Aコース(浮間舟渡〜北赤羽〜赤羽)  

コース 踏破記  

今日から北区の散歩道を巡ります。最初は「Aコース(浮間舟渡〜北赤羽〜赤羽)」です。浮間舟渡駅をスタート地点として、都立浮間公園・赤羽緑道公園・赤羽自然観察公園と荒川土手を訪れます。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年4月に改めて歩きました。なので、秋と春の写真が入り交じっています。  

Aコース(浮間舟渡〜北赤羽〜赤羽)

「Aコース(浮間舟渡〜北赤羽〜赤羽)」の歩行距離は約5.5km、歩行時間は約1時間20分です。

スタート地点:浮間舟渡駅
ポイント1 都立浮間公園
春には桜、ツツジ、梅雨時にはアジサイ、初冬からは8、000羽に及ぶ力モなどの渡り鳥が集まるなど、季節ごとに変化が楽しめます。湖畔には公園のシンボルとして設置された風車があります。
ポイント2 東京北医療センター前の桜並木
諏訪神社前から八幡小学校前まで約700mの桜並木は、開花時には幅20mの道路を覆う見事な桜のトンネルになります。
ポイント3 赤羽緑道公園(パークブリッジ)
旧国鉄の引き込み線跡地を利用して作られた歩道状の公園で、四季折々の花や緑、レンガ調の橋など見どころがたくさんです。
ポイント4 赤羽自然観察公園
昆虫や野鳥の育生する自然林の再生を一つの目的とし、谷の地形や湧水などを生かした自然と触れあえる公園です。

ゴール地点:赤羽駅西口


スタート地点の浮間舟渡駅から歩き始めます。浮間舟渡駅(うきまふなどえき)は、北区最北端かつ最西端の駅で、JR東日本における都区内最北端の駅でもあります。浮間舟渡駅は、昭和六十年(1985年)の埼京線の開業とともに設置されました。北区「浮間」と板橋区「舟渡」にまたがった位置にあるため、両者を合わせた駅名となりました



浮間舟渡駅の向かいには、ポイント1の「都立浮間公園」があります。浮間公園は、東京都北区浮間二丁目と板橋区舟渡二丁目の境にある浮間ヶ池を中心にした都立の都市公園(総合公園)です。江戸時代から明治時代にかけて、浮間付近で荒川は大きく南に蛇行していました。昭和三年(1928年)頃に荒川が直線化された際、荒川の旧流路の一部が取り残され、その名残りとして浮間ヶ池ができました。それまで荒川の左岸側(埼玉県側)だった浮間は、このとき右岸側(東京府側)になりました。浮間ヶ池はU字蛇行部の西の一部にあたり、池の東にある現在の浮間地区が荒川改修で埼玉県側から移った町域に相当します。昭和四十二年(1967年)、東京都は浮間ヶ池を含めた周辺地域を都立浮間公園としました。昭和六十年(1985年)に浮間舟渡駅が開業すると、浮間公園の入り口は駅前広場と道路一つを隔てて相対する現在の姿になりました。

公園の沿革

この辺一帯は、荒川が蛇行していて、川の中の浮島のような湿地であったため、江戸時代から浮間ヶ原とよばれ桜草の自生地として有名でした。大正時代の中期から荒川の改修工事が始まり、昭和三年頃ここに堤防が築かれたことから、廃河川敷となって浮間ヶ池の原形が出来上がりました。その後、この池はつり堀などとして親しまれて来ましたが、昭和三十五年、この廃河川敷を中心に都市計画公園の事業決定がなされ、昭和四十二年に都立浮間公園として開園しました。昭和五十二年には、知事からチビッ子にプレゼントの形で、都立公園としては唯一、釣り池として全面開放されました。昭和六十年10月には、埼京線浮間舟渡駅が開設され、公園利用者も一段と増えたことに伴い、昭和六十二年度から3ヶ年で大改修が行われ、施設など公園が一新されました。




こんな感じです。



公園面積の約40%を占める浮間ヶ池では、コイやヘラブナなどの釣りが無料で開放され、一年中釣人が絶えません。池の畔には公園のシンボルとして設置された風車が一基あります。風車は公園の見どころのひとつで、季節によってさまざまな景色を見せてくれるほか、期間限定でライトアップが行われることもあります。



春には桜やツツジ、梅雨時にはアジサイが美しく咲き、秋にはケヤキが美しく紅葉します。また、晩秋からはカモなどの渡り鳥が多く集まります。公園の北側は保護区になっているので、オオヨシキリやコジュケイ、ウグイスなど街中ではあまり見ることのできない小鳥の鳴き声が聞かれます。



公園内にある浮間ヶ原桜草圃場は、かつて浮間ヶ原に自生し、河川改修や護岸工事などで絶滅した桜草を残そうと、当時の園芸組合員が持ち寄ったのが始まりです。年に一回、一般にも公開されています。

浮間ヶ原のサクラソウと桜草圃場

浮間ヶ池の東側(北区側)は、かつて浮間ヶ原と呼ばれていました。江戸から大正まで浮間ヶ原をはじめとする荒川沿いの原野は、氾濫でもたらされた沃土の上にサクラソウの群生地が広がり行楽地となっていました。しかし、荒川の流路が変更され、都市化が進むにつれ、サクラソウは姿を消してしまいました。地元では、浮間ヶ原にサクラソウを復活させようと桜草保存会を結成、桜草圃場で栽培と公開を続けています。




圃場のサクラソウの花は終わってしまったようですが、公園の一画にピンク色の花畑がありました。これはサクラソウかな?ちなみに、浮間ヶ原のサクラソウは文人の随筆にも描かれました。田山花袋は、未だ荒川が改修される前の風景を描写したものと思われます。

田山花袋「一日の行楽」(大正七年)より

川を渡ると、浮間ヶ原である。一面、桜草で、丁度毛氈でも敷いたやうである。頗ぶる見事である。で、日曜、土曜などには、東京から女学生達が沢山にやって来る。女学校で運動会に生徒をつれて来たりするので、桜草は採られ、束にされ、弄ばされて、娘達の美しい無邪気な心を飾る。花の中にゐる大勢の娘達ー実際絵に書いた美しいシーンである。

永井荷風「葛飾土産」(昭和二十五年)より

わたくしが小学生のころには草花といへばまづ桜草くらゐに止って、殆ど其他のものを知らなかった。荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草が多くあつたのを聞きつたへて、草履履きで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区の陋巻となり、桜草のことを言ふ人もない。




浮間公園を出て荒川の土手に向かいます。階段の下には、荒川ゴルフ倶楽部のクラブハウスがあります。随分と格式ある立派な建物ですね。



荒川の河川敷に広がり、ゴルフ発祥の地であるスコットランドの原点を彷彿させる18ホールの荒川ゴルフ場は、四季折々の自然の情緒を満喫でき、ロングヒッター向きのアウト、アイアンの正確性を競うインと、まさにゴルフの面白さそのものを楽しめます。



今日は快晴で(一回目の歩き)、堤防上の遊歩道からは富士山が見えます。既に山全体が雪に覆われていますね。



既に花は散ってしまいましたが、浮間桜並木が堤防下から延びています。



テトラポット保管場の先に、浮間地区荒川防災ステーションがあります。浮間地区荒川防災ステーションは、洪水時や地震時に水防活動や復旧活動を行うために必要な資材を備蓄した防災拠点として、北区と国土交通省が共同で整備したものです。



荒川の案内板が立っています。

荒川の洪水の歴史

荒川は、概ね50年に一度の周期で氾濫を起こしており、この100年では明治四十三年(1910年)と昭和二十二年(1947年)に大規模な洪水が発生しています。明治四十三年(1910年)の大水害は、東京の下町のほとんどが泥の海になり、浸水家屋27万戸、被災者150万人という大水害をもたらし、荒川放水路開削の契機となりました。昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風による洪水では、荒川・利根川上流部の堤防が決壊し、死者114名、家全壊流出1、418戸の被害を出し、荒川流域の戦後最大の災害となりました。

地域の歴史

赤羽東地区では、荒川の水害を受けながらも、肥沃な土壌を背景に水田耕作が行われていました。やがて、旧岩淵水門が建設されると、水害がなくなりました。赤羽西地区では、戦前は、民家がまばらで多くの軍用施設が設けられていましたが、戦後は、都営桐ヶ丘団地などの大団地が出現し、急激に人口が増加しました。浮間地区は、かつては埼玉県に属する人口400人程度の農村でしたが、荒川の工事後に交通の便の良い岩淵町と合併しました。その後、工場が多数進出し、人口もさらに増加しました。

北区・子どもの水辺

「子どもの水辺」は、近年川とのかかわりが薄れていく子どもたちに河川の利用を促進し、地域における体験活動の充実化を図ろうと、文部科学省・国土交通省・環境省が連携し、平成十一年度(1999年度)から進められているプロジェクトです。「北区・子どもの水辺」では、北区が水辺に親しむ事ができる自然地を整備し、市民団体、学校、自治会、河川管理者などで構成する協議会を設立して運営にあたっています。活動日には釣りなどの川遊び、自然観察、清掃活動などをとおして、川に関することを学んでいます。

高規格堤防北赤羽地区(河川防災ステーション)

北赤羽地区は、荒川の代表的な高規格堤防整備地区です。高規格堤防は、極めて大きな洪水でも決壊しないように堤防の高さの約30倍の幅をもつ堤防です。高規格堤防の上は通常の土地利用が可能ですが、ここ北赤羽地区では、災害時に緊急復旧活動等の拠点となる河川防災ステーションとして整備されています。災害時には、水防活動や緊急復旧活動に必要な資機材の備蓄、ヘリポート、作業ヤード等に利用されます。また、平常時には地域住民の憩いの場として利用できるようになっています。




浮間橋は新河岸川に架かる橋です。新河岸川は埼玉県と東京都を流れる一級河川で、荒川水系隅田川の支流です。武蔵野台地北部に降った雨を集めた伏流水や入間川からの水田用水を水源とする赤間川が埼玉県川越市上野田町の八幡橋付近で新河岸川と名前を変え、川越の市街地の北側を回り込むように流れた後で、川越市大字砂付近で不老川、川越市大字南田島付近で九十川と次々に流れ込む支流を合わせながら荒川の西岸沿いを流れ、北区の岩淵水門先で隅田川に合流します。



橋の袂に記念碑が建っています。

浮間橋の碑

荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。時の明治政府は、明治四十三年(1910年)八月の大水害をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。改修では、洪水時の四分の三の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、もとの荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台四丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計六千円を拠金して架橋を依頼し、昭和三年(1928年)五月に幅二間、長さ六十五間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。橋は昭和九年(1934年)に幅八メートルの銅板鋼桁橋になり、昭和十五年(1940年)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線、埼京線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設および顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和六十年(1985年)九月に現在の浮間橋の脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。地元の人たちによって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋のかかわりを永く後世に伝えています。




コース図には、コース周辺の飲食店が掲載されています。お散歩がてらに立寄るのもいいですね。「にじいろのひつじ」は、街と人に笑顔の虹をかけるほっこりカフェをコンセプトにしています。お店は、北赤羽駅の脇を走る環八沿いの交差点の脇にあり、平成二十九年(2017年)10月にオープンした街の人気カフェです。長年会社勤めをしていたというオーナーの大井理花さんは、癒しの場所を作りたいと一念発起して、ゼロからカフェ作りを勉強したのだそうです。



赤羽北二郵便局の横に謎の大瓶が置かれています。既に50年以上はこの場所にあるとのことですが、大瓶が置かれた経緯は不明とのこと。なんでも、ここに昔酒屋さんがあり、そこで量り売りか何かで使われていたのではないかとの話もあります。しっかりした土台に据え付けられていることから、酒屋さんの廃業記念に置かれたのかもしれませんね。



環八の北赤羽駅入口交差点から諏訪神社にかけて坂が上がっています。坂の途中に、「宮の坂」という標識が立っていますが、本当の宮の坂は、神社に向かって上がる赤羽桜並木通りではなく、神社の手前を通る旧道の坂だそうです。

宮の坂

坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指しており、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量が多い坂です。




坂の上に諏訪神社があります。

諏訪神社

祭神は建御名方命です。別当寺であった真頂院(足立郡川口宿錫杖寺末寺)の寺伝によれば、応永三年(1396年)九月、同院第一世秀善和尚が創立したものだそうです。末社には、稲荷神社二社、八幡神社、須賀神社、白山神社、猿太彦神社があり、それぞれ、宇迦之御魂命、品陀和氣命(応神天皇)、須佐之男命、伊邪那岐命、猿田彦命を祀っています。「新篇武蔵風土記稿」には、神社の末社である丸山権現がかつての袋村の鎮守で、後にこの諏訪神社に改められたことが記されています。かつて社前には、袂杉と呼ばれた名木があり、神社の御神木にもなっていました。これは、真頂院の和尚が、諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉苗の内の一つでした。現在御神木の切株は、本殿の裏に移され、残っています。




東京北医療センターは、公益社団法人地域医療振興協会が運営する大規模総合病院です。この場所には、かって国立王子病院がありましたが、国立王子病院が国立病院東京災害医療センターに移転統合された後、その跡地は社会保険庁に譲渡され、平成十六年(2004年)4月22日に東京北社会保険病院として診療を開始しました。しかし、その後の社会保険庁の廃止に伴い、平成二十六年(2014年)3月10日に東京北医療センターに改称されて現在に至っています。



諏訪神社前から八幡小学校前まで、約700mにわたって続くポイント2の「東京北医療センター前の桜並木」は、開花時には幅20mの道路を覆う見事な桜のトンネルになります。



八幡小学校方向へカーブしながら上がる坂の手前に煉瓦製の陸橋が架かっています。



ポイント3の「赤羽緑道公園(パークブリッジ)」は、赤羽台公園近くから赤羽自然観察公園へと続く約1kmの細長い公園です。かって、赤羽駅の西側には陸軍の軍事施設が集中していました。赤羽緑道公園は、明治四十二年(1909年)に赤羽駅の北側の東北線から西に分かれて引き込まれた陸軍兵器補給廠貨物線の跡地を整備して公園になりました。



赤羽緑道公園は線路跡に作られたことから、線路にちなんで、赤羽保健所通りに架かる赤羽緑道パークブリッジの欄干には車輪のデザインが組み込まれ、遊歩道には線路模様の装飾が施されています。



また、緑道にはサザンカや椿などが植樹され、休息や鑑賞のためのベンチも設置されています。



緑道の脇に、北区立桐ヶ丘体育館の建物があります。桐ヶ丘体育館は、昭和三十九年(1964年)の東京オリンピック開催を記念して建てられた体育館です。緑豊かなロケーションに位置する八角形の建物に、アリーナ・剣道場・柔道場・トレーニングルーム・会議室が備えられ、別棟の弓道場や、屋外にテニスコートを併設しています。アリーナには観覧席があり、バスケットボールとバレーボールのコートが2面、バドミントンコートが6面、卓球台が14の競技スペースを確保し、様々なスポーツ教室を開催しています。ここで正式なオリンピックの競技が行なわれたことはないようですが。



桐ヶ丘といえば、都営「桐ヶ丘団地」の名で親しまれていた団地が思い浮かびます。現在は全面建替に向けて順次既存住宅棟の取壊しと新築が進んでいます。この団地があった場所は、陸軍施設(工兵隊・火薬庫)でした。接収解除・国有地払い下げにより、昭和三十年に先行区1〜3号棟(第1種公営住宅96戸、現在の赤羽台桐ヶ丘アパート)が完成し、昭和三十二年にE地区・W地区・N地区の各エリアが計画に追加され、昭和三十四年から入居が始まりました。昭和四十六年時点で総戸数4、758戸、全140棟ありました。団地内に商店街や公共施設も設けられるなどひとつの街を形成しています。



桐ヶ丘団地の中央商店街の向かいに、「赤羽郷」というバス停があります。第二次世界大戦後、日本は深刻な住宅不足に襲われました。「この冬を越せるかどうか」というくらい深刻だった時代です。この場所にあった陸軍の元火薬庫にも戦災者や引揚者が身を寄せ合って暮らしていたといい、一時は500世帯2、000人もいたそうです。ここに住み着いた人たちは、この地を第二のふるさととして「赤羽郷(あかばねごう)」と呼ぶようになりました。桐ヶ丘団地は、この赤羽郷があった場所に建設されました。現在では、団地住民の高齢化と人口の減少によって桐ヶ丘中央商店街はシャッター街と化しています。



ポイント4の「赤羽自然観察公園」の敷地には、戦前は兵器や弾薬を補給する役割の兵器補給廠が置かれていました。戦後は陸上自衛隊十条駐屯地赤羽分屯地が置かれ、その跡地の一部を公園として整備して平成十一年(1999年)4月1日に開園したのが赤羽自然観察公園です。公園内には湧水があり、昆虫や野鳥の育生する自然林の再生をひとつの目的とし、谷の地形や湧水などを活かした自然と触れあえる公園になっています。余談ですが、赤羽自然観察公園の用地は、昭和四十八年(1973年)当時に営団地下鉄(現・東京メトロ)南北線(当時は路線名称決定前で、単に「地下鉄7号線」と呼ばれていました)の車両基地が計画されていました。車両基地は地下2層構造で、地上部には車両搬入口・油庫・換気口などを整備し、残りは覆土して住民への公園・避難場所とすることが計画されていました。しかし、桐ヶ丘団地住民の激しい反対運動が展開され、営団地下鉄は車両基地計画を断念し、最終的に自然公園として整備されることとなりました。



園内は起伏に富み、自然林のような樹木で覆われています。



赤羽自然観察公園には、「ふるさと農家体験館」の施設があります。その脇には、付属の田圃があり、子ども達が体験学習で田植えを行い、秋には黄金色の稲穂を収穫します。



広場の奥には、江戸時代の浮間にあった旧松沢家住宅を移築復元した北区指定有形文化財の農家が復元されています。

北区指定有形文化財(建造物) 旧松澤家住宅 附 倉屋

規  模 主屋 桁行9間 梁間5.5間(うまや 桁行2.5間 梁間2.5間)
     倉屋 桁行3間 梁間2間
建築年代 江戸時代後期

旧松澤家住宅は弘化元年(1844年)に創建されたと伝わる民家です。北区浮間に所在していたこの建物を、この場所に移築しました。主屋は寄棟造りの茅葺屋根で、棟には「箱棟」という瓦葺きの小屋根がついています。間取りは、向かって左に「どま」がつき右側に田の字がずれた形に4部屋が配置される「喰い違い4間取り」形式になっています。主屋に付属する「うまや」は明治初期頃に増築されたとされ、建物も同時期の間取りに復原しています。広い屋根裏は芽や藁などの保管場所として使うほか、洪水時の避難場所としても使われました。これは当時の浮間をはじめとする荒川流域が洪水にたびたびみまわれた地域であったためで、これらの地区では「水塚」とよばれる高く盛り上げた敷地の上に家を建てていました。裏の倉屋は、主屋よりも創建が古いとも伝わっており、礎石の上に直接柱を立てるなど、土台のある主屋と異なった建て方をしています。




赤羽自然観察公園を出て、高台の上に建つURのヌーヴェル赤羽台沿いの道路を進みます。戦前は此の地に旧日本陸軍の被服本廠があり、戦後は接収されて米軍東京兵器補給廠第3地区となりましたが、昭和三十三年(1958年)に接収が解除され、発足3年目の住宅公団に払い下げられました。住宅公団は5年限りの時限組織とする話もあり、5年目を間近に控えていたため、当時は集大成として新しい都市型団地をつくるのだという意気込みに満ちていました。そして、23区内では初めての3、373戸という大規模・高密度の住宅の整備が計画されました。赤羽台団地は昭和三十七年(1962年)から入居が開始されましたが、住棟の老朽化が進んだため、平成十二年(2000年)以降、順次「ヌーヴェル赤羽台」への建て替えが行われ、平成三十年(2018年)10月末をもってそれまで住んでいた入居者の戻り入居が完了しました。ヌーヴェル赤羽台は従来の低層階中心の団地とは趣を異にし、完成した住棟は高層マンションのような外観となり、各棟ごとに違うデザインとなっています。



団地内には、赤羽台団地時代から育っていた大木が残されていて、それを活かした公園も併設されています。梅公園は北区唯一の梅林で、早春には可憐な梅の花が楽しめます。



平成三十年(2018年)、日本建築学会からURに対して「赤羽台団地の既存住棟の保存活用に関する要望書」が提出され、赤羽台団地の団地設計や該当住棟の歴史的価値を伝承するため、板状住棟(41号棟)とスターハウス(42〜44号棟)の4棟を保存活用されることになりました。4棟は団地では初めて国の登録有形文化財に登録され、登録を機にURでは、保存住棟に加えて「都市の暮らしの歴史を学び、未来を志向する情報発信施設」のコンセプトで「URまちとくらしのミュージアム」を新設しました。



赤羽台団地の建て替え計画に沿って団地内あったものの生徒数の減少により統合となった北区立赤羽台中学校の跡地を東洋大学が購入し、新キャンパスの整備に取り組み、平成二十九年(2017年)4月に情報連携学部等が拠点を置く赤羽台キャンパスが開校しました。さらに翌年、東洋大学は周辺の土地を買い増し、令和三年(2021年)4月に朝霞キャンパスからライフデザイン学部を移転させています。



ヌーヴェル赤羽台は高台にあるため、住民のために北区がエレベータを設置しています。かなり大型で、自転車2台が余裕で乗れます。但し、歩行者のために、原則自転車は1台しか乗せられない規則になっています。あと、東洋大学生は学生数が多いためにエレベータの利用は禁止で、階段を使わないといけないそうです。



「Cafe粉寝(koneru)」は、赤羽の路地裏に佇む隠れ家的なカフェです。野菜中心のランチと自家製ケーキのお店で、女性に大人気です。



ということで、北区で最初の「Aコース(浮間舟渡〜北赤羽〜赤羽)」を歩き終えました。新緑が眩しい中、公園主体のお散歩が楽しめました。次は、北区で二番目の「Bコース(赤羽〜志茂〜岩淵〜赤羽)」を歩きます。






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