F荒川水辺ウオーキングコース 〜王子から浮間まで〜  

コース 踏破記  

今日は北区で最後の「F荒川水辺ウオーキングコース 〜王子から浮間まで〜」を歩きます。王子駅をスタート地点として、豊島橋から宮城ゆうゆう公園を経て、冬日の中荒川土手の長い歩きを楽しみます。最初に歩いたのは初冬の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年6月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

F荒川水辺ウオーキングコース 〜王子から浮間まで〜

対岸の荒川土手から北区の景色を楽しめるコース。富士山を眺めることができ、水辺の涼風に吹かれながらのウォーキングで日頃のストレスを解消してみてはいかがでしょうか。

「F荒川水辺ウオーキングコース 〜王子から浮間まで〜」の歩行距離は約11.0km、歩行時間は約2時間45分です。

スタート地点:JR王子駅北口
ポイント1 豊島公園
ポイント2 豊島五丁目団地
ポイント3 豊島橋
ポイント4 宮城ゆうゆう公園
ポイント5 荒川土手
ポイント6 鹿浜橋
ポイント7 岩淵水門(青水門)
ポイント8 都立浮間公園

ゴール地点:JR浮間舟渡駅


スタート地点の王子駅北口から歩き始めます。


ポイント1 豊島公園

豊島公園は、明治時代から大正時代に豊島ドッグと呼ばれた堀割を埋め立てた跡に造られました。豊島ドッグは軍の施設であったため、陸軍が荒川(現隅田川)の水運を利用するために掘ったといわれています。現在でも、石積みの護岸が残っていて、かなりしっかりした構造のものであったことがうかがわれます。このドッグは現在の豊島二丁目から王子六丁目に至る堀割で、石神井川の新河口を経て隅田川と連絡していて、板橋火薬製造所王子工場で製造された弾薬などをこの堀割を通して隅田川まで運び出していました。水路の幅などからみて、小型の船舶が現存の豊島中学校付近にあった船溜まりで方向転換しながら往来していたものと思われます。



産業考古学探索路に、豊島ドッグと板橋火薬製造所王子工場について説明があります。

豊島ドッグ

現在の豊島公園は、旧陸軍によってつくられた豊島ドッグという堀割の埋め立て地を利用してつくられたものです。当時、この堀割は石神井川を経て、隅田川(旧荒川)まで通じており、この辺りにあった板橋火薬製造所王子工場で製造された弾薬などの運搬に利用されていました。

板橋火薬製造所王子工場

この周辺には、明治時代後半以降、軍とその関連施設が点在していました。西洋式製法による日本最初の火薬製造所として、明治九年に完成した板橋火薬製造所の分工場として操業していた板橋火薬製造所王子工場もそのひとつです。この工場は現堀船二丁目と王子六丁目に敷地が分かれていましたが、両工場はドッグと軍用鉄道で結ばれていました。




豊島公園から「豊島五丁目団地」に向かいます。

ポイント2 豊島五丁目団地

豊島五丁目団地は1972年から1973年にかけて造成されたURの団地です。大型で高層の住棟を中心に13棟・約5000戸からなり、周辺の住宅地も含めた人口は約1万人にも達しています。最寄りの駅は王子駅になりますが、距離があるためにバス便が充実しています。



団地内には大型スーパーやショッピングモールも併設されています。ダイエーのお店は都内では殆ど見かけなくなりました。



以前は、団地の向かいはだだっ広い草ボウボウの空き地だったのですが、2019年3月にホームセンターのビバホームを核にして、スーパーの文化堂や専門店が入る巨大ショッピングモールがオープンしました。



豊島五丁目団地から「豊島橋」に向かいます。

ポイント3 豊島橋

豊島橋は、長さ106.7m・幅15mのローゼ桁橋で、現在の橋は平成十三年(2001年)に架橋されました。現在の橋の上流300メートルほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」と呼ばれる場所に、鎌倉時代から続くとされる「六阿弥陀の渡し」(豊島の渡しともいわれます)があり、六阿弥陀詣の人々で賑わったと伝わっています。大正十四年(1925年)、この場所に最初の豊島橋が木橋として架けられました。初代の豊島橋は荒川に架けられた同じく木橋の旧江北橋と結ばれていましたが、老朽化によって昭和三十五年(1960年)に下流の現在の位置に両橋共々ゲルバー式鋼製桁橋として改架されました。



豊島橋を渡って、隅田川と荒川に挟まれた土手上の「宮城ゆうゆう公園」に向かいます。

ポイント4 宮城ゆうゆう公園

宮城ゆうゆう公園は、荒川と隅田川の間に設けられた堤防上にある公園です。隅田川サイドと荒川サイドを行き来できるように遊歩道が整備されていて、ここでしか見ることのできないダイナミックな景観に出会うことができます。荒川サイドには、展望台もあり、写真撮影にもお勧めです。春には桜が咲き誇り、水辺に彩りを添えます。遊具はありませんが、荒川と隅田川を眺めながらの散策が楽しめます。

宮城ゆうゆう公園

宮城ゆうゆう公園は、地域の皆様のご意見をもとに、この公園が「友と自由に遊ぶ」楽しい空間であってほしいとの願いを込めて、“ゆうゆう”と名付けられました。




宮城ゆうゆう公園には、団体を対象とした青少年教育のための少年キャンプ場が併設されています。青少年教育を目的とした団体(子ども会・PTA等)が子供達に野外活動を体験させる場として利用することができます。



隅田川の対岸には豊島五丁目団地が眺められ、荒川に架かる五色桜大橋も絶景です。

五色桜大橋

橋名の由来
明治から昭和の初期にかけて、足立区江北から堀之内・鹿浜一帯は「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所であり、花見どきは多くの人々でにぎわいました。荒川のこの場所に、首都高速中央環状線の橋が架かりました。この橋はダブルデッキ・ニールセン・ローゼ橋という世界で初めての形式です。ここに、五色桜をより広めたいとの地域住民の願いにより、橋の名前が「五色桜大橋(ごしきざくらおおはし)」となりました。




宮城ゆうゆう公園から「荒川土手」を進みます。猫ちゃんもお散歩です。



ポイント5 荒川土手

宮城ゆうゆう公園の直ぐ先に、「阿弥陀の渡船場跡」の案内板が立っています。阿弥陀の渡船場は、豊島村から沼田村(足立区)への渡しでした。かつて、旧荒川(現隅田川)の流路は「天狗の鼻」と呼ばれるほど大きく湾曲し、渡船場はこの天狗の鼻の頭よりやや下流に位置していました。明治四十四年(1911年)から荒川放水路の河川改修工事が開始され、江北橋が大正十二年(1923年)に現荒川に、豊島橋が大正十四年(1925年)に現隅田川にそれぞれ架橋され、阿弥陀の渡船場も姿を消していきました。

阿弥陀の渡船場跡

ここにはかつて豊島村から沼田村(足立区)への渡船場がありました。この渡船場は、豊島の渡・六阿弥陀の渡・中の渡・原の渡とも呼ばれていました。旧荒川(現隅田川)の流路は、現在の荒川まで大きく湾曲していて、この地形を天狗の鼻と呼んでいました。渡船場は湾曲の頂点より少し下流に位置していました。豊島清光の造仏伝承にまつわる六阿弥陀詣が、江戸時代中期以降に盛んに行われるようになりました。この渡船場は、六阿弥陀詣の一番西福寺(北区豊島2−14−1)から二番延命寺(江北橋北詰辺にありましたが、明治九年恵明寺に合併されました)への参詣路にあたっていたため、六阿弥陀詣の行われる春秋の彼岸の時には、参詣客でとくに賑わいをみせました。文化十一年(1814年)頃に当地を訪れた十方庵敬順は、この渡船場付近の川端の様子を、「荒川の長流にそひて、左右の渚の景望はいふもさらに、弓手は渺茫(びょうぼう:広く果てしないさま)たる耕地を見わたし、心眼ともに打はれて、実に賞すべきの景地たり」と記し、こうした土地に住んで、花鳥風月になぐさめられて暮らしたならば、寿命も延びるであろうと賞賛しています。明治四十四年(1911年)から荒川の河川改修工事が始まり、次いで、この付帯事業として大正十二年(1923年)四月荒川放水路(現荒川)に江北橋が、同十四年荒川(現隅田川)に豊島橋が架橋され、この渡船場も姿を消していきました。




荒川と隅田川に挟まれた足立区の新田地区に高層マンションが建ち並んでいます。ここは1996年3月まで操業していたトーアスチール製鉄所の工場跡地約20ヘクタール(東京ドーム5つ分)を再開発し、ハートアイランド新田という大規模高層住宅街に変貌させたとのことです。この一帯は、水害や地震に弱い東京東部エリアの対応力を高めるために、スーパー堤防として地面が高くかさ上げされ、地盤の強化と洪水時も浸水しない防災拠点となっています。さらに電線をすべて地中に埋め込む無電柱方式で街づくりされているため、震災時も街の機能を保つことができます。



荒川土手を進んで「鹿浜橋」に向かいます。

ポイント6 鹿浜橋

鹿浜橋は、荒川に架かる環七通りの橋です。大正十三年(1924年)に開削された荒川放水路に架かる最上流に位置する橋で、昭和四十年(1965年)2月に完成しました。総延長は922メートルで、橋桁に付帯設備として内径1.2メートルの水道管を4本(送水本管2本、工業用水道管2本)を併設し、荒川を横断する水道橋の役割も持っています。橋名は、南岸の足立区新田一・二丁目と北岸の足立区鹿浜一・二丁目をつなぐことから、旧足立郡の鹿浜村・鹿浜新田の地名に因んでいます。荒川放水路が開削される前は地続きだったんですね。



鹿浜橋の河川敷はゴルフ場やグラウンドなどのレクリエーション施設として利用されています。



鹿浜橋から「岩淵水門(青水門)」に向かいます。鹿浜橋の先の荒川と並行して流れる隅田川には、現在唯一運行されている渡し舟があります。但し、これは日本化薬の工場と研究所を結ぶ専用の舟で、一般の人は利用できません。



ポイント7 岩淵水門(青水門)

岩淵水門(青水門)は、現在の荒川と隅田川を仕切る水門です。かって「荒川放水路」と呼ばれた人工河川は現在では荒川と呼ばれ、この水門より下流の名前だった荒川は「隅田川」と呼ばれるようになりました。岩淵水門は、現在の荒川と隅田川の分岐点になります。すぐ上流には、役目を終えた旧岩淵水門(赤水門)があります。

岩淵水門

増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。岩淵水門は、大正十三年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和五十七年に旧水門の下流約300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。

■岩淵水門のやくわり

平常時
●全門開放されていて、荒川の流量の約3割を隅田川に流し、隅田川の水質浄化の効用を果たしています。
●舟運に支障がないように全門開放されています。

増水時
●水門を閉め、荒川の水を隅田川に流さないようにしています。




岩淵水門から上流方向を見ますと、旧岩淵水門の脇に荒川からの取水路があり、現在はこちらから荒川の水を取り込んでいます。一方、下流方向を見ますと、岩淵水門の先で新河岸川が合流していて、荒川からの分水を併せて現在の隅田川を形成しています。



荒川を解説した案内板が立っています。

@荒川知水資料館(amoa)

荒川放水路と隅田川の分岐点近くに位置し、自然豊かな荒川にもっと親しんでもらうための活動と交流の拠点として、平成十年(1998年)3月にオープンしました。荒川の洪水リスク、氷害の歴史や自然環境等の情報発信をしているほか、学校を対象に館内の説明や様々な学習支援を行っています。

◆青山士と荒川放水路

荒川下流の改修工事に深い関わりを持った技術者の一人に青山士[1878年〜1963年]がいます。青山は、恩師・内村鑑三らの薫陶をうけ、広く世のためになる仕事を、と土木の道を邁進した技術者です。大学卒業後、自費でパナマ運河工事に唯一の日本人として参加し、世界最先端の土木技術を学んだ後、日本に戻り、荒川放水路と旧岩淵水門の工事責任者に任命されました。特に旧岩淵水門の基礎工事にあたっては青山の力量が発揮され、工事の途中、関東大震災が起こりましたが、旧岩淵水門はびくともしませんでした。

A旧岩淵水門

旧岩淵水門は、岩淵水門の300mほど上流に位置しています。この水門は、荒川の洪水が隅田川に流下する流量を調節し、かつ、通常時は舟航に支障を与えないよう設けられたもので、大正十三年(1924年)に完成しました。水門には、幅約9mのゲートが5門ついており、一番右岸側が通航門となっていました。長年、洪水の脅威から東京の下町を守ってきましたが、老朽化及び水門の高さ不足のため、役割は岩淵水門にうつりました。

B岩淵水門

岩淵水門は、旧岩淵水門より300mほど下流にあり、隅田川の起点に位置しています。旧岩淵水門が、大正十三年(1924年)に完成してから60年余りを経て老朽化が進んだこともあり、昭和五十七年(1982年)に新しく岩淵水門が建設されました。岩淵水門の役割は、荒川の洪水が隅田川へ流入するのを防止すること、平常時には浄化のための水を隅田川へ流すこと、および舟運の確保などです。なお、岩淵水門は青水門、旧水門は赤水門と呼ばれています。




岩淵水門(青水門)から荒川土手上の遊歩道をひたすら歩いて「都立浮間公園」に向かいます。

ポイント8 都立浮間公園

浮間公園は、東京都北区浮間二丁目と板橋区舟渡二丁目の境にある浮間ヶ池を中心にした都立の都市公園(総合公園)です。江戸時代から明治時代にかけて、浮間付近で荒川は大きく南に蛇行していました。昭和三年(1928年)頃に荒川が直線化された際、荒川の旧流路の一部が取り残され、その名残りとして浮間ヶ池ができました。それまで荒川の左岸側(埼玉県側)だった浮間は、このとき右岸側(東京府側)になりました。浮間ヶ池はU字蛇行部の西の一部にあたり、池の東にある現在の浮間地区が荒川改修で埼玉県側から移った町域に相当します。昭和四十二年(1967年)、東京都は浮間ヶ池を含めた周辺地域を都立浮間公園としました。昭和六十年(1985年)に浮間舟渡駅が開業すると、浮間公園の入り口は駅前広場と道路一つを隔てて相対する現在の姿になりました。

公園の沿革

この辺一帯は、荒川が蛇行していて、川の中の浮島のような湿地であったため、江戸時代から浮間ヶ原とよばれ桜草の自生地として有名でした。大正時代の中期から荒川の改修工事が始まり、昭和三年頃ここに堤防が築かれたことから、廃河川敷となって浮間ヶ池の原形が出来上がりました。その後、この池はつり堀などとして親しまれて来ましたが、昭和三十五年、この廃河川敷を中心に都市計画公園の事業決定がなされ、昭和四十二年に都立浮間公園として開園しました。昭和五十二年には、知事からチビッ子にプレゼントの形で、都立公園としては唯一、釣り池として全面開放されました。昭和六十年10月には、埼京線浮間舟渡駅が開設され、公園利用者も一段と増えたことに伴い、昭和六十二年度から3ヶ年で大改修が行われ、施設など公園が一新されました。




こんな感じです。



公園面積の約40%を占める浮間ヶ池では、コイやヘラブナなどの釣りが無料で開放され、一年中釣人が絶えません。池の畔には公園のシンボルとして設置された風車が一基あります。風車は公園の見どころのひとつで、季節によってさまざまな景色を見せてくれるほか、期間限定でライトアップが行われることもあります。



春には桜やツツジ、梅雨時にはアジサイが美しく咲き、秋にはケヤキが美しく紅葉します。また、晩秋からはカモなどの渡り鳥が多く集まります。公園の北側は保護区になっているので、オオヨシキリやコジュケイ、ウグイスなど街中ではあまり見ることのできない小鳥の鳴き声が聞かれます。



公園内にある浮間ヶ原桜草圃場は、かつて浮間ヶ原に自生し、河川改修や護岸工事などで絶滅した桜草を残そうと、当時の園芸組合員が持ち寄ったのが始まりです。年に一回、一般にも公開されています。浮間ヶ原のサクラソウは文人の随筆にも描かれました。田山花袋は、未だ荒川が改修される前の風景を描写したものと思われます。

浮間ヶ原のサクラソウと桜草圃場

浮間ヶ池の東側(北区側)は、かつて浮間ヶ原と呼ばれていました。江戸から大正まで浮間ヶ原をはじめとする荒川沿いの原野は、氾濫でもたらされた沃土の上にサクラソウの群生地が広がり行楽地となっていました。しかし、荒川の流路が変更され、都市化が進むにつれ、サクラソウは姿を消してしまいました。地元では、浮間ヶ原にサクラソウを復活させようと桜草保存会を結成、桜草圃場で栽培と公開を続けています。

田山花袋「一日の行楽」(大正七年)より

川を渡ると、浮間ヶ原である。一面、桜草で、丁度毛氈でも敷いたやうである。頗ぶる見事である。で、日曜、土曜などには、東京から女学生達が沢山にやって来る。女学校で運動会に生徒をつれて来たりするので、桜草は採られ、束にされ、弄ばされて、娘達の美しい無邪気な心を飾る。花の中にゐる大勢の娘達ー実際絵に書いた美しいシーンである。

永井荷風「葛飾土産」(昭和二十五年)より

わたくしが小学生のころには草花といへばまづ桜草くらゐに止って、殆ど其他のものを知らなかった。荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草が多くあつたのを聞きつたへて、草履履きで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区の陋巻となり、桜草のことを言ふ人もない。




ゴール地点の浮間舟渡駅に着きました。



ということで、北区で最後の「F荒川水辺ウオーキングコース 〜王子から浮間まで〜」を歩き終えました。次は、板橋区で最初の「高島平散策コース(自然ルート)」を歩きます。




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