- E上中里と田端を歩くコース 〜旧古河庭園・歴史・田端文士村を訪ねる〜
- コース 踏破記
- 今日は北区の「E上中里と田端を歩くコース 〜旧古河庭園・歴史・田端文士村を訪ねる〜」を歩きます。上中里駅をスタート地点として、旧古河庭園と田端の古刹を巡ります。最初に歩いたのは初冬の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年6月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
E上中里と田端を歩くコース 〜旧古河庭園・歴史・田端文士村を訪ねる〜
平塚神社は中世の豪族豊島氏の館があった場所。源義家が奥州征伐から凱旋したときにもてなし、その後に武功を慕って、一社を建てたといわれています。旧古河庭園は、もと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅。バラの季節は美しく、多くの人で賑わいます。大龍寺には、正岡子規、板谷波山の墓所があります。
「E上中里と田端を歩くコース 〜旧古河庭園・歴史・田端文士村を訪ねる〜」の歩行距離は約5.0km、歩行時間は約1時間15分です。
スタート地点:JR上中里駅
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- ポイント1 平塚神社
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- ポイント2 無量寺
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- ポイント3 旧古河庭園
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- ポイント4 富士見橋
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- ポイント5 大龍寺
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- ポイント6 東覚寺
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- ポイント7 田端文士村記念館
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- ポイント8 興楽寺
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ゴール地点:JR田端駅
スタート地点の上中里駅から、駅の直ぐ裏手に位置する「平塚神社」に向かって歩き始めます。
- ポイント1 平塚神社
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本郷通りから長〜〜〜く延びた参道の先に平塚神社があります。平安時代にはここに豊嶋郡の郡衙が置かれていました。平安時代に秩父平氏豊島近義がこの場所に城館(平塚城)を築てたと伝えられています。平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)・義綱(賀茂次郎)・義光(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしを受けました。義家は感謝の験(しるし)として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築いて埋めました。塚は、「鎧塚」・「甲冑塚」と呼ばれた他、塚が高くなく平たかったことから「平塚」とよばれ、これが神社の名称になったといわれています。
平塚城伝承地 平塚神社
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(1478年)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、二百五十石の知行地を与え、この内の五十石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
長い参道の奥に拝殿があります。平塚神社の御祭神は八幡太郎こと源義家です。
源氏の棟梁 源義家を祀る
平塚神社(旧平塚明神社)
御祭神
八幡太郎 源義家命
平安後期の武将で、源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号された。前九年の役(安倍貞任・宗任退治)、後三年の役をはじめ数々の戦を征された。「天下第一武勇之士」と称えられ、全国の武士達が臣従した。その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上された。
略縁起
平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れた。
境内社に、石室神社があります。
石室神社(石神明神)
御祭神 蘊坂兵庫頭秀次命
御神徳 社守 天災除 病気平癒
豊島氏の後、平塚城主となった蘊坂兵庫頭秀次は平塚明神を篤く祀った。秀次はみまかりて社の外側に葬られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るようになった。村の長老は秀次の石墳を石神明神と崇めた。石神明神は崇めれば必ず応えてくれ、水害や日照や疫病の除災に御神徳を顕したと伝えられる。
拝殿の前に獅子山があります。獅子山は断崖から子を落とし、断崖を登って来る子獅子を見守る親の姿勢や視線などが見物です。右の獅子が父親で、左が母親のようです。我が子を谷へ落として子を鍛えるのは父親の役目なのですが、この獅子一家では母親がその役目をしているように見えます。
平塚神社から「無量寺」に向かいます。
- ポイント2 無量寺
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無量寺の創建年代は不明ですが、平安時代後期から此の地に寺院があったことが分かっています。江戸時代の慶安元年(1648年)に江戸幕府から8石5斗余の朱印地を授かったといわれ、元禄十四年(1701年)には、五代将軍徳川綱吉の母の桂昌院が参詣しました。寺名は創建当時から長い間長福寺でしたが、九代将軍徳川家重の幼名の長福丸と同じであったため、これを避けて現在の無量寺にしたといわれています。本堂には本尊の不動明王像を安置しています。ある夜、無量寺に盗賊が忍び込みましたが、この不動明王の前で動けなくなり、捕まってしまったことから、不動明王像は「足止め不動」として信仰されるようになりました。また、大師堂には「雷除けの本尊」とされる聖観音像(恵心作)が安置されていて、「雷除けの本尊」としても知られています。
本尊の隣には平安時代後期に作られたといわれる阿弥陀如来坐像があり、江戸六阿弥陀(豊島西福寺・沼田延命院・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院・亀戸常光寺)の第三番目の阿弥陀として古来から親しまれています。
ことぶき地蔵尊は、交通安全と西ヶ原坂下通り商店街の繁栄を祈念して、昭和二十八年11月に建立されたものです。一度本郷通り沿いに移されましたが、平成二十七年に再び無量寺に戻されました。本郷通り沿いにあった頃は、夏の地蔵盆や毎月6の日の縁日で露店なども出て賑わったとのことです。
境内地は、檀家の墓参以外立入り禁止とのことで入れませんでした。写真撮影や動画のSNS投稿も厳禁とのこと。マナーを守らない人も多いですからね(私も。。。)。
無量寺から「旧古河庭園」に向かいます。
- ポイント3 旧古河庭園
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旧古河庭園は、大正八年(1919年)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として整備され、洋館・西洋庭園・日本庭園から成っていました。洋館と西洋庭園の設計は、鹿鳴館やニコライ堂などを手掛けたイギリス出身の建築家ジョサイア・コンドルが行ないました。昭和三十一年(1956年)に国から東京都が借り受けて都立旧古河庭園として開園し、一般公開されています。バラ園には約100種199株のバラが植えられ、東京のバラの名所として親しまれています。
国指定名勝 旧古河庭園
和と洋が調和する優雅な趣
旧古河庭園は、10大財閥のひとつに数えられた古河家の本邸として、大正八年(1919年)に完成しました。その特徴は、武蔵野台地の高低差を巧みに利用した日本庭園と洋風庭園の見事な調和にあります。洋館と洋風庭園の設計は、日本において数々の洋風建築を手がけた英国人建築家のジョサイア・コンドル(1852年〜1920年)。回遊式の日本庭園と茶室に伴う露地は、京都の名庭師・植治こと7代目小川治兵衛(1860年〜1933年)によるものです。現存する近代の庭園の中でも極めて良好に保存されている数少ない事例として平成十八年(2006年)に国の名勝に指定されました。
Place of Scenic Beauty Kyu-Furukawa Gardens
Elegance created from the harmony of Japanese and Western styles Kyu-Furukawa Gardens was completed in 1919 as the main residence of the Furukawa family, one of Japan's ten major zaibatsu conglomerates. The main characteristics of this garden are the wonderful harmony between the Japanese-style and Western-style gardens that take excellent advantage of the differences in elevation of the Musashino Terrace. The Western-style residence and garden were designed by Josiah Condor (1852-1920), the English architect who designed many western-style buildings in Japan. Ogawa Jihei VII, also known as Ueji (1860-1933), a famous designer of Japanese gardens from Kyoto,
created the Circuit-style Japanese garden and Tea garden, which features a chashitsu, or tea house. Kyu-Furukawa Gardens was designated by the national government as a place of scenic beauty in 2006, as an example of an extant modern-period garden that has been extremely well preserved.
洋館は大正六年(1917年)5月竣工し、延べ414坪・地上2階・地下1階で、外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされています。屋根はスレート葺きで、煉瓦造の躯体を黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)の野面積みで覆っているのが特徴的です。南側の庭園から見た外観は左右対称に近く、両脇に切妻屋根を据え、その間の部分は1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダが設けられ、屋根にはドーマー窓を乗せています。全体的に野趣と重厚さに溢れ、スコットランドの山荘の風情を感じさせます。
旧古河邸(大谷美術館)の概要
大谷美術館は、鉄鋼業・ホテルの経営で知られる大谷米太郎(1881年〜1968年)が晩年に計画し、実現を見ずして世を去った事業です。大谷米太郎は、富山県の農家から身をおこし、無学文盲にもかかわらず努力を重ね、日雇人足から大相撲力士、酒屋の経営を経て、大谷重工業、ホテルニューオータニ、テーオーシー等多くを起業した立志伝中の人物と言われています。古河財閥が戦後の財閥解体によりこの屋敷を手放すことになり、当時、大谷重工として取引のあった大谷に購入の話が持ち掛けられた経緯があり、現在は(公財)大谷美術館が管理運営しています。公益財団法人大谷美術館は、初代理事長大谷哲平・常務理事大谷利勝により昭和五十六年(1981年)に設立されました。この素晴らしい建築を、美術館として多くの方に見ていただきたいと考え、修復と公開を決めました。旧古河邸本館は、(公財)大谷美術館が昭和五十八年(1983年)から6年間をかけて東京都の助成を得て修復を行い、平成元年(1989年)より一般公開されています。本館建物と西洋庭園は、明治政府のお雇い外国人として来日した、イギリス人建築家のジョサイア・コンドルによる設計で、大正六年(1917年)5月に竣工しました。ジョサイア・コンドル最晩年の作品で、洋館内部に和室(2階)を完全な形で取り込むことで、和と洋の調和・共存を実現した極めて珍しいプランとなっています。
洋館の南側には洋風庭園があります。薔薇の季節は過ぎてしまったようですが。
全体的には、庭園には斜面に石の手すり・石段・水盤などが配され、バラ園のテラスは階段状に連なっていて、立体的なイタリア式庭園となっていますが、テラス内部は平面的で幾何学的に構成されるフランス式庭園の技法が併せて用いられています。バラのテラス庭園は、1段目の花壇は正しく左右対称形ですが、2段目から中央の階段を挟んで左右に方形の植え込みとなっている花壇東側の方形は北東部が斜面突出部によって欠けています。これはコンドルが敷地下部の日本庭園との調和をはかるため意図的にバラ園の対称形を崩したものと推測されています。現在、バラ園には、約100種199株のバラが植えられています。
旧古河庭園から「富士見橋」に向かいます。
- ポイント4 富士見橋
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富士見橋は、道灌山の尾根を通る田端高台通りに架かる橋です。当初は橋ではなく、山手線のトンネルの上を通る道でしたが、山手線が複々線化した大正十四年(1925年)に橋となりました。その後、昭和四十二年(1967年)に現在の橋に架け替えられました。
駒込駅方向には富士見橋の横に水道の本管が通っていて見通しがよくありません。富士山のかけらも見えませんね。田端駅方向に大きく曲がった線路の正面には東北新幹線の高架橋が望めます。
富士見橋の横で新しい橋を架ける工事が行なわれています。これは、北区西ケ原一丁目から荒川区西日暮里四丁目に至る、全長2.2kmの都市計画道路(東京都市計画道路幹線街路補助線街路第92号線)を山手線上に通す跨線橋で、この橋が完成すると駒込駅手前にある山手線唯一の踏切である第二中里踏切が廃止される予定になっています。
富士見橋から「大龍寺」に向かいます。
- ポイント5 大龍寺
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大龍寺は慶長年間に創建され、当初は不動院浄仙寺と号していましたが、天明年間に観鏡光顕という僧が中興して大龍寺になったといわれています。
大龍寺には、近代日本を代表する俳人の正岡子規を始め、エドワード・ハワード・ハウス、横山作次郎、板谷波山、大川平三郎、木村芳雨、井上達也の墓があります。子規は、生前に「静かな寺に葬って欲しい」と言っていたとされていて、死後に大龍寺が選ばれて葬られました。これに因んで、大龍寺は子規寺とも呼ばれています。
大龍寺から「東覚寺」に向かいます。
- ポイント6 東覚寺
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赤紙仁王で知られる東覚寺は、延徳三年(1491年)、神田で創建し、その後根岸を経て江戸時代初めに現在の地に移りました。山門の石造金剛力士立像は、病を患った部分に赤い紙を貼るという赤紙仁王として有名です。江戸・東京で最古の七福神巡りと言われる「谷中七福神」の福禄寿を祀っています。
東京都北区指定有形民俗文化財
赤紙仁王(石造金剛力士立像)
参詣客が赤色の紙を貼るため’赤紙仁王’の名で呼ばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永十八年(1641年)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ箇所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。また、平成二十年10月には、道路拡張工事のために従来の位置から約7メートル後方に移動し、平成二十一年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢を見つめてゆくことになりました。
護摩堂の前に2体の金剛力士立像が仁王立ちなさっています。頭のてっぺんから足元まで赤紙(悪魔を消除する火の色)で埋め尽くされていますが、これは仁王様の全身に赤い紙を貼り付けて、病気の身代わりを祈願するという風習です。
赤紙仁王尊
石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれている。西暦1641年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として山門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(悪魔を焼徐する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代りと心身安穏を願うようになった。右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の吽像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即「静」を表している。阿吽の姿は密教で説く胎蔵界、金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終りを表している。阿像から吽像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。
祈願成就のあかつきには草鞋を奉納するのが習わしです。
東覚寺から「田端文士村記念館」に向かいます。
- ポイント7 田端文士村記念館
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田端駅の向かいの田端アスカタワーの一階に、1993年11月に開館した田端文士村記念館があります。明治二十年(1887年)、上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)が開校した後、田端に芥川龍之介(小説家)・菊池寛(小説家・劇作家・ジャーナリスト)・小杉放庵(洋画家)・板谷波山(陶芸家)などの文士が集まって住むようになり、互いに影響しあいながら文化活動を行っていた歴史を記念し、彼らの功績や素顔を紹介するとともに、北区区民などの文化活動の拠点を提供する施設です。
館内には、田端文士村に住んだ文士や芸術家達の写真と業績が掲示されています。大龍寺にお墓があった板谷波山の銅像も展示されています。推敲の跡が見られる小説の原稿や手紙など、貴重な資料も展示されています(撮影禁止です)。
田端文士村記念館から「興楽寺」に向かいます。
- ポイント8 興楽寺
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田端文士村記念館から田端駅前通りを渡った先の住宅地の中を進みますと、左手に坂が上がっています。与楽寺坂は長さが約130mほどの左右に曲がりながら上る緩やかな坂です。坂名は、坂下にある与楽寺に由来しています。坂下付近に案内板が立っています。
与楽寺坂
坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。「東京府村誌」に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほ(通)ると秋の匂がする」と書いています。
興楽寺の創建年代は不明ですが、弘法大師(空海)によって開創されたといわれています。本尊は地蔵菩薩で、弘法大師の作と伝えられています。この地蔵菩薩は別称として賊除地蔵といわれ、これには次のような伝説があります。
ある時代の夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしたところ、寺から多数の僧が現れて盗賊と対決し、遂には盗賊を追い出してしまいました。どこからそんな僧が現れたのか不思議がっていましたが、その翌朝与楽寺の本尊の地蔵菩薩の足に泥がついているのが発見され、それから人々はこの地蔵菩薩が僧に変身して盗賊を追い出したのだと信じるようになり、賊除地蔵としてなお一層の信仰を得るようになったということです。
賊除地蔵の伝承地
与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には二十石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第四番札所として、多くの参詣者を得ていました。さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。ある夜、盗賊が与楽寺へ押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これより賊除地蔵と称されるようになりました。仏教では、釈迦が入滅してから五十六億七千万年後に弥勒が現れるまでの間は、人びとを救済する仏が存在しない時代とされています。この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人を救うと信じられてきました。そして江戸時代になると、人びとの全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人びとの救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
ゴール地点の田端駅に着きました。
ということで、北区で十六番目の「E上中里と田端を歩くコース 〜旧古河庭園・歴史・田端文士村を訪ねる〜」を歩き終えました。次は、北区で最後の「F荒川水辺ウオーキングコース 〜王子から浮間まで〜」を歩きます。
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