- ねりまの散歩道 @石神井公園コース
四季を通じて楽しめる歴史と自然
石神井公園コースは、都立石神井公園を中心に、駅前商店街からみどり豊かな住宅地、石神井川や寺社を巡る散歩道です。石神井川がつくった地形の起伏を感じながら、武蔵野の面影が残る雑木林や水辺の自然、歴史ある寺社など、様々な景観を楽しむことができます。
コース 踏破記
今日は練馬区の「ねりまの散歩道 @石神井公園コース」を歩きます。石神井公園駅南口をスタート地点として、石神井公園の緑と石神井川の遊歩道を巡ります。このコースを最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、見所ポイントをかなり見落としていましたので、2024年4月に再度歩きました。桜が満開の時期でしたので、秋と春の写真が入り交じっています。
スタート地点:石神井公園駅南口
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- ポイント1 古道と新道
- この道は、南田中から大泉へと続いていた古くからの道でした。昔の地図でも確認できますが、その形から歴史を知ることができます。ポイントは、見通しを妨げる適度にゆらいだ形状と、この道から派生したT字路の多さです。往来のための古道からまちが開かれた様子が、道の形に表れています。
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- ポイント2 眺望のバリエーション
- 石神井池の北側の一帯は、南の方角に池と公園を望む住宅地です。池を見下ろす眺めがとても素晴らしいです。沿道のみどりが坂道を下り、池の畔のみどりと繋がって、石神井公園らしさを醸し出しています。こうした坂道がいくつもありますが、傾斜の違いによって、石神井池の眺めが少しずつ異なり、歩いていてとても楽しい景観を生み出しています。
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- ポイント3 2つの池の対比
- 都立石神井公園は、人工池である石神井池と天然池の三宝寺池の異なる景観を兼ね備えています。
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- ポイント4 参道を歩く
- 氷川神社には、石神井川に向かって下っていく、みどり溢れる石畳の境外参道があります。この参道は、境内に向かって進むとある地点から急に神社がまっすぐ目の前に現れる劇的な空間です。
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- ポイント5 川と寺社の回遊路
- 所沢道とも呼ばれる旧早稲田通りは、氷川神社、三宝寺、道場寺、禅定院と数多くの寺社が集まる旧道です。石神井川が併走しているので、2つの道を行き来して寺社巡りと川辺のそぞろ歩きを楽しむことができます。
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- ポイント6 橋詰の広がり
- 石神井川と井草通りの交差点にあるさくらの辻公園は、その名のとおりサクラの木が植えられ、蛍橋の橋詰にある公園です。人の視線が集まりやすい角地に広がる水とみどりの空間です。
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- ポイント7 塀をみる
- さくらの辻公園の東側は、かつて石神井川が蛇行していた流域部のヘリにあたります。この辺りは、河川改修に伴って宅地開発された住宅地です。塀をよく見ると、様々な模様を見つけることができます。
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- ポイント8 水路敷を辿って
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- ポイント9 南田中のスカイライン
- 南田中橋に立って下流を眺めて見ると、石神井川の水面と、両岸の南田中団地の建物とサクラの並木が一体化して、印象的な河川景観を望むことができます。サクラの木と建物の高さが調和し、視線の奥にランドマークとして平成みあい橋と給水塔があることもポイントです。
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- ポイント10 傾斜地と松の風景
- 石神井川の流域跡の道から、北側の斜面を見上げると立派な松が何本も立っています。昔から松が自生していた武蔵野台地で、川の名残と松がつくる石神井の原風景を垣間見ることができます。
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- ポイント11 坂道とみどり
- 石神井公園駅から石神井池に向かう途中、稲荷神社の境内のみどりが坂道を下るように石神井川へと連なる印象的な道路景観が現れます。坂道だけでなく、道の曲線に沿ってもみどりが一望できるため、より一体的なみどりの街並みを感じることができます。
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- ポイント12 商店街
- 石神井公園駅から商店街通りを進んでいくと、道が折れ曲がっていて先が見通せません。この通りの先には石神井公園。賑わいを道路空間に閉じ込め、さらにはこの先への期待を抱かせます。
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ゴール地点:石神井公園駅北口
スタート地点の石神井公園駅南口から歩き始めます。石神井公園駅は、大正四年(1915年)4月15日に「石神井駅」として開業し、昭和八年(1933年)に現在の駅名の「石神井公園駅」に改称されました。特急と平日朝ラッシュ時に千鳥停車運用で運行される通勤準急を除いた全旅客営業列車が停車する利便性の高い駅です。「千鳥停車」とは、混雑時間帯などに列車の種別(特急・急行・準急・普通など)によって同一時間帯に停車駅を分散させる方式です。
駅の南口から富士街道方向に商店街を歩きます。ごちゃごちゃとお店が入り組んだ典型的な郊外の駅前風景です。石神井公園駅入口交差点を直進し、ファミマの角で右折します。この通りが南田中から大泉へと続いていた古くからの道のようです。
狭い路地が至るところで交差していますが、T字路が多いですね。ポイント1の「古道と新道」は、古道に繋がるようにして町が形成されてきた証だそうです。
古道は富士街道と交差します。富士街道は、練馬区の谷原交差点から西東京市の西武柳沢駅付近までを結ぶ都道で、富士山が見えることに因んで歴史的に定着した名称の「富士街道」と呼ばれるようになりました。
交差点の角に「子育地蔵遊び場」があり、その中に地蔵像が祀られています。昔からの街道筋だったことを窺わせます。
大山街道はあちこちに見られますが、富士街道もそのひとつだったんですね。
大山街道
大山街道は道者街道、富士街道ともよばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山へ、また大山から富士山への道者達が通ったからです。北町一丁目で川越街道から分かれて、石神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東から西南に横断して区内では約八キロメートルに及んでいます。そしてその分岐点には、「従より大山道」と刻んだ道しるべが建てられたのです。旧暦の六月は、俗に祭月とよばれているように、江戸や関東の各地では、祭礼がさかんに行なわれました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」とあるように、六月二十八日が初山で、それから七月十四日まで、連日、関東の村々から集った人々でにぎわいました。その白衣の道者たちが通ったのがこの街道です。
石神井池の北側はなだらかな丘陵になっていて、坂の両側には住宅が建ち並んでいます。南向きで日当たりが良く、また正面に石神井池の湖面と緑の樹木が眺められ、ポイント2の「眺望のバリエーション」が楽しめます。
中には豪邸と呼ぶべき館も見られます。
こんな生け垣は見たことがありません。手入れも大変でしょうね。
石神井公園は、三宝寺池と石神井池というふたつの大きな池を中心に、雑木林・高い木立がそびえる広場・史跡・運動場などから構成されています。ポイント3の「ふたつの池の対比」ですが、三宝寺池は井の頭池・善福寺池と並んで武蔵野三大湧水池として知られており、天然記念物の三宝寺池沼沢植物群落があります。もうひとつの石神井池は通称ボート池と呼ばれ、人工的に作られた池です。
石神井公園の案内板が立っています。
都立石神井公園
●石神井公園は、三宝寺池と石神井池の二つの池を中心に構成されており、豊かな自然と、石神井城址などの史跡や伝説もある武蔵野のおもかげが多く残されている公園です。特に三宝寺池周辺では、国の天然記念物である沼沢植物群落を始めとして、多くの自然が残されています。
●園内では、春は花見、夏は石神井池でのボート遊び、秋は紅葉、冬は水鳥など、それぞれの季節ごとにさまざまな花や景観を楽しむことができます。
石神井池ではボート遊びが楽しめます。井の頭池と違って、カップルで乗っても別れることはありません。
三宝寺池は、古来より武蔵野台地の地下水が水源となった池で、昭和三十四年(1959年)に人々が池周辺を散策できるように整備されました。しかし、年々池の水量は減少していて、景観維持のために人工的に地下から揚水して水面を維持しています。池の名称は隣接する三宝寺に由来しています。
武蔵野台地に位置する都立石神井公園内の三宝寺池は、石神井川有数の水源地です。その豊富な湧水のもと氷河期から生息してきた湿性植物が昭和十年に「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定されました。しかし、戦後、周辺地域の急速な都市化により、湧水は以前のように確認することが難しくなりました。以来、水温の上昇や水質の悪化、土砂や植物遺体の堆積などに伴い、指定当時に見られた湿性植物の種類や生息数が激減し、当時の浮島の様子も変化してしまいました。そこで東京都では、平成五年度から水質改善や稀少植物の保護増殖事業に取り組んでいます。また三宝寺池の南側一帯には、室町時代に豊島氏の居城だった石神井城跡があり、土塁や空堀などの遺構が見られます。
大正時代に日本初の100mプールが設置され、戦後(1955年〜1987年)は西武鉄道が「石神井釣り道場」として運営していた場所は、平成元年(1989年)に水辺観察園として整備されました。
水辺観察園へようこそ
○水辺観察園開園の経緯について
ここは、かつて釣堀となっていましたが、1987年頃釣堀が閉鎖、公園用地として買収されました。以前三宝寺池はトンボの楽園といわれましたが、湧水の枯渇などにより環境が悪化していました。そのため、東京都は、自然の復元に取り組み、「トンボの住める環境づくり」めざし、住民団体と計画段階から協議を重ね、平成元年(1989年)6月、水辺観察園が完成しました。水路・湿地・池・樹林・草地から構成され、水源は約500立方メートル/日の井戸です。総面積は約4、200平方メートルです。当時東京都は水辺観察園の整備目的を次のように定めました。「かつての三宝寺池が有していたであろう水辺の景観、澄んだ湧水、動植物をよみがえらせ、その価値を来園者に認識してもらい、三宝寺池の保護と自然回復の機運を高めるための基盤とする。
○維持管理作業について
この水辺観察園で見られる植物の多くは、武蔵野に自生し今は少なくなった植物や練馬区に自生し今は少なくなった貴重な植物です。この水辺観察園では、405種の草本・木本の野生植物(うち東京都の指定重要種38種)が確認できました。(種数は2006年、「石神井公園野鳥と自然の会」調査記録)
三宝寺池には、国の天然記念物(1935年指定)である三宝寺池沼沢植物群落があります。
国指定天然記念物 「三宝寺池沼沢植物群落」
三宝寺池は、昭和三十年代頃までは冷たく澄んだ湧水をたたえた池でした。そのため、東京では珍しい沼沢植物が生育しており、昭和十年(1935年)に「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定されました。指定当時は、大きなハンノキは少なく、中の島にはカキツバタが一面に咲き乱れ、シャクジイタヌキモやジュンサイ等の貴重な沼沢植物が見られました。しかし、昭和三十年代以降の急激な都市化に伴う湧水の減少により、池の水温の上昇や水質の悪化が進んでいます。また、昔は人々が生活のために刈り取っていたハンノキやヨシ、マコモが放置されて繁茂したことにより、池の環境が大きく変化し、貴重な植物の多くが消滅してしまいました。この状況を改善するため、専門家や文化庁の指導・助言のもと、ハンノキの萌芽更新やヨシ等の大型水生植物の刈り取り等、以前の環境を回復させるための管理を進めています。その結果、カキツバタやミツガシワ、ハンゲショウ、コウホネ等の貴重な植物は順調に増え、消滅した植物も少しずつ回復しています。
池の畔に恐ろしく年季の入った石碑が建っています。頑張って読み解きましたが、殆ど意味を成していませんね。
石神井城址史跡碑
水鶏鳴き蛍に名を得たる當石神井城址は其昔豊島の豪族代々此の池を中心?附近一帯を居城となせしが、文明九年豊島勘解由左衛門尉泰経の代に至り、長尾景春は管領上杉顕定に叛き、武蔵相模の同志と相謀り兵を興す?及び當城主泰経?平塚城主なる弟平左(右?)衛門尉泰明と共に景春に應じ江戸河越の通路を断ちしかば江戸在城扇谷上杉定正の臣太田道灌兵を率て平塚城を攻め、城下に火を放つとの報?より泰経直ちに之を救んと當城??練馬城の兵を卒て馳向ふ途中、江古田ケ原沼袋にて大田の軍と遭遇。激戦数刻にして遂に泰明及板橋赤塚の一族百五十有余名討死す。大田勢は時を移さず練馬及當城に攻め入れば、豊島勢善く戦しも衆寡敵せず城遂に陥落す。時に文明九年四月十八日の事なり。星移り物?り春秋を重ぬる事五百回天地の悠久に此す?ば人生蜉蝣の如く興亡轉た夢の如し往時を顧る者此なく年経る?つれ、此の郷土の貴き史蹟を忘れらるゝを惜みて之を(臣と又と石【コウ/キョウ】)に??て後世に傳ふ。
石神井城の築城時期は定かではありませんが、鎌倉時代後期頃であったとされています。この場所には、元々宇多氏・宮城氏らの館が構えられていましたが、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が城を築き、それ以降この地は豊島一族の本拠地となりました。豊島氏は新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められて落城し、その後廃城になりました。練馬区の案内板が立っています。
石神井城跡
石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父平氏で、南北朝時代には、石神井郷を領有していました。室町時代に、城主の豊島勘解由左衛門尉(泰経)は、関東管領の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために、顕定を援助していた上杉定正の重臣である江戸城主の太田道灌により攻められ、文明九年(1477年)四月、落城したと伝えられています。石神井城は、三宝寺池と石神井川の低地に挟まれた舌状台地にあります。その周囲は空堀や土塁でめぐらされており、今でも土塁と空堀を見ることができます。のちに、落城によって照姫が水中に身を投げたという物語が作られ、語り継がれています。
*東京都の史跡に指定されています。
こちらは東京都教育委員会の案内板です。商店街に「照姫まつり」のポスターが沢山貼り出されていましたが、これは地元に伝わる「金の乗鞍と照姫」の伝説を題材にした物語です。伝説のあらましは、次の通りです。
大田道灌に攻められ最後を悟った石神井城主の豊島泰経は家宝「金の乗鞍」を置いた白馬にまたがり、城の背後の三宝寺池に身を沈めました。泰経の娘で、美しく聡明な照姫もまた父の死を悲しみ後を追って三宝寺池に身を投げました。道灌はこれを憐れみ、照姫の亡骸を弔って塚を築きました。この塚はいつしか姫塚と呼ばれ、そのそばに立つ老松に登ると、池の底に泰経とともに沈んだ金の鞍が燦然と輝いているのが見えるといわれています。
東京都指定史跡 石神井城跡
石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城でした。石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49メートルの舌状台地上に所在し、東西約350メートル、南北約350メートルの規模の主郭と外郭からなる、比較的単純な構造の中世城館です。昭和三十一年(1956年)以降の数次の発掘調査によって、主郭や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。文明八年(1476年)の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので、扇谷上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。
Historic Sites Shakujijo Ato (The ruins of Shakujijo Castle))
The Shakujijo Castle belonged to Toshima family (one of Chichibu Taira clan), who
had influence in the present northern are of the wards of Tokyo from the end of
the Heian period to the middle of the Muromachi period. It was located on the
tongue-shaped plateau at an altitude of about 49 m between Sakuji River and Sampoji Pond. This medieval castle consisting of the main and outer compounds whose scales
were 350 m by 350 m had a simple structure. Ceramic wares from 12th century AD to
early 16th century AD have been excavated at the main compound and mounds through
several seasons of the excavation after 1956. The then lord of the castle, Toshima
Yasutsune, was attacked by a main retainer of the Ogigayatsu Uesugi clan, Ota Dokan because he was on the side of Nagao Kageharu in his rebellion of 1476, and the castle fell next year, the tales about the fall of the castle have come down. For example,
Yasutsune was said to down himself in Sanpoji Pond riding on a white horse, and his
first daughter, Teruhime, also followed him.
石神井城の中心部分にあたる内郭の土塁と空堀は今も残っています。
石神井城の中心内郭跡
石神井城は、平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つです。城の築城は、鎌倉時代後期と考えられ、文明九年(1477年)四月二十八日に太田道灌に攻められ落城し、廃城になりました。「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経は、石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の一月二十五日、再び道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げています。その後の泰経の足どりは、記録として文献には残っていません。城は、石神井川と三宝寺池に挟まれた台地に築かれており、全体では九ヘクタール前後の規模であったと推定されています。当時の城は、土塁と壕で土地を四角形に区画した場所(郭)をいくつか築き、防御施設としていました。例えば、城の東側は、ここより約100メートル程の場所に幅7メートル程の壕で区画されていたと考えられ、西側は、ここより約220メートル程の場所に幅9メートル程の壕と土塁で区画されていました。また、北側と南側は、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。この場所は、本城の中心となる郭で、土塁と壕が良く残っています。昭和四十二年の発掘調査では、次のような規模の郭であることがわかりました。
空壕 上幅 11.6メートル
底幅 3 メートル
深さ 6.1メートル
土塁 基底幅 12.3メートル
現在高 2.3メートル
(築城当時の高さ推定 4.5メートル)
また、内部は平坦であり、陶磁器片、かわらけ(素焼土器)、鉄釘なども出土しており、何らかの建物があったと考えられます。
石神井城主郭跡は木立に覆われ、正に「夏草や 兵どもが 夢の跡」状態です。
石神井城 主郭跡
中世に活躍した武将、豊島氏の居城であった石神井城の中心部分です。三宝寺池側は崖で、残る三方には堀と土塁が築かれていました。内部(内郭)は平坦で、有事の際に利用する建物などがあったと考えられている場所です。平成十年から6年間にわたって実施した市民参加の発掘調査では堀と土塁及び内郭の一部が明らかになりました。堀は調査地点で幅約12m、深さ約6mで、断面U形に関東ローム層(赤土)を掘り下げ、底面を約3m幅で平らにした「箱堀」であることが分かりました。水が溜まっていた痕跡が無く、空堀です。また、掘り上げた土は黒土を混ぜて少しずつ固めながら内側に盛上げ、土塁を築いています。崩れていた土の量から推定すると現在より約3mも高かったと推定されます。堀と土塁を合わせると比高差10m程となり、堅固な防御施設であったことが分かります。土塁からは14世紀後半から15世紀に作られた常滑焼の甕や鉄製小刀が出土しています。内部の建物跡は明確にできませんでしたが、柱穴が発見されており小規模な掘立柱建物が建てられていたと考えられます。調査では、12世紀〜16世紀にかけての中国製陶磁器や常滑焼、渥美焼などが少量ですが出土しており、豊島氏の財力を示すとともに、生活用具の出土は内郭建物で居住していたことの可能性を示唆しています。
主郭からは、三宝寺池がまるでお堀のように見えたことでしょう。
厳島神社は三宝寺池に浮かぶ中島に鎮座しています。厳島神社の創立年代は不詳ですが、豊嶋氏が石神井在城中に創建したと推定され、江戸時代には、弁天社・水天宮として既に史料に残されています。神仏分離後に弁天社が厳島神社になったといわれています。明治四十一年と大正四年に近隣の字観音山の稲荷神社・字沼辺愛宕神社・字西村の御嶽神社を合祀し、昭和五十八年に現在の社殿が竣工しました。
石神井城址に隣接して氷川神社が鎮座しています。氷川神社は、此の地の領主だった豊島氏が居城の石神井城の城内に大宮の氷川神社から分霊を勧請して応永年間(1394年〜1428年)に創建されました。太田道灌によって石神井城が落城した後に現在地に移転し、石神井地区の総鎮守となりました。氷川神社の特徴として境内末社が多いことが挙げられ、榛名・浅間・御嶽・阿夫利・三峰・北野・八幡・御嶽・三島・須賀・稲荷の各社があります。
氷川神社
氷川神社は、社伝によると応永年間(1394年〜1428年)この地を領していた豊島氏が武蔵一の宮の分霊を奉斎して石神井城内に創建したといわれています。祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱です。文明九年(1477年)石神井城落城のあとは、石神井郷の総鎮守として上石神井・下石神井・谷原・田中・関の五か村の人びとから崇敬されました。境内末社には江戸時代からの北野・須賀・稲荷をはじめ御嶽・八幡・三嶋・榛名・浅間・三峯・阿夫利の各社があります。境内には、享保十二年(1727年)の「石神井郷 鎮守社 御手洗鉢」と刻まれた水盤をはじめ多くの石造物があります。なかでも本殿瑞垣の内にある左右一対の石燈籠は、右側の竿に元禄十二年(1699年)豊島泰盈が寄進したことが刻まれ、左側のものは、火袋が失われ銘文が欠落していますが、泰盈の子泰音によって奉納されたと伝えられています。
○豊島氏奉納の石燈籠(平成六年度 練馬区指定文化財)
○氷川神社の水盤(昭和六十三年度 練馬区登録文化財)
本殿横に豊島氏奉納の石燈籠が保存されています。豊島氏奉納の石燈籠は左右一対で、総高154センチメートルの大きさです。右側のものは火をともすところであった火袋を失っています。竿に「元禄十二己卯歳(1699年)十二月吉祥日」「石神井郷 願主豊嶋七兵衛尉平泰盈」の銘があります。左の方は磨滅により願主銘文が欠落していますが、泰盈の子、泰音の寄進と伝えられています。
境内の奥に古びた水盤があります。伊賀衆奉納のこの水盤は石造で、幅108センチメートル、奥行59センチメートル、高さ62センチメートルの大きさです。正面に「石神井郷 鎮守社 御手水鉢」の文字が彫られ、背面には享保十二年(1727年)の銘があります。区内神社にある水盤としては最古のものです。伊賀衆は、天正十年(1582年)に京都で起こった「本能寺の変」の知らせを聞いた徳川家康が国元の三河に急いで帰国する際に家康一行を警護しました。伊賀衆はこの功績により新たに領地を与えられ、そのひとつが練馬の大泉でした。水盤はその地にあった愛宕神社の稲荷社に奉納されていましたが、廃社後に氷川神社に移されました。
氷川神社の参道は住宅地の先まで延びています。ポイント4の「参道を歩く」では、石神井川から境内に向かって進むと、参道の入口の先から急に神社がまっすぐ目の前に現れるという現象が体験できます。これは入口のところが少し上り坂になっていて、坂下から坂上に出ると神社が浮かぶように出現するという仕組みです。意図的に傾斜をつけたかどうかは分かりませんが。
入口付近では坂の先には本殿は見えませんが、坂を上るとあ〜〜〜ら不思議!
旧早稲田通りの北側には多くの寺院が集まっています。旧早稲田通りの南側には石神井川が流れ。ポイント5の「川と寺社の回遊路」を形成しています。
三宝寺は関東三十六不動霊場第十一番札所で、石神井不動尊とも呼ばれています。お堂や歴史的建造物の数が多く、パワースポットやインスタスポットとしても知られています。隣接する石神井公園にある三宝寺池の名称の由来にもなっています。三宝寺池にある厳島神社は、古くは三宝寺配下の弁天社で、池の古称も弁天池と呼ばれていました。明治時代の神仏分離令によって弁天社は厳島神社となりました。かっては、三宝寺池から近くを流れる石神井川まで三宝寺川(古称・弁天川)が注いでいて、三宝寺池の湧水が枯渇するまでは三宝寺池は石神井川の主水源でした。
三宝寺
三宝寺は、江戸時代には山号を亀頂山といい、不動明王を本尊とする真言宗智山派の寺です。室町時代の応永元年(1394年)、権大僧都幸尊が開山したと伝えられています。文明九年(1477年)石神井城落城の後、石神井池南方台地上の現在の野球場周辺から現在地に移ったといわれています。戦国時代には小田原北条氏、江戸時代には徳川氏から保護を受け、近くに数十の末寺をもち、府内八十八か所巡りの第十六番札所となっていました。二度の火災で、焼失したものもありますが、優れた仏像や絵画などを、今でも数多く所蔵しています。また、山門は、三代将軍徳川家光が狩りをしたとき、ここを休憩所としたことから「御成門」と呼ばれるようになったと伝わります。山門東側の長屋門は、勝海舟邸の屋敷の門を移したものといわれています。
なお、次の練馬区指定・登録文化財が所在しています。
練馬区指定文化財
〇三宝寺の梵鐘 一口(鐘楼に吊られているもの)
練馬区登録文化財
〇弥陀三尊来迎画像板碑 一基(子育千体地蔵堂に保管)
文明四年(1472年)銘。来迎画像が描かれている。
〇三宝寺山門 一棟
〇永享八年の夜念仏板碑 一基(子育千体地蔵堂に保管)
永享八年(1436年)銘。国内最古の夜念仏板碑。
境内の入口には、三宝寺山門が聳えています。
練馬区登録有形文化財 三宝寺山門
重厚な造りの四脚門で、主柱や控柱は上下を細め、肩を丸めた粽付き円柱。頭貫の獅子、象や獏の彫刻などに、江戸時代後期の特徴が示されている。
文政十年(1827年)建立の山門は「御成門」とも称され、境内で最古の建築物です。徳川家光が鷹狩りで立ち寄ったことに因んで御成門と称されています。
御成門
寛永二年(1625年)及び正保元年(1644年)に、徳川家光が狩猟の際、當山が休憩所とされたので、この山門を御成門と称するようになった。江戸時代には、平常は門扉を閉して庶民の通行を禁じていたといわれている。棟札に記されたところによれば、當山第二十三世宥泉和尚が、布施物を蓄積して再建したものである、という。文政十年(1827年)七月二十六日に成り、二度の火災にもその難を免れ、富山第一の古建築であるばかりでなく、當地方稀に見る傑れた山門である。昭和二十八年(1953年)本堂完成と共に修覆の工を終えた。
境内には立派な鐘撞堂が建っています。
練馬区指定有形文化財 三宝寺の梵鐘
銅製。高さ164.4センチメートル、口径85.8センチメートル。鐘の下部には唐草文、撞く部分に八葉蓮華文があるのが特徴です。銘文には延宝三年(1675年)、椎名伊予守藤原吉寛によって、造られたことが記されています。
鐘楼
鐘は延宝三年(1675年)の鋳造であるが、鐘楼は度々改築されている。近年では明治二十八年(1895年)四月に再建され、境内中央の榧の木の東の位置にあったが、昭和三十四年(1959年)九月、檀徒総代小俣新五左衛門氏の寄進によって、長屋門を入った左側に一丈程の間知石の基壇を積んで移建された。そののち昭和四十九年(1974年)大師堂改築と期を一にして現在地に改築された。
「お砂踏み」とは、四国八十八ヶ所霊場のお遍路をしたくても事情があって現地に行けない人のために、四国八十八カ所それぞれの「お砂」を持ち帰ってもらい、しかるべき場所に敷いて踏みしめながらお参りすることで巡礼とみなすことです。そのご利益は実際の遍路と同様とされています。
四国八十八ヶ所お砂踏霊場案内図
四国八十八ヶ所お砂踏霊場とは、むかし弘法大師空海上人が修行された四国の各地に因んで開かれた「四国八十八ヶ所霊場」を模して、この三宝寺の境内に設けられたものです。明治二十八年(1895年)、第二十九世真事阿闍梨が発願され建立されたものですが、十七ヶ所を建立したところで中断されていました。昭和四十八年(1973年)宗祖弘法大師ご誕生一千二百年を期して第三十四世穎典和尚がその完成をめざし、多くの檀信徒のご協力を得て結願したものであります。完成の時には檀信徒の代表数十人によって四国を遍路し、その寺々のお砂をいただいて各札所の寺標石の下にお納めし、この霊場を参拝すれば、四国霊場を参拝したのと同じご利益がある、といわれています。尚、お砂踏霊場入口左側に建立されている「弘法大師」の石碑は、天保五年(1834年)「宗祖弘法大師一千年御遠諱報恩供養塔」として、第二十四世慶尊阿闍梨が建立されたものです。
本堂左手の根本大塔と大師堂の間には木立が生い茂り、木々の間に石碑が並んでいます。三宝寺のお砂踏みは、木立の中に並んだ石碑を札所に見立て、順番に巡っていく方式です。石碑には「第1番 霊山寺 本尊名釈迦如来」などと、各札所の寺院名とご本尊が記されています。
四国八十八ヶ所お砂踏霊場
明治二十九年(1896年)、時の住職清護真事師が発願されたもので、十七ヶ所が出来上がったところで、未完成のまま約七十年間中断されていた。昭和四十八年(1973年)、弘法大師ご誕生1200年記念事業の一つとして、檀信徒に呼びかけその完成を目指し、残り七十一ヶ所と高野山奥之院を合わせて七十二ヶ所、合計八十九ヶ所が建立された。
長屋門は、元々は勝海舟邸の門で、1960年に旭町にあった兎月園から移築されました。当時の住職が練馬区教育委員長をしていたことから、移築の要請を受け入れたとのことです。
通用門(長屋門)
練馬区旭町兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者の明電舎の事情により、取毀しの処分を受けるに際し、當時の練馬区長須田操氏の斡旋で、當山に移建された。昭和三十五年(1960年)十一月、新井工務店の手によって解体移建された。
三宝寺に隣接して道場寺があります。道場寺は、応安五年(1372年)に当時の石神井城主豊島景村の養子であった豊島輝時(北条高時の孫)が大覚禅師を招いて豊島氏の菩提寺として創建したとされています。当初は臨済宗の寺院でしたが、慶長六年(1601年)に曹洞宗に転宗しました。道場寺には、道場寺に対して租税等を課さないと確約した保証書である「北条氏康印判状」が所蔵されています。
道場寺
道場寺は、豊島山といい曹洞宗(禅宗)の寺です。この寺は、文中元年(北朝応安五年【1372年】)、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に寄付して、豊島氏代代の菩提寺としたと伝えられています。今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明九年(1477年)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔三基があります。道場寺には、北条氏康印判状が所蔵されています。この古文書は、永禄五年(1562年)四月二十一日、小田原の北条氏康(1515年〜1571年)から禅居菴にあてて発給した虎の朱印状です。内容は、道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、練馬区内では、現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書です。境内の三重塔[昭和四十八年(1973年)建築]内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されています。
練馬区指定文化財
北条氏康印判状
境内には、総檜造りの三重塔が聳えています。数百年も経った建築物かと思いましたが、実際には昭和四十八年(1973年)に建てられたとのことです。
道場寺は旧早稲田通りに面していますが、この道はかって所澤道と呼ばれていました。
所沢道
所沢道は、八成橋で杉並区から練馬区へ入ります。禅定院の門前で向きを西に変え、道場寺・三宝寺を通って、富士街道を斜断した後、南大泉を経て保谷市に入り、所沢へと通じています。概ね今の「早稲田通り」です。「新編武蔵風土記稿」では、この道のことを単に「所沢へノ道」と記してあり、はっきり「所沢道」と書かれたのは「石神井村誌」(大正四年)が初めてのようです。関東大震災後、都市計画により名称が「昭和通り」となり、大部分の区間で拡幅工事が行われましたが、禅定院から石神井小学校の間には、今も所々に旧い道が残っています。八成橋には谷原長命寺への道標があります。江戸の文人、太田南畝が「石神井三宝寺遊記」で歩んだ道でもあり、大泉・石神井から、江戸方面への産業の道であったと共に、江戸からの参詣・行楽の道でもありました。
石神井川と井草通りが交差する地点に架かる橋が蛍橋です。蛍橋の先には「さくらの辻公園」があり、ポイント6の「橋詰の広がり」が見て取れます。さくらの辻公園は石神井川沿いのお花見スポットとして有名な公園で、公園内には砂場やすべり台などが設置されていて、地元の親子連れの憩いの場となっています。ところどころにあるベンチやテーブルではお弁当を広げる姿が多く見られ、静かな雰囲気の中でゆっくりとピクニック感覚で過ごせます。今は満開の時期は過ぎましたが、見事な桜のトンネルの下を花吹雪を浴びながら歩くことができます。
さくらの辻公園の東側地区はかつて石神井川が蛇行していた流域部の縁にあたり、河川改修に伴って宅地開発された住宅地です。ポイント7の「塀をみる」ですが、塀には様々な模様が施されているとのことですが、路地に面した住宅の塀をくまなく見ても格別それと思われる模様は見つけられませんでした。
これは普通の飾り塀のように見えますが。
根ケ原橋の先の左手から細い路地が通っています。これはかっての水路跡なのだそうです。石神井川には多くの水路から水が流れ込んでいましたが、今は暗渠化されたり埋め立てられたりしています。ポイント8の「水路敷を辿って」を楽しむのも一興ですね。
石神井川の遊歩道を下流に向かって歩きます。南田中橋から下流を眺めて見ると、石神井川の水面と両岸の南田中団地の建物とサクラの並木が一体化して、印象的な河川景観を望むことができます。桜の木と団地の建物の高さが調和し、視線の奥にランドマークとして平成みあい橋と給水塔があるのがポイント9の「南田中のスカイライン」です。
石神井公園コースは南田中橋から更に下流に向かって進み、長光寺橋で石神井川を離れて笹目通りを北上し、順天堂大学医学部附属病院の角を左折してゴール地点の石神井公園駅に向かいます。一方、残りの見所ポイントは南田中橋から和田堀公園を経由して石神井公園駅に向かうルート上に散在しています。
南田中橋から南田中橋北交差点を左折し、住宅地と公園の間の道を進みます。右手には瀟洒な邸宅が建並んでいます。住宅地は少し傾斜していて、ポイント10の「傾斜地と松の風景」が映えています。
石神井川から稲荷神社に向かって上り坂になっています。ポイント11の「坂道とみどり」は、この坂が緩やかに曲がっていて、稲荷神社の境内の木々と一体化した緑の景観を醸し出している様を表しています。
石神井公園駅から石神井公園に向かうポイント12の「商店街」は道が折れ曲がっていて先が見通せません。複雑に分岐した道を辿った先には石神井池が忽然と現れます。
ということで、練馬区で最初の「石神井公園コース」を歩き終えました。二回目の歩きでは、丁度桜が満開の時期ということもあって、桜の名所でもある石神井公園は家族連れの花見客で大変な混雑でした。次は、練馬区で二番目の「武蔵関公園コース」を歩きます。
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