- A浮間と赤羽を歩くコース 〜浮間の史跡と荒川水辺を楽しむ〜
- コース 踏破記
- 今日は北区の「A浮間と赤羽を歩くコース 〜浮間の史跡と荒川水辺を楽しむ〜」を歩きます。浮間舟渡駅をスタート地点として、新河岸川と荒川の沿岸を巡ります。最初に歩いたのは晩秋の2021年11月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年6月に改めて歩きました。なので、晩秋と初夏の写真が入り交じっています。
A浮間と赤羽を歩くコース 〜浮間の史跡と荒川水辺を楽しむ〜
さわやかな風と桜と秋の色づく景色を楽しむコース。北向地蔵堂は、病気や悪霊が村に入るのを防ぐため、かつて浮間村の北の入り口に建てられていたもの。浮間の渡船場跡は、対岸の小豆沢と結んでいた荒川の渡船場。熊野神社では、毎年2月7日に全国でも珍しい「白酒祭」が行われます。
「A浮間と赤羽を歩くコース 〜浮間の史跡と荒川水辺を楽しむ〜」の歩行距離は約7.0km、歩行時間は約1時間45分です。
スタート地点:JR浮間舟渡駅
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- ポイント1 都立浮間公園
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- ポイント2 北向地蔵堂
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- ポイント3 浮間桜並木
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- ポイント4 浮間つり堀公園
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- ポイント5 浮間の渡船場跡
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- ポイント6 荒川土手
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- ポイント7 荒川知水資料館(amoa)
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- ポイント8 熊野神社
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- ポイント9 赤羽公園
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ゴール地点:JR赤羽駅東口
スタート地点の浮間舟渡駅から歩き始めます。浮間舟渡駅(うきまふなどえき)は、北区最北端かつ最西端の駅で、JR東日本における都区内最北端の駅でもあります。浮間舟渡駅は、昭和六十年(1985年)の埼京線の開業とともに設置されました。北区「浮間」と板橋区「舟渡」にまたがった位置にあるため、両者を合わせた駅名となりました。浮間舟渡駅の向かいに、ポイント1の「都立浮間公園」があります。
- ポイント1 都立浮間公園
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浮間公園は、東京都北区浮間二丁目と板橋区舟渡二丁目の境にある浮間ヶ池を中心にした都立の都市公園(総合公園)です。江戸時代から明治時代にかけて、浮間付近で荒川は大きく南に蛇行していました。昭和三年(1928年)頃に荒川が直線化された際、荒川の旧流路の一部が取り残され、その名残りとして浮間ヶ池ができました。それまで荒川の左岸側(埼玉県側)だった浮間は、このとき右岸側(東京府側)になりました。浮間ヶ池はU字蛇行部の西の一部にあたり、池の東にある現在の浮間地区が荒川改修で埼玉県側から移った町域に相当します。昭和四十二年(1967年)、東京都は浮間ヶ池を含めた周辺地域を都立浮間公園としました。昭和六十年(1985年)に浮間舟渡駅が開業すると、浮間公園の入り口は駅前広場と道路一つを隔てて相対する現在の姿になりました。
公園の沿革
この辺一帯は、荒川が蛇行していて、川の中の浮島のような湿地であったため、江戸時代から浮間ヶ原とよばれ桜草の自生地として有名でした。大正時代の中期から荒川の改修工事が始まり、昭和三年頃ここに堤防が築かれたことから、廃河川敷となって浮間ヶ池の原形が出来上がりました。その後、この池はつり堀などとして親しまれて来ましたが、昭和三十五年、この廃河川敷を中心に都市計画公園の事業決定がなされ、昭和四十二年に都立浮間公園として開園しました。昭和五十二年には、知事からチビッ子にプレゼントの形で、都立公園としては唯一、釣り池として全面開放されました。昭和六十年10月には、埼京線浮間舟渡駅が開設され、公園利用者も一段と増えたことに伴い、昭和六十二年度から3ヶ年で大改修が行われ、施設など公園が一新されました。
こんな感じです。
公園面積の約40%を占める浮間ヶ池では、コイやヘラブナなどの釣りが無料で開放され、一年中釣人が絶えません。池の畔には公園のシンボルとして設置された風車が一基あります。風車は公園の見どころのひとつで、季節によってさまざまな景色を見せてくれるほか、期間限定でライトアップが行われることもあります。
春には桜やツツジ、梅雨時にはアジサイが美しく咲き、秋にはケヤキが美しく紅葉します。また、晩秋からはカモなどの渡り鳥が多く集まります。公園の北側は保護区になっているので、オオヨシキリやコジュケイ、ウグイスなど街中ではあまり見ることのできない小鳥の鳴き声が聞かれます。
公園内にある浮間ヶ原桜草圃場は、かつて浮間ヶ原に自生し、河川改修や護岸工事などで絶滅した桜草を残そうと、当時の園芸組合員が持ち寄ったのが始まりです。年に一回、一般にも公開されています。浮間ヶ原のサクラソウは文人の随筆にも描かれました。田山花袋は、未だ荒川が改修される前の風景を描写したものと思われます。
浮間ヶ原のサクラソウと桜草圃場
浮間ヶ池の東側(北区側)は、かつて浮間ヶ原と呼ばれていました。江戸から大正まで浮間ヶ原をはじめとする荒川沿いの原野は、氾濫でもたらされた沃土の上にサクラソウの群生地が広がり行楽地となっていました。しかし、荒川の流路が変更され、都市化が進むにつれ、サクラソウは姿を消してしまいました。地元では、浮間ヶ原にサクラソウを復活させようと桜草保存会を結成、桜草圃場で栽培と公開を続けています。
田山花袋「一日の行楽」(大正七年)より
川を渡ると、浮間ヶ原である。一面、桜草で、丁度毛氈でも敷いたやうである。頗ぶる見事である。で、日曜、土曜などには、東京から女学生達が沢山にやって来る。女学校で運動会に生徒をつれて来たりするので、桜草は採られ、束にされ、弄ばされて、娘達の美しい無邪気な心を飾る。花の中にゐる大勢の娘達ー実際絵に書いた美しいシーンである。
永井荷風「葛飾土産」(昭和二十五年)より
わたくしが小学生のころには草花といへばまづ桜草くらゐに止って、殆ど其他のものを知らなかった。荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草が多くあつたのを聞きつたへて、草履履きで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区の陋巻となり、桜草のことを言ふ人もない。
都立浮間公園を出て、荒川の土手下の道路を歩いて「北向地蔵堂」に向かいます。右手に桜並木が続くT字路があります。
- ポイント2 北向地蔵堂
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北向地蔵堂は、病気や悪霊が村に入れないようにするため、かっては浮間村の北の入り口に外向きに建てられていました。地蔵堂の中央にある地蔵菩薩は「疣取(いぼとり)地蔵」とか「身代地蔵」とも呼ばれています。地蔵菩薩の左右には庚申待供養塔が、その奥には中世に作られた阿弥陀三尊種子の「月待供養板碑」があります。
北向地蔵堂
この堂内にある四基の石造物のうち、中央の地蔵菩薩立像は、享保六年(1721年)に造立されたもので、疣取地蔵・身代り地蔵とも呼ばれています。当初は現在地より100mほど北、現在の荒川の河川敷にありましたが、大正十一年(1922年)河川改修工事にともなって、現在地から40mほど南の場所に移転し、昭和三十年(1955年)二月、土地区画整理事業の際に現在地に移転しました。この像はかつて浮間村の北の入口に外へ向けて建てられていたので、北向地蔵と呼ばれました。六道輪廻に苦しむ衆生を救済する地蔵菩薩は、道祖神と習合し、疫病・悪霊などが村内に入ってこないように村境に建てられました。その向かって右の庚申待供養塔は宝永二年(1705年)十月に結衆二十一人が、また、左の庚申待供養塔は安永六年(1777年)二月に浮間村講中が、干支の庚申の日に徹夜して健康長寿を願う信仰にかかわって造立したもので、ともに、正面には庚申信仰を象徴する青面金剛立像が浮き彫りされています。また、地蔵菩薩立像と左の庚申待供養塔の奥に阿弥陀三尊種子の月待供養板碑があります。これは文明十六年(1484年)八月二十三日に、二十三夜講の結衆十二人が、月の出をまってこれをまつる月待の行事を記念して造立しました。この板碑は、大正十一年(1922年)の河川改修工事の時に氷川神社付近で発見され、その後、ここに移されました。
板碑は、二十三夜の月例の夜、この地に住む人々が碑のもとに集まり、飲食をしながら月の出を待つ「月待供養」という行事を行なっていた名残りです。大正十一年の河川工事の際、氷川神社付近で発見されました。
北向地蔵堂から、浮間桜並木を進みます。夏が近いので、緑したたる桜の葉が目にしみます。
- ポイント3 浮間桜並木
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浮間桜並木は、荒川の土手下からJR線の高架までと、浮間五丁目交差点から中外製薬の工場を経て新河岸川に至るふたつの区間に連なっています。
左は初夏、右は晩秋の桜並木です。どちらも季節外れですが。
浮間五丁目交差点を右折して、中外製薬の工場敷地が途切れるところで左折しますと、その先に「浮間つり堀公園」があります。
- ポイント4 浮間つり堀公園
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浮間つり堀公園は、昭和三十五年に開設した浮間南公園を完全リニューアルし、魚釣りのできる公園にしたものです。
園内には、つり池やザリガニ池があり、真ブナ・和金などの魚やザリガニがいます。ただ、法律の改正によりザリガニの補充が出来なくなったため、ザリガニ釣りは限定されています(現在は終了?)。魚・ザリガニの持ち帰りはできません。
左が魚釣り池、右がザリガニ池です。
園内には桜の木も多く植えられています。また、釣り場には西浮間小学校の生徒がもち米の植え付け、刈り取りを行っている水田があります。春にはサクラを見ながら、また秋には黄金色に実った稲を眺めながら、のんびりと釣り糸を垂らすことができます
右の写真の巨石の先に水田があります。
浮間つり堀公園から新河岸川沿いの遊歩道を進んで、「浮間の渡船場跡」に向かいます。
- ポイント5 浮間の渡船場跡
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小豆沢(あずさわ)水上バス乗り場を対岸に望む此の場所には、かつて荒川の渡船場がありました。現在は新河岸川に面していますが、明治から昭和にかけての荒川の改修工事の前はここは荒川に面していたのです。この渡船場は浮間村が運営し、船賃は村の道の修繕や村社の修復などにあてられていました。浮間は桜草の名所として知られていましたが、その季節には多くの人が訪れ、臨時の渡船場が設けられたほどです。昭和三年に浮間橋ができ、渡船場は姿を消しました。
浮間の渡船場跡
ここにはかつて荒川の渡船場がありました。渡船場はこの説明板を川に向かってやや左手から対岸の板橋区小豆沢四丁目二十六番と二十七番の間を南北に通る道路へと結んでいました。明治四十四年(1911年)から昭和五年(1930年)にかけて行われた河川改修工事で荒川の流路が変更されたため、現在では渡船場のあった場所は新河岸川の流路となっています。江戸時代後期の状況を示す「新編武蔵風土記」には、浮間村の農民が、対岸にあった耕地との往来のために設けられたものでしたが、渡船場を維持するかわりに助郷を免除されていたと記されています。明治初年の状況を示す「武蔵国郡村誌」には、村道に属していて、村の南方、荒川の中程にあって、人専用一艘、馬専用一艘の計二艘が運航する民営の渡船であると記されています。渡船場は浮間村が運営しており、小豆沢側の船着場も浮間村で借りていました。渡船賃は、村社の修復・道の修繕・分教場の費用にあてられたといいます。村民は東京に行く時に利用しました。また、浮間は桜草の名所として知られていましたが、桜草の咲く頃には多くの人出がありましたので、現在の浮間橋寄りに臨時の渡船場ができました。昭和三年(1928年)五月、下流に浮間橋が架設されると、渡船場は姿を消していきました。
浮間の渡船場跡の案内板の脇に供養塔が並んでいます。右から順に、西国・秩父・坂東・四国八十八箇所供養塔、馬頭観音坐像供養塔・庚申待供養塔・水神宮の石祠です。
浮間渡船場跡の供養塔群
四基の石造物は、向かって右から西国・秩父・坂東・四国八十八箇所供養塔、馬頭観音坐像供養塔、庚申待供養塔、水神宮の石祠です。このうち水神宮の石祠を除く三基は、かつては現在地より100mほど北の浮間三−七と浮間五−三の境にあったといいます。札所についての供養塔は、浮間村の松澤伴右衛門という人物が西国・秩父・坂東百カ所の観音霊場、四国八十八ヶ所の弘法大師霊場巡拝した記念に、孫にあたる林蔵が、文政元年(1818年)七月に造立したものです。道行く人の助けとなるよう「右いゝつか・川口道」「左 浮間村」という道標銘も刻まれ
ています。馬頭観音坐像供養塔は、文化十年(1813年)十一月に浮間村講中の三十五人が、往来する馬の安全を祈って造立したものです。庚申待供養塔は、干支の庚申の日に徹夜して健康長寿を願う信仰にかかわるもので、天保九年(1838年)六月に浮間村講中十八人が造立しました。正面には、庚申信仰を象徴する青面金剛立像が浮き彫りされています。水神宮の石祠は、いつ造立されたかは不詳ですが、正面に「水神宮」と刻まれています。この付近に、かつては渡船場があり、往来の人々で賑わったことがしのばれます。
一番右手の西国・秩父・坂東・四国八十八箇所供養塔ですが、西国三十三所は観音菩薩の慈悲に触れる巡礼で、秩父・板東の観音霊場は西国までの旅が叶わない人の為に写し霊場として作られたものです。四国八十八箇所は山岳信仰などに由来し、海辺や山中で苦行する道を弘法大師と共に歩く修行の旅です。ちなみに、近畿二府四県と岐阜県の霊場を巡礼していく西国三十三所の巡礼道の総距離は約1、000kmで、四国を時計回りに円のよう札所が位置している四国八十八箇所のお遍路道の総距離は約1、400kmとなっています。4つの巡礼道を全て回るのは至難の業といえるでしょう。
浮間の渡船場跡から新河岸川沿いに進んで、「荒川土手」に出ます。
- ポイント6 荒川土手
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荒川土手の下に案内板が立っています。
荒川の洪水の歴史
荒川は、概ね50年に一度の周期で氾濫を起こしており、この100年では明治四十三年(1910年)と昭和二十二年(1947年)に大規模な洪水が発生しています。明治四十三年(1910年)の大水害は、東京の下町のほとんどが泥の海になり、浸水家屋27万戸、被災者150万人という大水害をもたらし、荒川放水路開削の契機となりました。昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風による洪水では、荒川・利根川上流部の堤防が決壊し、死者114名、家全壊流出1、418戸の被害を出し、荒川流域の戦後最大の災害となりました。
地域の歴史
赤羽東地区では、荒川の水害を受けながらも、肥沃な土壌を背景に水田耕作が行われていました。やがて、旧岩淵水門が建設されると、水害がなくなりました。赤羽西地区では、戦前は、民家がまばらで多くの軍用施設が設けられていましたが、戦後は、都営桐ヶ丘団地などの大団地が出現し、急激に人口が増加しました。浮間地区は、かつては埼玉県に属する人口400人程度の農村でしたが、荒川の工事後に交通の便の良い岩淵町と合併しました。その後、工場が多数進出し、人口もさらに増加しました。
北区・子どもの水辺
「子どもの水辺」は、近年川とのかかわりが薄れていく子どもたちに河川の利用を促進し、地域における体験活動の充実化を図ろうと、文部科学省・国土交通省・環境省が連携し、平成十一年度(1999年度)から進められているプロジェクトです。「北区・子どもの水辺」では、北区が水辺に親しむ事ができる自然地を整備し、市民団体、学校、自治会、河川管理者などで構成する協議会を設立して運営にあたっています。活動日には釣りなどの川遊び、自然観察、清掃活動などをとおして、川に関することを学んでいます。
高規格堤防北赤羽地区(河川防災ステーション)
北赤羽地区は、荒川の代表的な高規格堤防整備地区です。高規格堤防は、極めて大きな洪水でも決壊しないように堤防の高さの約30倍の幅をもつ堤防です。高規格堤防の上は通常の土地利用が可能ですが、ここ北赤羽地区では、災害時に緊急復旧活動等の拠点となる河川防災ステーションとして整備されています。災害時には、水防活動や緊急復旧活動に必要な資機材の備蓄、ヘリポート、作業ヤード等に利用されます。また、平常時には地域住民の憩いの場として利用できるようになっています。
土手の上に上がりますと、広場の横に浮間地区荒川防災ステーションがあります。浮間地区荒川防災ステーションは、洪水時や地震時に水防活動や復旧活動を行うために必要な資材を備蓄した防災拠点として、北区と国土交通省が共同で整備したものです。
荒川の河川敷の北区側には赤羽ゴルフ場と荒川赤羽緑地が設けられています。ゴルフ発祥の地であるスコットランドの原点を彷彿させる18ホールの荒川ゴルフ場は、四季折々の自然の情緒を満喫でき、ロングヒッター向きのアウト、アイアンの正確性を競うインと、まさにゴルフの面白さそのものを楽しめます。荒川赤羽緑地には野球場が整備されています。対岸は川口市で、都心と見間違うほど高層ビルが建ち並んでいます。オフィスビルではなく、大半はマンションですが。
土手の先に3本の鉄橋が並んでいます。まとめて荒川橋梁と呼ばれていて、上流側は湘南新宿ライン、中央は宇都宮線(東北線)・高崎線・上野東京ライン、下流側は京浜東北線が使用しています。この場所は北区内で荒川が決壊するとしたら一番危ない箇所といわれていた場所で、橋梁を通したために他の場所の堤防と比べて約3m程堤防が低くなっていました。2021年時点では、盛土をして堤防と線路の高さがほぼ同じになるようなかさ上げ工事が行なわれていました。2024年に再訪した時には工事は終っていて、堤防の高さが均一となって堤防決壊のリスクが低くなったそうです。
国道122号(岩槻街道・北本通り)が通る新荒川大橋の手前に、案内板にも掲載されていた「北区・子どもの水辺」があります。
北区・子どもの水辺 自然観察区域
“北区・子どもの水辺”は、子ども達が荒川の自然にふれあい、楽しく学習する場として、地元区民、荒川下流河川事務所、北区が協働して整備、維持管理しています。平成十九年(2007年)に国の「水辺の楽校」プロジェクトに登録されました。
子どもの水辺は、荒川の河口(東京湾)から約21.5kmの位置にあります。約21.5kmも離れているのに、潮の影響をうける汽水域です。満潮時は水位が高く、干潮時には水位が下がります。なぜなら川のこう配が1/5、600とゆるいためです。これは、1kmでわずか18cmしか高低差がないということです。
「大池」や「小池」には、多くの魚のほか、カニ、エビ、貝、ヤゴなど、いろいろな種類の生き物が生息しています。川と海が混ざった氷(汽水)を好む魚たち、川と海を往来する魚たちも数多くみられます。
生き物たちの大切な住みかである「大池」や「小池」が、いつまでも良好な姿であり続けるように、定期的な生物調査、草刈り、ゴミ拾い、修繕などを行っています。
「北区・子どもの水辺」の歴史も紹介されています。
北区・子どもの水辺
かつての荒川の様子
皆さんが今立っている荒川では、1953年頃まで、川遊びが盛んでした。飛び込み台のある水練場や、貸しボート屋があり、漁師の和船もみられました。当時の水辺には砂地の干潟、シルトのワンド(河川敷にできた池状の入り江)がありました。1950年代に沿川に工場が林立すると、水質汚染が進みはじめ、川遊びの人たちが激減し、河川敷にゴルフ場、野球場が増えていきました。
「北区・子どもの水辺」の誕生
年月を経て人々の意識が変わり、水質も改善、1999年には地元区民の要望により、イベント広場になる予定であった当地を水辺の自然地として再生することになりました。少しずつ水辺の整備が進む中、有志による「北区水辺の会」が発足し、荒川下流河川事務所、北区と協働して整備、維持管理が行われ、2005年に「北区・子どもの水辺」が完成し、2007年には国の「水辺の楽校」プロジェクトに登録されました。
楽しい遊びの場、学びの場として
その後も整備、維持管理が進められ、「北区・子どもの水辺」は現在の姿となっています。大池・小池のワンドを中心とした自然豊かな「北区・子どもの水辺」は、魚とり・虫とりなどの自然遊びの場として、さらに小学校や大学の学習の場として、訪れた多くの人たちに親しまれています。
「しょうぶ田」もあります。未だ見頃には早いですが。
しょうぶ田
ハナショウブ
●あやめ科 アヤメ属
●開花時期 6月
●花言葉 うれしい知らせ、優しさ、心意気、
優雅、伝言、優しい心、あなたを信じます
●誕生花 5月5日・8日・20日 6月8日・20日
※5月5日に風呂に入れるサトイモ科のショウブとは異なります。
荒川河川敷にはバーベキュー場もあります。テントやテーブル、それにBBQコンロは貸し出してもらえるみたいです。なので、材料だけ持参すれば手軽にBBQが楽しめますね。今日は平日なので、2組しかいませんが。
荒川土手から、旧岩淵水門(赤水門)と土手を挟んだ反対側にある「荒川知水資料館(amoa)」に向かいます。
- ポイント7 荒川知水資料館(amoa)
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荒川知水資料館(AMOA)は、荒川に関するさまざまな情報をわかりやすく展示した資料館で、荒川をもっと親しむための活動と交流のスペースとなっています。
資料館の入口の脇に、荒川放水路完成記念碑が置かれています。荒川放水路は、岩淵水門から江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川です。全長22km・川幅約500mで、大正二年(1913年)から昭和五年(1930年)までの17年がかりの難工事でした。この工事では30名近くの犠牲者が出て、記念碑には犠牲者を悼む言葉がプレートに記されています。工事を指揮したのは内務省土木技官の青山士で、青山士は日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった技術者でした。
此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ拂(はらう)ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センガ為ニ
荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。荒川下流改修事務所主任技師(現工事事務所長)であった青山士(あきら)および工事関係者一同が工事の爆牲者を弔うために資金を出し合ったものである。台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。
資料館の脇に巨大な石の構造物が展示されています。閘門とは、水面に高低差ある河川や運河の間で船の行き来をおこなう場合に設置する施設です。
船堀閘門頭頂部
荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木川閘門・小松川閘門を、左岸側に新川水門・船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。
資料館の左手に柵で囲われた一画があり、コンクリートで固めた石積みの上に小さな祠のようなものが建っています。京成押上線荒川橋梁は、京成押上線の八広駅−四ツ木駅間にあり(約448m)、大正十二年に荒川放水路掘削に伴って架設されました。この松杭は、約75年間、橋を支える基礎として地中に埋まっていたものです。
京成押上線旧荒川橋梁基礎杭
京成電気軌道株式会社施工の工事は、向島・四ツ木間2、224.9mの線路変更工事で、その荒川及び綾瀬川橋梁は杭打基礎に支持された4橋台、25橋脚の上に鋼板桁54連を架設し、向島、四ツ木方面に向かって、線路の盛土をしたものでした。この橋は元々放水路に通水する前に、短いスパンで低い橋脚を並べた構造であった上、昭和三十年代の高度成長期に、荒川周辺において大量の地下水を使用したことで起こった地盤沈下でさらに約1.7m下がり、さらに戦後の堤防嵩上げの際にも線路部分だけは低いまま存置されるなど、水運、水防上のネックになっていました。そのため50年代から掛け替え計画が策定されていましたが、平成三年1月の橋桁へのタンカー衝突事故を契機に一気に計画が進み、ついに平成十一年9月4日には上下とも新橋梁への切り替えが終了しました。
歴史と文化の散歩道でも訪れましたね。
日光御成道散歩
日光御成道散歩は、飛鳥山公園から岩淵水門までの約5.5kmのみちのりです。別名日光御成道と呼ばれた岩槻街道をたどり、赤羽駅から、一路荒川をめざし、下流域の水害を防ぐ為に建設された荒川放水路沿いを行く散歩道です。
荒川と岩淵水門
荒川はその名の通り昔から氾濫を繰り返した川でした。特に明治四十三年(1910年)八月の大洪水の時は、水は岩淵町から志村に沿うところで二丈七尺(約8m)に達したと伝えられています。これを契機に、荒川沿いの町を洪水災害から守るため、政府は荒川放水路造成を計画し、新たな川の開削と水門工事を実施しました。これらは難関を極めて困難でしたが、蒸気掘削機など当時の最新技術を使ったり主任技師はパナマ運河建設に従事して研究するなどの努力により、水門は大正十三年(1924年)十月に完成しました。この岩淵水門は五つのゲートを持つ水門で、そのゲートの一つは後に常に船が通れるように改修されました。
The Arakawa, River & Iwabuchi Sluice Gate
The flood-prone Arakawa River was finally tamed in 1924 with the completion of the Iwabuchi Sluice Gate and the Arakawa Canal. This ended the ever-present threat of flooding to the low-lying areas downstream. Construction of the gate and canal required considerable technological expertise, and the chief engineer for the project used his hands-on experience gained while on a visit to the Panama Canal
Construction Project as a guide.
荒川知水資料館から住宅地の中の「熊野神社」に向かいます。
- ポイント8 熊野神社
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熊野神社は、正和元年(1312年)に西蓮寺を開山した淳慶が熊野三社権現(現・熊野三山)を勧請して創建されたといわれています。毎年2月7日に白酒祭が行われていることで知られ、「鬼」と書いた的を射て、その後に白酒がふるまわれたことからこの祭名が付けられました(現在は甘酒がふるまわれています)。北区の無形民俗文化財にも指定されています。
東京都北区指定無形民俗文化財
熊野神社の白酒祭(オビシャ行事)
熊野神社は、鎌倉時代末期の正和元年(1312年)八月、下村の西蓮寺住僧であった淳慶が紀州の熊野三社権現の分霊を招き迎えて創建したと伝えられています。以来、同社は今日まで村の鎮守として志茂地区の神事・祭礼の中心をなしてきました。境内には、享和四年(1804年)正月建立の石鳥居、欄干の擬宝珠に文政五年(1822年)の年紀がみられる阿夫利社や嘉永二年(1849年)三月建立の富士講村上派の供養塔などがあります。毎年二月七日に同社では白酒祭と呼ばれる行事が行われます。この行事は元来正月七日の年占いの神事である歩射(オビシャ)の後に響宴として催されていたものです。祭では墨で丸く描いた円の中に鬼という字を書いて拵えた的を用意し、これを総代ら射手が弓矢で射抜きます。かつては歩射に使用した矢は魔除けになるといわれ、籤に当たった者が持ち帰れました。歩射が終了すると、主催者が参拝者に白酒(今は甘酒)と切餅を振舞います。この祭の名前の由来ともなった白酒は、元々は祭にあわせてズシと呼ばれる村落内組織が持ち回りで荒川の水を汲んで仕込んだと伝えられています。関東では千葉県・埼玉県の川沿いに多く見られるオビシャ行事ですが、都内で伝承されている事例はきわめて少なく、志茂地区の風俗慣習を理解する上で大変貴重な文化財です。
参道の脇に一本の椰子の木が枝葉を広げています。梛の木は、日本の南西部から四国・九州・台湾に分布する樹木で、伊豆半島が植生の北限とされています。梛の葉が落ちると緑色が茶色に変わり、葉の筋が強く見えて手で切っても切れないことから、男女の縁が切れない縁結びのお守りとして、また財布の中に入れておくとお札が切れないお守りとしてももてはやされています。一説には、源頼朝が伊豆山に配流されていた時、北条政子と愛を誓ったのが椰子の木の下とされ、これも縁結びのご利益のいわれのひとつになっています。
椰の木
椰の木は遠く中国の海南島や台湾等に自生するが、太古黒潮ラインに乗り本邦南紀四国九州等の温暖な地方に定着したイチヰ科の雌雄異株の常緑の高木です。椰の木は伊豆半島が北限であると伝えられ、当神社の椰の故郷伊豆山神社には「此の木他国に稀なり」と記して有り、東京の北辺当神社で育つとはと感激して居ります(地球温暖化の為か)。椰の木は古代より神社の境内に植えられて居り、奈良の春日神社には平安朝900年頃の巨木有り、伊豆山神社には今を去る1千400年余年の昔、山岳信仰の道開きとも仰がれる役の行者(小角)が、
神木椰の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は
千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず
と歌われた誌が有ります
鎌倉の尼将軍と名をはせた北條政子が若き日に、伊豆山に配流されていた源頼朝と椰の木の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁が結ばれる縁結びの神木とされてます。後に1192年、源頼朝鎌倉に幕府を開く。
他にも椰の木の文献が数多く有りますが、当熊野神社の本宮紀州熊野那智大社周辺にも椰の木有り、新宮の熊野速玉大社には平重盛が植えたといわれる樹齢1、000年の椰の巨木有り、千古の昔より信仰厚く、当神社にも「縁結び」の神々が坐します。椰の木との関わり深く、神木として大切に生育したいと思います。
参道正面奥に拝殿があります。
熊野神社
御祭神 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
伊邪那美神(いざなみのかみ)
事解之男神(ことさかのおのかみ)
由緒
当社の創建については明らかではありませんが、別当寺である西蓮寺の鐘に「正和壬子年八月先師淳慶阿闍梨従紀州奉勧請熊野三社権現為当郷鎮守」とした旨が彫られています。当時の西蓮寺住職淳慶阿闍梨(じゅんけいあじゃり)が紀州(和歌山県及び三重県の一部)より熊野三社権現を勧請して正和元年(1312年)八月に下村(現在の志茂)の鎮守としたと記されています。毎年二月七日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。なお、現在の社殿は明治百年記念事業として、昭和四十三年に改築竣工したものです。
末社
阿夫利神社 御祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)
浅間神社 御祭神 木花之佐久夜毘賣神(このはなのさくやびめのかみ)
大六天神社 御祭神 於母陀流神(おもだるのかみ)
十二社神社 御祭神 速玉之男神(はやたまのおのかみ)
御社殿右の末社には、四社が祀られています。この社殿は旧熊野神社の御本殿です。これら四社は「講」として、村人が本来御本社に参詣するところ、当時の交通手段では多くの方が出向く事は容易ではなく、有志の方が御本社より勧請し鎮守と一体にして氏子の信仰を仰いで今日まできています。なかでも阿夫利神社祭(五月七日)は五色の紙で御幣を切る事数十本これを奉納し、式典後参拝の方に家内安全・繁栄を願い差し上げて居ります。
拝殿の前に一対の狛犬の親子が鎮座しています。熊野神社の狛犬は、大人と子供の狛犬が2頭ずついます。台座には大正六年(1917年)に建立されたと刻まれています。また、狛犬自体は「狛犬修復石碑」に平成十一年(1999年)に修復されたと書かれています。台座は富士山の溶岩を持ってきて造られたといわれています。参拝に来て拝殿前の階段を上がることができない人は、子供の狛犬の体に触れて願い事をすれば叶うとのことです。
拝殿の右手には、阿夫利神社・浅間神社・大六天神社・十二社神社の4社を祀る末社があります。社殿は熊野神社の旧本殿で、文政五年(1822年)に建立されたものです。これら4社は、氏子たちによって組織された「講」による信仰が行われてきました。なかでも阿夫利神社を参詣する大山参りは、現在も熊野神社総代が毎年春に参拝を続けています。
北区台帳登載文化財(有形文化財 建造物)
阿夫利神社社殿(熊野神社旧本殿)
建築年代 文政五年(1822年)
今では阿夫利神社として多くの人が参拝に訪れるこの社殿は、元は熊野神社の本殿として使われていたものです。熊野神社は、正和元年(1312年)に和歌山の熊野からこの地に熊野三社権現を勧請したことが創建と伝わっています。昭和四十三年(1968年)に熊野神社の社殿が建て替えられる際に、本殿の社をここに移したもので、現在、この社殿には阿夫利神社の他、浅間神社・大六天神社・十二社神社が併せて祀られています。社殿の建築材には年輪の詰んだ良質の檜と欅とが用いられ、蟇股や木鼻など、部材の各所の彫刻には江戸時代後期の様式の特徴もみられます。高欄の擬宝珠金物に「文政五年壬午歳五月」の印刻も確認できることから、成熟した規矩術に則って建立された近世社寺建築であることがわかります。阿夫利神社の由来は定かではありませんが、元は橋戸の子育地蔵の裏手(現志茂三・四丁目の境)に祀られていたものが、昭和に入り熊野神社境内に移されたものです。かつてこの辺りでは、毎年五月七日に旧下村の若い衆が集まって万垢離あるいは祈祷垢離などと呼ばれる行事を執行していました。数百本もの御幣を挿した竹柱(ボンデンまたはボンゼンと呼ばれました)を作り、これを担いで「阿夫利権現六根清浄」と唱えながら荒川で水垢離した後、村内を練り歩き、氏子に挿してある御幣を配りました。
この他、境内には梛野原稲荷神社と水神宮の末社が祀られています。
椰野原稲荷神社(なぎのはら)
御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
荒川放水路は明治・大正時代まで、東京都・埼玉県一帯が大雨により度々洪水に見舞われ、住民は毎年悲惨な思いをして来た過程で建設されました。椰木野原とは荒川の対岸にあって、下村の飛地として放水路の出来るまで水田、畑として作物を生産していました。その地に当社は当時まで鎮座し、五穀豊穣と家内繁栄を願い村人の信仰を仰いでいましたが、放水路の建設により現在の地に移築されました。
志茂 水神宮
御祭神 水波の売神(みずはのめのかみ)
穀物の豊作と洪水災害除け、農村の水の恵みを祈願されてきています。当社は後世まで水の有難さを求め、現在数少ない水神祭を引き継ぎ行っています。
参道に面して4点の絵馬が掛けられています。左上の絵馬には、武将が闘っている様が描かれています。波頭が見えますので、壇ノ浦の合戦かもしれません。右上の絵馬には境内図が描かれています。宮島の厳島神社でしょうか?左下の絵馬には、右手にひときわ体の大きな人物がいて、左手には山伏姿の人物が数名見えます。酒呑童子退治の一場面を描いているようです。右下の絵馬には、有名な天岩戸の神話が描かれています。なかなかロマンがありますね。
熊野神社から志茂スズラン通り(志茂平和通り商店街)を抜けて「赤羽公園」に向かいます。
- ポイント9 赤羽公園
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赤羽公園は、キリンの滑り台がある小さな公園部分と、噴水と時計台のある広場、滑り台や砂場のある公園部分の3つの部分に分かれています。
噴水のある広場では春・秋の植木市や、フリーマーケットなどが行われます。
園内には、昔は螺旋すべり台として活躍していた「大空の門」があり、現在はモニュメントとして地域の方々に愛されています。
わがまちのシンボル
大空の門(おおぞらのもん)
昭和四十三年 大空の門が完成しました
ネコのような特徴のある顔。私の名前は大空の門。太陽の門って呼ぶ人もいるけどね。昔はきれいにお化粧をして、周りの木もなかったので全体の姿が見えていたんだ。昭和四十三年。このころ、赤羽駅の西側には既に赤羽台団地が完成し、東側はこれから開ける場所だったんだ。そこで私は、「新しいまちづくりのきっかけとなる東西を結ぶゲート」として、また、「明るく楽しいまちの様子や発展するまちの姿を見守るシンボル」として、思いを込められ、つくられたんだ。また、私は、遊具としてのもう一つの顔があって、子どもたちに人気の見晴らしの良い「らせんすべり台」として最近までずっと活躍していたんだ。らせん階段を上ると、地上4.5メートルの高さから赤羽公園全体を見渡すこともできたんだよ。
平成二十四年 大空の門がモニュメントとして生まれ変わりました
人気のすべり台だった私は、平成二十一年に検査を受けたところ、子どもたちに安全に遊んでもらうことができないということがわかったんだ。そこで、いったんすべり台の利用をやめて、これから先のことをみんなで考えてもらうことになったんだ。区からは、そろそろ寿命だから取り壊そうという話がされたけど、ここにずっと残しておいてほしいというまちの人の話もあり、一年かけて何度も話し合われたんだ。その結果、私は遊具としての役目を終えて、モニュメントとして新しく生まれ変わることになったんだ。私は、これからも子どもたちが元気に遊ぶ姿やまちが発展する姿を見守っていくよ。
赤羽公園を出て、ゴール地点の赤羽駅東口に着きました。
ということで、北区で十二番目の「A浮間と赤羽を歩くコース 〜浮間の史跡と荒川水辺を楽しむ〜」を歩き終えました。次は、北区で十三番目の「B北赤羽と志茂を歩くコース 〜歴史を刻んできた荒川沿いの町と赤羽の高台を楽しむ〜」を歩きます。
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