- Eコース(荒川遊園〜田端〜西ヶ原〜王子)
- コース 踏破記
- 今日は北区の「Eコース(荒川遊園〜田端〜西ヶ原〜王子)」を歩きます。都電荒川線の荒川遊園地前電停をスタート地点として、尾久操車場に留められた数多くの車両を眺め、田端の赤札仁王像に視力向上の願をかけ、古河庭園の咲き誇る薔薇の花に圧倒され、最後は飛鳥山のアスカルゴに乗ってお散歩を締めくくります。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年5月に改めて歩きました。なので、晩秋と初夏の写真が入り交じっています。
Eコース(荒川遊園〜田端〜西ヶ原〜王子)
「Eコース(荒川遊園〜田端〜西ヶ原〜王子)」の歩行距離は約6.5km、歩行時間は約1時間40分です。
スタート地点:荒川遊園地前電停
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- ポイント1 尾久操車場
- 上野駅を発着する長距離列車の編成や整備を行う施設で、約29万6千uのとても広い敷地に、客車が何列も整然と並んでいる姿は壮観です。
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- ポイント2 興楽寺
- 江戸時代には約10万坪もの境内を有する大寺院であったという記録が残っている寺で、落ち着いた色調のお堂を背に、緑豊かな景観が広がっています。
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- ポイント3 東覚寺
- 門の前にある赤紙仁王像には、赤紙を自分の体の悪い部分に貼ると、病気が治るという言い伝えがあり、全身真っ赤な石像が独特な景観をつくりあげています。
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- ポイント4 旧古河庭園
- 総面積約3万uを誇る大正初期を代表する庭園で、4月中旬からのツツジ、5月中旬及び10月中旬からのバラ、11月下旬からの紅葉は特に見応えがあります。
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- ポイント5 西ヶ原一里塚
- 一里塚とは、日本橋から街道を一里ごとに道の両側に築かれた塚のことで、その上に榎が植えられました。この一里塚は、国の史跡に指定されています。
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- ポイント6 飛鳥山公園
- 徳川八代将軍吉宗が桜を植え、桜の名所として庶民に開放した公園です。桜の他にもアジサイやツツジなど緑あふれる公園には「飛鳥山3つの博物館」もあります。
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ゴール地点:王子駅中央口
スタート地点の荒川遊園地前電停から歩き始めます。
荒川遊園地前電停から荒川車庫電停の方向に戻り、西尾久八丁目交差点で左折します。そのまま南下しますと、明治通りの反対側にJR尾久駅があります。尾久駅(おくえき)は、昭和四年(1929年)6月20日に開業したJR東北本線の駅で、宇都宮線と高崎線の列車が停車します。但し、日暮里駅→尾久駅→赤羽駅の区間は東北本線の「尾久支線」となっているようで、東北本線の本来のルートは京浜東北線の日暮里駅→田端駅→赤羽駅のようです。尚、駅北東の地名「尾久(荒川区東尾久・西尾久)」の読みは「おぐ」で、駅名と異なっています。
尾久駅に隣接して、ポイント1の「尾久操車場」があります。上野駅を発着する長距離列車の編成や整備を行う施設で、かっては上野駅発着の夜行列車が数多く運行されていましたので、北斗星やカシオペアなどの寝台車が多数みられました。今では近郊電車が主体ですが、約29万6千uの広い敷地に車両が整然と何列も並んでいる姿は壮観です。
操車場はあまりに広大なため、駅の反対側に行くには尾久構内架道橋という長さ約150mの地下道を使います。ちなみに、架道橋とは、道路や鉄道線路を立体交差で越えるために架けられた橋で、道路が線路の下を通っている場合は(線路が道をまたぐかたち)架道橋、線路が下になる場合には跨線橋となります。尾久構内架道橋には「タイムカップセル平成ロード」という愛称が付けられています。「次代を担う少年少女たちの平和への願いを絵画・写真・標語で展示」しているのが名称の由来です。
地下道の左側の壁には、かって一世を風靡した寝台列車の写真がパネルに貼られています。寝台特急「あけぼの」は、昭和四十五年(1970年)10月1日に上野から青森を結ぶ定期寝台特急列車として運行が開始されました。この列車は、東北本線や奥羽本線を経由して走り、最盛期には上野から青森まで2往復、上野から秋田まで1往復の計3往復が運行されていました。乗車率も高く、首都圏と東北地方を結ぶ唯一の定期夜行列車として活躍していましたが、2014年3月15日のダイヤ改正で臨時列車化され、その後は設定されなくなりました。この列車は、鉄道ファンにとっても特別な存在であり、多くの人々に愛されていました。寝台特急「カシオペア」は、本州と北海道を乗り換えなしで直結し、平成十一年(1999年)7月16日(上野発)・17日(札幌発)から運行を開始しました。全客室が2名用A寝台個室で、他の寝台特急列車よりも高額な専用の寝台料金が必要となるにもかかわらず人気の高かった列車で、時季を問わず寝台券は乗車日1か月前の発売開始とほぼ同時に売り切れることも多くありました。しかし、北海道新幹線の開業に伴い、平成二十八年(2016年)3月19日(上野発)・20日(札幌発)を最後に運行を終了しました。
地下道から出て操車場を眺めますと、見通しは悪いですが沢山の車両が並んでいます。
操車場沿いの道路に面して、中里貝塚史跡公園があります。
中里貝塚@
中里貝塚は、明治十九年(1886年)に学界で報告されて注目された貝塚です。110年の時を経て、平成八年(1996年)度に本格的な発掘調査がおこなわれました。これまで貝塚は、台地上の村につくられる生活ゴミの捨て場とみられていました。しかし、中里貝塚は低地に位置し、調査によって、国内最大厚4.5mを誇る巨大な貝層が発見されたのです(写真)。貝層からは土器のかけらや、魚や獣の骨などは見つからず、形のそろったハマグリとカキだけが捨てられていた、生活のにおいのしない貝塚なのです。この貝塚は縄文時代中期中葉から後期初頭(約4500年前〜4000年前)に海岸につくられた貝塚です(右上図)。海で採取してきた貝を浜辺で処理して身だけを取り出し、貝殻を海に向かって捨てていたのです。浜辺で貝を処理した施設は道路をはさんだうしろの広場で発見され、巨大な貝塚は目の前に広がっていました。このように、大量に2種類の貝を取り続けていたということは、ここに集まる縄文時代の人々は、貝を選定し、枯渇しないように浜を管理していたとみられ、自家消費するだけでなく、干し貝に加工して石器の原料である石材と交換していたようです。中里貝塚は、海岸につくられた「水産加工の場」だったのです。
中里貝塚は、武蔵野台地の端にある飛鳥山を下から上を見上げるような低地にあり、細長く突き出たかつての砂州の上に1km以上にわたって形成された縄文時代の貝塚です。集落の一画にできた貝塚ではなく、周辺に居住する人々が協業して貝の加工を行っていた縄文時代中期から後期の大規模な貝加工場であったと考えられています。発掘調査が行なわれましたが、現在は埋め戻されて公園や東北・上越新幹線の車両センターになっています。
中里貝塚A
巨大な貝塚(右手の道路をはさんだ広場)に隣接して、こちらでは、砂浜の中に木枠のついた1.6m〜1.3mの楕円形の施設の跡が出土しました(右写真)。砂浜の窪みにたまった粘土を利用したもので、中からは焼石やカキ殻などが発見されました。この施設は、貝を加工処理して身を取り出すためのものとみられ、使用方法は右図のように2通り考えられます。水揚げされた貝を浜辺で処理して身を取り出し、貝殻を前方に広がる海に向かって投棄し続け、貝殻がうず高く積もったのです。中里貝塚は、「水産加工の場」を示す一連の作業工程がそろって残されていたのでした。この巨大な貝塚を作り上げた作業が小人数で行なわれたとは考え難く、組織的に共同作業が営まれていたことがうかがえます。
尾久操車場から上野方面に向かって線路が道路と交差しています。列車密度・速度共に高い東北本線(宇都宮線・高崎線列車)の運行に支障を来たさずに数多くの回送列車を安全にさばくため、上野駅から尾久操車場への分岐点を超えて尾久駅手前までの東北本線は複々線となっていて、この間の客車列車の回送には、「推進回送」と呼ばれる特徴的な方法が採用されています。推進回送が本線上で行われているのは全国でもここだけです。推進回送とは、機関車牽引の列車を通常とは逆向きの、客車を先頭・機関車を最後尾とした推進運転で回送する方法です。上野発着の寝台特急に代表される客車列車は上野駅で転向(折り返し)が必要ですが、ホームの構造上それができません。なので、尾久操車場からは機関車を最後尾に連結し、逆向きに上野駅に向かうのです。勿論、運転台のない先頭の客車には可搬式のブレーキ弁・警笛・前照灯・無線が用意され、非常時のブレーキ操作を行う推進運転士が乗り込み、後部の運転士と連絡を取りながら運転されます。撮り鉄にとってはたまらない光景ですね。
田端操車場に面したT字路に古びた道標が建っています。
道標には、「右 □阿弥陀 西新井弘法大師道」、「左 王子道」と書かれています。田端操車場沿いの道路が王子道だったようです。
田端駅へ続く跨線橋の向かいに、コースガイドにも記載されている「惣菜ばる おためし屋 田端店」があります。伊豆の漁師バル「おためし屋」は、伊豆の郷土料理を中心に、新鮮かつリーズナブルで美味しい海鮮料理を楽しめる居酒屋です。伊豆名物の金目鯛はもちろん、鯵・マグロ・マンボウ・サザエなど新鮮な海の幸を使ったお料理を提供しています。一人でも楽しめる種類豊富な夜の定食もおすすめです。伊豆のB級グルメである肉チャーハンも味わえます。拘りの海鮮料理を伊豆・静岡の地酒と共に堪能できます。
上空を東北・上越新幹線が通り、JR京浜東北線・山手線を跨ぐ跨線橋には、「田端大橋」という嬌名が付いています。正確に言いますと、歩行者専用の橋が田端大橋で、車道の橋には「新田端大橋」という嬌名が付いています。初代の大橋(名称は 江戸坂跨線橋)の竣工年は不明ですが、二代目の大橋は、昭和十年(1935年)に動坂からの道を通して掛けられました。そして、今の三代目「新田端大橋」は、その半世紀後の昭和六十二年(1987年)に旧大橋に沿ってすぐ北側に掛けられました。車線も増え、線路に沿った取り付け斜路を両方向に設けることで、車の流れもスムーズになりました。
旧田端大橋は撤去予定でしたが、「田端ふれあい橋」という愛称が付けられて、歩行者専用の橋として残されました。歩道の脇には旧田端大橋の名前を記したモニュメントが残されています。
旧田端大橋の生い立ち
- 橋の由来
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旧田端大橋は、昭和十年に架設された突桁式下路版桁三径間ゲルバー式全溶接橋です。当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。この溶接技術は、そのころの造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話が残されています。
- 橋の概要
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竣工年月日 昭和十年十二月二十七日
形 式 突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
橋 長 135.0メートル
橋 梁 幅 13.80メートル
道路幅員 11.00メートル(当時)
総鋼重量 約591トン(当時)
- 残存の経緯
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旧田端大橋は、近年の経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は、昭和六十二年に新田端大橋を架設しました。新田端大橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし、歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方々から歩道橋として再利用の強い要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変ることになりました。
田端ふれあい橋には、鉄道に関するモニュメントが展示されています。
車輪
東北新幹線200系で使用されていた車輪
新幹線開業当時に付いていた先頭車の半球形のカバーも展示されています。
連結器カバー
東北新幹線200系で使用されていた連結器カバー(新幹線の鼻部分)
かって東北本線で使用されていたレールとポイントも展示されています。
40Kレールとポイントリバー
東北線で使用されていたレールと列車の運転方向を切換える装置
田端駅側の入口に、田端ふれあい橋の案内プレート板が置かれています。
田端ふれあい橋について
- 田端ふれあい橋の概要
- 田端ふれあい橋は、駅前広場と公園機能を合わせもった田端のシンボルとなる歩行者専用の橋です。この橋は、通勤、通学に利用するだけではなく、散歩道として、または待ち合わせの場所、憩い語らいの場としての快適な歩行空間をつくるとともに、自然の樹木によるやすらぎ、高欄や花壇の自然石による落ち着き、門柱や街灯による時代感を感じさせるものとしました。
- 田端ふれあい橋の特色
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●歩行部
花壇の形態を波型の曲線にすることにより平面的なやわらかさを出し、カリオンと二本のしらかしによって立体的なアクセントをつけました。中央の白御影石の部分を通行ゾーン、両側のタイル舗装部分は休息・たまりゾーンとしています。
●植栽
花壇の縁石には赤御影石を使用し、その重厚感による落ち着きを出すとともに、座って話をしたり、休憩することができます。樹種は四季折々の花や葉が楽しめるように数多くの種類を配しています。
●高欄
木の枝をモチーフしたデザインは花壇の植栽と一体感をなし、快適な歩行空間をつくり出しています。
●門柱
大正時代の洋風赤れんが造りと銅板の屋根により、この橋の入口を表現しています。
●カリオン
文化の香りの高い田端の発展を望んで「希望の鐘」と名づけました。橋の中央に位置し、四種類の音色で時を知らせます。
●展望窓
上野駅側二か所に電車や線路が見える幅4mの大きな展望窓があります。
田端駅の向かいの田端アスカタワーの一階に、1993年11月に開館した田端文士村記念館があります。明治二十年(1887年)、上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)が開校した後、田端に芥川龍之介(小説家)・菊池寛(小説家・劇作家・ジャーナリスト)・小杉放庵(洋画家)・板谷波山(陶芸家)などの文士が集まって住むようになり、互いに影響しあいながら文化活動を行っていた歴史を記念し、彼らの功績や素顔を紹介するとともに、北区区民などの文化活動の拠点を提供する施設です。
その芥川龍之介がかって住んでいた住居跡が高台の住宅地の一画にあります。
芥川龍之介旧居跡
作家芥川龍之介(1892年〜1927年)は、大正三年から昭和二年までの約十三年間、この地(当時の田端四三五番地)田端1−20に住んでいました。この間「羅生門」、「鼻」、「河童」、「歯車」等の小説や俳句を執筆し、日本文学史上に大きな足跡をのこしました。
東覚寺脇の交差点を左折し、住宅地の中を進みますと、左手に坂が上がっています。与楽寺坂は長さが約130mほどの左右に曲がりながら上る緩やかな坂です。坂名は、坂下にある与楽寺に由来しています。坂下付近に案内板が立っています。
与楽寺坂
坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。「東京府村誌」に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほ(通)ると秋の匂がする」と書いています。
ポイント2の「興楽寺」の創建年代は不明ですが、弘法大師(空海)によって開創されたといわれています。本尊は地蔵菩薩で、弘法大師の作と伝えられています。この地蔵菩薩は別称として賊除地蔵といわれ、これには次のような伝説があります。
ある時代の夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしたところ、寺から多数の僧が現れて盗賊と対決し、遂には盗賊を追い出してしまいました。どこからそんな僧が現れたのか不思議がっていましたが、その翌朝与楽寺の本尊の地蔵菩薩の足に泥がついているのが発見され、それから人々はこの地蔵菩薩が僧に変身して盗賊を追い出したのだと信じるようになり、賊除地蔵としてなお一層の信仰を得るようになったということです。
賊除地蔵の伝承地
与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には二十石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第四番札所として、多くの参詣者を得ていました。さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。ある夜、盗賊が与楽寺へ押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これより賊除地蔵と称されるようになりました。仏教では、釈迦が入滅してから五十六億七千万年後に弥勒が現れるまでの間は、人びとを救済する仏が存在しない時代とされています。この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人を救うと信じられてきました。そして江戸時代になると、人びとの全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人びとの救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
田端八幡神社は、源頼朝が奥州征討の帰りに此の地に立ち寄り、鶴岡八幡宮から勧請して文治五年(1189年)に創建されました。隣の東覚寺が旧別当寺でした。この由緒は、上田端八幡神社のものと同じであり、両神社は元はひとつの神社であったと推測されます。境内には、地元の富士講「田端冨士三峰講」が祀る富士塚があります。
田端八幡神社
この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治五年(1189年)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867年)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成四年(1992年)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年五月に遷座祭が行われて現在の形になりました。境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年二月二十日に「富士講の初拝み」として祭事が行われています。
一の鳥居の手前には、暗渠化される前に谷田川に架かっていた橋が埋め込まれています。参道の右手には神輿庫がずらりと並んでいます。
田端八幡神社の拝殿に向かって、鳥居の奥に急な石段が上がっています。田端八幡男坂は長さが約25mほどの急な階段です。田端八幡神社の本殿に向かって脇の緩やかな石段を女坂と呼ぶのに対し、正面の急な石段は男坂と呼ばれます。田端八幡男坂の石段の右手に、踊り場の付いた緩やかな石段が上がっています。田端八幡女坂は長さが約20mほどの比較的緩やかな石段です。田端八幡神社の本殿に向かって正面の急な石段を男坂と呼ぶのに対し、脇の緩やかな石段は女坂と呼ばれます。田端八幡女坂の中ほどに緑色の鳥居が建っていて、その奥に溶岩を積み上げたような富士塚があります。「田端山元講(田端冨士三峯講とも呼ばれる)」によって造られ、「田端富士」と呼ばれているそうです。富士塚は富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚のことです。江戸時代には「お富士さん」などと呼ばれ、現代では「ミニチュア富士(ミニ富士)」などとも呼ばれています。富岳信仰に関連した「講」である富士講によって造られることが多いようです。富士塚大好きな私ですが、登頂するには小さ過ぎます。
左が男坂、右が女坂です。
空襲で被災した後に再建された拝殿は、平成二年(1990年)に即位の礼に反対する左翼テロによって焼失してしまいました。それから3年後の平成五年(1993年)に新たに再建されています。
田端八幡神社の隣には、赤紙仁王で知られるポイント3の「東覚寺」があります。東覚寺は、延徳三年(1491年)、神田で創建し、その後根岸を経て江戸時代初めに現在の地に移りました。山門の石造金剛力士立像は、病を患った部分に赤い紙を貼るという赤紙仁王として有名です。江戸・東京で最古の七福神巡りと言われる「谷中七福神」の福禄寿を祀っています。
東京都北区指定有形民俗文化財
赤紙仁王(石造金剛力士立像)
参詣客が赤色の紙を貼るため’赤紙仁王’の名で呼ばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永十八年(1641年)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ箇所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。また、平成二十年10月には、道路拡張工事のために従来の位置から約7メートル後方に移動し、平成二十一年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢を見つめてゆくことになりました。
護摩堂の前に2体の金剛力士立像が仁王立ちなさっています。頭のてっぺんから足元まで赤紙で埋め尽くされていますが、そんなに全身悪いところがあるもんですかね?
赤紙仁王尊
石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれている。西暦1641年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として山門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(悪魔を焼徐する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代りと心身安穏を願うようになった。右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の吽像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即「静」を表している。阿吽の姿は密教で説く胎蔵界、金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終りを表している。阿像から吽像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。
赤紙仁王通りを進みます。
上田端八幡神社は、源頼朝が奥州征討の帰りに此の地に立ち寄り、鶴岡八幡宮から勧請して文治五年(1189年)に創建されました。隣の大龍寺が旧別当寺であったことで、本殿は大龍寺の本寺の霊雲寺にあった八幡宮を移設したものといわれています。
村の鎮守の八幡神社
現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当寺となっていました。祭神は品陀別命(応神天皇)で、境内には稲荷神社・大山祇神社および白鬚神社がまつられています。このうち白鬚神社は、現在の田端中学校の敷地付近にあった神社で、少し離れた畑の中には、争いの杉と呼ばれる大木がありました。木の高さは二丈五尺(約8.3m)余、幹の太さは九尺(約3m)位、遠くから望むと松の木にも見えたといわれます。そこで、奥州平泉の高館に源義経を討伐に向かう途中の畠山重忠が、これを見て家来と松の木か杉の木か争ったという伝承から争いの杉という名称で呼ばれるようになったといわれています。また、この杉は田端の三角(三岳)屋敷という場所にあり、太田道灌の争いの杉であるとの室町時代の伝承を述べる記録もあります。このように境内の白鬚神社は、鎌倉から室町時代に関する伝承を伝えており、この伝承は村の鎮守の八幡神社と共に、北区の中世社会を考える上で重要な資料といえます。
上田端八幡神社に隣り合って大龍寺があります。大龍寺には近代日本を代表する俳人の正岡子規のお墓があります。子規は、生前に「静かな寺に葬って欲しい」と言っていたとされていて、没後に大龍寺に葬られました。これに因んで、大龍寺は「子規寺」とも呼ばれています。
大龍寺
この寺の創立は明らかではありませんが、慶長年間(1596年〜1615年)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781年〜1789年)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伝えられています。この寺の境内には、俳人正岡子規のほか、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があります。
門前にお墓とは思えませんが、石柱は案内の意味もあるのでしょう。
北区立の田端中学校は、公立の学校としては珍しい8階建ての校舎です。最上階にはプールが設置されています。2008年に田端中学校と新町中学校が統合されて新田端中学校が発足しました。しかし、校舎の老朽化により新校舎建設の必要性があり、近隣の小学校の統廃合によって空いた旧滝野川第七小学校の跡地を利用して新しい田端中学校を造る計画がスタートしました。生徒数は300人足らずとはいえ、元々広くはない小学校の跡地に中学校を造るのは容易でなく、できるだけグラウンドを広く、体育館も小学校以上の広さが必要であり、そのためには8階建ての校舎でプールは8階にあるという公立の中学校では殆ど前例のない建物となりました。教室は3〜5階にあり、校舎内は体育館を除いて、中学校では珍しい下足のままとなっています。これは、玄関土間や下足入れを廃してスペースを確保するためだそうです。
田端中学校の先に、山手線に唯一残されている第二中里踏切があります。東京の大動脈である山手線の踏切として、ピーク時には1時間あたりの遮断時間は40分を超え、“開かずの踏切”として知られています。山手線最後の踏切として鉄道ファンには有名で、撮影に訪れる人もよくみられます。しかし、東京都がこの踏切から約200メートル北東に線路を跨ぐ形で約160メートルの橋を架け、そこに歩道も整備することになりました。橋の完成は2029年となっていて、それを待って第二中里踏切は廃止される見込みです。
山手線が急カーブで曲がる富士見橋の袂に、北区の「富士見橋エコー広場館」があります。富士見橋エコー広場館は、北区の地域リサイクルの活動拠点です。リサイクルに関する情報提供や講座の開催などを行っています。工房では、古布を利用した織物の体験や、昭和初期の家庭の様子がわかる展示を行っていて、毎週日曜日のフリーマーケットなども楽しめます。
ポイント4の「旧古河庭園」は、大正八年(1919年)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として整備され、洋館・西洋庭園・日本庭園から成っていました。洋館と西洋庭園の設計は、鹿鳴館やニコライ堂などを手掛けたイギリス出身の建築家ジョサイア・コンドルが行ないました。昭和三十一年(1956年)に国から東京都が借り受けて都立旧古河庭園として開園し、一般公開されています。バラ園には約100種199株のバラが植えられ、東京のバラの名所として親しまれています。
国指定名勝 旧古河庭園
和と洋が調和する優雅な趣
旧古河庭園は、10大財閥のひとつに数えられた古河家の本邸として、大正八年(1919年)に完成しました。その特徴は、武蔵野台地の高低差を巧みに利用した日本庭園と洋風庭園の見事な調和にあります。洋館と洋風庭園の設計は、日本において数々の洋風建築を手がけた英国人建築家のジョサイア・コンドル(1852年〜1920年)。回遊式の日本庭園と茶室に伴う露地は、京都の名庭師・植治こと7代目小川治兵衛(1860年〜1933年)によるものです。現存する近代の庭園の中でも極めて良好に保存されている数少ない事例として平成十八年(2006年)に国の名勝に指定されました。
Place of Scenic Beauty Kyu-Furukawa Gardens
Elegance created from the harmony of Japanese and Western styles Kyu-Furukawa Gardens was completed in 1919 as the main residence of the Furukawa family, one of Japan's ten major zaibatsu conglomerates. The main characteristics of this garden are the wonderful harmony between the Japanese-style and Western-style gardens that take excellent advantage of the differences in elevation of the Musashino Terrace. The Western-style residence and garden were designed by Josiah Condor (1852-1920), the English architect who designed many western-style buildings in Japan. Ogawa Jihei VII, also known as Ueji (1860-1933), a famous designer of Japanese gardens from Kyoto,
created the Circuit-style Japanese garden and Tea garden, which features a chashitsu, or tea house. Kyu-Furukawa Gardens was designated by the national government as a place of scenic beauty in 2006, as an example of an extant modern-period garden that has been extremely well preserved.
洋館は大正六年(1917年)5月竣工し、延べ414坪・地上2階・地下1階で、外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされています。屋根はスレート葺きで、煉瓦造の躯体を黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)の野面積みで覆っているのが特徴的です。南側の庭園から見た外観は左右対称に近く、両脇に切妻屋根を据え、その間の部分は1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダが設けられ、屋根にはドーマー窓を乗せています。全体的に野趣と重厚さに溢れ、スコットランドの山荘の風情を感じさせます。
旧古河邸(大谷美術館)の概要
大谷美術館は、鉄鋼業・ホテルの経営で知られる大谷米太郎(1881年〜1968年)が晩年に計画し、実現を見ずして世を去った事業です。大谷米太郎は、富山県の農家から身をおこし、無学文盲にもかかわらず努力を重ね、日雇人足から大相撲力士、酒屋の経営を経て、大谷重工業、ホテルニューオータニ、テーオーシー等多くを起業した立志伝中の人物と言われています。古河財閥が戦後の財閥解体によりこの屋敷を手放すことになり、当時、大谷重工として取引のあった大谷に購入の話が持ち掛けられた経緯があり、現在は(公財)大谷美術館が管理運営しています。公益財団法人大谷美術館は、初代理事長大谷哲平・常務理事大谷利勝により昭和五十六年(1981年)に設立されました。この素晴らしい建築を、美術館として多くの方に見ていただきたいと考え、修復と公開を決めました。旧古河邸本館は、(公財)大谷美術館が昭和五十八年(1983年)から6年間をかけて東京都の助成を得て修復を行い、平成元年(1989年)より一般公開されています。本館建物と西洋庭園は、明治政府のお雇い外国人として来日した、イギリス人建築家のジョサイア・コンドルによる設計で、大正六年(1917年)5月に竣工しました。ジョサイア・コンドル最晩年の作品で、洋館内部に和室(2階)を完全な形で取り込むことで、和と洋の調和・共存を実現した極めて珍しいプランとなっています。
玄関扉にはステンドグラスが設けられ、古河家の家紋である鬼蔦のデザインがされています。1階は食堂・ビリヤード室・喫煙室などの接客空間で、全て洋室になっています。2階は家族の居室など私的空間で、ホールと寝室が洋室である以外はすべて畳敷きの和室になっています。1階の一部には喫茶室が設けられていて、春と秋には窓越しにバラ園を望みながらお茶を飲むことができます。
洋館の南側には洋風庭園があります。
全体的には、斜面に石の手すり・石段・水盤などが配され、バラ園のテラスは階段状に連なっていて、立体的なイタリア式庭園となっていますが、テラス内部は平面的で幾何学的に構成されるフランス式庭園の技法が併せて用いられています。バラのテラス庭園は、1段目の花壇は正しく左右対称形ですが、2段目から中央の階段を挟んで左右に方形の植え込みとなっている花壇東側の方形は北東部が斜面突出部によって欠けています。これはコンドルが敷地下部の日本庭園との調和をはかるため意図的にバラ園の対称形を崩したものと推測されています。現在、バラ園には、約100種199株のバラが植えられています。
それぞれのバラの花には名前が付けられています。ラ・フランスはモダンローズの元祖バラで、園芸史上最も重要な品種です。バラが世界中の人に愛されるようになったのはこのハイブリッドティーローズがあったからこそといっても過言ではありません。純白の花びらをしたダイアナ王妃のバラもあります。東洋のダイアナの名前は見当たりませんが。
左側が「ラ・フランス」、右側が「プリンセス・オブ・ウェールズ」です。
3段目のテラスは非整形的なツツジ園となっていて、手前の西洋庭園と奥の日本庭園との連続性をもたせる仕組みになっています。
季節は合いませんが。
日本庭園は、洋館・洋式庭園の完成に続いて、大正八年(1919年)に完成しました。京都の造園家である七代目小川治兵衛の作です。斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園で、シイ・モチノキ・ムクノキ・カエデなどの鬱蒼と茂った樹林の中、「心」の字を崩した形の心字池を中心に、急勾配を利用した大滝、枯山水を取り入れた枯滝、大きな雪見灯籠などが配されています。心の草書体をかたどった心字池は、鞍馬平石や伊予青石などで造られ、池を眺める舟付石、正面には荒磯、雪見灯籠、枯滝、石組み、背後には築山が見られます。枯滝は、心字池の奥の渓谷の水源を模しています。大滝は、園内で最も勾配の急な箇所を削って断崖にし、曲折した流れから発し、数段の小滝を経て、十数メートルの高所から深い滝壺に落ちています。
大滝 "Otaki" waterfall
この滝は、本郷台地と低地の斜面を巧みに利用した、七代目小川治兵衛の最も力を入れた場所の一つであり、滝壺まで8m(全長20m)落ちる景観は氏の作風の中でも珍しく丘陵幽玄の境地を如何なく発揮している。
本郷通りから長〜〜〜く延びた参道の先に平塚神社があります。平安時代にはここに豊嶋郡の郡衙が置かれていました。平安時代に秩父平氏豊島近義がこの場所に城館(平塚城)を築てたと伝えられています。平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)・義綱(賀茂次郎)・義光(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしを受けました。義家は感謝の験(しるし)として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築いて埋めました。塚は、「鎧塚」・「甲冑塚」と呼ばれた他、塚が高くなく平たかったことから「平塚」とよばれ、これが神社の名称になったといわれています。
平塚城伝承地 平塚神社
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(1478年)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、二百五十石の知行地を与え、この内の五十石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
長い参道の奥に拝殿があります。平塚神社の御祭神は八幡太郎こと源義家です。
源氏の棟梁 源義家を祀る
平塚神社(旧平塚明神社)
御祭神
八幡太郎 源義家命
平安後期の武将で、源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号された。前九年の役(安倍貞任・宗任退治)、後三年の役をはじめ数々の戦を征された。「天下第一武勇之士」と称えられ、全国の武士達が臣従した。その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上された。
略縁起
平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れた。
境内社に、石室神社があります。
石室神社(石神明神)
御祭神 蘊坂兵庫頭秀次命
御神徳 社守 天災除 病気平癒
豊島氏の後、平塚城主となった蘊坂兵庫頭秀次は平塚明神を篤く祀った。秀次はみまかりて社の外側に葬られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るようになった。村の長老は秀次の石墳を石神明神と崇めた。石神明神は崇めれば必ず応えてくれ、水害や日照や疫病の除災に御神徳を顕したと伝えられる。
拝殿の前に獅子山があります。獅子山は断崖から子を落とし、断崖を登って来る子獅子を見守る親の姿勢や視線などが見物です。右の獅子が父親で、左が母親のようです。我が子を谷へ落として子を鍛えるのは父親の役目なのですが、この獅子一家では母親がその役目をしているように見えます。
左が母親の獅子、右が父親の獅子です。
滝野川公園は、水と緑が多く、子どもから高齢者まで多くの人々に利用されています。この公園の特徴は「防災公園」としての性格も有していることです。北区防災センターが隣接し、災害備蓄倉庫・応急給水槽(1500トン)・深井戸・散水塔(放水銃)などの防災設備が整っています。周辺には消防署・警察署・病院・体育館があり、滝野川公園を含めたこの一帯が総合的な防災拠点になっています。植栽の中に「東京高等蚕糸学校発祥之地」の石碑が建っています。現在の東京農工大学の前身とのことです。
西ヶ原には、国立造幣局東京工場(旧滝野川工場)があります。日本銀行券・収入印紙・その他諸証券類の製造、官報・国会会議録・法律案・予算書・決算書・その他の国会用製品の製造などを主な業務内容にしています。見学コースが設けられていて、2階の見学廊下からお札を印刷する現場をガラス窓越しに見学することができます。大きな機械でお札を印刷している様子は圧巻とのことです。また、お札の製造工程や偽造防止技術について、パネルや体験装置を使いながら楽しく学ぶこともできます。インターネット版官報や、1億円の重さを体験しながら記念撮影ができるコーナーもあるそうですよ。ちなみに、新札一万円で一億円の重さは約10kgだそうです。ちなみに、ちなみに、ワインの重さは?一般的なボルドー型の750mlのワインボトルの重さは1本約1.3kgだそうです。ということは、ワインボトル8本で10kg超ということになります。私は先日6本まとめて買い、腕が千切れる思いで家まで持ち帰りましたが、あれを八千万円の札束だと思っていたら軽く感じたかも。
現在の本郷通りは江戸時代の岩槻街道の道筋にあたり、日光東照宮への将軍社参の道として日光御成道とも呼ばれました。江戸時代に各街道に置かれた一里塚ですが、都内では中山道に置かれた志村一里塚とポイント5の「西ヶ原一里塚」が現存しています。西ヶ原の一里塚は左右一対が現存するだけでなく、左右の塚が旧来の位置のまま保存されているという点で、都内では唯一の一里塚といわれています。西ヶ原の一里塚を挟んで左右に本郷通りの上下車線が分かれていますが、挟まれた中央の塚と通りの右手にある塚との間が旧岩槻街道の道幅ということになります。
一里塚の上に案内板が立っています。現在でも散見される歴史的建造物の保存運動にも通じるものがありますね。
二本榎保存之碑
一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長・滝野川町長・地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された複は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。
二本榎保存之碑
公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり。之を二本榎と云ふ。是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす。往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか、徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植え、里毎に塚を置き塚には榎を植えしむ。之を一里塚と云ふ。然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず、今存するもの甚少し、二本榎は実に其存するものの一なり。先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり。一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが、幸にして市の当事者・学者・故老の言を納れ、塚を避けて道を造り、以て之を保存せんとの議を決したり。法学博士男爵阪谷芳郎君、東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り、瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり。男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し、篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ、以て飛鳥山公園の附属地となせり。阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す。今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め、慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり。又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり。乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し。惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく、以て国民の文野をトすべし。幕府治平を講ずるに当り、先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて、帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり。老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん。後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん。
大正五年六月 文学博士 三上参次撰
阪正臣書
(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用いたるものなり。虎の門は慶長年間に始めて築造せられ、其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり。今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり。
(一部原文を現代かな漢字に直しています)
こちらの案内板は、「二本榎保存之碑」を今様に補足しています。
西ヶ原一里塚
慶長九年(1604年)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から教えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正五年六月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。
ポイント6の「飛鳥山公園」の東側の入り口横に渋沢栄一が住んだ邸宅の案内板が立っています。
旧渋沢家飛鳥山邸
飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛烏山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入り口となる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣工の「青淵文庫」、この二棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして、「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督Lています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建造物)に指定されました。
「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして贈られたものです。お祝いとしては破格の品ですね。
国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 晩香廬
近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設梶jの清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ、壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の秩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
晩香廬脇の広場に渋沢栄一の銅像が建っています。この銅像は頭取栄一翁の還暦を祝って第一銀行行員一同が建てたものです。明治三十五年に第一銀行の中庭に設置されましたが、大正十二年の関東大震災で第一銀行本店が羅災し、世田谷清和園という保養施設に移され、その後、昭和三十一年に現在地に移されたとのことです。銅像の高さは151cmで、等身大とのことです。意外と小柄だったんですね。
第一銀行頭取男爵渋澤栄一・・・(以下判読できず)
「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとして贈られました。お祝いとしては破格の品ですね。
国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 青淵文庫
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
山形亭は東屋のような建物です。「亭」は「あずまや」とも読みます。渋澤栄一は、庭の散策の折に立寄って一休みしたのでしょう。
山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えでいたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。
飛鳥山公園は3つの博物館があることでも知られていますが、渋沢資料館はそのうちのひとつです。
渋沢栄一とは
1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。農業・商業を営む実家を手伝うかたわら、尊王攘夷思想に傾倒しましたが、緑あって一橋慶喜の知遇を得て家臣となりました。1867年パリ万博で文明に触れ、感銘を受けました。帰国してからはその経験を活かし、民間の立場から約500社にのぼる株式会社・銀行などの設立、経営指導に尽力し、民間経済外交・社会公共事業に取り組み近代日本の経済社会の基礎を作りました。
渋沢史料館
渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年に開館しました。かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に建ち、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営しています。栄一の生涯と事績に関する資料を展示し、それにまつわるイベントなども随時開催しています。
晩香廬
落成:1917年 国指定重要文化財
1917年に栄一の喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設株式会社)より贈られた洋風茶室です。青淵文庫とともに、建築家・田辺淳吉の代表作です。渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用されました。
青淵文庫
竣工:1925年 国指定重要文化財
栄一の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、1925年に竜門社(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈しました。ステンドグラスや装飾タイルなどが書庫に彩りを与えています。書庫として建設されたことから全体的に堅牢で、鋼製の書棚などにも十二分にこだわった建築となっています。
博物館入口の脇には、渋澤栄一の石像が置かれています。
渋沢栄一像 小倉右一郎 年未詳
当財団の所有であった旧渋沢家飛鳥山邸の丸芝(現・東京都北区・飛鳥山公園旧渋沢庭園内)の縁に置かれていた石像。平成九年(1997年)の渋沢史料館本館新築時に現在地に移動、設置されました。制作年代、経緯は不明ながらも、晩年の栄一の面影をよく伝える作品です。小倉右一郎(1881年〜1962年)は香川県出身の彫刻家。東京美術学校彫刻家本科を卒業後、東京で活動しました。作域は、歴史的人物から肖像彫刻にまで至る人物像で、大正から昭和初期にかけて高い評価を得ます。また、ブロンズだけでなく大理石、花崗岩、セメントを素材とし、日本初のセメント彫刻である日本工業倶楽部正面に掲げられた「坑夫と織女の像」は、現在もなおその姿をとどめています。大正五年(1916年)、小倉は、新築の東京銀行集会所に長年同所会長を務めた栄一の喜寿祝いとして建立するためのブロンズ製栄一胸像を制作。さらに大正十四年には長年にわたる東京市養育院に対する功労を記念して建立されたブロンズ製栄一座像の原型を手掛けました。
もうひとつは飛鳥山博物館です。飛鳥山博物館は、地域の郷土風土博物館として、北区の歴史・自然・文化などに関する展示や調査研究などの活動を幅広くおこなっています。1階の常設展示室では、「大地・水・人」をコンセプトに、1つの象徴展示と14のテーマ展示を展開しています。武蔵野台地と東京低地の境にある北区の成り立ちから、古代人のくらし、江戸時代の名所の発展、さらには荒川の生態系まで、実物資料はもちろん複製資料(レプリカ)、映像、復原家屋などを通して、地域の風土とともに連綿と営まれてきた人々のくらしぶりが実感できる展示となっています。2階には企画展や特別展覧会、スポット展示などを開催する特別展示室のほか、図録や各種オリジナルグッズを取り揃えたミュージアムショップがあります。3階の飛鳥山アートギャラリーでは北区ゆかりの美術伝統工芸品を見学することができます。1年を通して、さまざまな講座や見学会なども行なっています。
最後のひとつは紙の博物館です。紙の博物館は世界有数の紙専門のユニークな博物館です。和紙・洋紙を問わず、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集し、保存・展示する世界有数の紙専門の博物館です。昭和二十五年(1950年)にわが国の洋紙発祥の地である東京・王子に開設されましたが、首都高速道路の建設に伴い、平成十年(1998年)に現在の飛鳥山公園内へ移転しました。多くの紙関係会社の支援によって運営されています。常設展示では、紙の製造工程・種類や用途・紙の歴史・紙の工芸品・歴史的資料や生活用品などを展示しています。また紙に関する書籍を約1万5千点有し、図書室で一般にも公開しています。年間を通じて企画展を開催すると同時に、紙を素材としたバラエティー豊かなイベントも実施しています。毎週土・日曜日に行われる「紙すき教室」は、牛乳パックの再生原料から手すきのハガキを作る催しで、年齢を問わず大変人気があります。
飛鳥山公園内にはD51が展示されています。この機関車は戦時中の昭和十八年8月31日に製造され、各地の機関区で活躍しましたが、昭和四十七年6月14日に廃車となりました。やはり花形機関車の迫力は違いますね。
都電の車両も展示・開放されています。車両は、戦後の都電の主力車両として290両が製造された6000型ですが、昭和四十年代の都電廃止撤去の進行に合わせて大半が廃車となり、荒川線存続時に生き残ったのは、わずか13両のみとなっていました。6080号はそのうちの一両で、昭和五十三年の廃車後に北区へ譲渡され、飛鳥山公園に設置されました。以来、子供たちに親しまれる公園のシンボルとなっていましたが、雨ざらしの状態で損傷が進んだことから、平成十七年に大掛かりな整備が行われ、現在はすっかり化粧直しのされた美しい外観に甦っています。保管場所に屋根は付いていますが、横殴りに雨には無防備な状態ですね。
都電6080について
この都電6080は、昭和五十三年4月まで飛鳥山公園脇の荒川線を走っていた車両です。荒川線の前身は「王子電気軌道株式会社」といい、通称「王電」の名で親しまれた私営の郊外電車でした。明治四十四年8月、大塚⇔飛鳥山上間2.45kmの開業がはじまりで、その後王子を中心に早稲田・三の輪・赤羽を結ぶ路線が完成し、昭和十七年当時の東京市に譲渡されたのです。この車両は6000型と呼ばれており、戦後はじめての新造車で昭和二十四年に製造されたものです。青山・大久保・駒込の各車庫を経て昭和四十六年3月荒川車庫の配属となり、現役を退くまで都民の足として活躍していました。北区では都電のワンマン化を機会に交通局から譲り受け、子供たちの施設として設置したものです。
飛鳥山の碑は江戸時代に建立されました。碑文は殆ど読み取れません。
東京都指定有形文化財(古文書)
飛鳥山碑
八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文二年(1737年)に碑を建立した。石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立にいたる経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治政が行き届いて太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。元亨年中(1321年〜1324年)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記される。最後に、吉宗が飛鳥山花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解する上で重要な資料である。
Tangible cultural property (ancient documents)
Asukayama no Hi
The 8th shogun Tokugawa Yoshimune developed Mt.Asuka and made the park open to the public. Monk Yuei at Kinrinji Temple in Ohji Gongen Shrine erected the monument in 1737 to commemorate the opening. The stone had been stored in Takimitei in Edo Castle after being presented from Kishu region. The inscription was composed by Narushima Douchiku (kinkou), who was a confucian vassal of the shogunate. Tengaku (title of the inscription, engraving calligraphy) was made by Yamada Sojun, who was a calligrapher and a doctor in Owari region. The history of the monument erection is detailed in
"Asukayama no Hi no Shimatsu (record of Asukayama no Hi)" written by Kazusada (Ryoushu), son of Douchiku. The writing style of the inscription is elegant in fashion of Shousho, one of the five classic texts of Confucianism. The inscription is considered to have trumpeted the peaceful society under the rule of Tokugawa Yoshimune. The monument is 218.5cm in total height, 215cm in width and 34.5cm in thickness. This inscription tells the history of Kanjo (ceremonial transfer of a divided tutelary deity to a new location) of Ohji Gongen (current Ohji Shrine) by the Toshima, the origins of the names of Ohji, Mt. Asuka, Otonashi River and that the people took care of Ohji Gongen with their cordinal belief. The end of the inscription tells that Tokugawa Yoshimune planted trees and flowers in Mt. Asuka, and had contributed to Ohji Gongen Shrine. This inscription is difficult to read, because letters were written by using Kanji variants and ancient writing, also slanted to avoid scars on the stone. But it is an important material to understand the
history of Mt. Asuka.
飛鳥山の歴史を記した石碑も建っています。
飛鳥山の歴史
飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。このあたりは古くから人が住んでいたらしく、先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています。江戸時代の中ごろ元二年(1737年)、徳川八代将軍吉宗がこの地を王子権現に寄進し、荒地を整備してたくさんの桜や松、楓などを植えたのでそれからは桜の名所として有名になり、附近に茶屋などもできました。その説明は右手の大きな石碑に詳しく刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。飛鳥山のお花見は向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語にでてくるような仇討の趣向や変装などのためにたいへんな賑いでした。また、東側の崖からはカワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって危険防止のために禁止されました。この山は、東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のためにせばめられ、さきに中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。
佐久間象山書の石碑が建っています。「桜の賦(ふ)」は、後に西洋の学問を学び進歩的考えを唱え、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた松代藩士で儒者でもあった佐久間象山の作です。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈し、その名声は印度や中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座して松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいます。この賦は象山50歳(万延元年【1860年】)の作と云われ、2年後の文久二年(1862年)孝明天皇の宸賞を賜りました。象山は蟄居赦免となり、翌年京に上って皇武合体開国論を主張してやまなかったのですが、一徹な尊皇攘夷論者によって刺され、元治元年(1864年)7月11日54歳の生涯を閉じました。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠が文を書き、日下部鳴鶴が書しました。明治十四年11月15日と刻まれています。この碑の下に、挿袋石室が埋蔵されています。
「象山先生櫻賦」の碑
表面に佐久間象山作・書による「櫻賦」が、裏面に象山の門弟たちによる碑建立の経緯が記されています。信濃国松代藩士であった佐久間象山(1811年〜1864年)は、幕末の志士たちに影響を与えた儒者でした。桜賊は、象山が門弟吉田松陰の密出国の企てに連座、松代に蟄居中の万延元年(1860年)に作られたといわれます。賦とは、古代中国の韻文の文体の一つで、都城の賛美に多く使われました。「皇国の名華あり、九陽の霊和を集む」と始まる桜賦は、日本の名華、桜が陽春のなかで光り輝く様を描写し、桜の花は見る人がいなくても芳香をただよわせる、と結んでいます。蟄居中だった象山が勤王の志を桜に託した詩と考えられています。明治十四年(1881年)、門弟の勝海舟、北沢正誠、小松彰らによって碑が建立されました。表面の桜賦は、顔真卿の書風による象山の遺墨によっています。表面上部の扁額および裏面の碑文は、名筆家として知られた日下部東作(鳴鶴)、刻字は、やはり名工といわれた廣群鶴によるものです。碑は、初め飛鳥山の西北端の頂き(地主山)に建っていましたが、同所へ展望塔スカイラウンジ(飛鳥山タワー)を建てるにあたり、昭和四十一年に現在地へ移転されました。その際、都立王子工業高校の考古クラブの発掘によって、象山が暗殺された際の血染めの挿袋を納めた石室が発見されました。石室もともに移設され、現在の碑の下に埋設されています。
飛鳥山公園の北側は崖になっています。その崖に沿ってモノレールが設置されています。飛鳥山公園モノレールは、飛鳥山公園山頂(山ではありませんが)と王子駅横の飛鳥山公園入口とを結ぶスロープカーです。愛称は、施設名があすかパークレール、車両名がアスカルゴとなっています。車両名は、ゆっくり上がる様子がエスカルゴ(カタツムリ)に似ていることから、飛鳥山公園と組み合わせて付けられました。飛鳥山公園入口からの高低差は約18m、レール延長は48mとなっており、片道約2分です。世界最短のモノレールとしてギネスブックに載ってもいいくらいの短さです。2009年7月17日から運行が始まり、高齢者・障害者・小さなお子様連れなど、誰もが飛鳥山公園を利用しやすくなりました。無料で乗車できることもあり、たちまち大人気になりました。冷暖房も完備され、車イス・ベビーカーにも対応しています。
モノレールを下車した先に、ゴール地点の王子駅中央口があります。
ということで、北区で五番目の「Eコース(荒川遊園〜田端〜西ヶ原〜王子)」を歩き終えました。次は、北区で六番目の「Fコース(王子〜板橋)」を歩きます。
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