@北区を歩くコース 〜まるごと北区の歴史・史跡を歩こう〜  

コース 踏破記  

今日は北区の「@北区を歩くコース 〜まるごと北区の歴史・史跡を歩こう〜」を歩きます。上中里駅をスタート地点として、これまで北区全域で訪れた名所・旧跡を厳選して再訪します。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年6月に改めて歩きました。なので、晩秋と初夏の写真が入り交じっています。

@北区を歩くコース 〜まるごと北区の歴史・史跡を歩こう〜

北区の歴史がわかるコースをタイムスリップしながらのウォーキングが楽しめます。昼食は飛鳥山公園がオススメ。

「@北区を歩くコース 〜まるごと北区の歴史・史跡を歩こう〜」の歩行距離は約15.0km、歩行時間は約3時間45分です。

スタート地点:JR上中里駅
ポイント1 滝野川公園
ポイント2 七社神社
ポイント3 西ヶ原一里塚
ポイント4 東京ゲーテ記念館
ポイント5 千川上水分配堰碑
ポイント6 南谷端公園
ポイント7 近藤勇と新撰組隊士供養塔
ポイント8 寿徳寺
ポイント9 中央公園
ポイント10 音無さくら緑地
ポイント11 飛鳥山公園
ポイント12 王子神社
ポイント13 王子稲荷神社
ポイント14 名主の滝公園
ポイント15 平井保昌の杉跡
ポイント16 清水坂公園
ポイント17 稲付公園
ポイント18 静勝寺(稲付城跡)

ゴール地点:JR赤羽駅西口


スタート地点の上中里駅から歩き始めます。


ポイント1 滝野川公園

上中里駅のすぐ西側には「滝野川公園」があります。滝野川公園は、水と緑が多く、子どもから高齢者まで多くの人々に利用されています。この公園の特徴は「防災公園」としての性格も有していることです。北区防災センターが隣接し、災害備蓄倉庫・応急給水槽(1500トン)・深井戸・散水塔(放水銃)などの防災設備が整っています。周辺には消防署・警察署・病院・体育館があり、滝野川公園を含めたこの一帯が総合的な防災拠点になっています。



此の地には、かって農事試験場があったそうです。


明治二十六年四月、農商務省農事試験場がこの地東京府北豊島郡龍ノ川村西ヶ原に創設され、我が国の農業技術研究は発祥した。爾来八十七年、その間、昭和二十五年四月、農業技術研究所と改称される等組織機構の変遷はあったが、「西ヶ原」は常に近代農学を先導し、我が国における農業関係試験研究機関の母体として、多くの輝かしい業績により農業の発展に寄与してきた。昭和五十五年一月、国立試験研究機関の筑波研究学園都市への移転に伴い、この地での研究を終わる。「西ヶ原」の栄光の不滅を祈念し、ここに記念碑を刻む。




本郷通りに面した植栽の中に「東京高等蚕糸学校発祥之地」の石碑が建っています。現在の東京農工大学の前身とのことです。


滝野川公園から「七社神社」に向かいます。

ポイント2 七社神社

七社神社は旧西ヶ原村の鎮守で、渋沢栄一は同村内に飛鳥山邸を構えたことをきっかけに氏子になりました。現在も渋沢栄一揮毫の社額・掛け軸等が神社に納められています。



七社神社は、明治元年(1868年)に神仏分離令により無量寺から独立し、翌年に一本杉神明宮の地に遷座しました。

七社神社

七社神社の祭神は、伊邪那岐命・伊邪那美命・天児屋根命・伊斯許理度賣命・市寸島比賣命・帯中日子命(仲哀天皇)・品陀別命(応神天皇)です。由来については、寛政五年(1793年)の火災により、社殿古記録一切が焼失したため、よくわかっていません。「新編武蔵風土記稿」には「村ノ鎮守トス・・・」と記され、また、「江戸名所図会」には、無量寺の高台に描かれ、再建後も別当寺であった無量寺の境内に祀られていたことがわかります。明治はじめの神仏分離に際して現在地である一本杉神明宮社地に移され、西ヶ原村の総鎮守として奉祀されるに至りました。末社には天祖神社(一本杉神明宮)・稲荷神社・熊野神社・菅原神社・三峯神社・疱瘡社があります。一本杉神明宮は、もともとこの地にあった神社ですが、七社神社の移転により、末社となったものです。現在、切株が残っている杉の古木は、その神木です。旧社務所は、村の青年会の発起で、渋沢栄一・古河虎之助を筆頭とする諸氏の寄付により、大正九年(1920年)に建てられたもので、公会堂を兼ねたものでした。この境内から隣地にかけての一郭は、七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器・弥生式土器・土師器などが発見されています。




七社神社は子宝(子授け)祈願の神社として知られています。御祭神の伊邪那岐命と伊邪那美命は、日本の国土を生んだ夫婦の天津神で、多くの神々を生み出し、子宝の神としても崇敬されています。国生み・神生みの神徳から、子宝や安産にも御利益があるとされています。七社神社の狛犬は「子守犬」と呼ばれ、向かって左側の雌・右側の雄共に、子宝・安産・家庭円満のご利益があると信じられています。左の雌の子守犬をお母さんが、右の雄をお父さんが撫でて拝むことで子宝のご利益にあずかるとのことです。左右の子守犬と共に、懐に抱かれている子犬の頭を撫でることでも子宝のご利益にあずかれ、左の子犬を撫でると女の子が、右の子犬を撫でると男の子の子宝に恵まれるそうです。


左側が雌(母)、右側が雄(父)の狛犬です。


もうひとつは、「腹籠りの椎」です。境内に入った左手にある椎木は、子を宿した妊婦さんのお腹のように膨れており、ここを撫でることで子宝・安産のご利益にあずかるといわれています。椎木は実(どんぐり)を多くつけることから、子孫繁栄・生命力の象徴となっています。



更に、御神木の「願掛け公孫樹(銀杏)」も子宝の御利益があるとされています。銀杏は多くの実をつけることから、子宝・子授けの象徴とされています。その立派で神々しい姿からも力強さ、生命力を感じることができ、七社神社の御神木として守られています。



境内には末社として天祖神社(一本杉神明宮)が祀られています。一本杉神明宮は、元々は此の地に祀られていた神社ですが、七社神社の遷座により末社となりました。

旧一本杉神明宮社地

現在の七社神社の社地は、かつては神明宮の社地でした。神明宮は、天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから、一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年に七社神社がこの地に移転してきたことにより、神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治四十四年(1911年)に地上三、四メートルのところを残して伐採されましたが、現在もその切株は残っています。七社神社は、江戸時代には七所明神社といい、西ヶ原村の鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は、紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものといいます。詳しい由来は、寛政五年(1793年)の火災によって、社殿をはじめ古文書・古記録等を焼失したためよくわかりません。神仏分離によって、明治初年に現在地である神明宮社地に移されました。現在の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度賣命、市寸島比賣命、品陀別命、帯中日子命の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に、末社として稲荷神社・菅原神社・三峯神社・熊野神社・疱瘡社があります。




当時の一本杉の御神木は古木として現在も社奥に切株が残っています。

一本杉神明宮之記

神明宮の御祭神は皇祖天照皇大神様で、御創建の年代は不詳ですが、この御神木「一本杉」は樹令壱千年を経た古木で、地元の人々又岩槻街道を往来する旅人の信仰篤く、田端の「争の杉」と共に名高いものでありました。ところがこの「一本杉」は明治四十四年、ついに枯れ、氏子総代及崇敬者の方々の協議により地上より幹を十数尺のこして伐木しました。これが神明宮の御神木「一本杉」の古株です。




「枯松を祭る文の碑」は、渋沢栄一が飛鳥山公園近くの別荘の庭にあった松が枯れたことを悲しみ、1911年に建てました。文章は漢学者の三島中洲に依頼しました。三島中洲は、渋沢の妻千代が亡くなったときも墓碑銘文を頼まれています。松は樹齢数百年、樹高数十メートルで、碑文では擬人化されています。碑は渋沢栄一の別荘の庭にありましたが、2020年12月に、渋沢栄一が氏子であった七社神社に移されました。

枯松を祭る文の碑

渋沢栄一が、「飛鳥山別業南園」にあった松が枯れたことを深く悲しみ、友人の漢学者・三島中洲に文章の作成を依頼、自ら揮毫して建てた碑です。建立は明治四十四年、その後同地を購入して移り住んだ増野家の所有となりました。昭和二十年の空襲で大きな傷を受けるも、地域の歴史を伝える遺産として大切に守られ、令和二年に寄贈を受けた七社神社が境内に移設しました。明治十二年、栄一は飛鳥山の一角に別荘を構え、同三十四年以降本邸とします。現在の本郷通りを隔てた側の庭には老松があり、栄一は、天に届くかのようにまっすぐ伸びたその姿を愛していました。しかし、工場の煙突からの煙によって松は枯れてしまいます。のちに栄一は「愛樹を枯死せしめたるは遺憾至極なれど、其害を与へたる煙は、明治初年より渋沢が振興せしめたる商工業並に交通機関の発達の結果なれば、渋沢の庭園が此煙の為めに害を受け其愛樹を失ふも、自ら慰むる所なかるべからず」と語っています。ちなみに、渋沢栄一はここ七社神社を地域の神社として、その鎮守神を崇敬していました。同社には今もなお、栄一揮毫の社額が掲げられています。




七社神社の参道の入口にある大鳥居に面した本郷通りに、「西ヶ原一里塚」があります。

ポイント3 西ヶ原一里塚

現在の本郷通りは江戸時代の岩槻街道の道筋にあたり、日光東照宮への将軍社参の道として日光御成道とも呼ばれました。江戸時代に各街道に置かれた一里塚ですが、都内では中山道に置かれた志村一里塚と本郷通りの「西ヶ原一里塚」が現存しています。西ヶ原の一里塚は左右一対が現存するだけでなく、左右の塚が旧来の位置のまま保存されているという点で、都内では唯一の一里塚といわれています。西ヶ原の一里塚を挟んで左右に本郷通りの上下車線が分かれていますが、挟まれた中央の塚と通りの右手にある塚との間が旧岩槻街道の道幅ということになります。大正初期に、西ヶ原の一里塚と榎は東京市電の軌道敷設で撤去の危機に瀕しましたが、渋沢栄一をはじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存に成功しました。



一里塚の上に案内板が立っています。現在でも散見される歴史的建造物の保存運動にも通じるものがありますね。

二本榎保存之碑

一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長・滝野川町長・地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された複は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。

二本榎保存之碑
公爵徳川家達題

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり。之を二本榎と云ふ。是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす。往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか、徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植え、里毎に塚を置き塚には榎を植えしむ。之を一里塚と云ふ。然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず、今存するもの甚少し、二本榎は実に其存するものの一なり。先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり。一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが、幸にして市の当事者・学者・故老の言を納れ、塚を避けて道を造り、以て之を保存せんとの議を決したり。法学博士男爵阪谷芳郎君、東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り、瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり。男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し、篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ、以て飛鳥山公園の附属地となせり。阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す。今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め、慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり。又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり。乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し。惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく、以て国民の文野をトすべし。幕府治平を講ずるに当り、先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて、帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり。老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん。後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん。

大正五年六月 文学博士 三上参次撰
            阪正臣書



(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用いたるものなり。虎の門は慶長年間に始めて築造せられ、其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり。今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり。
(一部原文を現代かな漢字に直しています)




こちらの案内板は、「二本榎保存之碑」を今様に補足しています。

西ヶ原一里塚

慶長九年(1604年)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から教えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正五年六月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。




西ヶ原一里塚から、「ゲーテの小径」を進んで「東京ゲーテ記念館」に向かいます。案内板のレリーフにはゲーテの「世界市民」の詩が添えられています。ゲーテが政治家であったことは知りませんでした。

こんにちは、兄弟たち、
あらゆる地域、学派、流派の人びとよ!
わたしはワイマール人でありながら、
世界市民。
尊敬するみなさんの輪に
英知と美徳をとおして参加してきたが、
いっそよい方法を知っている人があるなら、
ほかのところで、その知慧を求めるがよい。

この詩は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年〜1832年)の最晩年の作品です。ドイツの小公国ワイマルの政治家としても活躍したゲーテは、「世界市民」という構想をいだいていました。




ポイント4 東京ゲーテ記念館

東京ゲーテ記念館は、ドイツの文豪として知られるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに関する文献を集めた私立図書館です。茨城県出身の実業家・粉川忠によって、ゲーテの生誕200年にあたる1949年に財団法人東京ゲーテ協会が発足し、北区王子で活動を開始しました。さらに、1964年に渋谷区神泉町に初代東京ゲーテ記念館が竣工しました。東京ゲーテ記念館は、粉川忠が組織的に収集したゲーテに関する書籍や資料を集めた図書館で、ゲーテに特化した資料を集めた資料館としては世界でもユニークな存在でした。現在の東京ゲーテ記念館は1988年に竣工し、蔵書はすべて初代東京ゲーテ記念館から引き継がれました。



館内の見学はコロナ禍を機に廃止されたそうですが、記念館の前にはゲーテの代表的な戯曲である「ファウスト」の詩の一部やゲーテの年譜が掲げられたポケットパーク(ゲーテパーク)があります。

ゲーテ記念館前ポケットパーク

このポケットパークは「ふるさと北区のまちづくり」の一環として、ドイツの文豪ゲーテをテーマに整備しました。ゲーテをより身近に感じて頂くとともに、休息の場として活用して頂ければ幸いです。




「ファウスト」はゲーテの代表作とされる長編の戯曲で、15世紀から16世紀頃のドイツに実在したといわれる高名な錬金術師ドクトル・ファウストの伝説を下敷きとして、ゲーテがほぼその一生をかけて完成させた大作です。ファウスト博士は錬金術や占星術を使う黒魔術師であるとの噂に包まれ、悪魔と契約して最後には魂を奪われ体を四散されたという奇怪な伝説に包まれていました。ゲーテは子供の頃に旅回り一座の人形劇「ファウスト博士」を観たといわれ、若い頃からこの伝承に並々ならぬ興味を抱いていました。そして、こうした様々なファウスト伝説を取材し、努力し続ける事を止めない彼を主人公とする長大な戯曲を書き上げたのです。パークの一画に、ファウストから抜粋された一節がパネルに紹介されています。よく意味が分かりませんので文章は省きますが。



「ゲーテ年譜」には、多岐にわたったゲーテの活動が年譜にまとめられています。

ゲーテ年譜

ゲーテといえば「若きウェルテルの悩み」や「ファウスト」に代表されるようにドイツ文学者として有名ですが、その活躍は文学のみにとどまらず多岐にわたっています。それは政治家として、色彩論や解剖学の研究者として、さらに鉱物学や建築学の研究者としてのゲーテです。このような多彩な人物であったゲーテの活動の概要を「ゲーテ年譜」としてまとめたものです。
以下、年譜。




東京ゲーテ記念館から明治通りに出て、「千川上水分配堰碑」に向かいます。

ポイント5 千川上水分配堰碑

明治通りの掘割交差点の角に古びた石柱が建っています。

千川上水分配堰碑

正面に「千川上水分配堰」とあるこの碑は明治十五年(1882年)七月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治四十二年三月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより利用者の取水量が定められていたことがわかります。千川上水は、元禄九年(1696年)に玉川上水から分水された上水で、左(南)側の道路が今は暗渠となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は、慶応元年(1865年)十一月、飛鳥山の西側(滝野川2−6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開墾されたものです。明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の二十三ヶ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙会社・大蔵省紙幣寮抄紙局の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され、多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守するために、碑をここに設置しました。




明治通りの向かいに千川上水公園があります。この場所には、かって千川上水の調節池がありました。

千川上水調節池跡

千川上水は、元禄九年(1696年)、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・浅草寺御殿と、下谷・浅草方面の江戸市民の飲料水を確保するために、玉川上水を分水した上水です。その後、近隣農村の農業用水としても利用されました。明治期以降は、紡績・製紙・製粉・伸銅工場などの産業用水として利用され、流域の地域や人々と密接に関わってきました。上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中へ給水されました。なお、この付近を「堀割」と呼んでいますが、これは、慶応元年(1865年)に、幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水(王子分水)を開削する際に堀をつくったことに由来しています。明治十三年(1880年)、岩崎弥太郎らが設立した千川水道株式会社によって、本郷・小石川・下谷・神田方面への給水が再開されると、王子分水との分配堰が設けられました。明治通りの向かい側(北区滝野川6−9)には、水利関係が刻まれた「千川上水分配堰」の碑(明治十五年建立)が残されています。一方、公園側には分配堰の落し口があり、沈殿槽からの水量調整を行なっていました。公園内には、駒込六義園方面への送水に使用していたバルブ(巻揚器)が現在も残っています。




沈殿池は現在は埋め立てられていますが、公園の敷地の大半を占める大きさだったようです。

千川上水沈殿池

このフェンスで囲われたバルブ周りを中心に、公園の地面の下には左下図のような沈殿槽(池)があります。千川上水が上水としての利用が終わった後も、六義園に水路を引くために作られたものです。戦後までは左の写真のような沈殿池がありましたが、1973年頃に、図のような沈殿池に造り替えられました。現在は、東京都東部公園緑地事務所が管理しており、利用されていません。公園入口の「千川上水流路図(説明板)」および 「千川上水沈殿池(説明板)」と明治通りを挟んで向かい側の「千川上水分配堰の碑(説明板)」も合わせて、ご覧ください。




ちなみに、千川上水とは、玉川上水を水源とし、境橋(現在の西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近)から江戸城の城北地域へ流れた総延長約22kmの用水路(上水)で、江戸の六上水(神田上水・玉川上水・本所上水【亀有上水】・青山上水・三田上水【三田用水】・千川上水)のひとつでした。千川上水の名前の由来は、分水口のある境橋が仙川村(現在の調布市東端から三鷹市南部にかけての一帯)のすぐ近くで、この仙川村を通した上水だったことに由来しています。上水路の設計は海運の発展に多大な寄与があった豪商の河村瑞賢が行い、多摩郡仙川村の太兵衛・徳兵衛が開削にあたりました。太兵衛・徳兵衛の開削の功により、仙の字を吉字に改めて千川とし、両人にはこれを名字として与えられました。

千川上水流路図

この図は、享保(1715年〜)初め頃の絵図で、玉川上水・神田上水・千川上水・青山上水・三田上水の江戸五上水が描かれています。千川上水は江戸の町の北東側、神田上水と浅草川(現在の隅田川)に挟まれた地域に給水していた様子が読み取れます。白山御殿(現在の小石川植物園)にも給水されていましたが、この図の描かれた時点では御殿は廃止されていましたので、描かれていません。




千川上水公園から明治通りの滝野川七丁目交差点で右折して、谷端通りに入ります。通りの両側には桜の並木が続いています。通りの名称は、「滝野川桜通り」ともいうようです。



ポイント6 南谷端公園

谷端通りの右手に南谷端公園があります。「谷端」の名前は、かって付近を流れていた谷端川に由来します。谷端川は、豊島区千早と豊島区要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池を水源とする総延長11kmの河川で、最終的に外堀通りの仙台橋の下で神田川に流れ込んでいました。



公園の入口に大きな石碑が建っていますが、これは戦災により焼失した付近一帯を谷端川の暗渠化を含めて戦後の復興の一環として区画整理が行なわれたことを記念して建てられたもののようです(裏面にそれらしき碑文が書かれていますが読み取れませんでした)。



南谷端公園から谷畑通りを更に進み、板橋駅のはす向かいにある「近藤勇と新撰組隊士供養塔」に向かいます。

ポイント7 近藤勇と新撰組隊士供養塔

近藤勇と新撰組隊士供養塔が建つ広場は、この次に訪れる寿徳寺の境外墓地になります。新選組隊長だった近藤勇は、慶応四年4月25日に板橋平尾宿にあった一里塚で斬首の刑を受け、首は京都三条河原にさらされ、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬されました。墓碑は近藤勇・土方歳三の他、殉死した隊士の供養のために新選組隊士の永倉新八が発起人となり、旧幕府典医松本順(良順)の協力を得て明治九年に建てられました。側面には110名の新選組に関わった人々の名が刻まれています。 菩提寺である寿徳寺と「近藤勇と新選組隊士の墓保存会」は、近藤勇の命日にあたる4月25日またはその直前の日曜日に墓前供養祭を行い、4月29日には、地元の商店街等が滝野川新選組まつりを行い、地元の人を中心に多くの人々が訪れます。

東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
近藤勇と新選組隊士供養塔

慶応四年(1868年)四月二十五日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。本供養塔は没後の明治九年(1876年)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 ¥ケ 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宜が昌宜とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 發起人 旧新選組長倉新八改瘻コ義衞 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。




近藤勇・土方歳三・永倉新八の肖像画も掲示されています。



近藤勇の銅像も建っています。その後ろには埋葬当初に使われた墓石も置かれています。そこまでしなくても。。。



墓地の奥にひときわ高い慰霊碑があります。明治七年に官軍に抵抗した側の死者を祀ることが許され、それを受けて明治九年に建てられました。生き延びた永倉新八が発起人になり、書は松本良順のものです。正面に「近藤勇宜昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれています。しかし、近藤勇の名は「昌宜(まさよし)」で、碑には逆に書かれています。



慰霊碑の左手前に永倉新八の墓が建っています。永倉新八は、杉村家に婿養子に入って北海道小樽市で暮らし、大正四年1月5日に77歳で亡くなります。墓は小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、そしてここ板橋駅前の墓と分骨されています。板橋駅前のこの墓は、昭和四年にこの墓所の大改修に合わせて長男の杉村義太郎が建立したものです。正面の「新選組永倉新八之墓」の書は、杉村義太郎と繋がりのあった蜂須賀正韶侯爵(阿波徳島藩最後の藩主の長男で徳川家と縁戚)が書いています。



近藤勇と新撰組隊士供養塔から、幕末期から新選組の近藤勇他隊士達の菩提寺となった「寿徳寺」に向かいます。

ポイント8 寿徳寺

石神井川に架かる観音橋の袂に巨大な観音様が鎮座しておわします。谷津大観音は、2008年に寿徳寺の境外仏として建立されました。

谷津大観音は、南照山観音院寿徳寺第二十四世住職新井慧誉和尚の発願によるもので、第二十五世新井京誉がその志を引き継ぎ寿徳寺の寺域である当地に建立着手しました。寿徳寺がまつる御本尊は聖観世音菩薩であり谷津の観音様として親しまれておりますことから谷津大観音と称します。大仏を正面から拝せる、石神井川にかかる観音橋のたもとから一筋の光明が生まれることでしょう。



寿徳寺は、鎌倉時代に此の地を訪れた武士によって本尊の観世音菩薩を安置したことに始まるといわれています。本尊は谷津子育観音です。

谷津子育観音

南照山観音院寿徳寺の本尊である谷津子育観音は、木造の観音菩薩坐像です。この観音像は谷津観音と通称され、江戸時代の地誌には子安観音とも、また、聖観音とも記されています。寺伝では、鎌倉時代の初期、早船・小宮の両氏が主家の梶原氏と争い、追われて落ちのびる途中で水中から拾いあげ、これを石神井川の川沿いの堂山に安置したのだと伝えられています。像の姿は蓮華座に坐り、両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結んでおり、現在は秘仏となっています。寿徳寺は江戸時代から城北地域の江戸西国三十三番観音札所の第十二番目の巡礼地にあたり、近江国(滋賀県)岩間寺の霊験と同じ功徳をもつものとして多くの人々が訪れています。境内に切株から芽吹いている銀杏があり、昔、飛鳥山付近からも眺められたほどの巨木でした。この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出るようになるという信仰もあります。こうした信仰は昭和の初期にも盛んだったようで、河東碧梧桐の俳句に「秋立つや子安詣の花の束」という句があり、また、寺野守水老も「我妹子と子安に詣る小春かな」(小林鶯里編「東京を歌へる」昭和五年)という句を詠んでいます。




幕末には、寿徳寺は新選組の近藤勇他隊士達の菩提寺となり、近藤勇の処刑後は、板橋駅傍にある近藤の墓地(寿徳寺の境外墓地)の管理と命日の4月25日前後に墓前で法要を行っています。新選組隊長の近藤勇は、慶応四年(1868年)4月25日に板橋刑場で斬首の刑を受けました。近藤勇の首は京都に送られて三条河原に晒され、胴は現在の北区の滝野川に埋葬されたと言われています。板橋駅傍の墓地は、生き残った新選組隊士の永倉新八が発起人となり、1876年に建てられました。敷地には、近藤勇の墓の他、土方歳三や新選組隊士の供養塔もあります。また1929年には、永倉の墓も同じ敷地に建てられました。

新撰組隊長近藤勇菩提寺

近藤勇は新選組を組織し、幕府の側から京都の守護に当たり、流山で官軍に補まって、慶応四年四月廿五日丗五歳で板橋宿平尾にて斬首され、胴体がJR板橋駅東口の当山境外墓地に埋葬されたが、百二十三回忌に当る本年、本人所特の短刀発見をも記念してこの石碑を境内に、また本人肖像石板を境内及び境外墓地に建立し、菩提を弔らうものである。(詳細は寺報通巻171号参照)




寿徳寺から加賀学園通りに出て、北区の「中央公園」に向かいます。

ポイント9 中央公園

中央公園の面積は65、620uで、北区立の公園としては飛鳥山公園に次いで二番目の広さがあります。中央公園の周辺一帯には、明治時代から戦前にかけて東京第一陸軍造兵廠があり、陸軍で使われる銃弾などの兵器を製造していた軍用地でした。戦後は米軍に接収され、東京兵器補給廠となり、一部は1959年に陸上自衛隊十条駐屯地になりました。1971年に米軍から返還され、公園として整備されて、1976年に北区立中央公園として開園しました。



中央公園内には、戦前置かれていた東京第一陸軍造兵廠の本部の建物が現在でもそのまま残されています。今は建物は中央公園文化センターとなって生涯学習の場として活用され、各種ホールや会議室・研修室などが入った施設となっています。この建物は1930年に建てられ、米軍接収後はもとの茶色から白色に塗装され、その特徴ある外観からドラマや映画のロケなどにもしばしば利用されています。



中央公園文化センターの脇に石室が保存・展示されています。

赤羽台第3号古墳石室

この古墳の石室は、昭和五十七年7月、東北新幹線工事にともなう発掘調査により発見されたものです。ほかに十数基の古墳、横穴墓群、多数の竪穴住居跡が見つかっています。北区の歴史を知る上で貴重な資料であるため、石室をそのまま切り取って移設し、展示しているものです。

石室の概要

この石室は、今から約1400年前の古墳時代に作られた横穴式石室です。現在は、石積みが2段しか残っていませんが、当時は数段積まれ、その上に天井石をのせたものと推定されています。石材は、凝灰質砂岩で海浜の自然石を用いたものです。また床面には全面に小石が、一部にカキ殻も敷かれていました。石室の中には、人骨とともにガラス玉・碧玉製の管玉・耳飾りなどの装身具と直刀・矢の先に付けられる鉄鏃などの武器類が、副葬品として納められていました。




石室の隣に大きなボイラーが保存・展示されています。

東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板

明治三十八年(1905年)、現在の十条台1丁目一帯に「東京砲兵工廠銃包製造所」が開設されました。日露戦争を機に弾薬(銃包)の増産が必要となったことから、小石川地区(現後楽園周辺)より当地に移転・拡張されたものです。敷地内には銃包を製造するための煉瓦造の工場棟が多数建設されました。銃包製造所では、製造に必要な工作機械の動力として、英国バブコック&ウイルコックス社製のWIF型蒸気ボイラーが導入され、ボイラーの煙突には、東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われました。この煙突は、煉瓦造の煙突の周りに鉄板を巻き、耐震性を高めたものです。ここに展示されている部品は、ボイラーのドラム・水管の一部・鉄製の扉、および、鋼製耐震煙突の銘板で、十条自衛隊の施設建替の際に解体・保存したものです。銘板には銃包製造所開設年にあたる「明治三十八年九月竣工」の年代が入っており、これらは、銃包製造所の歴史を伝えるとともに、日本の近代産業遺産としても貴重な資料です。




園内にはジャブジャブ池や遊具が設置され、運動場も併設されていることから、大人も子どもも楽しめる公園になっています。枇杷の木には、人の手が届かないのか、大粒の実が鈴なりになっています。勿体ない。。。



中央公園から石神井川沿いの「音無さくら緑地」に向かいます。

ポイント10 音無さくら緑地

音無さくら緑地は、かつて石神井川が大きく蛇行していた旧流路の跡を遊歩道にした緑地です。昔からの水路も一部残っていて、湧水を利用した流れもあります。春には桜、秋には紅葉が楽しめる自然豊かな緑地で、付近の住宅街を囲むようにして緑溢れる遊歩道が整備されています。川を渡る橋や階段があったりと、歩いて楽しめるアスレチックのようです。川のせせらぎの音や鳥の鳴き声などが聞こえてきて、心身ともにリラックスできます。

音無さくら緑地

この緑地は、石神井川の旧川を利用して出来たものです。ここには、サクラや、エゴノキ、コナラ等が植えられています。また、昔からの天然河岸も一部残っており、湧水を利用した流れもあります。ささやかな散策をたのしんで下さい。




旧水路を跨いで、都内でも珍しい全長約15mの本格的な吊り橋が架かっています。

音無渓谷

石神井川は、東京都小平市花小金井南町付近を源とし、北区内で隅田川に合流するまでの延長25.2kmの河川です。一般には、石神井川の水源としては、石神井公園内の三宝寺ヶ池が有名ですが、周辺の市街地化により湧水が減少したため、水量は、一般家庭からの排水も少なくありません。石神井川は大部分が台地上を流れているため、ゆるやかな流れの区間が多いのですが、板橋区加賀から下流になると渓谷状となり、水流もかなり急になります。そのため、昔はこの一帯の石神井川は滝野川とその名を変えて呼ばれ、飛鳥山のあたりでは、この地を愛した徳川吉宗のふるさとにちなみ、音無川とさらに名を変えて呼ばれていました。ごうごうと音をたて、流れる川を音無川と読んだところに、この地と将軍吉宗との深い関係が読み取れます。吉宗は「春は花、秋は紅葉」の例えにならい、飛鳥山に桜を植えさせる一方で、石神井川の両岸に紅葉を植えさせました。文化分(文?)政の頃には、滝野川の紅葉は江戸中に知られ、江戸名所図絵にも「楓樹の名所として其の名遠近に高し」と述べられています。この紅葉は維新のころ、薪にして売られるところでしたが、羽鳥了甫という人がたまたま来あわせ、これを惜しんで残らず買い取り、そのまま保存することになり、明治大正にかけても滝野川の地は東京市民の遊覧の地として賑わいました。現在でも、この音無さくら緑地では、当時の音無渓谷の姿をかいま見ることができます。

この場所に緑の吊橋が初めて架けられたのは、昭和二十九年のことでした。その後台風により崩壊し、昭和五十五年に新橋に変わりましたが、平成六年には緑地と調和した、現在の吊橋となりました。




音無さくら緑地は旧石神井川の流路跡に作られましたので、遊歩道はかって川底だったところを通っています。注意して観察してみると、化石が見付かるかも知れません。

音無さくら緑地内旧石神井川の自然露頭

音無さくら緑地(王子本町1丁目6番地先)は、まだ石神井川がくねくねと蛇行して流れていた頃の旧流路につくられたものです。皆さんの正面にある崖地は、川の蛇行による浸食作用が最も大きくなる部分で、地形学ではこのような形を攻撃斜面と呼んでいます。視線を下げて、地下水がポタポタしみだしている縞状の部分より下方を注意深く観察してみますと、赤い酸化鉄に染まった砂質粘土の地層中に貝殻の化石を見つけることができるかもしれません。この化石がはさまっている地層は地質学的には「東京層」と呼ばれる部分で、今から12〜13万年前の下末吉海進により、現在の東京都付近が海底となった頃に形成されたものです。明治十三年(1880年)、当時東京大学に地質学・古生物学の教授としてドイツから来日していたブラウンスが王子を訪れ石神井川沿いを調査しました。かつてこの場所のすぐ北には穀物を脱穀する水車場があり、その露頭から多くの化石を採集しました。右の図はその時の調査をまとめた論文に掲載されたスケッチの一部です。これまで、地層を観察するには、自然に形成された河岸の断面を見ることが基本とされてきました。しかし、近年都市化が進むにつれて岸辺を保つことがしだいに難しくなりました。このような自然の河岸が露頭している場所は東京区部では非常に珍しく、こうした地層を観察できる場所は学術的にも教育的にも大変貴重な場所といえます。




音無さくら緑地から「飛鳥山公園」に向かいます。

ポイント11 飛鳥山公園

飛鳥山公園の東側の入り口横に渋沢栄一が住んだ邸宅の案内板が立っています。

旧渋沢家飛鳥山邸

飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛烏山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入り口となる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣工の「青淵文庫」、この二棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして、「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督Lています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建造物)に指定されました。




「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして贈られたものです。お祝いとしては破格の品ですね。

国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 晩香廬

近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設梶jの清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ、壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の秩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。




室内には豪華な調度品が置かれています。

渋沢栄一が暮らした地

栄一は1879年、飛鳥山の地に賓客接待用の別邸をかまえました。以後、庭園内を整備し、日本館、西洋館、茶室、文庫などを建設しました。1901年からは飛鳥山の邸宅に移り住み、1931年に、91歳で亡くなるまで本邸として使用しました。その後、1945年4月の空襲により、建物の多くを焼失しましたが、晩香廬、青淵文庫など一部は現存します。




暖炉の上には、渋沢栄一と最初の妻である千代との間に生まれた長女で歌人の穂積歌子が記した撰文を篆刻した額が掲げられています。撰文は、清水組と渋沢栄一の関係を録したものです。歌子は、宇和島藩士族の穂積陳重に嫁ぎ、長男穂積重遠を始めとする4男3女を産み育て、「良妻賢母の鑑」といわれたました。

ここが見どころ!
復原したカーテンとロールスクリーン

晩香廬に取り付けられているカーテンとロールスクリーンは、復原製作をしたものです。では創建時、どのようなものが掛けられていたのでしょうか?当館に残る資料には、カーテンについて以下のように記されていました。

一、窓掛 麻琥珀地艸花紋様無雙仕立 壱ヶ所
  麻琥珀地艸花紋様窓用 壱ヶ所

そして、創建時の写真を見ると談話室・南面の出入口の窓には麻地のような薄手のカーテンとロールスクリーンやカーテンレールなどがはっきり写っています。カーテンやロールスクリーンの復原製作にあたっては、創建時の写真や資料の記述が大きなヒントとなりました。たとえば、談話室南面の大きな窓のカーテンの裂地は、資料によると「麻琥珀地艸花紋様無雙仕立」とあるように、薄手の麻の無地の裂地を無双=リバーシブルで仕立てていたことがわかります。また色調は、談話室の雰囲気にふさわしい琥珀色が選ばれていました。さらに写真を見ると、裂地の左右の端に蔓草(つるくさ)の連続模様が施されていることもわかります。このように現存するわずかな資料を丁寧に分析し、カーテンの復原を行いました。一方のロールスクリーンも復原したものです。当時のロールスクリーンの裂地は綿製で、アメリカから輸入したことが判っています。カーテンと同様に室内に差し込む直射日光を遮る日除けとして使用されましたが、裂地の劣化が著しく、また軸部のスプリングに狂いが生じていることから、古写真に倣って復原をしています。




出窓から庭園を眺めますと、渋沢栄一の銅像が見えます。



晩香廬を見渡すように、北区に残る唯一の渋沢栄一の銅像が建っています。この銅像は頭取栄一翁の還暦を祝って第一銀行行員一同が建てたものです。明治三十五年に第一銀行の中庭に設置されましたが、大正十二年の関東大震災で第一銀行本店が羅災し、世田谷清和園という保養施設に移され、その後、昭和三十一年に現在地に移されました。銅像の高さは151cmで、等身大とのことです。意外と小柄だったんですね。

第一銀行頭取男爵渋澤栄一・・・(以下判読できず)



「青淵文庫(せいえんぶんこ)」は、渋沢栄一の傘寿(80歳)のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて、竜門社(渋沢栄一記念財団の前身)が寄贈した煉瓦および鉄筋コンクリート造の建物です。大正十四年(1925年)に竣工し、渋沢栄一の書庫として、また接客の場としても使用されました。渋沢家の家紋「丸に違い柏」に因んで、柏の葉をデザインしたステンドグラスやタイルが非常に美しい洋館です。当初収蔵されていた「論語」をはじめ多くの漢籍は昭和三十八年(1963年)に渋沢家から都立日比谷図書館に寄贈され、現在は都立中央図書館に所蔵されています。

国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 青淵文庫

渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。




雫真由美氏が制作したステンドグラスのレプリカが展示されています。

青淵文庫ステンドグラス複製

雫 真由美
平成十五年

【製作者 雫 真由美氏のメッセージ】
「青淵文庫」のステンドグラスレプリカを製作させて頂き、光栄に思っております。大正ロマンあふれる作品ですので、いざ製作にとりかかりますと、精緻なデザイン、色使いの巧みさ、80年前の時代に手作業でよく行ったものだと、当時の技術力の高さに感心いたしました。渋沢栄一先生の活躍された時代に思いを馳せながら、楽しく、時には技術的な面で悩みつつも、製作を終えることができました。




応接室には立派な調度品が揃えられ、渋沢栄一の日常の様子を記したパネルが貼られています。

栄一の日常
栄一が自らの日常について語った文章から、その皹を垣間見る。

凡そ多忙といふ点に就いては、余は大抵の人に劣らぬであらう。

朝は普通六時に起き、夜は十二時頃に寝ることにしてあるけれども、仕事の都合で十二時過ぎになることも珍しくない。起床後は必ず直に湯に這入るが、入浴すれば精神爽快にして元気頓に加はるの思がする。次に庭園を散歩すれば、澄んだ空気を呼吸し、心身を養ふことが出来て非常によいのであるが、殆どそれの出来ないのは遺憾である。新聞も一と通り見ねばならぬ。朝飯も喰はねばならぬ。殊に毎朝来る手紙は如何に少い日でも必ず三四通はあるので、それにも一一返書を認めねばならぬから、庭園の散歩などは仕度くても殆ど其の暇が無い。

其の中に二三の来客が見える。来れば必ず逢うて語る。余の主義として時間の許す限り客を辞したことがない。病中とか精神不快の場合、人に逢ふのが辛いと感ずる時は仕方もないが、病中でも尚客と語るを楽として居る。併し金を強請されるなどは際限もないことであるし、また揮毫の催促などは余が面会しなくとも用が弁ぜられるが、其の他の人は貴賤貧富を問はず、必ず面会して、相手の意見なり、希望なりを聞き、応じ得ることなら相談にも与り微力をも致して居る。

毎日の用事の予約は塗板に認めてあるから、約束の時間が来れば外出する。通常十一時頃には兜町の事務所へ出る。事務所にも既に客が待つて居る。又引続いて来る者もあるといふ風で、独座して緩りと書物を読むやうなことは、月に一回あるか無しである。斯くて少し客が絶えた時は、日々接手する幾十通の手紙に返書を認めるが、手紙の返事は多く自分で作って代筆させることは少い。といふのは、一言一句不穏当の辞があつても先方の誤解を起す基となるから、仮令忙しくとも、字句を丁寧に文言を優美に書くことを努めて居る。

夜は宴会、相談等の為に十時過までかゝることが多く、一家団欒して食事を共にすることは、月の中に五六日しかない。外の用事が済んで帰邸してからは、或は新聞雑誌を読んだり、或は人に読ませて傾聴したりする。これは一と通り社会の風潮を知つて置かなければならぬからである。拙筆ではあるが揮毫を依頼されたものが常に三四百枚はあつて、時々催促を受けるのであるが、紙に臨めば精神も落着き、愉快を感ずるのであるけれども、其の時間さへない。こんな風で毎日寸暇もなく追ひ廻されて居る。




山形亭は東屋のような建物です。「亭」は「あずまや」とも読みます。渋澤栄一は、庭の散策の折に立寄って一休みしたのでしょう。

山形亭跡

丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えでいたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。




飛鳥山公園は3つの博物館があることでも知られていますが、渋沢資料館はそのうちのひとつです。渋沢資料館は、渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年にかって渋沢栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に開館しました。渋沢栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵・展示し、関連イベントなども随時開催しています。「晩香廬」と「青淵文庫」も渋沢資料館の一部です。

渋沢栄一とは

1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。農業・商業を営む実家を手伝うかたわら、尊王攘夷思想に傾倒しましたが、緑あって一橋慶喜の知遇を得て家臣となりました。1867年パリ万博で文明に触れ、感銘を受けました。帰国してからはその経験を活かし、民間の立場から約500社にのぼる株式会社・銀行などの設立、経営指導に尽力し、民間経済外交・社会公共事業に取り組み近代日本の経済社会の基礎を作りました。

渋沢史料館

渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年に開館しました。かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に建ち、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営しています。栄一の生涯と事績に関する資料を展示し、それにまつわるイベントなども随時開催しています。

晩香廬

落成:1917年 国指定重要文化財

1917年に栄一の喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設株式会社)より贈られた洋風茶室です。青淵文庫とともに、建築家・田辺淳吉の代表作です。渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用されました。

青淵文庫

竣工:1925年 国指定重要文化財

栄一の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、1925年に竜門社(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈しました。ステンドグラスや装飾タイルなどが書庫に彩りを与えています。書庫として建設されたことから全体的に堅牢で、鋼製の書棚などにも十二分にこだわった建築となっています。




博物館入口の脇には、渋澤栄一の石像が置かれています。

渋沢栄一像 小倉右一郎 年未詳

当財団の所有であった旧渋沢家飛鳥山邸の丸芝(現・東京都北区・飛鳥山公園旧渋沢庭園内)の縁に置かれていた石像。平成九年(1997年)の渋沢史料館本館新築時に現在地に移動、設置されました。制作年代、経緯は不明ながらも、晩年の栄一の面影をよく伝える作品です。小倉右一郎(1881年〜1962年)は香川県出身の彫刻家。東京美術学校彫刻家本科を卒業後、東京で活動しました。作域は、歴史的人物から肖像彫刻にまで至る人物像で、大正から昭和初期にかけて高い評価を得ます。また、ブロンズだけでなく大理石、花崗岩、セメントを素材とし、日本初のセメント彫刻である日本工業倶楽部正面に掲げられた「坑夫と織女の像」は、現在もなおその姿をとどめています。大正五年(1916年)、小倉は、新築の東京銀行集会所に長年同所会長を務めた栄一の喜寿祝いとして建立するためのブロンズ製栄一胸像を制作。さらに大正十四年には長年にわたる東京市養育院に対する功労を記念して建立されたブロンズ製栄一座像の原型を手掛けました。




館内には、渋沢栄一の生涯を解説した夥しい数のパネルが展示されています。あまりの業績の多さにとても紹介しきれません。



渋沢史料館の隣に「北区飛鳥山博物館」があります。北区飛鳥山博物館は、北区のことがなんでもわかる博物館です。地域の郷土風土博物館として、北区の歴史・自然・文化などに関する展示や調査研究などの活動を幅広く行なっています。1階の常設展示室では、「大地・水・人」をコンセプトに、1つの象徴展示と14のテーマ展示を展開しています。武蔵野台地と東京低地の境にある北区の成り立ちから、古代人のくらし、江戸時代の名所の発展、さらには荒川の生態系まで、実物資料はもちろん複製資料(レプリカ)、映像、復原家屋などを通して、地域の風土とともに連綿と営まれてきた人々の暮らしぶりが実感できる展示となっています。2階には企画展や特別展覧会、スポット展示などを開催する特別展示室のほか、図録や各種オリジナルグッズを取り揃えたミュージアムショップがあります。3階の飛鳥山アートギャラリーでは北区ゆかりの美術伝統工芸品を鑑賞することができます。また、1年を通して、さまざまな講座や見学会なども行なわれています。



入口を入った左手に高床式の建物が造られています。徴収した米を蓄える倉庫とのことです。

豊島郡衙の、とある風景

時は奈良時代、現代の北区は武蔵国の豊島郡に属していました。東京都には都庁があり、北区には北区役所があるように、古代でもその地方や地域を管轄する役所がありました。その豊島郡の役所、豊島郡衙がここ北区の地にあったのです。郡衙の仕事は今の役所と同じです。税の徴収やそのための戸籍作りなどです。現代は税をお金で納めていますが、当時は「租・庸・調」といって、稲・布・特産物を納めていました。その徴収した稲を収納したのが、この「正倉」という建物です。正倉の前には稲を運び入れている村人がいます。まだ米俵がなかった時代です。叺で運び、倉の中に直接稲籾を入れていました。それを指示しているのが郡衙の役人である「郡司」です。稲の収穫が終わった秋の、とある一日。きっとこんな光景があったのでしょう。




常設展示室は入口フロアの下の階にあります(入口フロアは2階に当たるらしい)。エレベータで降りていきますと、弥生時代の竪穴式住居が復元されています。それだけならなんということもないのですが、当時の日常生活を再現したビデオが流されています。食料を盗もうとする隣人とそれを阻止しようとする住人が争っていて、かなりリアルな映像です。



北区の歴史を解説したパネルが並んでいます。豊島郡は、荏原郡や多麻郡と並んで、現在の東京都を構成する武蔵国の主要な郡でした。正倉は郡衙の中でも重要な建物だったようです。税として徴収した米(稲籾)を保管するところですからね。古代東海道の道筋は、現在の本郷通りでしょうか?

奈良時代〜平安時代
律令社会と豊島郡衙

奈良に都が造られた律令の時代、中央政府は地方行政を合理的に管理するために行政区画を設け、地方を分割しました。その行政単位は国・郡・里(郷)で、北区の地は“武蔵国豊島郡”に属します。国や郡には行政実務を行う、現代でいう役所が置かれました。郡に置かれた古代の役所を”郡衙”あるいは”郡家”といいます。北区の地から豊島郡の役所である”豊島郡衙”が発見されました。北区は古代において豊島郡の中心地だったのです。

武蔵国豊島郡衙

武蔵国は現在の埼玉県と東京都、神奈川県の横浜市や川崎市を含んだ広い範囲です。その中心は国の役所である”武蔵国府”で、現在の東京都府中市にありました。武蔵国は21の郡(最初は19の郡)に分割されていました。現在の北区はその中の豊島郡に含まれます。その範囲は北区・板橋区・豊島区・荒川区・台東区・文京区・練馬区がほぼ該当します。各郡には役所として”郡衙”が置かれていました。豊島郡の中心である”豊島郡衙”は北区の西ヶ原にありました。

豊島郡衙の構造

古代の役所”豊島郡衙”は郡庁院と正倉院に大きく分けられます。郡庁院には行政の事務的な仕事を行う中心施設の”正殿”があります。その他、宿泊施設である”館”や食料の保管や調理を行う”厨家”などの建物群が周辺にあります。郡庁院の西にある正倉院には租税として徴収した稲籾を納める”正倉”や大型の倉の”法倉”などがあります。これらは中央の広場を囲むように数棟が列になって建てられていました。正倉院全体は大きな溝で取り囲まれていました。

古代東海道と豊島郡衙

律令社会においては、中央からの命令を地方に、地方の状況を中央にいち早く伝達することを目的に道路を整備しました。地方の各国はそれぞれ七つの”道”というブロックにくくられ、その各国府を中継するように直線道路を造りました。武蔵国は宝亀二年(771年)に、それまでの東山道から東海道に編入され、相模国府から武蔵国府、そして下総国府へと向かう道路としての東海道が確立されました。豊島郡衙は武蔵国から下総国へ行く最短距離のルート上に位置しており、古代東海道がここを通っていました。




豊島氏は鎌倉幕府の成立にも大きく寄与しました。吾妻鏡には、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて豊島郡を領有した豊島清元に対し、源頼朝から参陣を促す書状が送られたとの記述があります。

鎌倉御家人・豊島氏の全国展開

この文書は元暦元年(1184年)、後白河法皇が武士による紀伊国(和歌山県)高野山領への課税の停止を、紀伊国守護人の豊島有経に命じたものです。鎌倉御家人・豊島氏一族は源頼朝に信頼され、紀伊国や土佐国(高知県)守護に任じられました。なお紀伊氏を名乗り京都に基盤をもつ豊島有経の一族は、後に幕府の禁令に触れて「豊島庄犬食名」(荒川区尾久と推定)を没収され失脚した本家の豊島時光に代わって、家を継いだ可能性が指摘されています。

源頼朝と豊島氏

諸国の武士たちが平氏への不満を強めるなか、治承四年(1180年)、源頼朝は平氏政権を倒す決意をしました。いったんは石橋山の合戦で破れた頼朝でしたが、房総半島に渡り関東の武士を配下に兵力を増やし武蔵国へと向かいました。武蔵国豊島郡を本拠とする豊島氏と同族の下総国葛飾郡の武士団・葛西氏はいち早く頼朝に味方し、頼朝の武蔵入国を助けたことが、「吾妻鏡」に記されています。頼朝は豊島氏の勢力地である「豊島御庄滝ノ河」にも陣を張ったと伝えられます。やがて鎌倉を拠点とする武家政権への第一歩が築かれました。

武士の起こりと秩父平氏

桓武天皇の子孫・平将常は武蔵国秩父郡に定着し、秩父氏を名乗る武士団を形作り、やがて荒川・入間川・多摩川などの大きな川沿いに一族を広げました。前九年の役(1051年〜1062年)・後三年の役(1083年〜1087年)で中央から派遣された源頼義とその子義家は、関東の武士を率いて戦い、秩父氏の一族豊島氏もこれに従いました。「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」には、後三年の役から帰る途中、豊島氏の館に泊まった源義家が鎧と十一面観音を豊島氏に与える場面が描かれ、中央の武士団のかしらである源氏と、豊島氏との結びつきが知られます。




鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて豊島氏の勢力は拡大していきます。

国人領主・豊島氏

江戸時代中期の旗本・豊島泰盈は、中世武士団豊島氏の子孫であることに誇りを持ち、中世古文書「豊島・宮城文書」をもとに豊島氏系図を作りました。この「泰盈本豊島氏系図」に記された古文書を見ると、豊島宗朝は南北朝時代、北朝方の足利氏に従い、(イ)豊島修理亮(景則)も鎌倉公方足利基氏に味方しています。(ロ)また豊島範泰の古文書によると、鎌倉公方足利持氏と上杉禅秀との戦いで豊島氏は持氏の配下になっています。(ハ)さらに豊島泰次の代に書き入れられた足利成氏の古文書には、豊島氏には「三河守」(ニ)と「勘解由左衛門」(ホ)を名乗る2つの系統の家があり、勢力をふるっていたことが分かります。

石神井川をさかのぼった豊島氏

鎌倉時代後期、石神井郷(練馬区)の地頭・宇多重弘には、男性の跡取りがなく3人の娘たちに領地が譲られることになりました。南北朝時代頃までは女性に財産権があり、やがてそれらの領地は結婚した相手先の家に伝わり、宮城政業の妻「箱伊豆」の領地は豊島宗朝が継ぎました。その結果、豊島氏は石神井川水源に近い三宝寺池周辺に石神井城を築き、拠点を移したのでした。




時は戦国時代に移ります。

北区の戦国時代
室町時代後期〜戦国時代

戦乱の続く室町時代、関東ではさまざまな勢力がしのぎを削り、新旧の武家が争いました。15世紀の末期になると平安時代から続く豊島氏は太田道灌に敗れ、その道灌も主君扇谷上杉氏によって討たれて、時代は戦国の世を迎えました。16世紀になると上杉氏から自立を目指した道灌の孫、江戸太田氏の資高は北条氏綱と結びました。その結果、北条氏は武蔵を手中に収めることに成功し、江戸太田氏は戦国大名北条氏の勢力下に入りました。

関東公方足利持氏と豊島氏

東国の行政機関の要であった鎌倉公方足利持氏は、新たに室町幕府六代将軍になった足利義教と対立し、代替わりで正長二年(1429年)を改元し「永享元年」としたことを認めず、正長元号を使い続けました。国人領主豊島氏の支配領域にあった北区堀船の福性寺には、この正長三年(1430年)銘の板碑があり、豊島氏が足利持氏の勢力下にあったことがうかがえます。南北朝時代から室町時代の戦乱の中で河越氏や江戸氏などの多くの伝統的な秩父平氏が滅びるなかで秩父平氏・豊島氏はたくみに関東の中世社会の中で命脈を保っていったのです。

戦国時代の北区の村

豊島氏を滅亡に追い込んだ太田道灌でしたが、その勢力を恐れた主君の扇谷上杉定正は、文明十八年(1486年)、道灌を暗殺しました。その後、上杉氏に代わり武蔵国で勢力を広げたのは戦国大名北条氏です。大永四年(1524年)、北条氏綱は兵を武蔵国南部に動かし、道灌の孫・太田資高は北条氏に味方しました。「小田原衆所領役帳」には、資高の子・康資の持っていた豊島郡の領地が記されています。北条氏は家臣に領地を与える時、領地の規模を銭の単位の「貫」で表示しました。これは家臣の所領高であり、また北条氏に仕える軍役高を意味しました。

豊島氏の滅亡と太田道灌

文明八年(1476年)、山内上杉氏内部の主導権をめぐって不満を持った長尾景春は、主君の山内上杉顕定に対して反乱を起こしました。景春に味方した豊島氏は、平塚城(北区)・練馬城・石神井城(練馬区)を中心に、江戸城と川越城を拠点とした太田道灌と対立しました。「太田道灌状」には、文明九年(1477年)の江古田・沼袋(中野区)合戦で豊島氏が道灌に敗れ平塚城・石神井城は落城、翌十年、当主の豊島勘解由左衛門尉は再挙を図ったものの、再び平塚城で道灌に敗れたことが記されています。




江戸時代に入ると、北区には将軍が日光東照宮に参詣するための日光御成道が整備されました。現在の本郷通りから都道460号中十条赤羽線を経て荒川を渡る道筋です。

日光御成道の風景
江戸時代

本郷通りの駒込・飛鳥山間、王子から中十条を経て赤羽へと続く道は昭和の初めまで一続きの道でした。もともとこの道は、徳川家康を祀っている日光東照宮に、命日の旧暦4月17日に江戸幕府歴代の将軍が参詣するために整備された街道でした。神田橋御門・本郷追分を通った後、駒込・西ヶ原一里塚・飛鳥山・稲付一里塚を経て岩淵宿に出ます。荒川を渡ると、川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿・岩槻宿を経て幸手宿の手前で千住宿からの日光街道に合流しました。

日光山道中図絵

江戸城から神田橋御門を経て日光東照宮に至る御成道筋を描いた鳥瞰図的な見取図です。「東照宮宝物誌」によれば、制作時期は安永から天保年間(1772年〜1843年)とされています。図中には御泊・御昼休・御小休・御供飲水置場・御馬口洗場の場所が印されてあることから将軍家社参に用いられた絵図であると推察できます。寺社、屋敷地、民家、道標、高札場、用水、橋、樹木(針葉樹・広葉樹・竹林・草地)などが非常に細かく描かれており、当時の街道筋の様子がよく分かります。展示に用いた部分は、第1帖の駒込地蔵堂から川口善光寺までの12折分です。




北区飛鳥山博物館には様々な民俗資料も展示されています。豪華なお花見弁当もあります。こんなにお御馳走を詰め込んだら、花見どころではありませんね。



北区飛鳥山博物館の隣に「紙の博物館」があります。紙の博物館は世界有数の紙専門のユニークな博物館です。和紙・洋紙を問わず、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集し、保存・展示する世界有数の紙専門の博物館です。昭和二十五年(1950年)にわが国の洋紙発祥の地である東京・王子に開設されましたが、首都高速道路の建設に伴い、平成十年(1998年)に現在の飛鳥山公園内へ移転しました。多くの紙関係会社の支援によって運営されています。常設展示では、紙の製造工程・種類や用途・紙の歴史・紙の工芸品・歴史的資料や生活用品などを展示しています。また紙に関する書籍を約1万5千点有し、図書室で一般にも公開しています。年間を通じて企画展を開催すると同時に、紙を素材としたバラエティー豊かなイベントも実施しています。毎週土・日曜日に行われる「紙すき教室」は、牛乳パックの再生原料から手すきのハガキを作る催しで、年齢を問わず大変人気があります。



エントランスの扉の横に、紙の原料となるパピルスの鉢が置いてあります。

パピルス 学名: Cyperus papyrus L.

カヤツリグサ科の多年生植物。和名カミガヤツリ。高さは2m以上にも達し、茎は三角形である。紀元前3000年頃から古代エジプトでは、この茎の髄を薄くはいで、縦横に並べ、圧縮して乾燥させてシートを作り、 書写材料として広く使用した。紙(ペーパー)の語源となっている。




館内の壁には多くの説明用のパネルが貼られ、資料も展示されています。



貴重な製紙用の機械遺産も展示されています。抄紙機がどういう風に動作するのか、想像できませんね。

世界最初の抄紙機(模型)

フランス人のルイ・ロベールは1798年、それまで1枚1枚手ですいていた紙を連続的につくる「抄紙機」を世界で初めて発明した。紙の大量生産・大量消費を可能にした、重要な発明品であり、これはその縮尺1/2模型。繊維をシート状にする網(ワイヤー)の両端を輪につないで回転させることで、連続的に紙をつくることができる。この抄紙機が改良され、現在も広く使用される長網抄紙機として実用化された。




この機械は、木を擂り潰すんだとか。大根おろしの原理ですかね。

ポケット グラインダー

明治二十年代以降、紙の原料は木材(針葉樹)が主流となっていく。グラインダーは、回転する砥石(グラインダーストーン)に木材(丸太)を押し付けてすりつぶし、パルプをつくる装置で、ポケット型、マガジン型などの型がある。戦後、高度成長期頃までは、針葉樹をすりつぶしパルプ化したものが紙の主原料だったが、更なる需要増から原料不足となり、広葉樹が利用されるようになると、グラインダーは他の機械に置き換わっていった。




紙プラントの模型もあります。製紙業はもはや装置産業ですね。

連続蒸解釜(模型)

蒸解釜とは、木材チップを薬液で煮てパルプを作る装置で、連続蒸解釜はチップと薬液が連続的に釜の中に送り込まれ、煮上がったパルプから順次出てくる仕組みになっている。この模型は1/25模型で、実物は高さ42mほどにもなる。連続蒸解釜はクラフトパルプ製造の主流として、現在も世界中で導入されており、パルプ製造工場の象徴的な設備の一つである。




段ボール製造機もあります。明治四十二年に開発されたそうです。動作方法がイマイチ分かりません。

段ボール製造機(復元)

三盛會(現レンゴー)の創業者・井上貞治郎が日本で初めて段ボールを製造した機械を復元したもの。井上は明治四十二年(1909年)に綿繰り機をヒントに、ボール紙に波形の段をつける機械を自ら考案、製造に成功し、「段ボール」と命名した。この製品は電球や化粧品など割れやすい商品の緩衝材として使われた。段ボール箱を手がけるのは、大正三年(1914年)である。




飛鳥山公園内にはD51が展示されています。この機関車は戦時中の昭和十八年8月31日に製造され、各地の機関区で活躍しましたが、昭和四十七年6月14日に廃車となりました。やはり花形機関車の迫力は違いますね。



都電の車両も展示・開放されています。車両は、戦後の都電の主力車両として290両が製造された6000型ですが、昭和四十年代の都電廃止撤去の進行に合わせて大半が廃車となり、荒川線存続時に生き残ったのは、わずか13両のみとなっていました。6080号はそのうちの一両で、昭和五十三年の廃車後に北区へ譲渡され、飛鳥山公園に設置されました。以来、子供たちに親しまれる公園のシンボルとなっていましたが、雨ざらしの状態で損傷が進んだことから、平成十七年に大掛かりな整備が行われ、現在はすっかり化粧直しのされた美しい外観に甦っています。保管場所に屋根は付いていますが、横殴りに雨には無防備な状態ですね。

都電6080について

この都電6080は、昭和五十三年4月まで飛鳥山公園脇の荒川線を走っていた車両です。荒川線の前身は「王子電気軌道株式会社」といい、通称「王電」の名で親しまれた私営の郊外電車でした。明治四十四年8月、大塚⇔飛鳥山上間2.45kmの開業がはじまりで、その後王子を中心に早稲田・三の輪・赤羽を結ぶ路線が完成し、昭和十七年当時の東京市に譲渡されたのです。この車両は6000型と呼ばれており、戦後はじめての新造車で昭和二十四年に製造されたものです。青山・大久保・駒込の各車庫を経て昭和四十六年3月荒川車庫の配属となり、現役を退くまで都民の足として活躍していました。北区では都電のワンマン化を機会に交通局から譲り受け、子供たちの施設として設置したものです。




飛鳥山の碑は江戸時代に建立されました。碑文は殆ど読み取れません。

東京都指定有形文化財(古文書)
飛鳥山碑

八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文二年(1737年)に碑を建立した。石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立にいたる経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治政が行き届いて太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。元亨年中(1321年〜1324年)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記される。最後に、吉宗が飛鳥山花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解する上で重要な資料である。

Tangible cultural property (ancient documents)
Asukayama no Hi

The 8th shogun Tokugawa Yoshimune developed Mt.Asuka and made the park open to the public. Monk Yuei at Kinrinji Temple in Ohji Gongen Shrine erected the monument in 1737 to commemorate the opening. The stone had been stored in Takimitei in Edo Castle after being presented from Kishu region. The inscription was composed by Narushima Douchiku (kinkou), who was a confucian vassal of the shogunate. Tengaku (title of the inscription, engraving calligraphy) was made by Yamada Sojun, who was a calligrapher and a doctor in Owari region. The history of the monument erection is detailed in "Asukayama no Hi no Shimatsu (record of Asukayama no Hi)" written by Kazusada (Ryoushu), son of Douchiku. The writing style of the inscription is elegant in fashion of Shousho, one of the five classic texts of Confucianism. The inscription is considered to have trumpeted the peaceful society under the rule of Tokugawa Yoshimune. The monument is 218.5cm in total height, 215cm in width and 34.5cm in thickness. This inscription tells the history of Kanjo (ceremonial transfer of a divided tutelary deity to a new location) of Ohji Gongen (current Ohji Shrine) by the Toshima, the origins of the names of Ohji, Mt. Asuka, Otonashi River and that the people took care of Ohji Gongen with their cordinal belief. The end of the inscription tells that Tokugawa Yoshimune planted trees and flowers in Mt. Asuka, and had contributed to Ohji Gongen Shrine. This inscription is difficult to read, because letters were written by using Kanji variants and ancient writing, also slanted to avoid scars on the stone. But it is an important material to understand the history of Mt. Asuka.




飛鳥山の歴史を記した石碑も建っています。

飛鳥山の歴史

飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。このあたりは古くから人が住んでいたらしく、先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています。江戸時代の中ごろ元二年(1737年)、徳川八代将軍吉宗がこの地を王子権現に寄進し、荒地を整備してたくさんの桜や松、楓などを植えたのでそれからは桜の名所として有名になり、附近に茶屋などもできました。その説明は右手の大きな石碑に詳しく刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。飛鳥山のお花見は向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語にでてくるような仇討の趣向や変装などのためにたいへんな賑いでした。また、東側の崖からはカワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって危険防止のために禁止されました。この山は、東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のためにせばめられ、さきに中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。




佐久間象山書の石碑が建っています。「桜の賦(ふ)」は、後に西洋の学問を学び進歩的考えを唱え、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた松代藩士で儒者でもあった佐久間象山の作です。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈し、その名声は印度や中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座して松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいます。この賦は象山50歳(万延元年【1860年】)の作と云われ、2年後の文久二年(1862年)孝明天皇の宸賞を賜りました。象山は蟄居赦免となり、翌年京に上って皇武合体開国論を主張してやまなかったのですが、一徹な尊皇攘夷論者によって刺され、元治元年(1864年)7月11日54歳の生涯を閉じました。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠が文を書き、日下部鳴鶴が書しました。明治十四年11月15日と刻まれています。この碑の下に、挿袋石室が埋蔵されています。

「象山先生櫻賦」の碑

表面に佐久間象山作・書による「櫻賦」が、裏面に象山の門弟たちによる碑建立の経緯が記されています。信濃国松代藩士であった佐久間象山(1811年〜1864年)は、幕末の志士たちに影響を与えた儒者でした。桜賊は、象山が門弟吉田松陰の密出国の企てに連座、松代に蟄居中の万延元年(1860年)に作られたといわれます。賦とは、古代中国の韻文の文体の一つで、都城の賛美に多く使われました。「皇国の名華あり、九陽の霊和を集む」と始まる桜賦は、日本の名華、桜が陽春のなかで光り輝く様を描写し、桜の花は見る人がいなくても芳香をただよわせる、と結んでいます。蟄居中だった象山が勤王の志を桜に託した詩と考えられています。明治十四年(1881年)、門弟の勝海舟、北沢正誠、小松彰らによって碑が建立されました。表面の桜賦は、顔真卿の書風による象山の遺墨によっています。表面上部の扁額および裏面の碑文は、名筆家として知られた日下部東作(鳴鶴)、刻字は、やはり名工といわれた廣群鶴によるものです。碑は、初め飛鳥山の西北端の頂き(地主山)に建っていましたが、同所へ展望塔スカイラウンジ(飛鳥山タワー)を建てるにあたり、昭和四十一年に現在地へ移転されました。その際、都立王子工業高校の考古クラブの発掘によって、象山が暗殺された際の血染めの挿袋を納めた石室が発見されました。石室もともに移設され、現在の碑の下に埋設されています。




飛鳥山公園の北側は崖になっています。その崖に沿ってモノレールが設置されています。飛鳥山公園モノレールは、飛鳥山公園山頂(山ではありませんが)と王子駅横の飛鳥山公園入口とを結ぶスロープカーです。愛称は、施設名があすかパークレール、車両名がアスカルゴとなっています。車両名は、ゆっくり上がる様子がエスカルゴ(カタツムリ)に似ていることから、飛鳥山公園と組み合わせて付けられました。飛鳥山公園入口からの高低差は約18m、レール延長は48mとなっており、片道約2分です。世界最短のモノレールとしてギネスブックに載ってもいいくらいの短さです。2009年7月17日から運行が始まり、高齢者・障害者・小さなお子様連れなど、誰もが飛鳥山公園を利用しやすくなりました。無料で乗車できることもあり、たちまち大人気になりました。冷暖房も完備され、車イス・ベビーカーにも対応しています。



飛鳥山公園から明治通りを渡って「王子神社」に向かいます。

ポイント12 王子神社

王子神社へは、都道455号本郷赤羽線(旧岩槻街道)に面した大鳥居から参道を進むのが一般的ですが、音無親水公園から階段を上がっていくこともできます。階段の中ほどに銀杏の大木が聳えています。

東京都指定天然記念物
王子神社のイチョウ

音無川(石神井川)左岸崖線の肩の部分に一際高くそびえ立つ大イチョウです。幹囲5.2m、樹幹の先端部は欠損していますが、高さは24.2mあり、全体的にはほぼ角樹形を保っています。王子神社の創初については、飛鳥山公園内にある「飛鳥山碑」(都指定有形文化財・古文書)に書かれています。それによれば、元亨(げんこう)年間(1321年〜1324年)に豊島氏が勧請したことが始まりとされていますので、その頃にこのイチョウが植えられたとすると、600年近い樹齢と考えられます。戦災によって王子神社の社殿や太田道灌が雨宿りをしたという伝説を持つシイの大木など多くのものが失われた中で、このイチョウは生き延び、今も高台から東京の街の移り変わりを静かに見つめています。

Natural Monument (Plant)
Oji Jinja no Icho

This is a giant ginkgo tree, Ginkgo biloba L., standing on a hill of the left bank of the Otonashi river (Syakujii river). Although the top part of the trunk is damaged, the trunk circumference is 5.2 m, the height is 24.2 m and it has a natural form. Asukayamanohi (description on a stone, designated a tangible cultural heritage of Tokyo) in Asukayama park tells the origin of Oji shrine. According to the description, Toyoshima contributed to found the shrine between 1321 and 1324. It is not certain but if this Icyou was planted at that time, it would be almost 600 years old. Due to wars, many things including the shrine building and a big castanopsis tree, (it is believed that Doukan Oota took shelter under it during rain) were destroyed. However, this ginkgo has survived and stands on the hill as if it calmly watched the transition of Tokyo.




階段を上がった右手に拝殿があります。都道455号線から見ますと、大鳥居の奥に拝殿が鎮座しています。



王子神社はこの辺り一帯の「王子」という地名の由来となった神社で、かっては「王子権現」と呼ばれていました。王子神社の創建年代は不明ですが、平安時代の康平年間(1058年〜1065年)に源義家が奥州征伐に向かった際に此の地で武運を祈願し、勝利して帰途の途中に再び立寄って甲冑を奉納したのが起源とされています。鎌倉時代末期の文保年間(1317年〜1319年)と元弘年間(1331年〜1334年)には、此の地の領主であった豊島氏が社殿を再興し、熊野新宮の浜王子より「若一王子宮」を改めて勧請・奉斎して王子神社となりました。明治初期には准勅祭社に指定され、現在でも東京十社のひとつとなっています。

王子神社(由来)

元亨二年(1322年)、豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進をうけ、江戸時代には、徳川家康が社領として二百石を寄進しました。これは、王子村の村高の三分の二にあたります。別当寺は、王子神社に隣接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代綱吉、十代家治、十一代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も十七社を数えました。紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後、花見の名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に、七月十三日に行われた王子神社の祭礼は「槍祭」ともよばれ、小さな槍を買い求める人や田楽躍を見物する多くの人でにぎわったことが見物記などからうかがえます。明治時代にはいると明治元年(1868年)、准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。戦前の境内は「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子一同により権現造の社殿が再建され、現在の景観に至っています。




王子田楽は王子神社に伝承された民俗芸能で、始まりは中世の頃といわれています。江戸時代には、旧暦の7月13日に境内の舞台で花笠を被り、衣装を着けた躍り手が十二番の演目を奉納したことが当時の地誌などに記されています。戦争で長らく中断していた王子田楽でしたが、地域の人々の努力により昭和五十八年に復興を果たしました。現在は毎年8月に、王子神社の例大祭最終日の午後、境内の仮設舞台で地域の子供たちが躍り手となって王子田楽が執り行われています。

東京都北区指定無形民俗文化財
王子田楽

王子田楽は、豊かな実りと無事を祈って、毎年8月、王子神社の例祭で、神前に奉納される伝統芸能です。花笠をつけ、鼓・筰・太鼓方が笛に合わせて躍る、全国でも数少ない芸能です。しばらく絶えていましたが復元され、王子田楽衆と王子田楽式保存会によって保存・伝承されています。




王子神社から「王子稲荷神社」に向かいます。この辺りは武蔵野台地の縁になるので、急坂が多くあります。王子稲荷神社が面している坂は「王子稲荷の坂」と呼ばれています。

王子稲荷の坂

この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。




ポイント13 王子稲荷神社

王子稲荷神社は東国三十三国稲荷総司との伝承を持つと共に、狐火の名所とされています。「王子の狐火(きつねび)」とは、江戸時代に郊外だった王子に現れた狐火にまつわる民話の伝承です。かって王子周辺が一面の田園地帯だった頃、路傍に「装束榎」と呼ばれた一本の大きな榎の木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちが松明を点してこの榎の木の下に集まり、正装を整えた後に官位を求めて王子稲荷へ参殿しました。狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。現在は、大晦日の夜に地元の人々によって狐の行列が催されています。



表門の脇に、王子稲荷神社に所蔵されている国認定重要美術品の「額面著色鬼女図」の案内板が立っています。

国認定重要美術品 額面著色鬼女國

日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面著色鬼女図は、天保十一年(1840年)二月初午に、江戸住吉の砂糖商人の同業組合である明徳講が、商権の拡大を願って奉納した絵馬です。絵馬は、凡そ縦190cm、横245cmの大きさで、画面いっぱいには、酒呑童子の家来茨木童子が化けた鬼女の姿が描かれています。源頼光の家臣渡辺綱は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、その女の片腕を切り取ってしまいました。六日後のこと、鬼女は、切り取られた腕を取り返すべく、渡辺綱の伯母に化けて、綱の屋敷を訪れます。鬼女は、腕を取り返すや否や、伯母から変じて目を怒らせ、口を開き、疾風のごとく空中に飛び去りました。この画の麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、是真の名を世に知らしめる契機となったと伝えられます。




王子稲荷神社から「名主の滝公園」に向かいます。

ポイント14 名主の滝公園

名主の滝公園は、江戸時代に王子村の名主であった畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を栽培して避暑のために一般に開放したのが始まりで、公園名の「名主」はそこに由来します。戦災で一時荒れ果てていましたが、東京都が土地の買収と橋や東屋などの修理を進め、昭和三十五年(1980年)に都の有料公園として開園しました。その後、昭和五十年(1975年)に北区に移管されました。

名主の滝

名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかではありませんが、嘉永三年(1850年)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は、好んでいた塩原(栃木県)の景に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。昭和七年の文献に、開園期間は四月一日から十一月三十日まで、新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。昭和十三年、垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。昭和三十三年、東京都は名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同三十五年十一月から都立公園として公開されるにいたりました。昭和五十年四月一日、東京都から北区に移管。北区立の公園となり、同六十一年十月から一年半、大規模な改修がなされました。




園内は回遊式の庭園となっていて、男滝・女滝・独鈷の滝・湧玉の滝の4つの滝が復元されています。これらの滝は地下水をポンプで汲み上げて水を流していて、滝から流れた水は小川となって園内を巡り大小の池に注ぐ仕組みになっています。


男滝(左)は流量豊富ですが、女滝(右)には現在は水は流れていません。


名主の滝公園からJR線を跨ぐ南大橋を渡った左手の東十条南児童遊園の角に、「平井保昌の杉跡」があります。

ポイント15 平井保昌の杉跡

平井保昌は源頼光に仕えた武士で「一人武者」と呼ばれ、渡辺綱や坂田金時などの「四天王」と共に世に知られた人物です。伝説によれば、平井保昌が東国を巡視したときに十条の崖下を通り、波打ち際で昼食を摂りました。ところが箸がなく、かたわらの杉の小枝を箸の代わりにしました。使い終わった箸を地面にさして 「源氏万代に栄えるものならば、この箸、根や葉を生じて繁茂せよ」と念じました。すると不思議なことに小枝は幹の周りが3メートルもの巨木となったのです。この杉は明治四十三年に嵐で倒れてしまいましたが、これを惜しんだ村人が碑を建てました。現在では、地元商店街が平井保昌とその妻・和泉式部に因み、「開運出世杉箸」の製作を行っています。また、新たな杉の植樹も行いました。

平井保昌の杉と和泉式部の梅の由来

今から千年前、源頼光等四天王と共に当地で昼食を取ろうとした保昌は杉の小枝を著の代わりに使用し、「源氏が末長く栄えるなら枝葉を付けて繁茂せよ」と念じて地に挿したところ、のちに王子の二本杉と言われる大木となりました。明治四十三年の台風で倒れてしまいましたが、その杉で作った「扁額」は飛鳥山博物館に保管されています。保昌は後に出世して丹後の守となり、恋多き才女和泉式部と結ばれて丹後へ赴任しております。式部がこよなく梅を愛で、御所紫宸殿の中庭の紅梅を所望している事を知った保昌がその紅梅を献じ、愛を射止めた逸話は有名です。又謡曲「東北」に出てくる軒端の梅にも有るように、式部は生涯梅を愛し続けました。

かたがたの 親の親どち 祝ふめり
   子この子の千代を 思こそやれ   平井(藤原)保昌 (後拾遺和歌集448番)

あらざ覧 この世のほかの 思い出に
   いまひとたびの 逢ふこともがな  和泉式部     (後拾遺和歌集763番)

二人の歌をここに掲載し、千年前の二人のロマンに夢をはせ、この地で少憩した緑と歴史の深さを後世に繋げたく思い、「開運夢の杉箸」を製作し、商店街結成五十周年を機に植樹して記念にしたいと思います。




平井保昌と和泉式部が詠んだ和歌の隣には、「和泉式部の梅」が植えられています。平井保昌の杉を植え直した際に、一緒に植えられたのでしょう。



とある民家の前に、「平井保昌之遺蹟」と書かれた石碑が建っています。こちらが本物かな?

平井保昌の杉跡

平井保昌(天徳二年【958年】〜長元九年【1036年】)は源頼光に従った武者で、「一人武者」と呼ばれ、渡辺綱や坂田金時などの「四天王」とともに世に知られた人物です。平井保昌が東国を見廻っていたとき、この辺りで昼食をとり、使った杉箸を「源氏が栄えるなら大木になれ。」と地に挿したのが巨木になったと伝えられた杉の木があり、「平井保昌の杉」と呼ばれていました。この杉は、明治四十三年、嵐で倒れてしまいましたが、これを惜しんだ人々が、これから木目を活かした波頭の図の額を作り、さらに昭和四年、その杉があった所に「平井保昌之遺蹟」と題した石碑を建てました。木目の額は、現在北区立郷土資料館にあります。

*石碑は、新幹線建設工事により、現在地に移設されました。




平井保昌の杉跡からJR線の踏切を渡って、「清水坂公園」に向かいます。

ポイント16 清水坂公園

清水坂公園は、北区を南北に走る武蔵野台地の崖地を利用した立体的で変化に富んだ公園です。清水坂公園の中央部に広がる芝生は、約4、500uもあります。



およそ68種360本の樹木が植えられ、自然環境に関する学習や情報の交換などを楽しみながら行える「自然ふれあい情報館」が園内にあり、自然を学び、自然と遊べる公園となっています。園内には、長さ52mのすべり台や広い斜面を利用して山間の渓流をイメージして作られた流れなど、楽しい設備がたくさんあります。



公園の入口横に、正岡子規の俳句二句が書かれた「正岡子規赤羽根土筆(つくし)摘み歌句碑」が置かれています。

   家を出て土筆つむのも何年目
   病床を三里はなれて土筆取

句をそのまま読むと、台東区根岸の子規庵から赤羽の土手まで約三里(約12km)を歩いて土筆摘みに出掛けたように思えますが、明治三十五年頃の子規はずっと病気で寝ていましたので、自分自身は土筆摘みに出かけることは出来ませんでした。代わりに、妹の律が子規の弟子の碧悟桐一家と赤羽に土筆摘みに来たのです。その時の話を子規が聞いて作った句だそうです。病から回復して土筆を摘みに出掛けたいという子規の願望が感じ取られます。



清水坂公園から「稲付公園」に向かいます。

ポイント17 稲付公園

稲付公園の前には急坂が上がっています。野間坂は長さが約160mほどのやや急な坂です。坂名は、元講談社社長の野間氏の別邸の前を通っていたことに因んで名付けられました。

野間坂

この坂道の名前は、大正・昭和前期に活躍した出版事業家で、講談社の創立者でもある野間清治氏(1878年〜1938年)の旧別邸前の坂だったところから由来しています。現在、野間氏の旧別邸跡地は北区立稲付公園となっており、区民の憩いの場として親しまれています。




稲付公園は平成二十九年3月にリニューアルされ、遊具やトイレが一新されました。赤羽の高台にあるので景色がよく、夏は北区の花火大会を見物するのに絶好のポイントになります。



稲付公園から、このコース最後のポイントである「静勝寺(稲付城跡)」に向かいます。

ポイント18 静勝寺(稲付城跡)

静勝寺は曹洞宗の禅寺で、開基は江戸城を築いた名将太田道灌(1432年〜1486年)です。お寺の背後の谷にあった亀ヶ池から出土した弁才天が本尊として祀られています。お寺が位置する高台は土地の人から道灌山と呼ばれて親しまれています。静勝寺は元々は道灌の築いた砦(稲付城と呼ばれる)の跡地に建立されました。道灌の禅の師匠であった雲綱が非業の死を遂げた太田道灌の菩堤を弔うために、永正元年(1504年)にこの地に草庵を結んで道灌寺と名付けたのが始まりとされています。



急な階段を上がった山門の脇に、北区の「稲付城跡」の案内板が立っています。

東京都指定文化財(旧跡)
稲付城跡

稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。昭和六十二年(1987年)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558年〜1569年)末頃から天正十年(1582年)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する貞享四年(1687年)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。明暦元年(1655年)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。




境内の奥には、太田道灌の木像を安置している道灌堂があります。

東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
木造太田道灌坐像

右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年(1735年)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(1835年)七月に製作されました。太田道灌(1432年〜1486年)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457年)四月に江戸城を築いたことで知られています。像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(1478年)二月頃から同十八年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(1695年)静勝寺第六世の風全恵薫によって造立され、以後、六回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(1987年)四月に行われた修復によるものです。像は、道灌が没してから二百年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(1989年)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。




裏門の脇には、東京都の「稲付城跡」の案内板が立っています。

東京都指定旧跡
稲付城跡

稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高21m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」として登場します。現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約12m、深さ約6mの空堀の跡等が検出され、その際に十六世紀前半頃の遺物が出土しました。静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造坐像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。

Historic Places
Inetsuke-jo Ato (Inetsuke-jo Castle Ruins)

Inetsuke-jo Ato are ruins of medieval castle which located on the tongue-shaped plateaus about 21 meters above sea level. The castle was designed to utilize natural landscapes. It was recorded as a Hori-ato (trench remains) in the Shinpen Musashi Fudoki Ko (A topography of Musashi Province from 1804 to 1829). It is thought that main castle was constructed on the plateau terrace where currently Josho-ji Temple. The north and the east-west sides are steep cliff, and the plateau is followed by flat on the south side. According to the excavation around Josho-ji Temple, the dry moat remains (width about 12m, depth about 6m) were found with artifacts in the early 16th century. A wooden seated statue of Ota Dokan is inherited in Josho-ji Temple. In the history of temple, Ota Dokan constructed Inetsuke-jo Castle. There is no archives specified the castle builder, but the result of excavation suggests that this castle is though to be related to Ogigayatsu Uesugi Clan. Also Ota Dokan was the main retainer of Ogigayatsu Uesugi Clan, so he might be built the castle.




静勝寺を出て、ゴール地点の赤羽駅西口に着きました。



ということで、北区で十一番目の「@北区を歩くコース 〜まるごと北区の歴史・史跡を歩こう〜」を歩き終えました。次は、北区で十二番目の「A浮間と赤羽を歩くコース 〜浮間の史跡と荒川水辺を楽しむ〜」を歩きます。




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