- Mコース(1万歩コース)
歩行距離:7、0km、歩行時間:105分、消費カロリー:315kcal、歩数:10、000歩
コース 踏破記
今日は台東区の「Mコース(1万歩コース)」を歩きます。下谷神社をスタート地点として、浅草橋の寺社を巡り、墨田川テラスと旧安田庭園を散策します。
スタート地点:下谷神社
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- @斎藤茂吉歌碑
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- A環境ふれあい館ひまわり
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- B鳥越神社
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- C蓬莱園跡の大銀杏
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- D浅草見附跡
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- E銀杏岡八幡神社
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- F須賀神社
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- G榊神社
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- H篠塚稲荷神社
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- I柳橋
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- Jなまこ壁
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- K首尾の松
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- L両国国技館
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ゴール地点:両国駅
スタート地点の下谷神社から歩き始めます。浅草通りに面して、下谷神社の深紅の大鳥居が建っています。大鳥居の扁額は東郷平八郎の筆によるものです。下谷神社は、元々は現在の上野公園にあたる地に鎮座していました。古くは下谷稲荷社とか下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古の稲荷神社で、東京メトロ銀座線の稲荷町駅に名を残す旧町名の稲荷町はこの神社の旧称が町名の由来となっています。下谷神社は、天平二年(730年)に峡田の稲置らが建立したとも、行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられています。天慶二年(939年)に平将門による天慶の乱追討祈願のため、藤原秀郷が社殿を新造したといわれています。寛永年間になり、境内が寛永寺山内となったため、寛永四年(1627年)に下谷屏風坂下に移転しました。明治五年(1872年)に下谷神社と改称し、翌年下谷地域の郷社と定められました。関東大震災で社殿を焼失し、昭和三年(1928年)に現在地に移転しました。現在の社殿は昭和九年(1934年)に完成しました。下谷神社の大祭は「江戸の祭りは下谷から」と言われるように下町で最も早い夏祭りで、隔年に行なわれる例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅4尺1寸の千貫神輿といわれ、大きな威容を誇っています。担手だけで7000人以上が集まり、境内の周囲には150もの露天商が軒を並べます。
SHITAYA SHRINE
Here, deities for business prosperity, and harmony and happiness in marriage are enshrined.
寛政十年(1798年)6月、初代・山生亭可楽によって下谷稲荷社の境内で初めて五日間の寄席興行が開かれました。これが江戸における最初の寄席興行といわれています。落語自体はもっと前から存在しましたが、それ以前の落語は身分の高い人の前で一対一で話をしていました。寄席の定義は、一般の人を対象にして木戸銭をとって落語を聞かせることです。馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎という人が山生亭花楽と名乗り、「風流浮世おとし噺」の看板を掲げて下谷稲荷社の境内の賭け小屋で一般の人を対象に木戸銭を取って落語を聞かせました。これが江戸における最初の寄席興行といわれており、寛政の後の文化・文政の時代には百数十軒にも増加したと伝えられています。山生亭花楽の名前の由来は「山椒は小粒でピリリと辛い」をかけて付けられたそうです。山生亭花楽は後に三笑亭可楽と名前を変え現在は9代目となっています。寄席発祥二百年を記念して、平成十年(1998年)に都内四つの亭席・落語協会・落語芸術協会を始め、落語関係者の協力により境内に「寄席発祥之地」の記念碑が建てられ、同年4月10日に落語関係者二百名参列の下で除幕式が執り行われました。記念碑の隣には、正岡子規の句を記した石碑が建っています。正岡子規は明治二十七年(1894年)から35歳で没するまで台東区根岸に8年間住み、ここで友人や門弟達と句会などを開催して俳句を詠みました。正岡子規の没後100年となる平成十三年(2001年)の前後、台東区では正岡子規没後百周年記念事業として様々な企画や催しが行われました。この記念事業の一環として、台東区俳句人連盟が中心となり、子規が台東区内で詠んだ約2000句の中から十句ほどが選び出され、句碑が台東区内の子規所縁の場所に合計11基が建立されました。その中のひとつである下谷神社境内の句碑には、江戸で始めて寄席が催された「寄席発祥之地」をちなんだ句「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」が刻まれています。
寄席発祥之地
寛政十年(1798年)六月、下谷稲荷社境内に於て咄の会が初めて有料で催され、これが江戸の寄席の発祥と伝えられる。二百周年に当たり之建。
下谷神社の脇から春日通りまで南下します。春日通りに面したつくばエクスプレス線の新御徒町駅に隣接して、梟マークの佐竹商店街のアーケードが南北に延びています。秋田久保田藩主佐竹右京太夫の江戸屋敷には、上屋敷・中屋敷・下屋敷の他、お囲地などがありました。このうち、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあり、そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」がありました。しかし天和二年(1682年)十二月二十八日の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失してしまいました。こんなこともあってか、翌天和三年(1683年)に現在の台東区の地に移転してきました。移転後の屋敷内には「日知館」という江戸藩校も設けられていて、山本北山・大窪詩仏などの有名な師を招いて子弟の教育に当たらせました。幕末期の安政二年(1855年)には、ここに居住する人員は百三十六名に及んだと記録されています。江戸屋敷の役割は、各藩とも藩主の常住地ともいうべき場所で、特に藩主夫人は徳川幕府の人質のような形で居住を強制され、国元には専ら第二夫人がいて、これをお国御前と呼んでいました。各藩の江戸屋敷は幕府の監視の元にありながらも、それぞれ国元の城よりも江戸屋敷を大切にしたといわれています。参勤交代の制度は江戸中期の頃から乱れがちとなり、各藩の経済的困窮から経費節約の意味からも藩主はほとんど江戸に常住するようになりました。そして江戸屋敷を母体として、種々の政治折衝や各界との交際、情報の交換・収集などを行なって藩の運営の糧とし、それと共に新しい文化の吸収に努めたといわれています。なので各藩ともより抜きの有能な士を江戸家老留守居用人として江戸屋敷詰めにしました。秋田の久保田城(現、秋田市内)から江戸までの道のりは百四十三里(536キロメートル)あり、当時は一日九里(36キロメートル)前後を歩いたといますから、普通で十六日、早くて十二日半の日数を要し、飛脚でも六〜七日かかったといいます。各藩にとって江戸屋敷は重要な政治的・文化的拠点であり、自国の一部がそこに存在していたのも同然だったのです。なので佐竹藩も広大な敷地に当時としてはまったく希有な三階建ての豪壮華麗な建物を設け、他に誇ったのでしょう。屋敷の西側には大番与力同心の組屋敷があり、そこにあった総門を竹門と呼んでいて、ここから「竹町」の町名が生まれたといわれています。明治維新の後、廃藩置県が実施され秋田藩そのものが消失します。当然その上屋敷も任務を失いました。明治二年(1869年)には火災により建物はすべて焼失してしまい、屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り、佐竹っ原といわれるに至りました。明治五年(1872年)には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともありました。その頃は戸数六十八戸・住民数二百六十八名で、周辺に比べ最も閑静な場所でした。しかし、明治十七年(1884年)頃から民間に貸し下げられ、次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、竹町の街・佐竹商店街が形成されたのです。年を経るごとに盛り場娯楽街として充実発展していきました。かっぽれ・吹き矢・デロレンなど、葦簀張りの小屋掛けが出来、借り馬・打球場・大弓などの大道商売も始まり、それにつれて飲食店・粟餅の曲搗き・しるこ屋・煮込み・おでん・大福餅売りなどが縁日の露店のような形で店を出し、寄席・見せ物小屋が並ぶようになりました。六三亭・久本亭・浜村亭・天理亭・寿亭・開成亭などがその主なものでした。さらに、祭文定席・玉ころがし・射的・大弓場などもでき、義太夫・講談・落語・祭文語りが聞け、茹小豆を売る店などが並びます。そして日暮れ時ともなれば、浅草向柳原に住む露店商などが街路にところ狭しと出店を張り、また一歩路地に入れば紅灯の下で客引く声も艶かしく、亀屋・竹内などの料亭を始め、第二富士館という活動写真館もできて一段と賑やかさを増し、一大歓楽境となっていきました。近郷近在は無論のこと、遠方からも人々が集まり、夜の更けるのも忘れてしまうほど賑いを極めました。大正初期には戸数三千八百十三戸・人口一万二千三十四名にまで膨張し、下町佐竹の名は東京中に響きわたり、明治から大正時代にかけての黄金時代を築き上げていったのです。大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で佐竹全域ことごとく灰燼に帰し、一面の焼け野が原と化してしまいました。しかし罹災直後から全店主が一丸となって復興にあたり、街を取り巻いていた堀(藩邸時代の名残り)も埋め立てられ、区画整理・道路拡張なども進み、以前にも増して近代的な商店街として再生し、芝日陰町・京橋八丁堀と共に下町三大商店街の一つに数えられるほどの賑わいを取り戻すことができました。昭和十六年(1941年)、太平洋戦争の開戦と共に世の中は軍事一色に塗り潰され、佐竹商店街は火の消えたような有様になりました。昭和十九年(1944年)十二月三十一日の夜と翌二十年(1945年)二月二十五日の昼下がりの二度にわたって空襲を受け、商店街の半分近くが焼失してしまいました。終戦となり、直ちに復興に着手し、翌昭和二十一年(1946年)には早くも佐竹商店街組合を結成し、不死鳥のごとく往時の賑やかさを取り戻しました。昭和二十八年(1953年)に竹町公園で行われた商店街主催の盆踊り大会は盛大に行われ、特設舞台での演芸には初代の林家三平師匠も出演しました。昭和三十九年(1964年)の新住居表示採用に伴い、町名としての「竹町」は消え、台東町と変わりましたが、佐竹の名は町会名及び商店街として残っています。昭和四十四年(1969年)には商店街全店が悲願としていた全蓋アーケードが完成し、同五十二年(1977年)にはカラー舗装を施工しました。当時の特売セール(ゲバゲバモーレツセール)の夜七時から行われたタイムサービスには買い物客が溢れ、近所のお風呂屋さんの女湯が空になったと言われました。昭和五十二年(1977年)五月にテレビ朝日の人気番組「電線音頭」の録画撮り、平成十一年(1999年)三月二十八日午後七時から日本テレビの「商店街ドミノ倒し」全国生中継が行なわれました。最近では商店街が、映画(デスノート・クロサギ・二十世紀少年)、テレビドラマ(税務調査官窓際太郎の事件簿・時効警察・婚カツ!・コールセンターの恋人・産婦人科ギネ)、CM(チオビタドリンク・オロナミンC・風邪薬カコナール・NEWクレラップ)などの撮影に数多く利用されています。
三筋二丁目交差点角に、「川柳発祥の地」の石碑が建っています。この碑は、初代柄井川柳評万句合の第1回開催から250年目に当たる2007年8月25日に、初代川柳が居住した浅草新堀端龍寶寺門前の場所に、川柳学会を中心とする実行委員会によって建立されました。川柳は五七五の十七文字の定型で成り立つ短詩です。口語が主体で、季語や“や・かな・けり”などのいわゆる“切れ字”の制限はありません。川柳を詠む対象は、社会諷刺や人間模様などが多く、俳句と趣を異にしています。元々は、七七の題(前句)に五七五の句を付ける遊びの「前句付」から七七を省略し、五七五として独立したとされ、江戸時代に柄井川柳が選んだ句から呉陵軒可有という人物が「誹風柳多留」にまとめて刊行したことにより盛んになりました。このことから「川柳」という名前で呼ばれるようになりました。
川柳発祥の地
宝暦七年(1757年)8月25日、当地(旧浅草新堀端天台宗龍宝寺前)里正柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初めて万句合を開巻す。爾来文運旺んに、逐には文芸の名をもって呼ばれ、今日に至る川柳隆盛の礎を開く。本年その250年に当たって後学相諮り、一碑を建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史に留めんと祈念するものなり。
斎藤茂吉は、明治二十九年(1896年)8月に14歳で上京し、浅草区東三筋町斎藤紀一方に寄寓しました。長崎医専の教授をしていた時に三筋町を懐かしんで詠んだ歌の碑が三筋保育園の中庭にあります。見所ポイント@の「斎藤茂吉歌碑」は昭和五十年(1975年)12月に建立されました。
「浅草の三筋町なる おもひでもうたかたの如や 過ぎゆく光の如や 茂吉」
斎藤茂吉の歌碑
浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの
如や過ぎゆく光の如や 茂吉
茂吉は、明治・大正・昭和にわたり、日本近代文学史上に偉大なる足跡を残したアララギ派の歌人で、医学者でもあった。山形県に生れ、明治二十九年、十五(四?)歳のときに上京、浅草区東三筋町五十四番地、養父斉藤紀一方に寄寓し、開成中学・一高・東京大学医学部を経て、長崎医学専門学校教授となり、更に文部省在外研究員として欧州に研鑚し、その後、青山脳病院長となり、作家の傍ら、研究・評論・随筆など独自の業績をあげ、その著「柿本人麻(麿?)」にて学士院賞を、次いで昭和二十六年文化勲章を授与され、昭和二十八年二月二十五日、七十年九か月の生涯を終えた。因みにこの三筋町は、茂吉が、第二の故郷として、夢多き少年時代を過し、生涯懐しんだところで、短歌は、長崎在住のときに当時を回想し、詠んだものである。
Mokichi Saito Monument
My time in Misujimachi in Asakusa was like a dream
Passing too quickly, like a beam of light.
Mokichi Saito was a famed psychiatrist and Araragi school poet active in the late
19th century and the first half of the 20th century. Mokichi is known for having
left a major mark on modern Japanese literature. Mokichi was born in Yamagata Prefecture, and moved to Tokyo in 1894 at the age of 15 (14?), where he stayed with his adoptive father Kiichi Saito at 54 Misujimachi in what was then Asakusa Ward. He attended the Kaisei Academy for middle school and high school before studying at the Medical School of the Tokyo Imperial University. He became a professor at the former Nagasaki Medical School, and then studied in Europe as an overseas researcher for the Ministry of Education. He later became head of Aoyama Psychiatric Hospital, and achieved much success in research, criticism, and commentary in addition to his work as a poet. He was presented with an award by the Japan Academy for a piece he wrote about the famed poet Kakinomoto no Hitomaro, and was presented with the Order of Culture in 1951. Mokichi Saito passed away at the age of 70 years and nine months on the 25th of February 1953. Mokichi looked at Misujimachi as his home away from home. It was where he spent much of his youth, a time when his heart was full of dreams for the future. He also spent much of his career reminiscing about his time here, as is evidenced by the poem after, which Mokichi wrote during his time in Nagasaki.
蔵前四丁目の南西角で左折しますと、国際通りの手前に蔵前小学校があります。蔵前小学校は、平成十五年4月1日に、精華小学校・小島小学校・済美小学校の三校が統合されて開校しました。明治七年から明治九年まで文豪夏目漱石が在学していました。オフィスビルのような外観をしていて、随分と近代的な校舎ですね。
「漱石 学び始めの碑」と久保田万太郎揮毫の「精華 精華 われらの精華」の石碑、それに「精華小学校 沿革史」の碑が玉砂利の中に置かれています。
精華小学校 沿革史
明治七年12月7日 浅草区寿町七番地に創立
第五番中学区 第八番小学戸田学校と称した
夏目漱石入学 明治九年まで在学
明治二十一年 北富坂町二十九番地(現在の位置)に校舎新築
校名を「精華」と改称する
明治二十二年4月20日 改称落成開校式を行う これにちなんで
開校記念日は四月二十日とされている
昭和二十九年4月 創立八十周年記念式典を挙行
記念事業として校歌 校旗の制定
(久保田万太郎作詞 古関裕而作曲)
昭和四十九年2月 創立百周年記念式典を挙行
昭和五十七年8月 新校舎完成 (現在の蔵前小学校の校舎)
平成十五年3月31日 精華小学校閉校(卒業生総数 13、937名)
平成十五年4月1日 精華小学校・小島小学校・済美小学校の
三校統合により蔵前小学校開校
精華公園は、台東区内に15か所ある復興小公園のうちのひとつです。道路を挟み、蔵前小学校(旧精華小学校)に隣接しています。複合遊具やブランコ・鉄棒などの遊具が設置されていて、区立公園のなかで一番大きな砂場があります。また、環境に配慮して、自然観察のできるビオト−プや屋根を緑化したトイレが設置されています。一時集合場所に指定されていて、非常用照明やマンホールトイレ・かまどベンチなどの防災設備が整備されています。開設当初に設置された施設は現在残されていませんが、公園の形状は当時のままであり、砂場やトイレなど当時と同等の機能を有する施設があります。ぶら下がり棒も設置されていますね。
蔵前小学校の北東角を右折した先に、見所ポイントAの「環境ふれあい館ひまわり」があります。環境ふれあい館ひまわりは、様々な環境問題やエコ・リサイクルについての情報の提供や体験を通して環境やリサイクルへの理解を深め、子どもから大人まで広く環境学習の場を提供しています。草花・昆虫・メダカなど、様々な生物が生息するビオトープのある精華公園の前にあり、自然環境学習の提供やリサイクル活動、環境に関する情報提供などを行っています。ひまわりの妖精をイメージしたキャラクターの「まわるん」には、環境を守り育くむ願いと循環型社会の実現の思いが込められています。2階はリサイクル活動室、3階はリサイクルショップで、掲示板による物の授受や交換・販売などが行われています。4階は環境学習室展示室、5階の環境情報室・ふれあいサロンは、環境に関する学習や情報の展示のスペースとなっています。6階のくらまえオレンジ図書館は環境に関する本の貸出、7階の集会室ではイベントなどを開催しています。学校・地域・職場など様々な場面でそれぞれが主体的に環境学習に取り組めるよう、情報の提供や人材育成、交流支援を行っています。エントランスの前には、リサイクルの廃品で作られた自転車のオブジェが展示されています。
松平西福寺は、天正二年に徳川家康によって開基されました。永禄三年、徳川家康が今川義元の人質になっていた十九歳の時、織田信長の急襲により義元は桶狭間の戦いで討ち取られ、家康も菩提寺の大樹寺に逃れ、時はこれまでと先祖の墓前にて切腹しょうとしました。しかし、大樹寺の住持登誉上人と了伝和尚に戒められ、自害を思いとどまったと言われています。以降、了伝和尚は家康に付き、家康は天正二年に静岡市に了伝和尚の為に一寺を建立し、西福寺と号して上人を迎えました。当時の西福寺は、三百石の石高を受け、住職は大名待遇を成されていたと言われています。後に家康の命を受け、慶長十三年に二代将軍秀忠が江戸駿河台に松平西福寺を創建し、次いで寛永十五年に現在の地に移りました。当時は境内地が約七千坪有り、西福寺の末寺として七ケ寺の別院と別寺があると共に、学寮(僧侶を育成する為の学問所)などもありました。大正年間に入り東京市都市計画により境内が狭くなり、また関東大震災と第二次世界大戦と二度の災禍に見舞われ、本堂や庫裡など悉く焼失しましたが、平成四年に新本堂が建立され現在に至っています。
SAIFUKUJI TEMPLE
The tomb of Shunsho Katsukawa, one of the great artists who established the golden age of Edo Ukiyoe, is in this temple.
明治初期、松平西福寺の境内には育英小学校の前身である公立小学校が置かれました。
育英小学校発祥の地
明治二年(1869年)三月、明治新政府は幕府・藩による政治体制にかわる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進をはかるため、小学校の設置を定め、明治三年三月、東京に六つの小学校を設立した。その一つが、本寺境内に設立された「仮小学 第四校」で、現在の育英小学校の前身である。開校日は同年六月二十三日で、現蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋附近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学したといわれる。したがって、当地は、同五年八月の学制発布に先だつ、東京で最も早い公立小学校発祥の地である。当校は、同七年(1874年)四月中旬に医学館跡地(現浅草橋四丁目十七番附近)へ移転、明治十年八月、育英小学校と改称し、同十八年十月に現在地(浅草橋二丁目二十六番八号)に移った。
BIRTHPLACE OF IKUEI PRIMARY SCHOOL
In March of 1869 the Japanese government started revolutionizing the Japanese education system. In the following March it opened 6 primary schools in Tokyo. One of them was opened here in the precincts of Saifukuji temple and called the 4th school. This is the birthplace of one of the earliest public primary schools in Tokyo.
The 4th school existed here until the middle of April in 1874. In August in 1877 it was renamed Ikuei primary school and in October 1885 this school was moved to the present site (8-26, 2-chome, Asakusabashi).
松平西福寺には、江戸時代に浮世絵師として活躍した勝川春章のお墓があります。
東京都指定旧跡 勝川春章墓
勝川春章(1726年〜1792年)は江戸時代中期の浮世絵師で勝川派の祖です。姓は藤原、諱は正輝。縦画生、旭朗井、李林などとも号します。無名時代に奇寓していた人形町の地本問屋林家七右衛門方の壺形の仕切判を画印とし、「壷屋」「壺春章」と称されます。画風は個性的描写とは異なり、写実的な役者絵などを描きます。寛政四年六十七歳で没します。勝川派は、門下にも春英や、春好、後に葛飾北斎となる春朗など俊英を輩出し、明和から寛政期の役者絵を独占します。
Historic Places
Katsukawa Shunsho Haka
(The Grave of Katsukawa Shunsho)
Provisionally designated in 1925, Designated in 1955 Katsukawa Shunsho (1726-1792) is a painter of Ukiyoe in the middle of the Edo period, and the founder of Katsukawa School. His real name is Fujiwara Masaki. Katsukawa Shunsho is his pseudonym. He also used Jugasei, Kyokuroi, Ririn and so on as pseudonym. Moreover, he was called "Tsuboya" or "Tsubo Shunsho" from the shape of his signature seal. Before becoming famous he stayed at Jihon Toiya (publishier of Ukiyoe), Hayashiya Shichiemon, and used the publisher's seal as his signature which had the shape of Tsubo (jar). He mainly painted actors realistically. He died at 67 years old in 1792. Katsukawa School produced the excellent disciples, such as Shun-ei, Shunko and Shunro (later Katsuhika Hokusai), and monopedized Yakushae (print of actor) from the Meiwa period to the Kansei perid.
蔵前通りに出て右折した先に見所ポイントBの「鳥越神社」があります。蔵前橋通りを挟んだこの辺りの町名は、かって鳥越神社に因んで「浅草鳥越二丁目」と呼ばれていました。
旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草鳥越二丁目
本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代後期の頃(1185年)まで白鳥村と言われていた。日本武尊が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雉二年(651年)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀った。その後、永承(1046年〜1053年)の頃、源義家親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとする時、白い鳥に浅瀬を教えられ無事渡ることができた。義家公はこれ白鳥大明神のご加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。
「鳥越夜祭り」
六月九日に近い日曜日に鳥越神社の「千貫御神輿」が氏子によって町内を練り歩く。なかでも見ものは宵の宮入である。火入れ式のあと氏子衆によってかかげられた百数十の高張提灯と担ぎ手の熱気によって祭は最高潮に達する。
江戸時代まではこの地に三社の神社があり、一帯の約2万坪もの広大な敷地を所領していました。元和六年(1620年)、江戸幕府が全国の天領からの米を収蔵するために隅田川沿いに蔵(浅草御蔵)を造営することになり、その埋め立て用に大明神のある鳥越山を切り崩すことになり、敷地の一部を没収されてしいました。さらに、大明神の北側にあった姫ヶ池も鳥越山からの客土で埋め立てられ、大名屋敷などの御用地とされました。三社のうち熱田神社は今戸へ、第六天榊神社は森田町(現在の蔵前三丁目)に遷され、残った大明神が現在の鳥越神社になりました。
鳥越神社
当神社は、白雉二年(651年)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1046年〜1052年)、奥州の安倍貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義、義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名付けた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前四丁目十六番付近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。例大祭は、毎年六月九日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑い、また正月八日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。
TORIKOE SHRINE
The Torikoe Shrine, founded in about 651, is an establishment dedicated to
Yamato-takeru-no-mikoto. Amanokoyano-no-mikoto and Tokugawa leyasu. Its festival is held on the Sunday near June 9, and the passage of a gigantic portable shrine, which is called a 1,000-kan (quite heavy) portable shrine, attracts many people as the Night Festival of Torikoe. The Tondo-yaki held on January 8 is an event in which New Year decorations, the preceding year's charms, etc. are gathered and burned in the compounds of the shrine.
蔵前橋通りを右折して左衛門橋通りを南下します。「左衛門橋」は神田川に架かる橋ですが、江戸時代にはこの橋はまだありませんでした。この橋の北詰には、1598年から明治維新まで、出羽鶴岡藩(庄内藩)の大名であった酒井左衛門尉の下屋敷があり、近辺の河岸地は殿様にちなんだ「左衛門河岸」の名が定着していました。明治に入って橋を架けることになった際にこの河岸地の名前に倣うかたちで左衛門橋と名付けられたようです。この左衛門橋北詰から金美館通りの入谷一丁目交差点までの道路を左衛門橋通りと呼びます。
左衛門橋通りの右手に忍岡(しのぶがおか)高校があります。忍岡高校の前身の旧都立忍岡高等学校は明治三十六年(1903年)に創立された私立日本女子美術学校で、のちに東京市立第一女子技芸学校、東京市立第一実科高等女学校と経て、昭和四年(1929年)に東京市立忍岡高等女学校と改称しました。戦後は普通科を持つ都立忍岡高等学校となりました。もう一つの前身校にあたる旧都立上野忍岡高等学校は、東京市立忍岡高女内に帝都家政女学校として設立され、その後、東京市立上野忍岡女子商業学校と改称し、戦後は商業科と家庭科のふたつの課程を併せ持つ都立上野忍岡高等学校となりました。平成十八年(2006年)、旧上野忍岡高校の教育課程も引継ぐ形で、普通科及び生活科学科(家庭に関する学科)を併せ持つ現在の都立忍岡高等学校として開校しました。普通科は文系列・理系列・総合系列に分かれ現役大学進学を目指し、生活科学科は食物系や服装系・福祉系などのスペシャリスト育成を目標として専門科目を中心に学んでいます。このような由来から芸術教育が盛んであるという特徴を持ち、学校独自の教科として、「日本舞踊」・「バレエ」・「華道」・「和太鼓」・「演劇」などがあります。忍岡高校は、六義園・小石川後楽園などと並んで「江戸時代に造営された代表的な大名庭園のひとつ」と謳われ、明治時代から大正時代にかけて多くの人々から親しまれた蓬莱園の跡地にあります。蓬莱園は肥前平戸藩松浦家上屋敷内にあった名園で、小堀遠州が造園しました。関東大震災で甚大な被害を受けて荒廃し、その後はかつての趣を取り戻すことはありませんでした。今でも、校内には旧蓬莱園の一部として、見所ポイントCの「蓬莱園跡の大銀杏」や「望潮の入江」が残っています。
旧町名由来案内板にも、忍岡高校と蓬莱園の関わりが解説されています。
旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草向柳原町
この地域は江戸時代から大名・旗本・御家人の住む武家屋敷地であった。明治政府は新しい時代のまちづくりをするため武家屋敷地を一般住民の住む町へと変えていつた。柳原町はこのような時代背景をもつ明治五年(1872年)に誕生した。町名は、神田川の南側(現千代田区)にあった柳原がもとになっている。神田の柳原に対することから向柳原町となった。そして柳原の由来は、現在の万世橋から柳橋にかけての神田川南岸沿に柳が数多く植えられていたことにちなんでいる。肥前平戸藩主松浦邸内には「蓬莱園」と呼ぶ廻遊式の庭園があった。寛永九年(1632年)に松浦隆信が幕府からこの地を別邸として与えられたとき、庭園づくりの名人といわれた小堀遠州に造らせたものである。惜しくも関東大震災のため大部分が失われてしまったが今も都立忍岡高校敷地内に銀杏の巨木と小さな池が当時の名残りをとどめている。
忍岡高校と柳北スポーツプラザ(旧柳北小学校)に挟まれて柳北公園があります。柳北公園も台東区内に15か所ある復興小公園のひとつとして「蓬莱園」跡に造られました。その歴史から、チャンチン・タラヨウ・イチョウ・スズカケノキ・クスノキ・こぶしなど、たくさんの種類の樹木が植えられ、育っています。園内には、大きな船の形をしたアスレチックやすべり台の複合遊具があります。
園内に旧柳北小学校の記念碑が建っています。柳北小学校は、大正十二年(1923年)の関東大震災後に建てられた鉄筋コンクリート製の復興小学校のひとつです。東京市内では比較的早い大正十五年(1926年)の秋に竣工しました。同時期に復興計画で計画された柳北公園も開設しています。校舎は当時としてはモダンな建築様式であり、玄関にはアールデコ風の装飾がなされています。平成十三年(2001年)に隣接する育英小学校と合併し、明治九年から100年以上続いた柳北小の歴史はこの年に幕を閉じました。しかし、大正時代末に建てられた柳北小の校舎は壊されず、平成十五年(2003年)からフランス人子女が通う「東京リセ・フランコ・ジャポネ東京校」の中等科・高等科の校舎として再び利用されています。
柳北小学校の碑
百二十四年の歩み
明治九年 第五中学区第十四番公立小学柳北女学校として設立
明治二十年 柳北女子尋常高等小学校と改称
明治四十一年 柳北尋常小学校と改称
大正十五年 現在地に鉄筋コンクリート三階建校舎が竣工
昭和十六年 東京府東京市柳北国民学校と改称
昭和十八年 東京都柳北国民学校と改称
昭和二十二年 東京都台東区立柳北小学校上改称
昭和五十一年 創立百周年記念式典挙行、常陸宮殿下、同妃殿下御臨席
平成十三年 統合新校設立のため閉校
東京都台東区浅草橋5−1−35 ここに「柳北小学校の碑」を設置する。
園の入口脇に、「蓬莱園跡」の石碑と案内板が建っています。
蓬莱園跡
現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北小学校のある一帯に、江戸時代、肥前国(現、佐賀県、長崎県の一部)平戸藩主松浦氏の屋敷があった。寛永九年(1632年)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、別邸を造営し、庭園を築造した。庭園はのち蓬莱園と命名された。明治四十年(1907年)刊行の「東京案内」には「文化文政の頃の築造に係り、東都名園中現存するものの一也」と記されている。園内の模様は大正三年(1914年)刊行の「浅草区誌」に詳しい。同書によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、十三基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約二千六百坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていた。この名園も、関東大震災のため荒廃し、消滅した。現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけである。
REMAINS OF HORAIEN
Here stood the residence of the Matsura family and a huge garden called Horaien. The Matsuras were feudal lords of the Hirado Clan (part of Saga and Nagasaki prefectures). Horaien was a beautiful Japanese garden, the area of which was about 8580 square meter. It had a big pond in the centre and the pond was surrounded with hillocks, an arbour, and about thirteen stone lanterns. This beautiful garden was destroyed in the Great Kanto Earthquake of 1923. A part of the pond and a tall gingko tree
(a cosmopolitan natural monument) still exist in the northeastern corner of the playground of the Shinobugaoka High School.
神田川に架かる左衛門橋を渡ります。
神田川の北側一帯は、かって浅草上平右衛門町・浅草左衛門町と呼ばれていました。
旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草上平右衛門町、浅草左衛門町
浅草上平右衛門町を開いたのは、平右衛門という人物である。天正十八年(1590年)家康の江戸入国に従い江戸へ入り、元和二年(1616年)、家康が浅草寺へ参詣した際、この地に町家を開くことを命じられた。町名は、平右衛門が住んでいる土地ということで付され、この地の名主になった。当初、町名には上下の区別は無く「浅草平右衛門町」であったが、俗に浅草御門(現浅草橋南詰にあった)より東側を下平右衛門、西側を上平右衛門と称していた。明治五年(1872年)になり正式に上下二町にわかれた。昭和九年(1934年)、上平右衛門町は二分され、東側を浅草橋一丁目とした。残った西側部分も昭和三十九年(1964年)の住居表示制度の実施で、浅草橋一丁目となった(左図町名遍歴表参照)。一方、浅草左衛門町が起立したのは、明治二十三年(1890年)である。この地には、慶長三年(1598年)以来、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉邸(明治元年現在で十二万石、領主酒井忠宝)があったが、明治元年(1868年)に収公され、同五年に町屋が開かれた。当初、平右衛門町の隣にあったことから、新平右衛門町と称していた。後に、神田川に望むこの地を俗に左衛門河岸と呼んでいたのをとって町名となった。
神田川沿いに東に進みますと、浅草橋の南詰に「郡代屋敷跡」の案内板が立っています。
郡代屋敷跡
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。関東郡代は、天正十八年(1590年)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642年)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688年〜1704年)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政四年(1792年)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(1806年)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
浅草橋の橋名は、江戸時代に築かれた浅草御門に由来します。
旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草橋
浅草橋という町は昭和九年(1934年)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636年)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。
浅草橋を渡った北詰に小さな公園があり、植栽の中に見所ポイントDの「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附は、江戸時代に36ヵ所あった江戸城の警備施設である見附門のひとつです。外様大名や不審者を取り締まる際に使われ、浅草観音へ向かう通り道であったことから「浅草御門」と呼ばれたこともありました。石碑の裏面に説明文が記されていますが、殆ど読みとれません。【碑文はネットからの転載になります】
浅草見附跡
浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永十三年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで、昭和九年6月1日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生れた。
見所ポイントEの「銀杏岡八幡神社」の別当寺だった覚吽院の住職を務めた行智は、伝承されていた子守歌やわらべ歌を江戸時代に集大成し、童謡集として刊行しました。
子守唄と銀杏岡八幡神社
江戸時代に伝わった我が国の子守唄やわらべ歌を集成し、高く評価されている「童謡集」は釈行智(しゃくぎょうち)の著によるものです。行智(1778年〜1841年)は、銀杏岡八幡神社の氏子一同により享和三年(1803年)別当寺として勧請された覚院(かくうんいん)にて阿光坊と称して修験僧となり、後に住職になるなど台東区にゆかりがあります。行智は、採録した子守唄を「寝させ唄」「目覚め唄」「遊ばせ唄」など細かく分類し、子供の暮らしの背景がよく解るように書き残すなどして、その伝承に努めました。
銀杏岡八幡神社の由緒書が掲示されています。
銀杏岡八幡神社畧由緒
御由緒 後冷泉天皇の御代
源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌(みぎり)当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の場所であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遙かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち、安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時、丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神思に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平五年(1062年)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする丹や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和四年(1618年)この地は福井藩松平家の屋敷となり、郎内社として尊崇されてまいりましたが、享保十年(1725年)この地が公収され屋敷の跡地は町屋となり、同十五年、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され、願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享二年(1745年)九月十四日台風のため中程より折れましたが、高さ六メートル位を残して繁茂しておりましたが、文化三年(1806年)江戸大火の折焼失しました。御祭礼は、江戸時代八月十五日に執り行われていましたが、明治の中頃より六月十五日にかわり、現在は原則として六月第一土曜、日曜日に執り行っています。
見所ポイントFの「須賀神社」は、推古天皇九年(600年)に創建されたといわれています。江戸時代には、「牛頭天王社」・「祇園社」・「蔵前天王社」・「団子天王社」など様々な名称で呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に「須賀神社」と称することになりました。「団子天王社」の名前の由来は、団子を奉納する祭礼があったことによります。江戸時代に須賀神社の周辺には札差が軒を連ねていて、氏子にも多数の札差がいました。そのため、須賀神社への金品の寄進が多く、祭礼は大いに賑わったといわれています。「札差(ふださし)」とは、江戸時代に幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介を業とした人達です。浅草の蔵前に店を出し、米の受け取り・運搬・売却による手数料を取る他、蔵米を担保に高利貸しを行って大きな利益を得ていました。札差の「札」とは米の支給手形のことで、蔵米が支給される際にそれを竹串に挟んで御蔵役所の入口にある藁束に差して順番待ちをしていたことから、札差と呼ばれるようになりました。
見所ポイントGの「榊神社」は、景行天皇(紀元前13年〜130年)の時代に日本武尊が東夷征伐の折に創祀したといわれています。古くから「第六天神宮」と呼ばれてきましたが、明治六年(1873年)に社号を「榊神社」へ改称しました。昭和三年(1928年)、東京高等工業学校(前身は東京職工学校【現在の東京工業大学)の跡地に遷座(移転)し、現在に至っています。榊神社は「下町八福神の神社めぐりコース(巡礼札所)」のうちの一社に入っています。
SAKAKI SHRINE
This shrine, praying for health, longevity and safety of the family, is one of the oldest shrine in Tokyo.
境内には、「蔵前工業学園の蹟」の碑が建っています。裏面には次のような碑文が刻まれているとのことです。東京工業大学(2024年10月に東京医科歯科大学と統合され、東京科学大学(仮称)になる予定)の前身は蔵前工業学園だったのですね。
蔵前工業学園の蹟碑文
裏面
浅草蔵前ノ地ニ東京職工学校ヲ創設セラレタルハ実ニ明治十四年ノ事ニ属ス。爾来歳ヲ閲(けみ:時間が経過すること)スルコト六十二星霜、技術者ヲ輩出スルコト万ヲ超エ、此間時勢ノ進運ニ伴ヒ校名ヲ明治二十三年東京工業学校ニ、同三十四年東京高等工業学校ニ改メラレタルガ、偶々大正十二年大震ニ遭ヒ、其復興ヲ企図スルニ当リ、寧(むし)口都心ヲ離レテ郊外ノ地ヲトスルニ若カズトナシ、翌十三年大岡山ノ地ニ移リ、昭和四年昇格シテ東京工業大学ト呼称セラルルニ至ル。其校門ヲ出ヅル者、何レモ質実剛健ノ校風ヲ継承シテ、今ヤ所謂前出身ノ技術者ハ、全東亜ニ亘リテ建設ノ重要部門ヲ担ヒ、其特色ヲ発揮シテ産業報国ノ実ヲ昂揚シツツアルハ、世ノ等シク認ムル所ナリ。然ルニ此工業発祥ノ地トモ謂フベキ蔵前学園ノ蹟ニ至リテハ、既ニ全ク変貌シテ其面影ヲ偲ブニ由ナク、今ニシテ之レヲ表示スルニ非ラザレバ、此由緒深キ学園ノ地モ、遂ニ湮滅セラレンコトヲ惧ル(おそれる)。恰モ好シ、往年其正門所在地附近一帯ハ榊神社ノ境内トナリ、之レヲ標識スルニ便アリ。是ニ於テ本会ハ神社関係者ト相図リ、石ニ刻シテ其地蹟ヲ表シ以テ蔵前工業学園ノ蹟ヲ永ク後世に伝ヘントス。
「蔵前工業学園の蹟」を解説した案内板が立っています。
蔵前工業学園の蹟
本石碑は、当地にあった東京高等工業学校(現東京工業大学)を記念し、工業教育発祥の地として同窓会の蔵前工業会が建立したものである。当校は、工業指導者の養成を目的として、明治十四年五月東京職工学校として創設され、明治二十三年三月東京工業学校、明治三十四年東京高等工業学校と改称された。当校は、常に日本の工業教育の指導的地位にあり、また、多くの留学生を教育するなど、科学技術の発展に貢献し、当校の出身者は「蔵前の出身」という愛称で重用された。しかし、大正十二年九月の関東大震災により、校舎、工場等が灰燼に帰したため、学校当局は、当地での再建を断念、目黒区大岡山に移転した。当地の敷地は、正門の位置に建てられている本石碑を中心に、隅田川に沿って面積四万三千平方メートルに及んでいた。側面に「昭和十八年三月吉日 社団法人蔵前工業会建立」、裏面に「永田秀次郎選」の碑文が刻されている。
東京職工学校が設立される前には、此の地に浅草文庫という図書館がありました。明治初期に十万冊以上もの蔵書が所蔵されていたとは驚きです。
浅草文庫跡碑
浅草文庫は、明治七年(1874年)七月に創設された官立の図書館である。翌八年に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は十一万余冊とも十三万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。明治十四年五月に閉鎖。跡地は翌十五年に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正十三年、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。昭和三年に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していたところである。高さ約四メートルの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和十五年十一月建立された。
MONUMENT OF ASAKUSA PUBLIC LIBRARY
In July 1874, the Asakusa public library was established, and opened the following
year for private and public use. While it was open, the library was said to have anywhere between 110,000 to 130,000 books written in Japanese, Chinese and Western Languages. These books are now housed in the National official document Cabinet library, National Diet Library and Tokyo National Museum Library. All the books that were in the Asakusa library have the stamp of the Asakusa library, that was hand stamped by on of the Cabinet ministers of the day, Sanjo Sanetomi. The library closed in May 1881 and in the following year, it became a part of Tokyo Technology High School, now known as the Tokyo Technology University. In 1924 the Tokyo Technology High School moved to it's current position in Ookayama in Meguro City. In 1928, the current Sakaki shrine was built. Later in November 1940 the current monument (approx 4m) to mark the place of the previous Asakusa library as a cultural and educational area was built.
見所ポイントHの「篠塚稲荷神社」の創建年代は不詳ですが、正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が此の地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになったといわれています。延宝九年(1681年)に篠塚山玉蔵院宗林寺となりましたが、明治維新の神仏分離令によって廃寺となり、篠塚稲荷神社が残りました。社歴を記した石碑の碑文は色あせて、なかなかに年季が入っています。
篠塚稲荷神社社歴
御由緒
当社の創起年代は詳らかではないが古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり。正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが明治初年神佛分離の際玉蔵院は廃せられた。古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る。
神田川沿いの北側の歩道を進みます。河岸には隅田川遊覧の屋形船が係留され、「神田川船溜まり」と呼ばれる船宿が並んでいます。
見所ポイントIの「柳橋」は、神田川が隅田川に流入する河口部に位置する最下流の橋梁です。江戸時代の中期までは日本橋下柳原同朋町と対岸の浅草下平右衛門町とは渡船で往来していましたが、不便であったために、元禄十年(1697年)に幕府に架橋を願い出て許可され、翌年に最初の橋が完成しました。明治二十年(1887年)に鋼鉄橋に架け替えられましたが、関東大震災で焼失し、震災復興事業として昭和四年(1929年)に現在の橋が完成しました。永代橋のデザインを取り入れたと言われています。
柳橋の袂に案内板が立っています。
柳橋
この橋は、元禄十一年(1698年)に、神田川が隅田川に注ぐところに架けられ、最初は「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の倉があったのにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋は享保頃からの呼称らしい。橋の名の由来には、「柳原堤の末にある」・「矢之城を柳の字に書きかえた」・「橋の柳にちなむ」など諸説ある。鉄橋に架け替えられたのは明治二十年で、現在の橋は昭和四年に完成した。江戸時代、橋畔は船宿が並んで賑わった。幕末・明治以降、柳橋は花柳界として名を知られ、多くの文人・墨客が題材に取り上げている。また、柳橋は落語にもよく登場し「船徳」等はこの地を舞台にした噺である。
[柳橋ゆかりの人々 ]
- 成島柳北
- 蔵前生まれ。「柳橋新誌」を著した。
- 小林清親
- 「元柳橋両国遠景」で、往時の柳橋周辺の情景を描いた。
- 正岡子規
- 句集「寒山落木」の中で「春の夜や 女見返る 柳橋」と詠んだ。
- 島崎藤村
- 今の柳橋一丁目に住み、柳橋を題材にした随筆「新片町にて」を発表し、小説「沈黙」の中では大正期の柳橋界隈を情景豊かに書いている。また、代表作の「春」・「家」などの作品も柳橋在住のときに発表した。
- 池波正太郎
- 「剣客商売」などの作品で柳橋界隈を取り上げている。
Yanagi-bashi bridge
A bridge was first built on this spot in 1698 - the 11th year of the Genroku Era right where the Kanda River flowed into the Sumida River. At first, it was known as the Kawaguchi-Deguchi-no-Hashi or "River Mouth Bridge" but as some of the Shogunate's armories were located nearby, it is said that it was also known as the Yanokura-bashi (armory bridge) or Yanoki-bashi (castle bridge). It apparently came to be known as Yanagi-bashi or "Willow Bridge" since the early 18th century (Kyoho era). A number of stories exist that explain the origin of the name. One idea is that the bridge stood on the edge of the area known as Yanagihara. Another story suggests that the "Yanoki" was simply re-written as "Yanagi", and yet another states that the bridge was named after a willow tree that stood on the road approaching the bridge. The bridge was re-built in iron in 1887, and the current incarnation of the bridge was completed in 1929. During the Edo Period, the approach to the bridge was a bustling road lined with companies that operated pleasure cruises on the river. After the fall of the Shogunate and the Meiji Restoration, Yanagi-bashi was well-known for its red light district,
and a great many literary and artistic figures used it as a subject of their work. The bridge also appears often in the narratives of Rakugo, including the tale Funatoku.
People Connected to Yanagi-bashi
- Ryuhoku Narushima
- Born in the Kuramae area. Wrote the work The New Chronicles of Yanagi-bashi.
- Kiyochika Kobayashi
- His work, A Distant View of Ryogoku Bridge from Motoyanagi Bridge, shows a detailed view of the area around the bridge as it once looked in the past.
- Shiki Masaoka
- The haiku he composed was in the poetry collection Kanzan Rakuboku:
Oh, one spring evening. A womam tums and looks back. Yanagi-bashi
- Toson Shimazaki
- Lived in what is now Yanagibashi 1-chome. He worte an essay about Yanagi-bashi
called in Shinkatamachi, and his book Silence paints a vivid picture of the
neighborhood in the early 20 centuly. Also the famous books, including Spring
and The Family, were published white he lived in the area.
- Shotaro Ikenami
- The author of such works as Kenkaku Shobai (The Swordsman's Trade) about
the area around Yanagi-bashi.
柳橋北詰で左折します。この辺りの町域は、かって浅草柳橋と呼ばれていました。石塚稲荷神社の創建年代は不明ですが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといわれています。元禄元年(1688年)に此の地へ遷移しました。花街時代には芸子さん達の信仰を集めていたのでしょう。
旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草柳橋
いくつかの町が整理統合され、昭和九年に誕生した。町名の由来は、神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。「柳橋」は、元禄十一年(1698年)に初めて架けられた。その当時は、川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和四年に架けられたものである。
隅田川テラスに入ります。隅田川の両岸に約28kmの長さにわたって設置された隅田川テラスは、東京都が昭和六十年(1985年)から進めている事業で、隅田川両岸に沿って整備された親水テラスの総称です。治水上の高水敷(増水時に冠水する平坦な土地)にあたる部分をテラス化したもので、舗装や緑化が施されることによって平時には憩いの場や散策路など、公園としての役割が与えられているところです。
見所ポイントJの「なまこ壁」は、江戸時代(1603年〜1867年)に幕府が米を備蓄していたこの地域の古い倉庫と同じ様式で建造されています。ここからは隅田川と東京スカイツリーの素晴らしい景色を眺めることができ、ジョギングやゆっくりとした散歩にも最適な場所です。
なまこ壁の所々には、家康が江戸の市街地造成の普請を命じた大名の家紋が埋め込まれています。
家紋の掲示
慶長八年(1603年)、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は、名実共に天下を掌握し、江戸を全国政権の中心にふさわしい都市とする「天下普請」に着手した。家康は、江戸を発展させるためには、港湾都市的形態が最良であると考え、城前方の東京湾波打ち際の方に町づくりを開始した。そこで、神田台(今の千代田区駿河台から大手町に存する一帯)を切り崩し、その土で現在の中央区一帯を埋め立てて市街地の造成を行った。その時家康は、全国の大名に対して、「御手伝普請」を命じ、幾つかの組に編成してこの大規模な工事を進めた。こうして今の日本橋浜町辺りから新橋付近に至る下町が生まれ、また堀川(日本橋川)が造られて着々と港湾都市としての江戸の町づくりが進展した。今回、当時活躍した人達の中で組頭を勤めた主な大名の家紋を護岸壁面に掲示した。
なまこ壁の前には、安藤広重が描いた隅田川の風景が展示されています。
蔵前橋の西詰近くに、見所ポイントKの「首尾の松」があります。現在の松は七代目だそうです。
SHUBI PINE TREE
This pine tree served as a guide sign for people who travelled by boat on the Sumida River in the Edo Period (17th-19th centuries).
「首尾の松」には幾つかの伝承があります。
首尾の松
この碑から約百メートル川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。その由来については次のような諸説がある。
- 一、
- 寛永年間(1624年〜1643年)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
- 二、
- 吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
- 三、
- 首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
初代「首尾の松」は、安永年間(1772年〜1780年)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(1854年〜1859年)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。
SHUBI NO MATSU
About 100 meters (about 330 ft.) down the Sumida River from this monument, on the riverbank, there used to be famous no Mstsu tree 'Shubi no Matsu' (pine tree of success). The origin of the name of the pine tree Shubi is not exactly clear but here are some explanations:
- 1.
- It was named because a man, a shogun's retainer, 'successfully' rode a horse
across the flooded Sumida River from the pine tree to the other bank in the presence of the third shogun, Iemitsu.
- 2.
- Men of the world talked together under this pine tree about their 'Shubi (success)' at Yoshiwara when they crossed the Sumida river.
- 3.
- Laver (edible seaweed) used to be harvested here using 'hibi' (long sticks to
collect laver) stuck in the river, and the pronunciation of 'hibi' was corrupted into
'shubi.'
The first 'Shubi no Matsu' was blown down during the An'ei era (1772-1780), its successor died during the Ansei era (1854-1859), the third pine died at the end of the Meiji era (around 1910), and their successors were entirely destroyed by the fires of the Kanto Great Earthquake of 1923 and the Second World War. In December, 1962, members of Asakusa-nanbu Association of Commerce, Industry and Tourism regretted the loss of these pines and built a monument close to this bridge in cooperation with the local people. The present pine monument is said to be the seventh tree.
首尾の松と蔵前橋通りを挟んだ対面に「浅草御蔵跡」の碑が建っています。
浅草御蔵跡碑
浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。元和六年(1620年)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、亨保(1716年〜1736年)頃までに浅草御蔵に吸収された。江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和九年のことである。碑は、昭和三十一年六月一日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。
MONUMENT FOR THE TRACE OF ASAKUSA OKURA WAREHOUSE
Asakusa warehouse was used for storing and keeping rice and so forth that was submitted and paid as tax from land scattered across the country which was directly controlled by the Tokugawa Government. Rice in the Asakusa warehouse was suplied mainly to the families of Tokugawa's samurais and was under the control of the chief treasurer. The warehouse was built in 1620 by excreating the hill of the Asakusa Torigoe Shrine and by filling the ground with earth at the present place. The front side of the Asakusa warehouse was called the "warehouse front" and there were many stores of rice wholesalers, weight checkers, moneylenders, etc. on this front side,
The town name Kuramae was born in 1934 from the word OKURA front.
蔵前橋は、昭和二年(1927年)に完成した関東大震災の復興橋のひとつです。
橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されています。昭和二十九年(1954年)9月から昭和五十九年(1984年)12月まで西詰に蔵前国技館があり、橋の高欄には力士などのレリーフが施されています。
蔵前橋が架橋される以前は、この場所に「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場がありました。
横網(「よこずな」でなく、「よこあみ」と読みます)町公園は、東京市が陸軍の被服廠(ひふくしょう:軍服などを作る工場)が移転した跡地を買収し、公園として造成を進めていましたが、その最中に発生したのが関東大震災です。まだ空き地状態だった被服廠跡地には周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、続々と避難してきました。ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻・火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで3万8千人もの命が失われました。関東大震災で亡くなった人々の霊を弔慰するため、四十九日に相当する大正十二年10月19日に、この地において東京府市合同の大追悼式を挙行したのがこの公園の歴史を刻む最初の出来事でした。当初「大正震災記念公園」と仮称された公園でしたが、昭和五年(1930年)に慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼・日本庭園が完成し、9月1日に横網町公園として開園しました。翌年の昭和六年には復興記念館も完成し、現在の横網町公園となりました。
横網町公園
関東大震災(大正十二年・1923年)や、東京空襲(昭和十九年〜二十年・1944年〜1945年)による悲劇を、記憶・伝承し、その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。
Yokoamicho Park
This park is dedicated to the remembrance of the many victims of the Great Kanto Earthquake (1923) and the Tokyo Air Raid (1944-1945), to commemorate and preserve the memory of these tragedies.
東京都慰霊堂
関東大震災、および東京空襲の遭難者、16万人余の御霊を慰霊する施設です。昭和五年(1930年)に建てられました。堂内には絵画等の展示もあります。どなたでも入堂できます。
入堂無料、9時〜16時30分、年末年始は閉堂
Tokyo Metropolitan Memorial Hall
Built in 1930, this hall is a memorial for more than 160,000 lives lost during the Great Kanto Earthquake and the Tokyo Air Raid. Paintings and other archives are on display in the hall, and it is open to the public.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm. Closed for the New Year's holiday.
復興記念館
関東大震災からの復興事業を記念するために昭和六年(1931年)に建てられました。関東大震災、東京空襲の被害や復興に関する資料を展示しています。
入館無料、9時〜16時30分(入館)、毎週月曜日(祝日の場合は翌日)および年末年始は休館
Great Kanto Earthquake Memorial Museum
This museum was built in 1931 to commemorate the reconstruction project following the Great Kanto Earthquake. Documents and other materials related to the damage caused by the earthquake and the Tokyo Air Raid, as well as to the ensuing reconstruction, are on display.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm (entry). Closed on Mondays (if a national holiday, closed the following day) and for the New Year's holiday.
復興記念館内には、関東大震災と太平洋戦争で生み出された数多く展示品が並べられ、日本が被った悲惨な実態が間近で見られます。
東京都復興記念館案内
震災復興記念館は、大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の被害や惨状、その後の復興事業を伝えるため、昭和六年(1931年)8月18日に開館しました。館内には震災復興を祝って昭和四年(1929年)9月に開かれた帝都復興展覧会の展示品、絵画や写真・図表・被災資料及び市民からの寄贈品などが展示されています。震災から立ち直った東京は、太平洋戦争末期の空襲で再び焼け野原となりました。そこで戦後、戦災関係資料の展示が追加され、「東京都復興記念館」と名称を変更しました。今では震災・戦災の記憶とともに、昭和初期の都市計画や街づくりを伝える貴重な展示施設となっています。
復興記念館の横には、関東大震災で焼け爛れた多くの遺物が展示されています。
横網町公園復興記念館(震災記念屋外ギャラリー)
大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の被害は、死者及び行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋の損害は69万4千戸余にも達した。ことに家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火、熱風により、諸々の建築物はもちろん多くの人々が焼死し、その光景はさながら地獄絵の如く惨たんたるものであった。当「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を展示することにより、過去におきたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸がおこらないことを深く願って建造されたものである。
YOKOAMI OPEN GALLERY
The Great Earthquake which occurred in the Kanto region on September 1, 1923, brought unprecedented damage mostly to the cities of Tokyo and Yokohama as well as other places. Especially in congested down town (Shita-machi) housing areas, the Sumida river was buried with many corpses. The Yokoami Open Gallery was constructed in the hope that such a disaster should never be repeated and to make future generations aware of this tragedy by displaying fragments and remains of the damage.
これが自動車の残骸とはとても思えませんね。
自動車の焼骸 Remains of a Burnt Car
自動車のボディが焼失し、シャシーだけが残ったもの。この自動車は車両番号第一号という古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていたという。
高熱でグニャグニャになった鉄柱の残骸もあります。
鉄柱の熔塊 Mass of Melted Iron Pillar
大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内の鉄柱が猛火により溶解し、かたまりとなってしまったものである。
東京都慰霊堂は、建築家伊藤忠太の手によるものです。
震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起った震災は東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民は業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった。与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し、慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り、伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し、東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し、約二百坪の講堂は祭式場に充て、正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。爾来年々祭典法要を重ね、永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九・二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け、数百万の家屋財宝は焼失し、無慮(おおよそ)十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った。戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった。江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり、約七万七千人を失った。当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが同二十三年より遂次改葬火葬し、この堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。横網公園敷地は約6、000坪、慰霊堂の建坪は377坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え蘇生した公孫樹(イチョウ)を称えた大並木が特に植えられてある。
隅田川に面した松浦豊後守の屋敷に植わっていた椎の木からは葉っぱが地面に落ちてこなかったという伝説があります。
両国物語
Former Mansion with the Chinkapin Tree of Unfallen Leaves
椎の木屋敷跡
本所七不思議の一つ、「落ち葉なしの椎」があった松浦家という大名屋敷は、この辺りにありました。庭には立派な椎の木がありましたが、この木から葉が落ちるのを誰も見たことがありませんでした。その噂はたちまち江戸中に知れ渡り、松浦家は「椎の木屋敷」と呼ばれるようになりました。もともと椎の木というのは常緑樹で落ち葉は少ないものですが、それでも一枚も落ち葉がないということが不思議です。大名屋敷という庶民からすれば特別の場所であったために、このような伝説が広まったと考えられます。
本所七不思議は、墨田区の本所地域に江戸時代の頃から伝承される奇談・怪談です。江戸時代の典型的な都市伝説のひとつであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきました。伝承によって登場する物語が一部異なっていることから、実際は8種類以上のエピソードが存在しています。
本所七不思議
本所七不思議は、墨田区の本所に江戸時代ころから伝承される奇談・怪談です。江戸時代の典型的な都市伝説の一つであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきました。いわゆる「七不思議」の一種です。
- 置行堀(置いてけ堀)
- 一説に錦糸町駅付近にあったといわれ、夕方釣り上げた魚を持って立ち去ろうとすると、堀の中から「置いてけ、置いてけ」と怪しげな声が聞こえたそうです。
- 狸囃子(別名:馬鹿囃子)
- 夜半に耳をすますと、遠く、あるいは近くお囃子が聞こえてきますが、どこで奏でているのか確かめられなかったそうです。
- 送り提灯(ちょうちん)
- 夜道で前方にチラチラとちょうちんの明かりがみえ、近寄るとパッと消えてはまた前方に現れる無気味なちょうちんです。
- 落葉なき椎(しい)
- 隅田川べりの松浦家の椎の木はよく繁っているのに、どんな時にも落葉したことがないといいます。
- 津軽の太鼓
- 大名屋敷の火の見やぐらでは、板木を打つならいでしたが、南割下水近くの津軽家に限って太鼓を打つことが許されていました。
- 片葉の葦(あし)
- 両国橋近くにあった入堀に生える葦は、不思議なことにどれも片側しか葉がでなかったそうです。
- 燈無蕎麦(あかりなしそば)(別名:消えずの行灯(あんどん))
- 南割下水のあたりに毎夜出る二八そば屋のあんどんは、一晩中ともり、消えたのを見た者がないということです。
七不思議ですが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから8種類以上のエピソードが存在します。
- 送り拍子木(おくりひょうしぎ)
- 入江町の時の鐘は、大横川沿い北辻橋近くにありましたが、この鐘近くで夜回りをしていると、どこからともなく拍子木のカチカチという音が聞こえてきた。
- 足洗邸(あしあらいやしき)
- 両国のあたりに「足洗い屋敷」という大きな屋敷がありました。 その屋敷では、深夜になると突然「足をあらえ〜」 といって大きな血まみれの足が天井から降りてきました。 屋敷中の下女が集まってきれいに足を洗ってやると、 そのまま天井裏へ帰っていくのです。 ところが、そのまま足を洗わずにいると、 夜が明けるまで屋敷中を暴れ回ったということです。
横網公園の南側に旧安田庭園があります。旧安田庭園は、潮入り回遊式庭園として整備された大名庭園で、小島の浮かぶ心字池を老樹と散策路が囲む構成になっています。雪見灯篭が配置され、池には鯉や亀が見られます。また、水位の干満が人工的に再現されています。
旧安田庭園の沿革
元禄年間(1688年〜1703年)に、徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院の実弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。明治になって旧備前岡山藩主池田章政侯爵邸となり、明治二十四年(1891年)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正十一年(1922年)に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。大正中に年(1923年)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和二年(1927年)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。昭和四十二年(1967年)東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和四十六年(1971年)に新装開園し、現在に至っている。明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成八年(1996年)、東京都の「名勝」に指定された。
THE HISTORY OF KYU-YASUDA GARDENS
In the Genroku Era (1688-1703), a feudal lord in the later Hitachi-Kasama Clan of 50,000 koku, Honjo Inabanokami Munesuke, who was a younger blood brother of the biological mother (Keishoin) of Tsunayoshi Tokugawa, the fifth shogun, received this land from the Bakufu as a suburban residence and is said to have constructed this garden. This garden has a pond in the shape of the Japanese character "kokoro" (heart) at its center and uses a system known as shioiri by which the pond is fed from the Sumida River, so the water level in the pond rises and falls with the ebb and flow of the river's tide. After the Meiji Restoration, it was the home of the Lord Ikeda Akimasa of the late Bizen-Okayama Clan and, then, in 1891, it became the property of Yasuda Zenjiro, founder of the Yasuda Financial Group. After Zenjiro's death, as specified in his will, the garden and house were donated to Tokyo City in 1922.
However, on September 1 of the following year (1923), the grounds were almost completely destroyed by the Great Kanto Earthquake. The City began re-construction
work on the garden, using as a base the ishigumi stone formations, which fortunately remained, and then named the gardens after the donor In 1927, it was opened to the public as the first Japanese garden, donated by a private charitable person.
"Kyu-Yasuda Gardens". Taking the opportunity of its jurisdiction transfer from the Tokyo Metropolitan Government to Sumida City in 1967, it was fully re-constructed and, in 1971, it was completely restored to the original condition of former times when it was called a "distinguished garden". In 1996, this garden was designated a Metropolitan Place of Scenic Beauty as a typical garden of the Meiji Era.
園内の中央にある池は「心」の字を描いているようです。東屋も再現されていますね。
池に隅田川の水を供給していた水門跡も残されています。
水門跡
江戸時代にこの庭園が造成された折、隅田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化を楽しむという技法がとられました。これは「潮入」と呼ばれるものです。この水門は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には閉じられ、導水溝も埋められてしまいました。潮入の池は、都内ではほかに浜離宮庭園や旧芝離宮庭園、清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在も目にすることができるのは、浜離宮のみとなりました。墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園北側に約七百五十平方メートルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入を再現しました。本園の水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構として現状のまま保存されています。
刀剣博物館は、国内でも数少ない日本刀専門の博物館です。刀剣愛好家から寄贈された作品や、愛好家より保管と管理を依託されている刀剣・刀装・刀装具類を収蔵・公開しています。旧刀剣博物館は昭和四十三年(1968年)に代々木で開館し、平成二十九年(2017年)3月末に閉館しました。現在の刀剣博物館は、平成三十年(2018年)に代々木から旧安田庭園内の両国公会堂跡地に移転・開館しました。
駒止石と駒止井戸は、寛永八年(1631年)の秋、阿部豊後守が隅田川氾濫の様子を見に来た際に、馬を繋いで休憩をした際の石と井戸と伝えられています。
両国物語 駒止石
三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年(1631年)に秋の台風に見舞われ、隅田川は大洪水となりました。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせようとしました。しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗り入れました。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休憩したところが駒止石です。当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀りました。
現在、国技館や江戸東京博物館などが建っているところは、江戸時代には材木蔵として使われていました。その入り堀に架かっていた橋が「御蔵橋」でした。
江戸の町 Site of Okurabashi Bridge
御蔵橋跡
御蔵橋は、隅田川に面した松前伊豆守の屋敷のそばの入り堀に架った橋で、この辺りにありました。堀の突き当たりは、御竹蔵(または御蔵地)という幕府の材木蔵でした。隅田川から船で運んだ木材や竹の荷を、この堀から引き入れて、御蔵地へと収納するようにできていたのです。後に米蔵として使用され、現在は国技館や江戸東京博物館などが建っています。御蔵橋は、池波正太郎の「鬼平犯科帳特別長篇 雲竜剣流れ星」にも登場していて、「左側は、まんまんたる水をたたえた大川が黒く横たわり、ここへ来ると、まったく人影もなかった。・・・幅一間半、長さ
五間の橋である。」と書かれています。
葛飾北斎の浮世絵にも御竹蔵が描かれています。
新柳橋の白雨 御竹蔵の虹 −絵本隅田川両岸一覧−
狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などが(ある)あたり(になり)ます。
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River:
Shinyanagi Bashi no Hakuu / Otakegura no Niji
(Sudden Rain at the New Yanagi Bridge / Rainbow Above Bamboo Warehouses)
One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books,
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print shows a scene of
people with umbrellas crossing the New Yanagi Bridge during a light shower, and it is
drawn from the opposite side of the Sumida River. The term "sudden rain" refers to an
unexpected shower. The bridge on the far left is the Mikura Bridge. It spans the
entrance to the Otakegura bamboo warehouses, where the Shogun's timber was stored.
The area behind the Otakegura warehouses was used to store building materials at
that time, but it became a rice warehouse when it moved to the timberyard located in the present-day Sarue Park, and became known as the Honjo Rice Warehouse. This enormous estate is now occupied by the Ryogoku Kokugikan, the Edo Tokyo Museum and other facilities.
見所ポイントLの「両国国技館」は、公益財団法人日本相撲協会が所有する大相撲の興行のための施設です。しかし、プロレスやボクシングなどの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、ポピュラー音楽のライブ会場としても使用されています。現在の国技館は二代目で、建設計画発表から3年後の昭和五十九年(1984年)11月30日に完成し、12月3日には新国技館敷地内に移転した相撲教習所の開所式と土俵祭が行われました。翌年1月9日に中曾根康弘首相をはじめ、約3200人を招いて盛大に落成式が催され、千代の富士と北の湖の両横綱による三段構えが披露されました。両国国技館は、地上2階・地下1階で、総工費の150億円は全て自己資金で賄われました。
ゴール地点の両国駅に着きました。駅の入口には、力相撲の像が建っています。
駅の構内には、両国の二大看板である「両国橋の花火大会」の様子と「大相撲興業」の錦絵が掲げられています。尚、相撲興行は天保四年(1833年)から両国の回向院で催されていました。
ということで、台東区で十三番目の「Mコース(1万歩コース)」を歩き終えました。見所満載でしたね。次は台東区で最後の「橋めぐりコース」を歩きます。こちらは「@(白鬚橋〜吾妻橋)」と「A(吾妻橋〜左衛門橋)」に分かれています。最初に、台東区の北端に位置する白鬚橋から浅草の中心である吾妻橋までを巡ります。
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