橋めぐりコースA(吾妻橋〜左衛門橋)  

歩行距離:7、2km、歩行時間:108分、消費カロリー:324kcal、歩数:10、286歩
注記:「橋めぐりコース@(白鬚橋〜吾妻橋)」との合算です。  

コース 踏破記  

今日は台東区の「橋めぐりコース@(白鬚橋〜吾妻橋)」に引き続き、「橋めぐりコースA(吾妻橋〜左衛門橋)」を歩きます。吾妻橋をスタート地点として、墨田川に掛かる著名な橋を巡ります。  

引き継ぎ地点:吾妻橋
竣工: 昭和六年
「雷門通り」にあり、江戸時代に隅田川で架橋された最後の橋である(安永三年/1774年)。当初、大川橋と呼ばれていたが、明治九年(1876年)の架け替えの際に吾妻橋と改名された。かつては、この辺りに「竹町(屋?)の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
@駒形橋
竣工: 昭和二年
「浅草通り」にあり、橋名は、西詰にある「駒形堂」に由来している。駒形堂は、浅草寺の本尊である観音像が、この辺りから引き上げられたことにより建てられたと言われている。かつては、この辺りに「駒形の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
A厩橋(うまやばし)
竣工: 昭和四年
「春日通り」にあり、橋名は江戸幕府の御米蔵にある米を運ぶ荷駄馬用の馬小屋があったことに由来している。始めて架橋されたのは明治七年(1874年)。かつてこの辺りは、「御厩河岸(おんまいがし)」と呼ばれており、その河岸に「御厩(おんまい)の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
B蔵前橋
竣工: 昭和二年
「蔵前橋通り」にあり、橋名は地名に由来している。蔵前の地名は、江戸幕府の御米蔵で大阪・京都の蔵とともに三御蔵(みつおくら)と呼ばれていた「浅草御蔵」がこの地にあったことに由来している。かつては、この辺りに「富士見の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
C柳橋
竣工: 昭和四年
架橋に関する最も古い記録は元禄十一年(1698年)、神田川が隅田川へ流れ込む場所にあるため、はじめは「川口出口の橋」(かわぐちでぐちのはし)と呼ばれていた。橋名は、橋畔にある柳の木に由来しているとの説が有力と言われている。かつては、「柳橋芸者」で有名な花街であり、正岡子規の句にも「春の夜や女見返る柳橋」と詠われた。
D浅草橋
竣工: 昭和五年
「江戸通り」にあり、かつて奥州街道から江戸中心部への入口となるこの場所に、江戸城警護のための江戸三十六門の一つ「浅草御門」が設置され、同時に「見附橋」が架けられた。橋名は「浅草御門」に由来して「浅草橋」と呼ばれるようになったと言われている。
ゴール地点:左衛門橋
竣工: 昭和五年
「左衛門橋通り」にあり、橋名の由来は、この地に圧内藩主・酒井左衛門尉家の下屋敷があったことから、この付近の神田川沿いを左衛門河岸と呼んでいたことによる。初めて架橋されたのは明治初期。


引き継ぎ地点の吾妻橋から歩き始めます。



吾妻橋から下流に向かってひとつ先に架かる橋が見所ポイント@の「駒形橋」です。駒形橋は、昭和二年(1927年)に竣工した隅田川にかかる橋で、浅草通りが通っています。橋名は橋の西詰にある「駒形堂」に因んでいます。現在の橋は、関東大震災後の復興計画によって初めて架橋されました。それ以前は、この場所に「駒形の渡し」がありました。



隅田川テラスに案内板が立っています。駒形橋の解説は、案内板以外にも記念碑らしきモニュメントに貼られたプレートに同様の記述がありますので、足りない分を追加しました。正岡子規の句の「林もわかず」とはどういう意味なのでしょうか?

◆隅田川の橋

隅田川には古くから橋が架けられ、各種の災害で度々架け替えが繰り返されましたが、「渡し」の頃からの名称、初期の橋の形式、橋詰の風情などに名残が継承されています。本格的な橋が隅田川に架けられたのは江戸時代初期(1594年)で、千住大橋が初めてでした。関東大震災による復興で架橋された橋は、今日でも立派に機能しており、これら先人たちの技術と近代の技術で架けられた橋とが競うように並ぶ隅田川は、橋の博物館とも呼ばれます。

     ◆駒形橋 【橋長】149.6m 【幅員】22.0m
          【構造】中央径間:中路式ソリッドリブタイドアーチ橋
              側径間 :上路式ソリッドリブアーチ橋

駒形(こまがた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来します。土地の人々によれば、コマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えています。ここは古来交通の要地で、“駒形の渡し”のあったところです。江戸の巷説に有名な「君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものです。関東大震災の後、復興事業の一環として、この地に新しく優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(1927年)に完成しました。

プレートの追加部分

歌人、正岡子規の和歌にも、
   浅草の林もわかず 暮れそめて
      三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。




駒形堂は、駒形橋西詰の浅草寺の飛地境内にある小堂です。本尊は馬頭観音立像(秘仏)で、浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったといわれています。現在の堂は鉄筋コンクリート造、方三間・宝形造で、平成十五年(2003年)に建て替えられました。堂は元々は隅田川に向かって建てられていましたが、現在の堂は江戸通り側を正面とし、隅田川には背を向けた形になっています。本尊は毎月19日の縁日に開扉され、法要が行われます。台東区の案内板です。

駒形堂

「浅草寺縁起」によると、創建年代は朱雀天皇の天慶五年(942年)で、建立者は安房守平公雅。名称由米には、
@
隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(「江戸名所図会」)
A
観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのが訛る。(「燕石雑誌」)
B
駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。(「大日本地名辞典」)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれ た。小さくとも、江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。

Komagata-do Temple

According to the recorded history of Senso-ji Temple, Komagata-do Hall was built in 942. is the Buddhist saint Bato Kanzeon. The principal image The hall appears in pictures by woodblock artists such as Katsushika Hokusai and Ando Hiroshige. Although it is small, the hall was famous in old Edo (Tokyo). In 1923 it was burnt down during the Great Kanto Earthquake, and it was rebuilt in 1933.




浅草寺の案内板です。

ご本尊ご示現の聖地 駒形堂

駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向かった。このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。

馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」

Komagatado Hall

Komagatado Hall is the temple built in the place where the principal image bodhisattva Syo-Kannon) of Senso-ji appeared from the Sumida river and was enshrined about fourteen hundreds years ago. This area has been a port town and there were many inns for sailors and ferries. Since the medieval period people who wanted to go on a pilgrimage to Senso-ji by ship visited Komagatado Hall before going to the main hall of Senso-ji. The principal image of Komagatado Hall is the god of traffic safety, bodhisattva "Bato-Kannon". The present temple was reconstructed in 2003.




境内の隅に、古びた石碑が並んで建っています。その横に案内板が立っています。「戒殺」とは、殺生を禁ずるという意味らしいです。この辺りで浅草寺の観音様がご示現されたといわれていますので、隅田川の周辺を禁漁・禁猟区にしたのでしょう。

東京都指定有形文化財(古文書)
浅草観音戒殺碑

駒形堂は浅草寺の伽藍の一つで、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川から発見された霊地である。このため元禄五年(1692年)、当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。これを記念して、翌年(元禄六年)浅草寺第四世権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。殺生禁断の範囲は駒形堂を中心に、南は諏訪町より北は聖天岸に至る十町余の川筋だった。「御府内備考」によると、諏訪町・聖天町にも高札が建てられたという。戒殺碑が建てられた駒形堂の堂宇は、江戸時代に何度か焼失している。戒殺碑も倒壊し、宝暦九年(1759年)に堂宇とともに再建された。現在の碑は関東大震災後の昭和二年(1729年)に土中より発見され、同八年の駒形堂再建と同時に修補されたものである。元禄当初の碑か、宝暦再建のものか定かでない。碑身は石造(安山岩)で、長方形円頭板状。正面及び両側面を研磨し、背面は野面のままである。台石は昭和八年修補時のもので、上面・正面・両側面・背面の五面を研磨してある。総高183.5cm、正面幅61cm。銘文は「浅草寺誌」や「江戸名所図会」にも収載される。元禄期当時の信仰及びその周辺の状況を明らかにする貴重な資料である。

Tangible cultural property (ancient documents)
Asakusa Kannon Kaisatsu no Hi

Komagatado Hall is a part of Sensoji Temple. It is considered to be a sacred place where the statue of ShoKanzeon Bosatsu, which is the principal object of worship of Sensoji Temple, was found in the Sumida River. Because of this discovery, a law was issued in 1692 to forbid killing of fish and birds in, the area. In commemoration of the law Kaisatsu no Hi was erected in 1693 with Senzon, the 4th Gonno Sojo of Sensoji Temple, as the petitioner. The area where the killing of animals was forbidden was around Komagatado Hall. The designated area was about ten blocks(about 1km) along the river from Suwa town as the south limit to Syoden-gishi as the north limit. According to the book "Gofunai Biko (Notes on Edo)," Kosatsu (public notice) were built in Suwa and Syoden town. The building of Komagatado Hall where Kaisatsu no Hi was erected had been burnt down several times in the Edo period. Kaisatsu no Hi had collapsed as well. In 1759 the monument was erected again with the building, The current monument was excavated in 1927 after the Great Kanto Earthquake and was repaired in 1983 when Komagatado Hall was rebuilt. It is not clear whether the repaired monument is the original one or the reerected one in 1759. The body of the monument is made of andesite and it is in the form of plate with the round top. The front surface and both sides were polished, but the back surface is unfinished. The pedestal stone was added during the repair in 1933, and all surfaces are polished. The total height 183.5cm and the front width 61cm. The inscription is listed in "Sensoji Shi (The chronicle of on Sensoji Temple)" and "Edo Meisho Zue (Illustrated guide of famous Edo sites)." It is a valuable material to show us the circumstances around religion in Genroku era and the conditions of the neighboring areas.




駒形橋から下流に向かってひとつ先に架かる橋が三連のタイドアーチが印象的な見所ポイントAの「厩橋(うまやばし)」です。タイドアーチとは、弓のように支点部同士を引張部材(タイ)で結び、水平力を伝達させる形式のことです。



厩橋が架かっている場所には、江戸時代の元禄年間頃から続いていた「御厩の渡し」がありました。この付近の隅田川沿いの河岸地を御厩河岸と呼びましたが、これは蔵前の幕府の米蔵の荷駄馬用の厩があったことによるもので、江戸っ子は御厩を「おんまい」と発音したといわれています。明治五年(1872年)に、花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故がありました。それ以前から転覆事故が多く、「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、民間の手により橋が架けられることになり、明治七年(1874年)10月6日に最初の橋が完成しました。長さ511尺(約150m)、幅20尺(約6m)の木橋が架けられたと伝えられています。場所は現在よりも約100mほど下流だったそうです。この橋は老朽化のために東京府によってプラットトラス形式で長さ86間(約154m)の鉄橋に架け替えられ、明治二十六年(1893年)5月6日に完成しました。当時の厩橋近辺は湿地帯で沼地が多く広い道がなかったため、本所方面から東西に上野広小路へ直接接続する現在の春日通りの建設計画が持ち上がりました。しかし土地買収が難航し、実際に橋が開通したのは明治二十八年(1895年)のことでした。その橋も大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で被災し、現在の厩橋は関東大震災後の昭和四年(1929年)に復興事業として架けられました。1987年から1989年にかけての隅田川著名橋整備事業で補修・補強や装飾が行なわれ、親柱上部には馬が浮かび上がるステンドグラスが取り付けられました。



厩橋の手前に、「うまやの渡し跡」の案内板が立っています。「夜鷹」とは、本所・吉田町や、四谷・鮫ヶ橋あたりに出没した下級遊女のことです。名前の由来は、夜に出没するからとか、夜鷹という夜行性の鳥になぞらえたなど諸説があります。同じような営業形態の遊女を、京都では辻君(つじぎみ)、大坂では惣嫁(そうか)・白湯文字(しろゆもじ)などとも言いました。

うまやの渡し跡

江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、かわりに各所に「渡し舟」がありました。ここには、「うまやの渡し」があり、多くの人々を渡しました。春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。

木版画の説明(日本文)

作品は本所からの渡し舟が、隅田川を横切って浅草御厩河岸に着くところを描いたもの。首尾の松に隣接した渡船場で、近くに将軍家の馬屋があったので、御厩河岸といわれた。舟上に立つ二人は、本所吉田町あたりに住む夜鷹、その横にひかえる男は、牛太郎(客引き)。彼女らの夫か兄弟だろうか。べったりと塗りたくった顔が、夕闇に白く浮き上がっている。対岸のひときわ高い二つの樹木は、松浦豊後守の屋敷の椎ノ木で、その右の方が百本杭である。夜鷹が出現したのは、元禄年間(1688年〜1704年)以後のこととされている。弘化二年(1845年)の「東辻君花の名寄」には、夜鷹の名前や年令、出現する場所などが記載されているが、それによると東両国が五人、浅草御門内が九人、永代橋が四人、御厩河岸が六人など計九十九人と書かれてあった。夜も暗闇にかかる頃本所から浅草界隈に赴く風景で、明るい昼とは異なった雰囲気をかもしだしている。

木版画の説明(英文)

This is a Sumida River scene near Oumaya Riverside in Asakusa on the western bank. The landing stage was near Shubi Pine Tree on the Asakusa River and Oumaya Riverside (No.55 print). Oumaya ('umaya' means 'stable' and 'o' is an honorific prefix) Riverside was so named after a stable kept here by the shogunate. The two women on board a ferry boat are street-walkers and beside them are their touts. Their thickly powdered faces stand out in evening dusk. A tall tree on the bank is a pasania tree in the yards of a feudal lord's mansion. On the right was "One Hundred Stakes of Yokoami". It is said that street-walkers made their appearance in Edo in the Genroku Years (1688-1704). Records of 1845 listed a total of 99 women of the street in all Edo.




厩橋から下流に向かってひとつ先に架かる橋が見所ポイントBの「蔵前橋」です。蔵前橋は、昭和二年(1927年)に完成した関東大震災の復興橋のひとつです。橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されています。昭和二十九年(1954年)9月から昭和五十九年(1984年)12月まで西詰に蔵前国技館があり、橋の高欄には力士などのレリーフが施されています。



蔵前橋が架けられる以前は、この場所に「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場がありました。



蔵前橋の西詰近くに、「首尾の松」があります。現在の松は七代目だそうです。

SHUBI PINE TREE

This pine tree served as a guide sign for people who travelled by boat on the Sumida River in the Edo Period (17th-19th centuries).




「首尾の松」には幾つかの伝承があります。

首尾の松

この碑から約百メートル川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。その由来については次のような諸説がある。
一、
寛永年間(1624年〜1643年)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
二、
吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
三、
首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
初代「首尾の松」は、安永年間(1772年〜1780年)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(1854年〜1859年)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。

SHUBI NO MATSU

About 100 meters (about 330 ft.) down the Sumida River from this monument, on the riverbank, there used to be famous no Mstsu tree 'Shubi no Matsu' (pine tree of success). The origin of the name of the pine tree Shubi is not exactly clear but here are some explanations:
1.
It was named because a man, a shogun's retainer, 'successfully' rode a horse across the flooded Sumida River from the pine tree to the other bank in the presence of the third shogun, Iemitsu.
2.
Men of the world talked together under this pine tree about their 'Shubi (success)' at Yoshiwara when they crossed the Sumida river.
3.
Laver (edible seaweed) used to be harvested here using 'hibi' (long sticks to collect laver) stuck in the river, and the pronunciation of 'hibi' was corrupted into 'shubi.'
The first 'Shubi no Matsu' was blown down during the An'ei era (1772-1780), its successor died during the Ansei era (1854-1859), the third pine died at the end of the Meiji era (around 1910), and their successors were entirely destroyed by the fires of the Kanto Great Earthquake of 1923 and the Second World War. In December, 1962, members of Asakusa-nanbu Association of Commerce, Industry and Tourism regretted the loss of these pines and built a monument close to this bridge in cooperation with the local people. The present pine monument is said to be the seventh tree.




首尾の松と蔵前橋通りを挟んだ対面に「浅草御蔵跡」の碑が建っています。

浅草御蔵跡碑

浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。元和六年(1620年)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、亨保(1716年〜1736年)頃までに浅草御蔵に吸収された。江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和九年のことである。碑は、昭和三十一年六月一日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。

MONUMENT FOR THE TRACE OF ASAKUSA OKURA WAREHOUSE

Asakusa warehouse was used for storing and keeping rice and so forth that was submitted and paid as tax from land scattered across the country which was directly controlled by the Tokugawa Government. Rice in the Asakusa warehouse was suplied mainly to the families of Tokugawa's samurais and was under the control of the chief treasurer. The warehouse was built in 1620 by excreating the hill of the Asakusa Torigoe Shrine and by filling the ground with earth at the present place. The front side of the Asakusa warehouse was called the "warehouse front" and there were many stores of rice wholesalers, weight checkers, moneylenders, etc. on this front side, The town name Kuramae was born in 1934 from the word OKURA front.




蔵前橋から隅田川テラスに入ります。「なまこ壁」は、江戸時代(1603年〜1867年)に幕府が米を備蓄していたこの地域の古い倉庫と同じ様式で建造されています。ここからは隅田川と東京スカイツリーの素晴らしい景色を眺めることができ、ジョギングやゆっくりとした散歩にも最適な場所です。



なまこ壁の所々には、家康が江戸の市街地造成の普請を命じた大名の家紋が埋め込まれています。

家紋の掲示

慶長八年(1603年)、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は、名実共に天下を掌握し、江戸を全国政権の中心にふさわしい都市とする「天下普請」に着手した。家康は、江戸を発展させるためには、港湾都市的形態が最良であると考え、城前方の東京湾波打ち際の方に町づくりを開始した。そこで、神田台(今の千代田区駿河台から大手町に存する一帯)を切り崩し、その土で現在の中央区一帯を埋め立てて市街地の造成を行った。その時家康は、全国の大名に対して、「御手伝普請」を命じ、幾つかの組に編成してこの大規模な工事を進めた。こうして今の日本橋浜町辺りから新橋付近に至る下町が生まれ、また堀川(日本橋川)が造られて着々と港湾都市としての江戸の町づくりが進展した。今回、当時活躍した人達の中で組頭を勤めた主な大名の家紋を護岸壁面に掲示した。




隅田川橋梁は隅田川に架かる鉄道橋で、総武本線を両国駅から御茶ノ水駅まで延長するために昭和七年(1932年)に隅田川に架けられました。



神田川の手前の町域は、かって浅草柳橋と呼ばれていました。石塚稲荷神社の創建年代は不明ですが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといわれています。元禄元年(1688年)に此の地へ遷移しました。花街時代には芸子さん達の信仰を集めていたのでしょう。

旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草柳橋

いくつかの町が整理統合され、昭和九年に誕生した。町名の由来は、神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。「柳橋」は、元禄十一年(1698年)に初めて架けられた。その当時は、川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和四年に架けられたものである。




見所ポイントCの「柳橋」は、神田川が隅田川に流入する河口部に位置する最下流の橋梁です。江戸中期には日本橋下柳原同朋町と対岸の浅草下平右衛門町とは渡船で往来していましたが不便であったため、元禄十年(1697年)に幕府に架橋を願い出て許可され、翌年に完成しました。明治二十年(1887年)に鋼鉄橋に架け替えられましたが、関東大震災で焼失し、震災復興事業として昭和四年(1929年)に現在の橋が完成しました。永代橋のデザインを取り入れたと言われています。



柳橋のすぐ先で神田川は隅田川に合流しています。

柳橋

この橋は、元禄十一年(1698年)に、神田川が隅田川に注ぐところに架けられ、最初は「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の倉があったのにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋は享保頃からの呼称らしい。橋の名の由来には、「柳原堤の末にある」・「矢之城を柳の字に書きかえた」・「橋の柳にちなむ」など諸説ある。鉄橋に架け替えられたのは明治二十年で、現在の橋は昭和四年に完成した。江戸時代、橋畔は船宿が並んで賑わった。幕末・明治以降、柳橋は花柳界として名を知られ、多くの文人・墨客が題材に取り上げている。また、柳橋は落語にもよく登場し「船徳」等はこの地を舞台にした噺である。

[柳橋ゆかりの人々 ]
成島柳北
蔵前生まれ。「柳橋新誌」を著した。
小林清親
「元柳橋両国遠景」で、往時の柳橋周辺の情景を描いた。
正岡子規
句集「寒山落木」の中で「春の夜や 女見返る 柳橋」と詠んだ。
島崎藤村
今の柳橋一丁目に住み、柳橋を題材にした随筆「新片町にて」を発表し、小説「沈黙」の中では大正期の柳橋界隈を情景豊かに書いている。また、代表作の「春」・「家」などの作品も柳橋在住のときに発表した。
池波正太郎
「剣客商売」などの作品で柳橋界隈を取り上げている。


Yanagi-bashi bridge

A bridge was first built on this spot in 1698 - the 11th year of the Genroku Era right where the Kanda River flowed into the Sumida River. At first, it was known as the Kawaguchi-Deguchi-no-Hashi or "River Mouth Bridge" but as some of the Shogunate's armories were located nearby, it is said that it was also known as the Yanokura-bashi (armory bridge) or Yanoki-bashi (castle bridge). It apparently came to be known as Yanagi-bashi or "Willow Bridge" since the early 18th century (Kyoho era). A number of stories exist that explain the origin of the name. One idea is that the bridge stood on the edge of the area known as Yanagihara. Another story suggests that the "Yanoki" was simply re-written as "Yanagi", and yet another states that the bridge was named after a willow tree that stood on the road approaching the bridge. The bridge was re-built in iron in 1887, and the current incarnation of the bridge was completed in 1929. During the Edo Period, the approach to the bridge was a bustling road lined with companies that operated pleasure cruises on the river. After the fall of the Shogunate and the Meiji Restoration, Yanagi-bashi was well-known for its red light district, and a great many literary and artistic figures used it as a subject of their work. The bridge also appears often in the narratives of Rakugo, including the tale Funatoku.

People Connected to Yanagi-bashi
Ryuhoku Narushima
Born in the Kuramae area. Wrote the work The New Chronicles of Yanagi-bashi.
Kiyochika Kobayashi
His work, A Distant View of Ryogoku Bridge from Motoyanagi Bridge, shows a detailed view of the area around the bridge as it once looked in the past.
Shiki Masaoka
The haiku he composed was in the poetry collection Kanzan Rakuboku:
Oh, one spring evening. A womam tums and looks back. Yanagi-bashi
Toson Shimazaki
Lived in what is now Yanagibashi 1-chome. He worte an essay about Yanagi-bashi called in Shinkatamachi, and his book Silence paints a vivid picture of the neighborhood in the early 20 centuly. Also the famous books, including Spring and The Family, were published white he lived in the area.
Shotaro Ikenami
The author of such works as Kenkaku Shobai (The Swordsman's Trade) about the area around Yanagi-bashi.




神田川沿いの南側の歩道を進みます。河岸には隅田川遊覧の屋形船が係留され、「神田川船溜まり」と呼ばれる船宿が並んでいます。



見所ポイントDの「浅草橋」の橋名は、江戸時代に築かれた浅草御門に由来します。

旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草橋

浅草橋という町は昭和九年(1934年)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636年)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。




浅草橋の北詰に小さな公園があり、植栽の中に「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附は、江戸時代に36ヵ所あった江戸城の警備施設である見附門のひとつです。外様大名や不審者を取り締まる際に使われ、浅草観音へ向かう通り道であったことから「浅草御門」と呼ばれたこともありました。石碑の裏面に説明文が記されていますが、殆ど読みとれません。【碑文はネットからの転載になります】

浅草見附跡

浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永十三年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで、昭和九年6月1日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生れた。




開智日本橋学園中学・高校の前に、浅草見附の石垣に使われていた石垣石が展示されています。

「出土した江戸時代の石垣石」

この石が出土した場所は、ここから西へ約50m〜60m行ったところになります。そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った柳原土手という土手でした。神田川は江戸城の防御のための堀の役割も果し、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東にある浅草橋御門と呼ばれる城門があり、この一帯は江戸城内でも重要な位置にあたります。この石は、平成十九年12月から平成二十年5月にかけて行なわれた発掘調査において、地下1mほどで発見されました。伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石です。こうした石が6段前後、高さ3m〜4mに数十個積まれた状態で見つかりました。これは江戸城の防御を固める石垣です。土手の南側を補強する意味もあったのかもしれません。土手の形に沿って東西に長く築かれていました。今回の発掘調査で、はじめてここに石垣が築かれていたことがわかった新発見の資料で、まさにこの一帯が江戸城の一角を成していたことがわかる貴重な出土遺物です。




浅草橋の南詰には、「郡代屋敷跡」の案内板が立っています。

郡代屋敷跡

江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。関東郡代は、天正十八年(1590年)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642年)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688年〜1704年)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政四年(1792年)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(1806年)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。




ようやっとゴール地点の「左衛門橋」に辿り着きました。左衛門橋は、東神田二丁目と東神田三丁目の間を繋いでいます。かって、橋の北側に酒井左衛門尉の屋敷があったことからこの橋名が付きました。現在の橋は、昭和五年(1930年)5月に架設され、長さ35.5m・幅15.6mの鋼橋になっています。左衛門橋の北側一帯は、かって浅草上平右衛門町・浅草左衛門町と呼ばれていました。

旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草上平右衛門町、浅草左衛門町

浅草上平右衛門町を開いたのは、平右衛門という人物である。天正十八年(1590年)家康の江戸入国に従い江戸へ入り、元和二年(1616年)、家康が浅草寺へ参詣した際、この地に町家を開くことを命じられた。町名は、平右衛門が住んでいる土地ということで付され、この地の名主になった。当初、町名には上下の区別は無く「浅草平右衛門町」であったが、俗に浅草御門(現浅草橋南詰にあった)より東側を下平右衛門、西側を上平右衛門と称していた。明治五年(1872年)になり正式に上下二町にわかれた。昭和九年(1934年)、上平右衛門町は二分され、東側を浅草橋一丁目とした。残った西側部分も昭和三十九年(1964年)の住居表示制度の実施で、浅草橋一丁目となった(左図町名遍歴表参照)。一方、浅草左衛門町が起立したのは、明治二十三年(1890年)である。この地には、慶長三年(1598年)以来、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉邸(明治元年現在で十二万石、領主酒井忠宝)があったが、明治元年(1868年)に収公され、同五年に町屋が開かれた。当初、平右衛門町の隣にあったことから、新平右衛門町と称していた。後に、神田川に望むこの地を俗に左衛門河岸と呼んでいたのをとって町名となった。




ということで、長かった台東区のお散歩は目出度く終了しました。台東区は名所や旧跡が多く、見所満載でした。次は一転して地味な練馬区のお散歩コースを巡ります。




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