- D王子界隈を歩くコース 〜歴史・公園・北とぴあを楽しむ〜
- コース 踏破記
- 今日は北区の「D王子界隈を歩くコース 〜歴史・公園・北とぴあを楽しむ〜」を歩きます。王子駅をスタート地点として、北区の北部・東部の名所・旧跡を巡ります。神谷堀や白山堀など、今は失われた水の跡に思いを馳せます。最初に歩いたのは初冬の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年6月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
D王子界隈を歩くコース 〜歴史・公園・北とぴあを楽しむ〜
名主の滝公園は、四季折々の自然が楽しめ、新緑や晩秋の色づく頃が特に美しいです。北とぴあの最上階は展望ロビーで、王子界隈を上から眺められ、天気の良い日には、筑波山や周りの山並みがよく見えます。
「D王子界隈を歩くコース 〜歴史・公園・北とぴあを楽しむ〜」の歩行距離は約8.0km、歩行時間は約2時間です。
スタート地点:JR王子駅親水公園口
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- ポイント1 王子稲荷神社
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- ポイント2 名主の滝公園
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- ポイント3 神谷堀公園
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- ポイント4 豊島馬場遺跡公園
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- ポイント5 紀州神社
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- ポイント6 豊島公園
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- ポイント7 白山神社
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- ポイント8 装束稲荷神社
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- ポイント9 北とぴあ
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ゴール地点:JR王子駅
スタート地点の王子駅親水公園口から「王子稲荷神社」に向かいます。
- ポイント1 王子稲荷神社
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王子稲荷神社の辺りは武蔵野台地の縁になるので、急坂が多くあります。王子稲荷神社が面している坂は「王子稲荷の坂」と呼ばれています。
王子稲荷の坂
この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。
王子稲荷神社は東国三十三国稲荷総司との伝承を持つと共に、狐火の名所とされています。「王子の狐火(きつねび)」とは、江戸時代に郊外だった王子に現れた狐火にまつわる民話の伝承です。かって王子周辺が一面の田園地帯だった頃、路傍に「装束榎」と呼ばれた一本の大きな榎の木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちが松明を点してこの榎の木の下に集まり、正装を整えた後に官位を求めて王子稲荷へ参殿しました。狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。現在は、大晦日の夜に地元の人々によって狐の行列が催されています。
表門の脇に、王子稲荷神社に所蔵されている国認定重要美術品の「額面著色鬼女図」の案内板が立っています。
国認定重要美術品 額面著色鬼女國
日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面著色鬼女図は、天保十一年(1840年)二月初午に、江戸住吉の砂糖商人の同業組合である明徳講が、商権の拡大を願って奉納した絵馬です。絵馬は、凡そ縦190cm、横245cmの大きさで、画面いっぱいには、酒呑童子の家来茨木童子が化けた鬼女の姿が描かれています。源頼光の家臣渡辺綱は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、その女の片腕を切り取ってしまいました。六日後のこと、鬼女は、切り取られた腕を取り返すべく、渡辺綱の伯母に化けて、綱の屋敷を訪れます。鬼女は、腕を取り返すや否や、伯母から変じて目を怒らせ、口を開き、疾風のごとく空中に飛び去りました。この画の麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、是真の名を世に知らしめる契機となったと伝えられます。
王子稲荷神社から「名主の滝公園」に向かいます。
- ポイント2 名主の滝公園
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名主の滝公園は、江戸時代に王子村の名主であった畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を栽培して避暑のために一般に開放したのが始まりで、公園名の「名主」はそこに由来します。戦災で一時荒れ果てていましたが、東京都が土地の買収と橋や東屋などの修理を進め、昭和三十五年(1980年)に都の有料公園として開園しました。その後、昭和五十年(1975年)に北区に移管されました。
名主の滝
名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかではありませんが、嘉永三年(1850年)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は、好んでいた塩原(栃木県)の景に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。昭和七年の文献に、開園期間は四月一日から十一月三十日まで、新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。昭和十三年、垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。昭和三十三年、東京都は名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同三十五年十一月から都立公園として公開されるにいたりました。昭和五十年四月一日、東京都から北区に移管。北区立の公園となり、同六十一年十月から一年半、大規模な改修がなされました。
園内は回遊式の庭園となっていて、男滝・女滝・独鈷の滝・湧玉の滝の4つの滝が復元されています。これらの滝は地下水をポンプで汲み上げて水を流していて、滝から流れた水は小川となって園内を巡り大小の池に注ぐ仕組みになっています。
男滝(左)は流量豊富ですが、女滝(右)には現在は水は流れていません。
名主の滝公園から「神谷堀公園」に向かいます。神谷堀公園の入口脇に「産業考古学探査路」と書かれた案内碑が建っています。北区内には、かって多くの工場がありました。現存しているものは殆どありませんが、区内の各地にその歴史的な跡が残っていて、このような碑が置かれています。プレートの文字や写真が経年劣化して見づらくなっているのは残念ですが。ちなみに、北区に大規模な団地やマンションが多くあるのは、このような工場跡の敷地を再開発したからです。
産業考古学探査路
王子周辺にはかつて、20世紀初頭の殖産興業を支えた工場が数多く存在していました。「産業考古学探索路」は、区民のみなさんや北区を訪れたみなさんに当時の工場や関連施設の跡地をめぐりながら、当時この地域が担っていた役割と雰囲気を実感していただくために整備したものです。
甚兵衛堀
かつて、このあたりには「甚兵衛堀」という堀がありました。この堀は、江戸時代に排水を目的として堀られたものですが、明治時代には製紙工場の新設に伴い拡張され、物資の搬出入にも利用されるなど、時代とともに、その役割を変えながら利用され続けてきました。今はもう堀は埋め立てられていますが、神谷堀公園や王子五丁目団地北側にある駐車場は、その上に作られたものです。公園の縁に残る旧護岸が往時の姿を感じさせてくれます。
日本フエルト株式会社
この付近の豊島八丁目には、かつて、洋紙製造に使う抄紙用フエルトなどを製造していた日本フエルト株式会社王子工場がありました。この工場が完成した大正八年当時、工場の周囲はまったくの田園地帯で、工場裏の荒川(現隅田川)を渡し舟がゆっくり通るといったのどかな風景がみられたそうです。この工場は平成二年に、栃木県那須郡黒羽町へ移転しました。
宮堀渡船場
宮堀の渡しとよばれる渡し船の発着場が、現在の新神谷橋のところに昭和三十年代の末頃までありました。この渡船場は神谷と新田とを行き来する人々に利用され、荒川堤の花見や西新井大師へのお参りなどにも利用されていたようです。しかし、環状七号線新神谷橋の完成により、その使命を終えました。
- ポイント3 神谷堀公園
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神谷堀公園はかつての「甚兵衛堀」の跡です。神谷堀とも呼ばれていました。昔、此の地は湿地帯で大雨や洪水の時には田畑に大きな被害が出ました。神谷堀は排水と農地造りのためにつくられたという説があります。また、明治期には堀が広げられ、舟運の便が良くなり、近代産業の発展に大いに役立ちました。戦後も、神谷堀は隅田川から北本通りを越えて王子製紙(戦後は十条製紙)の工場までを繋ぐ水路として使われました。1973年に工場が閉鎖された後、神谷堀は1977年にすべて埋め立てられました。その後、北本通り東側の大部分は北区の神谷堀公園になりました。あまり知られていませんが、東京メトロ南北線の王子車両基地はこの公園の下に建設されました。南北線の最初の計画では、岩淵町(現在の赤羽岩淵駅)から南西方向に向かい、東京陸軍兵器補給廠専用線跡(現在の赤羽緑道公園など)を引き込み線(延長2.2km)として、北区西が丘三丁目にある国立西が丘サッカー場横の敷地に車両基地を建設する計画でしたが、途中の桐ヶ丘団地住民の大きな反対運動が起こり、計画場所は変更されて陸上自衛隊武器補給処十条支処赤羽地区跡地(現在は赤羽自然観察公園となっている場所)に、地下2層構造・230両収容の大規模な車両基地(整備工場を含む)を建設する方針となっていました。これが実現していたら、赤羽台地域は現在と大きく景観が異なっていたことでしょう。
神谷堀公園から「豊島馬場遺跡公園」に向かいます。
- ポイント4 豊島馬場遺跡公園
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豊島馬場遺跡公園は、多くの遺跡が発見された公園で、平成三年から約6年間に亘って発掘調査が行われ、壷や甕などのたくさんの土器が見つかりました。その中でもガラス小玉鋳型は、高度なガラス製作技術の証であり、貴重な出土品だそうです
豊島馬場遺跡説明板
豊島馬場遺跡は、古墳時代はじまりの頃(およそ1700年前)に隅田川(旧荒川)沿いに人々が残した遺跡です。平成三年から約6年間におよぶ発掘調査で、壺や甕などのおびただしい数の土器や沓、鍬、舟のミニチュアなどの木製品が発見されました。なかでも日本最古のガラス小玉鋳型は、ガラス製品の製作技術などを考えるうえで貴重な出土品です。こうした遺物を使い、豊穣や繁栄などを祈る祭りが行われていたとみられます。
主な出土品が解説してあります。アーチ型の壁には、当時の生活の様子が彫られています。お祭りしているのかな?
破砕して出土した壺や甕などの土器。
農耕具や建築部材などの木製品。
高度なガラス製作技術の証しであるガラス小玉鋳型。
豊島馬場遺跡公園から「紀州神社」に向かいます。
- ポイント5 紀州神社
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紀州神社は、元亨年間(1321年〜1324年)に紀州熊野の鈴木重尚が豊島左衛門清光に諮り、五十太祁神社(現・伊太祁曽神社)を豊島村の鎮守として王子村に勧請したといわれています。天正年間(1573年〜1592年)に豊島村と王子村との間に紛争が起き、豊島村の鎮守なのに他村にあるのは不適当ということで、豊島村小名宮ノ前に移されました。更に小名馬場に遷座後、最終的に当地に遷座したといわれています。江戸名所図会には「紀州明神」として描かれています。
社殿の少し離れた場所にはかって観音堂があり、本殿に劣らない建物だったそうです。明治になり、1875年10月19日にその観音堂に豊川小学校がつくられました。豊川小学校はまもなく創立150周年を迎えますが、1901年に火薬工場隣接地に新校舎が完成して移転し、現在に至っています。
紀州神社から豊島中央通り商店街を通って「豊島公園」に向かいます。
- ポイント6 豊島公園
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豊島公園は、明治時代から大正時代に豊島ドッグと呼ばれた堀割を埋め立てた跡に造られました。豊島ドッグは軍の施設であったため、陸軍が荒川(現隅田川)の水運を利用するために掘ったといわれています。現在でも、石積みの護岸が残っていて、かなりしっかりした構造のものであったことがうかがわれます。このドッグは現在の豊島二丁目から王子六丁目に至る堀割で、石神井川の新河口を経て隅田川と連絡していて、板橋火薬製造所王子工場で製造された弾薬などをこの堀割を通して隅田川まで運び出していました。水路の幅などからみて、小型の船舶が現存の豊島中学校付近にあった船溜まりで方向転換しながら往来していたものと思われます。
産業考古学探索路にも豊島ドックの説明があります。
豊島ドック
昔、この場所には明治〜大正期につくられた豊島ドッグと呼ばれる堀割がありましたが、軍の施設でもあったため、陸軍が荒川(現隅田川)の水運を利用するために掘ったといわれているだけで、詳細な資料は残されていません。しかし、現在でも、石積みの護岸が地下に残っており、かなりしっかりした構造のものであったことがうかがわれます。このドックは、現在の豊島二丁目から王子六丁目に至る掘割で、石神井川の新河口を経て隅田川と連絡しており、板橋火薬製造所王子工場で製造された弾薬などをこの堀割を通して隅田川まで運び出していたようです。水路の幅などからみて、小型の船舶が現在の豊島中学校付近にあった船溜まりで方向転換しながら、往来していたものと思われます。現在の豊島公園は、このドックを埋め立てた土地の上につくられたものです。
板橋火薬製造所王子工場についても説明があります。
板橋火薬製造所王子工場
かつて、この場所には板橋火薬製造所王子工場がありました。この工場の歴史は、板橋火薬製造所の分工場(現堀船二丁目)が、明治三十七年と大正五年に現在の王子六丁目の全域を買収したことから始まります。分工場では、大正六年頃から、堀船にあった既存の生産施設をこちらに移し、この地で火薬・爆薬の製造を行っていました。両施設は専用軌道と俗に豊島ドッグと呼ばれていた堀割で結ばれていました。ちょうどこの位置に豊島ドッグの船溜まりがあり、かってはここで小型船舶が方向転換したり、荷物の揚げ下ろしをしていたようです。板橋火薬製造所王子工場という名称は大正十二年からのもので、その後も組織改正により何回か名称は変わりましたが、太平洋戦争終戦時に活動を終了したときは、東京第二陸軍造兵廠(第一が兵器、第二が火薬)に属していました。
豊島公園から「白山神社」に向かいます。
- ポイント7 白山神社
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白山神社の創建年代は不明ですが、源義家の奥州出陣(後三年の役)の際に戦勝を祈願したという伝承があります。かつては「白山権現」と呼ばれ、梶原堀ノ内村の鎮守で、隣の福性寺が旧別当寺でした。明治時代の神仏分離政策により、「白山神社」に改称されました。明治時代初期まで、神仏習合の名残をとどめる「ぼんぜん」という裸祭りがありました。
白山神社に隣接して、白山堀公園があります。この辺りの町名は「堀舟」ですが、その由来が書かれた案内板が立っています。
「堀船」の名の由来
堀船の名は、堀之内村と船方村とが合併してできたものである。江戸時代から明治二十二年まで、このあたりは梶原堀之内村であった。しかし、昭和七年に東隣の船方村と合併して堀船という地名になった。足利時代末に、太田道灌の孫であり、太田資正(三楽斎道誉)の子である梶原政景が今のポンプ場(堀船三丁目の下水道局王子ポンプ場)あたりに屋敷を構えたと言われている。その屋敷の内=堀の内ということで、梶原堀之内村と呼ばれていた。梶原の姓は、永禄元年(1558年)、古河公方義氏の元服の時に太刀役を務め、梶原の姓を与えられたという説(「異本小田原記」)と、同四年、長尾景虎が上杉姓と関東管領を譲られた拝賀の時に与えられたとする説(「北条記」)がある。(永禄五年の政景の初見史料では、すでに梶原を名乗っている。)梶原政景は、下総国の土豪で柿岡城主であり、「弓矢打物達者にて、鬼にも神にも逢ふべき器量」で、和歌、手跡・早歌・乱舞・馬上・鞠など、諸芸にも秀でていたという(「異本小田原記」)。福性寺の本堂前に「地名発祥梶原塚」という標石があり、梶原塚と呼ばれている。船方村は、豊島の7つの村の1つで、江戸時代に船の組み仲間として有名な船頭の一族がこのあたりに住んでいたと言われている。町の名前が堀船になっても、梶原という呼び方はこの地に住む人の愛着や郷愁からか、梶原○○○と呼ばれるところも多いようである。
白山神社から「装束稲荷神社」に向かいます。
- ポイント8 装束稲荷神社
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昔、この辺り一帯は一面の田畑で、とても寂しい場所でした。その中に榎があり、装束榎と呼ばれていました。大晦日になると関東一円の狐が榎のもとに集まって装束を整え、近くの王子稲荷神社へ初詣をしたという伝説があり、歌川広重の錦絵にも描かれています。現在は榎は現存しませんが、榎のあった傍に装束稲荷神社と装束榎の碑があります。
王子の狐火と装束榎
かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、左の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。昭和四年(1929年)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成五年(1993年)からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。
現在の榎は新しく植えられた木のようです。
装束稲荷の由来
今から約千年の昔、この附近一帯は野原や田畑ばかりで、その中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。この社名の興りとして今に伝えられるところによれば、毎年十二月の晦日の夜、関東八ヶ国の稲荷のお使がこの社に集まり、ここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になっていて、当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。江戸時代の画聖安藤広重もこの装束稲荷を浮世絵として残しています。その後、明治中期に榎の大木は枯れ、土地発展に伴い、その位置も現在の王子二丁目停留所となり、社はその東部に移されました。昭和二十年四月十三日の大空襲の際、猛烈な勢で東南より延焼して来た火災をここで完全に喰い止めて西北一帯の住民を火難から救ったことは有名な事実であります。この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので社殿を造営せんものと地元有志の発起により、多数の信者各位の御協力を得て現在の社殿を見るに至りました。この装束稲荷は商売繁盛の守護神のみならず、信心篤き者は衣装に不自由することなく、又火防の神としても前に述べた通り信者の尊崇を高めています。
毎年、大晦日の夜には「王子狐の行列」が再現されます。
「王子装束ゑの木大晦日の狐火」の浮世絵再現
王子狐の行列
大晦日、恒例のかがり火年越しが行われ、除夜の鐘を合図に装束稲荷を出発し王子稲荷神社まで、大晦日の孤火を再現して「狐の行列」を実施します。来年の豊作と火防を願い、商売繁盛を祈願いたします。
名所江戸百景
「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」 広重画
この絵は浮世絵師歌川広重の代表作です。その昔、毎年大晦日になるとこの榎のもとに狐が集まってきて装束を整えて、王子稲荷にお参りしたといういい伝えから、”装束榎”と呼ばれています。右手の奥に見える小高い森は、狐がお参りする王子稲荷の森であろうか。集まってくる多数の狐と狐火、天にそびえるさむざむとした大榎、晴れた夜空には無数の星がきらめき、大変幻想的な絵です。後日、稲荷が勧請され、それが現在の装束稲荷です。
装飾稲荷神社から「北とぴあ」に向かいます。
- ポイント9 北とぴあ
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「北とぴあ」は、北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的として建設された北区のシンボルです。館内には多彩な施設を持ち、1300席のさくらホール、402席のつつじホール、平床で多目的スペースの各種ホール、プラネタリウムだった場所を活用したドームホール、各種会議室、研修室、音楽スタジオ、多目的ルームなどがあります。さらに消費生活センターやNPOボランティアぷらざなども整った“産業と文化の拠点”となっています。
最上階の17階は展望ロビーになっていて、北区の景色を一望することができます。飛鳥山公園も眼下に一望できます。モノレールも見えますね。
スカイツリーも東京タワーも見えます。
展望ロビーにあるレストラン「VIEW&KITCHEN QUAD17(クアドイチナナ)」では、日替わりランチを頂きながら、大きな窓から富士山を眺めることができます。
ゴール地点の王子駅に着きました。
ということで、北区で十五番目の「D王子界隈を歩くコース 〜歴史・公園・北とぴあを楽しむ〜」を歩き終えました。次は、北区で十六番目の「E上中里と田端を歩くコース 〜旧古河庭園・歴史・田端文士村を訪ねる〜」を歩きます。
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