、働き者の牛飼い彦星が住んでおりました。彦星は毎日牛と散歩しながら川へゆき、そのほとりで笛を吹いて過ごしておりました。
三、
ある時 天帝は働いてばかりいる年頃の娘を心配し、結婚相手を探すことにしました。そして働き者の彦星を織姫に引き合わせたのです。二人はたちまちお互いに夢中になりました。
四、
織姫は機織りをやめ、彦星は牛を追わなくなり、昼も夜も一緒に過ごすようになりました。そんな二人の様子を見かねた天帝は天の川の両岸へと二人を引き裂いてしまったのです。
五、
突然離れ離れにさせられた二人の悲しみはとても深く、織姫はますます機織りどころではありません。彦星の牛もとうとう痩せて病気になってしまいました。
六、
これを哀れに思った天帝は年に一度、七月七日の日にだけ二人が会うことを許したのです。けれど、もし雨で水かさが増してしまったら、天帝が天の川に幾千ものカササギを遣わして、二人のために橋をかけてあげるのだそうです。
かっぱ橋本通りを挟む松が谷二丁目と三丁目の町域は、かって松葉町と呼ばれていました。
旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧松葉町
この付近は元禄十一年(1698年)に勅額火事といわれる大火に見舞われ焼失した。跡地には多くの寺院が移転し、門前町が開かれるに伴って新寺町と呼ばれるようになった。本町は、明治二年(1869年)それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。町内に「河童大明神」で知られる曹源寺がある。昔、このあたりは土地が低いため雨が降るとたちまち水が出て人々は苦しんでいた。雨合羽商の合羽川太郎は、これを見てだまつていられず排水のための堀割を作ろうとしたが工事は思うように進まない。そこにかつて川太郎に助けられたという河童が出てきて川太郎の工事を手伝い、困難な工事をまたたくまに完成させたという。このようなことから曹源寺には川太郎の墓とともに河童が大明神としてまつられたという。
東京の真ん中に当たる地点は杉並区にある大宮八幡宮といわれています。「真ん中」の意味は地形上の中心ということではなく、人口の重心という意味だそうです。歩道の脇に、ボールを頭上に翳したかっぱの石像と石碑が置かれています。かっぱの石像には、「かっぱのたいちゃん(女の子)」という名前が付けられています。碑文には、この地点が台東区の中心であると記されています。台東区の形状は三角形を傾けたような感じなので、恐らくその中心に当たるのがこの地点ということなのでしょう。
ここが
台東区のまん中
つまり「へそ」と
言われている
旧松葉町の案内板にあった「合羽川太郎」は、本名が「合羽屋喜八」だったそうです。文化十一年(1814年)に合羽屋喜八が亡くなって見所ポイント@の「曹源寺」に葬られると、曹源寺は「かっぱ寺」と呼ばれるようになりました。
「かっぱ寺」の伝承
巨獄山曹源寺は曹洞宗に属し、天正十六年(1588年)に和田倉(千代田区)に開かれ、のち湯島天神下に移り、明暦の大火(1657年)の後、現在地に移転したと伝える。当寺の通称を「かっぱ寺」という。伝承によると文化年間(1804年〜1817年)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための堀割工事にとりかかった。このとき、かつて川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、堀割工事が完成した。この河童を目撃すると商売繁盛したという。この伝承が「かっぱ寺」という通称の由来であり、「合羽橋」(合羽橋交差点の付近にあった)という橋の名もまた、この伝承に由来するともいわれる。当寺には河童大明神が祭られるほか、合羽川太郎の墓とつたえる石碑があり、「てつへんへ 手向けの水や 川太郎」という句が刻まれている。
The Folklore of Kappa-dera Temple
The common name of Sogenji Temple is Kappa-dera. A Kappa is a mythical creature that is said to live in water. According to a legend, at the beginning of the 19th century there lived in the vicinity a raincoat maker named Kappa Kawataro. In Japanese the word for "raincoat" is also "kappa". This was once a basin with poor drainage, therefore rains would often bring floods causing undue trouble for the residents. Because of this, Kawataro began the construction of a series of drainage ditches with his own finances. The project was, said to have been completed only with the assistance of the kappa living in the Sumida River whom had been helped by Kawataro in the past. It is said that those who actually witnessed the river kappa thrived in business. This legend is the origin of the name "Kappa-dera." Furthermore, the name of
"Kappa bashi" (a bridge that once stood at the Kappa bashi intersection) is also said
to come from this legend. At the temple they celebrate the Kappa Daimyojin and there
is a stone monument that is said to be Kappa Kawataro's grave.
曹源寺の山門を入ってすぐの右手に、木彫りの河童の顔面像を納めた祠があります。木像には「かっぱのぎーちゃん」という愛称名が付いていて、芸大生の作品とのことです。
合羽屋喜八の墓は、下部は波形の台石に、上部は皿のような水鉢を戴いています。石碑表面には、「てつへんに 手向けの水や 川太郎 十寸尾」と刻まれています。その隣には、「宝水 あふれて盡きじ 富久河童」の句碑が建っています。墓の周囲は、頭の上にキュウリを載せた夫婦河童や小便小僧河童(木の葉で頭部は隠れていますが)の像で囲まれています。ちなみに、河童はキュウリを好むと言われていますが、これには岩手県遠野市に伝承される民話に由来するそうです。河童は乾燥に弱いため、常に体や皿がしめった状態でなければいけません。そのため、キュウリの名産地である遠野市の河童淵に昔から住んでいる河童は陸に上がる時は皮膚が乾燥して体温が上昇してしまわないよう、キュウリを体に巻いていたと言われています。河童は、キュウリの水分量が95%以上あり、体を冷やす効果があることを知っているのでしょう。河童がキュウリを体に巻いていた姿を村人が見たことから、キュウリを巻いた寿司を「かっぱ巻き」と呼ぶようになったといわれています。
合羽屋喜八の墓の隣に河童堂があります。「河太郎 義人」の扁額と、「睨み龍 駿堂の印」が掲げられていて、賽銭箱には河童の顔が描かれています。堂内の天井画は、昭和二十八年(1953年)に萩原楽一氏の呼びかけにより、手塚治さんや水木しげるさんなど30数名が河童の絵を描いて寄進したものです。
曹源寺の角を右折し、南下します。右手に見所ポイントAの「本覚寺」があります。本覚寺は、円了院成身日満(俗名関根卯兵衛)が開基し、上行院日覚が開山となって天正十九年(1591年)に馬喰町で創建されました。明暦三年(1657年)の大火の後、この地へ移転したといわれています。江戸十大祖師の一社になっています。江戸十大祖師とは、江戸にある10ヶ寺の日蓮宗寺院を参拝することにより、祖師(日蓮)のご利益にあずかろうとする民間信仰のことです。
旧松葉町の町名が残る見所ポイントBの「松葉小学校」は、明治三十七年(1904年)6月15日に、東京市立松葉尋常小学校として開校しました。大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により校舎が焼失しましたが、昭和四年(1929年)に鉄筋の校舎が完成しました。台東区内に15か所ある復興小公園と復興小学校をセットにしたものです。松葉小学校の卒業生に安達祐実さんがいます。12歳の時に主演した「家なき子」で、「同情するならカネをくれ」のフレーズが流行語大賞に選ばれた天才子役の安達祐実さんは現在でも舞台を中心に活躍しています。
写真を撮り忘れたのでネットから転載しました。
合羽橋南交差点の手前に正定寺があります。正定寺は、慶長十八年(1613年)に伝国によって開山されました。当初は神田にありましたが、その後下谷に移転し、正徳四年(1714年)に松が谷の此の地に移転しました。
墓地には、幕末の剣豪と称された島田虎之助と、漆喰細工の名人として知られる入江長八(伊豆の長八)の墓があります。
島田虎之助の墓
虎之助は直心影流島田派の剣客。文化十一年(1814年)に豊前国中津(現大分県中津市)藩士、島田市郎右衛門親房の子として生まれた。十歳頃から、中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学んだ。上達が早く数年後には、藩内で相手になる者はいなかったという。十六歳の春および翌年には九州一円を武者修行し名声をあげた。天保九年(1838年)に江戸へ出て、男谷精一郎の内弟子となった。一年余で、師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。同十四年、東北方面に武者修行の後、浅草新堀で道場を開く。その道場には、勝麟太郎(のちの海舟)も通った。虎之助は男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれたが、嘉永五年(1852年)九月十六日に三十九歳で病没。墓碑には、「余、哀歎ほとんど一臂を失うごとし」と男谷精一郎の銘文が刻まれている。
伊豆長八の墓
長八は鏝絵(こてえ)を描き、「異本日本絵類考」に、「最古の技に長ぜり」「柱等に種々に絵画を泥装するをもて、専門の業となし、又花瓶額面等に、花卉鳥獣の形を塗る、世人以て絶妙の技となす」と評された人物。鏝絵とは漆喰を塗った上に、鏝で絵を描き出したもので、石灰絵ともいう。文化十二年(1815年)八月五日、伊豆国松崎で誕生した。俗に伊豆長八と呼ばれ、世に知られた。天保元年(1830年)に江戸へ出て、左官棟梁源太郎の弟子となった。修行のかたわら、狩野派の画法を学び、乾道と号した。また晩年には仏教学も学んで天佑と号したという。明治三年(1870年)に名字の名乗りが許されると、最初上田と名乗り、後に入江と改姓した。明治二十二年十月八日に七十八歳で、深川に没すると、遺骨は正定寺に埋葬され、同時に松崎の浄感寺にも分骨された。正定寺の墓石には、「入江家先祖の墓」と刻まれ、台石には「深川播磨屋」と養家の家号が刻まれている。
合羽橋南交差点を横断して菊水通りに入ります。
菊水通りに面して、見所ポイントCの「東本願寺」(浄土真宗東本願寺派の本山)の広大な境内が広がっています。江戸開府前後からの歴史を持ち、明暦の大火の後に神田から移転し、関東大震災での焼失等を経て、「浅草本願寺」から「東京本願寺」、さらに「東本願寺」と名を変えてきた複雑な経緯があります。
THE TOKYO HONGANJI
The Headquarters of the Higashi Honganji Sect
Approximately 400 years ago the Tokyo Honganji temple was established in the city of Edo (modern Tokyo) under the patronage of Shogun Tokugawa Ieyasu by Kyonyo Shonin (1558-1614), the 12th successor descendant of Shinran Shonin (1173-1262), founder of Jodo Shinshu Buddhism. At this temple the 25th Supreme Primate Otani Kosho (Ko-nyo Shonin) Temple Master and Monzeki, has carried on Shinran Shonin's blood and Dharma succession to date. The Tokyo Honganji is at present the headquarters of the Jodo Shinshu Higashi Honganji Sect with a following of some 400 temples. Historically, the city of Edo was constantly ravaged by fire and the Honganji was no exception. On several occasions when the city was destroyed, the temple was reduced to ashes. But
every time such a calamity occurred the strong religious devotion of Honganji followers led to swift reconstruction. In more recent times the Kanto earthquake of 1923, with its ensuing fires destroyed the temple, but the principal image and major temple treasures were saved. In 1939 the present main hall was constructed, utilizing
for the first time in Japan a concrete form of the traditional style of Buddhist temples. The principal image of the main hall, Amida Nyorai, was enshrined in 1609 and has miraculously survived the numerous calamities to date. It is not only an object of religious veneration, but is also regarded as an "Important Historical Property" of Tokyo Prefecture. The Asakusa columbarium, bearing a giant temple bell cast approximately in 1630 on its roof tower, is located within the temple grounds. There is also the Otani Hall and Memorial Hall, which are both used for a variety of church activities as well as public lectures, and other research and educational activities.
Under the leadership of the 25th Supreme Primate of the Higashi Honganji, His Eminence
Kosho Ko-nyo Otani, the Tokyo Honganji preserves the orthodoxy of Shinran Shonin's
teachings in the international city of Tokyo. The temple has become the living symbol of blood and Dharma succession in Jodo Shinshu Buddhism and works to propagate the spirit of Mahayana Buddhism towards all who seek spiritual salvation. The door to this living Buddhist temple is open towards all races, nationalities and peoples of the world.
東本願寺は、朝鮮通信使(朝鮮国から日本国に派遣された外交使節団)が江戸を訪れた際の宿泊所として利用されました。案内板には朝鮮語の解説もあります。
東本願寺と朝鮮通信使
朝鮮通信使とは、朝鮮国から日本国に派遣された外交使節団であり、平成二十九年十月、「朝鮮通信使に関する記録―17世紀〜19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」が、ユネスコ「世界の記憶」に登録された。東本願寺は、朝鮮通信使が江戸を訪れた際の宿所として、四回利用された。ただし、当時の建物は、関東大震災で焼失し、現存していない。
The Joseon Tongsinsa were diplomatic missions dispatched from Joseon-dynasty Korea to
Japan. The "Documents on Joseon Tongsinsa/Chosen Tsushinshi: The History of Peace Building and Cultural Exchanges between Korea and Japan from the 17th to 19th Century" were added to the UNESCO Memory of the World Register in October 2017. On four separate occasions, the temple Higashi Honganji provided lodging for these diplomatic
missions when they visited Edo. However, the original structures were lost to a fire in the Great Kanto Earthquake and no longer exist.
また、東本願寺の銅鐘は都内でも有数の大きさになっています。
銅鐘(どうしょう)
本銅鐘は、総高302センチ、口径165.5センチあり、その大きさは区内随一であり、都内でも有数のものである。東本願寺十三世宣如上人が誌した銘文によれば、寛永七年(1630年)に伽藍整備の一環として鋳造されたものである。東本願寺は明暦の大火(1657年)以後、現在の地に移転したと伝えられるが、移転に際して本鐘も移された。本鐘を制作した鋳物師は明らかでないが、撞座や龍頭、下帯にみられる唐草文の意匠から、近世初期に活躍した長谷川越後守吉家による鋳造と推定される。本銅鐘は区内に現存する銅鐘の中でも古いものに属する。加えてその大きさからも、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上で貴重な遺品であることから、平成十五年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
Bronze Bell
At 302 centimeters from its base to its top and with a base diameter of 165.5
centimeters, this bronze bell is the largest in Taito-ku and one of the largest in
Tokyo. According to an inscription by Higashi Hongan-ji Temple's 13th Supreme
Primate Sennyo, the bell was cast in 1630 during construction on the temple
complex. Higashi Hongan-ji is said to have been moved to its current location
after the Great Fire of Meireki (1657) that destroyed much of Edo, and the bell
was relocated with it. It is not clear who cast the bell, but from the arabesque design seen on the reinforced striking marks, the "dragon head" crown, and the sound ring, it is presumed to have been cast by Hasegawa Echigo-no-kami Yoshiie, a caster who lived at the beginning of the early modern era. This bronze bell is one of the oldest extant in Taito-ku. Its age and large size make it an important artifact in terms of shedding light on casters active at the beginning of the early modern era and the casting technigues in use at the time. For this reason, it was included in the list of tangible folk-cultural properties of Taito-ku in 2003.
浅草でお好み焼き屋といえば、昭和十二年(1937)年創業の「染太郎」ですね。平屋の店舗の左半分が生い茂った樹木で覆いつくされ、外観からして老舗の雰囲気があります。名物は四方をお餅で固める「しゅうまい天」なのだそうです。生地にひき肉と玉ねぎを入れてかき混ぜた後、ちょっと隙間をあけてお餅で囲いを作り、間に生地を注ぎます。生地がある程度固まったところでお餅の幅を詰めて四角く成形します。お餅と生地がくっついたらひっくり返し、お餅が膨らんできたらもう一回ひっくり返します。ソースではなく、かるく醤油をかければ完成です。ひき肉のジューシーな味わいと外側のモチモチした食感が組み合わされたのが「しゅうまい天」と呼ばれるようになった所以だそうです。もうひとつの名物が焼きそばです。染太郎の焼きそばはソースを垂らす前から麺が茶色になっています。麺を染めているので、店名が染太郎になったのだとか。
国際通りと交差する雷門一丁目交差点の角に宮本卯之助商店西浅草店があります。初代清助が文久元年(1861年)に土浦で山城屋という屋号で太鼓店を創業したのが始まりで、明治二十六年(1893年)に四代目卯之助が浅草聖天町に店を構えました。大正十五年(1926年)に大正天皇の大葬用楽器一式を製作し、その後宮内庁御用達となりました。現在の西浅草店は昭和二十三年(1948年)に開店しました。浅草神社御本社神輿(一之宮・二之宮・三之宮)は宮本卯之助商店が製作したものです。昭和六十三年(1988年)には、西浅草店の4階に世界初となる太鼓専門の博物館「太皷館」が開設されました。
国際通りを横断して雷門通りに入ります。
雷門通りの南側一帯の町名は「雷門一丁目・二丁目」です。かっては、北側一帯の「浅草一丁目・二丁目」と併せて「浅草雷門」よ呼ばれていました。
旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧浅草雷門
昭和九年(1934年)、浅草雷門はそれまであった浅草材木町、浅草並木町、浅草茶屋町など七カ町が合わさって一丁目ができ、浅草北仲町、浅草馬道町、浅草花川戸、浅草公園地など六力町が二丁目となり誕生した。この付近は浅草寺があったため早くから開け、すでに江戸時代初期には門前町として栄えていた。町名は、浅草寺の総門である「雷門」にちなんでつけられた。「雷門」の創建はたいへん古く、天慶五年(942年)といわれている。門の右側には風神像が、左側には雷神像が力強く立っている。この二神像があることから「風雷神門」といわれていたが、いつしか「雷門」と呼ばれるようになった。
「風の神 雷門に 居候」
と江戸の庶民は親しみをこめて川柳に歌った。
雷門広場には浅草寺の案内板が立っています。英語表記の案内文を最後まで読んだ外国人はまずいないでしょう。
聖観音宗総本山 金龍山 浅草寺(あさくさかんのん)
御本尊 聖観世音菩薩(御秘仏) 慈悲の仏さま 浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま
観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われ、ご加護なさってきました。観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。
*ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。
縁起(由来)
時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(628年)三月十八日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟は江戸(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。大化元年(645年)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794年〜864年、浅草寺中興開山・比叙山天台座主三世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔勝の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。
SENSO-JI (Asakusa kannon Temple)
History and Mission of Senso-ji
In 628, Japan's capital was at Asuka (present-day Nara Prefecture) and what would become Tokyo was still mostly uninhabited grasslands. Two fishermen, Hinokuma Hamanari and his brother Takenari, were on the Sumida River one day when they heard a command from the heavens to cast their net. When they brought the net up, they saw that they had caught a golden statue of Bodhisattva Kannon.
Hearing of this from the Hinokuma brothers, village headman Haji Nakatomo decided that he would become a devout believer in Bodhisattva Kannon. He took vows as a Buddhist priest, remade his home into a temple and spent the rest of his life practicing Buddhism. This episode marks the birth of Tokyo's oldest temple and the start of Senso-ji's history.
In 645, the renowned Buddhist priest Shokai visited Asakusa and built a hall for the worship of Bodhisattva Kannon; that makes him the actual founder of Senso-ji. After having a mysterious dream one night, Shokai decided that Bodhisattva Kannon should be hidden from human view, and it has remained so ever since. Word of blessings bestowed by Bodhisattva Kannon spread far and wide, and many people who had heard of this came to worship at Senso-ji from all over Japan. As a result, Asakusa flourished and grew into a large district.
In the mid-ninth century, Ennin (794-864), the highest-ranking priest of Enryaku-ji, the head temple of the Tendai School of Buddhism, visited Senso-ji, created a statue of Bodhisattva Kannon identical to the hidden one and called its spirit into the new statue. Senso-ji, thus further developed by Ennin, attracted devout faithful not only among commoners but also famous samurai and persons of culture. Designated a sacred site of prayer for the shogunate by shogun Tokugawa Ieyasu (1543-1616), founder of the Edo shogunate, Senso-ji reached a peak of prosperity.
Over the intervening centuries until today, Senso-ji has remained a center of culture and worship in Tokyo. It continues to be influential in people's lives, and with millions of people visiting it every year, it is one of Japan's most familiar temples.
Senso-ji and Asakusa are intimately linked. The two names are written using the same Chinese characters (浅草) but pronounced differently, "senso" being the Chinese pronunciation and "asakusa" the native Japanese pronunciation.
About Bodhisattva Kannon
Over the years, Buddhism, which originated in the fifth century BCE, diverged into two main branches: Hiinayaana (today called Theravaada), which holds that adherents should faithfully follow the teachings of founder Buddha Shakyamuni to reach enlightenment themselves, and Mahaayaana, which teaches that the faithful should not only seek their own enlightenment but also help the suffering. Mahaayaana Buddhism spread from India to China and Korea and eventually to Japan. In that process, according to various interpretations of the Buddha's teachings, various figures of worship emerged, such as Buddhas, who had already achieved enlightenment, Bodhisattvas, who were the people's saviors as they continued religious practice in order to attain enlightenment and become Buddhas, and so on. Believers in Buddhism gave these figures concrete forms, creating sculptures of them which they worshipped.
Bodhisattva Kannon is one among many Bodhisattvas, and since early times has been widely worshipped by Japanese in particular. Bodhisattva Kannon is also the most merciful of the Bodhisattvas, sent to relieve human misery on earth. Many Japanese believe that their hopes and pleas will reach this deity.
In particular, the Bodhisattva Kannon worshipped at Senso-ji has been an unparalleled source of benefits and miracles over the centuries, and has saved and protected countless people since its appearance in this world.
Faith in the Bodhisattva Kannon, which has supported Senso-ji and drawn many people to this temple, consists of opening one's heart and living by the merciful spirit of Bodhisattva Kannon and at the same time showing mercy to others in daily life. We hope that visitors to Senso-ji will join their hands in prayer, receive the merciful spirit of the Bodhisattva Kannon into their hearts and pray that they can bestow that mercy upon others.
深紅の山門に吊された大提灯は見所ポイントDの「雷門」の象徴です。浅草を訪れた観光客は、例外なく大提灯をバックにした写真に収まっている筈です。浅草寺の雷門は、慶応元年(1865年)に火災により焼失しましたが、松下電器の創業者である松下幸之助によって昭和三十五年(1960年)に再建されました。その後は、約10年ごとに大提灯の修復が行われてきました。現在の大提灯は、令和二年(2020年)4月17日に掛け替えられたものです。大提灯は約1年かけて造られ、高さ3.9メートル・重さ約700kgの大きさです。山門を護る雷神様の前に雷門の案内板が立っています。
雷門(風雷神門)
天慶五年(942年)、平公雅によって創建されたのが始まり。門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・ 五穀豊穣の守り神とされる。現在の門は、慶応元年(1865年)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和三十五年に松下幸之助氏のご寄進により復興された。浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。
Kaminarimon Gate
The Kaminarimon Gate ("thunder gate"), standing at the entrance to the processional road leading to Senso-ji, is Asakusa's most famous landmark. Inside the gate on either side are enormous wooden statues of the protective Buddhist deities Fujin (wind god) and Raijin (thunder god), from which the gate gets its name. The original gate was erected in 942 but burned down several timesover the centuries. The one standingtoday was built in 1960, donated by Japanese entrepreneur Konosuke Matsushita (1894-1989).
大提灯の先には仲見世通りが続いています。仲見世通りは浅草寺の参道です。仲見世通りには、雷門から宝蔵門までの約250mにわたって約90店舗があります。江戸時代前期に浅草寺の境内や参道の清掃の賦役が課せられていた地元住民に対して、参道での営業の特権が与えられたのが起源になっています。元禄年間から享保年間にかけて形成された日本で最も古い商店街のひとつとされています。江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、「二十軒茶屋」と呼ばれる20軒の水茶屋が並び、雷門寄りの店は平店(ひらみせ)と呼ばれて玩具・菓子・土産品などが売られていました。明治十八年(1885年)12月に赤煉瓦造りの建物が完成しましたが、大正十二年(1923年)の関東大震災で壊滅し、桃山風朱塗りで鉄筋コンクリート造りの建物は、大正十四年(1925年)に完成しました。第二次世界大戦で建物の内部は焼失しましたが、大正末期の外観は失われず復興され現在に至っています。
神谷バーはお酒を飲むだけのお店のように感じますが、2階はレストラン、3階は割烹となっているみたいです。恐らくは私には縁遠い高級店だと思いますが。ちなみに、神谷バーは日本最初のバーとして知られています。電気ブランが有名ですね。神谷バーは明治十三年(1880年)4月に神谷伝兵衛によって創業されました。当初は酒店で、濁り酒を売っていました。現在の電気ブランの元になった速成ブランデーが製造・販売されたのは明治十五年(1882年)のことです。明治四十五年(1912年)になって、店舗内部を西洋風にして屋号を「神谷バー」と改めました。電気がめずらしい明治の頃、目新しいものが「電気○○○」などと呼ばれて舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていましたので、神谷バーで考案されたブランデーをベースに、そのほかジン・ワイン・キュラソー・薬草などをブレンドしたカクテルに電気ブランという名前が付けられました。電気ブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール度数が45度もありましたが、それがまた電気とイメージが重なって、この名がぴったりだったみたいです。
ゴール地点の水上バス浅草発着場に到着しました。
水上バス浅草発着場から隅田川を隔てて、東京スカイツリーの全景が眺められます。両脇の建物は、墨田区役所とアサヒビールタワーです。アサヒビールタワーの隣にはスーパードライホールが建っています。スーパードライホールは、吾妻橋の袂にあった旧吾妻橋工場跡地の再開発で建設され、昭和六十四年/平成元年(1989年)に竣工しました。屋上には名物となっている巨大モニュメントが設置されています。燃え盛る炎を形象した「フラムドール(フランス語で金の炎の意味)」と呼ばれるもので、アサヒビールの燃える心を象徴するとされています。オブジェが炎を表すのに対して、その下のスーパードライホールは聖火台をイメージしたものだといわれています。当初の構想では、炎がビルを貫くような形に建てるつもりだったそうですが、構造上問題があり、炎の部分が横向きになったということです(あくまで噂です)。その特徴的な形状から、「うんこビル」・「うんちビル」の愛称でも呼ばれています。
ということで、台東区で十二番目の「Lコース(上野・浅草コース)」を歩き終えました。次は台東区で十三番目の「Mコース(1万歩コース)」を歩きます。
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