- Bコース(赤羽〜志茂〜岩淵〜赤羽)
- コース 踏破記
- 今日は北区の「Bコース(赤羽〜志茂〜岩淵〜赤羽)」を歩きます。赤羽駅南改札口をスタート地点として、北清掃工場から隅田川沿いの堤を歩き、新旧岩淵水門を訪れた後、新河岸川緑地を経てJR線の高架脇を進んで赤羽駅に至ります。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年5月に改めて歩きました。なので、秋と春の写真が入り交じっています。
Bコース(赤羽〜志茂〜岩淵〜赤羽)
「Bコース(赤羽〜志茂〜岩淵〜赤羽)」の歩行距離は約5.5km、歩行時間は約1時間20分です。
スタート地点:赤羽駅南改札口
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- ポイント1 熊野神社
- 毎年2月7日に白酒祭が行われる神社で、「鬼」と書かれた的を矢で射る儀式を行うことでも有名です。
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- ポイント2 荒川知水資料館(AMOA)
- 荒川に関するさまざまな情報をわかりやすく展示した資料館。荒川をもっと親しむための活動と交流のスペースです。
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- ポイント3 旧岩淵水門(赤水門)
- かつて氾濫を繰り返した荒川を治めるために大正十三年に建設されたもので、昭和五十七年に役目を終えた以降は荒川のシンボルとなっています。
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- ポイント4 八雲神社
- 境内には、区画整理の中、住民が地元の町名を守り抜いた「岩淵町町名存続之碑」があり、また、勝海舟が書いた旗が保存されています。
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ゴール地点:赤羽駅北改札口
スタート地点の赤羽駅南改札口から歩き始めます。赤羽駅には、北と南のふたつの改札口があります。北改札口は駅前広場に面していて、センベロの聖地である一番街商店街に近く、いつも賑わっています。一方、南改札口は飲食店街の外れにあり、利用する人はそんなに多くありません。
南改札口から赤羽東本通りに出て、赤羽南二丁目交差点を左折し、住宅地の通りを進みます。正面の奥に巨大な煙突が見えます。
北清掃工場は令和五年春から解体工事が始まり、令和十二年2月に全ての施設が完成して再稼働する予定になっています。新しい工場棟は地下3階・地上5階建て・延べ面積は3万4000uで、1日当たりの処理能力は建て替え前と同じ600t(300tX2炉)となっています。鉄筋コンクリート造の煙突は高さ約120mになるとのことですが、完成予想図を見ますと、特徴的な八角形の煙突の形状は踏襲されるものの、塔屋の部分が見当たりません。あれが好きだったのですがね。
北本通りを渡って志茂東公園に入ります。細長く延びた公園の敷地には、中央に緑溢れるグリーンベルトがあり、桜並木が続いています。
志茂東公園は、隅田川から赤羽発電所まで開削された水路跡を埋め立てて公園に整備したものです。
赤羽発電所跡
鉄道省は、電車運行の給電能力を高めるため、赤羽発電所を大正九年(1920年)に起工し、大正十二年二月一日から運転を開始しました。現在の北清掃工場のあたりに発電所が位置し、志茂東公園は水路部分にあたります。荒川から水路で水を引き込み、石炭ボイラーで高圧蒸気に換え発電を行う火力発電所です。敷地面積は5、500坪、二本の大きな煙突が印象的な施設でした。当初は6、000キロワットのタービン二台でしたが、大正十四年十一月に一台増設し、設備容量18、000キロワットの発電所として稼働しました。昭和五年(1930年)さらに大規模な川崎発電所の運転が開始され、その後、新潟県千手水力発電所等も運用されると、赤羽発電所は、渇水時等の補給発電所として運用されました。昭和三十三年十一月に廃止され、北清掃工場(昭和四十三年完成)が赤羽発電所跡地につくられました。
昭和八年の地図では「荒川」と書かれていますが、現在の隅田川と思われます。
北区立赤羽体育館は、平成二十九年2月にオープンした区内で3番目となる総合体育館です。鉄骨鉄筋コンクリート・地下1階・地上4階の建物内に、バスケットボールやバレーボールなどのスポーツに利用できる大小2つのアリーナやトレーニングルーム、弓道場、スタジオ、多目的室などの設備が整っています。体育館横の階段を上がった先には広いテラスがあり、隅田川の川面を眺めることができます。ちょっと殺風景ですが。
隅田川沿いに日本化薬株式会社の研究所があります。会社名の「化薬」は元々は「火薬」で、現在は総合化学メーカーですが、大正五年(1916年)に日本火薬製造株式会社として発足し、日本で最初にダイナマイトを製造しました。現在は染料・農薬など薬品を手掛け、紫外線硬化樹脂であるフォトレジストを代表とするファインケミカル品や医薬品も製造しています。余談ですが、この研究所と隅田川を挟んで対岸の足立区新田に所在する工場との間で渡船を運航していて、隅田川の渡しのうち現存する唯一のものであるものの、従業員専用のために一般客の利用はできないとのことです。社員の船頭さんが漕いでいるのかな?
ポイント1の「熊野神社」は、正和元年(1312年)に西蓮寺を開山した淳慶が熊野三社権現(現・熊野三山)を勧請して創建されたといわれています。毎年2月7日に白酒祭が行われていることで知られ、「鬼」と書いた的を射て、その後に白酒がふるまわれたことからこの祭名が付けられました(現在は甘酒がふるまわれています)。北区の無形民俗文化財にも指定されています。
東京都北区指定無形民俗文化財
熊野神社の白酒祭(オビシャ行事)
熊野神社は、鎌倉時代末期の正和元年(1312年)八月、下村の西蓮寺住僧であった淳慶が紀州の熊野三社権現の分霊を招き迎えて創建したと伝えられています。以来、同社は今日まで村の鎮守として志茂地区の神事・祭礼の中心をなしてきました。境内には、享和四年(1804年)正月建立の石鳥居、欄干の擬宝珠に文政五年(1822年)の年紀がみられる阿夫利社や嘉永二年(1849年)三月建立の富士講村上派の供養塔などがあります。毎年二月七日に同社では白酒祭と呼ばれる行事が行われます。この行事は元来正月七日の年占いの神事である歩射(オビシャ)の後に響宴として催されていたものです。祭では墨で丸く描いた円の中に鬼という字を書いて拵えた的を用意し、これを総代ら射手が弓矢で射抜きます。かつては歩射に使用した矢は魔除けになるといわれ、籤に当たった者が持ち帰れました。歩射が終了すると、主催者が参拝者に白酒(今は甘酒)と切餅を振舞います。この祭の名前の由来ともなった白酒は、元々は祭にあわせてズシと呼ばれる村落内組織が持ち回りで荒川の水を汲んで仕込んだと伝えられています。関東では千葉県・埼玉県の川沿いに多く見られるオビシャ行事ですが、都内で伝承されている事例はきわめて少なく、志茂地区の風俗慣習を理解する上で大変貴重な文化財です。
参道の脇に一本の椰子の木が枝葉を広げています。梛の木は、日本の南西部から四国・九州・台湾に分布する樹木で、伊豆半島が植生の北限とされています。梛の葉が落ちると緑色が茶色に変わり、葉の筋が強く見えて手で切っても切れないことから、男女の縁が切れない縁結びのお守りとして、また財布の中に入れておくとお札が切れないお守りとしてももてはやされています。一説には、源頼朝が伊豆山に配流されていた時、北条政子と愛を誓ったのが椰子の木の下とされ、これも縁結びのご利益のいわれのひとつになっています。
椰の木
椰の木は遠く中国の海南島や台湾等に自生するが、太古黒潮ラインに乗り本邦南紀四国九州等の温暖な地方に定着したイチヰ科の雌雄異株の常緑の高木です。椰の木は伊豆半島が北限であると伝えられ、当神社の椰の故郷伊豆山神社には「此の木他国に稀なり」と記して有り、東京の北辺当神社で育つとはと感激して居ります(地球温暖化の為か)。椰の木は古代より神社の境内に植えられて居り、奈良の春日神社には平安朝900年頃の巨木有り、伊豆山神社には今を去る1千400年余年の昔、山岳信仰の道開きとも仰がれる役の行者(小角)が、
神木椰の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は
千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず
と歌われた誌が有ります
鎌倉の尼将軍と名をはせた北條政子が若き日に、伊豆山に配流されていた源頼朝と椰の木の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁が結ばれる縁結びの神木とされてます。後に1192年、源頼朝鎌倉に幕府を開く。
他にも椰の木の文献が数多く有りますが、当熊野神社の本宮紀州熊野那智大社周辺にも椰の木有り、新宮の熊野速玉大社には平重盛が植えたといわれる樹齢1、000年の椰の巨木有り、千古の昔より信仰厚く、当神社にも「縁結び」の神々が坐します。椰の木との関わり深く、神木として大切に生育したいと思います。
参道正面奥に拝殿があります。
熊野神社
御祭神 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
伊邪那美神(いざなみのかみ)
事解之男神(ことさかのおのかみ)
由緒
当社の創建については明らかではありませんが、別当寺である西蓮寺の鐘に「正和壬子年八月先師淳慶阿闍梨従紀州奉勧請熊野三社権現為当郷鎮守」とした旨が彫られています。当時の西蓮寺住職淳慶阿闍梨(じゅんけいあじゃり)が紀州(和歌山県及び三重県の一部)より熊野三社権現を勧請して正和元年(1312年)八月に下村(現在の志茂)の鎮守としたと記されています。毎年二月七日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。なお、現在の社殿は明治百年記念事業として、昭和四十三年に改築竣工したものです。
末社
阿夫利神社 御祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)
浅間神社 御祭神 木花之佐久夜毘賣神(このはなのさくやびめのかみ)
大六天神社 御祭神 於母陀流神(おもだるのかみ)
十二社神社 御祭神 速玉之男神(はやたまのおのかみ)
御社殿右の末社には、四社が祀られています。この社殿は旧熊野神社の御本殿です。これら四社は「講」として、村人が本来御本社に参詣するところ、当時の交通手段では多くの方が出向く事は容易ではなく、有志の方が御本社より勧請し鎮守と一体にして氏子の信仰を仰いで今日まできています。なかでも阿夫利神社祭(五月七日)は五色の紙で御幣を切る事数十本これを奉納し、式典後参拝の方に家内安全・繁栄を願い差し上げて居ります。
拝殿の前に一対の狛犬の親子が鎮座しています。熊野神社の狛犬は、大人と子供の狛犬が2頭ずついます。台座には大正六年(1917年)に建立されたと刻まれています。また、狛犬自体は「狛犬修復石碑」に平成十一年(1999年)に修復されたと書かれています。台座は富士山の溶岩を持ってきて造られたといわれています。参拝に来て拝殿前の階段を上がることができない人は、子供の狛犬の体に触れて願い事をすれば叶うとのことです。
拝殿の右手には、阿夫利神社・浅間神社・大六天神社・十二社神社の4社を祀る末社があります。社殿は熊野神社の旧本殿で、文政五年(1822年)に建立されたものです。これら4社は、氏子たちによって組織された「講」による信仰が行われてきました。なかでも阿夫利神社を参詣する大山参りは、現在も熊野神社総代が毎年春に参拝を続けています。
北区台帳登載文化財(有形文化財 建造物)
阿夫利神社社殿(熊野神社旧本殿)
建築年代 文政五年(1822年)
今では阿夫利神社として多くの人が参拝に訪れるこの社殿は、元は熊野神社の本殿として使われていたものです。熊野神社は、正和元年(1312年)に和歌山の熊野からこの地に熊野三社権現を勧請したことが創建と伝わっています。昭和四十三年(1968年)に熊野神社の社殿が建て替えられる際に、本殿の社をここに移したもので、現在、この社殿には阿夫利神社の他、浅間神社・大六天神社・十二社神社が併せて祀られています。社殿の建築材には年輪の詰んだ良質の檜と欅とが用いられ、蟇股や木鼻など、部材の各所の彫刻には江戸時代後期の様式の特徴もみられます。高欄の擬宝珠金物に「文政五年壬午歳五月」の印刻も確認できることから、成熟した規矩術に則って建立された近世社寺建築であることがわかります。阿夫利神社の由来は定かではありませんが、元は橋戸の子育地蔵の裏手(現志茂三・四丁目の境)に祀られていたものが、昭和に入り熊野神社境内に移されたものです。かつてこの辺りでは、毎年五月七日に旧下村の若い衆が集まって万垢離あるいは祈祷垢離などと呼ばれる行事を執行していました。数百本もの御幣を挿した竹柱(ボンデンまたはボンゼンと呼ばれました)を作り、これを担いで「阿夫利権現六根清浄」と唱えながら荒川で水垢離した後、村内を練り歩き、氏子に挿してある御幣を配りました。
この他、境内には梛野原稲荷神社と水神宮の末社が祀られています。
椰野原稲荷神社(なぎのはら)
御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
荒川放水路は明治・大正時代まで、東京都・埼玉県一帯が大雨により度々洪水に見舞われ、住民は毎年悲惨な思いをして来た過程で建設されました。椰木野原とは荒川の対岸にあって、下村の飛地として放水路の出来るまで水田、畑として作物を生産していました。その地に当社は当時まで鎮座し、五穀豊穣と家内繁栄を願い村人の信仰を仰いでいましたが、放水路の建設により現在の地に移築されました。
志茂 水神宮
御祭神 水波の売神(みずはのめのかみ)
穀物の豊作と洪水災害除け、農村の水の恵みを祈願されてきています。当社は後世まで水の有難さを求め、現在数少ない水神祭を引き継ぎ行っています。
参道に面して4点の絵馬が掛けられています。左上の絵馬には、武将が闘っている様が描かれています。波頭が見えますので、壇ノ浦の合戦かもしれません。右上の絵馬には境内図が描かれています。宮島の厳島神社でしょうか?左下の絵馬には、右手にひときわ体の大きな人物がいて、左手には山伏姿の人物が数名見えます。酒呑童子退治の一場面を描いているようです。右下の絵馬には、有名な天岩戸の神話が描かれています。なかなかロマンがありますね。
熊野神社の近くに「志茂ゆりの木公園」があります。志茂ゆりの木公園は、旧志茂小学校の跡地に整備された公園で、2010年5月8日に開園しました。
由来
志茂小学校は昭和三十年六月からの第二岩淵小学校の分校時代を経て、昭和三十三年四月に志茂小学校として開校しました。以来、四十三年にわたり卒業生を輩出してきましたが、平成十四年四月に第二岩淵小学校と対等統合し、志茂五丁目の地域は岩淵小学校と統合しました。平成十五年四月には、第二岩淵小学校と志茂小学校の統合をしたことで、名称を北区立なでしこ小学校としてスタートしました。これを機に、志茂小学校同窓会もなでしこ小学校同窓会に合流することになりました。この度、志茂小学校の良き伝統と校風を今後とも伝えていくため、校歌にも歌われ、校訓となり、いつまでも同窓生の心の中に生き続けている「すこやかに、明るく、直く」の石碑を統合の記念碑として、改めて残すことになりました。この石碑の言葉は、今は亡き文学博士佐々木信綱先生が作詞された校歌に歌われています。先生は芸術院会員、第一回文化勲章を受賞された歌壇の大御所でした。昭和三十四年、当時の校長・PTA役員が来宮のお宅に先生を訪問し、校歌の作詞をお願いしました。先生は若き日に、赤羽の郷に遊び荒川を読んだ句のあることを話され、それをもとに作詞されました。そして、作曲は芸術院会員信時潔先生でなければと、ご自身で依頼されたもので大変格調高い校歌となりました。昭和四十七年校舎完成を祝って、PTA顧問一同が、その中の言葉を志茂小学校の象徴として長く記念するために石碑として建立しました。今まで、この石碑は志茂小学校の同窓生、保護者、地域の皆様方に親しまれてきましたが、今後とも、統合の記念碑として皆様方に親しまれ、地域の子どもたちの成長を見守ってくれるでしょう。
志茂ゆりの木公園を出て横断歩道を渡った先から新河岸川沿いの歩道を進みます。新河岸川はすぐ下流で隅田川に合流しています。新河岸川の対岸には、国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所の鉄塔が聳えています。
新河岸川を新志茂橋で渡りますと、ポイント2の「荒川知水資料館(AMOA)」があります。荒川知水資料館(AMOA)は、荒川に関するさまざまな情報をわかりやすく展示した資料館で、荒川をもっと親しむための活動と交流のスペースとなっています。
資料館の入口の脇に、荒川放水路完成記念碑が置かれています。荒川放水路は、岩淵水門から江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川です。全長22km・川幅約500mで、大正二年(1913年)から昭和五年(1930年)までの17年がかりの難工事でした。この工事では30名近くの犠牲者が出て、記念碑には犠牲者を悼む言葉がプレートに記されています。工事を指揮したのは内務省土木技官の青山士で、青山士は日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった技術者でした。
此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ拂(はらう)ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センガ為ニ
荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。荒川下流改修事務所主任技師(現工事事務所長)であった青山士(あきら)および工事関係者一同が工事の爆牲者を弔うために資金を出し合ったものである。台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。
資料館の脇に巨大な石の構造物が展示されています。閘門とは、水面に高低差ある河川や運河の間で船の行き来をおこなう場合に設置する施設です。
船堀閘門頭頂部
荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木川閘門・小松川閘門を、左岸側に新川水門・船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。
資料館の左手に柵で囲われた一画があり、コンクリートで固めた石積みの上に小さな祠のようなものが建っています。京成押上線荒川橋梁は、京成押上線の八広駅−四ツ木駅間にあり(約448m)、大正十二年に荒川放水路掘削に伴って架設されました。この松杭は、約75年間、橋を支える基礎として地中に埋まっていたものです。
京成押上線旧荒川橋梁基礎杭
京成電気軌道株式会社施工の工事は、向島・四ツ木間2、224.9mの線路変更工事で、その荒川及び綾瀬川橋梁は杭打基礎に支持された4橋台、25橋脚の上に鋼板桁54連を架設し、向島、四ツ木方面に向かって、線路の盛土をしたものでした。この橋は元々放水路に通水する前に、短いスパンで低い橋脚を並べた構造であった上、昭和三十年代の高度成長期に、荒川周辺において大量の地下水を使用したことで起こった地盤沈下でさらに約1.7m下がり、さらに戦後の堤防嵩上げの際にも線路部分だけは低いまま存置されるなど、水運、水防上のネックになっていました。そのため50年代から掛け替え計画が策定されていましたが、平成三年1月の橋桁へのタンカー衝突事故を契機に一気に計画が進み、ついに平成十一年9月4日には上下とも新橋梁への切り替えが終了しました。
歴史と文化の散歩道でも訪れましたね。
日光御成道散歩
日光御成道散歩は、飛鳥山公園から岩淵水門までの約5.5kmのみちのりです。別名日光御成道と呼ばれた岩槻街道をたどり、赤羽駅から、一路荒川をめざし、下流域の水害を防ぐ為に建設された荒川放水路沿いを行く散歩道です。
荒川と岩淵水門
荒川はその名の通り昔から氾濫を繰り返した川でした。特に明治四十三年(1910年)八月の大洪水の時は、水は岩淵町から志村に沿うところで二丈七尺(約8m)に達したと伝えられています。これを契機に、荒川沿いの町を洪水災害から守るため、政府は荒川放水路造成を計画し、新たな川の開削と水門工事を実施しました。これらは難関を極めて困難でしたが、蒸気掘削機など当時の最新技術を使ったり主任技師はパナマ運河建設に従事して研究するなどの努力により、水門は大正十三年(1924年)十月に完成しました。この岩淵水門は五つのゲートを持つ水門で、そのゲートの一つは後に常に船が通れるように改修されました。
The Arakawa, River & Iwabuchi Sluice Gate
The flood-prone Arakawa River was finally tamed in 1924 with the completion of the Iwabuchi Sluice Gate and the Arakawa Canal. This ended the ever-present threat of flooding to the low-lying areas downstream. Construction of the gate and canal required considerable technological expertise, and the chief engineer for the project used his hands-on experience gained while on a visit to the Panama Canal
Construction Project as a guide.
堤防に上がって、ポイント3の「旧岩淵水門(赤水門)」に向かいます。旧岩淵水門は、その色から通称「赤水門」と呼ばれています。大正五年(1916年)に着工し、大正十三年(1924年)10月に完成しました。RC造(一部S造)で、9メートル幅のゲート5門で構成されています。昭和三十五年(1960年)3月には、通船のために5番ゲートが改造されました。完成以来、最大2メートル以上にもおよぶ地盤沈下や、左右岸の不等沈下が発生するなどの問題に悩まされ、新水門完成に伴ってその役割を終えましたが、地元の人などから惜しまれ保存されることになりました。水門上は歩行者自転車専用橋として開放され、川に囲まれた中之島(水門公園)に渡ることができます。
旧岩淵水門
旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治四十四年から昭和五年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正五年から大正十三年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和五十年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和五十七年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成十九年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成二十年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が認定されました。このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。
近くから見上げると、今でも大迫力です。
東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門
旧岩淵水門は、明治四十三年(1910年)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川とこの分派点に設けた。水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、レンガ構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正五年(1916年)に着工し、同十三年(1924年)に竣工した。昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風や昭和三十三年(1958年)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和二十年代後半からの東京東部地域一体(帯?)における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和三十五年(1960年)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。その後、昭和四十八年(1973年)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和五十七年(1982年)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。
旧岩淵水門の下流に青色が印象的な岩淵水門があります。
岩淵水門
増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。
岩淵水門は、大正十三年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和五十七年に旧水門の下流約300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。
岩淵水門から上流方向を見ますと、旧岩淵水門の脇に荒川からの取水路があり、現在はこちらから荒川の水を取り込んでいます。一方、下流方向を見ますと、岩淵水門の先で新河岸川が合流していて、荒川からの分水を併せて現在の隅田川を形成しています。
岩淵水門を渡った先に案内板が立っています。
@荒川知水資料館(amoa)
荒川放水路と隅田川の分岐点近くに位置し、自然豊かな荒川にもっと親しんでもらうための活動と交流の拠点として、平成十年(1998年)3月にオープンしました。荒川の洪水リスク、氷害の歴史や自然環境等の情報発信をしているほか、学校を対象に館内の説明や様々な学習支援を行っています。
◆青山士と荒川放水路
荒川下流の改修工事に深い関わりを持った技術者の一人に青山士[1878年〜1963年]がいます。青山は、恩師・内村鑑三らの薫陶をうけ、広く世のためになる仕事を、と土木の道を邁進した技術者です。大学卒業後、自費でパナマ運河工事に唯一の日本人として参加し、世界最先端の土木技術を学んだ後、日本に戻り、荒川放水路と旧岩淵水門の工事責任者に任命されました。特に旧岩淵水門の基礎工事にあたっては青山の力量が発揮され、工事の途中、関東大震災が起こりましたが、旧岩淵水門はびくともしませんでした。
A旧岩淵水門
旧岩淵水門は、岩淵水門の300mほど上流に位置しています。この水門は、荒川の洪水が隅田川に流下する流量を調節し、かつ、通常時は舟航に支障を与えないよう設けられたもので、大正十三年(1924年)に完成しました。水門には、幅約9mのゲートが5門ついており、一番右岸側が通航門となっていました。長年、洪水の脅威から東京の下町を守ってきましたが、老朽化及び水門の高さ不足のため、役割は岩淵水門にうつりました。
B岩淵水門
岩淵水門は、旧岩淵水門より300mほど下流にあり、隅田川の起点に位置しています。旧岩淵水門が、大正十三年(1924年)に完成してから60年余りを経て老朽化が進んだこともあり、昭和五十七年(1982年)に新しく岩淵水門が建設されました。岩淵水門の役割は、荒川の洪水が隅田川へ流入するのを防止すること、平常時には浄化のための水を隅田川へ流すこと、および舟運の確保などです。なお、岩淵水門は青水門、旧水門は赤水門と呼ばれています。
旧岩淵水門に戻って、陸続きになっている荒川赤水門緑地に渡ります。奇妙な塔が荒川を見下ろすように建っています。
月を射る
青野正
材質 リバーテン鋼
平成八年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品
受賞者の言葉
この作品は、無垢の鉄棒を溶断し、一本づつ積み上げて製作しています。私は、形あるものの消えゆく時間、造られたものが風化され「風になる」という遥かなことに、思いを巡らせています。
「月を射る」では、古代の人々が憧れたであろう、天・月・川面に映った世界、果てのない世界観を想像してみました。満月のときの明るい夜空に、水の上に、何か見えるとよいのですが。
荒川リバーアートコンテストは、荒川クリエーション実行委員会主催により行われ、荒川の広々とした空間に映る美的造型物として、河川敷に設置することを条件に公募したものです。
巨大な石碑が建っています。戦前、此の地において「全日本草刈選手権大会」が開催されたのだそうです。
由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから草刈奨励の為の有志相図り幾多の曲折を経て漸く男女青年團農学校壮年團と四組に分ち全国に亘って町村大會郡大會都道府県大會と選手を選抜し最後に全日本草刈選手権大會を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。鎌を競う選手四万餘名熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なひいて一世の壮親であった。大東亜戦のため止むなく中止したが草刈魂を永遠に傅ふるため農業團体其他篤志家の寄付を仰ぎ茲に草刈の碑を建立した。蓋し農は國の大本草刈堆肥は土を作る農業の根本だからである。
川の中にポールが立っています。荒川の過去の洪水時の最高水位を表示したものだそうです。
荒川の洪水記録
荒川水位の観測を始めた昭和二年から令和元年までの92年間における各年最高水位を大きいものから並べると次のとおりです。
過去92年間上位7例
第1位 AP8.60m 昭和二十二年(1947年) 9月16日 カスリーン台風
第2位 AP8.07m 昭和十六年 (1941年) 7月23日 台風
第3位 AP7.48m 昭和三十三年(1958年) 8月29日 狩野川台風
第4位 AP7.30m 昭和三年 (1928年) 8月 1日 台風
第5位 AP7.17m 令和元年 (2019年)10月13日 台風
第6位 AP6.48m 昭和十三年 (1938年) 9月21日 台風
第7位 AP6.30m 平成十一年 (1999年) 8月15日 熱帯低気圧豪雨
観測所名:岩淵水門 (上) 水位観測所
観測期間 昭和二年(1927年)〜令和元年(2019年)
※APとは、「Arakawa Peil」の略で、荒川水系における水準を表す単位です。中央区新川にある「霊岸島水位観測所」で AP±0 が定められ、現在全国の高さの基準である TP±0 (東京湾中等水位=海抜)は AP+1.1344 と定められました。
荒川の河川敷にはバーベキュー場もあります。今日は5月4日のみどりの日で、GWのまっただ中ということもあってBBQ場は超満員の人出です。五月晴れの下、お食事もお酒も進むことでしょう。
荒川の土手には桜が多く植樹されています。今は新緑の季節ですが、桜が満開の折には遊歩道が桜のトンネル状態になります。
新河岸川を岩淵橋で渡った先の路地の左手に、ポイント4の「八雲神社」があります。
八雲神社
八雲神社は、岩槻街道の東裏、荒川堤防の南側近くに鎮座します。この神社は、江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社でした。祭神には須佐之男尊が祀られています。創建年代は不祥ですが、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」には、「牛頭天王社 宿ノ鎮守トス、正光寺持、」とあり、これが「テンノウサマ」として親しまれていたことがわかります。また、神仏分離以前には正光寺が別当寺でした。明治六年七月に村社に定められ、それ以来、赤羽八幡神社の兼務社となっています。境内には、本殿、幣殿・拝殿、神楽殿、末社水神社が配置されています。水神社は舟運業者の信仰を集めた神社です。祠の右側には「寛政十二庚申正月吉日」の年紀が刻まれています。また、勝海舟が荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗も所蔵します。現在、本祭は、末社水神社の祭礼とともに隔年ごとの六月第一土曜・日曜に行われています。このとき、氏子たちによって神輿が巡幸されます。参道の端に「岩淵町 町名存続之碑」があります。昭和三十七年五月に「住居表示に関する法律」が公布されると、北区も住居表示の変更を進めました。由緒ある岩淵町の名を守るため、岩淵町一丁目の住民は町名存続運動を展開しました。この石碑は、そのときの記憶を未来へと刻むものです。
その「岩淵町 町名存続之碑」は、本殿階段下の角地に建っています。
碑文
昭和三十七年、住居表示に関する法律が制定されて以来、全国的に由緒ある町が次々に姿を消してゆく中で、我が岩淵町は歴史と伝統を尊重する為、極めて民主的な方法で、町民挙つての町名存続運動が八年の長きに亘って続けられ、遂にその真意が当局を動かし、昭和四十六年九月の区議会で、名実共に岩渕町の名が存続することになった。さて岩淵の歴史は古く、遠く古代社会より交通の要地として発達し、室町時代に宿駅制度が整備され、岩淵宿と呼ばれるようになった。然しなんといっても岩淵が宿場町として発達したのは江戸時代であり、日光街道の脇街道、つまり岩槻街道が出来てからのことである。特に将軍が日光往来にこの街道を利用したので、別名を御成街道と呼ばれた頃である。然し明治になり鉄道が発達するにつれ岩淵宿も衰退の道を歩むようになっていった。だが地方行政が発達してゆく中で、岩淵本宿として近隣町村の中心的存在となっていった。こうした時の流れの中で、明治、大正と二回に亘り、岩淵を赤羽にしようとするとする行政機関の動きがあったが、その都度我が先輩は岩淵の名を守り抜いてきた。このようなことを考えるとき、心ある人は今回の町名存続運動がどのようなものであったかということを理解していたゞけると思い、町民の皆さんのご協力をいたゞき、この記念碑を建立することにした。
八雲神社から戻って荒川沿いの歩道を上流方向に進みます。新河岸川に架かる新荒川大橋の袂が東京都と埼玉県の境界になります。新荒川大橋と名前が付いているのは、この橋が荒川と新河岸川の両方の川を連続して跨いでいるからです。尚、東京都側の道路は「北本通り(きたほんどおり:”きたもとどおり”ではありません)」という名称で、埼玉県側の道路は「国道122号岩槻街道」となっています。
新荒川大橋を越えて新河岸川沿いの遊歩道を進みますと、河川敷に北区営の新河岸川庭球場があります。ハードコート5面の立派なテニスコートです。新河岸川の対岸には、荒川赤羽桜堤緑地があります。今は葉っぱを落とした状態ですが、桜の季節には映える風景となります。
京浜東北線・高崎線・宇都宮線(東北本線)の三本の鉄橋が連なるJR線のガード下を潜って、環八を渡り、JR線沿いに赤羽駅歩行に進みます。
細い路地を伝って、JR線の高架下トンネルを抜けて東側の高架沿いを赤羽駅方向に進みます。かっての日光・岩槻街道がJR線の高架下を通っていて、その旧道に面して宝幢院があります。
宝幢院
宝幢院は医王山東光寺と号し、真言宗智山派に属する寺院で、本尊は薬師如来像です。寛正二年(1461年)宥鎮和尚によって開山され、約百五十年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興しました。「新編武蔵国風土記稿」には、慶安二年(1649年)に三代将軍家光から赤羽根村内に十石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は、浮間村西野(現在の浮間四丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。境内には、区内最古の寛永十六年(1639年)霜月十八日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と二猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところが二猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結びつきを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結びついて造立されたようです。その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがあり、この地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。
宝幢院の門前に道標が置かれています。
宝幢院前の道標
宝幢院門前の道標は、江戸時代の中期、元文五年(1740年)十二月に了運という僧によって造立されたものです。道標は、それぞれの方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道がどの道なのかということを確認できるように造られたものです。宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、道標には「東川口善光寺道日光岩付道」・「西西国冨士道板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための街道としたので、日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や、八王子から富士山北麓の登山口へと向かう冨士道へ通じていました。
赤羽一丁目はセンベロの聖地です。今日も昼間っから大勢の呑兵衛で賑わっています。
赤羽エコー広場館は、リサイクル生活文化の振興を図る区民のリサイクル活動の拠点です。リサイクルに関連した様々な展示・講座・イベント等が行なわれています。フードドライブも行なわれていて、家庭にある未利用食品を持ち寄って区内の子ども食堂等に提供するという活動です。
ということで、北区で二番目の「Bコース(赤羽〜志茂〜岩淵〜赤羽)」を歩き終えました。次は、北区で三番目の「Cコース(赤羽〜十条〜王子)」を歩きます。
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