桜ウオークコース(北区役所〜北区役所)  

コース 踏破記  

今日は北区の「桜ウオークコース(北区役所〜北区役所)」を歩きます。北区役所をスタート地点として、石神井川の右岸・左岸の遊歩道を巡ります。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年6月に改めて歩きました。なので、晩秋と初夏の写真が入り交じっています。

桜ウオークコース(北区役所〜北区役所)

石神井川沿いに咲いた満開の桜の花を楽しみながら、まちなかでの少し長めのロングウォーキング。北区の桜の花を満喫して、お花見気分でコースを歩くことができます。

「桜ウオークコース(北区役所〜北区役所)」の歩行距離は約6.5km、歩行時間は約1時間40分です。

スタート地点:北区役所
ポイント1 寿徳寺
ポイント2 音無こぶし緑地
ポイント3 加賀第二公園
ポイント4 帝京大学板橋キャンパス
ポイント5 板橋(橋の名前)
ポイント6 加賀公園
ポイント7 音無もみじ緑地
ポイント8 紅葉寺

ゴール地点:北区役所


スタート地点の北区役所から寿徳寺に向かって歩き始めます。


ポイント1 寿徳寺

石神井川に架かる観音橋の袂に巨大な観音様が鎮座しておわします。谷津大観音は、2008年に寿徳寺の境外仏として建立されました。

谷津大観音は、南照山観音院寿徳寺第二十四世住職新井慧誉和尚の発願によるもので、第二十五世新井京誉がその志を引き継ぎ寿徳寺の寺域である当地に建立着手しました。寿徳寺がまつる御本尊は聖観世音菩薩であり谷津の観音様として親しまれておりますことから谷津大観音と称します。大仏を正面から拝せる、石神井川にかかる観音橋のたもとから一筋の光明が生まれることでしょう。



寿徳寺は、鎌倉時代に此の地を訪れた武士によって本尊の観世音菩薩を安置したことに始まるといわれています。本尊は谷津子育観音です。

谷津子育観音

南照山観音院寿徳寺の本尊である谷津子育観音は、木造の観音菩薩坐像です。この観音像は谷津観音と通称され、江戸時代の地誌には子安観音とも、また、聖観音とも記されています。寺伝では、鎌倉時代の初期、早船・小宮の両氏が主家の梶原氏と争い、追われて落ちのびる途中で水中から拾いあげ、これを石神井川の川沿いの堂山に安置したのだと伝えられています。像の姿は蓮華座に坐り、両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結んでおり、現在は秘仏となっています。寿徳寺は江戸時代から城北地域の江戸西国三十三番観音札所の第十二番目の巡礼地にあたり、近江国(滋賀県)岩間寺の霊験と同じ功徳をもつものとして多くの人々が訪れています。境内に切株から芽吹いている銀杏があり、昔、飛鳥山付近からも眺められたほどの巨木でした。この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出るようになるという信仰もあります。こうした信仰は昭和の初期にも盛んだったようで、河東碧梧桐の俳句に「秋立つや子安詣の花の束」という句があり、また、寺野守水老も「我妹子と子安に詣る小春かな」(小林鶯里編「東京を歌へる」昭和五年)という句を詠んでいます。




幕末には、新選組の近藤勇他隊士達の菩提寺となり、近藤勇の処刑後は、板橋駅傍にある近藤の墓地(寿徳寺の境外墓地)の管理と命日の4月25日前後に墓前で法要を行っています。新選組隊長の近藤勇は、慶応四年(1868年)4月25日に板橋刑場で斬首の刑を受けました。近藤勇の首は京都に送られて三条河原に晒され、胴は現在の北区の滝野川に埋葬されたと言われています。板橋駅傍の墓地は、生き残った新選組隊士の永倉新八が発起人となり、1876年に建てられました。敷地には、近藤勇の墓の他、土方歳三や新選組隊士の供養塔もあります。また1929年には、永倉の墓も同じ敷地に建てられました。

新撰組隊長近藤勇菩提寺

近藤勇は新選組を組織し、幕府の側から京都の守護に当たり、流山で官軍に補まって、慶応四年四月廿五日丗五歳で板橋宿平尾にて斬首され、胴体がJR板橋駅東口の当山境外墓地に埋葬されたが、百二十三回忌に当る本年、本人所特の短刀発見をも記念してこの石碑を境内に、また本人肖像石板を境内及び境外墓地に建立し、菩提を弔らうものである。(詳細は寺報通巻171号参照)




寿徳寺から石神井川の遊歩道を歩いて「音無こぶし緑地」に向かいます。

ポイント2 音無こぶし緑地

北区と板橋区の境界付近の石神井川は、かってはくねくねと曲がる流路が連なっていました。1960年代から1970年代にかけ、洪水対策でこれらはショートカットして直線化され、川も掘り下げられました。これらのショートカットして石神井川から切り離された跡地を利用した小緑地の中のひとつが「音無こぶし緑地」です。音無こぶし緑地は、ちょっとしたベンチなどがある以外は何もない小さな広場になっていて、ちょっと一息ついて休める場所になっています。



音無こぶし緑地から「加賀第二公園」に向かいます。加賀第二公園は北区ではなく、板橋区にあります。付近には「加賀二丁目公園」という似た名前の公園がありますので、間違えないようにしましょう。



ポイント3 加賀第二公園

加賀第二公園は石神井川の川沿いにあり、春になると川沿いから公園まで満開の桜が楽しめ、お花見シーズンには人気の場所になっています。川沿いの遊歩道や道路から園内に入る通路はツツジや木々で囲まれ、まるで緑がつくり出した迷路のようになっています。複合遊具などの遊具もあり、他の公園とはちょっと違った雰囲気を楽しめます。



公園の中央に、正岡子規の句碑が建っています。それに倣ってか、遊歩道には愛好家の句を集めた掲示板が立っています。「若鮎の二手になりて上りけり」は石神井川でなく、正岡子規の故郷である愛媛県松山市を流れる石手川と重信川の合流地点の出合の渡し船で詠まれた句です。若い鮎が両方の川の合流地点で二手に分かれ、さらに遡上を続けていく様子を詠んだものです。鮎という魚は川の下流域に産み付けられた卵から孵化し、海に出て海で育ちます。そして、春(2〜3月頃)から群れをつくって川を遡ります。この時期の鮎を「若鮎」と言います。ここに句碑が建てられた経緯がよくわかりませんね。



加賀第二公園から「帝京大学板橋キャンパス」に向かいます。

ポイント4 帝京大学板橋キャンパス

帝京大学板橋キャンパスは、医学部・薬学部・医療技術学部の医療系学部を集約した「チーム医療」を実践的に学ぶ環境が整備されています。隣接する最先端の設備を誇る医学部附属病院のもと、豊富な実習を通じて総合的かつ実践的に最新の医療を学ぶことができます。入試センターや大学本部なども隣接し、帝京大学の中枢機能が集約されています。大学棟は2012年3月に竣工し、清水建設が工事を行ないました。



石神井川に面して、帝京大学医学部附属病院の巨大な建物が建っています。地下2階〜地上19階、延床面積約11万uという規模で、1、154床を有する日本最大級の大学病院です。施工は鹿島建設が担当し、2008年11月に竣工しました。開院は2009年5月で、救命救急センター・ER・総合周産期母子医療センターなどを擁し,救急・急性期病院として地域医療に貢献しています。免震構造を採用し、屋上にヘリポートを設置するなど、災害拠点病院としての機能も果す他、医学部・薬学部・医療技術学部学生の実習現場にもなっていて、医師育成の役割も担っています。



帝京大学板橋キャンパスから石神井川を更に進み、「板橋(橋の名前)」に向かいます。

ポイント5 板橋(橋の名前)

「板橋」は、旧中山道が石神井川を渡る地点に架けられた橋で、板橋の地名の由来となったといわれている橋です。

板橋

板橋の地名は、「源平盛衰記」、「義経記」などの鎌倉から室町時代にかけて書かれた軍記物に登場することから、平安末期にはすでに知られていたことになります。当時の橋が具体的にどの橋を指しているかははっきりしませんが、一般には、中山道が石神井川を横切る板橋宿の中宿と上宿に架けられた板橋を指していると言われています。




板橋は、日本橋から10、642mの地点にあるそうです。

板橋

この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治二十二年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和七年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政十年(1798年)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正九年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和七年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和四十七年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。




板橋は、「板橋十景」のひとつにも数えられています。



板橋から石神井川の遊歩道を戻り、加賀公園に向かいます。加賀公園も板橋区の公園です。

ポイント6 加賀公園

加賀公園は、加賀藩前田家の下屋敷内庭園にあった築山の跡地に造られました。明治時代から終戦までは、此の地に火薬を製造する板橋火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所)がありました。

加賀藩前田家の下屋敷跡

江戸時代、中山道の板橋宿の東側に21万坪という広い敷地の加賀藩前田家の下屋敷がありました。本公園は、その下屋敷の跡地に作られています。




公園の中に、公園の歴史を記した案内板が立っています。

加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜

江戸時代に成立した参勤交代制度により、大都市江戸には日本各地から多くの大名が集まり、その家族や藩士、奉公人などとともに日常生活を送っていました。そして、各大名に対しては、将軍より屋敷地が下賜されました。延宝八年(1680年)の段階で、加賀藩前田家は本郷邸(現:東京大学周辺)を上屋敷に、駒込邸を中屋敷(現:本駒込六丁目周辺)に、板橋宿に面する平尾邸(現:加賀二丁目、板橋三・四丁目周辺)を下屋敷に定めています。上屋敷は藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は隠居した藩主などの住居に利用されました。下屋敷の平尾邸は、約二万八千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷でした。邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が展開してい ました。その規模は本国金沢にある有名な大名庭園、兼六園の約七倍の広さがあります。平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、かれらが保養や散策に訪れ、時には鷹狩や花火などが行われました。また、幕末には園遊会も催され、その席に招かれた松平容保をはじめとする会津藩の人びとは、邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ」と表現しています。なお、当邸が中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場としても利用されました。また、その家族や家臣による送迎の場にもなっていました。邸内には与力を筆頭に50人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理していました。彼らは代々平尾邸に在番し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地域の名主などの娘と婚姻関係を結ぶ人もいました。なかには板橋宿の寺子屋の師匠として、地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られます。幕末になると、加賀藩も世情の影響を受け、邸内でオランダ式ゲベール銃を使った調練を実施しています。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っています。明治期以降には、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用し火薬を製造する、板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠)となります。なお、現在、平尾邸の面影は、わずかにここ加賀公園に残る築山の一部だけとなっています。




案内板の隣に、ステンドグラスを飾った記念碑が建っています。

板橋区と金沢市との友好交流都市協定締結記念

板橋区は、平成二十年七月九日の金沢市との友好交流都市協定締結を記念し、加賀藩江戸下屋敷の築山にあたる加賀公園に、この記念碑を設置しました。モデルとしたのは、金沢のシンボルともなっている尾山神社神門第三層のステンドグラスです。

尾山神社 神門

尾山神社は、加賀藩祖前田利家公並びに、その夫人お松の方を奉斎する神社で、二代藩主前田利長公が、慶長四年十二月に金沢城の鬼門にあたる卯辰山麓に、利家公の霊を祀る卯辰八幡社を建立したのが始まりとされています。その後、金沢市の中心部にあたる現在地(石川県金沢市尾山町十一番一号)の旧金谷御殿跡に、明治六年社殿が新設され、神霊を遷座し社名も尾山神社と改められました。国の重要文化財として指定されている尾山神社の神門は、社殿造営後の明治八年に建立されました。和漢洋の三洋式を混用した異色の門として早くから全国に知られ、兼六園と共に金沢のシンボルともなっています。オランダ人ホルトマンの設計との説もありますが、棟札によると、建築総管は藤田貴知であり、工匠長は津田吉之助とあります。第一層には戸室石、俗称加賀花崗岩を用いてあり、第三層は四面五色のギヤマン張り(ステンドグラス)で、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する帆船の目標とされたものです。なお、第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものと言われています。




公園の外周に沿ってコンクリート敷の通路が延びています。かっての線路の跡だそうです。

電気軌道(トロッコ)線路敷跡

区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。軌道は、北区十条の銃包製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治三十八年(1905年)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治四十年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正十二年(1923年)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。なお、板橋火薬製造所は昭和十五年(1940年)に東京陸軍第二造兵廠(二造)に改組されています。また、この軌道は幅が750mmの珍しいもので、そこを走る電気機関車は、その車体の形状から「だるま電車」とも、走りながら鐘を鳴らしたことから「チンチン電車」とも呼ばれていました。




石垣の上にコンクリートの塊が乗っています。戦前には、弾丸の標的に使われていたのだそうです。

弾道検査管(爆速測定管)の標的

区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和十五年以降は東京第二陸軍造兵廠=二造)内におがれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径68.6mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。これば、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前の二造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。戦後、旭化成などの創業者である野口遵が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。




築山の上は小さな広場になっていて、休息用の腰掛けが備えられています。周囲に樹木が繁っているので、眺望はあまり良くはありません。かっては石神井川の深山幽谷が眺められたのでしょうけど。



加賀公園から次の「音無もみじ緑地」に向かいます。

ポイント7 音無もみじ緑地

「音無もみじ緑地」は、石神井川の護岸が擂鉢状に後退し、階段を降りると川岸近くまで行くことができます。川に面してワンド(川の入り江)が設けられ、川から入ってきた魚が繁殖できるようになっています。また、水辺に飛来するカワセミなどの野鳥や魚の群れも見られます。



かって石神井川はこの付近で蛇行し、両岸に岩が切り立って松や楓が生い茂り、深山幽谷の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師作と伝えられる弁財天が祀られていました。

松橋弁財天洞窟跡

もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。左の絵は、「江戸名所図会」に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。「新編武蔵風土記稿」によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏にこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景」や「東都名所」をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑っていたのです。滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和五十年(1975年)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。



左の図は、天保五年(1834年)に描かれた松橋弁財天窟です。


王子七滝について「武蔵野の路」の案内板に解説があります。

王子七滝

「王子七滝」とは、その昔、石神井川およびその用水にかかっていた滝で、弁天・不動・権現・稲荷・大工・見晴らし、および名主の七つの滝のことをいいます。王子七滝は名主の滝公園にあるもの以外はすでに現存していませんが、ここからすぐ下流にある音無親水公園には、“権現の滝”をイメージした滝があります。




緑地内には多くの紅葉の木があります。もみじ緑地たる所以です。



音無もみじ緑地に隣接して、「紅葉寺」があります。

ポイント8 紅葉寺

「金剛寺(紅葉寺)」は、弘法大師空海がこの地を遊歴した際に不動明王像を彫り、それが現在本尊になっているとのことです。その後、平安時代末期の源頼朝の時代に源頼朝自身が此の地に陣を張り、堂宇を建立し、田園を寄進したと伝えられています。また、金剛寺は豊島氏の支族であった滝野川氏の居館である滝野川城跡であるともいわれています。

源頼朝の布陣伝承地

治承四年(1180年)八月、源義朝の三男頼朝は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。初戦に勝利するも石橋山の合戦で破れて安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、隅田川を渡ります。滝野川・板橋を経て、府中六所明神へ向かい、さらにそこから鎌倉を目指します。そして鎌倉の大倉に本拠を築いた頼朝は、後に鎌倉幕府初代将軍として、その場所に政権を樹立することになるのです。この途次の十月、源頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれています。松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って、松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。弁財天を信仰した頼朝は、崖下の洞窟の中に祀られていた弘法大師作と伝えられる弁財天に祈願して、金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、田地を寄進したと伝えられています。この地域は、弁天の滝や紅葉の名所として知られていました。現在、金剛寺が紅葉寺とも呼ばれるところに、この頃の名残がみられます。




金剛寺は、豊島八十八ヶ所霊場43番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場16番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場1番札所、北豊島三十三ヶ所霊場31番札所になっています。門前に、「西國三拾三所供養佛」と彫られた石碑が建っています。西国三十三所巡礼とは、日本最古の観音巡礼です。養老二年(718年)、大和長谷寺の開山徳道上人が病にかかって仮死状態になった際、冥土で閻魔大王と出会います。閻魔大王は、世の中の悩み苦しむ人々を救うために、三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めなさいと、起請文と三十三の宝印を授けました。現世に戻った徳道上人は閻魔大王に選ばれた三十三の観音霊場の礎を築きましたが、当時の人々には受け入れられず、三十三の宝印を中山寺の石櫃に納めました。それから約270年後に途絶えていた観音巡礼が花山法皇によって再興されます。花山法皇は、先帝円融天皇より帝位を譲られ、第65代花山天皇となりますが、僅か2年で皇位を退き、19歳の若さで法皇となりました。比叡山で修行をした後、書寫山の性空上人・河内石川寺の仏眼上人・中山寺の弁光上人を伴って那智山で修行し、観音霊場を巡拝して西国三十三所観音巡礼を再興しました。西国三十三所の総距離は約1000kmに及び、和歌山・大阪・兵庫・京都・奈良・滋賀・岐阜と2府5県にまたがります。また、中世日本の首都であり文化の中心であった京都に三十三所のうち三分の一の札所寺院が集中していることから、憧れの巡礼路としてその人気は全国に広がりました。やがて遠方に住んで巡礼が困難な人々のために、各地に写し霊場が創設されます。西国三十三所とあわせて日本百観音霊場に数えられる坂東三十三所や秩父三十四所はその代表的な巡礼路です。西国三十三所の「西国」は、当時憧れであった最古の巡礼路が坂東から見て西にあったことに由来します。



境内にも紅葉の木が沢山植わっています。ところで、紅葉(モミジ)と楓(カエデ)はどちらも赤や黄色に色づき、秋の風情を感じさせてくれますが、どう違うのでしょうか?実は、紅葉も楓もどちらも植物学上は「ムクロジ科カエデ属」に分類されます。つまり、紅葉と楓は同じ品種の植物なのです。植物学上では紅葉と楓は同じ植物ですが、日本では一般的に葉の大きさや色などでそれぞれを呼び分けています。葉が小さめで手のひらのような形をしており、深い切れ込みがあるものを「紅葉」、比較的大きな葉を持ち、葉の切れ込みが浅いものは「楓」と呼びます。「もみじ」という言葉は、古語の「もみづ」が語源だと言われています。「もみづ」とは、かつてベニバナなどの植物を揉みだして染料を作る際、水中に美しく広がる色の様子を表現した言葉でした。やがて「もみづ」は、秋に草木の葉が赤や黄色に色づく様子を指すようになり、「もみぢ」という言葉へと変化しました。そして特に鮮やかな紅葉を見せる楓の葉を、「もみじ」と呼ぶようになったのです。一方、「かえで」という名前は、葉の形が蛙の手に似ていることから付けられました。ちなみに、外国では紅葉と楓の区別はなく、どちらも「メープル(Maple)と呼ばれています。カナダ特産のメープルシロップの原料ですね。



紅葉寺には「瀧野川七福神」が祀られています。これは金剛寺の境内に作られた1ヶ所七福神みたいです。



紅葉寺を出て、ゴール地点の北区役所に戻りました。



ということで、北区で九番目の「桜ウオークコース(北区役所〜北区役所)」を歩き終えました。次は、北区で十番目の「北・水辺ウオークコース(赤羽駅〜岩淵水門(青水門))」を歩きます。




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