- 北・水辺ウオークコース(赤羽駅〜岩淵水門(青水門))
- コース 踏破記
- 今日は北区の「北・水辺ウオークコース(赤羽駅〜岩淵水門(青水門))」を歩きます。赤羽駅東口をスタート地点として、荒川の右岸・左岸の遊歩道を巡ります。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年6月に改めて歩きました。なので、晩秋と初夏の写真が入り交じっています。
北・水辺ウオークコース(赤羽駅〜岩淵水門(青水門))
秋のさわやかな風を感じながら、荒川土手の青空とみどりのコントラストのなかを歩くロングウォーキング。北区の自然の景色の再発見になります。
「北・水辺ウオークコース(赤羽駅〜岩淵水門(青水門))」の歩行距離は約8.0km、歩行時間は約2時間です。
スタート地点:JR赤羽駅東口
↓
- ポイント1 宝幢院
↓
- ポイント2 東京メトロ赤羽岩淵駅(3番出口)前の交差点
↓
- ポイント3 岩淵橋
↓
- ポイント4 旧岩淵水門(赤水門)
↓
- ポイント5 鹿浜橋
↓
- ポイント6 足立区都市農業公園
↓
- ポイント7 鹿浜橋
↓
- ポイント8 岩淵水門(青水門)
↓
ゴール地点:JR赤羽駅東口
スタート地点の赤羽駅東口から「宝幢院」に向かって歩き始めます。
- ポイント1 宝幢院
-
JR線の東側の高架沿いの商店街を抜けた先でかっての日光・岩槻街道に突き当たります。その旧道に面して宝幢院があります。
宝幢院
宝幢院は医王山東光寺と号し、真言宗智山派に属する寺院で、本尊は薬師如来像です。寛正二年(1461年)宥鎮和尚によって開山され、約百五十年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興しました。「新編武蔵国風土記稿」には、慶安二年(1649年)に三代将軍家光から赤羽根村内に十石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は、浮間村西野(現在の浮間四丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。境内には、区内最古の寛永十六年(1639年)霜月十八日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と二猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところが二猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結びつきを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結びついて造立されたようです。その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがあり、この地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。
宝幢院の門前に道標が置かれています。
宝幢院前の道標
宝幢院門前の道標は、江戸時代の中期、元文五年(1740年)十二月に了運という僧によって造立されたものです。道標は、それぞれの方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道がどの道なのかということを確認できるように造られたものです。宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、道標には「東川口善光寺道日光岩付道」・「西西国冨士道板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための街道としたので、日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や、八王子から富士山北麓の登山口へと向かう冨士道へ通じていました。
宝幢院から「東京メトロ赤羽岩淵駅(3番出口)前の交差点」に向かいます。
- ポイント2 東京メトロ赤羽岩淵駅(3番出口)前の交差点
-
赤羽交差点は、標識はありませんが、環八通りの北側の終点になります。その赤羽交差点の北東角に、東京メトロ赤羽岩淵駅の3番出口があります。赤羽交差点は、北本通りが東方向から北方向に向きを変え、かつ環八の起点にもなっていますので、かなり交通量の多い交差点です。
横断歩道はとても長く、信号を気にしながら渡り切るのはなかなか大変です。
赤羽交差点から路地を抜けて「岩淵橋」に向かいます。
- ポイント3 岩淵橋
-
岩淵橋は、新河岸川に架かる橋で、1981年に開通しました。
橋の反対側には、古い橋の跡が残っています。
岩淵橋の下流には、新河岸川最後の新志茂橋が架かっています。こちらは1980年に開通したのだそうです。
岩淵橋を渡って荒川の土手の上の遊歩道を歩き、「旧岩淵水門(赤水門)」に向かいます。
- ポイント4 旧岩淵水門(赤水門)
-
旧岩淵水門は、その色から通称「赤水門」と呼ばれています。大正五年(1916年)に着工し、大正十三年(1924年)10月に完成しました。RC造(一部S造)で、9メートル幅のゲート5門で構成されています。昭和三十五年(1960年)3月には、通船のために5番ゲートが改造されました。完成以来、最大2メートル以上にもおよぶ地盤沈下や、左右岸の不等沈下が発生するなどの問題に悩まされ、新水門完成に伴ってその役割を終えましたが、地元の人などから惜しまれ保存されることになりました。水門上は歩行者自転車専用橋として開放され、川に囲まれた中之島(水門公園)に渡ることができます。
旧岩淵水門
旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治四十四年から昭和五年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正五年から大正十三年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和五十年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和五十七年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成十九年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成二十年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が認定されました。このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。
上空から眺めると、こんな風に見えます。
近くから見上げると、今でも大迫力です。
東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門
旧岩淵水門は、明治四十三年(1910年)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川とこの分派点に設けた。水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、レンガ構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正五年(1916年)に着工し、同十三年(1924年)に竣工した。昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風や昭和三十三年(1958年)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和二十年代後半からの東京東部地域一体(帯?)における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和三十五年(1960年)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。その後、昭和四十八年(1973年)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和五十七年(1982年)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。
陸続きになっている荒川赤水門緑地に渡ります。奇妙な塔が荒川を見下ろすように建っています。
月を射る
青野正
材質 リバーテン鋼
平成八年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品
受賞者の言葉
この作品は、無垢の鉄棒を溶断し、一本づつ積み上げて製作しています。私は、形あるものの消えゆく時間、造られたものが風化され「風になる」という遥かなことに、思いを巡らせています。
「月を射る」では、古代の人々が憧れたであろう、天・月・川面に映った世界、果てのない世界観を想像してみました。満月のときの明るい夜空に、水の上に、何か見えるとよいのですが。
荒川リバーアートコンテストは、荒川クリエーション実行委員会主催により行われ、荒川の広々とした空間に映る美的造型物として、河川敷に設置することを条件に公募したものです。
巨大な石碑が建っています。戦前、此の地において「全日本草刈選手権大会」が開催されたのだそうです。
由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから草刈奨励の為の有志相図り幾多の曲折を経て漸く男女青年團農学校壮年團と四組に分ち全国に亘って町村大會郡大會都道府県大會と選手を選抜し最後に全日本草刈選手権大會を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。鎌を競う選手四万餘名熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なひいて一世の壮親であった。大東亜戦のため止むなく中止したが草刈魂を永遠に傅ふるため農業團体其他篤志家の寄付を仰ぎ茲に草刈の碑を建立した。蓋し農は國の大本草刈堆肥は土を作る農業の根本だからである。
旧岩淵水門(赤水門)から荒川土手上の遊歩道を歩いて「鹿浜橋」に向かいます。荒川と並行して流れる隅田川には、現在唯一運行されている渡し舟があります。但し、これは日本化薬の工場と研究所を結ぶ専用の舟で、一般の人は利用できません。
- ポイント5 鹿浜橋
-
鹿浜橋は、荒川に架かる環七通りの橋です。大正十三年(1924年)に開削された荒川放水路に架かる最上流に位置する橋で、昭和四十年(1965年)2月に完成しました。総延長は922メートルで、橋桁に付帯設備として内径1.2メートルの水道管を4本(送水本管2本、工業用水道管2本)を併設し、荒川を横断する水道橋の役割も持っています。橋名は、南岸の足立区新田一・二丁目と北岸の足立区鹿浜一・二丁目をつなぐことから、旧足立郡の鹿浜村・鹿浜新田の地名に因んでいます。 荒川放水路が開削される前は地続きだったんですね。
鹿浜橋の河川敷はゴルフ場やグラウンドなどのレクリエーション施設として利用されています。
鹿浜橋を渡って、「足立区都市農業公園」に向かいます。対岸には、岩淵水門(青水門)が眺望できます。
- ポイント6 足立区都市農業公園
-
足立区都市農業公園の手前の荒川土手には、五色桜に由来する桜の植樹事業が行なわれています。桜の木1本1本には品種を表示したプレートが付けられています。この木は「楊貴妃」というみたいです。
サトザクラ 楊貴妃
Cerasus(Sato−zakura Group)”Mollis”
楊貴妃、サトザクラの園芸品種。花は花弁が約20個あり、淡紅色です。バラ科。
かって荒川堤に植えられていた五色桜の記念碑が建っています。
荒川堤五色桜碑 一基
五色桜は、明治十九年(1886年)三月、後の江北村村長清水謙吾の主導で、地元民が資金を出し合い、78品種3225本の桜を荒川堤上約6kmに植えたのがはじまりである。苗木は駒込(豊島区)の桜専門業高木孫右衛門が栽培した逸品で、花の色が数種あったので、五色桜の名で呼ばれるようになった。当時は、荒川(現隅田川)に多くの乗合船が出て、定期航路が臨時便を江北まで延長するなど、多くの花見客で賑わった。明治四十五年(1912年)には、当時の東京市長尾崎行雄がアメリカ合衆国の首都ワシントンに五色桜の接穂を贈呈し、ポトマック河畔に植えられた。大正十三年(1924年)十二月、内務大臣により国の史蹟名勝天然記念物に指定されるほどの名所となっていた。そのことを示すのがこの石碑である。石碑は、江北二丁目の都バス荒川土手バス停付近の荒川堤防脇に設置されていたが、補助第113号線道路建設工事の支障となり、教育委員会に保管されていたものを現在地に移転し、今に至っている。近代東京有数の名所のひとつであった荒川堤五色桜は、昭和二十年代に姿を消したが、昭和五十六年(1981年)二月に、当時のナンシー・レーガン大統領夫人が足立区に桜を送り、舎人公園に植樹され(レーガン桜)、同年にはポトマック河畔から桜の里帰りも実現し、区内各地の公園・学校などに植えられ、五色桜を現代に伝えている。
ここにも里帰り桜が植えられています。
ワシントンからの里帰り桜
足立区江北の一帯は、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。「五色桜」とはソメイヨシノのほかに、当時、珍しかったヤエザクラなどの品種が混植されていたため、白や黄色、淡紅色、濃紅色などに彩られ、五色の雲がたなびく如く見えたことからこの名がついたといわれています。明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄が日米友好の証として、十二品種三千本の桜苗を、首都ワシントンに贈った話は有名ですが、このときの桜が五色桜でした。その後、ワシントンのポットマック公園は世界的な桜の名所となりました。しかし、本家の「荒川の五色桜」は、堤防工事や公害の影響で衰退してしまいました。足立区では、この由緒ある「五色桜」を復活させるため、区制五十周年記念事業として、「桜の里帰り」を計画しました。そして昭和五十六年二月、多くの関係者の努力と米国の協力により、主としてポットマック公園の桜から枝を採取し、三十五品種三千本の「桜里帰り」が実現しました。ここに植えられている桜は、この里帰りした桜の一部です。区内の緑化、美化のために、みなさんで大切に育てていきましょう。
アメリカへ桜が寄贈されて100周年を記念するパネルが置かれています。
日米桜寄贈100周年記念植樹
100年の歴史に由来する3本の苗木を植樹しました。これまでの100年に思いをはせるとともに、日米交流のさらなる礎となることを願っています。
○レーガン桜の穂木から育てた苗木
○桜のお礼としてアメリカから贈られたハナミズキの原木の種から育てた苗木
○100周年を記念してアメリカから贈られた桜の穂木から育てた苗木
荒川の五色桜 100年の歴史
○はじまり
明治十八年、荒川の氾濫により千住大橋は流出し、付近一帯は大洪水にみまわれました。当時の沼田村の長は荒廃した荒川堤を修復し、記念として多種類の里桜を約3、000本植樹しました。最盛期の桜並木は濃紅色、紅色、淡紅色、白色、黄色などの花々が咲き誇り、その風情が「五色の雲がたなびくがごとし」と表現されたことから、いつしか「荒川の五色桜」と呼ばれるようになりました。
※穂木とは良品種を増やすために、元となる桜から採取した枝のこと。
○アメリカへ
明治四十三年、日本の桜の美しさに感動した体験を持つ当時のタフトアメリカ合衆国大統領夫人をはじめ、多くの方々の尽力により、荒川の五色桜から採取した穂木から育てた苗木が、ワシントンD.C.ポトマック河畔に植樹されました。
○途絶えた荒川の五色桜
明治四十三年、氾濫を繰り返す荒川の放水路掘削工事をきっかけとして多くの桜が伐採・移植されました。以降、「荒川の五色桜」は衰退の一途をたどり、昭和二十二年にはその姿を消してしまいました。
○そして復活 〜里帰り桜〜
昭和二十七年、復活を望む声とともにアメリカから桜の穂木が贈られ、最初の里帰りが実現しました。昭和五十六年、区制50周年を機に区は五色桜の里帰りに本格的に取り組み、ワシントンD.C.から桜の穂木35品種、約3、000本を採取し、区内の公園などに植樹しました。昭和五十七年、レーガン大統領夫人から贈られた苗木は「レーガン桜」として、都立舎人公園に植樹しました。
足立区都市農業公園は、足立区鹿浜のスーパー堤防上に位置する足立区立の公園です。昭和五十九年(1984年)に開園しました。東京都と埼玉県の境を流れる芝川が荒川に注ぐ河口付近に位置し、南側は荒川河川敷緑地に面しています。全国各地に作られている農業公園のひとつで、自然とのふれあい・植物栽培・園芸・農業への理解と教育・区民の憩いのために作られました。
荒川土手側の入口にはレストハウスがあり、荒川の河川敷道路から芝川自転車道が分岐する地点として、サイクリング愛好者の休憩ポイントとなっています。
園内には、田や畑が広がっています。今は殆ど見かけない苗代(種籾を密に播いて発芽させ、田植えができる大きさまで育てるイネの苗床)もあります。
果樹園もあります。プラムみたいですが、これは何の果実でしょうか?
温室もあります。バナナがたわわに実を付けていますね。もぎたてのバナナは食べたことはありませんが、きっと濃厚でとろけるような味なんでしょう。
花壇もあります。宮沢賢治が考えた花壇が再現されています。
宮沢賢治の花壇 Tearful eye Garden
「銀河鉄道の夜」、「注文の多い料理店」などの童話でも知られる宮沢賢治は農学校の教員をするかたわら、農に根ざした生活を実践していました。のちに発見された賢治のノート(MEMO FLORA)に彼が考えた花壇のスケッチが残されていました。その1つがこの「Tearful eye Garden(涙ぐむ庭)」です。瞳の形をした花壇にある水鉢は、涙をたたえた様子を表現しています。この宮沢賢治の花壇は花壇ボランティアのみなさんと製作したものです。
芝生広場には休息用の東屋やベンチもあって、家族連れで楽しめます。
芝生広場を囲むように、梅の木や桜の木が植えられています。早春の時期の観梅は見応えがあります。今は紫陽花が目立ちますが。
江北五色桜
昔、荒川堤の五色桜は東京でも有数の桜の名所として親しまれていました。五色桜とは品種の名前ではなく、染井吉野のほかに八重桜などの品種が混植されて白や黄色、淡紅色、濃紅色、紅色などに彩られ五色の雲がたなびくように見えたためと言われています。ここには当時の風景を再現するために里帰り桜のなかから34品種82本の桜が植えてあります。
都市農業交流館には、かって日常生活で使われていた道具や家具が展示されています。
園内には、足立区内から移築した古民家などもあり、かっての生活の場が再現されています。
旧和井田家住宅(母屋) 一棟
この住宅は江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟造りの茅葺きである。もと花畑二丁目にあった和井田家邸で、伝えによれば安永二年(1773年)頃に生まれた四代目当主の代に建てられたという。間取りは典型的な田の字型の古民家で、正面右手の大戸から入ると「ドマ」がある。「ドマ」の手前の一画には、籾や米を貯えた「コメビツ」、奥には「カマド」を備えた台所である「カッテ」がある。さらにその奥には「ミソベヤ」がある。左手には家族の居間である「イタノマ」、寝室に使われた「ヘヤ」、平書院と床の間を備えた「ザシキ」や「オク」と呼ばれる部屋などがある。「イタノマ」と「ヘヤ」が根太天井であるのに対し、「ザシキ」と「オク」は棹縁天井であり、二部屋の間には、欄間も設けられている。「イタノマ」と「ヘヤ」は日常生活の場であり、「ザシキ」と「オク」は格式を備えた空間となっている。天井裏には、「ドマ」から梯子で昇り降りし、物置として使用された。安政大地震(安政二年・1855年)を経てきたというこの家屋は、台所をはじめ、南側瓦葺きの庇、西側廊下と便所など、増改築の跡をうかがうことができる。東側壁面は、竹を細かく割って土真壁を覆う「しぎ竹」という工夫も見られる。また「ドマ」や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時代の花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である。この住宅は貴重な江戸時代の農家建築として区に寄贈され、昭和五十八年十二月に足立区指定有形民俗文化財となった。翌年に掛けて足立区都市農業公園に移築保存され、一般公開されている。
邸内の間取り図の解説があります。
足立区指定有形民俗文化財
旧和井田家住宅
概要
旧和井田家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺きの家屋で、足立区の古い農家建築の典型的な特徴を備えています。もともと足立区花畑にあった住宅を、1983年〜1984年に都市農業公園に移築し保存したものです(足立区指定有形民俗文化財)。
間取り
入口を入ると「ドマ(土間)」があります。住居の空間は、「イタノマ(板の間)」「ヘヤ(部屋)」「オク(奥)」「ザシキ(座敷)」という、4部屋の並びが漢字の「田」に似た典型的な「田の字型(四つ間取り)」で構成されています。
【カミコウカ】
トイレをカミコウカと呼んでいました。移築前は屋外にもトイレがありました。写真の屋内トイレは家長(当主)のみが使えるもので、唐草模様があしらわれた特注品です。他の家族は屋外のトイレを使ったそうです。
【イタノマ@】
イタノマは@・A共に家族の日常生活の場でした。隣接するヘヤは若夫婦の寝室として使われていました。
【イタノマA】
小さな囲炉裏があり、食事や農作業の合間の休憩に使われていました。
【オク・ザシキ】
これらは格式のある、あらたまった部屋です。特にザシキは家で一番あらたまった部屋のため、トコや平書院という装飾があります。客人の接待などに使われていました。また、冠婚葬祭の際はふすまを外し、この2部屋を主に使っていたそうです。
【カッテ】
現在でいう台所にあたります。コンクリート製ですが、古い形を残したカマドがあります。カマド上方に煙集めの囲いと、煙出し窓がついています。当時カマドの周囲の壁や天井は、煙で燻されて黒く煤けていました。現在はカマド上部にだけ、黒い状態が残っています。
【コメビツ】
米を貯えておく場所です。「コクビツ」「ココビツ」とも呼ばれました。いたずら等をすると、中に閉じ込められたそうです。
【レンガ】
移築時の当主である和井田栄一氏の祖父健次郎氏が当主であった時期に、大きな改築がなされ、ドマや庇の下など、ふんだんに煉瓦が敷き詰められていました。現在はドマの一部に煉瓦が残っています。
【井戸】
足立区の古い民家では、前庭に井戸がある家が多かったようです。旧和井田家住宅も移築前には、門を入ったすぐ右手にお風呂が併設された井戸があり、その周辺にトイレもありました。
旧和井田家住宅の歴史
1855年
安政江戸地震が起きる。旧和井田家住宅は家主の半兵衛氏がこの地震より前に建てたとされる。
1968年
後に花又帝国煉瓦株式会社の役員となる和井田健次郎氏が生まれる。健次郎氏の時代、煉瓦をあしらうなどの大きな改修が行われ、旧和井田家住宅の現況がつくられた。
1923年
関東大震災が起きる。倒壊を免れるが、地震により住宅が傾いたとされる(口伝)。
1945年
東京大空襲の爆撃を受けるが、戦火を免れる。近隣に落ちた爆弾の爆風で関東大震災時の傾きが戻ったとの言い伝えも残っている。
1965年頃
茅葺き屋根の一部を葺き替えた記録がある。時代の変遷により、この頃すでに屋根の材料である茅の入手がとても困難となっていた。
1980年頃
居住者がいなくなるが、住宅は親族の手入れによって良好な状態に保たれる。
1983年
足立区による調査で高い価値が認められ、「足立区指定有形民俗文化財」となる。同時に足立区都市農業公園へ移築され、復元工事が開始される。
1984年
都市農業公園に竣工、展示が始まる。屋根も葺き替えられて新しくなる。
2007年
移築後2回目となる屋根の葺き替え作業が行われる。
軒先には干し柿が吊されています。美味しそう!
季節の装い 干し野菜
野菜を干して水分を減らし長期保存できるようにした野菜を「干し野菜」といいます。干し野菜は保管場所に困らないので、貯蔵方法の一つとして古くからよく用いられていました。夏に干しておいた野菜を収穫が少ない冬の時期に食べていたそうです。まさに“暮らしの知恵”ですね。
吊るし大根
大根は、そのまま干してたくあんを作ったり、細かく刻んでから干して切り干し大根にしたりと加工はさまざまです。紫外線があたり酵素の働きが活発になることで栄養素が増え、また大根の水分がなくなるため栄養がぎゅっと濃縮されます。足立区では大根以外に芋がら(里芋の茎)なども干していたそうです。
干し柿
干し柿は渋柿を使います。実は甘柿よりも渋柿の方が糖度が高く、干すことで渋さのもとであるタンニンが抜けることで甘くなります。作り方は、ヘタを残して皮を剥き、紐で枝を結びます。最後に、カビを生えにくくさせるために沸騰した湯へ5秒くぐらせます。品種や気候にもよって異なりますが、1週間から2週間程度でできあがります。
長屋門があります。
旧増野製作所長屋門
現在の足立区谷中周辺は、江戸時代初期に開発された谷中新田である。谷中新田には北の浅野久右衛門の開発地と南の吉野長左衛門の開発地があり、それぞれ上谷中、下谷中という呼称もあった。元禄年間(1688年〜1704年)にこの上下の谷中は分村し、それぞれ開発者の名前を冠して久右衛門新田、長左衛門新田となった。旧上谷中の浅野久右衛門家は、地名と名前から各一字をとり「谷久様」と呼ばれていた。この長屋門は明治三十年(1897年)頃の建築で間口17.5メートル、奥行4.8メートル、高さ3.9メートル、屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、浅野家の正門として「谷久門」と称されていた。その後、昭和十一年(1936年)に増野製作所の創業者増野清香氏が現青井五丁目に新工場を建設する際に譲り受け、これを補修し多年にわたり工場の門として利用された。昭和五十年(1975年)に同工場が茨城県へ移転する際、後継者である増野鋼四郎氏が保存を決意し、防護柵を施す等保護に尽力された。平成十二年(2000年)都道補助140号線の建設にともない区が寄贈を受け、東京都建設局の協力を得て当地に移築復元した。
足立区都市農業公園を出て、鹿浜橋に戻ります。
- ポイント7 鹿浜橋
-
鹿浜橋で荒川の左岸から右岸に渡ります。川の右岸・左岸は、上流から下流に向かって右側が右岸、左側が左岸と決められています。昔、上流に暮らす人は、暮らしに必要なものが下流から舟で運ばれてくるのを見つめてまっていたそうです。そこから下流に向かって右岸、左岸と呼ばれるようになったといわれています。
再び荒川土手上の遊歩道を戻り、「岩淵水門(青水門)」に向かいます。
- ポイント8 岩淵水門(青水門)
-
岩淵水門(青水門)は、現在の荒川と隅田川を仕切る水門です。かって「荒川放水路」と呼ばれた人工河川は現在では荒川と呼ばれ、この水門より下流の名前だった荒川は「隅田川」と呼ばれるようになりました。岩淵水門は、現在の荒川と隅田川の分岐点になります。すぐ上流には、役目を終えた旧岩淵水門(赤水門)があります。
岩淵水門
増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。岩淵水門は、大正十三年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和五十七年に旧水門の下流約300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。
■岩淵水門のやくわり
平常時
●全門開放されていて、荒川の流量の約3割を隅田川に流し、隅田川の水質浄化の効用を果たしています。
●舟運に支障がないように全門開放されています。
増水時
●水門を閉め、荒川の水を隅田川に流さないようにしています。
岩淵水門から上流方向を見ますと、旧岩淵水門の脇に荒川からの取水路があり、現在はこちらから荒川の水を取り込んでいます。一方、下流方向を見ますと、岩淵水門の先で新河岸川が合流していて、荒川からの分水を併せて現在の隅田川を形成しています。
荒川を解説した案内板が立っています。
@荒川知水資料館(amoa)
荒川放水路と隅田川の分岐点近くに位置し、自然豊かな荒川にもっと親しんでもらうための活動と交流の拠点として、平成十年(1998年)3月にオープンしました。荒川の洪水リスク、氷害の歴史や自然環境等の情報発信をしているほか、学校を対象に館内の説明や様々な学習支援を行っています。
◆青山士と荒川放水路
荒川下流の改修工事に深い関わりを持った技術者の一人に青山士[1878年〜1963年]がいます。青山は、恩師・内村鑑三らの薫陶をうけ、広く世のためになる仕事を、と土木の道を邁進した技術者です。大学卒業後、自費でパナマ運河工事に唯一の日本人として参加し、世界最先端の土木技術を学んだ後、日本に戻り、荒川放水路と旧岩淵水門の工事責任者に任命されました。特に旧岩淵水門の基礎工事にあたっては青山の力量が発揮され、工事の途中、関東大震災が起こりましたが、旧岩淵水門はびくともしませんでした。
A旧岩淵水門
旧岩淵水門は、岩淵水門の300mほど上流に位置しています。この水門は、荒川の洪水が隅田川に流下する流量を調節し、かつ、通常時は舟航に支障を与えないよう設けられたもので、大正十三年(1924年)に完成しました。水門には、幅約9mのゲートが5門ついており、一番右岸側が通航門となっていました。長年、洪水の脅威から東京の下町を守ってきましたが、老朽化及び水門の高さ不足のため、役割は岩淵水門にうつりました。
B岩淵水門
岩淵水門は、旧岩淵水門より300mほど下流にあり、隅田川の起点に位置しています。旧岩淵水門が、大正十三年(1924年)に完成してから60年余りを経て老朽化が進んだこともあり、昭和五十七年(1982年)に新しく岩淵水門が建設されました。岩淵水門の役割は、荒川の洪水が隅田川へ流入するのを防止すること、平常時には浄化のための水を隅田川へ流すこと、および舟運の確保などです。なお、岩淵水門は青水門、旧水門は赤水門と呼ばれています。
旧岩淵水門(青水門)からゴール地点の赤羽駅東口に戻りました。コース図では、旧岩淵水門(青水門)がゴール地点になっているのですが、どっちみち駅まで戻らないと帰れませんので。
ということで、北区で十番目の「北・水辺ウオークコース(赤羽駅〜岩淵水門(青水門))」を歩き終えました。次は、北区で十一番目の「@北区を歩くコース 〜まるごと北区の歴史・史跡を歩こう〜」を歩きます。
戻る