北区ゆかりの偉人 渋沢栄一翁コース(王子〜上中里)


コース 踏破記

今日は北区の「北区ゆかりの偉人 渋沢栄一翁コース(王子〜上中里)」を歩きます。JR王子駅中央口をスタート地点として、渋沢栄一翁の足跡を辿ります。生まれて初めての一億円の札束とも面会します。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年5月に改めて歩きました。なので、晩秋と初夏の写真が入り交じっています。

北区ゆかりの偉人 渋沢栄一翁コース(王子〜上中里)

約500の企業設立に関与し、約600の教育・社会事業の支援をした近代日本資本主義の父である渋沢栄一翁が1931年に91歳で亡くなるまで人生の拠点とした地が王子飛鳥山でした。王子飛鳥山周辺の渋沢翁ゆかりの地を巡る見どころたっぷりのコースです。

「北区ゆかりの偉人 渋沢栄一翁コース(王子〜上中里)」の歩行距離は約3.5km、歩行時間は約50分です。

スタート地点:JR王子駅中央口
ポイント1 洋紙発祥の地碑
ポイント2 お札と切手の博物館
ポイント3 音無親水公園(熊谷源左衛門君碑)
ポイント4 音無橋
ポイント5 旧醸造試験所第一工場
ポイント6 渋沢栄一ラッピングポスト
ポイント7 飛鳥山公園(飛鳥山3つの博物館)
ポイント8 旧渋沢庭園(晩香廬・青淵文庫)
ポイント9 西ヶ原一里塚
ポイント10 七社神社
ポイント11 旧古河庭園

ゴール地点:JR上中里駅


スタート地点のJR王子駅中央口から、「洋紙発祥の地碑」に向かって歩き始めます。


ポイント1 洋紙発祥の地碑

明治六年(1873年)に渋沢栄一が中心となり設立された「抄紙会社」(旧王子製紙の前身)は、工場の建設用地の選定にあたり、東京近郊で良質な水が豊富にある場所を求めていましたが、渋沢と交流が深かった鹿島方(現在の鹿島建設)二代目の鹿島岩蔵による入念な調査により東京府北豊島郡王子村に工場を設けることが決まりました。工事は明治七年(1874年)9月に着工し、英国人技師チースメンの指導の下で鹿島方が工事を請け負い、翌年に煉瓦造の第一工場が竣工しました。その後、隣接地に第二工場と事務所棟が竣工しました。しかし、昭和二十年(1945年)4月13日に米軍の空襲を受けて工場が全焼し、翌年には王子工場は閉鎖されました。昭和二十四年(1949年)8月、過度経済力集中排除法に基づき王子製紙は解体され、王子工場の敷地は新たに設立された十条製紙に引き継がれました。その十條製紙(1993年に山陽国策パルプと合併して、現在は日本製紙になりました)の社宅跡に開業したのが複合レジャー施設のサンスクエアです。



サンスクエアの左手に、旧王子製紙の第一工場の正門がありました。その場所に建てられたのが「洋紙発祥之地」碑です。「洋紙発祥之地」の石碑は昭和二十八年(1953年)に、創立80年を記念して十条製紙によって建立されました。その後紙の博物館の敷地内に移設されましたが、紙の博物館の移転に伴い、再度現在の場所に移設されました。

洋紙発祥の碑

日本の洋紙生産は、明治六年(1873年)ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した渋沢栄一が「抄紙会社」を設立し、ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。田園の中、煙を吐くレンガづくりの工場は、当時の錦絵にも描かれ、東京の新名所になりました。その後日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、昭和二十年(1945年)、戦災によりその歴史を閉じました。この碑は、工場創立八十周年を記念し、昭和二十八年、その跡地に建てられたものです。




石碑には次のように書かれています。

洋紙発祥之地

此地ハ明治五年十一月渋澤栄一ノ発議ニ由リ創立シタル王子製紙株式會社ガ英国ヨリ機械ヲ輸入シ洋紙業ヲ起セシ發祥ノ地ナリ。當時此會社ハ資本金拾五萬圓ヲ以テ發足シ同九年畏クモ明治天皇英照皇太后昭憲皇太后ノ臨幸ヲ仰ギ奉リ東京新名所トシテー般ノ縦覧スル所トナレリ。同社ハ昭和二十四年八月苫小牧製紙十條製紙本州製紙ノ三社ニ分割スル二至ルマデ名實共ニ日本洋紙界ノ中心タリキ茲ニ八十年ノ歴史ヲ記念シテ永ク洋紙業發展ノー里塚トセン。




「洋紙発祥之地」の石碑は以前から建てられていましたが、2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放映されたことから、石碑の裏の壁面に、渋沢栄一の功績を紹介する大きなパネルが設置されました。

錦絵に見る。製紙産業を開花させた渋沢栄一

明治八年(1875年)から大正期に王子界隈に出現した製紙関連工場群

「抄紙会社」が開業されると工場が次々と建設され、日本の近代化産業発祥の地となりました。戦後、工場は次々と郊外へ移転し、跡地には団地が建設された地もあります。

豊富な水源石神井川、千川上水が製紙関連工場群を造り、近代化産業に導く

千川上水の水は、音無川(石神井川)に流し入れ、この川から水を引き農業用水としていた地元王子と23か村。抄紙会社工場内と国立印刷局内には石神井川上に掛桶(木桶)で渡して千川上水を工場に引いていました。かつては江戸幕府が滝野川村に反射炉と水車を設置時、石神井川の川幅(を)広げ、川底を下げる堀継ぎ工事が行われていた地域。製紙工場が水路利用するための証書や嘆願書等が多く交わされています。その貴重な資料は紙の博物館に保存されています。




渋沢栄一の業績の紹介もあります。

日本最初の近代産業の出発点
「洋紙発祥の地 王子」

日本初の洋紙製造工場が誕生した地

明治八年6月には洋紙工場が完成し操業、12月には開業式を挙行しました。翌年、大蔵省印刷局抄紙部の工場が隣接地に設置され、社名を「製紙会社」に改称。その後、明治二十六年には王子製紙(株)王子工場となり操業を続けました。しかし、第二次大戦中の昭和二十年4月、工場一帯は王子地区への東京大空襲で大部分が戦火で焼失し閉鎖。戦後、昭和二十四年に占領政策で王子製紙は苫小牧製紙、十條製紙、本州製紙の3社に分割。工場は十條製紙が引き継ぎ、昭和四十七年工場跡地に十條ボウルがオープン。平成五年には、日本製紙(株)となり、歴史的産業遺産として継承しています。

近代産業の条件を満たした歴史的産業遺産の地

渋沢栄一の近代産業の地の条件に叶っていたのは、豊富な水源と工場思想の情報発信ができる東京近郊の場所で、江戸の観光名所・風光明媚な王子・飛鳥山・滝野川でした。水源は石神井川(音無川)、千川上水を利用、物資運搬も船で石神井川から荒川(現・隅田川)へ。製紙会社が操業すると近代化・産業化が隆盛となり工場群ができ、人達が集まり、店ができ、王子は近代産業の中心地となり浮世絵にも描かれています。渋沢栄一も飛鳥山に住み民間外交の場とし、晩年は国際協調を願う世界中の人達から“グランド・オールドマン”(偉大な老紳士)と讃えられました。往時の足跡は飛鳥山3つの博物館で偲べます。




洋紙発祥の地碑の直ぐ先に、明治通りに面して「お札と切手の博物館」があります。

ポイント2 お札と切手の博物館

「お札と切手の博物館(国立印刷局博物館)」は、紙幣と切手関係の専門博物館です。大蔵省印刷局の創立100年を記念し、昭和四十六年(1971年)に市ヶ谷の市ヶ谷センター敷地内に開館しました。平成十五年(2003年)4月に大蔵省印刷局が独立行政法人国立印刷局となり、平成二十三年(2011年)3月に国立印刷局王子工場に隣接する王子展示室に移転してきました。



数年後には、王子工場の事業棟新築に伴って現在の王子展示室は閉鎖される予定になっていて、別の地に移転するか、展示室自体が無くなるのかは現時点では決まっていないそうです。



建物前の植栽には、紙の原料となる「みつまた」が植えられています。

みつまた

ジンチョウゲ科の落葉低木で、枝が三本に分かれることから「みつまた」と呼ばれ、早春、葉が出る前に美しい黄色の花が咲きます。日本では、昔から、この木の皮を和紙の原料として使ってきており、現在でも銀行券用紙の原料として用いられています。




お札と切手の博物館について、次のように書かれています。

お札と切手の博物館へようこそ

当館は、お札や切手を製造している国立印刷局が運営する博物館です。国立印刷局は、明治四年(1871年)に大蔵省紙幣司として創設されました。明治十年には、近代的な印刷技術による国産第1号のお札を製造し、我が国の紙幣製造機関としての第一歩を踏み出します。現在では、お札や切手のほか、旅券(パスポート)、収入印紙、官報など、公共性の高い印刷物を製造しています。見方を変えると、国立印刷局の歴史は偽造との戦いの歴史でもあります。新しい技術の悪用に対しては、さらに高度な偽造防止技術の開発が必要になるため、国立印刷局では日々研究開発が重ねられています。当館では、その”信頼のかたち”であるお札や切手について、つくり手ならではの視点でご紹介しています。1階展示室では、お札や切手の偽造防止技術・製造技術の歴史について、体験コーナーを交えて展示しています。2階展示室では、歴代のお札や切手を通して、社会背景の変化や技術の進歩によるデザインの移り変わりなどをご覧いただけます。また、世界のめずらしいお札や切手も見どころです。どうぞ、ごゆっくりとご観覧ください。お札や切手の歴史と技術を総合的に学んでいただけます。




1階の展示室では、「偽造防止技術の歴史」をテーマに、偽造を防止する「印刷技術」について紹介され、@原版製作・A製版技術・B印刷方式の3つのセクションで構成されています。

偽造防止技術の歴史
印刷技術

お札や切手の印刷は、本やポスターの印刷のように文字や画像で情報を伝えるだけでなく、偽造を防止するという特殊な機能をもっている。18世紀までのお札や証券類は、木版印刷や活版印刷など、一般の印刷物と変わらない技術を使っていたが、産業革命によって経済規模が拡大し、お札や証券類の偽造防止の重要性が高まると、特殊な印刷技術が発達した。このような印刷の分野を「証券印刷」という。このコーナーでは、偽造を防止するための印刷技術の歴史について、以下の3つの側面から見ていく。

1. 原版製作
印刷には、版面が必要である。偽造防止効果を高めるために、より細密で精緻な原版製作の技法が採用されるようになっていった。

2.製版技術
同じ印刷物を大量製造するには、印刷用の版面を多数複製する必要がある。偽造防止には、このための精緻な製版技術が不可欠であった。

3.印刷方式
印刷には異なる特徴をもった様々な方式がある。お札や切手には、偽造防止効果の高い複数の印刷方式が使われるようになっていった。




日本最古の印刷機である「スタンホープ印刷機」が保存・展示されています。

日本最古の近代的印刷機
重要文化財 スタンホープ印刷機

スタンホープ印刷機は、1800年にイギリスのチャールズ・スタンホープ伯爵(1753年〜1816年)が発明した手引き活版印刷機である。それまでは15世紀にグーテンベルクが考案した木製印刷機がほとんど姿を変えずに使われていたが、スタンホープ印刷機は世界初の総鉄製印刷機で、てこの原理を利用した「スタンホープ・レバー」と呼ばれる加圧機構によって大きな面積を早く効率的に印刷できるようにしたものである。これをきっかけに印刷機は急速に近代化していく。

当館の所蔵品は、幕末の嘉永三年(1850年)に長崎のオランダ商館長が徳川将軍に献上したものと伝えられ、現存する日本最古の近代的印刷機である。蕃書調所で洋書の印刷などに使われ、明治維新後は新政府が引き継ぎ、明治八年(1875年)に紙幣寮(現・国立印刷局)の活版部門が管理することになった。当時、活版部門では政府刊行物などを印刷していたが、既に動力式・輪転式の印刷機が主流となりつつあり、本機が実製品の印刷に使われたという記録は残っていない。大正十二年(1923年)の関東大震災の際、焼損し、部分的に修復されているが、近代印刷技術の日本への到来を象徴する遺物として、国の重要文化財に指定されている。スタンホープ印刷機は世界にも数十台しか現存していない。




昔、給料が銀行口座振り込みではなく、現金払いという時代に3億円事件がありました。犯人は1人だったようですが、硬貨も含めて3億円の現金は大変な重さだったことでしょう。犯人に成り代わって私が1億円の札束の重さを体験してみます。尚、この1億円は1万円札だけが使われていますから、多種類の紙幣・硬貨が混在していたであろう3億円の重さとは異なります。ガラスケースに開けられた穴から腕を通し、ムンズと持ち上げてみます。ムムッツ!相当に腕力が要りますね。私は犯人でないことが証明されました。



お札と切手の博物館から王子駅北口の東西自由通路を通って、「音無親水公園(熊谷源左衛門君碑)」に向かいます。

ポイント3 音無親水公園(熊谷源左衛門君碑)

王子駅親水公園口に向かって石神井川が流れています。



でも、水は殆どありません。実は、石神井川の本流はこの先で分流し、飛鳥山公園の下を流れて王子駅の先で再合流しているのです。ここはかっての石神井川の流路で、今は親水公園として残っているのです。石神井川は北区付近ではかって「音無川」と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季の行楽の名所・景勝の地でした。しかし、戦後の経済の復興・発展とともに石神井川も生活排水などで汚れた川となりました。また、昭和三十三年9月の狩野川台風で一帯の渓谷が破壊されたことを受け、飛鳥山公園の下に2本の通水トンネルを掘って川の流れを変える工事が行なわれました。昭和三十年代から始まった改修工事によって緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、典型的な都市河川となりました。



その後、残された旧流路に「かつての渓流を取り戻したい」という意見を基に公園ができました。公園名は、石神井川が昔「音無川」と呼ばれていたことから、川の名前に因んで「音無親水公園」と名付けられました。

音無親水公園

音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保七年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永五年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。「江戸名所花暦」「遊歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和六十三年、北区は、この音無親水公園を整備しました。

   たきらせの 絶ぬ流れの末遠く 
      すむ水きよし 夕日さす影
        飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より




公園は、木橋・東屋・行灯・水車など純和風のつくりが特長で、春には桜が咲き誇り、夏は水遊びが楽しめ、秋には紅葉が綺麗です。公園の上空には優雅な曲線美を誇る3つのアーチ型の音無橋が架かり、夜はライトアップされて昼間とはまた違った趣を見せます。人工の滝も造られ、その流れの先には水車も設置されました。でも、水が流れていないので回ってはいませんが。



かって、石神井川は渓谷が深く、深山幽谷の風情を醸し出していました。夏の滝浴みや秋の紅葉が知られる行楽の地である一方、その豊富な水は流域の田畑を潤す農業用水として、また近代以降は工業用水として利用されました。王子では、現在の音無橋の少し上流にあった王子石堰付近で用水が分流されていました。石神井川の水をめぐっては水争いが絶えませんでしたが、明治初年に王子村の組頭役であった熊谷源左衛門は寂れていく王子村を憂い、用水や用地の調停に奔走して抄紙会社をこの地に誘致しました。音無橋下には、後に村長となった熊谷の業績を記した「熊谷源左衛門君碑」が残されています。碑文は漢文で難しく、石碑も年代が経っていてとても読み取れませんので、ネットからの転載になります。

熊谷源左衛門君碑
東京府知事正三位動二等男爵千家尊福篆額

君名源左衛門 熊谷氏 武州北豊島郡王子村人 以天保十三年正月廿八日生 初専務千畦圃 明治二年八月浦和縣○擧 以為王子村組頭 後管於東京府 十四年十一月為戸長 廿二年改村長 三十七年一七日 以病歿于職 享年六十有三 君資性寛怨 執事明夙注意水利 北豊島地勢概平指悉通溝渠 引河流以灌漑 而從来管理法未備動 輌致紛紜 君憂之 創隣郷不相浸之約首設之石神井分渠施及千川玉川派流盡締盟無復喧擾 君皆興有力焉 又嘗謂厚民生賑郷門莫善於工業 時會諸工場興於是他者陸相餡沓 其方相地也 民或不肯售善 則君介其間懇論以應之 工事隆盛遂冠都下 其他設農耕試場及兒童教童莫不盡意 官賞其攻賜金敷次 郷黨亦悽徳弗説 今茲胥謀鐫石以垂後昆 銘日 飛鳥高下 南東阡 一望萬項 溝洫腴田 轟突駢植 煤烟衝天 丈夫勵業 子女爭先 昔時碧落 茅茨采橡 分則櫛比 棟甕謹勉在職 三十六年 功防貞石千載維傅




音無親水公園(熊谷源左衛門君碑)から階段を上がって、「音無橋」に出ます。

ポイント4 音無橋

音無橋は、王子神社傍に渡したアーチ型鉄筋コンクリート橋で、昭和四年12月に起工し、昭和六年1月に竣工しました。渋沢栄一が建築・開通を支援しました。

音無橋

音無橋の名の由来は、架橋されている石神井川に求められる。石神井川は多摩地方から東流し、北区において隅田川と合流するが、王子権現付近より以東の路線はかつて滝野川あるいは、音無川と呼ばれていた。音無川の名は紀州熊野権現本宮の近くにある音無川に因んだものである。本橋は、昭和五年の架橋以来、周辺の交通の便を確保するとともに、地域の発展の要として機能している。




音無橋から石神井川を離れ、路地奥の「旧醸造試験所第一工場」に向かいます。

ポイント5 旧醸造試験所第一工場

醸造試験所跡地公園は、明治時代に創設された酒類醸造に関する試験場の移転跡地に整備された公園です。一部現存する国の重要文化財に登録された煉瓦づくりの旧醸造試験所第一工場を間近に望めます。



旧醸造試験所第一工場は、国による醸造技術の研究・発展を目指し、明治三十七年5月に創設された大蔵省醸造試験所の清酒醸造試験工場として設立されました。設計は、明治の三大建築家の1人である妻木頼黄です。当建物は通称「赤煉瓦酒造工場」といい、ドイツのビール工場を手本に設計された明治期の貴重な煉瓦造り建造物であるとともに、産業遺産としても貴重とされています。赤煉瓦酒造工場は、日本の酒造りの近代化と酒類産業の発展に貢献してきており、醸造試験所(現在の独立行政法人酒類総合研究所)の酒類研究の試験醸造・酒類醸造講習(人材養成)の実習工場として歴史を重ねてきました。平成二十六年12月に、建築学上貴重であり、歴史的価値が高いことから文化財審議会で審議の上、国の重要文化財に指定されました。その後平成二十八年4月からは文化庁の所管となり、文化財保護法に基づき平成二十八年3月31日付で文化庁告示第35号により、公益財団法人日本醸造協会が管理団体の指定を受け管理を行なっています。

国指定重要文化財(建造物)
旧釀造試験所第一工場

醸造試験所は、醸造方法の研究や清酒の品質の改良を図ること、講習により醸造技術や研究成果を広く普及させること等を目的に設立された国の研究機関です。創立は、明治三十七年(1904年)五月で、酒税とも密接なかかわりを持つことから、大蔵省が所管することになりました。醸造試験所が設置された場所は、幕末に滝野川大砲製造所が置かれた敷地の一部で、水利がよく、王子停車場(現王子駅)も近いことなどから「洵に得難き好適地」として選定されました。第一工場は、試験所の中核施設として、蒸米・製麹・仕込・発酵・貯蔵等の作業が行われていました。設計及び監督は、大蔵省技師の妻木頼黄が担当しています。一部三階建、地下階に貯蔵室を持ち、渋沢翁が設立した日本煉瓦製造会社の煉瓦で造られました。外観を化粧煉瓦小口積とし、外壁上部は煉瓦を櫛型に並べたロンバルド帯風の意匠になっています。躯体の煉瓦壁の一部に中空部分を設けて外部の温度変化の影響を受けにくくし、またリンデ式アンモニア冷凍機を用いた空調設備を備える等、一年を通して醸造の研究が行えるように、ドイツのビール醸造施設を応用した設計がなされています。製麹室の白色施釉煉瓦積の壁や、鉄骨梁に半円形状に煉瓦を積んだ耐火床など、屋内にも特微的な煉瓦造の部分をみることができます。昭和二十年(1945年)四月に空襲で被災し、屋根部分は葺き直されていますが、その他は当時の様子をよくとどめています。




工場敷地の中庭に案内板が立っています。

重要文化財 旧醸造試験所第一工場

旧醸造試験所第一工場は、「赤煉瓦酒造工場」とも呼ばれる煉瓦でできた建造物です。1904年大蔵省(現在の財務省)に創設された醸造試験所の酒類試験工場として、日本酒等の醸造技術の近代化と発展に多大な貢献をしてきました。明治期の貴重な赤煉瓦建築物として2014年12月に国の重要文化財に指定され、壁や天井には実用的で美しいアーチが数多くあります。設計は妻木頼黄(つまき よりなか)です。

Important Cultural Property
Former National Research Institute of Brewing 1st Plant

The 1st Plant of the former National Research Institute of Brewing is a structure made of bricks and thus also called the "Red Brick Sake Brewery Factory". It was built as a factory for conducting examinations of the alcoholic beverages production by the "National Research Institute of Brewing", which was founded in 1904 under the control of the Ministry of Finance and made significant contributions to the modernization and development of brewing technology, such as sake brewing. It was designated as an important cultural property of Japan in December 2014 for the value of its red brick architectural structure from the Meiji period, and its walls and ceilings fitted with numerous arches are both practical and aesthetically pleasing. The architect was Yorinaka Tsumaki.




建物の前に大きな瓶が放置されています。醸造用の瓶でしょうか、北赤羽でも見かけましたね。



旧醸造試験所第一工場から明治通りに出て、飛鳥山交差点脇にある「渋沢栄一ラッピングポスト」に向かいます。

ポイント6 渋沢栄一ラッピングポスト

2021年3月25日、飛鳥山前郵便局に、区縁の渋沢栄一のデザインが施された郵便ポスト(通称:ラッピングポスト)が設置されました。これは、北区内郵便局の発案により、北区がデザインを提供する形で実現したものです。ポストには、渋沢栄一が描かれている他、渋沢栄一の手がけた事業が表現されています。



渋沢栄一ラッピングポストから明治通りを歩道橋で渡って、「飛鳥山公園(飛鳥山3つの博物館)」に向かいます。

ポイント7 飛鳥山公園(飛鳥山3つの博物館)

飛鳥山公園には3つの博物館があります。「紙の博物館」は、55、000点の資料と図書を展示公開する世界でも数少ない紙専門の総合博物館です。和紙・洋紙を問わず、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集・保存・展示しています。1950年に日本の洋紙発祥の地である王子に開設されましたが、首都高速の建設に伴い、1998年に現在の飛鳥山公園内へ移転しました。多くの紙関係会社の支援によって運営されています。常設展示では、紙の製造工程・種類や用途・紙の歴史・紙の工芸品・歴史的資料や生活用品などを展示しています。また紙に関する書籍約1万5千点を有し、図書室で一般にも公開しています。年間を通じて企画展を開催すると同時に、紙を素材としたバラエティー豊かなイベントも実施しています。毎週土・日曜日に行われる「紙すき教室」は、牛乳パックの再生原料から手すきのハガキを作る催しで、年齢を問わず大変人気があります。



エントランスの扉の横に、紙の原料となるパピルスの鉢が置いてあります。

パピルス 学名: Cyperus papyrus L.

カヤツリグサ科の多年生植物。和名カミガヤツリ。高さは2m以上にも達し、茎は三角形である。紀元前3000年頃から古代エジプトでは、この茎の髄を薄くはいで、縦横に並べ、圧縮して乾燥させてシートを作り、 書写材料として広く使用した。紙(ペーパー)の語源となっている。




館内の壁には多くの説明用のパネルが貼られ、資料も展示されています。



貴重な製紙用の機械遺産も展示されています。抄紙機がどういう風に動作するのか、想像できませんね。

世界最初の抄紙機(模型)

フランス人のルイ・ロベールは1798年、それまで1枚1枚手ですいていた紙を連続的につくる「抄紙機」を世界で初めて発明した。紙の大量生産・大量消費を可能にした、重要な発明品であり、これはその縮尺1/2模型。繊維をシート状にする網(ワイヤー)の両端を輪につないで回転させることで、連続的に紙をつくることができる。この抄紙機が改良され、現在も広く使用される長網抄紙機として実用化された。




この機械は、木を擂り潰すんだとか。大根おろしの原理ですかね。

ポケット グラインダー

明治二十年代以降、紙の原料は木材(針葉樹)が主流となっていく。グラインダーは、回転する砥石(グラインダーストーン)に木材(丸太)を押し付けてすりつぶし、パルプをつくる装置で、ポケット型、マガジン型などの型がある。戦後、高度成長期頃までは、針葉樹をすりつぶしパルプ化したものが紙の主原料だったが、更なる需要増から原料不足となり、広葉樹が利用されるようになると、グラインダーは他の機械に置き換わっていった。




紙プラントの模型もあります。製紙業はもはや装置産業ですね。

連続蒸解釜(模型)

蒸解釜とは、木材チップを薬液で煮てパルプを作る装置で、連続蒸解釜はチップと薬液が連続的に釜の中に送り込まれ、煮上がったパルプから順次出てくる仕組みになっている。この模型は1/25模型で、実物は高さ42mほどにもなる。連続蒸解釜はクラフトパルプ製造の主流として、現在も世界中で導入されており、パルプ製造工場の象徴的な設備の一つである。




段ボール製造機もあります。明治四十二年に開発されたそうです。動作方法がイマイチ分かりません。

段ボール製造機(復元)

三盛會(現レンゴー)の創業者・井上貞治郎が日本で初めて段ボールを製造した機械を復元したもの。井上は明治四十二年(1909年)に綿繰り機をヒントに、ボール紙に波形の段をつける機械を自ら考案、製造に成功し、「段ボール」と命名した。この製品は電球や化粧品など割れやすい商品の緩衝材として使われた。段ボール箱を手がけるのは、大正三年(1914年)である。




「紙の博物館」の隣に「北区飛鳥山博物館」があります。北区飛鳥山博物館は、北区のことがなんでもわかる博物館です。地域の郷土風土博物館として、北区の歴史・自然・文化などに関する展示や調査研究などの活動を幅広く行なっています。1階の常設展示室では、「大地・水・人」をコンセプトに、1つの象徴展示と14のテーマ展示を展開しています。武蔵野台地と東京低地の境にある北区の成り立ちから、古代人のくらし、江戸時代の名所の発展、さらには荒川の生態系まで、実物資料はもちろん複製資料(レプリカ)、映像、復原家屋などを通して、地域の風土とともに連綿と営まれてきた人々の暮らしぶりが実感できる展示となっています。2階には企画展や特別展覧会、スポット展示などを開催する特別展示室のほか、図録や各種オリジナルグッズを取り揃えたミュージアムショップがあります。3階の飛鳥山アートギャラリーでは北区ゆかりの美術伝統工芸品を鑑賞することができます。また、1年を通して、さまざまな講座や見学会なども行なわれています。



入口を入った左手に高床式の建物が造られています。徴収した米を蓄える倉庫とのことです。

豊島郡衙の、とある風景

時は奈良時代、現代の北区は武蔵国の豊島郡に属していました。東京都には都庁があり、北区には北区役所があるように、古代でもその地方や地域を管轄する役所がありました。その豊島郡の役所、豊島郡衙がここ北区の地にあったのです。郡衙の仕事は今の役所と同じです。税の徴収やそのための戸籍作りなどです。現代は税をお金で納めていますが、当時は「租・庸・調」といって、稲・布・特産物を納めていました。その徴収した稲を収納したのが、この「正倉」という建物です。正倉の前には稲を運び入れている村人がいます。まだ米俵がなかった時代です。叺で運び、倉の中に直接稲籾を入れていました。それを指示しているのが郡衙の役人である「郡司」です。稲の収穫が終わった秋の、とある一日。きっとこんな光景があったのでしょう。




常設展示室は入口フロアの下の階にあります(入口フロアは2階に当たるらしい)。エレベータで降りていきますと、弥生時代の竪穴式住居が復元されています。それだけならなんということもないのですが、当時の日常生活を再現したビデオが流されています。食料を盗もうとする隣人とそれを阻止しようとする住人が争っていて、かなりリアルな映像です。



北区の歴史を解説したパネルが並んでいます。豊島郡は、荏原郡や多麻郡と並んで、現在の東京都を構成する武蔵国の主要な郡でした。正倉は郡衙の中でも重要な建物だったようです。税として徴収した米(稲籾)を保管するところですからね。古代東海道の道筋は、現在の本郷通りでしょうか?

奈良時代〜平安時代
律令社会と豊島郡衙

奈良に都が造られた律令の時代、中央政府は地方行政を合理的に管理するために行政区画を設け、地方を分割しました。その行政単位は国・郡・里(郷)で、北区の地は“武蔵国豊島郡”に属します。国や郡には行政実務を行う、現代でいう役所が置かれました。郡に置かれた古代の役所を”郡衙”あるいは”郡家”といいます。北区の地から豊島郡の役所である”豊島郡衙”が発見されました。北区は古代において豊島郡の中心地だったのです。

武蔵国豊島郡衙

武蔵国は現在の埼玉県と東京都、神奈川県の横浜市や川崎市を含んだ広い範囲です。その中心は国の役所である”武蔵国府”で、現在の東京都府中市にありました。武蔵国は21の郡(最初は19の郡)に分割されていました。現在の北区はその中の豊島郡に含まれます。その範囲は北区・板橋区・豊島区・荒川区・台東区・文京区・練馬区がほぼ該当します。各郡には役所として”郡衙”が置かれていました。豊島郡の中心である”豊島郡衙”は北区の西ヶ原にありました。

豊島郡衙の構造

古代の役所”豊島郡衙”は郡庁院と正倉院に大きく分けられます。郡庁院には行政の事務的な仕事を行う中心施設の”正殿”があります。その他、宿泊施設である”館”や食料の保管や調理を行う”厨家”などの建物群が周辺にあります。郡庁院の西にある正倉院には租税として徴収した稲籾を納める”正倉”や大型の倉の”法倉”などがあります。これらは中央の広場を囲むように数棟が列になって建てられていました。正倉院全体は大きな溝で取り囲まれていました。

古代東海道と豊島郡衙

律令社会においては、中央からの命令を地方に、地方の状況を中央にいち早く伝達することを目的に道路を整備しました。地方の各国はそれぞれ七つの”道”というブロックにくくられ、その各国府を中継するように直線道路を造りました。武蔵国は宝亀二年(771年)に、それまでの東山道から東海道に編入され、相模国府から武蔵国府、そして下総国府へと向かう道路としての東海道が確立されました。豊島郡衙は武蔵国から下総国へ行く最短距離のルート上に位置しており、古代東海道がここを通っていました。




豊島氏は鎌倉幕府の成立にも大きく寄与しました。吾妻鏡には、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて豊島郡を領有した豊島清元に対し、源頼朝から参陣を促す書状が送られたとの記述があります。

鎌倉御家人・豊島氏の全国展開

この文書は元暦元年(1184年)、後白河法皇が武士による紀伊国(和歌山県)高野山領への課税の停止を、紀伊国守護人の豊島有経に命じたものです。鎌倉御家人・豊島氏一族は源頼朝に信頼され、紀伊国や土佐国(高知県)守護に任じられました。なお紀伊氏を名乗り京都に基盤をもつ豊島有経の一族は、後に幕府の禁令に触れて「豊島庄犬食名」(荒川区尾久と推定)を没収され失脚した本家の豊島時光に代わって、家を継いだ可能性が指摘されています。

源頼朝と豊島氏

諸国の武士たちが平氏への不満を強めるなか、治承四年(1180年)、源頼朝は平氏政権を倒す決意をしました。いったんは石橋山の合戦で破れた頼朝でしたが、房総半島に渡り関東の武士を配下に兵力を増やし武蔵国へと向かいました。武蔵国豊島郡を本拠とする豊島氏と同族の下総国葛飾郡の武士団・葛西氏はいち早く頼朝に味方し、頼朝の武蔵入国を助けたことが、「吾妻鏡」に記されています。頼朝は豊島氏の勢力地である「豊島御庄滝ノ河」にも陣を張ったと伝えられます。やがて鎌倉を拠点とする武家政権への第一歩が築かれました。

武士の起こりと秩父平氏

桓武天皇の子孫・平将常は武蔵国秩父郡に定着し、秩父氏を名乗る武士団を形作り、やがて荒川・入間川・多摩川などの大きな川沿いに一族を広げました。前九年の役(1051年〜1062年)・後三年の役(1083年〜1087年)で中央から派遣された源頼義とその子義家は、関東の武士を率いて戦い、秩父氏の一族豊島氏もこれに従いました。「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」には、後三年の役から帰る途中、豊島氏の館に泊まった源義家が鎧と十一面観音を豊島氏に与える場面が描かれ、中央の武士団のかしらである源氏と、豊島氏との結びつきが知られます。




鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて豊島氏の勢力は拡大していきます。

国人領主・豊島氏

江戸時代中期の旗本・豊島泰盈は、中世武士団豊島氏の子孫であることに誇りを持ち、中世古文書「豊島・宮城文書」をもとに豊島氏系図を作りました。この「泰盈本豊島氏系図」に記された古文書を見ると、豊島宗朝は南北朝時代、北朝方の足利氏に従い、(イ)豊島修理亮(景則)も鎌倉公方足利基氏に味方しています。(ロ)また豊島範泰の古文書によると、鎌倉公方足利持氏と上杉禅秀との戦いで豊島氏は持氏の配下になっています。(ハ)さらに豊島泰次の代に書き入れられた足利成氏の古文書には、豊島氏には「三河守」(ニ)と「勘解由左衛門」(ホ)を名乗る2つの系統の家があり、勢力をふるっていたことが分かります。

石神井川をさかのぼった豊島氏

鎌倉時代後期、石神井郷(練馬区)の地頭・宇多重弘には、男性の跡取りがなく3人の娘たちに領地が譲られることになりました。南北朝時代頃までは女性に財産権があり、やがてそれらの領地は結婚した相手先の家に伝わり、宮城政業の妻「箱伊豆」の領地は豊島宗朝が継ぎました。その結果、豊島氏は石神井川水源に近い三宝寺池周辺に石神井城を築き、拠点を移したのでした。




時は戦国時代に移ります。

北区の戦国時代
室町時代後期〜戦国時代

戦乱の続く室町時代、関東ではさまざまな勢力がしのぎを削り、新旧の武家が争いました。15世紀の末期になると平安時代から続く豊島氏は太田道灌に敗れ、その道灌も主君扇谷上杉氏によって討たれて、時代は戦国の世を迎えました。16世紀になると上杉氏から自立を目指した道灌の孫、江戸太田氏の資高は北条氏綱と結びました。その結果、北条氏は武蔵を手中に収めることに成功し、江戸太田氏は戦国大名北条氏の勢力下に入りました。

関東公方足利持氏と豊島氏

東国の行政機関の要であった鎌倉公方足利持氏は、新たに室町幕府六代将軍になった足利義教と対立し、代替わりで正長二年(1429年)を改元し「永享元年」としたことを認めず、正長元号を使い続けました。国人領主豊島氏の支配領域にあった北区堀船の福性寺には、この正長三年(1430年)銘の板碑があり、豊島氏が足利持氏の勢力下にあったことがうかがえます。南北朝時代から室町時代の戦乱の中で河越氏や江戸氏などの多くの伝統的な秩父平氏が滅びるなかで秩父平氏・豊島氏はたくみに関東の中世社会の中で命脈を保っていったのです。

戦国時代の北区の村

豊島氏を滅亡に追い込んだ太田道灌でしたが、その勢力を恐れた主君の扇谷上杉定正は、文明十八年(1486年)、道灌を暗殺しました。その後、上杉氏に代わり武蔵国で勢力を広げたのは戦国大名北条氏です。大永四年(1524年)、北条氏綱は兵を武蔵国南部に動かし、道灌の孫・太田資高は北条氏に味方しました。「小田原衆所領役帳」には、資高の子・康資の持っていた豊島郡の領地が記されています。北条氏は家臣に領地を与える時、領地の規模を銭の単位の「貫」で表示しました。これは家臣の所領高であり、また北条氏に仕える軍役高を意味しました。

豊島氏の滅亡と太田道灌

文明八年(1476年)、山内上杉氏内部の主導権をめぐって不満を持った長尾景春は、主君の山内上杉顕定に対して反乱を起こしました。景春に味方した豊島氏は、平塚城(北区)・練馬城・石神井城(練馬区)を中心に、江戸城と川越城を拠点とした太田道灌と対立しました。「太田道灌状」には、文明九年(1477年)の江古田・沼袋(中野区)合戦で豊島氏が道灌に敗れ平塚城・石神井城は落城、翌十年、当主の豊島勘解由左衛門尉は再挙を図ったものの、再び平塚城で道灌に敗れたことが記されています。




江戸時代に入ると、北区には将軍が日光東照宮に参詣するための日光御成道が整備されました。現在の本郷通りから都道460号中十条赤羽線を経て荒川を渡る道筋です。

日光御成道の風景
江戸時代

本郷通りの駒込・飛鳥山間、王子から中十条を経て赤羽へと続く道は昭和の初めまで一続きの道でした。もともとこの道は、徳川家康を祀っている日光東照宮に、命日の旧暦4月17日に江戸幕府歴代の将軍が参詣するために整備された街道でした。神田橋御門・本郷追分を通った後、駒込・西ヶ原一里塚・飛鳥山・稲付一里塚を経て岩淵宿に出ます。荒川を渡ると、川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿・岩槻宿を経て幸手宿の手前で千住宿からの日光街道に合流しました。

日光山道中図絵

江戸城から神田橋御門を経て日光東照宮に至る御成道筋を描いた鳥瞰図的な見取図です。「東照宮宝物誌」によれば、制作時期は安永から天保年間(1772年〜1843年)とされています。図中には御泊・御昼休・御小休・御供飲水置場・御馬口洗場の場所が印されてあることから将軍家社参に用いられた絵図であると推察できます。寺社、屋敷地、民家、道標、高札場、用水、橋、樹木(針葉樹・広葉樹・竹林・草地)などが非常に細かく描かれており、当時の街道筋の様子がよく分かります。展示に用いた部分は、第1帖の駒込地蔵堂から川口善光寺までの12折分です。




北区飛鳥山博物館には様々な民俗資料も展示されています。豪華なお花見弁当もあります。こんなにお御馳走を詰め込んだら、花見どころではありませんね。



「北区飛鳥山博物館」の隣に「渋沢資料館」があります。渋沢資料館は、渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年にかって渋沢栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に開館しました。渋沢栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵・展示し、関連イベントなども随時開催しています。旧渋沢庭園に残る大正期の2棟の建築「晩香廬」と「青淵文庫」の内部公開も行っています。

渋沢栄一とは

1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。農業・商業を営む実家を手伝うかたわら、尊王攘夷思想に傾倒しましたが、緑あって一橋慶喜の知遇を得て家臣となりました。1867年パリ万博で文明に触れ、感銘を受けました。帰国してからはその経験を活かし、民間の立場から約500社にのぼる株式会社・銀行などの設立、経営指導に尽力し、民間経済外交・社会公共事業に取り組み近代日本の経済社会の基礎を作りました。

渋沢史料館

渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年に開館しました。かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に建ち、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営しています。栄一の生涯と事績に関する資料を展示し、それにまつわるイベントなども随時開催しています。

晩香廬

落成:1917年 国指定重要文化財

1917年に栄一の喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設株式会社)より贈られた洋風茶室です。青淵文庫とともに、建築家・田辺淳吉の代表作です。渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用されました。

青淵文庫

竣工:1925年 国指定重要文化財

栄一の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、1925年に竜門社(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈しました。ステンドグラスや装飾タイルなどが書庫に彩りを与えています。書庫として建設されたことから全体的に堅牢で、鋼製の書棚などにも十二分にこだわった建築となっています。




博物館入口の脇には、渋沢栄一の石像が置かれています。

渋沢栄一像 小倉右一郎 年未詳

当財団の所有であった旧渋沢家飛鳥山邸の丸芝(現・東京都北区・飛鳥山公園旧渋沢庭園内)の縁に置かれていた石像。平成九年(1997年)の渋沢史料館本館新築時に現在地に移動、設置されました。制作年代、経緯は不明ながらも、晩年の栄一の面影をよく伝える作品です。小倉右一郎(1881年〜1962年)は香川県出身の彫刻家。東京美術学校彫刻家本科を卒業後、東京で活動しました。作域は、歴史的人物から肖像彫刻にまで至る人物像で、大正から昭和初期にかけて高い評価を得ます。また、ブロンズだけでなく大理石、花崗岩、セメントを素材とし、日本初のセメント彫刻である日本工業倶楽部正面に掲げられた「坑夫と織女の像」は、現在もなおその姿をとどめています。大正五年(1916年)、小倉は、新築の東京銀行集会所に長年同所会長を務めた栄一の喜寿祝いとして建立するためのブロンズ製栄一胸像を制作。さらに大正十四年には長年にわたる東京市養育院に対する功労を記念して建立されたブロンズ製栄一座像の原型を手掛けました。




館内には、渋沢栄一の生涯を解説した夥しい数のパネルが展示されています。あまりの業績の多さにとても紹介しきれません。



渋沢資料館を出て、「旧渋沢庭園(晩香廬・青淵文庫)」に向かいます。

ポイント8 旧渋沢庭園(晩香廬・青淵文庫)

「飛鳥山公園」の東側の入り口横に渋沢栄一が住んだ邸宅の案内板が立っています。

旧渋沢家飛鳥山邸

飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛烏山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入り口となる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣工の「青淵文庫」、この二棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして、「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督Lています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建造物)に指定されました。




「晩香廬」は、国内外の賓客を迎えるレセプションルームとして使用された重要文化財で、渋沢栄一の喜寿の祝いとして贈られたものです。お祝いとしては破格の品ですね。

国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 晩香廬

近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設梶jの清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ、壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の秩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。




室内には豪華な調度品が置かれています。

渋沢栄一が暮らした地

栄一は1879年、飛鳥山の地に賓客接待用の別邸をかまえました。以後、庭園内を整備し、日本館、西洋館、茶室、文庫などを建設しました。1901年からは飛鳥山の邸宅に移り住み、1931年に、91歳で亡くなるまで本邸として使用しました。その後、1945年4月の空襲により、建物の多くを焼失しましたが、晩香廬、青淵文庫など一部は現存します。




暖炉の上には、渋沢栄一と最初の妻である千代との間に生まれた長女で歌人の穂積歌子が記した撰文を篆刻した額が掲げられています。撰文は、清水組と渋沢栄一の関係を録したものです。歌子は、宇和島藩士族の穂積陳重に嫁ぎ、長男穂積重遠を始めとする4男3女を産み育て、「良妻賢母の鑑」といわれたました。

ここが見どころ!
復原したカーテンとロールスクリーン

晩香廬に取り付けられているカーテンとロールスクリーンは、復原製作をしたものです。では創建時、どのようなものが掛けられていたのでしょうか?当館に残る資料には、カーテンについて以下のように記されていました。

一、窓掛 麻琥珀地艸花紋様無雙仕立 壱ヶ所
  麻琥珀地艸花紋様窓用 壱ヶ所

そして、創建時の写真を見ると談話室・南面の出入口の窓には麻地のような薄手のカーテンとロールスクリーンやカーテンレールなどがはっきり写っています。カーテンやロールスクリーンの復原製作にあたっては、創建時の写真や資料の記述が大きなヒントとなりました。たとえば、談話室南面の大きな窓のカーテンの裂地は、資料によると「麻琥珀地艸花紋様無雙仕立」とあるように、薄手の麻の無地の裂地を無双=リバーシブルで仕立てていたことがわかります。また色調は、談話室の雰囲気にふさわしい琥珀色が選ばれていました。さらに写真を見ると、裂地の左右の端に蔓草(つるくさ)の連続模様が施されていることもわかります。このように現存するわずかな資料を丁寧に分析し、カーテンの復原を行いました。一方のロールスクリーンも復原したものです。当時のロールスクリーンの裂地は綿製で、アメリカから輸入したことが判っています。カーテンと同様に室内に差し込む直射日光を遮る日除けとして使用されましたが、裂地の劣化が著しく、また軸部のスプリングに狂いが生じていることから、古写真に倣って復原をしています。




出窓から庭園を眺めますと、渋沢栄一の銅像が見えます。



晩香廬を見渡すように、北区に残る唯一の渋沢栄一の銅像が建っています。この銅像は頭取栄一翁の還暦を祝って第一銀行行員一同が建てたものです。明治三十五年に第一銀行の中庭に設置されましたが、大正十二年の関東大震災で第一銀行本店が羅災し、世田谷清和園という保養施設に移され、その後、昭和三十一年に現在地に移されました。銅像の高さは151cmで、等身大とのことです。意外と小柄だったんですね。

第一銀行頭取男爵渋澤栄一・・・(以下判読できず)



「青淵文庫(せいえんぶんこ)」は、渋沢栄一の傘寿(80歳)のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて、竜門社(渋沢栄一記念財団の前身)が寄贈した煉瓦および鉄筋コンクリート造の建物です。大正十四年(1925年)に竣工し、渋沢栄一の書庫として、また接客の場としても使用されました。渋沢家の家紋「丸に違い柏」に因んで、柏の葉をデザインしたステンドグラスやタイルが非常に美しい洋館です。当初収蔵されていた「論語」をはじめ多くの漢籍は昭和三十八年(1963年)に渋沢家から都立日比谷図書館に寄贈され、現在は都立中央図書館に所蔵されています。

国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 青淵文庫

渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。




雫真由美氏が制作したステンドグラスのレプリカが展示されています。

青淵文庫ステンドグラス複製

雫 真由美
平成十五年

【製作者 雫 真由美氏のメッセージ】
「青淵文庫」のステンドグラスレプリカを製作させて頂き、光栄に思っております。大正ロマンあふれる作品ですので、いざ製作にとりかかりますと、精緻なデザイン、色使いの巧みさ、80年前の時代に手作業でよく行ったものだと、当時の技術力の高さに感心いたしました。渋沢栄一先生の活躍された時代に思いを馳せながら、楽しく、時には技術的な面で悩みつつも、製作を終えることができました。




応接室には立派な調度品が揃えられ、渋沢栄一の日常の様子を記したパネルが貼られています。

栄一の日常
栄一が自らの日常について語った文章から、その皹を垣間見る。

凡そ多忙といふ点に就いては、余は大抵の人に劣らぬであらう。

朝は普通六時に起き、夜は十二時頃に寝ることにしてあるけれども、仕事の都合で十二時過ぎになることも珍しくない。起床後は必ず直に湯に這入るが、入浴すれば精神爽快にして元気頓に加はるの思がする。次に庭園を散歩すれば、澄んだ空気を呼吸し、心身を養ふことが出来て非常によいのであるが、殆どそれの出来ないのは遺憾である。新聞も一と通り見ねばならぬ。朝飯も喰はねばならぬ。殊に毎朝来る手紙は如何に少い日でも必ず三四通はあるので、それにも一一返書を認めねばならぬから、庭園の散歩などは仕度くても殆ど其の暇が無い。

其の中に二三の来客が見える。来れば必ず逢うて語る。余の主義として時間の許す限り客を辞したことがない。病中とか精神不快の場合、人に逢ふのが辛いと感ずる時は仕方もないが、病中でも尚客と語るを楽として居る。併し金を強請されるなどは際限もないことであるし、また揮毫の催促などは余が面会しなくとも用が弁ぜられるが、其の他の人は貴賤貧富を問はず、必ず面会して、相手の意見なり、希望なりを聞き、応じ得ることなら相談にも与り微力をも致して居る。

毎日の用事の予約は塗板に認めてあるから、約束の時間が来れば外出する。通常十一時頃には兜町の事務所へ出る。事務所にも既に客が待つて居る。又引続いて来る者もあるといふ風で、独座して緩りと書物を読むやうなことは、月に一回あるか無しである。斯くて少し客が絶えた時は、日々接手する幾十通の手紙に返書を認めるが、手紙の返事は多く自分で作って代筆させることは少い。といふのは、一言一句不穏当の辞があつても先方の誤解を起す基となるから、仮令忙しくとも、字句を丁寧に文言を優美に書くことを努めて居る。

夜は宴会、相談等の為に十時過までかゝることが多く、一家団欒して食事を共にすることは、月の中に五六日しかない。外の用事が済んで帰邸してからは、或は新聞雑誌を読んだり、或は人に読ませて傾聴したりする。これは一と通り社会の風潮を知つて置かなければならぬからである。拙筆ではあるが揮毫を依頼されたものが常に三四百枚はあつて、時々催促を受けるのであるが、紙に臨めば精神も落着き、愉快を感ずるのであるけれども、其の時間さへない。こんな風で毎日寸暇もなく追ひ廻されて居る。




旧渋沢庭園(晩香廬・青淵文庫)を出た先に「西ヶ原一里塚」があります。

ポイント9 西ヶ原一里塚

現在の本郷通りは江戸時代の岩槻街道の道筋にあたり、日光東照宮への将軍社参の道として日光御成道とも呼ばれました。江戸時代に各街道に置かれた一里塚ですが、都内では中山道に置かれた志村一里塚と本郷通りの「西ヶ原一里塚」が現存しています。西ヶ原の一里塚は左右一対が現存するだけでなく、左右の塚が旧来の位置のまま保存されているという点で、都内では唯一の一里塚といわれています。西ヶ原の一里塚を挟んで左右に本郷通りの上下車線が分かれていますが、挟まれた中央の塚と通りの右手にある塚との間が旧岩槻街道の道幅ということになります。大正初期に、西ヶ原の一里塚と榎は東京市電の軌道敷設で撤去の危機に瀕しましたが、渋沢栄一をはじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存に成功しました。



一里塚の上に案内板が立っています。現在でも散見される歴史的建造物の保存運動にも通じるものがありますね。

二本榎保存之碑

一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長・滝野川町長・地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された複は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。

二本榎保存之碑
公爵徳川家達題

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり。之を二本榎と云ふ。是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす。往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか、徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植え、里毎に塚を置き塚には榎を植えしむ。之を一里塚と云ふ。然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず、今存するもの甚少し、二本榎は実に其存するものの一なり。先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり。一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが、幸にして市の当事者・学者・故老の言を納れ、塚を避けて道を造り、以て之を保存せんとの議を決したり。法学博士男爵阪谷芳郎君、東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り、瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり。男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し、篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ、以て飛鳥山公園の附属地となせり。阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す。今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め、慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり。又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり。乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し。惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく、以て国民の文野をトすべし。幕府治平を講ずるに当り、先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて、帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり。老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん。後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん。

大正五年六月 文学博士 三上参次撰
            阪正臣書



(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用いたるものなり。虎の門は慶長年間に始めて築造せられ、其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり。今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり。
(一部原文を現代かな漢字に直しています)




こちらの案内板は、「二本榎保存之碑」を今様に補足しています。

西ヶ原一里塚

慶長九年(1604年)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から教えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正五年六月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。




西ヶ原一里塚の脇から延びる参道を進んで、「七社神社」に向かいます。

ポイント10 七社神社

七社神社は旧西ヶ原村の鎮守で、渋沢栄一は同村内に飛鳥山邸を構えたことをきっかけに氏子になりました。現在も渋沢栄一揮毫の社額・掛け軸等が神社に納められています。



七社神社は、明治元年(1868年)に神仏分離令により無量寺から独立し、翌年に一本杉神明宮の地に遷座しました。

七社神社

七社神社の祭神は、伊邪那岐命・伊邪那美命・天児屋根命・伊斯許理度賣命・市寸島比賣命・帯中日子命(仲哀天皇)・品陀別命(応神天皇)です。由来については、寛政五年(1793年)の火災により、社殿古記録一切が焼失したため、よくわかっていません。「新編武蔵風土記稿」には「村ノ鎮守トス・・・」と記され、また、「江戸名所図会」には、無量寺の高台に描かれ、再建後も別当寺であった無量寺の境内に祀られていたことがわかります。明治はじめの神仏分離に際して現在地である一本杉神明宮社地に移され、西ヶ原村の総鎮守として奉祀されるに至りました。末社には天祖神社(一本杉神明宮)・稲荷神社・熊野神社・菅原神社・三峯神社・疱瘡社があります。一本杉神明宮は、もともとこの地にあった神社ですが、七社神社の移転により、末社となったものです。現在、切株が残っている杉の古木は、その神木です。旧社務所は、村の青年会の発起で、渋沢栄一・古河虎之助を筆頭とする諸氏の寄付により、大正九年(1920年)に建てられたもので、公会堂を兼ねたものでした。この境内から隣地にかけての一郭は、七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器・弥生式土器・土師器などが発見されています。




七社神社は子宝(子授け)祈願の神社として知られています。御祭神の伊邪那岐命と伊邪那美命は、日本の国土を生んだ夫婦の天津神で、多くの神々を生み出し、子宝の神としても崇敬されています。国生み・神生みの神徳から、子宝や安産にも御利益があるとされています。七社神社の狛犬は「子守犬」と呼ばれ、向かって左側の雌・右側の雄共に、子宝・安産・家庭円満のご利益があるとされています。左の雌の子守犬をお母さんが、右の雄をお父さんが撫でて拝むことで子宝のご利益にあずかるといわれています。左右の子守犬と共に、懐に抱かれている子犬の頭を撫でることでも子宝のご利益にあずかるといわれ、左の子犬を撫でると女の子が、右の子犬を撫でると男の子の子宝に恵まれるといわれています。


左側が雌(母)、右側が雄(父)の狛犬です。


もうひとつは、「腹籠りの椎」です。境内に入った左手にある椎木は、子を宿した妊婦さんのお腹のように膨れており、ここを撫でることで子宝・安産のご利益にあずかるといわれています。椎木は実(どんぐり)を多くつけることから、子孫繁栄・生命力の象徴ともされています。



更に、御神木の「願掛け公孫樹(銀杏)」も子宝の御利益があるとされています。銀杏は多くの実をつけることから、子宝・子授けの象徴とされています。その立派で神々しい姿からも力強さ、生命力を感じることができ、七社神社の御神木として守られています。



境内には末社として天祖神社(一本杉神明宮)が祀られています。一本杉神明宮は、元々は此の地に祀られていた神社ですが、七社神社の遷座により末社となりました。

旧一本杉神明宮社地

現在の七社神社の社地は、かつては神明宮の社地でした。神明宮は、天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから、一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年に七社神社がこの地に移転してきたことにより、神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治四十四年(1911年)に地上三、四メートルのところを残して伐採されましたが、現在もその切株は残っています。七社神社は、江戸時代には七所明神社といい、西ヶ原村の鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は、紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものといいます。詳しい由来は、寛政五年(1793年)の火災によって、社殿をはじめ古文書・古記録等を焼失したためよくわかりません。神仏分離によって、明治初年に現在地である神明宮社地に移されました。現在の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度賣命、市寸島比賣命、品陀別命、帯中日子命の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に、末社として稲荷神社・菅原神社・三峯神社・熊野神社・疱瘡社があります。




当時の一本杉の御神木は古木として現在も社奥に切株が残っています。

一本杉神明宮之記

神明宮の御祭神は皇祖天照皇大神様で、御創建の年代は不詳ですが、この御神木「一本杉」は樹令壱千年を経た古木で、地元の人々又岩槻街道を往来する旅人の信仰篤く、田端の「争の杉」と共に名高いものでありました。ところがこの「一本杉」は明治四十四年、ついに枯れ、氏子総代及崇敬者の方々の協議により地上より幹を十数尺のこして伐木しました。これが神明宮の御神木「一本杉」の古株です。




「枯松を祭る文の碑」は、渋沢栄一が飛鳥山公園近くの別荘の庭にあった松が枯れたことを悲しみ、1911年に建てました。文章は漢学者の三島中洲に依頼しました。三島中洲は、渋沢の妻千代が亡くなったときも墓碑銘文を頼まれています。松は樹齢数百年、樹高数十メートルで、碑文では擬人化されています。碑は渋沢栄一の別荘の庭にありましたが、2020年12月に、渋沢栄一が氏子であった七社神社に移されました。

枯松を祭る文の碑

渋沢栄一が、「飛鳥山別業南園」にあった松が枯れたことを深く悲しみ、友人の漢学者・三島中洲に文章の作成を依頼、自ら揮毫して建てた碑です。建立は明治四十四年、その後同地を購入して移り住んだ増野家の所有となりました。昭和二十年の空襲で大きな傷を受けるも、地域の歴史を伝える遺産として大切に守られ、令和二年に寄贈を受けた七社神社が境内に移設しました。明治十二年、栄一は飛鳥山の一角に別荘を構え、同三十四年以降本邸とします。現在の本郷通りを隔てた側の庭には老松があり、栄一は、天に届くかのようにまっすぐ伸びたその姿を愛していました。しかし、工場の煙突からの煙によって松は枯れてしまいます。のちに栄一は「愛樹を枯死せしめたるは遺憾至極なれど、其害を与へたる煙は、明治初年より渋沢が振興せしめたる商工業並に交通機関の発達の結果なれば、渋沢の庭園が此煙の為めに害を受け其愛樹を失ふも、自ら慰むる所なかるべからず」と語っています。ちなみに、渋沢栄一はここ七社神社を地域の神社として、その鎮守神を崇敬していました。同社には今もなお、栄一揮毫の社額が掲げられています。




七社神社を出て、「旧古河庭園」に向かいます。

ポイント11 旧古河庭園

「旧古河庭園」は、大正八年(1919年)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として整備され、洋館・西洋庭園・日本庭園から成っていました。洋館と西洋庭園の設計は、鹿鳴館やニコライ堂などを手掛けたイギリス出身の建築家ジョサイア・コンドルが行ないました。昭和三十一年(1956年)に国から東京都が借り受けて都立旧古河庭園として開園し、一般公開されています。バラ園には約100種199株のバラが植えられ、東京のバラの名所として親しまれています。

国指定名勝 旧古河庭園

和と洋が調和する優雅な趣
旧古河庭園は、10大財閥のひとつに数えられた古河家の本邸として、大正八年(1919年)に完成しました。その特徴は、武蔵野台地の高低差を巧みに利用した日本庭園と洋風庭園の見事な調和にあります。洋館と洋風庭園の設計は、日本において数々の洋風建築を手がけた英国人建築家のジョサイア・コンドル(1852年〜1920年)。回遊式の日本庭園と茶室に伴う露地は、京都の名庭師・植治こと7代目小川治兵衛(1860年〜1933年)によるものです。現存する近代の庭園の中でも極めて良好に保存されている数少ない事例として平成十八年(2006年)に国の名勝に指定されました。

Place of Scenic Beauty Kyu-Furukawa Gardens

Elegance created from the harmony of Japanese and Western styles Kyu-Furukawa Gardens was completed in 1919 as the main residence of the Furukawa family, one of Japan's ten major zaibatsu conglomerates. The main characteristics of this garden are the wonderful harmony between the Japanese-style and Western-style gardens that take excellent advantage of the differences in elevation of the Musashino Terrace. The Western-style residence and garden were designed by Josiah Condor (1852-1920), the English architect who designed many western-style buildings in Japan. Ogawa Jihei VII, also known as Ueji (1860-1933), a famous designer of Japanese gardens from Kyoto, created the Circuit-style Japanese garden and Tea garden, which features a chashitsu, or tea house. Kyu-Furukawa Gardens was designated by the national government as a place of scenic beauty in 2006, as an example of an extant modern-period garden that has been extremely well preserved.




洋館は大正六年(1917年)5月竣工し、延べ414坪・地上2階・地下1階で、外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされています。屋根はスレート葺きで、煉瓦造の躯体を黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)の野面積みで覆っているのが特徴的です。南側の庭園から見た外観は左右対称に近く、両脇に切妻屋根を据え、その間の部分は1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダが設けられ、屋根にはドーマー窓を乗せています。全体的に野趣と重厚さに溢れ、スコットランドの山荘の風情を感じさせます。

旧古河邸(大谷美術館)の概要

大谷美術館は、鉄鋼業・ホテルの経営で知られる大谷米太郎(1881年〜1968年)が晩年に計画し、実現を見ずして世を去った事業です。大谷米太郎は、富山県の農家から身をおこし、無学文盲にもかかわらず努力を重ね、日雇人足から大相撲力士、酒屋の経営を経て、大谷重工業、ホテルニューオータニ、テーオーシー等多くを起業した立志伝中の人物と言われています。古河財閥が戦後の財閥解体によりこの屋敷を手放すことになり、当時、大谷重工として取引のあった大谷に購入の話が持ち掛けられた経緯があり、現在は(公財)大谷美術館が管理運営しています。公益財団法人大谷美術館は、初代理事長大谷哲平・常務理事大谷利勝により昭和五十六年(1981年)に設立されました。この素晴らしい建築を、美術館として多くの方に見ていただきたいと考え、修復と公開を決めました。旧古河邸本館は、(公財)大谷美術館が昭和五十八年(1983年)から6年間をかけて東京都の助成を得て修復を行い、平成元年(1989年)より一般公開されています。本館建物と西洋庭園は、明治政府のお雇い外国人として来日した、イギリス人建築家のジョサイア・コンドルによる設計で、大正六年(1917年)5月に竣工しました。ジョサイア・コンドル最晩年の作品で、洋館内部に和室(2階)を完全な形で取り込むことで、和と洋の調和・共存を実現した極めて珍しいプランとなっています。




玄関扉にはステンドグラスが設けられ、古河家の家紋である鬼蔦のデザインがされています。1階は食堂・ビリヤード室・喫煙室などの接客空間で、全て洋室になっています。2階は家族の居室など私的空間で、ホールと寝室が洋室である以外はすべて畳敷きの和室になっています。1階の一部には喫茶室が設けられていて、春と秋には窓越しにバラ園を望みながらお茶を飲むことができます。館内は撮影禁止ですので、ここでは紹介できません。



洋館を囲むように洋風庭園があり、今の時期薔薇が咲き誇っています。



それぞれのバラの花には名前が付けられています。純白の花びらをしたダイアナ王妃のバラもあります。東洋のダイアナの名前は見当たりませんが。



全体的には、斜面に石の手すり・石段・水盤などが配され、バラ園のテラスは階段状に連なっていて、立体的なイタリア式庭園となっていますが、テラス内部は平面的で幾何学的に構成されるフランス式庭園の技法が併せて用いられています。バラのテラス庭園は、1段目の花壇は正しく左右対称形ですが、2段目から中央の階段を挟んで左右に方形の植え込みとなっている花壇東側の方形は北東部が斜面突出部によって欠けています。これはコンドルが敷地下部の日本庭園との調和をはかるため意図的にバラ園の対称形を崩したものと推測されています。現在、バラ園には、約100種199株のバラが植えられています。



3段目のテラスは非整形的なツツジ園となっていて、手前の西洋庭園と奥の日本庭園との連続性をもたせる仕組みになっています。


季節は合いませんが。


日本庭園は、洋館・洋式庭園の完成に続いて、大正八年(1919年)に完成しました。京都の造園家である七代目小川治兵衛の作です。斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園で、シイ・モチノキ・ムクノキ・カエデなどの鬱蒼と茂った樹林の中、「心」の字を崩した形の心字池を中心に、急勾配を利用した大滝、枯山水を取り入れた枯滝、大きな雪見灯籠などが配されています。心の草書体をかたどった心字池は、鞍馬平石や伊予青石などで造られ、池を眺める舟付石、正面には荒磯、雪見灯籠、枯滝、石組み、背後には築山が見られます。枯滝は、心字池の奥の渓谷の水源を模しています。大滝は、園内で最も勾配の急な箇所を削って断崖にし、曲折した流れから発し、数段の小滝を経て、十数メートルの高所から深い滝壺に落ちています。

大滝 "Otaki" waterfall

この滝は、本郷台地と低地の斜面を巧みに利用した、七代目小川治兵衛の最も力を入れた場所の一つであり、滝壺まで8m(全長20m)落ちる景観は氏の作風の中でも珍しく丘陵幽玄の境地を如何なく発揮している。




旧古河庭園を出て、ゴール地点の上中里駅に着きました。



ということで、北区で八番目の「北区ゆかりの偉人 渋沢栄一翁コース(王子〜上中里)」を歩き終えました。次は、北区で九番目の「桜ウオークコース(北区役所〜北区役所)」を歩きます。




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