Cコース(赤羽〜十条〜王子)  

コース 踏破記  

今日は北区の「Cコース(赤羽〜十条〜王子)」を歩きます。赤羽駅西口をスタート地点として、丘陵のアップダウンと階段の多さに辟易とし、後半は十条商店街から名主の滝公園・王子稲荷神社・王子神社・音無親水公園を巡ります。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年5月に改めて歩きました。なので、秋と春の写真が入り交じっています。  

Cコース(赤羽〜十条〜王子)

「Cコース(赤羽〜十条〜王子)」の歩行距離は約5.5km、歩行時間は約1時間20分です。

スタート地点:赤羽駅西口
ポイント1 静勝寺(稲付城跡)
太田道灌が築いたといわれる稲付城跡として都の旧跡に指定され、毎月26日は道灌の木像を納めた道灌堂が開扉されます。
ポイント2 清水坂公園
芝生公園は約4、500uあり、長さ52mのすべり台や広い斜面を利用して流れる川、自然ふれあい情報館など、楽しい設備がたくさんあります。
ポイント3 冨士神社
江戸時代、冨士講の人たちが富士山に模して造った冨士塚があり、毎年6月30日から7月1日に富士山の山開きに合わせて行われる大祭は、大勢の人で賑わいます。
ポイント4 中央図書館(赤レンガ図書館)
生涯学習の拠点となる中央図書館があります。約44万冊の蔵書を揃え、どなたでも便利に利用できる作りになっています。敷地内の緑あふれる芝生の上で、歴史ある赤レンガを眺めながらお昼休憩なんていかがでしょう。
ポイント5 名主の滝公園
江戸時代の後半、王子村の名主であった畑野孫八が自邸に開いたのが始まりで、落差8mの「男滝」があり、木々の緑に覆われた都会のオアシスです。
ポイント6 王子稲荷神社
落語や昔話で有名な「王子の狐」の舞台として有名で、毎年2月の午の日には凧市が開かれ、火防の凧を求める人々で賑わいます。
ポイント7 音無親水公園
「日本の都市公園100選」や「手づくり郷土賞」に選ばれたこの公園は、春には満開の桜、夏には水辺の涼を求める人々で賑わいます。

ゴール地点:王子駅親水公園口


スタート地点の赤羽駅西口から歩き始めます。



赤羽駅西口からポイント1の「静勝寺(稲付城跡)」に向かいます。静勝寺は曹洞宗の禅寺で、開基は江戸城を築いた名将太田道灌(1432年〜1486年)です。お寺の背後の谷にあった亀ヶ池から出土した弁才天が本尊として祀られています。お寺が位置する高台は土地の人から道灌山と呼ばれて親しまれています。静勝寺は元々は道灌の築いた砦(稲付城と呼ばれる)の跡地に建立されました。道灌の禅の師匠であった雲綱が非業の死を遂げた太田道灌の菩堤を弔うために、永正元年(1504年)にこの地に草庵を結んで道灌寺と名付けたのが始まりとされています。



急な階段を上がった山門の脇に、北区の「稲付城跡」の案内板が立っています。

東京都指定文化財(旧跡)
稲付城跡

稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。昭和六十二年(1987年)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558年〜1569年)末頃から天正十年(1582年)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する貞享四年(1687年)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。明暦元年(1655年)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。




境内の奥には、太田道灌の木像を安置している道灌堂があります。

東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
木造太田道灌坐像

右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年(1735年)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(1835年)七月に製作されました。太田道灌(1432年〜1486年)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457年)四月に江戸城を築いたことで知られています。像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(1478年)二月頃から同十八年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(1695年)静勝寺第六世の風全恵薫によって造立され、以後、六回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(1987年)四月に行われた修復によるものです。像は、道灌が没してから二百年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(1989年)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。




裏門の脇には、東京都の「稲付城跡」の案内板が立っています。

東京都指定旧跡
稲付城跡

稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高21m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」として登場します。現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約12m、深さ約6mの空堀の跡等が検出され、その際に十六世紀前半頃の遺物が出土しました。静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造坐像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。

Historic Places
Inetsuke-jo Ato (Inetsuke-jo Castle Ruins)

Inetsuke-jo Ato are ruins of medieval castle which located on the tongue-shaped plateaus about 21 meters above sea level. The castle was designed to utilize natural landscapes. It was recorded as a Hori-ato (trench remains) in the Shinpen Musashi Fudoki Ko (A topography of Musashi Province from 1804 to 1829). It is thought that main castle was constructed on the plateau terrace where currently Josho-ji Temple. The north and the east-west sides are steep cliff, and the plateau is followed by flat on the south side. According to the excavation around Josho-ji Temple, the dry moat remains (width about 12m, depth about 6m) were found with artifacts in the early 16th century. A wooden seated statue of Ota Dokan is inherited in Josho-ji Temple. In the history of temple, Ota Dokan constructed Inetsuke-jo Castle. There is no archives specified the castle builder, but the result of excavation suggests that this castle is though to be related to Ogigayatsu Uesugi Clan. Also Ota Dokan was the main retainer of Ogigayatsu Uesugi Clan, so he might be built the castle.




このコースは、階段や坂が多いのが特徴です。中坂は長さが約180mほどの左に曲がりながら上がる急な坂です。中坂は江戸時代からの古道で、昔は普門院の裏手から真正寺坂に出る小道でした。中坂の坂下近くに中坂と真正寺坂を繋ぐ階段があります(写真奥の左手の階段)。この階段は、江戸時代には中坂と真正寺坂の高低差7mほどを結ぶ急坂のようになっていました。明治時代に一旦消滅し、昭和初期に階段になって復活したものと思われます。



中坂は、昔は岩槻街道から赤羽台へ上る農道で、坂の途中に清水が湧いていたとのことです。現在は拡張されて切通しの道幅の広い道になっていて、昔の農道の面影はありません。



中坂の坂上から右手に急坂が下っています。三日月坂は長さが約80mほどの急な坂で、別名を「道灌坂」といいます。坂名は、坂上の北側に三日月茶屋があったことに由来します。別名の道灌坂は、2006年に廃業した「道灌湯」に因んでいます。坂上に案内柱が立っています。

三日月坂

道灌湯から東南に登り中坂へでる坂です。道灌湯のあたりに、大正三年(1914年)帝国火工品製造所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂といいます。工場へ往来する馬車などでにぎわいましたが、大正四年五月に工場は爆発事故で焼失しました。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができました。坂名はこれに由来しています。また、道灌湯が開業したことから道灌坂とも呼ばれています。




階段を下りた所に坂があります。真正寺坂は長さが約270mほどの左右に曲がりくねった緩やかな坂です。坂名は、かって坂の北側に真生寺があったことに因んで名付けられました。

真正寺坂

岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西へ登る坂です。坂の北側(赤羽西二丁目14−6付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり、坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和六年(1769年)十一月造立の庚申塔に「これよりいたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていたことがわかります。かつて、稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう(真正/身上)昇る」といって登ったそうです。




曲がりくねった路地の先の高台に、稲付村の鎮守だった香取神社があります。香取神社の創建年代は不明ですが、奥殿の中にある朱塗りの本殿はかつて上野東照宮の内陣だったものを徳川家光の霊夢により香取神社に移したものといわれていて、その頃には既に存在していたものと推測されています。



鳥居の奥に拝殿があり、その左手に朱塗りの本殿があります。

北区台帳登載文化財(有形文化財 建造物)
香取神社本殿

香取神社本殿は、境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されています。朱塗りの三間社流造で、屋根は柿葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約10尺、奥行約8.3尺の社殿が建てられています。香取神社は、経津主神・大山咋神・建御名方神を祭神としています。「新編武蔵風土記稿」には「村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり」と記述され、旧稲付村の鎮守でした。稲付村は十七世紀半ばの郷帳 (「武蔵田園簿」)に「御神領」と記され、東叡山寛永寺領に属していました。また、当社とも関係の深い法真寺(赤羽西二丁目)の開山證道院日寿は、東照宮の造営にも深く関与した南光坊天海の弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿は、この近辺に暮らす人びとに、上野東照宮の本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています。上野東照宮の本殿とは、徳川将軍家が東叡山寛永寺を造営した際に藤堂高虎(津藩初代藩主)が建てたもので、その事業には徳川御三家が協力し、寛永四年(1627年)に落成したことが知られています。



写真左手の朱色の鳥居と、その奥の屋根が本殿です。正面からの写真は撮り忘れました。


境内には7個の力石が置かれています。軽いもので約71kg、重いものですと約206kgあるそうです。



香取神社の急な階段を下りて南の方角を眺めますと、住宅地の屋根越しに豊かな緑の木々が顔を出しています。曲がりくねった住宅地の路地を進みますと、清水小学校に隣り合って、ポイント2の「清水坂公園」があります。



清水坂公園は、北区を南北に走る武蔵野台地の崖地を利用した立体的で変化に富んだ公園です。清水坂公園の中央部に広がる芝生は、約4、500uもあります。およそ68種360本の樹木が植えられ、自然環境に関する学習や情報の交換などを楽しみながら行える「自然ふれあい情報館」が園内にあり、自然を学び、自然と遊べる公園となっています。



園内には、長さ52mのすべり台や広い斜面を利用して山間の渓流をイメージして作られた流れなど、楽しい設備がたくさんあります。



公園の入口横に、正岡子規の俳句二句が書かれた「正岡子規赤羽根土筆(つくし)摘み歌句碑」が置かれています。

   家を出て土筆つむのも何年目
   病床を三里はなれて土筆取

句をそのまま読むと、台東区根岸の子規庵から赤羽の土手まで約三里(約12km)を歩いて土筆摘みに出掛けたように思えますが、明治三十五年頃の子規はずっと病気で寝ていましたので、自分自身は土筆摘みに出かけることは出来ませんでした。代わりに、妹の律が子規の弟子の碧悟桐一家と赤羽に土筆摘みに来たのです。その時の話を子規が聞いて作った句だそうです。病から回復して土筆を摘みに出掛けたいという子規の願望が感じ取られます。


碑文を解読することは断念しました。


香取神社の前に戻って野間坂を上がります。坂の途中に稲付公園があります。野間坂は長さが約160mほどのやや急な坂です。坂名は、元講談社社長の野間氏の別邸の前を通っていたことに因んで名付けられました。

野間坂

この坂道の名前は、大正・昭和前期に活躍した出版事業家で、講談社の創立者でもある野間清治氏(1878年〜1938年)の旧別邸前の坂だったところから由来しています。現在、野間氏の旧別邸跡地は北区立稲付公園となっており、区民の憩いの場として親しまれています。




野間坂の先に、高台から崖下に下りるクランク状に折れた細い階段があります。水車の坂は長さが約45mほどのやや急な階段です。坂名は、かって坂下に水車小屋があったことに因んで名付けられました。

水車の坂

現在は石段(北区西が丘ニ丁目−27−12地先)となっていますが、昔はこの下に水車小屋があり、近くの農家が利用していました。水車に荷を運んできた馬が坂の途中から落ちて死んだこともあり、お稲荷さんと馬頭尊とが並んで立っていました。現在は稲付川も暗渠となってしまい、水車もありませんが、石段は西が丘から十条銀座を通って十条駅へ向かう通勤の人でにぎわっています。




水車小屋のイラストが描かれたタイルが貼られています。この辺りは武蔵野台地の崖線に位置していますので、台地の地下を通ってきた伏流水が崖下で川となり、水車を廻すほどの流れになっていたのでしょう。



路地を進んだ先に階段が上がっています。階段の上に案内板があり、静勝寺からこの地点までのルートは「稲付の小径」という散歩道だったことが分かります。コースの見所が紹介されていて、こちらから歩いた方が良かったですね。

歴史と緑をめぐる散歩道
稲付の小径

この小径は、姥ヶ橋延命地蔵からスダジイ・イチョウのしげる香取神社をぬけて、都指定旧跡の静勝寺(稲村城跡)までの、歴史的文化財と緑をめぐる散歩道です。この散歩道は、坂が多いのも特徴のひとつです。木々につつまれた静勝寺の坂や、昔は清水が湧いていたといわれる中坂、水車小屋があった水車の坂、そのほか真正寺の坂、野間坂など坂道のつくりだす独特の雰囲気が、静かなたたずまいを演出しています。緑と歴史にふれながら、なにげなく見過ごしてきた北区の魅力を再発見する散策をお楽しみください。




姥ヶ橋交差点で環七に出ます。環七を東方向に少し進んだ先の左手に北ノ台スポーツ多目的広場があり、その一画に「北ノ台エコー広場館」があります。北ノ台エコー広場館は、平成八年3月に学校の廃校利用としてオープンしました。学校給食の残菜を利用した「有機野菜販売」、家庭から出された不用品の「多々楽市」、区民参加の「フリーマーケット」、「まな板削り」、「包丁研ぎ」などに利用されましたが、建物の老朽化に伴い、令和五年3月31日をもって閉館しました。



姥ヶ橋交差点で環七を渡った角に、姥ヶ橋延命地蔵尊と子育地蔵尊が祀られています。

姥ヶ橋延命地蔵尊

この地蔵尊は、袈裟をまとい、右手に錫杖を執り、左の掌に宝珠を載せ、正面を向いて蓮華座に立つ、安山岩系の石材を丸彫りした地蔵菩薩像です。台座には「享保九年(1724年)甲辰天十一月吉日 石橋供養」の銘文が刻まれています。向かって左側の堂内には石造の子育地蔵尊がまつられています。説明板の横には、道しるべでもある小型の文字庚申塔と地蔵尊の由来碑があります。像は、「姥ヶ橋の地蔵様」と呼ばれて親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用されていました。姥ヶ橋には、誤って川に子どもを落して死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落したという伝説があります。そして地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば川に架かる石橋の安全供養のためによるものです。また、地蔵尊は、二つの道が出合う地点にあったことから「出合地蔵」とも呼ばれています。橋のたもとは、川口への交通路としても利用された十条・板橋道と中山道から分かれて王子稲荷へ向かう王子道とが合流する交通の要所だったのです。現在は環状七号線の建設で川は暗渠となり、姥ヶ橋も姿を消しました。しかし、延命地蔵尊には参詣者の絶えることがなく、毎年八月二十四日の緑日には多くの人々で賑わいます。




祠の手前には、道しるべでもある小型の文字庚申塔が建っています。字体からして近年に作られたみたいですね。



ROUTE2020トレセン通りから十条仲通り商店街に入ります。商店街の入口付近は下町風のお店が軒を連ねていますが、十条銀座商店街の手前にはお洒落なお店が多く見られます。「ダイニング街なか」は人気店でしたが、残念ながら2023年12月28日をもって閉店したとのことです。



十条銀座商店街は、戸越銀座商店街と砂町銀座商店街と並んで東京の三大銀座商店街と呼ばれています。中央通り・東通り・西通りに200店を超える店舗があり、全長は約520メートルあります。昭和五十二年(1977年)から昭和五十四年(1979年)にかけてアーケードが整備され、天候を気にせず買い物ができて、1日の来訪客は約15、000人と都内有数の規模を誇っています。商店街の歴史は古く、1910年の赤羽線(現在はJR埼京線)十条駅開業後から周辺の住宅化により商店街として形成されたといわれています。生鮮食品店や衣料品店を中心に、飲食店・美容室・理髪店・ドラッグストア・日用雑貨店など、生活の利便性を高めるお店が一通り揃っています。特に生鮮食品店と惣菜店はメディアでも何度も取り上げられ、「十条価格」と呼ばれるほど割安で有名です。



おや、こんなところに晩杯屋が。



埼京線の線路を越えて十条中央商店街に入ります。ホームが道路の際際まで迫っていますね。



商店街の中ほどに篠原演芸場があります。篠原演芸場は、昭和二十六年(1951年)に開業した都内随一の歴史を持つ大衆演劇場です。大衆演劇協会に所属する劇団と関西・九州所属の劇団が月替わりで芝居および歌謡ショーを行っています。地域に根づいた下町の芝居小屋であり、平成十年(1998年)には劇場前の中央商店街の通りが演芸場通りの呼称に変更されました。劇場内では軽食販売も行っていて、場内で炊いた手作りのお握りは劇場名物となっており、1日500個ほど販売されています。篠原演芸場で思い出されるのは、1983年5月にTBSの「ザ・ベストテン」で生中継で放送された梅沢富美男の「夢芝居」ですね。この放送がきっかけで夢芝居は累計50万枚を越す大ヒットとなり、梅沢富美男はその年の「日本有線放送大賞新人賞」を受賞し、更に同年の「第34回NHK紅白歌合戦」にも出演しました。



商店街を抜けた先の中十条二丁目交差点で都道460号中十条赤羽線と交差します。この道路は日光御成街道の旧道にあたり、旧岩槻街道と呼ばれることもあります。現在、片側1車線の対面通行となっていますが、一部を除き独立した歩道がなく幅員も8m〜12m程なため、大がかりな拡幅工事が進められています。交差点を左折した先の右手に中十条公園があります。そこに「歴史と文化の散歩道」の案内板が建っています。



案内板には、公園の前を通るかっての日光御成街道について解説されています。

日光御成道

岩槻街道は、江戸時代には日光御成道と呼ばれていました。歴代の将軍が、家康をまつる日光東照宮に参詣し、年忌法要を営むために通る専用の道でしたので、このように呼ばれました。また、江戸と城下町岩槻(埼玉県)とを結ぶ街道であったので、岩槻街道とも呼ばれていました。本郷追分(文京区)で中山道と分かれ、北区を縦断し、岩淵から川口へは荒川を船で渡ります。将軍の通行の時には、荒川に仮橋が架けられ、この渡り初めを岩淵の子どもたちが行ったといいます。街道は、川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻を経て、幸手で日光道中と合流しました。江戸から幸手まで、12里30町(約51km)でした。将軍の通行は大行列で、将軍に直接供奉する者だけでも2千人を越え、沿道の村々では、これらの荷物を運ぶため大量の人馬を負担させられました。一方、日光御成道は、川口の善光寺で阿弥陀如来の開帳が催されると、そこへ参詣する江戸や近傍の人々でも賑わうようになります。文政二年(1819年)閏4月、善光寺を訪れた帰路、ここを通った村尾正靖は、このあたりは豊島・神谷・川口の付近を眼下に望むことができ、遙かに江戸川や国府台が遠望できたといっています。同十一年4月13日(旧暦)善光寺の開帳に行くために通った十方庵敬順も、この付近は北から南に見晴らしがよい場所とし、ここから雲雀の翔ぶ姿をみて初夏の颯爽とした気分を紀行文にあらわしています。




案内板には、公園の向かいにあるポイント3の「冨士神社」の冨士塚についても解説されています。「富士山」は”宀”ですが、「冨士神社」・「冨士塚」・「冨士講」などは”冖”です。今までそんな違いがあるとは知りませんでした。ちなみに、現在では「富」が常用漢字になっていて、「冨」は異体字もしくは俗字になっています。昔は「富士山」も「冨士山」と書いていたのですが、「冨」が当用漢字から外れたので「富」を使うようになったのだそうです。会社の上役に「冨永」という人がいて、部下が「富永」と書いたらえらく叱られたという話を聞いたことがあります。「冨」は今でも人名や地名に残っているんですね。

冨士講と冨士塚

富士山は水神や火山神のやどる霊山として古来から人々の信仰をあつめてきました。室町時代、富士山へ登拝すると数々の災難から逃れることができると人々から堅く信じられるようになり、富士山への参詣を通じた冨士信仰が形成されてきます。冨士講は、こうした信仰を背景に江戸時代、関東地方を中心に都市や村落社会に結成された庶民の慣習的な信仰団体です。講による冨士信仰の基礎となったのは、江戸時代初期に江戸市中で呪術的な医療活動によって流行病の治癒につくした畫行藤仏(長谷川武邦)という修験道系統の修行者の活動です。また、中期には村上光清や食行身禄(伊藤伊兵衛)といった冨士信仰中興の修行者があらわれます。特に身禄は、幕府の政治・経済政策の混乱、封建制の身分秩序による人々の苦難が「弥勒の世の実現」という冨士信仰思想によって救済されると述べ、これを男女の平等や日常生活のうえで人としての守るべき規範の積極的実践という考え方から説きおこしていきます。こうした考え方は社会秩序の混乱や男女差別・身分的差別に苦しむ当時の人々に広く受け入れられ、各地に富士山に登拝できない人々のために遥拝所として冨士塚が築造されるにいたりました。十条冨士塚も、このような冨士塚の一つで、江戸時代には毎年5月晦日と6月朔日、現在では毎年6月30日と7月1日に富士山の開山にともなう祭礼が催され、露店が立ち並び、数多くの参詣者をあつめています。




ということで、そこに山があるからには登頂しなくてはなりません。ですが、他の冨士塚と違って十条冨士塚は真新しい階段が整備され、登山の雰囲気はありません。あっという間に登り切りました。



頂上には石祠が鎮座しています。

北区指定有形民俗文化財
十条冨士塚

十条冨士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。現在も、これを信仰対象として毎年六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(1840年)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(1881年)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遙拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。




このコースを最初に歩いたのは2021年で、その当時は道路の拡幅工事のために、かっての十条冨士塚は取り壊され、この石祠だけが道路上の仮囲いの中に置かれていました。



ちなみに、道路工事で取り壊される前の十条冨士塚はこんな(↓)感じでした。



東十条駅の向かいに、子育地蔵尊が祀られています。

地蔵坂の子育地蔵尊

地蔵堂は、以前は地蔵坂の中腹にありましたが、昭和六年(1931年)の下十条駅(現東十条駅)開通、昭和十二年の道路拡張により現在地に移されました。地蔵堂の中には、大小の地蔵尊と二基の石像が納められています。このうち、中央の大型の地蔵尊(高さ95センチ、丸彫立像)が子育地蔵尊です。背面に「世話人 弥八 願主 善光」と刻まれています。本地蔵尊の建立年代は不明ですが、安永二年(1773年)成立の「新編江戸志」には「地蔵坂 往古ハ此坂の辺に地蔵尊ありしゆへに名つく」とあり、江戸時代には地蔵尊が存在していたことがわかります。地蔵信仰は、平安時代中期以降、子どもを守護し身近な願いをかなえるものとして全国的に広まりました。本地蔵尊は、北向きに供養され、家内安全と子どもの健やかな成長を祈願する方々のお参りが絶えません。 昭和四十八年に地蔵堂を寄進した木家と近隣の有志によって子育地蔵尊奉賛会が結成され、毎年九月二十四日に法要が行われています。地蔵堂の前面には、「当村 願主 高木兵助」の名が刻まれた花立と、寛政三年(1791年)の文字庚申塔があります。

〔左側面〕武州豊島郡下十条邑 講中
     寛政三庚亥三月吉日
〔正 面〕庚申塔
〔右側面〕右より練馬みち
     左より豊島みち




十条中央商店街に戻り、篠原演芸場の横から住宅地の路地を通って都道455号線に出ます。道路の真向かいには自衛隊の十条駐屯地があります。十条駐屯地は、陸海空自衛隊の兵站中枢で、北関東防衛局・陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊が共同使用している防衛省の施設です。



その敷地内に煉瓦造りの建物の一部が保存されています。

十条駐屯地の赤煉瓦造建築物

現在の十条駐屯地の敷地は、約116、000u(約35、000坪)ですが、この地域一帯を明治三十八年(1905年)に陸軍が購入して、東京砲兵工廠銃包製造所を建設した当時は約330、000u(約100、000坪)の広さでした。幾多の変遷ののち第二次世界大戦時は、東京第一陸軍造兵廠として、これらの施設は当初から、一貫して小口径の弾薬を製造する所でした。当時の敷地には、明治後期から大正に建設された大規模な赤煉瓦建築物が50棟以上あったことが確認されています。戦後は、米陸軍東京兵器補給廠として使用されましたが、昭和三十四年(1959年)自衛隊に移管され、約39年間陸上自衛隊武器補給処十条支所支処及び諸隊が所在する駐屯地でした。自衛隊に移管された頃は、赤煉瓦建物22棟と鋼製耐震煙突2基が残っていました。これらに使用された赤煉瓦は、全国の大規模な煉瓦工場のほか、地元の荒川、隅田川流域の煉瓦工場で製造されたものです。これらの赤煉瓦は、新庁舎建設のため平成五年(1993年)から逐次解体されましたが、解体された赤煉瓦の一部が正門、新庁舎のエントランス等に利用されています。

煉瓦造254号建物

このモニュメントは、大正七年(1918年)変圧所として建設された、「煉瓦造」平屋建ての建築物254号建物の一部を利用し作られたものです。建築物の規模は、桁行(東西)方向が36.04mで10スパン、梁間(南北)方向が14.20mで4スパン、軒高が5.85mであり、屋根は、四寸五分勾配のスレート葺き(昭和四十年代に長尺カラー鉄板葺きに改修)でした。小屋組は、木造のクイーンポストトラス、外壁の煉瓦の積み方はオランダ積みであり、腰部は焼き過ぎ煉瓦、その上部は一枚半積みでした。北面には切妻の破風があり、白の碍子が埋め込まれ(南側には茶の碍子)受電施設の痕跡を残していました。大正期に建設された煉瓦の建築物の小屋組は、ほとんどが鉄骨造りでありましたが、この建物が木造の小屋組としているのは、変圧所という建物の機能から、通電性が高い鉄骨材料をあえて採用しなかったためと考えられます。




十条駐屯地に隣接した中央公園内に、ポイント4の「中央図書館(赤レンガ図書館)」があります。中央図書館は2008年3月までは王子にありましたが、1919年に建てられた旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟赤レンガ倉庫を改装・増築し、2008年6月28日に移転・リニューアルオープンしました。約44万冊の蔵書を揃え、誰でも利用できるようになっています。本を読み疲れたら、敷地内の緑あふれる芝生の上で歴史ある赤煉瓦の建物を眺めながら休憩できます。



南橋トンネルを潜ってポイント5の「名主の滝公園」に向かいます。



名主の滝公園の北西側の塀に沿って坂が上がっています。三平坂は長さが約100mほどの曲がりくねったやや急な坂です。坂名の由来は、江戸時代にこの辺りが「三平村」と呼ばれていたためとか、室町時代に「十条郷作人三平」という人がいたためとか、諸説があります。坂下に案内柱が立っています。

三平坂

名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は、江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある十条郷作人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る通路であったが、名主の滝への道としても利用されたようである。




名主の滝公園は、江戸時代に王子村の名主であった畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を栽培して避暑のために一般に開放したのが始まりで、公園名の「名主」はそこに由来します。戦災で一時荒れ果てていましたが、東京都が土地の買収と橋や東屋などの修理を進め、昭和三十五年(1980年)に都の有料公園として開園しました。その後、昭和五十年(1975年)に北区に移管されました。

名主の滝

名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかではありませんが、嘉永三年(1850年)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は、好んでいた塩原(栃木県)の景に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。昭和七年の文献に、開園期間は四月一日から十一月三十日まで、新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。昭和十三年、垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。昭和三十三年、東京都は名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同三十五年十一月から都立公園として公開されるにいたりました。昭和五十年四月一日、東京都から北区に移管。北区立の公園となり、同六十一年十月から一年半、大規模な改修がなされました。




園内は回遊式の庭園となっていて、男滝・女滝・独鈷の滝・湧玉の滝の4つの滝が復元されています。これらの滝は地下水をポンプで汲み上げて水を流していて、滝から流れた水は小川となって園内を巡り大小の池に注ぐ仕組みになっています。



名主の滝公園の先に、ポイント6の「王子稲荷神社」があります。王子稲荷神社は東国三十三国稲荷総司との伝承を持つと共に、狐火の名所とされています。「王子の狐火(きつねび)」とは、江戸時代に郊外だった王子に現れた狐火にまつわる民話の伝承です。かって王子周辺が一面の田園地帯だった頃、路傍に「装束榎」と呼ばれた一本の大きな榎の木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちが松明を点してこの榎の木の下に集まり、正装を整えた後に官位を求めて王子稲荷へ参殿しました。狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。現在は、大晦日の夜に地元の人々によって狐の行列が催されています。



王子に本部がある中央工学校は明治四十二年(1909年)に創立された建築関係の学科を設置する専門学校です。卒業生は約10万人を数え、第64・65代内閣総理大臣を務めた田中角栄もそのうちの一人です。田中角栄は夜間部の土木科を卒業し、一級建築士の資格も持っていました。一級建築士は全ての建築に携われる最高位の資格で、どんな大規模な建築物の設計も可能です。しかし、人命にかかわる建築物の全般に携わるために広範な実務知識が必要とされます。ちなみに、現代の建築の憲法ともいうべき建築基準法は昭和二十五年(1950年)5月に、田中角栄が議員立法として立案に参画し、「建築士法」という名称の法律になりました。現在は一級建築士になるためには超難関の筆記試験に合格する必要がありますが、法律の施行当初は経験者などには無試験で資格を認めるという特例もありました。田中角栄自身もその特例を利用して資格を得ました。



権現坂を上がって王子神社に向かいます。権現坂は長さが約180mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、かって王子神社が「王子権現社」と呼ばれていたことに因みます。

権現坂

権現坂とは、坂の下の交差点から王子神社の鳥居付近まで登っていく坂道をいいます。権現という坂の名称は、王子神社が、明治初年の神仏分離令以前は王子権現と呼ばれていたことに由来しています。坂の下の交差点付近は、江戸幕府の将軍が日光東照宮に参拝するための日光御成道と接しており、三本杉橋という橋が架かっていました。三本杉橋は橋の近くに三本の杉があったのでつけられた名称といわれています。




権現坂の途中から右手方向に王子大坂が上がっています。王子大坂の入口の左手の民家の車庫奥に子育地蔵尊が祀られています。子育地蔵尊とは、文字通り「乳児を病魔・災難から守り、健全に育てる地蔵尊」ですが、この地蔵尊は子育の他にも商売繁盛や縁結びなどにもご利益があるとされています。お地蔵様にお参りするときの作法は、両手を合わせ「おん かかか びさんまえい そわか」という「真言」を3回唱えます。真言とはサンスクリット語でマントラと呼ばれる言葉で、「真実の言葉・秘密の言葉」を意味します。「おん」は「崇拝する」、「かかか」は「地蔵菩薩を表す言葉」、「びさんまえい」は「素晴らしい」、「そかわ」は「成就あれ」という意味だそうです。つまり、「すばらしいお地蔵さまを拝ましていただきます」ということになります。

王子子育地蔵尊

王子の子育地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫した、像の高さ122cmの石造地蔵菩薩立像です。釈迦如来が没してから弥勒菩薩が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、地蔵菩薩は、この時代に人々を救済する菩薩と信じられてきました。当地蔵尊は、昭和二十年(1945年)四月十三・十四日の空襲によって火を浴び、像の表面が剥落しているため、造立した年代や造立者はわかりません。昭和三年(1928年)十二月に出版された「王子町誌」によれば、子育地蔵尊は、同所にあった山本家の祖先が誓願して室町時代の末期、天文元年(1532年)に建立安置し、当時の堂宇は元禄二年(1689年)に改築したものだと記されています。現存の像の造立年代を判断するには資料が不足していますが、同所で古くから地蔵尊が祀られていたことが推測されます。また、その信仰については、「古来子育及商売繁昌の地蔵尊として信仰せられ、毎月四の日の縁日には参拝する者実に夥しく、縁日商人の露店を張るものも頗る多いので、その賑ひ真に筆紙の及ぶところでない」とあり、近代には子育地蔵として信仰を集めていたことが知られます。

お唱えする言葉

「おん かかか びさんまえい そわか」




権現坂をクランク状に折れた先に王子神社が鎮座しています。王子神社はこの辺り一帯の「王子」という地名の由来となった神社で、かっては「王子権現」と呼ばれていました。王子神社の創建年代は不明ですが、平安時代の康平年間(1058年〜1065年)に源義家が奥州征伐に向かった際に此の地で武運を祈願し、勝利して帰途の途中に再び立寄って甲冑を奉納したのが起源とされています。鎌倉時代末期の文保年間(1317年〜1319年)と元弘年間(1331年〜1334年)には、此の地の領主であった豊島氏が社殿を再興し、熊野新宮の浜王子より「若一王子宮」を改めて勧請・奉斎して王子神社となりました。明治初期には准勅祭社に指定され、現在でも東京十社のひとつとなっています。

王子神社(由来)

元亨二年(1322年)、豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進をうけ、江戸時代には、徳川家康が社領として二百石を寄進しました。これは、王子村の村高の三分の二にあたります。別当寺は、王子神社に隣接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代綱吉、十代家治、十一代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も十七社を数えました。紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後、花見の名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に、七月十三日に行われた王子神社の祭礼は「槍祭」ともよばれ、小さな槍を買い求める人や田楽躍を見物する多くの人でにぎわったことが見物記などからうかがえます。明治時代にはいると明治元年(1868年)、准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。戦前の境内は「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子一同により権現造の社殿が再建され、現在の景観に至っています。




王子田楽は王子神社に伝承された民俗芸能で、始まりは中世の頃といわれています。江戸時代には、旧暦の7月13日に境内の舞台で花笠を被り、衣装を着けた躍り手が十二番の演目を奉納したことが当時の地誌などに記されています。戦争で長らく中断していた王子田楽でしたが、地域の人々の努力により昭和五十八年に復興を果たしました。現在は毎年8月に、王子神社の例大祭最終日の午後、境内の仮設舞台で地域の子供たちが躍り手となって王子田楽が執り行われています。

東京都北区指定無形民俗文化財
王子田楽

王子田楽は、豊かな実りと無事を祈って、毎年8月、王子神社の例祭で、神前に奉納される伝統芸能です。花笠をつけ、鼓・筰・太鼓方が笛に合わせて躍る、全国でも数少ない芸能です。しばらく絶えていましたが復元され、王子田楽衆と王子田楽式保存会によって保存・伝承されています。




音無橋の脇の階段を下りて、ポイント7の「音無親水公園」に向かいます。音無橋は、王子神社傍に渡したアーチ型鉄筋コンクリート橋で、昭和四年12月に起工し、昭和六年1月に竣工しました。渋沢栄一が建築・開通を支援しました。

音無橋

音無橋の名の由来は、架橋されている石神井川に求められる。石神井川は多摩地方から東流し、北区において隅田川と合流するが、王子権現付近より以東の路線はかつて滝野川あるいは、音無川と呼ばれていた。音無川の名は紀州熊野権現本宮の近くにある音無川に因んだものである。本橋は、昭和五年の架橋以来、周辺の交通の便を確保するとともに、地域の発展の要として機能している。




音無親水公園は王子駅前を流れる石神井川を整備して造られた公園です。木橋・東屋・行灯・水車など純和風のつくりが特長で、春には桜が咲き誇り、夏は水遊びが楽しめ、秋には紅葉が綺麗です。公園の上空には優雅な曲線美を誇る3つのアーチ型の音無橋が架かり、夜はライトアップされて昼間とはまた違った趣を見せます。石神井川は昭和三十三年9月の狩野川台風で一帯の渓谷が破壊されたことを受け、飛鳥山公園の下に2本の通水トンネルを掘って川の流れを変える工事が行なわれました。その後、残された旧石神井川の流路の跡に音無親水公園が造られたのです。石神井川はこの辺りでは「音無川」と呼ばれていたことから、公園名も川の名前に因んで名付けられました。

音無親水公園

音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保七年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永五年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。「江戸名所花暦」「遊歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和六十三年、北区は、この音無親水公園を整備しました。

   たきらせの 絶ぬ流れの末遠く 
      すむ水きよし 夕日さす影
        飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より




「日本の都市公園100選」や「手づくり郷土賞」に選ばれたこの公園は、春には満開の桜、夏には水辺の涼を求める人々で賑わいます。



ゴール地点の王子駅親水公園口にやってきました。



ということで、北区で三番目の「Cコース(赤羽〜十条〜王子)」を歩き終えました。次は、北区で四番目の「Dコース(東十条〜王子神谷〜豊島〜堀船〜荒川遊園)」を歩きます。




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