ねりまの散歩道 H城北中央公園コース  

古くからの街と道、歴史の香りがただよう

城北中央公園コースは、石神井川と田柄川緑道に挟まれた氷川台・平和台や北町の歴史ある街並みを巡る散歩道です。戦前の区画整理による氷川台・平和台のユニークな八角形の街区や、区内唯一の宿場町であった北町の旧跡など、多くの歴史的な景観に出会うことができます。
 

コース 踏破記  

今日は練馬区で最後の「ねりまの散歩道 H城北中央公園コース」を歩きます。城北公園の北西端に位置する田柄川緑道入口をスタート地点として、田柄川緑道を巡り、平和台の野菜畑で練馬区を実感します。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、見所ポイントをかなり見落としていましたので、2024年4月に再度歩きました。なので、秋と春の写真が入り交じっています。  

スタート地点:田柄川緑道入口
ポイント1 仲町小学校と円明院をつなぐ円明橋
円明院と仲町小学校との間を田柄川緑道が通っています。今は暗渠(フタをかけた状態)となっていますが、「円明橋」という橋の名前が残っています。この橋に向かって円明院の前を曲がると、仲町小学校の校門と校庭の景色が目の前に広がる印象的な場所です。
ポイント2 東京スカイツリーのみえる坂道
田柄川緑道が川越街道に突き当たる手前の西側は高台となっています。都心の方角を眺めると、坂道の頂から東京スカイツリーを見ることができるスポットがいくつかあります。東下がりの地形ならではの光景です。
ポイント3 旧川越街道の下練馬宿だった商店街
東武練馬駅の南側を通る旧川越街道沿いは、多くの店が軒を並べる商店街となっています。江戸時代、この辺りは下練馬宿という宿場町でした。
ポイント4 みどり豊かな田柄川緑道
田柄川緑道は、ソメイヨシノやモミジなどの樹木や地元住民が管理している花壇など四季折々のみどりが楽しめる散歩道です。
ポイント5 畑の中の水路敷
所々に農地がある平和台のまちを歩くと、水路敷きが農地を真ん中から二分している場所に出会えます。区内でも数少ない、農地をぐるりと360度見渡しながら散歩が楽しめる道です。
ポイント6 八角形の区画整理
平和台・氷川台は、戦前に区画整理が行われた地区です。斜めに通る川越街道と環八通りなどの幹線道路に対して、生活道路を東西南北の方位に合わせた結果、交差点部分が八角形の特徴的な街区となりました。さらに、旧道の位置を極力踏襲しながら区画割りがされました。
ポイント7 ひばりヶ丘睦会の路地空間
氷川台商店会の周辺は、区画整理の直後に開発された歴史ある住宅地です。月島などと同じ時期の開発にあたり、路地が縦横に延びた住宅地は、親密な雰囲気を醸し出す空間となっています。
ポイント8 埼玉道の曲がった旧道と区画整理のまっすぐな道
区画整理で踏襲された旧道の一つが、練馬から戸田へ抜ける埼玉道です。曲がりくねった旧道が区画整理のまっすぐな道と交差する部分には、調整のためかちょっとした広場状のふくらみがあります。
ポイント9 石神井川とつながる城北中央公園
石神井川沿いの遊歩道を川下に向かって進むと、城北中央公園の園路があります。緩やかに上る斜面地に広がるみどりが、公園の奥へと誘っているかのようです。

ゴール地点:羽城歩道橋


スタート地点の田柄川緑道入口は、城北中央公園の脇に位置しています。城北中央公園は、練馬区から板橋区にかけて広がる都立公園で、面積は約26万uあり、城北地区最大の総合公園です。城北中央公園の敷地は、昭和十七年(1942年)に戦時中に策定された防空緑地(空襲被害の拡大を防ぐために設置された緑地)のひとつとして整備されました。戦後、そのまま公園として整備され、陸上競技場・野球場・テニス場など、特にスポーツ施設を充実させた総合レクリエーション公園になりました。コアラがオーストラリアから初来日するにあたり、昭和五十八年(1983年)からエサとなるユーカリの栽培を開始しました。



昭和三十年(1955年)、東京都から立教学院に土地の貸出が行われ、立教学院総合グラウンドの建設が開始されました。その際、古代の遺跡(茂呂遺跡や栗原遺跡)も発掘され、石器や縄文土器、弥生時代から平安時代の竪穴建物跡が出土しました。園内には、奈良時代の竪穴住居が復元されています。

練馬区登録史跡 栗原遺跡の竪穴住居跡

栗原遺跡は、昭和三十年(1955年)に立教学院総合運動場造成の際、発見された遺跡で、このあたりの旧小字名「栗原」を遺跡名としたものです。昭和三十年から翌年にかけて、立教大学を中心に、地域の学校の協力を得て、発掘調査が行われました。弥生時代の住居跡が三軒、古墳時代から平安時代の住居跡が十五軒みつかりました。他に、旧石器時代の石器や縄文時代の土器や石器が出土しています。このあたりは、石神井川と田柄川に挟まれた台地であり、日当たりもよく、生活に欠かせない水の得やすい土地であったため、長い間、人々が生活していました。復元された住居跡は、八世紀初め頃(奈良時代初め)のもので、昭和三十二年(1957年)東京大学教授藤島亥治郎博士の設計により建てられたものです。発掘された竪穴住居跡は、地表から床面まで約50センチメートルの深さに掘られ、北側に粘土でかまどがつくられていました。柱穴は四箇所あり、復元の際には、径約21センチメートルのケヤキ丸太を主柱にし、梁・桁にスギ丸太を用い、カヤを葺いて復元しています。この復元住居跡は、奈良の都の華やかさにくらべ、当時の地方農民の暮らしぶりがどんなものであったのかを語りかけてくれます。現在は、東京都が史跡を管理しています。




城北公園通りを斜めに横切るように、公園の北端に沿って田柄川緑道が延びています。田柄川は、練馬区と板橋区を流れる荒川水系の自然河川で、石神井川の支流でした。1970年代〜1980年代初頭までに水害対策などで暗渠化され、それに伴い多くの区間は「田柄川緑道(グリーンベルト)」として整備されて桜の名所になりましたが、現在も緑道下は下水道幹線として水が流れています。なお、板橋区内では石神井川との合流地点までの短い区間を桜川(桜川緑道)と呼んでいます。ちなみに、「田柄」とは、川が流れていた地域が武蔵野台地にあったために水利に恵まれず、農耕地に適さないというので、「田が枯れる」から「田柄」になったという説があります。



スタート地点の田柄川緑道入口から「城北中央公園コース」を歩き始めます。緑道は綺麗に整備されていて、草花も多彩に植樹されています。



かって田柄川に架けられていた橋は橋名がモニュメントとなって保存されています。



緑道は住宅地の中をくねくねと曲がりながら延びています。



田柄川緑道は円明院と仲町小学校との間を通っていますが、その地点にかってポイント1の「仲町小学校と円明院をつなぐ円明橋」が架かっていました。



円明院は慧日山円明院西光寺と号し、真言宗豊山派の寺院です。開山は僧行真、開基は賢栄阿闍梨と伝えられ、賢栄阿闍梨の名を刻した文亀二年(1502年)の板碑が境内から発掘されていることから、1500年前後の創建と考えられています。豊島八十八ヶ所霊場の第27番札所になります。

円明院

円明院は、慧日山円明院西光寺といい真言宗豊山派の寺院です。豊島八十八ヶ所の第二十七番札所で、本尊は不動明王です。開基と伝えられる賢栄阿闍梨の名を刻んだ文亀二年(1502年)の板碑があります。また、弁財天座像を線刻した文亀元年(1501年)のみごとな板碑があります。この板碑は、大正四年(1915年)に寺の裏山の土窟から偶然発見されたもので、造立当時は田柄川の清流が門前を流れる風景が美しく、水との関係のある弁財天を信仰したものと思われます。村人たちはこれを懇ろに供養し、穴守弁財天として祀りました。毎月三日、二十一日の縁日には多くの参詣人で賑わったといいます。参道には「血の道地蔵」と刻んだ明治二十五年(1892年)の地蔵菩薩立像があります。別名「いぼ地蔵」とも呼ばれ、この地蔵菩薩に祈るといぼがとれるといいます。また、墓地の中央奥には延宝二年(1674年)の石造の大日如来座像があります。舟形の石に童形をした法定印を結ぶ胎蔵界大日如来が空・風・火・水・地の五輪塔二基に支えられる珍しいものです。この他に、寛政六年(1794年)の彫刻に優れた三面八臂の馬頭観音座像などもあります。




練馬区立仲町小学校は、昭和三十二年(1957年)4月に開進第一小学校仲町分校として開校しました。翌年、練馬区立仲町小学校として独立開校し、昭和四十七年(1972年)には学級数28クラス、児童数1、103人の規模になりました。現在の校舎は昭和五十年(1975年)に完成しました。



緑道の脇に庚申塔が建っています。東本村は下練馬村の字名でした。

練馬区登録有形民俗文化財 東本村の庚申塔

下練馬村本村の庚申講十人によって、貞享二年(1685年)九月に造立された庚申塔です。庚申塔の正面は邪鬼を踏む青面金剛像、その下に三猿が浮彫されています。




緑道の脇には植栽が美しい田柄川児童遊園もあります。僅かに残った桜と新緑のサツキのコントラストは今しか見れない風景です(2回目の歩き)。



田柄川緑道が川越街道に突き当たる手前の西側は高台となっています。都心の方角を眺めると、坂道の頂から東京スカイツリーを見ることができるスポットがいくつかあります。ポイント2の「東京スカイツリーのみえる坂道」は、東下がりの地形ならではの光景です。


右側のズームアップした写真の中央にスカイツリーが頭を出しています。


川越街道を越える手前に、あやとりをする少女を表現したブロンズ像が建っています。台座には銘板があり、田中昭作と刻まれてます。田中昭氏は富山県生まれの彫刻家で、氏の作品は練馬区内の公園などにもいくつか建てられているそうです。



田柄川緑道は、北町一丁目バス停の脇から川越街道を越えて北西方向に向きを変えながらさらに上っていきます。



旧川越街道は、川越街道と東武東上線の間を通っています。旧川越街道に沿って、多くの店が軒を並べるポイント3の「旧川越街道の下練馬宿だった商店街」が延びています。

練馬区で唯一の宿場 下練馬宿

旧川越街道の商店街のあたりは、江戸時代に「下練馬宿」がおかれました。川越街道は、江戸日本橋と川越の間およそ43kmをつなぎ、板橋宿で中山道と分かれました。下練馬宿は、上宿・中宿・下宿から構成され、本陣・脇本陣(幕府役人や大名などが宿泊・休憩する施設)、問屋場(馬や人足を用意し、荷物を次の宿場まで届ける所)がありました。下練馬宿に暮らす人々は、苗字を名乗れる人は少なく、商家や職人などは家ごとに「屋号」をつけて呼び合っていました。江戸から近い下練馬宿は、宿泊よりも休憩する所として利用されることが多かったようですが、参勤交代のほか、行商人や大山・富士参詣の旅人など、さまざまな人々の往来でにぎわいました。




東武東上線に近い変則交差点の真ん中に、ポイント3−1の「馬頭観音」を祀った祠が建っています。交差点のど真ん中に鎮座する祠は初めて見ました。



環八が地下に潜り、旧川越街道が交差する地点に、ポイント3−2の「下練馬の大山道道標」が建っています。

下練馬の大山道道標(平成五年度・練馬区指定文化財)

旧川越街道とふじ大山道の分岐点に宝暦三年(1753年)八月、下練馬村講中によって建てられた道標です。上部の不動明王像は後に制作されたものです。江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。

東高野山道標

「左東高野山道」と刻まれた角柱は、高野台三丁目の長命寺への道しるべです。長命寺は紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。

この二つの道標は、環状八号線の工事により元の位置から八メートルほど西側に移動し、現在の場所に設置されたものです。移転前は、相模の大山への道しるべとして、また東高野山への道しるべとして江戸方面から来る人々のため、東南東の向きに置かれていました。現在は見学しやすいよう向きを変えています。




地下に潜った環八と東武東上線が交叉する角に、「電車の見える公園」があります。電車の見える公園は、公園名の通り実際に電車を見ることができる乗り物好きの子どもにはたまらない公園です。園内にはヒラドツツジが植えられていて、春になると花を咲かせてとても綺麗です.園内のすべり台は乗り物がモチーフになっていて、ハンドルが付いているので子供達は運転をしている気分を味わうことができます。



東武練馬駅のすぐ傍に、ポイント3−3の「浅間神社」があります。鳥居の前に、旧川越街道の案内板が立っています。

旧川越街道

室町時代、太田道灌が川越城と江戸城を築いた頃、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。江戸時代には、中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷の宣伝にも一役かいました。下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、新座郡下白子村ヘ一里十丁ヲ継送レリ、道幅五間(中略)南ヘ折ルレバ相州大山道ヘノ往来ナリ」と「新編武蔵風土記稿」に記されています。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。上宿の石観音の所で、徳丸を通って吹上観音堂へ向う道が分かれています。通行の大名は川越藩主のみで、泊まることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。浅間神社の富士塚、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。




浅間神社の鳥居をくぐると、練馬区の有形民俗文化財に指定された下練馬の富士塚があります。富士塚の隣の高台に建つのが浅間神社の社殿かと思いましたが、こちらは天祖神社とのことです。浅間神社には社殿がなく、富士塚自体が神社のようです。

浅間神社

當社は、明治先代に上馭地に築かれたと伝えられ、徳川五代将軍綱吉の頃には寺を揚げての祭典もあり、又古く此の地は宿場街として大変な賑わいを見たところで、爾来冨士浅間神社の霊山として厚く崇敬され今日に及んでいる。なお、山は明治の前に第一回、明治五年六月に第二回の築造がなされ、街内の発展に伴い、昭和二年六月第三回の築造により現今の様態を呈するに至った。




下練馬の富士塚は、高さが約5メートルで径が約15メートルあります。下練馬上宿と中宿の丸吉講によって江戸時代に築かれたものと考えられています。明治五年(1872年)と昭和二年(1927年)に修復工事が行なわれました。常時開放されていますので、いつでも登拝できます。毎年7月1日にお山開きの行事が行われます。5つの登山ルートがありますが、基本的にはどれも狭く、勾配も急です。捉まることが出来るような手すりや柵もないので注意が必要です。草花が生い茂っているので、登拝される方は長袖長ズボンを着用することをお勧めします。いくつもの石造物があり、見どころは盛りだくさんです。



そこに山があるからには登らざるを得ません。でも登山道はゴツゴツとした溶岩で、鎖とか手摺りとかの捉まるものもなく、登るにはかなり難度が高いです。



ようやっと登頂に成功しました。標高は37.76mとのことです。富士山の高さは3、776mだそうですから、本物の1/100の高さということになります。頂上から麓をみれば足が竦みますね。



再び、田柄川緑道に戻ります。ボロボロになった案内板が立っていますね。読めるかな?

田柄川

田柄川は、光が丘から東へ田柄、北町、錦を抜けて板橋区内で石神井川に合流する自然の野川でしたが、現在はすべて暗渠となり、上は遊歩道、下は下水道の幹線として利用されています。田柄川は、水源の少ない武蔵野台地にあって、明治四年に完成した田柄川用水(玉川上水からの分水)とともに、昭和のはじめ頃までは周辺の人々の生活とは切っても切り放せないものでした。おもに水田や水車(米や麦の精白や製粉など)、さらには、防火用水として利用されていました。その後、第二次世界大戦や、戦後に始まる宅地化の波の中で、その存在価値が忘れられ豪雨の度に水害をもたらし、あるいは衛生上の問題を投げかける元凶となり、「やっかい堀」といわれ嫌われものとなりました。特に昭和三十三年9月の狩野川台風の被害は大きく、東京の中小河川の河川改修への動きが活発になり、田柄川も昭和三十九年に護岸工事が施されました。その後、下水道幹線として利用されることとなり昭和四十六年9月から工事が開始され、次第に川そのものは地表から姿を消してしまいました。そして、昭和四十八年から緑道?に着手し、今は田柄川緑道として区民の憩いの散歩道となっています。




田柄川緑道には多くの樹木や花壇などがあり、四季折々のみどりが楽しめます。



かっての橋の親柱も保存されています。

棚橋

棚橋は田柄川にかかる富士大山道の橋でした。かって、神奈川県伊勢原の大山や富士山を信仰する人びとが霊峰を目指してこの道を歩き、旧川越街道から分かれて最初に渡った橋でした。田柄川は田柄用水とともに農業用水として使われましたが、昭和四十九年から始まった下水道の整備により川は地表から姿を消し、遊歩道として面影を伝えています。




たなはし歩道橋で環八を渡ります。田柄川緑道と環八通りが交叉する地点は、川越街道を跨ぐ環八の練馬北町陸橋の上にたなはし歩道橋が架かる重層構造になっています。



たなはし歩道橋からの眺望は見ものです。北東方向には、北町若木トンネルの入口(出口)が見えます。北町若木トンネルは、環状八号線に最後に残された2つの未成区間の内、練馬区北町一丁目から板橋区若木三丁目間の区間の開通のために掘削され、平成十八年(2006年)に開通しました。トンネルの両側で大きく高低差がある地形の為、低地である若木側から進入する際は道路がそのまま丘に突っ込むような形状となっています。ちなみに、環八には北町若木トンネルの他、井荻トンネル・練馬トンネル・練馬トンネル地上部の4本のトンネルがあります。



環八を越え、再び田柄川緑道に入ります。北町小学校の東端には、「旧北子橋跡」と書かれた標識が置かれています。石垣がかっての護岸の名残りでしょうか?



北町小学校の西端にある富士橋の袂には、「徳川綱吉御殿跡之碑」が置かれています。

徳川綱吉御殿跡之碑

この付近一帯はかつて「御殿」と呼ばれた土地であった。後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(十七世紀後半)にこの地を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。




ポイント4の「みどり豊かな田柄川緑道」は、ソメイヨシノやモミジなどの樹木や地元住民が管理している花壇など四季折々のみどりが楽しめる散歩道です。



現在、国道17号新大宮バイパスは川越街道との交点で終点になっていますが、延伸工事が進んでいます。延伸区間の路線名は「東京都市計画道路幹線街路放射第35号線」と呼ばれていますが、令和六年(2024年)2月24日に、練馬区北町七丁目から練馬区平和台四丁目までの570メートルの区間が開通しました。この区間は「平和台トンネル」になっていて、環八と立体交差(アンダーパス)しています。



緑道の上に「田柄川幹線水位状況」なる表示板が立っています。説明文を読んでみますと、下水管は土中に埋まっているのではなく、流れの中に置かれていて、周囲は空洞になっているみたいです。

田柄川幹線水位状況

田柄川緑道の下には下水道幹線が流れています。現在の水位は、下水道管の上端を基準に示しています。




「どんぐり山の森」は、屋敷林の一部だったところを緑地にして一般に開放した公園です。あまり広くなく遊具もありませんが、高い木々が並び少し歩くだけでも心癒されます。公園内にはシラカシやクヌギ・コナラなどドングリのなる木が沢山並んでいて自然が豊富です。秋にはドングリを拾うことができ、子供の遊び場にもなっています。



平和台駅の東側で再び環八を越えますと、住宅と農地が混在する練馬らしい風景が広がっています。



水路敷きが農地を真ん中から二分している風景も見られます。ポイント5の「畑の中の水路敷」は、練馬区内でも数少ない、農地をぐるりと360度見渡しながら散歩が楽しめるところです。



食肉流通センター(株)陸中の脇に行列が出来ています。今日は土曜日なので肉のバーゲンセールをやっているのでしょうか?というか、営業日は土曜日だけなので、普段は肉の加工を専門にしている工場なのでしょう。ちなみに、外国産ですが牛肉100gが100円なんだそうです。



平和台・氷川台の町域は、戦前に区画整理が行われた地区です。斜めに通る川越街道と環八などの幹線道路に対して、生活道路を東西南北の方位に合わせた結果、交差点部分が八角形の特徴的な街区となりました。特に、平和台一丁目交差点を中心とした一画は、ポイント6の「八角形の区画整理」が行なわれた痕跡をはっきりと残しています。


右側の写真で、道路の右奥に見えるのが平和台一丁目交差点です。地図で見ると、八角形の形がよく分かります。


平和台一丁目交差点の裏手にある氷川台さくら公園から、真っ直ぐに延びた住宅街の道を南方向に進みます。



氷川台商店会の周辺は、区画整理の直後に開発された歴史ある住宅地です。月島などと同じ時期の開発にあたり、路地が縦横に延びた住宅地は、ポイント7の「ひばりヶ丘睦会の路地空間」となって親密な雰囲気を醸し出す空間となっています。



区画整理で踏襲された旧道のひとつが、練馬から戸田へ抜ける埼玉道です。曲がりくねった旧道が区画整理のまっすぐな道と交差する部分には、調整のためかちょっとした広場状のふくらみがあり、ポイント8の「埼玉道の曲がった旧道と区画整理のまっすぐな道」が見て取れます。



「おはま井戸」が創建の地とされる氷川神社は、通称「大氷川」と呼ばれ、祭神は須佐之男命です。「氷川台」の町名はこの神社に由来しています。長禄元年(1457年)の創建といわれ、渋川義鏡が古河公方の足利成氏との戦の途上に下練馬で石神井川を渡ろうとした際、淀みに泉を発見し、武運長久を祈ったのに始まるといわれています。当初は「お浜井戸」に鎮座していましたが、文明九年(1477年)に江古田原の戦いのために焼失し、江戸時代の延享年間(1744年〜1748年)に現在地に移転・再建されました。

氷川神社(通称 大氷川)

氷川神社は、須佐之男尊を祭神とする旧下練馬村の鎮守社です。境内には稲荷・北野・須賀・出雲の社があります。社伝によれば、創建は長禄元年(1457年)に渋川義鏡が古河公方足利成氏との戦いの途上、石神井川の近くでこんこんと湧き出る泉を見つけ(「お浜井戸」)、兵を休めて須佐之男尊を祀り武運長久を祈ったことに始まるといいます。そして、江戸時代の延享年間(1744年〜1748年)に現在地に遷座したと伝えられています。この故事により、今では三年に一度、かつては毎年四月の春祭に、神輿が「お浜井戸」まで里帰りする神輿渡御行列が行われました。行列では御供する人々が道中歌を唄い、神輿が「お浜井戸」に到着すると、祝詞のあと獅子舞と「鶴の舞」が奉納されます。「鶴の舞」は、演者二人が雌雄一対の鶴に扮して太鼓にあわせて舞います。以前はその晩に境内で古式を伝える田遊びも行われていました。




石神井川の遊歩道に出ます。「石神井川 −いこいの水辺−」と書かれた石碑が建っています。昔、三宝寺池から石剣が出たので石神(しゃくじ)の祠を祀り、池からの流れを石神井と呼んだのが石神井川の名前の由来というのが後説です。

名前の由来

石神井川は、石神井村を流れていたので、この名になったと言われています。石神井村の起こりは、その昔、井戸を掘ったところ石棒が出たので、これを石神としてあがめ、その井にちなんで石神井となったと伝えられています。また、一説には三宝寺池から出たとも言われています。

川の規模

延長は25.2キロメートルあり、流域の面積は61.6平方キロメートルです。




ゴール地点の城北中央公園にやってきました。ポイント9の「石神井川とつながる城北中央公園」は、昭和三十二年(1957年)4月1日の開園以来用地取得および拡張整備が進められており、開園時には13.2haだった面積は令和五年(2023年)4月時点で25.9haまで拡大しています。現在、公園の敷地は石神井川の北側が主となり、一部、石神井川南側にもありますが、今後、さらに石神井川南側部分の小茂根五丁目全域の住宅地の土地を収用し拡張する予定となっています。板橋区立茂呂山公園や、都立大山高等学校と練馬区立開進第四中学校も取り囲んで、面積は約43.6haまで広がる予定です。


左が石神井川南側の公園敷地、右側が石神井川北側の公園敷地です。


湿化味橋の北側にクレーンが林立しています。城北中央公園調節池の第一期工事が進行中で、2024年に完成予定です。

城北中央公園調節池工事の概要

○東京都では1時間あたり50ミリの降雨により生じる洪水に対して、安全を確保することを目的として護岸の整備を進めています。しかし最近ではこれまでの水準を超える集中豪雨などが増加し、各地で水害が発生しています。

○このため石神井川では、目標整備水準を1時間あたり75ミリに引き上げ、護岸の整備とともに新たに調節池も整備することとなりました。

○今回の工事では、都立城北中央公園の石神井川沿いに、長さ約163m、幅約33m、深さ約35m、貯留量約90、000立方メートルの地下箱式の調節池を構築します。これは25mプール約300杯分に相当し、完成後は流域の浸水被害の軽減に効果を発揮します。




城北中央公園コースの正確なゴール地点は特定できませんが、コース図から判断して、調節池と対岸を繋ぐ羽城歩道橋辺りではないかと思います。



ということで、地味な練馬区のお散歩は無事に終了しました。練馬区は名所や旧跡は多くはありませんが、公園や緑地の緑が印象的でした。次は練馬区の北側に位置する、都内最果ての地である北区のお散歩コースを巡ります。




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