- ねりまの散歩道 B大泉井頭公園コース
湧き水のある白子川とみどりの環境が特徴的
大泉井頭公園コースは、白子川の源流部にある大泉井頭公園を中心に、流域の神社や歴史ある住宅地と、練馬らしい農の風景が数多く点在する西大泉周辺を巡る散歩道です。地形の起伏も比較的緩やかで歩きやすく、水とみどりにちなんだ景観を様々に楽しむことができます。
コース 踏破記
今日は練馬区の「ねりまの散歩道 B大泉井頭公園コース」を歩きます。大泉学園駅北口をスタート地点として、古道の清戸道・大泉堀跡の遊歩道・白子川遊歩道を巡り、併せて練馬の緑あふれる野菜畑に癒やされます。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、見所ポイントをかなり見落としていましたので、2024年4月に再度歩きました。なので、秋と春の写真が入り交じっています。
スタート地点:大泉学園駅北口
↓
- ポイント1 台地の縁に立つ北野神社
- 大泉学園駅の北口からほど近いところに北野神社があります。大泉街道から平坦に延びる参道が特徴ですが、大泉小学校の校庭から神社の背後を見ると、一段高い台地の縁に立っていることがわかります。このあたりは白子川の河岸段丘であることを物語っています。
-
↓
- ポイント2 旧将校住宅の整った街並み
-
市ヶ谷から朝霞への陸軍士官学校の移転に合わせて、昭和十五年に将校用の住宅地として開発されました。東西南北にまっすぐ生活道路が延び、整った街並みの中には歴史を感じさせる住宅も見られます。北側の北豊島橋から旧将校住宅を望むと道の曲線で見通しが妨げられていて、住宅地の環境がゆるやかに守られています。また、地区内には道の交差が微妙にずれ街区ごとの閑静さが保たれている所もあります。
-
↓
- ポイント3 視線の集まるカーブには23区唯一の牧場
-
東京23区唯一の牧場である小泉牧場は、白子川としたみち通りに挟まれた場所にあります。したみち通りがカーブする頂点に位置しているため、道路のどちら側から見ても目立ち、視線が集まります。背の高いイチョウの木が目印です。
-
↓
- ポイント4 奥へ奥へといざなう諏訪神社の参道
-
白子川を越えて清瀬へと続く道は、昔から清戸道と呼ばれる街道です。西大泉のゆるやかな斜面地を上る途中に、諏訪神社があります。清戸道から入る参道は、まっすぐ奥へと延びていて、神社の豊かなみどりの森へといざないます。
-
↓
- ポイント5 したみち通りと大泉堀
- したみち通りを歩いていると、いくつかの交差点に「○○橋」という名前がついていることに気が付きます。これは、したみち通りの南側を大泉堀という白子川の支流が通っていた頃の名残です。現在は、暗渠(ふたをかけた状態)になっていて歩行者用道路になっています。
-
↓
- ポイント6 広々とした芝畑の眺望
- 四面塔稲荷神社の南にある芝畑から大泉学園駅の方角を望むと、ゆめりあやリズモ大泉学園などの駅周辺の建物が屋敷林越しに見渡せる西大泉らしい眺望景観が味わえます。
-
↓
- ポイント7 屋敷森のある風景
-
住宅地の中に点々と島状にあるみどりの塊。それぞれに表情があり、地域の景観をつくっています。
-
↓
- ポイント8 農風景を感じるまちのしつらえ
-
漬け物樽や大泉第二小学校の石垣など、大泉の農風景を感じるしつらえや、小さな工夫があちこちにあります。探しながら歩くのも楽しみのひとつです。
-
↓
- ポイント9 大泉井頭公園の囲まれた空間
-
白子川の源流が流れる大泉井頭公園は、川の曲線に沿って造られた公園です。公園を取り囲むように住宅が立ち並ぶ中、水面の近くまで降りて水と親しむことができる特別な空間です。
-
↓
ゴール地点:大泉学園駅南口
スタート地点の大泉学園駅は、大正十三年(1924年)11月1日に武蔵野鉄道の東大泉駅として開業し、昭和八年(1933年)3月1日に大泉学園駅と改称されました。西武鉄道の駅となったのは昭和二十一年(1946年)11月15日のことです。平成二十年(2008年)3月16日に、松本零士の漫画キャラクター「車掌」が名誉駅長となり、そのFRP(繊維強化プラスチック)製立像が改札内に設置されました。また、平成二十一年(2009年)3月8日から発車メロディに「銀河鉄道999」が採用されました。
アニメのまち 練馬区
日本アニメ発祥の地 大泉へようこそ
GALAXY EXPRESS 999
ここ練馬区・大泉は、日本のアニメ発祥の地です。昭和三十三年(1958年)、日本で初めて、東映動画(東大泉:現在の東映アニメーション)において、カラー長編アニメ映画「白蛇伝」が製作されました。いまや世界に翔たいている日本のアニメ発祥の地のシンボルとして、地元在住の松本零士さんの協力により「銀河鉄道999」(東映アニメーション 1978〜)の車掌さんを、ここ大泉学園駅の名誉駅長として任命しました。
大泉学園駅北口から歩き始めます。ちなみに、大泉学園という駅名ですが、当初西武グループの源流となる箱根土地という企業が学園都市として開発を行いましたが、大学などの高等教育機関を誘致することが出来ず、結果として「大泉学園」という名前だけが残ったそうです。
駅北口から程近い大泉小学校に隣り合って、ポイント1の「台地の縁に立つ北野神社」が鎮座しています。長〜〜〜く延びる参道には一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居と続き、その奥に拝殿があります。
北野神社の創建年代は不明ですが、かつては「三十番神社」という名称で、土支田村の鎮守でした。明治初期の神仏分離政策によって「北野神社」と改称しましたが、明治維新以降にこの地域が「大泉」と呼ばれるようになったため、「大泉天神」という別名もあります。
北野神社
当社は、江戸時代土支田村の番神様と呼ばれ、村民の崇敬を集めていました。番神様とは法華宗(今の日蓮宗)独特の三十番信仰−−−神仏混淆時代に、一か月三十日を神々が毎日交替で守護する−−−のことです。明治政府はそうした神仏習合の思想を禁止し、三十番神の名称を廃止させました。以来当社は菅原道真公を祭神とし、北野神社と呼ぶようになりました。この辺は明治初年上土支田村となり、同二十四年大泉村、昭和七年東大泉町と変わりましたが、その中で当社は明治五年村社に列格し、最近では「大泉天神」と呼ばれて親しまれています。道真公は学問の神様です。毎年初詣から春の受験期にかけて、合格祈願の人びとが奉納する絵馬で絵馬掛けがいっぱいになります。
神社の裏手から大泉小学校の校庭を眺めると、北野神社が台地の縁に建っていることが分かります。この辺りは白子川の河岸段丘であることを物語っています。
左が神社の裏手から見下ろした大泉小学校の校庭、右が校庭から見上げた北野神社です。
大泉小学校の東側を通る坂道は、かって清戸道と呼ばれた旧道でした。
清戸道
清戸道は、練馬区の東端から西端まで延長約十五キロメートル、区のほぼ中央を横断している道路です。この道を東に行くと目白駅を経て江戸川橋に達し、西に行けば、保谷、東久留米を経て清戸(清瀬市)に着きます。大泉から先、清瀬までの道筋は幾とおりにも分岐していきます。練馬の村々から江戸に出るためには、この道を通るのが最も近道でした。江戸時代から練馬のお百姓さんは、朝早く野菜をもって町に向い、昼頃には下肥を運んで帰って来ました。その下肥を、中農以上の百姓は、馬の背で、それ以下の百姓は、天秤棒で運びました。このような清戸道は、農産物輸送の重要な道路でした。明治、大正時代には、大八車が発達し、目白坂には、車の後押しをして金をもらっていた「立坊」がいたのも有名な話です。金輪のはまった車の音は、静かな夜明け前の空気を振るわせていたことでしょう。
大泉学園通りを北に進みます。通りの両側には葉桜の木々が立ち並んでいます。
大泉学園通りの右側一帯には、ポイント2の「旧将校住宅の整った街並み」が広がっています。昭和十五年に陸軍士官学校が市ヶ谷から朝霞に移転したのに合わせて、将校用の住宅地として開発されました。東西南北にまっすぐ生活道路が延び、整った街並みを形成しています。一見すると十字路のように見えますが、地区内には道の交差が微妙にずれることによって街区ごとの閑静さが保たれている所もあります。
白子川に架かる北豊島橋から旧将校住宅を望むと、道が曲がっていて見通しが妨げられています。このようにして住宅地の環境を外部から守っているのです。
白子川の遊歩道を上流に向かって進みます。右手に緑の木々が生い茂っていて、フェンスの内側にはトタン屋根の小屋が並んでいます。
遊歩道から出て「したみち通り」を進みますと、高い銀杏の木の下にポイント3の「視線の集まるカーブには23区唯一の牧場」があります。
トタン小屋の中には乳牛が飼われています。その手前の小屋の中には仔牛がいますが、これは見学者と触れあうために展示されているのだそうです。
道路を挟んだ反対側には乳製品の販売所もあります。ここでアイスを食べたらさぞや濃厚な味がすることでしょう。
小泉牧場の手前に大泉中島公園があります。ここにはかって大泉村役場があったそうです。
練馬区登録史跡 旧大泉村役場跡
明治二十二年(1889年)町村制の施行で、埼玉県新座郡に属していた小榑村(こぐれむら:現、大泉学園町・西大泉・南大泉)と橋戸村(現、大泉町)は合併して榑橋村となりました。同二十四年榑橋村は東京府北豊島郡に編入、同時に石神井村大字上土支田(現、東大泉)と新倉村長久保(現、大泉学園町)を合併して大泉村が成立しました。村役場は初め、ここから西約二百メートルの本照寺隣接の村長宅に設けられましたが、明治四十四年(1911年)に移転し、大正十一年(1922年)木造二階建てで新設されました。大正十三年(1924年)には武蔵野鉄道東大泉駅(現、大泉学園駅)ができ、村発展のきざしがみられる時期でした。大泉村役場建築記念碑には村長はじめ多数の村民の氏名が刻まれ、新しい期待がこめられています。それから幾年月、板橋区時代、練馬区独立を経て、建物は公共施設などとしていろいろ利用されてきましたが、昭和五十四年老朽化のため取り壊されました。
したみち通りの小泉橋交差点から、都道24号線が北西方向に延びています。交差点の右手に本照寺があります。大泉中島公園の「旧大泉村役場跡」の案内板でも書かれていましたが、大泉村の最初の村役場が置かれたのはこの本照寺の本堂でした。
本照寺
当寺は、了光山といい日蓮宗の寺です。本山は身延山久遠寺(旧中山法華経寺)で、昔から中山の隠居寺といわれていますが、現住職の境野姓は、本寺の系図によると、田安家城代家老境野某より出ているといわれます。江戸末期から昭和初期にかけて、武士の転籍が多く、当寺もその一例であると思われます。寺伝によると開基は、天正十年(1582年)としており、本堂改築の際に、主柱の下から発見された板碑は、天正十年のもので、開基月日と近いところから、創建と何らかの関係があるのではないかといわれています。この板碑は、「日蓮題目板碑」といわれており、練馬区内の出土板碑の中では最も新しいものの一つです。なお、境内墓地には、慶安、萬治、元禄などの記銘の古い墓石が数多くみられます。また、本堂は小榑村(いまの大泉)の役場として使われたこともありました。初冬には、多くの万灯行列がくりだして大変なにぎわいとなります。
都道24号線の先に、ポイント4の「奥へ奥へといざなう諏訪神社の参道」があります。緑の木々に覆われた参道は、参詣者を奥へ奥への誘います。
御祭神について
創建は明らかではありませんが、江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には、小博村の鎮守・三十番神と記されています。元々は本照寺の北側に祀られておりましたが、明治時代の末頃に現在の地に移り奉斎されました。三十番神とは、天照大神をはじめとする三十柱の神様が一ヶ月(三十日)の間日替わりで御神威を発揮され、国土と自然をお守りするという古来からの信仰であります。そのため本殿には今も三十柱の御神像が安置されています。その後、神仏分離の際に仏教色の強かった三十番神の社号が廃される事となり、三十柱の番神のなかでもこの地に特に緑の深かった建御名方命を信州諏訪神社より勧請申し上げ、社名も現在の諏訪神社と改められました。古い土地の人々は今も「番神さま」と呼び親しんでいます。また境内には稲荷神社があり、宇迦御魂命が奉斎されています。この社は神仏分離のとき村内に散在する無格の稲荷社が合祀されたものです。拝殿には二十枚余りの絵馬が奉納されており、なかでも「狐の大根採り入れ」の絵馬は稲荷様の眷属(けんぞく:仏や菩薩に従属する使者のこと)である狐を擬人化した独特の絵柄で、貴重なものとして知られています。境内に茂る数多くの樹木は往昔の面影を良く残しています。
拝殿には二十枚余りの絵馬が奉納されているそうです。稲荷神社は、明治初期に神仏分離令が発布された際に、村内に散在する無格の稲荷神社を合祀したものです。
小泉橋交差点に戻ります。ポイント5の「したみち通りと大泉堀」ですが、したまち通りのすぐ南側にはかって大泉堀(だいせんぼり)の水路があり、そこに架かっていた橋が小泉橋でした。交差点の名称はその名残です。その先にも「丸山東橋」という交差点名が続いています。
大泉堀は、西武池袋線ひばりヶ丘駅の南西付近を水源とし、西武線の北側を流れる白子川の支流でした。大泉堀の名称は、上流部の保谷市北町付近にあった大泉坊という寺院の池に由来するという説が有力です。大泉堀は「下保谷のシマッポ」とも称されていました。「シマッポ」とは、通常は水が流れていないことが多い川のことです。現在では大泉堀は全て暗渠となり、暗渠蓋の上は歩行者用の通路になっています。
都道24号線に戻ります。都道24号線と交差する新しい道路が建設されています。放射第7号線という名称で、千代田区九段北一丁目を起点とし、練馬区西大泉五丁目を終点とする延長約19.3kmの都市計画道路です。現在工事中の区間は、練馬区大泉学園町二丁目から西大泉五丁目までの2kmで、幅員は25mとなっています。
この辺りには農地が残っていて、沿道にはブルーベリー園とか農産物の無人販売所なども見られます。ちなみに、ブルーベリーの収穫量は東京都が全国第一位で、練馬区には「観光農園」が約30園もあります。
四面塔稲荷前交差点の角に稲荷神社があります。稲荷神社の創建年代等は不明ですが、江戸時代初期頃から祀られていたと伝えられています。かって此の地が小榑村小名堤、あるいは小榑村小名四面塔と呼ばれていたことから、堤稲荷とか四面塔稲荷と呼ばれています。
鳥居の提灯が2個欠けていますが、2021年には「堤 稲 荷 神 社」となっていました。信仰心が足りませんね。
左は2024年4月の鳥居の提灯、右は2021年11月の鳥居の提灯です。
境内入口の鳥居は明治四十一年(1908年)に建立されました。参道の両側を固める狐の狛犬と春日燈籠は明治時代に制作されましたが、現在の狛犬と燈籠は破損によって最近造られたものだそうです。土台部分と明らかに色合いが異なっていますね。本殿は、拝殿の中の覆堂(貴重な文化財や史跡等を風雨から保護するため、それらを覆うように建設された簡易な建築物)の中に造立されています。
稲荷神社
宇賀之御魂命を祭神とする社です。江戸時代のこの辺りの地名「堤村」から「堤稲荷神社」また、かつてこの付近にあった四面の題目塔(石造物)から「四面塔稲荷」とも呼ばれています。「新編武蔵風土記稿」には「小名堤村ニアリ 鎮座ノ初詳ナラズ 九尺二十一間許ノ小祠 前二鳥居アリ 村内圓福寺(現大乗院・西大泉五)ノ持」と記されています。創建は明らかではありませんが江戸時代から地域の人々の信仰を集めていたことがわかります。拝殿奥の覆屋内に建てられている本殿は平成九年三月「西大泉の稲荷神社本殿」として練馬区有形文化財に登録されました。棟札には元治二年(1865年)銘があり、江戸時代末に建てられたことが判ります。一間社、流造り、銅板葺きの小祠で、彫刻が随所に施されています。渦巻き紋様の大きさなどに当時の建築の特徴が見られます。
四面塔稲荷神社の南側から大泉学園駅方向を眺めますと、ポイント6の「広々とした芝畑の眺望」で、ゆめりあやリズモ大泉学園などの駅周辺の建物が望めます。芝畑は見たことがありませんでしたが、芝生の苗は畑で育てているんですね。ちなみに、芝の生産量日本一は茨城県だそうです。
左の写真は刈り入れ前の晩秋に、右の写真は芝の苗の植え付け前の4月に撮ったものです。
この辺りは広大な敷地に大木が聳える住宅が混在する、ポイント7の「屋敷森のある風景」が見られます。
大泉交通公園の南側に隣接して永井農園があります。住宅地の中に、畑とブルーベリー園が一緒になった農地が混在するのは練馬らしい風景です。
練馬には、かって農業が盛んだった頃の原風景がポイント8の「農風景を感じるまちのしつらえ」としてあちこちに保存されています。永井ブルーベリー園の角地に、大きな樽が並んでいます。昔使われていた漬物樽なんだそうです。大釜は何に使われていたのでしょうか?
大泉第二小学校の石垣には、練馬大根を沢庵にするために使われていた漬物石が再利用されています。もの凄い数ですね。
ちなみに、大泉第二小学校の前を通る道路はかっての所澤道の道筋でした。
所沢道
所沢道は、八成橋で杉並区から練馬区へ入ります。禅定院の門前で向きを西に変え、道場寺・三宝寺の門前を通って、富士街道と交差した後、南大泉を経て西東京市に入り、所沢へと通じています。概ね今の「旧早稲田通り」です。「新編武蔵風土記稿」では、この道のことを単に「所沢へノ道」と記してあり、はっきり「所沢道」と書かれた文献としては「石神井村誌」(大正四年【1915年】)が一番古いようです。関東大震災後、都市計画により名称が「昭和通り」となり、大部分の区間で拡幅工事が行われましたが、禅定院から石神井小学校の間には、今も所々に旧い道が残っています。江戸の文人の太田南畝が「石神井三宝寺遊記」で記している道でもあります。三宝寺池の弁財天(現厳島神社)の祭礼の日には、近在や江戸からたくさんの人がこの道を使って石神井へ訪れました。大泉・石神井から江戸方面へ農産物を運んだ産業の道であったと共に、江戸からの参詣・行楽の道でもありました。
大泉井頭公園には白子川の源流が流れ、ポイント9の「大泉井頭公園の囲まれた空間」を形成しています。
園内には2本の大きな柳の木が聳えています。「井頭のヤナギ」として練馬区の天然記念物に指定されています。
練馬区指定天然記念物 井頭のヤナギ(2株)
白子川上流域の湧き水である井頭池(現大泉井頭公園)の、水辺に生育したマルバヤナギです。区内では、大きい部類のヤナギで、高さ8.8メートルと6.2メートルのものが生育しています。
白子川は、ここから西大泉・大泉学園町・大泉町・土支田・埼玉県和光市南・白子・下新倉・板橋区成増と流れ、笹目橋付近の板橋区三園で新河岸川に合流しています。東京都と埼玉県の境は荒川だと思っていたのですが、かつての白子川の流路が現在の東京都と埼玉県の県境になっているそうです。
大泉学園駅の南に、植物学者の牧野富太郎博士の自宅跡を一般公開した牧野記念庭園があります。園内には340種あまりの植物が植えられ、記念館には遺族から寄託されている博士の遺品が展示されています。常設展示に加え、企画展示室では関根雲停や服部雪斎の植物図展覧会や植物標本の展覧会が開催されています。
東京都指定名勝及び史跡
牧野記念庭園(牧野富太郎宅跡)
牧野記念庭園は植物分類学の父といわれる植物学者牧野富太郎(1862年〜1957年)が大正十五年(1926年)から昭和三十二年(1957年)に逝去するまでのおよそ三十年間居住し、研究の場としたところです。大正十二年(1923年)の関東大震災を受け、牧野の採集した標本や収集資料が失われることを危惧した妻壽衛が当時の大泉村(現在の牧野記念庭園の地)に土地を買い求め、大正十五年(1926年)に牧野はここに移り住みました。昭和十五年(1940年)、牧野の代表的な著作のひとつ「牧野日本植物図鑑」が発行されていますが、この場所にあった書斎で書かれたとみられます。また、牧野が収集した植物標本の中には自宅庭で採集されたものもあります。現在、庭園には桜の一種のセンダイヤ、ヘラノキ、亡き妻壽衛を偲んで命名したスエコザサをはじめとした牧野自身が植え、命名したなど所縁の植物が多く残ります。庭園内の記念館には牧野の著作や愛用品、標本等を展示し、鞘堂には実際に牧野が研究活動を行っていた書斎と書室の一部が保存されています。当時の庭の姿をよく残す庭園と合わせ牧野の業績を記念する場所となっています。
Place of Scenic Beauty and Historic Site
Makino kinen teien (MAKINO Tomitaro Memorial Garden (Site of MAKINO Tomitaro's House))
The garden used to be the place for research and daily life for MAKINO Tomitaro, known
as the founder of plant taxonomy in Japan, from 1926 to his death in 1957.
The Great Kanto earthquake in 1923 gave critically damages to the central part of Tokyo. Sue, Tomitaro's wife, feared his enormous and valuable collection would be lost by such disaster. She bought land in Oizumi-mura village (current place), and had moved here in 1926. One of his representative works "Makino's Illustrated Flora of Japan", was probably written in the study used to be in this garden. Some plant species in his collection were also sampled in this garden. Now, some plants, planted or named by himself can be seen in the garden, such as Sendaiya cherry tree, Heranoki, Suekozasa named after his wife, and so on. In the Memorial hall, his work and his belongings are exhibited and in a covered house called Sayado, part of his study and library are also preserved. Well reserved garden is now place for memorialize Tomitaro's life and work.
庭園の一画に牧野博士の銅像が建っています。
御案内
牧野富太郎先生は、大正十五年都塵を避けて、この地大泉に居を構えられ、我が国の植物学界に陸続(りくぞく:次々と)として高説を発表されました。この間、当時なお武蔵野の抒情を有していた大泉野外、四季とりどりの花卉の移り変りをも楽しまれ又、園内には奇草珍木を植栽して、その生育に多大の愛着を示された。昭和三十二年、先生はこの邸内で九十四才の天寿を全うせられたが、この学問の聖地をいつまでも守り、永く後世に伝え残すため、ここに旧邸を牧野記念庭園とし、文化遺跡として広く公開することとなった。なお、牧野先生蒐集の(さく)葉(植物を平らにひろげて押して乾燥した標本・押葉)は別に東京都立大学牧野標本館に整理保管され、学究の用に供せられている。
庭園の入口の先に巨大な山桜の木が枝を伸ばしています。その根元に笹が生い茂っていて、石碑が建っています。
家守りし妻の恵みや我が学び
世の中のあらむかぎりやすゑ子笹
結綱子
壽衛夫人は、借金ばかりの生活苦に耐えながら、好きなことひとつせず、常に牧野博士の研究を第一に考え尽くしてきました。博士の偉業は夫人の内助の功の賜物と言われています。博士は、昭和二年に仙台で発見したササの新種に「スエコザサ」の和名とSasa suwekoana Makinoの学名をつけ夫人の名を永久に世界にのこしました。翌年、他界した夫人のために右の二句を詠んでいます。谷中の墓地には、スエコザサと共にこの二句を刻んだ墓碑が建っています。
この石碑は、昭和六十年牧野富太郎博士展に際し、日原勇氏より寄贈されたものです。
ゴール地点の大泉学園駅南口に着きました。ということで、練馬区で三番目の「大泉井頭公園コース」を歩き終えました。二回目の歩きでは桜が殆ど散っていましたが、変化に富んだ大泉の街と練馬を象徴する農地が楽しめました。次は、練馬区で四番目の「大泉中央公園コース」を歩きます。
戻る