橋めぐりコース@(白鬚橋〜吾妻橋)  

歩行距離:7、2km、歩行時間:108分、消費カロリー:324kcal、歩数:10、286歩
注記:「橋めぐりコースA(吾妻橋〜左衛門橋)」との合算です。  

コース 踏破記  

今日は台東区の「橋めぐりコース@(白鬚橋〜吾妻橋)」を歩きます。台東区白鬚橋区境をスタート地点として、墨田川に掛かる著名な橋を巡ります。  

スタート地点:白鬚橋
竣工: 昭和六年
「明治通り」にあり、橋名は墨田区にある白鬚神社に由来している。初めて架橋されたのは大正三年(1913年)。隅田川では、最も古い渡し舟と言われている「橋場の渡し」のあった場所で、平安時代の歌人である在原業平(ありわらのなりひら)が渡ったとも言われている。
@桜橋
竣工: 昭和六十年
台東区と墨田区の姉妹提携事業として昭和六十年(1985年)に完成したX型の橋で、隅田川唯一の歩行者専用橋である。春には両岸の隅田公園に見事な千本桜が咲き、たくさんの花見客でにぎわいを見せる。
A言問橋
竣工: 昭和三年
「言問通り」に接しており、橋名は、在原業平の「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」の歌に由来すると言われている。かつて、この橋の上流には「竹屋の渡し」、下流には「山の宿の渡し」(別名:枕橋の渡し)と呼ばれた渡し舟があった。
中間地点:吾妻橋
竣工: 昭和六年
「雷門通り」にあり、江戸時代に隅田川で架橋された最後の橋である(安永三年/1774年)。当初、大川橋と呼ばれていたが、明治九年(1876年)の架け替えの際に吾妻橋と改名された。かつては、この辺りに「竹町(屋?)の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。


台東区と墨田区を隔てる隅田川に架かるスタート地点の白鬚橋の区境界地点から歩き始めます。白鬚橋の橋名は東岸にある「白鬚神社」に因んでいます。なお、「白(髭:くちひげの意)橋」と誤記されることがありますが、「白(鬚:あごひげの意)」が正しい表記です。



白鬚橋が架かっている場所には元々「橋場の渡し」と「白鬚の渡し」という渡船場がありました。特に橋場の渡しは、江戸時代の文禄三年(1594年)に千住大橋が架橋されて主だった街道筋が移されるまでは隅田川を渡る中心地でした。伊勢物語の東下りの中で在原業平が有名な「言問」の歌を詠んだのはこの渡しとされています。

これより東へ約二十メートル
橋場の渡し

対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約百六十メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。「江戸名所図会」によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、「伊勢物語」の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。大正三年(1914年)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。

Hashiba Ferry

This is a ferry crossing from Hashiba to Terajima in Sumida City on the opposite bank some 160 m away. It was also called "Shirahige Ferry". According to "Edo Meisho Zue", it was called "Sumida River Ferry" in the olden days and story has it that Ariwara no Narihira, whose romancing is said to have inspired the "Ise Monogatari" (The Tales of Ise), crossed the Sumida River via this ferry. However, the boat launch had moved several times around here and it is difficult to determine the exact position. It was used by many people until the bridge was built in 1914.




白鬚橋の袂に「対鴎荘跡」の案内板が立っています。

対鴎荘跡

隅田川畔の橋場一帯は、風光明眉な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鴎荘もそのひとつで、明治時代の政治家三条実美(一八三七年〜一八九一年)の別邸であった。「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(一八七三年)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れている。隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鴎荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ三メートル余。側面に「昭和六年歳次辛末五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。対鴎荘は、昭和三年(一九二八年)、白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。

(注記)対鴎荘の「鴎」の字は当て字です。本当の文字はUnicode形式になるので便宜的に「鴎」の文字を使いました。

REMAINS OF TAIOSO

Taioso was the villa of sanjo Sanetomi (1837-1891), statesman in the Meiji Era. He fell ill in Octoder of 1873 and rested quietly in this villa. the Emperor Meiji was very anxious about his health and visited this villa himself to comfort Sanjo. This monument was created by a citizen who owned the villa later to commemorate the Emperor's visit . The villa was relocated to the Tama-Seiseki-Kinenkan at Tama City to allow the construction of the Shirahige Bridge in 1928.




橋場公園にはいろいろな遊具が設置されています。最近はシニア向けのフィットネス器具もありますが、利用している人は少ないようです。



ぶらさがり棒と腰ひねりベンチは柔軟性を保つのに役立ちます。

ぶらさがり

ぶらさがり用のバーをつかんで、ゆっくり体重をかけてぶらさがり、背中・肩周りのストレッチをします。

ツイストベンチ

@ベンチに深く腰掛け、背筋を伸ばして上部の手すりをつかみます。
A上半身を左右にひねって、背中・腰周りのストレッチをします。




橋場通りに入ります。台東区立桜橋中学校の角に旧今戸中学校の記念碑が建っています。

今戸中学校記念碑

今戸中学校は終戦後すぐの昭和二十二年4月29日に開校され、平成十四年4月に蓬莱中学校と統合して桜橋中学校となるまでの55年間を、この隅田川のほとりにあって、11、376人の卒業生を輩出してきました。歴代の教職員、保護者、地域の方々のご尽力で、幾多の有為な人材、輝かしい歴史と伝統を育んでまいりました。卒業生それぞれの心にある今戸中学校への思いと、我らの母校がこの地に存在したことを永遠に残すために記念碑を建立しました。記念碑に刻まれている「われら若し ああ今戸」は歌い継がれていた校歌の一節で、第4期卒業生で数々の国務大臣を歴任された深谷隆司先生の揮毫によるものです。




隅田公園に入り、野球場と陸上競技場の間を抜けて桜橋に向かいます。対鴎荘で病床にあった三条実美を訪ねた明治天皇は、その帰り道に伊達宗城の邸宅を訪れて和歌を詠まれました。「難美路の花」とは、冬の季節、川面の波が白く砕け散るのを花にたとえた言葉みたいです。

明治天皇御製碑

明治六年(1873年)、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し、病床にあった実美を見舞われた。御見舞いの帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられ、和歌をお詠みになった。

   「いつみてもあかぬ景色は隅田川
      難美路の花は冬もさきつつ」




見所ポイント@の「桜橋」は、台東区と墨田区の姉妹提携事業として1980年に工事が始まり、1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持っています。形状は平面のX字形の特異な形をしていて、お花見のシーズンには両岸の桜を楽しむために多くの花見客がこの橋を渡ります。

桜橋

隅田川唯一の歩行者専用橋で、隅田川と東京スカイツリーを見ることができます。花見シーズンにはその名の通り、両岸に咲く桜がとてもきれいに楽しめます。気持ちのよい風が感じられ、散歩コースにおすすめです。

Sakurabashi Bridge

This is the only footbridge across the Sumida River where you get a view of both the river the TOKYO SKYTREE. It is also a great spot for enjoying the cherry blossoms that line both banks of the river when the blooms are in season, which is where it gets its name (literally "cherry blossom bridge" ). With pleasant breezes common to the riverfront, the area is highly recommended as a walking course.




橋がX字形に交差する中心部にふたつのレリーフ碑が建っています。桜橋架橋10周年を記念して製作された「瑞鶴の図」で、両者は似ていますが、其の一は「双鶴飛立の図」、其の二は「双鶴飛天の図」となっています。よくよく見ますと其の一は二羽の鶴が正に飛び立とうとしている瞬間を、其の二は空を飛んでいる様子が見て取れます。原画はシルクロード作家の平山郁夫氏、彫刻は元広島市立大学芸術学部教授の細井良雄氏が担当しました。



桜橋の袂にはワシントンから里帰りした桜の木が植えられています。

桜橋とポトマック帰りの桜 ワシントンからの贈り物

台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和五十二年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和六十年に桜橋が完成しました。この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。

Sakura Bridge and cherry trees back from Potomac - as a present from Washington D.C.

In 1977 (Showa 52). Taito-city and Sumida-city made a sister-city agreement since they are facing over the Sumida River. As a commemoration project, construction of a bridge for pedestrians along Sumida Park was planned and "Sakura Bridge" was completed. In constructing this bridge, some cherry trees were sent from Washington D. C. The cherry trees of Potomac riverside of Washington D. C. is one of the famous place in the world. The end of Meiji era, Mrs. President Taft visited Tokyo. She was fascinated with the cherry blossoms in Mukojima, and hoped to plant cherry trees in Washington D. C. In response to her wish, Mayer of Tokyo city, Yukio Ozaki presented it to Washington D.C. After about 70 years, the posterity of cherry trees has returned to the ground in Mukojima.




見所ポイントAの「言問橋」は隅田川に架けられた橋で、国道6号線(言問通り)が通っています。橋が架けられる前は、この場所に「竹屋の渡し」という渡船場がありました。言問橋は、大正十一年(1923年)に発生した関東大震災の復興事業として架橋された425の橋のひとつです。両岸から伸びる桁(突桁)が川の中の2つの橋脚を支点として中央の桁(吊桁)を支持する上路形式のゲルバー橋で、両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれました。「言問」という名称は在原業平の詠んだ、

   名にし負はば
      いざこと問はむ都鳥
         わが思ふ人はありやなしやと

という歌に因むといわれていますが、業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」のことであり、言問橋との直接の繋がりはないようです。東京大空襲により、言問橋上で多数の犠牲者が出たのには理由があります。東京大空襲の際、浅草方面の人が「川の向こうに行けば助かる」と思い言問橋を渡ろうとしました。しかし対岸の向島・本所地区もすでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となり、そこに焼夷弾が落ちたことにより多数の死傷者を出したのです。

◆言問橋 【橋長】238.7m 【幅員】22m 【構造】3径間ケルバー鈑桁橋

この橋の言問(こととい)の名は、伊勢物語で名高い在原業平(ありわらのなりひら)の歌の「名にし負はば いざ言問はん都鳥」の一句に縁をもっています。左岸の三囲(みめぐり)神社や長命寺、旧水戸藩邸の公園に続く桜の並木も江戸以来の名所です。ここの上と下に、“竹屋の渡し”と“山の宿の渡し”があり、その中間に大震災の復興事業として昭和三年(1928年)にこの橋が架けられました。

◆竹屋の渡し

待乳山聖天(まつちやましょうでん)下から隅田川を渡り、対岸の三囲神社のところまで往復していた渡しです。竹屋の渡しは英泉の描いた「江戸八景。隅田川の落雁」に残されています。この渡しは、昭和になっても存続してい(まし)たから寿命の長い渡しでしたが、言問橋が竣工するとともに姿を消しました。言問橋と桜橋のほぼ中間、隅田公園内の台東スポーツセンター手前の広場に“竹屋の渡し跡”碑があります。




言問橋を渡って対岸の台東区に戻ります。



言問橋西詰から台東区側の隅田公園に入ります。隅田公園は、日本初のリバーサイドパークとして、昭和六年(1931年)に開園しました。

隅田公園の開園
日本初のリバーサイドパーク

大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の直後、時の内務大臣後藤新平の指揮の下で作られた「帝都復興院(復興局)」によって、公園・街路を含む東京の抜本的な都市改造が計画されました。その中に計画された隅田公園は、規模を縮小しながらも言問橋の架橋や東武鉄道の浅草乗り入れ等の事業とあわせて一大開発として整備されました。日本初のリバーサイドパークとして市民にウォーターフロントを開放するという、東京にとっても日本の公園史上でも画期的な公園として実現されました。昭和六年(1931年)の開園には、昭和天皇の記念来訪や、大勢の市民がお弁当を持って詰めかけるといったお祭り騒ぎだったと伝えられています。

The opening of Sumida Park - The first riverside-park in Japan

Right after the Great Kanto Earthquake on September 1 1923 (Taisho 12), the Home Secretary, Shinpei Goto established "Teito-Fukkoin (revival office)" in order them to make a plan for a radical reconstruction of Tokyo including parks and streets. Redevelopment of Sumida Park was a part of the plan. Although the size of the park was decreased, a series of redevelopment was carried out as a whole large project including a construction of "Kototoi Bridge", and a connection to Asakusa station of Tobu Line. This park opened waterfront to citizens as the first riverside-park in Japan, and was very unique in the history of the park design to Tokyo. In 1931 (Showa 6), the emperor in Showa visited the park on the opening day and citizens crowded into the park carrying their lunch packs like merry-making.




言問橋の南側にスカイツリーを指し示す矢印形の仕切りがあるベンチがあります。平成二十二年〜平成二十四年度に実施された浅草と東京スカイツリーをアートで繋ぐ「GTS(藝大・台東・墨田)観光アートプロジェクト」によって誕生した「立体アートLOOK」といいます。GTS観光アートは、東京スカイツリーのビューポイントに設置された環境アート作品12作品とアートベンチ5作品からなり、アートを楽しみながら、浅草観光や東京スカイツリー観光を楽しむことができます。矢印はスカイツリーの最上部を指し示すもので、ベンチは様々な座り方のできる2階建てになっています。座っても、もたれかかっても、2階で横になってもいいのです。このベンチの北側には円筒形のパイプ状のものがあって、円筒の下に頭を入れて寝転べば(どんな姿勢?)スカイツリーを望遠鏡で見ることができます。このベンチに座ると正面にツリーが見えます。



隅田公園は子供の運動能力がぐんぐん育つお勧めの公園です。幼児から小学生まで遊べる遊具が揃い、すべての遊具を制覇すると10以上の基本動作ができるようになります。



隅田公園オープンカフェは、都内初の民間事業者による河川敷地を利用したオープンカフェとして、平成二十五年10月に2店舗がオープンしました。隅田公園オープンカフェ事業は、河川空間の規制緩和に伴う「河川敷地占用許可準則」の改正によって実現したもので、隅田川の水辺とその周辺地域に恒常的な賑わいを創出し、地域の活性化を図ることを目的としています。地元住民が参加した隅田公園オープンカフェ協議会により、計画段階から地域の合意形成を図りながら進められ、東京都が推進する隅田川ルネサンス(*)の取組みの一つにも位置付けられています。

(*)隅田川ルネサンスとは、東京都が主導し、隅田川を中心とした水辺空間における更なる賑わい創出に向け、地元区や関係団体等とも連携して進めている取組みです



東武鉄道の鉄橋の手前に、大きな自然石に「山の宿の渡し跡」と刻まれた石碑が建っています。この場所から浅草寺まで300mほどの距離なので、この渡しは隅田川東岸に住む人たちが浅草寺に参詣するための貴重な手段になっていたのでしょう。碑文には、対岸の“墨堤”に行く行楽客で賑わっていたと書かれています。

山の宿(しゅく)の渡し

隅田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治四十年(1907年)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781年)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いてない。

Yamanoshuku no Watashi Ferry

In the days when ferries crossed the Sumida River there was a ferry called the "Yamanoshuku no Watashi" (the word "watashi" means ferry). In a map printed in 1907 ferry routes are shown, and "Yamanoshuku no Watashi"; which was also known as "Makura-bashi no Watashi" is mentioned. The ferry route was approximately 250 metres upstream of Azuma-bashi Bridge and linked the riverbank at Hanakawado with the Nakanogo Kawaramachi area. The name of the ferry is derived from the name of the district of Yamanoshuku which was to the west of the riverbank at Hanakawado. The alternative name is connected to the fact that the arrival point on the eastern bank of the river was at the approach to Makura-bashi Bridge. Makura-bashi Bridge stands near to the point where Kitajikken River from Sumida ward flows into the Sumida River. It is not clear when the ferry serving this route was started. From about the mid Edo period (around the 1890s), the bank of the Sumida River upstream of Makura-bashi Bridge was popular as a site for cherry blossom viewing.




隅田公園リバーサイドギャラリーは、隅田公園(吾妻橋から東武鉄橋)の地下にある長さ116m、幅7m、高さ2.5mの地下ホールです。写真・絵画・彫刻・書道・華道、その他各種の展示会等に利用されています。



隅田川クルーズの水上バス浅草発着場に着きました。浅草発着場からは、浜離宮・日の出桟橋・お台場海浜公園行きなどが運航されています。吾妻橋や清洲橋など色や形の個性的な橋などを紹介する船内アナウンスを聞きながら変貌する東京の姿を眺めれば、江戸の「情緒」と東京の「今」が発見できます。



吾妻橋の袂に、GTS観光アートプロジェクトのひとつである「そらちゃん」の像が建っています。大理石の彫刻にガラスとモザイクを組み合わせた作品です。「そらちゃん」は招き猫で、両目と胸のハートには色ガラスの凹レンズがはめ込まれていて、東京スカイツリーや周辺の風景が小さくいくつも映ることでおもしろいパノラマが楽しめます。

GTS GEIDAI TAITO SUMIDA Sightseeing Art Project
GTS[東京藝術大学・台東区・墨田区]観光アートプロジェクト2010−2012

GTS観光アートプロジェクトは、平成二十二年度より平成二十四年度までの3年間の計画で行われた、東京藝術大学(G)、台東区(T)、墨田区(S)による三者共催の地域連携プロジェ クトです。浅草と東京スカイツリーを結ぶ隅田川両岸地域は、江戸時代から桜の名所であり、浅草寺を始めとした由緒ある名所・旧跡が数多く点在するエリアです。GTS観光アートプロジェクトは、東京スカイツリーの建設にあわせて浅草と東京スカイツリーをアートで結ぶため東京スカイツリーのビューポイントに環境アート作品を12作品設置しました。地域の観光とあわせてアート巡りの旅をお楽しみください。




水上バス浅草発着場から隅田川を隔てて、東京スカイツリーの全景が眺められます。両脇の建物は、墨田区役所とアサヒビールタワーです。アサヒビールタワーの隣にはスーパードライホールが建っています。スーパードライホールは、吾妻橋の袂にあった旧吾妻橋工場跡地の再開発で建設され、昭和六十四年/平成元年(1989年)に竣工しました。屋上には名物となっている巨大モニュメントが設置されています。燃え盛る炎を形象した「フラムドール(フランス語で金の炎の意味)」と呼ばれるもので、アサヒビールの燃える心を象徴するとされています。オブジェが炎を表すのに対して、その下のスーパードライホールは聖火台をイメージしたものだといわれています。当初の構想では、炎がビルを貫くような形に建てるつもりだったそうですが、構造上問題があり、炎の部分が横向きになったということです(あくまで噂です)。その特徴的な形状から、「うんこビル」・「うんちビル」の愛称でも呼ばれています。



中間地点の吾妻橋にやってきました。吾妻橋が初めて架橋されたのは安永三年(1774年)10月17日で、それまでは「竹屋の渡し」と呼ばれた渡し舟が隅田川を往復していました。徳川家康の入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、明和六年(1769年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成しました。長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残っています。天明六年(1786年)7月18日の洪水の際に永代橋や新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で吾妻橋は無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったといわれています。橋名は当初「大川橋」と呼ばれましたが、これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことに因んでいます。しかし、江戸の東にあるために町民たちには俗に「東橋」と呼ばれていて、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となったという説があります。何れにしても、明治九年(1876年)6月17日に木橋として最後の架け替えが行われた際に、正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名されました。この最後の木橋は明治十八年(1885年)7月の大洪水で初めて流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて吾妻橋の橋脚に衝突し、吾妻橋も一緒に流失してしまいました。そのために明治二十年(1887年)12月9日に隅田川最初の鉄橋として再架橋されました。鋼製プラットトラス橋で、人道橋・鉄道(東京市電)橋・車道橋の3本が平行して架けられていました。大正十二年(1923年)9月1日の大正関東地震(関東大震災)によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後、昭和六年(1931年)に現在の橋に架け替えられました。

◆吾妻橋 【橋長】150.0m 【幅員】20.0m 【構造】3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋

吾妻(あづま)の名は、古来、東国・関東地方を総称するアズマの語に由来しています。また立花の吾嬬神社にもゆかりをもっています。もとは“竹町(屋?)の渡し”のあったところで、安永三年(1774年)に住民によって有料の橋が架けられ、大川橋と呼ばれていましたが、後には吾妻橋と通称されました。明治九年(1876年)には、吾妻橋を正式の名称とし、その後明治二十年(1887年)に鉄製のトラス橋として完成しました。現在の橋は、昭和六年(1931年)に架け替えられました。




ということで、台東区で最後の「橋めぐりコース」の前半区間を歩き終えました。次は台東区で最後となる「橋めぐりコースA」の吾妻橋〜左衛門橋を歩きます。いろいろあったので、台東区のウォーキングコースを書き上げるのにえらく時間がかかってしまいました。




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