- B北赤羽と志茂を歩くコース 〜歴史を刻んできた荒川沿いの町と赤羽の高台を楽しむ〜
- コース 踏破記
- 今日は北区の「B北赤羽と志茂を歩くコース 〜歴史を刻んできた荒川沿いの町と赤羽の高台を楽しむ〜」を歩きます。北赤羽駅をスタート地点として、赤羽の神社仏閣と荒川の沿岸を巡ります。最初に歩いたのは初冬の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年6月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
B北赤羽と志茂を歩くコース 〜歴史を刻んできた荒川沿いの町と赤羽の高台を楽しむ〜
諏訪神社にある天保十三年の庚申塔。赤羽八幡神社は高台にあり、赤羽村、下村、袋村、岩淵宿、稲付村の総鎮守。西蓮寺は庭園の美しい寺。正光寺では北区で一番大きな観音様が見られます。
「B北赤羽と志茂を歩くコース 〜歴史を刻んできた荒川沿いの町と赤羽の高台を楽しむ〜」の歩行距離は約7.0km、歩行時間は約1時間45分です。
スタート地点:JR北赤羽駅
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- ポイント1 諏訪神社
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- ポイント2 赤羽八幡神社
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- ポイント3 正光寺(大観音)
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- ポイント4 旧岩淵水門(赤水門)
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- ポイント5 荒川知水資料館(amoa)
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- ポイント6 熊野神社
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- ポイント7 西蓮寺
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ゴール地点:東京メトロ志茂駅
スタート地点の北赤羽駅赤羽口から歩き始めます。
環八の北赤羽駅入口交差点から諏訪神社にかけて坂が上がっています。坂の途中に、「宮の坂」という標識が立っていますが、本当の宮の坂は、神社に向かって上がる赤羽桜並木通りではなく、神社の手前を通る旧道の坂だそうです。
宮の坂
坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指しており、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量が多い坂です。
- ポイント1 諏訪神社
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諏訪神社は、応永三年(1396年)に赤羽にある真頂院の第一世秀善和尚によって信州(長野県)の諏訪大社から分霊して創建されました。かっての袋村の鎮守でした。
諏訪神社
祭神は建御名方命です。別当寺であった真頂院(足立郡川口宿錫杖寺末寺)の寺伝によれば、応永三年(1396年)九月、同院第一世秀善和尚が創立したものだそうです。末社には、稲荷神社二社、八幡神社、須賀神社、白山神社、猿太彦神社があり、それぞれ、宇迦之御魂命、品陀和氣命(応神天皇)、須佐之男命、伊邪那岐命、猿田彦命を祀っています。「新篇武蔵風土記稿」には、神社の末社である丸山権現がかつての袋村の鎮守で、後にこの諏訪神社に改められたことが記されています。かつて社前には、袂杉と呼ばれた名木があり、神社の御神木にもなっていました。これは、真頂院の和尚が、諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉苗の内の一つでした。現在御神木の切株は、本殿の裏に移され、残っています。
諏訪神社の由緒を記した古めかしい板書も掲示されています。
東京都北区赤羽北三丁目鎮座
諏訪神社
祭神 建御名方命
由緒
当社は別当寺であった真頂院の寺伝によれば、応永参年(1396年)九月同院第一世秀善和尚が創立したものと伝えられております。かって社前に袂杉と呼ばれた名木があり、この神社の神木となっていました。これはいつの頃か真頂院の和尚が諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持って来た杉苗をこの神社の前と後に植たものゝうちの前のものと伝えられています。現在この切株が本殿の裏に移されて残っています。新篇武蔵風土記稿には、この神社の末社に丸山権現と山王社があり、丸山権現がかつての袋村の鎮守で、後にこの神社に改められた事や、山王社の傍の石碑(山王権現の石碑)寛政拾貳年(1800年)建立に建久五年(1194年)勧請と彫られているが、その出所は不明であることが記されています。
諏訪神社の境内には、かつて御神木とされていた杉の切り株「袂杉」があります。秀善和尚が故郷の諏訪から2本の苗を持ち帰り、社殿の前後に杉の木を植えたのです。社殿の後ろに植えられた杉の木は枯れてしまい、1961年8月に傷みの激しい部分が伐採され、地上から約170cmの高さの切り株になりました。袂杉の直径は約133cmの長さがあり、断面の保護のため鍋上の鉄板で覆われています。
社殿の前の杉の木は健在なようです。
諏訪神社の境内には、水準点が設置されています。水準点とは、精度の高い高さ(標高)の座標値をもった基準点です。測量法では、日本の土地の高さ(標高)は平均海面からの高さで表示することが定められています。明治九年以来、内務省は国土の測量のため、水準点の設置を行ってきました。諏訪神社の水準点は荒川1号と呼ばれ、それまで荒川筋に既設した水準点を補完する目的で昭和五年に内務省によって新たに設置されました。
諏訪神社境内の水準点
諏訪神社境内には、標石型の水準点が設置されています。明治九年以来、内務省は国土の測量のため、水準点の設置をおこなってきました。水準点とは、水準測量を行う際に基準とする点です。境内の水準点標石をよく見ると、それぞれの面に「内務省」「昭和五年」「荒川」「不B.M.1」と刻まれているのが判ります。「不」の字に見えるマークは「几(き)号」といって「不」の字の横棒が標高を表します。「B.M.」とは、水準点を表す英語「ベンチマーク」の頭文字で、そのあとの1は1号を表し、「荒川1号水準点」という意味合いになります。実はこの水準点は、それまでに内務省が設置した荒川筋の水準点を補完する目的で、昭和五年に新たに荒川筋に設置された十五ヶ所(内二ヶ所は入間川筋に設置)の水準点の一つです。記録によれば、諏訪神社境内の基準点を1号とし、荒川の上流方向に向かって水準点の設置が行われています。
荒川1号水準点のそれぞれの面です。この水準点は、それまでに内務省が設置した荒川筋の水準点を補完する目的で昭和五年に新に荒川筋に設置された15ヶ所(内2ヶ所は入間川筋に設置)の水準点のひとつです。記録によれば、諏訪神社境内の基準点を1号とし、荒川の上流方向に向かって水準点の設置が行われたそうです。
諏訪神社から桜並木を通って「赤羽八幡神社」に向かいます。なお、諏訪神社は赤羽八幡神社の兼務社(一人の宮司がいくつかの神社の宮司を兼任している場合、宮司が専従している神社を本務社、それ以外の神社は兼務社となります)になっています。
- ポイント2 赤羽八幡神社
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赤羽八幡神社は、旧赤羽村の鎮守であり、岩淵郷五ヶ村(旧岩淵町・現在の赤羽地区)の総鎮守でもありました。数字の8を横向きにした「∞(無限大)」をモチーフにしたお守りや御朱印があり、関ジャニ∞(現在は、グループ名を「SUPER EIGHT」に改名)の聖地になっていて、通称「エイト神社」とも呼ばれています。
鳥居の脇には、赤羽八幡神社が「八幡宮」とも呼ばれていた頃の名残でしょうか、天保十一年(1840年)と刻まれた八旛宮の石碑が建っています。表には「八幡宮 是ヨリ左ヘ一丁(八幡宮へはここから左へ109メートル)」、側面には「坂上大宿稲田村麻呂延暦三年東征之時創建(坂上田村麻呂が延暦三年(784年)に東北を征伐する際に創建した)」との記載があります。
鳥居の奥に階段が左右に設けられています。左側は赤羽八幡神社の正面参道の男坂、右側はいわゆる女坂です。石段の下の男坂と女坂の間に「石坂碑」と刻まれた大きな石碑が建っています。碑文はなく、石坂の整備のために献金したと思われる多数の人名が刻まれています。
石坂は長さが約25mほどの急な階段です。別名を「赤羽八幡神社石坂」といいます。坂名の由来は不明ですが、単純に石造りの階段ということに因んでいるものと思われます。階段左手の壁には、人名が書かれた多くのプレートが埋め込まれています。昭和四十六年(1971年)に東北・上越新幹線の建設が決まると赤羽八幡神社の神域を通ることは避けられず、神社氏子ともに反対するものの、最終的には国の決定を受け入れざるを得ませんでした。ただ、社務所の下は通ることになったものの、本殿の下を通ることは回避されました。神の祟りは怖いですからね。
神域整備完成記念
昭和五十六年、八幡神社神域内に、新幹線建設工事という創建以来、未曽有の難問に直面し、神社並びに役員は時代の趨勢(すうせい)を認識し、幾多の障害を克服して同年通過を承認、昭和六十年三月竣工し新幹線開通。これを機に、参道大鳥居及び本殿、神楽殿、神輿庫、社務所を新築、拝殿を改修し、石段回り築庭の全工事を完成。茲に、神域一新を記念し、神社の隆昌と繁栄を祈念し、神社役員が碑に名を刻し、永くその労を顕彰す。
赤羽八幡神社は上野東京ラインと埼京線・新幹線の高架線路に挟まれた小高い場所に位置しています。社務所の下には東北・上越・北陸新幹線・埼京線のトンネルが通っています。トンネルといっても高架の線路をコンクリートの壁と天井で覆い、その上に社務所が建っているのです。新幹線の上に神社があるのは日本広しとはいってもここだけでしょう。
急峻な石坂を上がりますと、鳥居の奥に拝殿があります。神社の詳細な由来を記した案内板が立っています。
八幡神社
赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和気命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇。「日本書紀」によれば、応神天皇の父)、息長帯比売命(神功皇后。「日本書紀」によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷五ヵ村(赤羽根村・下村・袋村・稲村村・岩淵宿)の総鎮守であり(「新編武蔵風土記稿」)、現在もその地域の総鎮守となっています。創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中(782年〜806年、平安時代)坂上田村麻呂(758年〜811年。平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長コ年中(995年〜999年、平安時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154年〜1156年、平安時代)源頼政が修造を加え、応永(1394年〜1428年、室町時代)正長(1428年〜1429年、室町時代)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫丈の地を寄進し、文明元年(1469年、室町時代)太田道灌が社殿を再建したといいます(「岩淵町郷土誌」)。これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の、天文二十年(1551年、室町時代)の寄進状が伝えられており、その文面は、
省略
となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。また、「新篇武蔵風土記稿」に、「赤羽根村・・・今ハ東叡山及傳通院村内宝幢院八幡社領入會ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649年、江戸時代)に七石余の朱印が付されていることから(「岩淵町郷土誌」)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に七石余有していたことも確実といえましょう。現在の本殿は昭和六年改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬が三枚納められています。この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です(「東京都遺跡地図」東京都教育委員会)。この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一師団工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。明治五年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同二十年、第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等があいつぎ、赤羽は「陸軍の町」となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祝)などは、その当時の名残りです。また、ここから星美学園に至る坂は、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。
赤羽八幡神社は勝負事に御利益があるそうです。賭け事の祈願は御法度とのことです。
「勝負事の神」 赤羽八幡神社
遠く平安時代の桓武天皇の御代(782年〜806年)、東北地方はまだまだ反乱多く、その征伐に桓武天皇は坂上田村磨を征夷大将軍として起用し、東北地方の征伐に向かわせた。途中、坂上田村磨はこの赤羽台の地に陣を張り、八幡大神を勧請し、武運長久を祈り無事東北地方を平定した。勧請された八幡大神は武力・知力の御徳高く、後に源氏をはじめ武家の守り神とされた。赤羽八幡神社は平安初期の代表的な武将であり、国家守護の力とされた坂上田村磨によってこの地に開かれた歴史により、武力・知力の「勝負事の神」として、現在では受験生やスポーツ選手等から篤く信仰されている。
赤羽八幡神社には12の末社があり、拝殿の左側にある鳥居の奥に祀られています。左から大国主神社、疱瘡神社、稲荷神社、住吉神社、大山神社、阿夫利神社、御嶽神社、北野神社となります。左端に鎮座する大国主神社は「縁結びの神様」なんだそうです。
縁結びの神 大国主神社
大国主神社の御祭神は、因幡の白兎神話にも登場する大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)です。その姿は大きな袋をしょって打出の小槌を持った大黒様として広く知られています。天照大神への国譲りでは、目に見えない「縁」を結ぶ事を司ることとなり、旧暦十月には全国の神々が、大国主大神の許で縁結びの神請をされています。「縁結びの神」として有名で、単に男女の縁を結ぶだけでなく、あらゆる幸福の縁を結ぶとされています。また、因幡の白兎神話で大国主大神に助けられた兎は、後に大神と八上姫との婚姻の縁を取り持ったとされ、かなわぬ縁を叶えるとされています。
大国主神の案内板にもあった「因幡の白兎神話」の案内板も立っています。
因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)
昔々、沖の島に住む一匹の白兎が、海を渡り因幡の国へ行こうと考えましたが、自力ではとても渡れません。そこでワニザメを騙し、対岸まで一列に並べさせ、その背中をぴょんぴょんと飛び跳ねながら、あと少しのところで「君たちは騙されたんだよ」と思わず口走ってしまいました。怒ったワニザメは、白兎の毛をむしり取り、丸裸にしてしまいました。兎があまりの痛さに浜で泣いていると、そこに大国主命(おおくにぬしのみこと)の兄神達が通りかかりました。兄神達は隣の因幡の国に、美人の八上姫(やがみひめ)がいると聞きつけ、自分の妻にしようと向かっているところでした。兄神達は、「海水で体を洗い、風に当たってよく乾かし、高い山の頂上で伏せていれば治る。」と兎に嘘を言い行ってしまいました。その通りにした兎の肌は乾いて破れ、血が吹き出し、傷口からは塩がしみていっそうひどくなりました。兎が泣いていると、先を行く兄神達の全ての荷物を持たされ大きな袋をかついだ大国主命が、遅れて通りかかりました。大国主命は、「おまえがワニザメを騙したのをこらしめる為に、兄神達はおまえに嘘を教えたのだろう。もう誰も騙してはいけないよ。」と言い、「河口に行って、真水で体を洗い、蒲の穂を付けなさい。」とおっしゃいました。すると兎の体には、どんどん元の白毛が戻り始めました。感謝した白兎は、「八上姫は、兄神達ではなく、大国主命を選ぶでしょう。」と予言しました。白兎の予言通り、八上姫は兄神ではなく大国主命をお選びになり、ふたりは結ばれたのでした。
右端に鎮座する北野神社は「学問の神様」なんだそうです。
北野神社のなで牛
「書道学問の上達・合格を祈願しながら、牛の像の頭をなでて下さい。
北野神社の御祭神、菅原道真は俗に「天神さん」と呼ばれ学者・文人・政治家として優れていたところから詩歌・文筆・学問の神として崇敬される様になった。近世には寺子屋で学問の上達を祈願する、天神信仰が普及した。御本社である北野天満宮(955年創建)には、菅原道真が丑年に生れて丑年に亡くなったことから、牛の像が安置されており、牛の頭をなでると頭脳明晰になると信じられている。
古峰神社は、赤羽大火をきっかけにして栃木県から勧請されました。
赤羽大火と古峯神社
明治三十六年六月四日の午後、赤羽に大火が起こりました。汽車の火の粉が線路際の民家の藁葺屋根に飛び移り、折からの強風にあおられて、あっという間に燃え広がり、町役場や火の見櫓を焼き、繁華街の本町通りや新築間もない赤羽小学校をも焼き尽くしました。最終的には線路の東側全てと、現在の赤羽西口駅前付近迄の赤羽の約四分の三を焼失し、四百名を超える犠牲者を出したのでした。この大火をきっかけに、赤羽の町民の間に火防の神としての信仰の篤い、栃木県の古峯神社にお参りする「講」を作ろうという機運が高まり、毎年六月に大挙して参詣する古峯神社講が始まりました。それ以来、古峯神社赤羽代参講として百年以上もの間、現在に至るまで規模は小さくなりましたが参詣を続けています。赤羽八幡神社では御本社より古峯大神を勧請し、多くの犠牲者の鎮魂と赤羽の平穏無事を祈願しています。
庚申塔は道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。江戸時代の初期から八幡様の地域に多く建てられました。ここにある猿田彦庚申塔は近隣の再開発によりもとの場所から紆余曲折の後、神社に集められました。うつり坂上にあった庚申塔もそのひとつです。
猿田彦庚申塔
猿田彦は日本書紀に天照大御神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神として記載されていたことから、道の神、旅人の神として祀られ、近世期には庚申塔に多く彫られるようになりました。旧板橋街道近辺(現在の区道北1555号線付近)には庚申信仰の本尊として青面金剛が彫られた庚申塔のほか猿田彦神が彫られた庚申塔が江戸時代から多く設置されていましたが、明治時代から大正時代にかけて、旧板橋街道を含む一帯に陸軍被服本廠が設置されると、本廠周辺にあった庚申塔は本廠敷地内に集約されました。戦後、被服本廠の敷地は進駐軍による接収を経て、日本住宅公団(現UR都市機構)の赤羽台団地となりました。団地建設に伴い、昭和三十七年に庚申塔は旧赤羽台団地49号棟付近に移設されました。移設後は、「赤羽台猿田彦神社」として赤羽台団地の住民のみならず地域の守り神として長年崇められてきましたが、赤羽台団地の建替に伴い、本神社に平成二十九年四月に移設されました。
赤羽八幡神社から旧日光御成道・岩槻道を通って赤羽交差点に向かいます。交差点近くに「正光寺」があります。
- ポイント3 正光寺(大観音)
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正光寺(しょうこうじ)は、鎌倉時代に良忠上人を開山、石渡民部少輔保親を開基として創建されました。創建当時は荒川の畔にあり、「西光寺」と呼ばれていました。その後衰退して荒廃しましたが、慶長七年(1602年)小田切将監重好と眞譽龍湛上人によって現在の地に寺を移転し、小田切将監重好の法号によって正光寺となりました。それ以来、岩淵町の中心的な寺院となりました。しかし、1978年に本堂が焼失した以降は再建されず、暫くは空き地のようになっていましたが、2011年7月に本堂その他が再建され、現在では本来の姿を取り戻しつつあります。
なお、寺伝によりますと、本尊の阿弥陀如来は春日仏師の作、観音堂にある観音像は源頼朝公守本尊といわれ、行基の作であるとされています。
境内にある観音像は「岩淵大観音」と呼ばれ、高さは約10メートルで、明治三年(1870年)に建立されました。正光寺の周辺一帯は、かって近くを流れる荒川が氾濫して人々を悩ましていました。そこで、人々が金品を出し合って正光寺に観音像を造立し、荒川の平穏を祈ったのです。
正光寺から住宅地の路地を抜け、荒川の土手に出て「旧岩淵水門(赤水門)」に向かいます。
- ポイント4 旧岩淵水門(赤水門)
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旧岩淵水門(赤水門)は、その色から通称「赤水門」と呼ばれています。大正五年(1916年)に着工し、大正十三年(1924年)10月に完成しました。RC造(一部S造)で、9メートル幅のゲート5門で構成されています。昭和三十五年(1960年)3月には、通船のために5番ゲートが改造されました。完成以来、最大2メートル以上にもおよぶ地盤沈下や、左右岸の不等沈下が発生するなどの問題に悩まされ、新水門完成に伴ってその役割を終えましたが、地元の人などから惜しまれ保存されることになりました。水門上は歩行者自転車専用橋として開放され、川に囲まれた中之島(水門公園)に渡ることができます。
旧岩淵水門
旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治四十四年から昭和五年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正五年から大正十三年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和五十年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和五十七年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成十九年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成二十年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が認定されました。このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。
近くから見上げると、今でも大迫力です。
東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門
旧岩淵水門は、明治四十三年(1910年)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川とこの分派点に設けた。水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、レンガ構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正五年(1916年)に着工し、同十三年(1924年)に竣工した。昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風や昭和三十三年(1958年)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和二十年代後半からの東京東部地域一体(帯?)における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和三十五年(1960年)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。その後、昭和四十八年(1973年)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和五十七年(1982年)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。
陸続きになっている荒川赤水門緑地に渡ります。奇妙な塔が荒川を見下ろすように建っています。
月を射る
青野正
材質 リバーテン鋼
平成八年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品
受賞者の言葉
この作品は、無垢の鉄棒を溶断し、一本づつ積み上げて製作しています。私は、形あるものの消えゆく時間、造られたものが風化され「風になる」という遥かなことに、思いを巡らせています。
「月を射る」では、古代の人々が憧れたであろう、天・月・川面に映った世界、果てのない世界観を想像してみました。満月のときの明るい夜空に、水の上に、何か見えるとよいのですが。
荒川リバーアートコンテストは、荒川クリエーション実行委員会主催により行われ、荒川の広々とした空間に映る美的造型物として、河川敷に設置することを条件に公募したものです。
巨大な石碑が建っています。戦前、此の地において「全日本草刈選手権大会」が開催されたのだそうです。
由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから草刈奨励の為の有志相図り幾多の曲折を経て漸く男女青年團農学校壮年團と四組に分ち全国に亘って町村大會郡大會都道府県大會と選手を選抜し最後に全日本草刈選手権大會を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。鎌を競う選手四万餘名熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なひいて一世の壮親であった。大東亜戦のため止むなく中止したが草刈魂を永遠に傅ふるため農業團体其他篤志家の寄付を仰ぎ茲に草刈の碑を建立した。蓋し農は國の大本草刈堆肥は土を作る農業の根本だからである。
旧岩淵水門から土手下に降りたところに「荒川知水資料館(amoa)」があります。
- ポイント5 荒川知水資料館(amoa)
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荒川知水資料館(AMOA)は、荒川に関するさまざまな情報をわかりやすく展示した資料館で、荒川をもっと親しむための活動と交流のスペースとなっています。
資料館の入口の脇に、荒川放水路完成記念碑が置かれています。荒川放水路は、岩淵水門から江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川です。全長22km・川幅約500mで、大正二年(1913年)から昭和五年(1930年)までの17年がかりの難工事でした。この工事では30名近くの犠牲者が出て、記念碑には犠牲者を悼む言葉がプレートに記されています。工事を指揮したのは内務省土木技官の青山士で、青山士は日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった技術者でした。
此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ拂(はらう)ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センガ為ニ
荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。荒川下流改修事務所主任技師(現工事事務所長)であった青山士(あきら)および工事関係者一同が工事の爆牲者を弔うために資金を出し合ったものである。台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。
資料館の脇に巨大な石の構造物が展示されています。閘門とは、水面に高低差ある河川や運河の間で船の行き来をおこなう場合に設置する施設です。
船堀閘門頭頂部
荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木川閘門・小松川閘門を、左岸側に新川水門・船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。
資料館の左手に柵で囲われた一画があり、コンクリートで固めた石積みの上に小さな祠のようなものが建っています。京成押上線荒川橋梁は、京成押上線の八広駅−四ツ木駅間にあり(約448m)、大正十二年に荒川放水路掘削に伴って架設されました。この松杭は、約75年間、橋を支える基礎として地中に埋まっていたものです。
京成押上線旧荒川橋梁基礎杭
京成電気軌道株式会社施工の工事は、向島・四ツ木間2、224.9mの線路変更工事で、その荒川及び綾瀬川橋梁は杭打基礎に支持された4橋台、25橋脚の上に鋼板桁54連を架設し、向島、四ツ木方面に向かって、線路の盛土をしたものでした。この橋は元々放水路に通水する前に、短いスパンで低い橋脚を並べた構造であった上、昭和三十年代の高度成長期に、荒川周辺において大量の地下水を使用したことで起こった地盤沈下でさらに約1.7m下がり、さらに戦後の堤防嵩上げの際にも線路部分だけは低いまま存置されるなど、水運、水防上のネックになっていました。そのため50年代から掛け替え計画が策定されていましたが、平成三年1月の橋桁へのタンカー衝突事故を契機に一気に計画が進み、ついに平成十一年9月4日には上下とも新橋梁への切り替えが終了しました。
歴史と文化の散歩道でも訪れましたね。
日光御成道散歩
日光御成道散歩は、飛鳥山公園から岩淵水門までの約5.5kmのみちのりです。別名日光御成道と呼ばれた岩槻街道をたどり、赤羽駅から、一路荒川をめざし、下流域の水害を防ぐ為に建設された荒川放水路沿いを行く散歩道です。
荒川と岩淵水門
荒川はその名の通り昔から氾濫を繰り返した川でした。特に明治四十三年(1910年)八月の大洪水の時は、水は岩淵町から志村に沿うところで二丈七尺(約8m)に達したと伝えられています。これを契機に、荒川沿いの町を洪水災害から守るため、政府は荒川放水路造成を計画し、新たな川の開削と水門工事を実施しました。これらは難関を極めて困難でしたが、蒸気掘削機など当時の最新技術を使ったり主任技師はパナマ運河建設に従事して研究するなどの努力により、水門は大正十三年(1924年)十月に完成しました。この岩淵水門は五つのゲートを持つ水門で、そのゲートの一つは後に常に船が通れるように改修されました。
The Arakawa, River & Iwabuchi Sluice Gate
The flood-prone Arakawa River was finally tamed in 1924 with the completion of the Iwabuchi Sluice Gate and the Arakawa Canal. This ended the ever-present threat of flooding to the low-lying areas downstream. Construction of the gate and canal required considerable technological expertise, and the chief engineer for the project used his hands-on experience gained while on a visit to the Panama Canal
Construction Project as a guide.
資料館には、荒川に関する様々な資料が展示されています。
防災活動についても解説されています。
荒川知水資料館から住宅地の中の「熊野神社」に向かいます。
- ポイント6 熊野神社
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熊野神社は、正和元年(1312年)に西蓮寺を開山した淳慶が熊野三社権現(現・熊野三山)を勧請して創建されたといわれています。毎年2月7日に白酒祭が行われていることで知られ、「鬼」と書いた的を射て、その後に白酒がふるまわれたことからこの祭名が付けられました(現在は甘酒がふるまわれています)。北区の無形民俗文化財にも指定されています。
東京都北区指定無形民俗文化財
熊野神社の白酒祭(オビシャ行事)
熊野神社は、鎌倉時代末期の正和元年(1312年)八月、下村の西蓮寺住僧であった淳慶が紀州の熊野三社権現の分霊を招き迎えて創建したと伝えられています。以来、同社は今日まで村の鎮守として志茂地区の神事・祭礼の中心をなしてきました。境内には、享和四年(1804年)正月建立の石鳥居、欄干の擬宝珠に文政五年(1822年)の年紀がみられる阿夫利社や嘉永二年(1849年)三月建立の富士講村上派の供養塔などがあります。毎年二月七日に同社では白酒祭と呼ばれる行事が行われます。この行事は元来正月七日の年占いの神事である歩射(オビシャ)の後に響宴として催されていたものです。祭では墨で丸く描いた円の中に鬼という字を書いて拵えた的を用意し、これを総代ら射手が弓矢で射抜きます。かつては歩射に使用した矢は魔除けになるといわれ、籤に当たった者が持ち帰れました。歩射が終了すると、主催者が参拝者に白酒(今は甘酒)と切餅を振舞います。この祭の名前の由来ともなった白酒は、元々は祭にあわせてズシと呼ばれる村落内組織が持ち回りで荒川の水を汲んで仕込んだと伝えられています。関東では千葉県・埼玉県の川沿いに多く見られるオビシャ行事ですが、都内で伝承されている事例はきわめて少なく、志茂地区の風俗慣習を理解する上で大変貴重な文化財です。
参道の脇に一本の椰子の木が枝葉を広げています。梛の木は、日本の南西部から四国・九州・台湾に分布する樹木で、伊豆半島が植生の北限とされています。梛の葉が落ちると緑色が茶色に変わり、葉の筋が強く見えて手で切っても切れないことから、男女の縁が切れない縁結びのお守りとして、また財布の中に入れておくとお札が切れないお守りとしてももてはやされています。一説には、源頼朝が伊豆山に配流されていた時、北条政子と愛を誓ったのが椰子の木の下とされ、これも縁結びのご利益のいわれのひとつになっています。
椰の木
椰の木は遠く中国の海南島や台湾等に自生するが、太古黒潮ラインに乗り本邦南紀四国九州等の温暖な地方に定着したイチヰ科の雌雄異株の常緑の高木です。椰の木は伊豆半島が北限であると伝えられ、当神社の椰の故郷伊豆山神社には「此の木他国に稀なり」と記して有り、東京の北辺当神社で育つとはと感激して居ります(地球温暖化の為か)。椰の木は古代より神社の境内に植えられて居り、奈良の春日神社には平安朝900年頃の巨木有り、伊豆山神社には今を去る1千400年余年の昔、山岳信仰の道開きとも仰がれる役の行者(小角)が、
神木椰の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は
千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず
と歌われた誌が有ります
鎌倉の尼将軍と名をはせた北條政子が若き日に、伊豆山に配流されていた源頼朝と椰の木の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁が結ばれる縁結びの神木とされてます。後に1192年、源頼朝鎌倉に幕府を開く。
他にも椰の木の文献が数多く有りますが、当熊野神社の本宮紀州熊野那智大社周辺にも椰の木有り、新宮の熊野速玉大社には平重盛が植えたといわれる樹齢1、000年の椰の巨木有り、千古の昔より信仰厚く、当神社にも「縁結び」の神々が坐します。椰の木との関わり深く、神木として大切に生育したいと思います。
参道正面奥に拝殿があります。
熊野神社
御祭神 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
伊邪那美神(いざなみのかみ)
事解之男神(ことさかのおのかみ)
由緒
当社の創建については明らかではありませんが、別当寺である西蓮寺の鐘に「正和壬子年八月先師淳慶阿闍梨従紀州奉勧請熊野三社権現為当郷鎮守」とした旨が彫られています。当時の西蓮寺住職淳慶阿闍梨(じゅんけいあじゃり)が紀州(和歌山県及び三重県の一部)より熊野三社権現を勧請して正和元年(1312年)八月に下村(現在の志茂)の鎮守としたと記されています。毎年二月七日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。なお、現在の社殿は明治百年記念事業として、昭和四十三年に改築竣工したものです。
末社
阿夫利神社 御祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)
浅間神社 御祭神 木花之佐久夜毘賣神(このはなのさくやびめのかみ)
大六天神社 御祭神 於母陀流神(おもだるのかみ)
十二社神社 御祭神 速玉之男神(はやたまのおのかみ)
御社殿右の末社には、四社が祀られています。この社殿は旧熊野神社の御本殿です。これら四社は「講」として、村人が本来御本社に参詣するところ、当時の交通手段では多くの方が出向く事は容易ではなく、有志の方が御本社より勧請し鎮守と一体にして氏子の信仰を仰いで今日まできています。なかでも阿夫利神社祭(五月七日)は五色の紙で御幣を切る事数十本これを奉納し、式典後参拝の方に家内安全・繁栄を願い差し上げて居ります。
拝殿の前に一対の狛犬の親子が鎮座しています。熊野神社の狛犬は、大人と子供の狛犬が2頭ずついます。台座には大正六年(1917年)に建立されたと刻まれています。また、狛犬自体は「狛犬修復石碑」に平成十一年(1999年)に修復されたと書かれています。台座は富士山の溶岩を持ってきて造られたといわれています。参拝に来て拝殿前の階段を上がることができない人は、子供の狛犬の体に触れて願い事をすれば叶うとのことです。
拝殿の右手には、阿夫利神社・浅間神社・大六天神社・十二社神社の4社を祀る末社があります。社殿は熊野神社の旧本殿で、文政五年(1822年)に建立されたものです。これら4社は、氏子たちによって組織された「講」による信仰が行われてきました。なかでも阿夫利神社を参詣する大山参りは、現在も熊野神社総代が毎年春に参拝を続けています。
北区台帳登載文化財(有形文化財 建造物)
阿夫利神社社殿(熊野神社旧本殿)
建築年代 文政五年(1822年)
今では阿夫利神社として多くの人が参拝に訪れるこの社殿は、元は熊野神社の本殿として使われていたものです。熊野神社は、正和元年(1312年)に和歌山の熊野からこの地に熊野三社権現を勧請したことが創建と伝わっています。昭和四十三年(1968年)に熊野神社の社殿が建て替えられる際に、本殿の社をここに移したもので、現在、この社殿には阿夫利神社の他、浅間神社・大六天神社・十二社神社が併せて祀られています。社殿の建築材には年輪の詰んだ良質の檜と欅とが用いられ、蟇股や木鼻など、部材の各所の彫刻には江戸時代後期の様式の特徴もみられます。高欄の擬宝珠金物に「文政五年壬午歳五月」の印刻も確認できることから、成熟した規矩術に則って建立された近世社寺建築であることがわかります。阿夫利神社の由来は定かではありませんが、元は橋戸の子育地蔵の裏手(現志茂三・四丁目の境)に祀られていたものが、昭和に入り熊野神社境内に移されたものです。かつてこの辺りでは、毎年五月七日に旧下村の若い衆が集まって万垢離あるいは祈祷垢離などと呼ばれる行事を執行していました。数百本もの御幣を挿した竹柱(ボンデンまたはボンゼンと呼ばれました)を作り、これを担いで「阿夫利権現六根清浄」と唱えながら荒川で水垢離した後、村内を練り歩き、氏子に挿してある御幣を配りました。
この他、境内には梛野原稲荷神社と水神宮の末社が祀られています。
椰野原稲荷神社(なぎのはら)
御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
荒川放水路は明治・大正時代まで、東京都・埼玉県一帯が大雨により度々洪水に見舞われ、住民は毎年悲惨な思いをして来た過程で建設されました。椰木野原とは荒川の対岸にあって、下村の飛地として放水路の出来るまで水田、畑として作物を生産していました。その地に当社は当時まで鎮座し、五穀豊穣と家内繁栄を願い村人の信仰を仰いでいましたが、放水路の建設により現在の地に移築されました。
志茂 水神宮
御祭神 水波の売神(みずはのめのかみ)
穀物の豊作と洪水災害除け、農村の水の恵みを祈願されてきています。当社は後世まで水の有難さを求め、現在数少ない水神祭を引き継ぎ行っています。
参道に面して4点の絵馬が掛けられています。左上の絵馬には、武将が闘っている様が描かれています。波頭が見えますので、壇ノ浦の合戦かもしれません。右上の絵馬には境内図が描かれています。宮島の厳島神社でしょうか?左下の絵馬には、右手にひときわ体の大きな人物がいて、左手には山伏姿の人物が数名見えます。酒呑童子退治の一場面を描いているようです。右下の絵馬には、有名な天岩戸の神話が描かれています。なかなかロマンがありますね。
熊野神社から「西蓮寺」に向かいます。
- ポイント7 西蓮寺
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西蓮寺は、鎌倉時代の弘安年間(1278年〜1288年)に淳慶阿闍梨という僧によって開創されました。本尊は阿弥陀如来坐像で、聖徳太子作と伝わっていますが、実際の制作は鎌倉時代初期のようです。西蓮寺は志茂地域の代表的な寺院で、江戸時代には地域内に末寺3寺を擁していました(現在はいずれも廃寺)。現在では末寺の本尊も西蓮寺で祀られています。
東京都北区指定有形文化財(彫刻)
木造阿弥陀如来坐像
西蓮寺は、弘安十年(1287年)に没した法印淳慶が開基とされる中世期創建の古刹で、阿弥陀如来坐像を本尊として安置しています。阿弥陀如来とは、西方極楽浄土にあって、往生を願う人々を、浄土へと迎え入れる仏です。西蓮寺の木造阿弥陀如来坐像は、高さ53.5cm、光背・台座を含めると総高約1.3mです。材質は檜材で、本格的な寄木造の工法がとられています。像全体は漆箔仕上げで、頭部は群青彩に塗られ、頭部にある肉髻珠や額にある白毫および玉眼は水晶製のものが嵌め込まれています。像は、右足を上にした結跏趺坐の座り方で、両手は衆生を浄土へ迎え入れるための来迎印を結んでいます。均整のとれた体躯や浅く控えめな衣文には、平安時代後期の「定朝様」と呼ばれる仏像彫刻の作風がみられますが、引きしまった顔立ちと、胸や腹の厚みのある肉取りからは、鎌倉時代初期の新しい様式が感じられます。このことから、区内でも数少ない鎌倉時代の初期に製作されたものといえます。本像は、江戸時代と大正時代に修復がなされていましたが、平成八年(1996年)に保存のための解体修復が行われ、造立当時の姿をよみがえらせています。
境内には11基の板碑がありますが、多くは鎌倉時代から室町時代にかけての作で、当時のこの地域の人々の信仰を示す貴重な史料となっています。板牌とは石で造られた供養塔の一種で、鎌倉時代から戦国時代に祖先の追善供養や来世の安穏を願って建立されました。
東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
西蓮寺板碑群
板碑とは、石で造られた供養塔の一種で、鎌倉から戦国時代に祖先の追善供養や来世の安穏を願って建立されたものです。西蓮寺には合計十一基の板碑があり、二基が本堂内に保管され、一基が墓地内、残りの八基が本堂の前に並んで建てられています。十一基の板碑の内、造立年代のわかるものは五基あり、鎌倉時代二基、室町時代三基です。最も大きな弘安九年(1286年)正月晦日銘阿弥陀一尊種字板碑は、二つに割れてはいますが、鎌倉時代の特徴を備えた区内でも二番目に古いものです。もとは旧末寺の満願寺にあったもので、明治八年(1875年)十一月、西蓮寺に合寺されたときに移されたものと考えられます。この他の板碑も、昔から西蓮寺にあったものと、比較的最近、付近から移されたものとがあるようです。また、墓地の中にある文明庚子(十二年・1480年)九月廿八日銘の板碑は、主尊に大日如来の真言と大日経の偈を刻んだもので、当時の住職であった長慶が自分と自分の周囲の人々の来安安穏を願って生前に建てたものです。これらは皆、阿弥陀如来や密教にかかわる信仰を表現しており、当時の人々の信仰のあり方の一端を示しています。
中央の阿弥陀一尊種字板碑は上下ふたつに割れ、並べて置かれています。
ここにある十一基の板牌は北区有形文化財(歴史資料)として指定されています。年代がわかるものとしては、中央の弘安九年(1286年)の銘のあるものが一番古く、これを含め鎌倉時代が二基、室町時代が三基あり、当時の人々の信仰の深さやあり方を今に伝えています。
西蓮寺板牌群
板牌とは石で造られた供養塔の一種で、鎌倉時代から戦国時代に祖先の追善供養や来世の安穏を願って建立されました。ここにある十一基の板牌は北区有形文化財(歴史資料)として指定されており、年代がわかるものとしては、中央の弘安九年(1286年)の銘のあるものが一番古く、これを含め鎌倉時代が二基、室町時代が三基あり、当時の人々の信仰の深さやあり方を今に伝えています。
現在の本堂は関東大震災後の1932年に再建され、1990年代に改修されました。その際に客殿・寺務所・庫裡等も新たに作られました。また、江戸時代には現在の北区立岩淵小学校の前身となる寺子屋が西蓮寺内に開設されていました。石碑には「田中小学校跡」と書かれていますが、田中小学校は寺子屋が明治時代になって公立小学校になった際の橋渡しの役目を担いました。
西蓮寺は美しい庭園でも知られています。
西蓮寺を出て、ゴール地点の東京メトロ志茂駅に着きました。
ということで、北区で十三番目の「B北赤羽と志茂を歩くコース 〜歴史を刻んできた荒川沿いの町と赤羽の高台を楽しむ〜」を歩き終えました。次は、北区で十四番目の「C赤羽と十条を歩くコース 〜歴史・公園・商店街を楽しむ〜」を歩きます。
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