- Gコース(赤羽〜十条)
- コース 踏破記
- 今日は北区の「Gコース(赤羽〜十条)」を歩きます。JR赤羽駅西口をスタート地点として、赤羽の西半分を巡ります。高度スポーツ科学センターの施設は圧巻です。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年5月に改めて歩きました。なので、晩秋と初夏の写真が入り交じっています。
Gコース(赤羽〜十条)
「Gコース(赤羽〜十条)」の歩行距離は約4.3km、歩行時間は約1時間です。
スタート地点:JR赤羽駅西口
↓
- ポイント1 赤羽八幡神社
- 伝説では、坂上田村麻呂が陸奥派遣の折に八幡三神を勧請したとあります。赤羽根村、下村、袋村、岩淵宿、稲付村の総鎮守でした。
↓
- ポイント2 赤羽緑道公園(パークブリッジ)
- 約1kmの細長い公園は、廃線跡に作られました。線路模様の遊歩道や、欄干に車輪のデザインが施された橋があります。
↓
- ポイント3 赤羽自然観察公園
- 自然の回復とふれあいをテーマにした公園には、湧水を活用した池や田んぼがあります。デイキャンプも楽しめます。
↓
- ポイント4 国立スポーツ科学センター
- 日本のスポーツの国際競技力向上を目指す施設です。スポーツ医・科学の分野から競技者や指導者を支援しています。
↓
- ポイント5 北の台エコー広場館
- 紙染などの講座やフリーマーケットを開催しています。衣類・廃油・ペットボトルのフタの回収(リサイクル)も行っています。
↓
ゴール地点:JR十条駅北改札
スタート地点のJR赤羽駅西口から歩き始めます。
ポイント1の「赤羽八幡神社」は、旧赤羽村の鎮守であり、岩淵郷五ヶ村(旧岩淵町・現在の赤羽地区)の総鎮守でもありました。数字の8を横向きにした「∞(無限大)」をモチーフにしたお守りや御朱印があり、関ジャニ∞(現在は、グループ名を「SUPER EIGHT」に改名)の聖地になっていて、通称「エイト神社」とも呼ばれています。
鳥居の脇には、赤羽八幡神社が「八幡宮」とも呼ばれていた頃の名残でしょうか、天保十一年(1840年)と刻まれた八旛宮の石碑が建っています。表には「八幡宮 是ヨリ左ヘ一丁(八幡宮へはここから左へ109メートル)」、側面には「坂上大宿稲田村麻呂延暦三年東征之時創建(坂上田村麻呂が延暦三年(784年)に東北を征伐する際に創建した)」との記載があります。
鳥居の奥に階段が左右に設けられています。左側は赤羽八幡神社の正面参道の男坂、右側はいわゆる女坂です。石段の下の男坂と女坂の間に「石坂碑」と刻まれた大きな石碑が建っています。碑文はなく、石坂の整備のために献金したと思われる多数の人名が刻まれています。
石坂は長さが約25mほどの急な階段です。別名を「赤羽八幡神社石坂」といいます。坂名の由来は不明ですが、単純に石造りの階段ということに因んでいるものと思われます。階段左手の壁には、人名が書かれた多くのプレートが埋め込まれています。昭和四十六年(1971年)に東北・上越新幹線の建設が決まると赤羽八幡神社の神域を通ることは避けられず、神社氏子ともに反対するものの、最終的には国の決定を受け入れざるを得ませんでした。ただ、社務所の下は通ることになったものの、本殿の下を通ることは回避されました。神の祟りは怖いですからね。
神域整備完成記念
昭和五十六年、八幡神社神域内に、新幹線建設工事という創建以来、未曽有の難問に直面し、神社並びに役員は時代の趨勢(すうせい)を認識し、幾多の障害を克服して同年通過を承認、昭和六十年三月竣工し新幹線開通。これを機に、参道大鳥居及び本殿、神楽殿、神輿庫、社務所を新築、拝殿を改修し、石段回り築庭の全工事を完成。茲に、神域一新を記念し、神社の隆昌と繁栄を祈念し、神社役員が碑に名を刻し、永くその労を顕彰す。
赤羽八幡神社は上野東京ラインと埼京線・新幹線の高架線路に挟まれた小高い場所に位置しています。社務所の下には東北・上越・北陸新幹線・埼京線のトンネルが通っています。トンネルといっても高架の線路をコンクリートの壁と天井で覆い、その上に社務所が建っているのです。新幹線の上に神社があるのは日本広しとはいってもここだけでしょう。
急峻な石坂を上がりますと、鳥居の奥に拝殿があります。神社の詳細な由来を記した案内板が立っています。
八幡神社
赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和気命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇。「日本書紀」によれば、応神天皇の父)、息長帯比売命(神功皇后。「日本書紀」によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷五ヵ村(赤羽根村・下村・袋村・稲村村・岩淵宿)の総鎮守であり(「新編武蔵風土記稿」)、現在もその地域の総鎮守となっています。創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中(782年〜806年、平安時代)坂上田村麻呂(758年〜811年。平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長コ年中(995年〜999年、平安時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154年〜1156年、平安時代)源頼政が修造を加え、応永(1394年〜1428年、室町時代)正長(1428年〜1429年、室町時代)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫丈の地を寄進し、文明元年(1469年、室町時代)太田道灌が社殿を再建したといいます(「岩淵町郷土誌」)。これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の、天文二十年(1551年、室町時代)の寄進状が伝えられており、その文面は、
省略
となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。また、「新篇武蔵風土記稿」に、「赤羽根村・・・今ハ東叡山及傳通院村内宝幢院八幡社領入會ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649年、江戸時代)に七石余の朱印が付されていることから(「岩淵町郷土誌」)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に七石余有していたことも確実といえましょう。現在の本殿は昭和六年改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬が三枚納められています。この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です(「東京都遺跡地図」東京都教育委員会)。この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一師団工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。明治五年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同二十年、第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等があいつぎ、赤羽は「陸軍の町」となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祝)などは、その当時の名残りです。また、ここから星美学園に至る坂は、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。
赤羽八幡神社は勝負事に御利益があるそうです。賭け事の祈願は御法度とのことです。
「勝負事の神」 赤羽八幡神社
遠く平安時代の桓武天皇の御代(782年〜806年)、東北地方はまだまだ反乱多く、その征伐に桓武天皇は坂上田村磨を征夷大将軍として起用し、東北地方の征伐に向かわせた。途中、坂上田村磨はこの赤羽台の地に陣を張り、八幡大神を勧請し、武運長久を祈り無事東北地方を平定した。勧請された八幡大神は武力・知力の御徳高く、後に源氏をはじめ武家の守り神とされた。赤羽八幡神社は平安初期の代表的な武将であり、国家守護の力とされた坂上田村磨によってこの地に開かれた歴史により、武力・知力の「勝負事の神」として、現在では受験生やスポーツ選手等から篤く信仰されている。
赤羽八幡神社には12の末社があり、拝殿の左側にある鳥居の奥に祀られています。左から大国主神社、疱瘡神社、稲荷神社、住吉神社、大山神社、阿夫利神社、御嶽神社、北野神社となります。左端に鎮座する大国主神社は「縁結びの神様」なんだそうです。
縁結びの神 大国主神社
大国主神社の御祭神は、因幡の白兎神話にも登場する大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)です。その姿は大きな袋をしょって打出の小槌を持った大黒様として広く知られています。天照大神への国譲りでは、目に見えない「縁」を結ぶ事を司ることとなり、旧暦十月には全国の神々が、大国主大神の許で縁結びの神請をされています。「縁結びの神」として有名で、単に男女の縁を結ぶだけでなく、あらゆる幸福の縁を結ぶとされています。また、因幡の白兎神話で大国主大神に助けられた兎は、後に大神と八上姫との婚姻の縁を取り持ったとされ、かなわぬ縁を叶えるとされています。
大国主神の案内板にもあった「因幡の白兎神話」の案内板も立っています。
因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)
昔々、沖の島に住む一匹の白兎が、海を渡り因幡の国へ行こうと考えましたが、自力ではとても渡れません。そこでワニザメを騙し、対岸まで一列に並べさせ、その背中をぴょんぴょんと飛び跳ねながら、あと少しのところで「君たちは騙されたんだよ」と思わず口走ってしまいました。怒ったワニザメは、白兎の毛をむしり取り、丸裸にしてしまいました。兎があまりの痛さに浜で泣いていると、そこに大国主命(おおくにぬしのみこと)の兄神達が通りかかりました。兄神達は隣の因幡の国に、美人の八上姫(やがみひめ)がいると聞きつけ、自分の妻にしようと向かっているところでした。兄神達は、「海水で体を洗い、風に当たってよく乾かし、高い山の頂上で伏せていれば治る。」と兎に嘘を言い行ってしまいました。その通りにした兎の肌は乾いて破れ、血が吹き出し、傷口からは塩がしみていっそうひどくなりました。兎が泣いていると、先を行く兄神達の全ての荷物を持たされ大きな袋をかついだ大国主命が、遅れて通りかかりました。大国主命は、「おまえがワニザメを騙したのをこらしめる為に、兄神達はおまえに嘘を教えたのだろう。もう誰も騙してはいけないよ。」と言い、「河口に行って、真水で体を洗い、蒲の穂を付けなさい。」とおっしゃいました。すると兎の体には、どんどん元の白毛が戻り始めました。感謝した白兎は、「八上姫は、兄神達ではなく、大国主命を選ぶでしょう。」と予言しました。白兎の予言通り、八上姫は兄神ではなく大国主命をお選びになり、ふたりは結ばれたのでした。
右端に鎮座する北野神社は「学問の神様」なんだそうです。
北野神社のなで牛
「書道学問の上達・合格を祈願しながら、牛の像の頭をなでて下さい。
北野神社の御祭神、菅原道真は俗に「天神さん」と呼ばれ学者・文人・政治家として優れていたところから詩歌・文筆・学問の神として崇敬される様になった。近世には寺子屋で学問の上達を祈願する、天神信仰が普及した。御本社である北野天満宮(955年創建)には、菅原道真が丑年に生れて丑年に亡くなったことから、牛の像が安置されており、牛の頭をなでると頭脳明晰になると信じられている。
古峰神社は、赤羽大火をきっかけにして栃木県から勧請されました。
赤羽大火と古峯神社
明治三十六年六月四日の午後、赤羽に大火が起こりました。汽車の火の粉が線路際の民家の藁葺屋根に飛び移り、折からの強風にあおられて、あっという間に燃え広がり、町役場や火の見櫓を焼き、繁華街の本町通りや新築間もない赤羽小学校をも焼き尽くしました。最終的には線路の東側全てと、現在の赤羽西口駅前付近迄の赤羽の約四分の三を焼失し、四百名を超える犠牲者を出したのでした。この大火をきっかけに、赤羽の町民の間に火防の神としての信仰の篤い、栃木県の古峯神社にお参りする「講」を作ろうという機運が高まり、毎年六月に大挙して参詣する古峯神社講が始まりました。それ以来、古峯神社赤羽代参講として百年以上もの間、現在に至るまで規模は小さくなりましたが参詣を続けています。赤羽八幡神社では御本社より古峯大神を勧請し、多くの犠牲者の鎮魂と赤羽の平穏無事を祈願しています。
庚申塔は道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。江戸時代の初期から八幡様の地域に多く建てられました。ここにある猿田彦庚申塔は近隣の再開発によりもとの場所から紆余曲折の後、神社に集められました。うつり坂上にあった庚申塔もそのひとつです。
猿田彦庚申塔
猿田彦は日本書紀に天照大御神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神として記載されていたことから、道の神、旅人の神として祀られ、近世期には庚申塔に多く彫られるようになりました。旧板橋街道近辺(現在の区道北1555号線付近)には庚申信仰の本尊として青面金剛が彫られた庚申塔のほか猿田彦神が彫られた庚申塔が江戸時代から多く設置されていましたが、明治時代から大正時代にかけて、旧板橋街道を含む一帯に陸軍被服本廠が設置されると、本廠周辺にあった庚申塔は本廠敷地内に集約されました。戦後、被服本廠の敷地は進駐軍による接収を経て、日本住宅公団(現UR都市機構)の赤羽台団地となりました。団地建設に伴い、昭和三十七年に庚申塔は旧赤羽台団地49号棟付近に移設されました。移設後は、「赤羽台猿田彦神社」として赤羽台団地の住民のみならず地域の守り神として長年崇められてきましたが、赤羽台団地の建替に伴い、本神社に平成二十九年四月に移設されました。
ポイント2の「赤羽緑道公園(パークブリッジ)」は、赤羽台公園近くから赤羽自然観察公園へと続く約1kmの細長い公園です。かって、赤羽駅の西側には陸軍の軍事施設が集中していました。赤羽緑道公園は、明治四十二年(1909年)に赤羽駅の北側の東北線から西に分かれて引き込まれた陸軍兵器補給廠貨物線の跡地を整備して公園になりました。
赤羽緑道公園は線路跡に作られたことから、線路にちなんで、遊歩道には線路模様の装飾が施されています。
赤羽保健所通りに架かる赤羽緑道パークブリッジの欄干には車輪のデザインが組み込まれています。
また、緑道にはサザンカや椿などが植樹され、休息や鑑賞のためのベンチも設置されています。
緑道の脇に、北区立桐ヶ丘体育館の建物があります。桐ヶ丘体育館は、昭和三十九年(1964年)の東京オリンピック開催を記念して建てられた体育館です。緑豊かなロケーションに位置する八角形の建物に、アリーナ・剣道場・柔道場・トレーニングルーム・会議室が備えられ、別棟の弓道場や、屋外にテニスコートを併設しています。アリーナには観覧席があり、バスケットボールとバレーボールのコートが2面、バドミントンコートが6面、卓球台が14の競技スペースを確保し、様々なスポーツ教室を開催しています。ここで正式なオリンピックの競技が行なわれたことはないようですが。
桐ヶ丘といえば、都営「桐ヶ丘団地」の名で親しまれていた団地が思い浮かびます。現在は全面建替に向けて順次既存住宅棟の取壊しと新築が進んでいます。この団地があった場所は、陸軍施設(工兵隊・火薬庫)でした。接収解除・国有地払い下げにより、昭和三十年に先行区1〜3号棟(第1種公営住宅96戸、現在の赤羽台桐ヶ丘アパート)が完成し、昭和三十二年にE地区・W地区・N地区の各エリアが計画に追加され、昭和三十四年から入居が始まりました。昭和四十六年時点で総戸数4、758戸、全140棟ありました。団地内に商店街や公共施設も設けられるなどひとつの街を形成しています。
ポイント3の「赤羽自然観察公園」の敷地には、戦前は兵器や弾薬を補給する役割の兵器補給廠が置かれていました。戦後は陸上自衛隊十条駐屯地赤羽分屯地が置かれ、その跡地の一部を公園として整備して平成十一年(1999年)4月1日に開園したのが赤羽自然観察公園です。公園内には湧水があり、昆虫や野鳥の育生する自然林の再生をひとつの目的とし、谷の地形や湧水などを活かした自然と触れあえる公園になっています。余談ですが、赤羽自然観察公園の用地は、昭和四十八年(1973年)当時に営団地下鉄(現・東京メトロ)南北線(当時は路線名称決定前で、単に「地下鉄7号線」と呼ばれていました)の車両基地が計画されていました。車両基地は地下2層構造で、地上部には車両搬入口・油庫・換気口などを整備し、残りは覆土して住民への公園・避難場所とすることが計画されていました。しかし、桐ヶ丘団地住民の激しい反対運動が展開され、営団地下鉄は車両基地計画を断念し、最終的に自然公園として整備されることとなりました。
園内は起伏に富み、自然林のような樹木で覆われています。
赤羽自然観察公園には、「ふるさと農家体験館」の施設があります。その脇には、付属の田圃があり、子ども達が体験学習で田植えを行い、秋には黄金色の稲穂を収穫します。
広場の奥には、江戸時代の浮間にあった旧松沢家住宅を移築復元した北区指定有形文化財の農家が復元されています。
北区指定有形文化財(建造物) 旧松澤家住宅 附 倉屋
規 模 主屋 桁行9間 梁間5.5間(うまや 桁行2.5間 梁間2.5間)
倉屋 桁行3間 梁間2間
建築年代 江戸時代後期
旧松澤家住宅は弘化元年(1844年)に創建されたと伝わる民家です。北区浮間に所在していたこの建物を、この場所に移築しました。主屋は寄棟造りの茅葺屋根で、棟には「箱棟」という瓦葺きの小屋根がついています。間取りは、向かって左に「どま」がつき右側に田の字がずれた形に4部屋が配置される「喰い違い4間取り」形式になっています。主屋に付属する「うまや」は明治初期頃に増築されたとされ、建物も同時期の間取りに復原しています。広い屋根裏は芽や藁などの保管場所として使うほか、洪水時の避難場所としても使われました。これは当時の浮間をはじめとする荒川流域が洪水にたびたびみまわれた地域であったためで、これらの地区では「水塚」とよばれる高く盛り上げた敷地の上に家を建てていました。裏の倉屋は、主屋よりも創建が古いとも伝わっており、礎石の上に直接柱を立てるなど、土台のある主屋と異なった建て方をしています。
トレセン通りに出ます。道路の両側には多くのスポーツ施設が並んでいます。
愛称「ROUTE2020 トレセン通り」について
■愛称設定の理由
東京都北区西が丘には、文部科学省が策定したスポーツ振興基本計画に基づき、我が国におけるトップレベル競技者の国際競技力強化を図るトレーニング施設として設置された国立のハイパフォーマンススポーツセンター(味の素ナショナルトレーニングセンター及び国立スポーツ科学センターなど)があります。北区は、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催に関し、他自治体にはない地域特性を最大限に活かした施策を展開することで、区の活性化やイメージ向上を目指すとともに、「トップアスリートのまち・北区」をアピールしています。このような施策の主要事業として、味の素ナショナルトレーニングセンターや国立スポーツ科学センターのある西が丘から、JR赤羽駅及びJR十条駅に通じるルートについて、「ROUTE2020 トレセン通り」という愛称を命名しました。愛称を付けることにより、赤羽駅周辺及び十条駅周辺の地域活性化につなげ、「トップアスリートのまち・北区」の拠点エリアとして、区内外に発信していきたいと考えています。
■この愛称について
東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会開催の年である「2020」を強調するとともに、道路として馴染みのある表現である「ルートと数字」を合わせることで、全国唯一のトップレベル競技者の練習施設にふさわしい斬新で独創性を感じるネーミングを意識しました。また、起点の最寄駅となるJR赤羽駅及び十条駅から施設へ向かう選手が多く、多数の外国人選手も来場することから、英語を用いました。愛称名の「トレセン」については、「味の素ナショナルトレーニングセンター」の略称として、地元に定着しており、また、愛称中にある北区のコミュニケーション・マークは、花いっぱいの元気な北区を象徴するマークとして、「さくら」の花びらで「北区」のイニシャル「K」をデザインしたものです。なお、「ROUTE2020 トレセン通り」の愛称は、味の素ナショナルトレーニングセンターのエリートアカデミー生から、「毎日通りながら、2020年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会を意識でき、東京2020大会へつながる道路の愛称としてふさわしい」など、高い評価を得ています。
赤羽スポーツの森公園は、赤羽スポーツの森公園競技場を中心に、芝生広場や児童遊具などが設置されています。この場所は元々は陸上自衛隊十条駐屯地赤羽分屯地でしたが、1995年に茨城県土浦市に移転後、跡地を公園として整備したものです。跡地の北側は赤羽自然観察公園として1999年4月1日に開園し、次いで南側も公園として整備され、2010年4月1日にサッカーが行える競技場を中心に備えた「赤羽スポーツの森公園」として開園しました。
赤羽スポーツの森公園の斜め向かいに、ポイント4の「国立スポーツ科学センター」があります。その専用のサッカー場が西が丘サッカー場です。味の素が命名権を取得していて、2012年5月1日から「味の素フィールド西が丘」という名称になっています。この場所には、戦前には東京兵器補給廠の第1地区(東京陸軍兵器補給廠)がありました。戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、返還された後の用途として国立競技場の建設が決まり、国立西が丘運動場と合わせて球技場となりました。当初は総合球技場として整備されましたが、後にサッカー専用となりました。
国立西が丘運動場は後に閉鎖され、跡地に国立スポーツ科学センターとナショナルトレーニングセンターが建設され、トレーニングの拠点として活用されています。
ナショナルトレーニングセンター(NTC)は、「スポーツ振興基本計画」を受けて設置された日本のトップレベル競技者用トレーニング施設です。大谷選手が奥さんを見初めた場所として噂に上がっています。
姥ヶ橋交差点で環七に出ます。姥ヶ橋は、かつての北耕地川(稲付川)に架かっていた橋の名前です。誤って子供を川に落して死なせてしまった乳母が自責の念から身を投げたと伝えられる橋で、「姥」と「乳母」では若干意味合いが異なりますが、これが橋名の由来とされているようです。橋は、昭和四十年前後の環七通りの開通と拡幅の過程で撤去されたものと思われます。北耕地川は石神井川を分水した灌漑用水であり、東武東上線中板橋駅の北側付近で分かれ、大和町から稲荷台を抜け、姥ヶ橋交差点で環七通りを北側にくぐっていました。その先は十条仲原四丁目北側から神谷二丁目・神谷三丁目の北側を東へ流れ、隅田川へと注いでいました。現在はほぼ全区間が暗渠になっています。
環七を東方向に少し進んだ先の左手に北ノ台スポーツ多目的広場があり、その一画にポイント5の「北の台エコー広場館」があります。北ノ台エコー広場館は、平成八年3月に学校の廃校利用としてオープンしました。学校給食の残菜を利用した「有機野菜販売」、家庭から出された不用品の「多々楽市」、紙染などの講座や区民参加の「フリーマーケット」の開催、「まな板削り」や「包丁研ぎ」、衣類・廃油・ペットボトルのフタの回収(リサイクル)も行っています。
というか、2021年に立寄った際にはあったのですが、建物の老朽化に伴って2023年3月に閉館になりました。
姥ヶ橋交差点で環七を渡った角に、姥ヶ橋延命地蔵尊と子育地蔵尊が祀られています。
姥ヶ橋延命地蔵尊
この地蔵尊は、袈裟をまとい、右手に錫杖を執り、左の掌に宝珠を載せ、正面を向いて蓮華座に立つ、安山岩系の石材を丸彫りした地蔵菩薩像です。台座には「享保九年(1724年)甲辰天十一月吉日 石橋供養」の銘文が刻まれています。向かって左側の堂内には石造の子育地蔵尊がまつられています。説明板の横には、道しるべでもある小型の文字庚申塔と地蔵尊の由来碑があります。像は、「姥ヶ橋の地蔵様」と呼ばれて親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用されていました。姥ヶ橋には、誤って川に子どもを落して死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落したという伝説があります。そして地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば川に架かる石橋の安全供養のためによるものです。また、地蔵尊は、二つの道が出合う地点にあったことから「出合地蔵」とも呼ばれています。橋のたもとは、川口への交通路としても利用された十条・板橋道と中山道から分かれて王子稲荷へ向かう王子道とが合流する交通の要所だったのです。現在は環状七号線の建設で川は暗渠となり、姥ヶ橋も姿を消しました。しかし、延命地蔵尊には参詣者の絶えることがなく、毎年八月二十四日の緑日には多くの人々で賑わいます。
ROUTE2020トレセン通りから十条仲通り商店街に入ります。商店街の入口付近は下町風のお店が軒を連ねています。
十条銀座商店街の手前にはお洒落なお店が多く見られます。「ダイニング街なか」は人気店でしたが、残念ながら2023年12月28日をもって閉店したとのことです。
通りから少し外れた住宅地の中にタイカレーの「ユマ・ミーナ」があります。野菜カレーと二色カレーが人気メニューとのことです。季節にあわせて種類が変わる素揚げ野菜がのったレギュラーカレーとタイ風レッドカレーを盛り合わせた二色カレーは、混ぜれば三度楽しめる一品です。「タイ料理の匂いが苦手」という店主の丸山ミナコさんがあくまでタイ風ですという通り、香草や香辛料の癖がなく、ココナッツミルクたっぷりのマイルドな風味で、「胃にもたれないカレー」だそうです。
東京田事(たごと)は、商店街から一歩奥に入った路地に面した古民家を改装した料亭で、各地から厳選した四季折々の旬の食材による和食を味わえるお店です。
十条銀座商店街は、戸越銀座商店街と砂町銀座商店街と並んで東京の三大銀座商店街と呼ばれています。中央通り・東通り・西通りに200店を超える店舗があり、全長は約520メートルあります。昭和五十二年(1977年)から昭和五十四年(1979年)にかけてアーケードが整備され、天候を気にせず買い物ができて、1日の来訪客は約15、000人と都内有数の規模を誇っています。商店街の歴史は古く、1910年の赤羽線(現在はJR埼京線)十条駅開業後から周辺の住宅化により商店街として形成されたといわれています。生鮮食品店や衣料品店を中心に、飲食店・美容室・理髪店・ドラッグストア・日用雑貨店など、生活の利便性を高めるお店が一通り揃っています。特に生鮮食品店と惣菜店はメディアでも何度も取り上げられ、「十条価格」と呼ばれるほど割安で有名です。
ゴール地点の十条駅に着きました。
ということで、北区で七番目の「Gコース(赤羽〜十条)」を歩き終えました。次は、北区で八番目の「渋沢栄一翁コース」を歩きます。次回からはコースマップはなく、個別の見所ポイントを選んだコースとなります。
戻る