- Dコース(東十条〜王子神谷〜豊島〜堀船〜荒川遊園)
- コース 踏破記
- 今日は北区の「Dコース(東十条〜王子神谷〜豊島〜堀船〜荒川遊園)」を歩きます。東十条駅南口をスタート地点として、豊島馬場遺跡や豊島中央通り商店街を巡り、新聞社の巨大な印刷工場を横目に見て、改装中(2022年4月21日に再開園しました)の荒川遊園地を臨みます。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年5月に改めて歩きました。なので、秋と春の写真が入り交じっています。
Dコース(東十条〜王子神谷〜豊島〜堀船〜荒川遊園)
「Dコース(東十条〜王子神谷〜豊島〜堀船〜荒川遊園)」の歩行距離は約5.5km、歩行時間は約1時間20分です。
スタート地点:東十条駅南口
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- ポイント1 いきがい活動センターきらりあ北
- 高齢者が元気で長生きしていくために、健康づくりだけでなく、高齢者の「就労」と「社会参加」につながる「いきがいづくり」を支援する拠点です。
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- ポイント2 清光寺
- 本尊の不動明王像は、豊島清光が行基に彫らせた豊島七仏の一つで、本堂には豊島清光像なども安置されています。
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- ポイント3 西福寺
- 六阿弥陀第一番の寺として知られ、境内には影義隊員6名を供養する碑やお馬の墓があります。
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- ポイント4 船方神社
- 明治十二年に改称するまでは「十二社」と呼ばれており、紀州熊野権現との関連も考えられています。
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ゴール地点:都電荒川遊園地前電停
スタート地点の東十条駅南口から歩き始めます。南口は跨線橋(こせんきょう)に面しています。跨線橋とは橋の一種で、鉄道線路を跨ぐものをいいます。道路を跨ぐ橋は跨道橋と呼ばれています。
跨線橋の東端で階段を下りてそのまま進みますと、ザ・ガーデンズ東京王子というマンションに突き当たります。日本製紙物流の倉庫跡を再開発し、2018年1月に竣工しました。総戸数864戸の大規模な高級感溢れるマンションです。マンションの前の通りには「桜田通り」という名前が付けられています。文字通り、通りには桜の並木が続いています。
左の写真の正面に見える建物はURの王子五丁目団地です。
ザ・ガーデンズ東京王子は、「エアリーコート」・「ブルームコート」・「カームコート」の3つの住居棟で構成されています。また、中庭は「プラザガーデン」と「シーズンガーデン」の2つがあり、広大な敷地にゆとりと緑を与えています。敷地内にはカフェやサロン、ラウンジなどの共用施設があり、入居者が有意義なひとときを過ごすことができます。
ザ・ガーデンズ東京王子の敷地をぐるっと回ってスーパーのサミット前に出ます。歩道の脇に「産業考古学探査路」と書かれた案内碑が建っています。北区内には、かって多くの工場がありました。現存しているものは殆どありませんが、区内の各地にその歴史的な跡が残っていて、このような碑が置かれています。プレートの文字や写真が経年劣化して見づらくなっているのは残念ですが。ちなみに、北区に大規模な団地やマンションが多くあるのは、このような工場跡の敷地を再開発したからです。
産業考古学探査路
王子周辺にはかつて、20世紀初頭の殖産興業を支えた工場が数多く存在していました。「産業考古学探索路」は、区民のみなさんや北区を訪れたみなさんに当時の工場や関連施設の跡地をめぐりながら、当時この地域が担っていた役割と雰囲気を実感していただくために整備したものです。
甚兵衛堀
かつて、このあたりには「甚兵衛堀」という堀がありました。この堀は、江戸時代に排水を目的として堀られたものですが、明治時代には製紙工場の新設に伴い拡張され、物資の搬出入にも利用されるなど、時代とともに、その役割を変えながら利用され続けてきました。今はもう堀は埋め立てられていますが、神谷堀公園や王子五丁目団地北側にある駐車場は、その上に作られたものです。公園の縁に残る旧護岸が往時の姿を感じさせてくれます。
日本フエルト株式会社
この付近の豊島八丁目には、かつて、洋紙製造に使う抄紙用フエルトなどを製造していた日本フエルト株式会社王子工場がありました。この工場が完成した大正八年当時、工場の周囲はまったくの田園地帯で、工場裏の荒川(現隅田川)を渡し舟がゆっくり通るといったのどかな風景がみられたそうです。この工場は平成二年に、栃木県那須郡黒羽町へ移転しました。
旧王子製紙株式会社十条工場
明治維新直後に需要が高まった西洋紙を日本国内で自給することを目的として、明治六年に抄紙会社が設立されました。旧王子製紙株式会社は、この会社の後身で、本社は現在のJR王子駅の前にありました。かつて、このあたりにあった「十條工場」は、印刷局に葉書の用紙を供給するため、明治四十三年に設立されたものです。この工場は、当時としては規模が壮大で十分な設備が整っており、その当時は、皇族の人々や海外使節なども見学に訪れていました。太平洋戦争後の財閥解体に伴い、この工場は十條製紙(現日本製紙)となり、その後、昭和五十一年に現在の公団住宅団地へと姿を変えました。
豊島五丁目団地の敷地内に入ります。戦前に国内の紙生産量の8割のシェアを占めていた王子製紙は、GHQの指令により財閥解体の対象となり、昭和二十四年(1949年)に「十條製紙」・「本州製紙」・「苫小牧製紙」の三社に分割されました。此の地にあった十條工場は十條製紙に引き継がれましたが、昭和四十八年(1973年)に閉鎖となりました。跡地の東側には当時の日本住宅公団(現UR)の「王子五丁目団地」が建設され、昭和五十一年(1976年)に入居が開始されました。ちなみに、敷地の西側は倉庫として引き続き使用され、貨物線(北王子線)も残されていましたが、平成二十六年(2014年)に廃止となり、その跡地にはさきほど通ったザ・ガーデンズ東京王子が建てられました。
団地の一角には、ポイント1の「いきがい活動センターきらりあ北」があります。高齢者が元気で長生きしていくために、健康づくりだけでなく、高齢者の「就労」と「社会参加」につながる「いきがいづくり」を支援する北区の拠点です。
団地に隣接して、タワークレーンが林立する工事現場があります。給水所を新設しているのだそうです。
整備目的
区部東部の北側地域は、金町浄水場から一系統で給水している配水区域が広大であり、地震等の災害や事故時等には断水や濁水の影響が広範囲に及ぶおそれがあります。そのため、昭和五十年代から段階的に配水区域を5つに分割し、各区域に拠点となる給水所を整備するとともに、給水所への二系統の受水を実施しており、王子給水所(仮称)は、最後の整備予定施設になります。
最近、東京都の水関係の工事現場の囲い塀に「だまし絵(トリックアート)」を見かけることが多いような気がします。かなり本格的な描き方で、思わず見とれてしまいます。
豊島五丁目団地を出て、北本通りから庚申通り商店街に入る左側に小さなお堂があり、「庚申塔」と書かれた大きな看板が掲げられています。お堂の中には2基の庚申塔と観音像が安置されています。この場所にはかつて塚があり、その塚上に観音堂が建てられていたことから「観音塚」と呼ばれていたそうです。この塚には色々と言い伝えも残されており、境内に建てられている「観音塚之由来記」にはその伝承について詳細に書かれています。この由来記は昭和五年に書かれたものなので、表面の塗装が剥がれてしまっていて判読し難い部分もあるのですが、塚にまつわる記述も見られるようです。
四条天皇の時代の寛永年間に、30代の女性の修業者がこの地にささやかな庵を建てて住み着き、苦しむ村人の救済に勤めました。しかし、晩年には身体を動かすこともままならなくなり、読経ばかりを唱える日々となりました。そして、この尼が亡くなってからも庵からは読経と鐘の音が夜毎に聞こえてきたことから、村人たちが尼を弔うために庵の傍らに庚申塔の石碑を建てて祀りました。
神谷堀公園はかつての「甚兵衛堀」の跡です。神谷堀とも呼ばれていました。昔、此の地は湿地帯で大雨や洪水の時には田畑に大きな被害が出ました。神谷堀は排水と農地造りのためにつくられたという説があります。また、明治期には堀が広げられ、舟運の便が良くなり、近代産業の発展に大いに役立ちました。戦後も、神谷堀は隅田川から北本通りを越えて王子製紙(戦後は十条製紙)の工場までを繋ぐ水路として使われました。1973年に工場が閉鎖された後、神谷堀は1977年にすべて埋め立てられました。その後、北本通り東側の大部分は北区の神谷堀公園になりました。あまり知られていませんが、東京メトロ南北線の王子車両基地はこの公園の下に建設されました。南北線の最初の計画では、岩淵町(現在の赤羽岩淵駅)から南西方向に向かい、東京陸軍兵器補給廠専用線跡(現在の赤羽緑道公園など)を引き込み線(延長2.2km)として、北区西が丘三丁目にある国立西が丘サッカー場横の敷地に車両基地を建設する計画でしたが、途中の桐ヶ丘団地住民の大きな反対運動が起こり、計画場所は変更されて陸上自衛隊武器補給処十条支処赤羽地区跡地(現在は赤羽自然観察公園となっている場所)に、地下2層構造・230両収容の大規模な車両基地(整備工場を含む)を建設する方針となっていました。これが実現していたら、赤羽台地域は現在と大きく景観が異なっていたことでしょう。
東京成徳大学中学校・高等学校は、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校です。バスケットボールと女子ラクロスの強豪校として知られています。バスケ選手を多く輩出していますが、その他にも芸能界では、細木数子・青江三奈・田中好子・大場久美子・本田美奈子などが卒業生になっています(一部は他校に途中転校)。変わったところでは、将棋の広瀬章人九段がいます。北海道出身だと思っていたのですが、実際に札幌にいたのは小学3年から6年の4年間だけだったようです。
東京成徳大学中学校・高等学校の直ぐ先に、豊島馬場遺跡公園があります。多くの遺跡が発見された公園で、平成三年から約6年間に亘って発掘調査が行われ、壷や甕などのたくさんの土器が見つかりました。その中でもガラス小玉鋳型は、高度なガラス製作技術の証であり、貴重な出土品だそうです
豊島馬場遺跡説明板
豊島馬場遺跡は、古墳時代はじまりの頃(およそ1700年前)に隅田川(旧荒川)沿いに人々が残した遺跡です。平成三年から約6年間におよぶ発掘調査で、壺や甕などのおびただしい数の土器や沓、鍬、舟のミニチュアなどの木製品が発見されました。なかでも日本最古のガラス小玉鋳型は、ガラス製品の製作技術などを考えるうえで貴重な出土品です。こうした遺物を使い、豊穣や繁栄などを祈る祭りが行われていたとみられます。
ポイント2の「清光寺」は住宅に囲まれた一画にあります。参道の両側にも住宅が建並んでいます。清光寺は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて武蔵国豊島郡の豪族で鎌倉幕府御家人だった豊島清光が開基となって造立されました。近くには清光の館があったといわれています。
清光寺
清光寺は医王山と号し、新義真言宗豊山派に属する寺院です。江戸時代の地誌「新編武蔵風土記」は、この寺は豊島清光(清元)の開基で寺号もその名によること、北条家所領役帳(永禄二年[1559年])に島津孫四郎知行十四貫文が豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王を行基の作で豊島の七仏の一つであること、境内に正安三年(1301年)、文治二年(1186年)、永福五年(不明<私年号>)の四基の古碑があることを伝えています。また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和四年<1618年>)によれば、山号は常康山、保元二年(1157年)豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽藍が建立されたこと、寛正年中(1460年〜1465年)、応仁年中(1467年〜1468年)山賊悪徒等により寺宝・寺領などを略奪されて寺が荒廃したこと、文明九年(1477年)豊島泰経と太田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正十五年(1546年)府川城主豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄六年(1563年)上杉等の残党が府川城を攻めた際に豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保二年(1742年)の作で領主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時境内寺内にあった釈迦堂の住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光は、その子葛西清重らとともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。なお、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本紀」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説があります。
東京成徳大学高等部の角で左折し、紀州通りを進みます。この辺り一帯は、戦前は軍の広大な火薬工場でした。洪水を避けるために現在の荒川を掘削した土で嵩上げされ、紀州通りは火薬工場につながっていた貨物線の跡を道路にしたものです。紀州通りに面して紀州神社があります。紀州神社は、元亨年間(1321年〜1324年)に紀州熊野の鈴木重尚が豊島左衛門清光に諮り、五十太祁神社(現・伊太祁曽神社)を豊島村の鎮守として王子村に勧請したといわれています。天正年間(1573年〜1592年)に豊島村と王子村との間に紛争が起き、豊島村の鎮守なのに他村にあるのは不適当ということで、豊島村小名宮ノ前に移されました。更に小名馬場に遷座後、最終的に当地に遷座したといわれています。江戸名所図会には「紀州明神」として描かれています。
社殿の少し離れた場所にはかって観音堂があり、本殿に劣らない建物だったそうです。明治になり、1875年10月19日にその観音堂に豊川小学校がつくられました。豊川小学校はまもなく創立150周年を迎えますが、1901年に火薬工場隣接地に新校舎が完成して移転し、現在に至っています。
紀州神社のはす向かいから豊島中央通り商店街に入ります。商店街はシャッターを閉めているお店も多くありますが、鮮魚店・青果店・酒店・洋品店・生花店などが元気にお店を開いています。商店街の裏手には立派な宮造りの銭湯もあります。駅からは離れていますが、昭和の面影を残す地域に根付いた商店街となっています。
コースガイドには、「喫茶エミー」と「ライス・ワン」のお店が紹介されています。喫茶エミーは、1968年の開店で、大竹一樹と三村マサカズがMCを務める人気バラエティ番組のモヤさまにも登場した純喫茶です。ちなみに、喫茶店と純喫茶店は今では同じような意味ですが、昭和の初期にはお酒と女性給仕の接待サービスが過激化した「特殊喫茶」と区別するために、アルコールを出さない(純粋にコーヒーを楽しむ)お店を純喫茶と呼んでいました。現在ではカフェという業態のお店も多くありますが、喫茶店とカフェの違いは、2021年までは純喫茶・喫茶店は「喫茶店営業許可」、カフェは「飲食店営業許可」というそれぞれ異なる営業許可が必要だったことに基づいています(現在は飲食店営業許可に統合されています)。ま、あえて純喫茶と呼ぶ場合は、昭和の雰囲気が残る渋い喫茶店や、こだわりのコーヒーが飲める喫茶店を指す場合が多いようです。
ライス・ワンはお米屋さんですが、自家精米のお米を使ったお握りも販売しています。更に、煮物や漬物やサラダも人気です。お握りのメニューには、あさり・沖あみ・おかか・こんぶ・紫蘇の実・しばづけ・葉とうがらし・高菜・ねぎみそ・わさびのり、うめ・ツナ、焼おにぎり、焼さけ・焼たらこ・生たらこ・めんたいこ、特上すじこがあります。お値段は、一個110円から180円までと下町価格です。また、日替わりの煮物・漬物・サラダも120円からとなっています。今、お握りブームが起きていますので、そのうちにブレイクするかも。
ポイント3の「西福寺」は豊島二丁目にありますが、豊島区ではなく北区のお寺です。開基は、平安時代末期から鎌倉時代初期に武蔵国豊島郡の豪族で鎌倉幕府御家人だった豊島清光で、次のような話が伝わっています。
清光の一人娘・清姫と安達少輔の間に婚約がまとまり、俗に足入れの儀が行われたが家風に合わぬということで破談になりました。悲観した姫は帰途の船から荒川に身を投じ、5人の腰元もこれに続きました。清光はこれを悲しみ、熊野に詣でた折に山中に一本の大木に出会い、これを海中に投じました。豊島に帰ってから一年、木は足立区熊の木に流れ着き、清光はこれを喜んで折しも巡錫中の行基に願って六体の阿弥陀像(江戸六阿弥陀)を制作してもらいました。元木の像は本尊として西福寺に安置され、残りの五体は腰元のそれぞれの出生地の寺に奉納されました。
西福寺の門前の右手に身代わり地蔵が祀られています。昔、藤原氏に勝気で美しいお姫様がおられ、双六(現在のバックギャモン)では家中近在に並ぶもののない腕前となり、次第に高慢な性格を募らせていきました。噂を聞いた旅の若者が勝負を挑み、負けたら裸になる約束で対戦し勝負はお姫様の負けになりました。見知らぬ若者の前で裸になる訳にもいかずお姫様は進退きわまり、高慢な性格を恥じて心からの懺悔をしました。その時、双六盤の上に上半身裸のお地蔵様が現れ、お姫様の身代わりになって危機を救われました。それ以来、そのお姿を写して「身代わり地蔵」とし朝夕お参りして高慢な心を改め安らぎの心を得たということです。
四天王門は、正面に金剛力士像、背面には風神雷神像が配置され、睨みをきかせています。表の柱を巻いた龍は、天井裏を通って裏の柱の上から玉を咥えて顔を出しています。とても色彩艶やかな仁王門です。
西福寺は江戸六阿弥陀霊場1番札所であり、また、豊島八十八ヶ所霊場67番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場20番・33番札所ともなっています。江戸の人々は春秋のお彼岸に六阿弥陀詣を盛んに行いました。花見と紅葉の時期を楽しむ目的もあったようで、北区には西福寺のほか、無量寺が第三、與楽寺が第四番阿弥陀とされています。
山門を入ったすぐ左手に、「円顕妙楽信女霊位」と「お馬塚由来記」と書かれた石碑が建っています。幕末期に土佐国で僧侶の純信と禁断の恋をしたことで知られるお馬が晩年に東京府北豊島郡滝野川村(現在の北区滝野川)に移り住んだため、お馬の供養塔が建てられました。「よさこい節」に登場するお坊さんが、かんざしをあげたという土佐のお馬さんの供養塔です。
お馬塚由来記
土佐の高知の播磨屋橋で
坊さんかんざし買うを見た
全国的に知られる民謡よさこい節は、今から百二十年前の安政元年四国八十八ヶ所第三十一番の札所高知所在の五台山竹林寺の僧で三十六才になった純信と近所に住む鋳かけ屋の娘で十六才になったお馬との年齢差を越えた恋愛事件に端を発し、当時の土佐藩の若侍達が岡焼き半分も手伝って色々な詞を作り面白おかしく歌い出したのが流行の始りだと言われている。その後お馬は明治十八年の夏高知を離れて上京し、当山近くの豊島二五七七番地、現在の北区豊島二丁目十番のあたりに移り住んだが、明治三十六年十二月十五日六十六才の波乱に富んだ生涯を閉じた。今日までお馬の詳しい消息は不明のままであったが、先年当山墓地内の寺崎家の墓に合祀されていることが当過去帳によって確認され、一躍世の脚光を浴びるに至った。悲恋に泣き苦しみに耐えながら数奇な運命を辿ったお馬さんの菩提を弔うため、新たに一基を建立してお馬塚と銘し、佛縁深い参詣者の便に供するものである。
西福寺の境内に、彰義隊士六人の供養碑「六士銘記」が建っています。彰義隊の六士が上野の山から落ちのびて官軍に捕らわれ殺されました。これを付近の村人が憐れんで豊王橋の袂に葬りましたが、昭和十一年の道路整備の際に西福寺に移されました。
「奉石橋」と書かれた石碑が建っています。今は豊石橋と呼ばれる豊島と堀船を結ぶ小橋は昔から往来の絶えない古道でした。享保年間(1716年〜1736年)の頃は大水のたびに流されて修理もされずに放置されていましたが、そんなある日、夫婦の六部(66部の法華経を各地に納めるため遍歴する修行者)がこの地を通り、村人の手を借りて苦心して石神井川を渡りました。岸のそばの名主になかなか修復のできない橋の事情を聞いて去ったのですが、しばらくたってから、「秩父の某氏から頼まれて橋を架けかえるので了承いただきたい」と石屋が村を訪ね、無事に工事を終わらせ、一体の石地蔵を納めて帰って行きました。「奉石橋」と書かれたのは村人がこの橋に感謝の心を表したものと伝えられ、碑はこの寺の関係者による寄贈との事です。尚、この石橋は滝野川に反射炉を築くときに取り壊され、石は豊島町10ヶ所の用水の橋となりました。西福寺に保存されている石は、この用水の橋に使われて残った2本です。
かって石橋の架橋で使われた記念石が西福寺に保存されていた豊石橋で石神井川を渡ります。頭上には首都高中央環状線が走っています。
石神井川が隅田川に合流する直前に架かる橋は新堀橋です。
石神井川を渡った先で下水道ポンプ所の建設が進んでいます。工事用の囲い塀にはだまし絵が描かれています。
浸水被害から街を守る下水道 王子第二ポンプ所建設その4工事
現在、北区東十条、王子、豊島、堀船、西ケ原、栄町及び上中里地区の大部分の雨は、王子ポンプ所を経由して、隅田川へ放流されています。今回、王子ポンプ所に加えて王子第二ポンプ所を建設することで、雨水排水能力が増強され、浸水による被害から街を守ります。また、降雨初期の特に汚れた水を貯留する雨水貯留池を併設します。降雨時に貯留した水は、晴天時に水再生センターに送られ、処理されたのちに隅田川へ放流するため、水質の改善に寄与します。
北区堀船ふれあい館の角で左折します。福性寺で右折した先に白山神社があります。白山神社の創建年代は不明ですが、源義家の奥州出陣(後三年の役)の際に戦勝を祈願したという伝承があります。かつては「白山権現」と呼ばれ、梶原堀ノ内村の鎮守で、隣の福性寺が旧別当寺でした。明治時代の神仏分離政策により、「白山神社」に改称されました。明治時代初期まで、神仏習合の名残をとどめる「ぼんぜん」という裸祭りがありました。
白山神社に隣接して、白山堀公園があります。この辺りの町名は「堀舟」ですが、その由来が書かれた案内板が立っています。
「堀船」の名の由来
堀船の名は、堀之内村と船方村とが合併してできたものである。江戸時代から明治二十二年まで、このあたりは梶原堀之内村であった。しかし、昭和七年に東隣の船方村と合併して堀船という地名になった。足利時代末に、太田道灌の孫であり、太田資正(三楽斎道誉)の子である梶原政景が今のポンプ場(堀船三丁目の下水道局王子ポンプ場)あたりに屋敷を構えたと言われている。その屋敷の内=堀の内ということで、梶原堀之内村と呼ばれていた。梶原の姓は、永禄元年(1558年)、古河公方義氏の元服の時に太刀役を務め、梶原の姓を与えられたという説(「異本小田原記」)と、同四年、長尾景虎が上杉姓と関東管領を譲られた拝賀の時に与えられたとする説(「北条記」)がある。(永禄五年の政景の初見史料では、すでに梶原を名乗っている。)梶原政景は、下総国の土豪で柿岡城主であり、「弓矢打物達者にて、鬼にも神にも逢ふべき器量」で、和歌、手跡・早歌・乱舞・馬上・鞠など、諸芸にも秀でていたという(「異本小田原記」)。福性寺の本堂前に「地名発祥梶原塚」という標石があり、梶原塚と呼ばれている。船方村は、豊島の7つの村の1つで、江戸時代に船の組み仲間として有名な船頭の一族がこのあたりに住んでいたと言われている。町の名前が堀船になっても、梶原という呼び方はこの地に住む人の愛着や郷愁からか、梶原○○○と呼ばれるところも多いようである。
白山堀公園に隣接して、広大な敷地に巨大な蒲鉾型の建物が2棟連なっています。読売プリントメディアの本社・東京北工場は、2003年に北区堀舟に設立されました。6セット(30台)の東京機械製・高速オフセット新聞輪転機を備えています。印刷された朝刊・夕刊は、東京都・埼玉県・千葉県・茨城県などに配送されています。同社の4工場の中で最も新しい工場で、屋根を流線型にする事で隅田川流域を吹き渡る川風の自然な通り道の役目を果たしており、第2回の北区景観賞を受賞しました。多目的ホールやフットサルコートが併設され、地域住民への貸し出しも行っています。工場裏には遊歩道があり、春になると桜並木が美しく、最寄り駅の都電荒川車庫前駅は都内では珍しい路面電車が走っています。工場内には新聞印刷の歴史がわかる展示資料室が設置され見学者の人気を集めています。
もうひとつの建物は日刊スポーツPRESS王子工場です。日刊スポーツは、現存する日本のスポーツ新聞では最も歴史が古く、昭和二十一年(1946年)3月6日に日本最初のスポーツ新聞として東京で創刊しました。日刊スポーツPRESSは、日刊スポーツを発行する日刊スポーツ新聞社の子会社で、2019年10月1日に日刊スポーツ本紙の紙面印刷を業務としていた日刊スポーツ印刷社と番組表の配信業務を行っていた日刊編集センターが合併して設立されました。日刊スポーツ本紙の紙面印刷が中心ですが、其の他の新聞社の受託印刷も行っています。また、印刷だけでなく紙面制作のサービスも提供していて、紙面管理・組版機能に加え、自動表組や売上請求機能を備えた広告割付・入稿システム、校正支援アプリを提供しています。日刊編集センターの業務を引き継ぎ、テレビ・ラジオの番組表のデータや番組解説記事などを日刊スポーツや朝日新聞など全国の新聞・雑誌・電子番組ガイドに配信しています。加えて、NPBやMLBなどの野球関連や欧州サッカーなどのスポーツデータの配信も事業として展開しています。
荒川沿いの路地を進みますと、民家の壁が古風な煉瓦造りになっています。明治・大正時代には、隅田川(当時は荒川)沿いに多くの煉瓦工場があり、その名残りと思われます。
ポイント4の「船方神社」は、神亀二年(725年)に創建されたといわれていますが、嘉永六年(1853年)の火災で記録が失われ、詳細は定かではありません。かつては、熊野信仰に関連が深い「十二天社」と称していました(この「十二」とは。豊島清光の娘の自殺に殉じた12人の侍女を意味するという異説もあります)。明治時代の神仏分離政策により、「船方神社」に改称されました。境内には煉瓦造の神輿庫があるそうですが、見落としました。
船方神社の十二天塚
船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社とよばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承にもとづいて建てられたものです。昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立少輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(=荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を沈めたという話が六阿弥陀伝承のなかにあります。十二天とは、この十二人の侍女をさすと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方村の十二天社としてまつられたものともいえます。なお、この伝承は江戸時代、六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし、荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。
十二天塚は本堂の右手奥の囲いの中に建てられています。
船方神社に隣接して、荒川区立あらかわ遊園があります。2021年に訪れた時は未だ改装のために長期休園中でしたが、令和四年(2022年)4月21日に再オープンしました。あらかわ遊園が開園したのは大正十一年(1922年)のことで、都内唯一の公営遊園地となっています。隅田川に面し、面積は約3万平方メートルです。アトラクションは定番ものが一通り揃っていますが、小学校低学年層に合わせたレベルで、激しい動作のアトラクションはありません。100円から200円程度という入園料やアトラクション利用料の安さが特徴です。アトラクション以上に小動物園やピクニック用の広場・遊具施設・水遊び場などが充実していて、園内の装飾やレイアウトも清楚で、全体的に大型の公園に近い趣きがあり、落ち着いた雰囲気を持っています。2022年の再開園後は、改装前よりも遊具の大型化やバリアフリーに対応し、観覧車のライトアップとイルミネーション、夜間開園も行なわれています。
煉瓦工場と荒川遊園
明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いにはいくつもの煉瓦工場があった。土が煉瓦の製造に適していたことと、舟運が期待されてのことである。旭電化跡地(東尾久七丁目)付近にあった戸田・山本煉瓦工場、華蔵院(東尾久八丁目)付近にあった鈴木煉瓦工場などである。なかでも古いのが、明治五年に石神仲衛門氏が設立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。その跡地にできた「あらかわ遊園」は、大正十一年に開園した都内でも古い民営遊園地で、大小の滝・築山・池・観月橋・総檜展望台などを備え、たいへんな賑わいをみせた。太平洋戦争中は高射砲の陣地となり一時閉鎖されたが、昭和二十五年、区立荒川遊園として生まれ変わった。
Brickyards and Arakawa Yuen Amusement Park
During the Meiji and Taisho periods, there were several brickyards along the Sumida River. It is because the riverbed clay is suitable for brick manufacturing and the Sumida River was expected to be the shipping route. These factories include the Toda Brickyard and the Yamamoto Brickyard near the Asahi Denka Industry (Higashiogu 7-chome), and the Suzuki Brickyard near the Kezo-in Temple (Higashiogu 8-chome). Among them, the oldest one was established by Ishigami Nakaemon in 1872, which was later called the Hiro'oka Brickyard. On the former site of the Hiro'oka Brickyard, the Arakawa Yuen Amusement Park was built and operated as a private business. Having opened in 1922, it was the oldest amusement park in Tokyo and drew throngs of people. There were large and small waterfalls, artificial hills, ponds, a bridge for moon viewing, observation deck and other amenities. During World War II, it was closed and
became a site of anti-aircraft artillery. In 1950, however, it was reopened and operated by Arakawa City as the Arakawa Yuen Amusement Park.
大観覧車の直径は38mで、最高地点は40mと改装前よりも大きくなり、ゴンドラは1台6人乗りの計28台で、4台はガラス張りの「スケルトンゴンドラ」となっています。一周約9分で回り、ゴンドラにはクーラーと座席下のヒーターが搭載されています。
残念ながら、この日は休園日で中に入ることはできませんでした。園内には様々な施設があるみたいです。
入口の横にはかって荒川線で運行されていた都電が展示されています。この車体は前照灯が1ヶ所であることから「一球さん」と呼ばれた都電6000形車両で、長く親しまれてきましたが、ブレーキ系統が1系統しかないことが問題となり、改修費用も高額になることから平成十三年(2001年)12月に廃車となりました。廃車後に保存を求める声が多数寄せられ、最終的にあらかわ遊園に静態保存されることになりました。あらかわ遊園の再開園後は、車両が改装されて「カフェ193(いっきゅうさん)」という都電喫茶店がオープンしました。昔懐かしいレトロな雰囲気で味わう自家焙煎コーヒーが楽しめます。
ゴール地点の荒川遊園地前電停に着きました。電停の脇からあらかわ遊園に向けて歩行者用の通路が設けられています。高揚感が高まりますね。
ということで、北区で四番目の「Dコース(東十条〜王子神谷〜豊島〜堀船〜荒川遊園)」を歩き終えました。次は、北区で五番目の「Eコース(荒川遊園〜田端〜西ヶ原〜王子)」を歩きます。
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