ねりまの散歩道 E豊玉・高稲荷公園コース  

くらしに潤いと安らぎをあたえてくれる

豊玉・高稲荷公園コースは、早くから市街化が進んだ地域のまちの賑わいと、石神井川沿いの谷戸地形を巡る散歩道です。人々の営みが形づくった街並みと、自然によってもたらされた街並みが隣り合っていることで、練馬らしさが醸し出されています。
 

コース 踏破記  

今日は練馬区の「ねりまの散歩道 E豊玉・高稲荷公園コース」を歩きます。西武池袋線練馬駅中央北口2Fをスタート地点として、豊玉の住宅地を巡り、桜台地区の起伏に富んだ地形を辿り、石神井川に面した高稲荷神社からの眺望を楽しみます。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、見所ポイントをかなり見落としていましたので、2024年4月に再度歩きました。なので、秋と春の写真が入り交じっています。  

スタート地点:西武池袋線練馬駅中央北口2F
ポイント1 練馬駅北口「ココネリ(Coconeri)」からの眺め
練馬駅北口のペデストリアンデッキや、「ココネリ(Coconeri)」4階のひろばから、平成つつじ公園を中心とするみどり豊かな眺望を楽しむことができます。イチョウ並木や公園、ココネリの壁面緑化とひろばのみどりが連なって、潤いと安らぎを感じられる公共空間が広がっています。
ポイント2 三角地帯とおとり様
千川通りの南側、通りで囲まれた三角地帯の中央に、「おとり様」の名前で親しまれている大鳥神社があります。毎年11月に行われる酉の市はとても賑わいます。
ポイント3 通りに連なる寺社の表情
豊玉は戦前に区画整理が行われた地区です。その中で一画ぐるりと塀が巡らされているのは、氷川神社と正覚院。みどり豊かな境内が連なって、特徴的な景観となっています。
ポイント4 千川通りのサクラ並木
千川通りは、見事なソメイヨシノの並木や地域住民が管理している花壇など、四季折々のみどりが楽しめる散歩道です。
ポイント5 江古田ゆうゆうロードはY字路連鎖のまち
江古田駅から環七通りに向かって延びる江古田ゆうゆうロードは、そこから次々とY字路が現れて、まちが広がっている通りです。Y字の交差点には、道の角へ正面を向けるお店や庚申塔があり、印象的なアイスポット(視線が集まるところ)になっています。
ポイント6 谷戸を活かした公園
羽沢から桜台にかけての地域には、石神井川に流れる湧水によりできた谷戸がいくつもあります。これらの谷戸には、この谷地形を活かした公園があります。
ポイント7 崖の突端に立つ高稲荷神社
崖地をぐるりと囲む高稲荷公園の上には、高稲荷神社が建っています。みどりも豊富ですが、高台に立つと石神井川周辺の地形がよくわかります。子どもたちにも人気があり、春には満開のサクラが楽しめます。
ポイント8 印象的なカーブの道で感じる四季
開進第二中学校を過ぎ練馬総合運動場公園に続くカーブの道は、緩やかな傾斜で、(目に入る?)四季の景色が印象的に目に入ります。整備された街路を、四季を感じながら歩くことができます。
ポイント9 水路敷へと誘われる交差点
おひさま公園前のすり鉢状の地形の真ん中にある交差点は、ただの4差路かと思いきや、住宅の間に水路敷きが口を開けていて5差路になっています。石神井川からこの交差点へ歩いてくると、この水路敷きへと入ってみたくなります。さらに歩くと緑道になっていて散歩にぴったりです。

ゴール地点:練馬駅西口


スタート地点の西武池袋線練馬駅中央北口2Fから歩き始めます。



中央北口2Fから階段を上がって高架のペデストリアンデッキに向かいます。植栽もされていて、一休みするには恰好の場所です。



ペデストリアンデッキの左手にはココネリ(Coconeri)があります。「ココネリ(Coconeri)」って何の略語なんだろうと調べてみましたら、「
ここから始まる馬の新生活」の意味らしいです。まんまですね。ちなみに、頭文字の「C」の中には、練馬区の花であるツツジがあしらわれています。



Coconeriは、練馬区の区有地を活用した区施設と民間施設からなり、館内はメディカルゾーン・公共サービスゾーン・商業ゾーンの3つのゾーンで構成される官民複合施設になっています。開館したのは平成二十六年(2014年)4月11日で、2回目に歩いた2024年は10周年の節目の年となります。垂れ幕に描かれているキャラクターは、練馬区の特産品である「練馬大根」と、練馬区の名前から「馬」をイメージして生まれた「ねり丸」です。



産業・イベントコーナーの中に練馬区の特産品を販売する売店があり、練馬産のワインが売られていました。白ワインは練馬の葡萄100%を使った純正の練馬ワインとのことで、記念に一本買っていこうかと思いましたが、高すぎて諦めました。ちなみに、私のワイン遍歴に練馬産のワインはありません。



Coconeriの4階広場からは、ポイント1の「練馬駅北口「ココネリ(Coconeri)」からの眺め」が楽しめます。枝葉が茂る巨大な球体のような高木の下には平成ツツジ公園があります。



千川通りの南側の通りで囲まれた三角地帯の中央に、「おとり様」の名前で親しまれている大鳥神社があります。今は11月初旬で、ポイント2の「三角地帯とおとり様」では酉の市に向けて準備が進んでいます。「酉の市」は、11月の酉の日に行われる大鳥神社の祭礼のことです。「酉の日」とは、毎日の日付に十二支を割り当てていく日付け法で、「酉」に当たる日を「酉の日」と呼びます。なので、酉の日は12日おきに巡ってくることになります。11月は30日ですので、日の巡りにより11月の酉の日が2回になる年と、3回になる年があります。最初の酉の日を「一の酉」、次を「二の酉」、最後を「三の酉」と呼びます。酉の市の由来には諸説あります。神道では、大酉祭の日に立った市を酉の市の起源としています。大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行いました。これにちなみ、日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日(鷲宮神社では12月の初酉の日)に大酉祭が行われます。また、浅草にある鷲神社の社伝では、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際に社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、熊手を縁起物とする慣習が生まれました。酉の市には、招福やおかめなどの縁起物で飾った「縁起熊手」を授ける露天がたくさん出ます。熊手は、鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえてその爪を模したともいわれ、「福徳をかき集める、鷲づかむ」という意味が込められています。



練馬大鳥神社は、正保年間(1645年〜1648年)に創建されました。三羽の鶴が此の地に飛来し、保護したものの、死んでしまったことから「霊鳥」として崇め、鳥に関係する大鳥大社から分霊を勧請して神社にしたのが由来とされています。

練馬大鳥神社

社伝によると、江戸時代の初め正保二年(1645年)、この地中新井村に三羽の鶴が飛来しました。村人たちは、その鶴を瑞祥としていつまでも厚く保護しました。のちに鶴の霊を祀り、和泉国一宮大鳥大社(堺市)の祭神天日鷲命の御分神を勧請したといいます。以来近郷の崇敬篤く、特に十一月酉の日の祭礼は、福徳円満・開運熊手を購う群集で販わいます。拝殿には創建の由縁となった大きな鶴の絵馬が奉納されています。境内左手に石の薬師如来が祀られています。この薬師さまは、ここから五百メートルほど南の路傍にあったものです。薬師さまには万病を治癒し、延命を願う信仰が昔からあり、特に眼の病に効があると今も香華が絶えません。




境内には、「石薬師堂」と呼ばれる薬師如来の祠があります。自然石に「薬師如来」と刻まれていて、明治十六年(1883年)に建立されました。



練馬区役所の本庁舎は平成八年(1996年)3月に竣工し、地上21階・地下3階・高さ93.82mの規模を誇り、23区の区役所の中では文京区役所(通称・文京シビックセンター:地上28階・高さ142m)に次ぐ高さとなっています。



富士稲荷公園は、練馬区内には2ケ所しかない稲荷神社と一体的になった公園です。小さいながらも立派な石造りの鳥居とその奥に続く赤い鳥居が印象的です。



園内には、徳川家光がお手植えしたと伝えられ、「ねりまの名木」にも指定されている立派なクスノキの大木が聳えています。クスノキとしては練馬区内でも最大級の大きさで、高さは約17m、幹の太さは約3.7mもあります。

神社は、享和三年(1803年)十一代将軍徳川家斉のころ山城国紀伊郡の稲荷本宮(現在の京都伏見稲荷神社)を移して祭ったものです。

このクスノキは、三代将軍徳川家光のお手植えといわれ、付近の数軒の人たちの手で大切に育てられてきました。

以前、この辺りは西本村という地名で、水田がひろがっており、クスノキは遠く千川通りからも望むことができました。

ここ富士稲荷公園には、クスノキのほか、クロマツの保護樹木もあり、昔からの木が大切に保存されています。生きている木たち、これからも大切にしましょう。




環七が南北から北東に向きを変える交差点角に、周囲を塀に囲まれた一画があり、ポイント3の「通りに連なる寺社の表情」が見られます。



豊玉氷川神社は江戸期には中荒井村の鎮守として「中新井の氷川さま」と崇敬され、創建時期は不詳ですが、武蔵国の一の宮氷川神社の分霊の社と伝えられています。当初は現在境内社の北野神社を主祭神、次いで須賀神社が主祭神となり、その後時期は不明ですが氷川神社が主祭神と遷移していったといわれています。

氷川神社

本社は旧中新井村(現在の豊玉地区)の鎮守で、祭神は素盞鳴命です。境内末社に北野・須賀・稲荷・三峯の各社があります。社伝によると、主神は北野神社が最も古く、次いで須賀神社、その後、大宮一宮の分霊を勧請して氷川神社を主神にしたといいます。すでに江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には、「氷川社」の記載があります。境内南西側の旧神楽殿は、元氷川神社の拝殿で、文化八年(1811年)の棟札があります。この建物は釘を一切使わない、組込式の建築技法を用いています。古い土地の人は、須賀神社を「天王さま」と呼びます。天王様の祭礼は、昔は旧暦六月十五日でしたが、この祭には文化十年作と伝える御輿の渡御があります。田んぼの中を暴れ廻るというので「中新井天王さまの暴れ御輿」と近郷・近在で有名でした。今も九月の祭礼には変わらぬ姿で、往時を偲ばせます。




氷川神社の神輿は江戸時代末期に制作され、境内の神輿庫に格納されています。

氷川神社の神輿(平成九年度 練馬区登録文化財)

氷川神社境内社の須賀神社に伝わる神輿です。修理・後補がなされているため、制作年代は不明ですが、飾り収納箱の蓋の裏側に「文化十年(1813年)癸酉六月吉日 中荒井村惣村中」の墨書があり、江戸時代までさかのぼる可能性があります。総高は176cm、轅を除く最大幅は119cmで方形造りです。現在は、祭礼の際に拝殿内に置かれるのみですが、昭和三十年代までは担がれていました。




参道脇の石碑の前に、力石が8個並べられています。楕円形の川原石で、江戸時代後期から明治時代にかけて、関東地方の若者たちが力試しに使ったものと伝えられています。力石には村名と重量が記され、55貫(約200kg)と刻まれている石もあります。

練馬区有形民俗文化財
氷川神社の力石

ここに並ぶ8個の楕円形をした自然石は、江戸時代後期から明治時代にかけて、関東地方で盛んにおこなわれた若者の「カだめし」に使われたカ石です。力石には重量や村名などが刻まれ、特に五十五メ(貫)と刻まれた力石は、区内でも大きい部類のものです。




各地の神社の境内には、JA(農業協同組合(農協)の英語名称「Japan AgriculturalCooperatives」の頭文字をとったもの)が建てた野菜などの発祥の記念碑が見られます。ここ氷川神社にはビール麦発祥の記念碑が建っています。現在、美味しくビールが飲めるのも先人達の努力のお陰ですね。

江戸・東京の農業 ビール麦の金子ゴールデン

わが国のビール麦栽培は外国から導入された品種によって始められました。最初に導入されたのは江戸時代末期といわれていますが、本格的に導入されたのは明治に入ってからで、政府が勧業の一策として諸外国から穀類の種子を導入し、試作を進めました。当時、輸入された中には大麦も多く、明治二十年(1887年)にはゴールデンメロン(米国)の名が記録されています。北豊島郡中新井村(現在の練馬区豊玉)の金子丑五郎が明治三十三年(1900年)、六条大麦の四国とゴールデンメロンの自然交雑によって生じた雑種の中から「金子ゴールデン」を育成しました。早生で草丈が低いため成熟しても倒れにくく、一時、関東一円に栽培が広がりました。この品種を親にエビスT号、ニューゴールデン、アズマゴールデン、ふじ二条等の優良品種が育成され、初期のわが国ビール醸造に大きく貢献しました。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Malt barley, Kaneko Golden

Cultivation of malt barley in Japan started with varieties introduced from foreign countries. The active introduction was made since 1868 associated with the government policies of industry promotion in which various seeds of cereals were imported and tested for use. In 1900, Ushigoro Kaneko of Toyotama, Nerima ward bred Kaneko Golden from the natural hybrids between six-rowed barley Shikoku and Golden Melon. It was a superior type of early ripening, short stem and hardy to toppling at the stage of maturity. Its cultivation at one time extended throughout Tokyo district and contributed greatly toward the beer brewery in Japan.




石碑には、金子丑五郎の功績を讃えた碑文が刻まれています。

ビール麦 金子ゴールデン 発祥の地

ビール麦「金子ゴールデン」は、明治三十三年(1900年)篤農家金子丑五郎によって東京市北豊島郡中新井村の当地で育成されました。翁は江戸末期の文久元年(1861年)十月二十日に生れ、優れた先見性と旺盛な研究心、地道な努力を積み重ね、米麦をはじめ野菜の品種改良にも情熱を傾け、近郊農家の経営安定に大きく貢献しました。特に国産ビールの需要拡大を予見し、輸入品種と国産種の自然交配から「金子ゴールデン」を選抜・育成しました。つくりやすい性質から当地では「矢羽」の愛称で、昭和二十五年(1950年)頃まで盛んに生産されていました。翁が改良した種子は、貴重な遺伝資源として「独立行政法人農業生物資源研究所ジーンバンク」に永久保存されています。練馬区豊玉が生んだ翁の功績を地域文化として伝承し、都市農業の振興のため、平成十五年翁を慕う農民等が相集い、栽培の復活に取り組みました。努力の甲斐あって、多くの人々が喜びを共有して国産ビール黎明期の味を楽しんだことを、翁の功績と共に後世に伝えるため、碑を建立します。




豊玉氷川神社の隣に正覚院があります。正覚院は、長禄年間(1457年〜1460年)に太田道灌が江戸城を築城する際に外濠予定地の市ヶ谷に住んでいた農民に立ち退きの代償として、天満宮(現豊玉氷川神社)の別当として正覚院を創建したのが起源とされています。

正覚院

正覚院は真言宗豊山派の寺院で、山号を天満山といい、豊島八十八か所第七番札所です。寺伝によると太田道灌が長禄年間(1457年〜1460年)江戸城築城の際、ここ中荒井の陣屋にあった道灌崇敬の天満宮を守るため別当寺として創建したのが当寺で、市ヶ谷から立退かせた一農家を開基檀徒としたといわれます。隣の氷川神社は境内社の天満宮(北野神社)が最も古いという伝承もこのことをうかがわせます。明治の廃仏毀釈や火災で、寺の什宝など殆どが烏有に帰しましたが、寛永年間(1624年〜1644年)の記載がある過去帳と、それ以前といわれる涅槃像画が現存します。幕末から明治にかけて、ここで「筆道稽古所」という寺子屋が開かれ、地域子弟の教育に携っていたことがあります。境内には以前、村内各所にあった庚申塔や、不動明王などの石造物が数多くあり、また観音堂前の「八子地蔵尊」は不幸な厄に遭った八人の幼児の霊を弔ったものです。




境内には多くの草木が植えられ、花園のような景観を呈します。朱色の多宝塔も新緑に映えます。



千川通りは、見事なソメイヨシノの並木や地域住民が管理している花壇など、ポイント4の「千川通りのサクラ並木」と四季折々のみどりが楽しめる散歩道です。



千川通りに面して、ゼミナールで有名な武蔵大学の江古田キャンパスがあります。武蔵大学は、東武鉄道社長で甲州財閥総帥として知られる実業家の根津嘉一郎が「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念から1922年に設立した日本初の私立の旧制高等学校である旧制武蔵高等学校を前身としています。1949年4月、学制改革により新制武蔵大学が誕生しました。



武蔵大学の学園祭は「白雉祭(しらきじさい)」と呼ばれ、例年11月に江古田キャンパスで開催されます。白雉祭は学生が自主的に行っている学園祭で、参加する学生それぞれが様々な企画を立て、構内の様々な場所でイベントを行っています。



江古田駅の直ぐ北側に浅間神社があります。江古田浅間神社は、木花佐久夜姫命を祀る富士信仰の神社で、創立年代は承平元年(931年)とされています。境内の歌碑に「果てもなきこの武蔵野の茅原に富士ばかりこそ山は見えけれ」とあり、茅原浅間神社とも呼ばれました。昔、小竹町と江古田町の人々がこの神社の所有をめぐって争ったところ、夏にもかかわらず雪が降る天変地異が起きました。これに驚いた双方は争いを止め、共有の氏神として祀ることにして争いを収めたという伝説が残っています。



拝殿の背後に国の重要有形民俗文化財に指定されている「江古田の富士塚(通称:江古田富士)」が保存されています。富士山の溶岩で覆われた富士塚で、天保十年(1839年)に小竹丸祓講により造られたとされています。高さ8メートル・直径約30メートルで、山には天狗や猿などの神像・石碑もあります。都内の富士塚の中でも大規模なものとされています。江古田富士塚では「山開き」・「登山」などの神事が行なわれていて、1983年を最後に講中による富士塚参詣はなくなりましたが、7月1日の山開きは続けられています。山開きの日と正月三が日や神社の例祭が行われる9月の第2土曜日・日曜日には一般の登拝が可能となっています。

国指定重要有形民俗文化財
練馬区登録有形民俗文化財
江古田の富士塚

社殿の後ろに築かれている塚は、富士山を模して築いた富士塚です。富士山を信仰する集団である富士講の一派、小竹丸祓講によって江戸時代に築造されたと考えられています。塚に登拝することによって、実際の富士詣りと同じ霊験が得られるとされました。南斜面には富士の溶岩を配した登山道が造られ、合目石や経ヶ嶽、小御嶽神社、天狗像などの石造物が立っています。頂上には天保十年(1839年)銘の石祠があります。高さ約八メートル、径約三十メートルあり、都区内の富士塚の中では大規模なもので、庶民信仰の様相を示すものとして、昭和五十四年五月二十一日、国指定の文化財となりました。




江古田駅から環七通りに向かって延びる商店街にはY字路が多く、ポイント5の「江古田ゆうゆうロードはY字路連鎖のまち」を形成しています。



Y字の交差点には道の角へ正面を向けるお店や庚申塔があり、印象的な街並みになっています。

庚申塚の謂れ

平安時代の初めに、人間の豊かで、長生きをしたい、その気持ちが庚申信仰に成った。人間の体の中の三戸の虫が、庚申の夜寝ている間に天に昇り、天帝に告げ口をして寿命を奪われない様にする為に庚申の日に、皆んなで夜通し楽しく過ごして、三戸の虫に昇天の機会を与えない様にする。この庚申塚は1765年の明和二年十月十八日に建立されました。




羽沢から桜台にかけての地域には、石神井川に流れる湧水によりできた谷戸がいくつもあります。これらの谷戸には、羽沢ふじ公園や三丁目森公園といったポイント6の「谷戸を活かした公園」があります。



羽沢ふじ公園から三丁目森公園へ向かう途中にある開進第三小学校の脇を通る道路は、かって埼玉道と呼ばれた古道でした。

埼玉道

埼玉道は、清戸道(千川通り)を江古田駅の南、二又で北西へ分かれて、埼玉県戸田市方面に至る道です。二又は下練馬・上板橋・中新井の三村の村境でした。二又から西武池袋線の踏切を越えると間もなく庚申塔があります。明和二年(1765年)羽根沢の人たちが造立したものです。さらに環七通りを過ぎ、開進第三小学校脇を北へ進むと正久保橋に出ます。新道は橋を渡り北西へ真直ぐ伸びていますが、旧道は東へ迂回して光伝寺脇へ出ます。光伝寺には昔の正久保橋の親柱が保存されており、石橋を架けて村人の労苦を救った僧教海の功績を今に伝えています。道は旧下練馬村の鎮守氷川神社の北を回り、再び新道に出ます。途中右手に宝永二年(1705年)の庚申塔や正徳三年(1713年)の地蔵菩薩像が見えます。新道は開進第一小学校の南で旧下練馬道と交叉し、さらに直進して丸久保で大山街道と交わります。傍らに道しるベを兼ねた馬頭観音が建っており「高田二里 ぞうし賀や二里」と彫ってあります。これまでの道を逆に辿ると高田・雑司ヶ谷へ着き、別名高田道と言って雑司ヶ谷鬼子母神への信仰の道でもありました。埼玉道は、旧上・下練馬村の境(北町と田柄の境)を北へのぼり、川越街道を渡って下赤塚から荒川早瀬の渡しへ出ます。渡しを越すと埼玉県です。埼玉道と呼ばれるゆえんです。




三丁目森公園から石神井川に出る途中の住宅地に小さな広場があります。「おはま井戸」と朱書きされた石碑と記念碑が建っています。「お浜井戸」とは、石神井川近くで泉が湧出していた場所のことで、氷川台にある氷川神社創建の地とされています。1457年に渋川義鏡率いる軍兵が足利成氏との戦いに赴く途上、下練馬で石神井川を渡ろうとしたところこの泉に出会い、兵を休めて須佐之男尊を祀り戦勝を祈願しました。これが氷川神社の起源で、その後氷川神社は延享年間(1744年〜1748年)に海老名左近により「お浜井戸」から現在地に遷座されました。三年に一度神輿が里帰りで「お浜井戸」を訪れ、行き帰りには太鼓に合わせ御供道中歌が謳われます。

氷川神社の由来

古老口碑に御花園天皇の長禄元年に渋川義鏡が足利成氏との戦に向かう途中、此処石神井川の急流に出会ふ淀む処に泉渾々として湧出る。水際の井戸即ち御浜井戸と称す。暫し兵士を休めてその傍に祠を建て須佐之男尊を祀り九月五日武運長久を祈る。この流水を水田に用い一帯を良田となす。近郷の農家の崇敬の的となり親しまれた。後、海老名左近住するに及び観世音を安置せる。観音山、即ち今の地に遷さる。霊験あらたか五十一宇の総鎮守となる。現今祈年祭に合せて毎年四月九日、祭神の御里帰りと称し、神社より此処え神輿渡御が行われる。行列は神幸旗を先頭に五色の吹流し、太鼓の響にのって氏子の人等の道中歌、此処に神輿を奉安し、獅子の舞で祓い清め、子孫繁栄五穀豊穣を祈る雌雄二羽の鶴の舞が行われ、その夜神社で田遊びの行事が行われる由緒ある処です。




石神井川の畔に高稲荷公園があります。公園は小高い丘を取り囲むような形状をしていて、公園から丘の上を見上げると木立の中に神社の拝殿が目に入ります。



公園の中ほどから石段が丘の上に上がっていて、その上にはポイント7の「崖の突端に立つ高稲荷神社」が鎮座しています。



高稲荷神社は、富士稲荷神社と共に練馬区に2社あるという公園と稲荷神社が一体化した神社のひとつでしょうか?崖の上に位置する境内からは眼下に石神井川、その先に練馬の街並みが遠望できます。高稲荷神社については次のような伝説があります。

高稲荷と大蛇

桜台6丁目の高稲荷は石神井川に臨んだ台地上の景勝の地にあるが、その下は昔は大きな沼になっていた。その頃、そこには主の大蛇がすんでいた。練馬村のある若者がこの大蛇に見込まれ、ついに沼の中に引きいれられてしまった。それは篠氏の一族だともいうが、その霊をなぐさめるために祀ったのが高稲荷だともいわれる。




石神井川に面して、練馬総合運動場の広大な敷地が広がっています。東中央橋から開進第二中学校へと延びる道路は緩やかにカーブし、道の両側には桜の並木が続き、ポイント8の「印象的なカーブの道で感じる四季」を醸し出しています。



開進第二中学校の手前で右折し、緩やかな坂道を下りて行きますと、窪地状になったポイント9の「水路敷へと誘われる交差点」が現れます。



交差点の角地には、「おひさま公園」という緑溢れる広場があります。



開進第二中学校から下りてくると、交差点は4差路に見えます。ところが、おひさま公園から交差点を見ると、対面する住宅の間に小さな通路が顔を出しています。つまり、交差点は4差路ではなく、正確には5差路になっているのです。恐らくは、この通路はかっての水路跡で、その流れの先は石神井川に注いでいたのでしょう。



開進第二中学校前の道路を進んで、ゴール地点の練馬駅西口に向かいます。練馬駅北口に隣接した練馬文化センターを取り囲むようにして、平成つつじ園が広がっています。2回目に歩いた時は丁度つつじが満開で、大勢の花見客が訪れていました。



ゴール地点の練馬駅西口で豊玉・高稲荷公園コースを歩き終えます。ということで、練馬区で六番目の「豊玉・高稲荷公園コース」を歩き終えました。二回目の歩きでは桜は殆ど見れませんでしたが、平成つつじ園で見頃のつつじが楽しめました。次は、練馬区で七番目の「中村・向山庭園コース」を歩きます。






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