Fコース(王子〜板橋)  

コース 踏破記  

今日は北区の「Fコース(王子〜板橋)」を歩きます。JR王子駅親水公園口をスタート地点として、石神井川の紅葉を愛で、谷端川跡の桜並木の落葉に秋の深まりを感じ、最後は新撰組近藤勇の供養塔に参拝します。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年5月に改めて歩きました。なので、晩秋と初夏の写真が入り交じっています。  

Fコース(王子〜板橋)

「Fコース(王子〜板橋)」の歩行距離は約3.6km、歩行時間は約50分です。

スタート地点:JR王子駅親水公園口
ポイント1 醸造試験所跡地公園
醸造試験所は、醸造酒の製造技術の開発や市販酒の鑑定を行う機関でしたが、平成七年に広島に移転になり、跡地は公園として整備されています。
ポイント2 石神井川と遊歩道
音無親水公園から音無くぬぎ緑地へと続く石神井川の両岸には、きれいな遊歩道が整備され、季節を問わず散策には最適のコースとなっています。
ポイント3 金剛寺(紅葉寺)
音無親水公園から音無くぬぎ緑地へと続く石神井川流域にカエデが植えられた名所となったことから別名「紅葉寺」とも呼ばれています。
ポイント4 谷端通り(滝野川七丁目付近)の桜並木
約600m続く通りの両端に約100本の桜が植えられ、春には大変美しい桜のアーチができあがります。
ポイント5 近藤勇と新撰組隊士供養塔
幕末主人公の一人である近藤勇終焉の地。新選組隊士だった永倉新八が、戦死した土方歳三とともに葬って建てたものです。

ゴール地点:JR板橋駅東口


スタート地点のJR王子駅親水公園口から歩き始めます。



親水公園口に向かって石神井川が流れています。でも、水は殆どありません。実は、石神井川の本流はこの先で分流し、飛鳥山公園の下を流れて王子駅の先で再合流しているのです。ここはかっての石神井川の流路で、今は親水公園として残っているのです。



石神井川は北区付近ではかって「音無川」と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季の行楽の名所・景勝の地でした。しかし、戦後の経済の復興・発展とともに石神井川も生活排水などで汚れた川となりました。また、昭和三十三年9月の狩野川台風で一帯の渓谷が破壊されたことを受け、飛鳥山公園の下に2本の通水トンネルを掘って川の流れを変える工事が行なわれました。昭和三十年代から始まった改修工事によって緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、典型的な都市河川となりました。



その後、残された旧流路に「かつての渓流を取り戻したい」として公園ができました。公園名は、石神井川が昔「音無川」と呼ばれていたことから、川の名前に因んで「音無親水公園」と名付けられました。

音無親水公園

音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保七年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永五年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。「江戸名所花暦」「遊歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和六十三年、北区は、この音無親水公園を整備しました。

   たきらせの 絶ぬ流れの末遠く 
      すむ水きよし 夕日さす影
        飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より




公園は、木橋・東屋・行灯・水車など純和風のつくりが特長で、春には桜が咲き誇り、夏は水遊びが楽しめ、秋には紅葉が綺麗です。公園の上空には優雅な曲線美を誇る3つのアーチ型の音無橋が架かり、夜はライトアップされて昼間とはまた違った趣を見せます。人工の滝も造られ、その流れの先には水車も設置されました。でも、水が流れていないので回ってはいませんが。



石神井川に架かる音無橋に上がります。音無橋は、王子神社傍に渡したアーチ型鉄筋コンクリート橋で、昭和四年12月に起工し、昭和六年1月に竣工しました。渋沢栄一が建築・開通を支援しました。

音無橋

音無橋の名の由来は、架橋されている石神井川に求められる。石神井川は多摩地方から東流し、北区において隅田川と合流するが、王子権現付近より以東の路線はかつて滝野川あるいは、音無川と呼ばれていた。音無川の名は紀州熊野権現本宮の近くにある音無川に因んだものである。本橋は、昭和五年の架橋以来、周辺の交通の便を確保するとともに、地域の発展の要として機能している。




音無橋からポイント1の「醸造試験所跡地公園」に向かいます。醸造試験所跡地公園は、明治時代に創設された酒類醸造に関する試験場の移転跡地に整備された公園です。一部現存する国の重要文化財に登録された煉瓦づくりの旧醸造試験所第一工場を間近に望めます。



旧醸造試験所第一工場は、国による醸造技術の研究・発展を目指し、明治三十七年5月に創設された大蔵省醸造試験所の清酒醸造試験工場として設立されました。設計は、明治の三大建築家の1人である妻木頼黄です。当建物は通称「赤煉瓦酒造工場」といい、ドイツのビール工場を手本に設計された明治期の貴重な煉瓦造り建造物であるとともに、産業遺産としても貴重とされています。赤煉瓦酒造工場は、日本の酒造りの近代化と酒類産業の発展に貢献してきており、醸造試験所(現在の独立行政法人酒類総合研究所)の酒類研究の試験醸造・酒類醸造講習(人材養成)の実習工場として歴史を重ねてきました。平成二十六年12月に、建築学上貴重であり、歴史的価値が高いことから文化財審議会で審議の上、国の重要文化財に指定されました。その後平成二十八年4月からは文化庁の所管となり、文化財保護法に基づき平成二十八年3月31日付で文化庁告示第35号により、公益財団法人日本醸造協会が管理団体の指定を受け管理を行なっています。

国指定重要文化財(建造物)
旧釀造試験所第一工場

醸造試験所は、醸造方法の研究や清酒の品質の改良を図ること、講習により醸造技術や研究成果を広く普及させること等を目的に設立された国の研究機関です。創立は、明治三十七年(1904年)五月で、酒税とも密接なかかわりを持つことから、大蔵省が所管することになりました。醸造試験所が設置された場所は、幕末に滝野川大砲製造所が置かれた敷地の一部で、水利がよく、王子停車場(現王子駅)も近いことなどから「洵に得難き好適地」として選定されました。第一工場は、試験所の中核施設として、蒸米・製麹・仕込・発酵・貯蔵等の作業が行われていました。設計及び監督は、大蔵省技師の妻木頼黄が担当しています。一部三階建、地下階に貯蔵室を持つ煉瓦造で、外観を化粧煉瓦小口積とし、外壁上部は煉瓦を櫛型に並べたロンバルド帯風の意匠になっています。躯体の煉瓦壁の一部に中空部分を設けて外部の温度変化の影響を受けにくくし、またリンデ式アンモニア冷凍機を用いた空調設備を備える等、一年を通して醸造の研究が行えるように、ドイツのビール醸造施設を応用した設計がなされています。製麹室の白色施釉煉瓦積の壁や、鉄骨梁に半円形状に煉瓦を積んだ耐火床など、屋内にも特微的な煉瓦造の部分をみることができます。昭和二十年(1945年)四月に空襲で被災し、屋根部分は葺き直されていますが、その他は当時の様子をよくとどめています。




工場敷地の中庭に案内板が立っています。

重要文化財 旧醸造試験所第一工場

旧醸造試験所第一工場は、「赤煉瓦酒造工場」とも呼ばれる煉瓦でできた建造物です。1904年大蔵省(現在の財務省)に創設された醸造試験所の酒類試験工場として、日本酒等の醸造技術の近代化と発展に多大な貢献をしてきました。明治期の貴重な赤煉瓦建築物として2014年12月に国の重要文化財に指定され、壁や天井には実用的で美しいアーチが数多くあります。設計は妻木頼黄(つまき よりなか)です。

Important Cultural Property
Former National Research Institute of Brewing 1st Plant

The 1st Plant of the former National Research Institute of Brewing is a structure made of bricks and thus also called the "Red Brick Sake Brewery Factory". It was built as a factory for conducting examinations of the alcoholic beverages production by the "National Research Institute of Brewing", which was founded in 1904 under the control of the Ministry of Finance and made significant contributions to the modernization and development of brewing technology, such as sake brewing. It was designated as an important cultural property of Japan in December 2014 for the value of its red brick architectural structure from the Meiji period, and its walls and ceilings fitted with numerous arches are both practical and aesthetically pleasing. The architect was Yorinaka Tsumaki.




建物の前に大きな瓶が放置されています。醸造用の瓶でしょうか、北赤羽でも見かけましたね。



旧釀造試験所から路地を進んだ奥に正受院があります。正受院は、室町時代の弘治年間(1555年〜1558年)に大和国(現在の奈良県)で修行をしていた学仙房という僧が霊夢によって此の地を訪れ、創建したといわれています。正受院の本堂裏には石神井川が流れていますが、そこにはかつて不動の滝がありました。本堂の前には、江戸時代後期の探検家として知られ、多くの書物を残した近藤守重(通称:重蔵)の甲冑像があります。また、水子や赤ちゃんを供養する納骨堂があることから、正受院は「赤ちゃん寺」とも呼ばれています。不動堂には、学仙坊が川からすくい上げたといわれている不動明王像が祀られています。



参道の脇に不動の滝跡の案内板が立っています。

不動の滝跡

王子七滝の一つ、「不動の滝」は、泉流の滝とも称され、正受院本堂裏の峡から坂道を石神井川に下った所にありました。「江戸名所図会」は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。

正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として硝壁に趨る、此境は常に蒼樹蓊欝として白日をさゝえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり

室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧がいた。ある時、霊夢を見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。学仙坊は、これを不動尊修法を感得した証と喜び、滝の傍らに安置した、と伝えられます。江戸時代には、病気治癒祈願や涼をもとめる人で賑わいました。




参道の中ほどには、明治三十五年に建てられた純中国風の門があり、門の上には鐘楼が置かれています。東京で唯一の鐘楼門とのことです。昭和十六年までは、明け六つ暮れ六つに鐘を鳴らしていましたが、鐘は戦時中に国に供出したそうです。

鐘楼門

判読できず。。。




近藤守重は、現在の千島列島から北海道までを探検し、北方交易の海商・高田屋嘉兵衛の協力で、択捉島の開発に尽力し、「大日本恵土呂府」という標注を建てた人物です。守重は文政五年(1822年)から4年間、正受院の東隣に滝野川文庫という書斎を設けて住んでいました。この坐像は甲冑に身を固めていますが、択捉島に渡る際もこのようないでたちだったといいます。製作には江戸派の画家である谷文晁に下絵を依頼して作られたと伝えられています。

石造近藤守重坐像

坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府」という標柱を建てた近藤守重の肖像です。守重は、明和八年(1771年)、江戸町奉行所与力の次男として生れ、家督を継いで、通称を重蔵、号を正斎と称しました。寛政十年(1798年)三月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉兵衛の協力で、石像のように、甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力しました。また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政五年(1822年)から文政九年までの四年間を、正受院の東隣に、滝野川文庫という書斎を設けて住みました。石像近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼して製作したと伝えられます。




正受院は、亡くなった胎児や赤ん坊の納骨堂を作り供養をしていることから、「赤ちゃん寺」とも呼ばれています。



正受院を出て、ポイント2の「石神井川と遊歩道」に入ります。石神井川の両岸には、きれいな遊歩道が整備され、季節を問わず散策には最適のコースになっています。



音無さくら緑地は、かつて石神井川が大きく蛇行していた旧流路の跡を遊歩道にした緑地です。昔からの水路も一部残っていて、湧水を利用した流れもあります。春には桜、秋には紅葉が楽しめる自然豊かな緑地で、付近の住宅街を囲むようにして緑溢れる遊歩道が整備されています。川を渡る橋や階段があったりと、歩いて楽しめるアスレチックのようです。川のせせらぎの音や鳥の鳴き声などが聞こえてきて、心身ともにリラックスできます。

音無さくら緑地

この緑地は、石神井川の旧川を利用して出来たものです。ここには、サクラや、エゴノキ、コナラ等が植えられています。また、昔からの天然河岸も一部残っており、湧水を利用した流れもあります。ささやかな散策をたのしんで下さい。




旧水路を跨いで、都内でも珍しい全長約15mの本格的な吊り橋が架かっています。

音無渓谷

石神井川は、東京都小平市花小金井南町付近を源とし、北区内で隅田川に合流するまでの延長25.2kmの河川です。一般には、石神井川の水源としては、石神井公園内の三宝寺ヶ池が有名ですが、周辺の市街地化により湧水が減少したため、水量は、一般家庭からの排水も少なくありません。石神井川は大部分が台地上を流れているため、ゆるやかな流れの区間が多いのですが、板橋区加賀から下流になると渓谷状となり、水流もかなり急になります。そのため、昔はこの一帯の石神井川は滝野川とその名を変えて呼ばれ、飛鳥山のあたりでは、この地を愛した徳川吉宗のふるさとにちなみ、音無川とさらに名を変えて呼ばれていました。ごうごうと音をたて、流れる川を音無川と読んだところに、この地と将軍吉宗との深い関係が読み取れます。吉宗は「春は花、秋は紅葉」の例えにならい、飛鳥山に桜を植えさせる一方で、石神井川の両岸に紅葉を植えさせました。文化分(文?)政の頃には、滝野川の紅葉は江戸中に知られ、江戸名所図絵にも「楓樹の名所として其の名遠近に高し」と述べられています。この紅葉は維新のころ、薪にして売られるところでしたが、羽鳥了甫という人がたまたま来あわせ、これを惜しんで残らず買い取り、そのまま保存することになり、明治大正にかけても滝野川の地は東京市民の遊覧の地として賑わいました。現在でも、この音無さくら緑地では、当時の音無渓谷の姿をかいま見ることができます。

この場所に緑の吊橋が初めて架けられたのは、昭和二十九年のことでした。その後台風により崩壊し、昭和五十五年に新橋に変わりましたが、平成六年には緑地と調和した、現在の吊橋となりました。




ポイント3の「金剛寺(紅葉寺)」は、弘法大師空海がこの地を遊歴した際に不動明王像を彫り、それが現在本尊になっているとのことです。その後、平安時代末期の源頼朝の時代に源頼朝自身が此の地に陣を張り、堂宇を建立し、田園を寄進したと伝えられています。また、金剛寺は豊島氏の支族であった滝野川氏の居館である滝野川城跡であるともいわれています。



金剛寺の付近一帯は徳川八代将軍吉宗の命により楓が植樹され、江戸時代から紅葉の名所として知られていることから、「紅葉寺」とも呼ばれています。

源頼朝の布陣伝承地

治承四年(1180年)八月、源義朝の三男頼朝は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。初戦に勝利するも石橋山の合戦で破れて安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、隅田川を渡ります。滝野川・板橋を経て、府中六所明神へ向かい、さらにそこから鎌倉を目指します。そして鎌倉の大倉に本拠を築いた頼朝は、後に鎌倉幕府初代将軍として、その場所に政権を樹立することになるのです。この途次の十月、源頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれています。松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って、松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。弁財天を信仰した頼朝は、崖下の洞窟の中に祀られていた弘法大師作と伝えられる弁財天に祈願して、金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、田地を寄進したと伝えられています。この地域は、弁天の滝や紅葉の名所として知られていました。現在、金剛寺が紅葉寺とも呼ばれるところに、この頃の名残がみられます。




金剛寺は、豊島八十八ヶ所霊場43番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場16番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場1番札所、北豊島三十三ヶ所霊場31番札所になっています。門前に、「西國三拾三所供養佛」と彫られた石碑が建っています。西国三十三所巡礼とは、日本最古の観音巡礼です。養老二年(718年)、大和長谷寺の開山徳道上人が病にかかって仮死状態になった際、冥土で閻魔大王と出会います。閻魔大王は、世の中の悩み苦しむ人々を救うために、三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めなさいと、起請文と三十三の宝印を授けました。現世に戻った徳道上人は閻魔大王に選ばれた三十三の観音霊場の礎を築きましたが、当時の人々には受け入れられず、三十三の宝印を中山寺の石櫃に納めました。それから約270年後に途絶えていた観音巡礼が花山法皇によって再興されます。花山法皇は、先帝円融天皇より帝位を譲られ、第65代花山天皇となりますが、僅か2年で皇位を退き、19歳の若さで法皇となりました。比叡山で修行をした後、書寫山の性空上人・河内石川寺の仏眼上人・中山寺の弁光上人を伴って那智山で修行し、観音霊場を巡拝して西国三十三所観音巡礼を再興しました。西国三十三所の総距離は約1000kmに及び、和歌山・大阪・兵庫・京都・奈良・滋賀・岐阜と2府5県にまたがります。また、中世日本の首都であり文化の中心であった京都に三十三所のうち三分の一の札所寺院が集中していることから、憧れの巡礼路としてその人気は全国に広がりました。やがて遠方に住んで巡礼が困難な人々のために、各地に写し霊場が創設されます。西国三十三所とあわせて日本百観音霊場に数えられる坂東三十三所や秩父三十四所はその代表的な巡礼路です。西国三十三所の「西国」は、当時憧れであった最古の巡礼路が坂東から見て西にあったことに由来します。



「旧蹟 瀧野川七福神」と彫られた石碑も建っています。あまり馴染みのない七福神ですが、これは金剛寺の境内に作られた1ヶ所七福神みたいです。



「仏足跡」もあります。仏足石(ぶっそくせき)は、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたものです。

仏足跡

約二千五百年前にインド大陸にてお釈迦さまが仏教をお開きになりました。仏足跡は、お釈迦さまの足跡を刻んだもので、仏像が造られる以前から礼拝の対象とされてきました。ここにある仏足跡は、インドでお釈迦さまが悟りを開かれた地、ブッダガヤに安置されているものを原寸大に刻んだものです。




境内にも紅葉の木が沢山植わっています。ところで、紅葉(モミジ)と楓(カエデ)はどちらも赤や黄色に色づき、秋の風情を感じさせてくれますが、どう違うのでしょうか?実は、紅葉も楓もどちらも植物学上は「ムクロジ科カエデ属」に分類されます。つまり、紅葉と楓は同じ品種の植物なのです。植物学上では紅葉と楓は同じ植物ですが、日本では一般的に葉の大きさや色などでそれぞれを呼び分けています。葉が小さめで手のひらのような形をしており、深い切れ込みがあるものを「紅葉」、比較的大きな葉を持ち、葉の切れ込みが浅いものは「楓」と呼びます。「もみじ」という言葉は、古語の「もみづ」が語源だと言われています。「もみづ」とは、かつてベニバナなどの植物を揉みだして染料を作る際、水中に美しく広がる色の様子を表現した言葉でした。やがて「もみづ」は、秋に草木の葉が赤や黄色に色づく様子を指すようになり、「もみぢ」という言葉へと変化しました。そして特に鮮やかな紅葉を見せる楓の葉を、「もみじ」と呼ぶようになったのです。一方、「かえで」という名前は、葉の形が蛙の手に似ていることから付けられました。ちなみに、外国では紅葉と楓の区別はなく、どちらも「メープル(Maple)と呼ばれています。カナダ特産のメープルシロップの原料ですね。



金剛寺の裏手に、音無もみじ緑地があります。



石神井川の護岸が擂鉢状に後退し、階段を降りると川岸近くまで行くことができます。水辺に飛来するカワセミなどの野鳥や魚の群れも見られます。



かって石神井川はこの付近で蛇行し、両岸に岩が切り立って松や楓が生い茂り、深山幽谷の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師作と伝えられる弁財天祀られていました。

松橋弁財天洞窟跡

もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。左の絵は、「江戸名所図会」に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。「新編武蔵風土記稿」によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏にこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景」や「東都名所」をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑っていたのです。滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和五十年(1975年)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。




正受院に「不動の滝跡」の案内板がありましたが、王子七滝について「武蔵野の路」の案内板に解説があります。

王子七滝

「王子七滝」とは、その昔、石神井川およびその用水にかかっていた滝で、弁天・不動・権現・稲荷・大工・見晴らし、および名主の七つの滝のことをいいます。王子七滝は名主の滝公園にあるもの以外はすでに現存していませんが、ここからすぐ下流にある音無親水公園には、“権現の滝”をイメージした滝があります。




観音橋から石神井川を離れ、北区立滝野川紅葉中学校に沿って中山道に向かいます。この辺りにはやたらと「紅葉」の付く学校が多いですね。



中山道に向かう坂の中ほどに、お洒落な外観の学校があります。東京国際フランス学園は、フランス語によるインターナショナル・スクールです。カリキュラムは幼児教育3年(幼児教育科)、初等教育5年(初等教育科)、前期中等教育4年(中等教育科)、後期中等教育3年(高等教育科)で、フランスのバカロレアの取得も可能となっています。バカロレアとは、フランスの国民教育省が管理する高等学校教育の修了を認証する国家試験です。学園の在籍者は主に、在日フランス人子女・フランス語圏出身子女・日本人帰国子女となっています。55ケ国以上の国籍者からなる3歳から18歳まで1、525名の生徒が在籍しているそうです。広大な敷地ですが、以前はこの場所に旧都立池袋商業高校がありました。



滝野川六丁目交差点で中山道を渡り、きつね塚通りに入ります。通りの両側には昭和レトロなお店が並んでいます。通りの名前は、昔狐が住む塚があったことから付いたといわれています。



きつね塚通りからT字路で左折し、明治通りに向かいます。右手に滝野川市場通りの緩やかな坂が下っています。どこに市場があるのかと思ったら、昭和二十年代に野菜市場があったらしいです。昭和三十年代にはアメ横的な賑わいで、当初から食品や生活雑貨を中心にした安売り市場として有名になり、現在も市場的活気のあるイメージを残しています。平成七年には、「滝野川市場通り商店街振興組合」がアーチ形の街路灯を設置しました。



通りは掘割交差点で明治通りと交差します。その交差点角に古びた石柱が建っています。

千川上水分配堰碑

正面に「千川上水分配堰」とあるこの碑は明治十五年(1882年)七月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治四十二年三月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより利用者の取水量が定められていたことがわかります。千川上水は、元禄九年(1696年)に玉川上水から分水された上水で、左(南)側の道路が今は暗渠となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は、慶応元年(1865年)十一月、飛鳥山の西側(滝野川2−6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開墾されたものです。明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の二十三ヶ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙会社・大蔵省紙幣寮抄紙局の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され、多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守するために、碑をここに設置しました。




明治通りの向かいに千川上水公園があります。この場所には、かって千川上水の調節池がありました。

千川上水調節池跡

千川上水は、元禄九年(1696年)、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・浅草寺御殿と、下谷・浅草方面の江戸市民の飲料水を確保するために、玉川上水を分水した上水です。その後、近隣農村の農業用水としても利用されました。明治期以降は、紡績・製紙・製粉・伸銅工場などの産業用水として利用され、流域の地域や人々と密接に関わってきました。上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中へ給水されました。なお、この付近を「堀割」と呼んでいますが、これは、慶応元年(1865年)に、幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水(王子分水)を開削する際に堀をつくったことに由来しています。明治十三年(1880年)、岩崎弥太郎らが設立した千川水道株式会社によって、本郷・小石川・下谷・神田方面への給水が再開されると、王子分水との分配堰が設けられました。明治通りの向かい側(北区滝野川6−9)には、水利関係が刻まれた「千川上水分配堰」の碑(明治十五年建立)が残されています。一方、公園側には分配堰の落し口があり、沈殿槽からの水量調整を行なっていました。公園内には、駒込六義園方面への送水に使用していたバルブ(巻揚器)が現在も残っています。




沈殿池は現在は埋め立てられていますが、公園の敷地の大半を占める大きさだったようです。

千川上水沈殿池

このフェンスで囲われたバルブ周りを中心に、公園の地面の下には左下図のような沈殿槽(池)があります。千川上水が上水としての利用が終わった後も、六義園に水路を引くために作られたものです。戦後までは左の写真のような沈殿池がありましたが、1973年頃に、図のような沈殿池に造り替えられました。現在は、東京都東部公園緑地事務所が管理しており、利用されていません。公園入口の「千川上水流路図(説明板)」および 「千川上水沈殿池(説明板)」と明治通りを挟んで向かい側の「千川上水分配堰の碑(説明板)」も合わせて、ご覧ください。




ちなみに、千川上水とは、玉川上水を水源とし、境橋(現在の西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近)から江戸城の城北地域へ流れた総延長約22kmの用水路(上水)で、江戸の六上水(神田上水・玉川上水・本所上水【亀有上水】・青山上水・三田上水【三田用水】・千川上水)のひとつでした。千川上水の名前の由来は、分水口のある境橋が仙川村(現在の調布市東端から三鷹市南部にかけての一帯)のすぐ近くで、この仙川村を通した上水だったことに由来しています。上水路の設計は海運の発展に多大な寄与があった豪商の河村瑞賢が行い、多摩郡仙川村の太兵衛・徳兵衛が開削にあたりました。太兵衛・徳兵衛の開削の功により、仙の字を吉字に改めて千川とし、両人にはこれを名字として与えられました。

千川上水流路図

この図は、享保(1715年〜)初め頃の絵図で、玉川上水・神田上水・千川上水・青山上水・三田上水の江戸五上水が描かれています。千川上水は江戸の町の北東側、神田上水と浅草川(現在の隅田川)に挟まれた地域に給水していた様子が読み取れます。白山御殿(現在の小石川植物園)にも給水されていましたが、この図の描かれた時点では御殿は廃止されていましたので、描かれていません。




滝野川七丁目交差点を右折して、谷端通りに入ります。通りの両側には桜の並木が続き、 ポイント4の「谷端通り(滝野川七丁目付近)の桜並木」になっています。通りの名称は、「滝野川桜通り」ともいうようです。



通りの右手に南谷端公園があります。「谷端」の名前は、かって付近を流れていた谷端川に由来します。谷端川は、豊島区千早と豊島区要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池を水源とする総延長11kmの河川で、最終的に外堀通りの仙台橋の下で神田川に流れ込んでいました。公園の入口に大きな石碑が建っていますが、これは戦災により焼失した付近一帯を谷端川の暗渠化を含めて戦後の復興の一環として区画整理が行なわれたことを記念して建てられたもののようです(裏面にそれらしき碑文が書かれていますが読み取れませんでした)。



板橋駅の向かいに小さな広場があり、ポイント5の「近藤勇と新撰組隊士供養塔」が建っています。

東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
近藤勇と新選組隊士供養塔

慶応四年(1868年)四月二十五日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。本供養塔は没後の明治九年(1876年)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 ¥ケ 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宜が昌宜とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 發起人 旧新選組長倉新八改瘻コ義衞 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。




近藤勇・土方歳三・永倉新八の肖像画も掲示されています。



近藤勇の銅像も建っています。その後ろには埋葬当初に使われた墓石も置かれています。そこまでしなくても。。。



ゴール地点の板橋駅に着きました。



ということで、北区で六番目の「Fコース(王子〜板橋)」を歩き終えました。次は、北区で七番目の「Gコース(赤羽〜十条)」を歩きます。




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