@高島平散策コース 【歴史ルート】  

コース 踏破記  

今日は板橋区の「@高島平散策コース 【歴史ルート】」を歩きます。西台駅をスタート地点として、2021年8月末で閉館した植村冒険館跡や蓮根の古刹、城北交通公園を経て、荒川土手にある中山道戸田の渡しで江戸時代の荒川越えに思いを馳せます。最初に歩いたのは初冬の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年7月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

@高島平散策コース 【歴史ルート】

整然と区画された住宅地域と産業拠点の性格を持つ最も広いエリア

「@高島平散策コース 【歴史ルート】」の歩数は約8,000歩、歩行距離は約5.6km、歩行時間は約84分、消費カロリーは約252Kcalです。

スタート地点:都営地下鉄三田線西台駅東口
ポイント1 馬頭観音堂
ポイント2 氷川神社
ポイント3 蓮華寺
真言宗智山派の寺院で、本尊は薬師如来です。境内には六地蔵のほか、元禄期以前に寺院が移転した経緯が記される墓地整理碑や、石造物が多数あります。
ポイント4 城北交通公園
園内には蒸気機関車、都営バスの実物を展示しており、自由に見学できます。交通資料館を併設し、鉄道模型の展示を見たり鉄道の歴史を学ぶことができます。
ポイント5 稲荷神社
ポイント6 中山道戸田の渡し
中山道は戸田橋で荒川を渡ります。江戸時代、幕府は荒川に架橋を禁じたので、現在の戸田橋の100m下流に「戸田の渡し」があり中山道をつないでいました。戸田の渡しは1875年に橋が架けられるまでつづきました。
ポイント7 舟渡氷川神社(十度の宮)
十度流されても十度還る、必ず還る「十度の宮」。かつて、洪水で何度流されても、十度この地に戻ったといいます。元に戻したいこと、戻りたいことのある方はお参りしてみてはいかがでしょうか。
ポイント8 都立浮間公園

ゴール地点:JR浮間舟渡駅


スタート地点の西台駅東口から西台駅南交差点を左折し、高島通りを東方向に進みます。


ポイント1 馬頭観音堂

蓮根馬頭観音堂は、西台駅南交差点から直ぐ近くの南側路傍にあります。通称「田の観音」と呼ばれ、江戸時代は付近一帯は田園地帯であり、農作業の行き帰りに参拝していたものと思われます。現在のコンクリートのお堂は平成九年に建てられたものだそうです。

蓮根馬頭観音縁起

当観音堂は、通称「田の観音」といい、本尊は牛馬を守護するという馬頭観世音菩薩である。開基は元禄十一年(1698年)二月、貞閑大法師により現在地にまつられた。通称は当時この一帯が田園であった事による。農作業の往復時、あるいは荷駄の運搬途次、牛馬を連れて参拝する往時の人々の姿が偲ばれる。当時は雨露をしのぐお堂等はなかったが、利生あらたかなる観世音菩薩として信真の人々が、毎月十八日の縁日には村々より牛馬の手綱を握る人々が列をなし諸方より集い、観音堂はさらに隆祥する。

                 記

元禄十一年二月                貞閑大法師 開基
安永三年六月       蓮華寺 第十六世  辨良和上  小堂を成す
文政五年六月        仝  第十八世  秀明和上  改築、間口二間半に拡張す
明治十五年二月       仝  第二十二世 永眞和上  大修繕を加える
明治三十八年十二月十七日  仝  第二十六世 秀盛和上  火難により焼亡す
明治三十九年二月      仝  第二十六世 秀盛和上  中村傳藏及び江口直次郎両氏
                             を発起人として堂宇の再建す
大正十二年九月一日     仝  第二十七世 宥成和上  関東大震災により倒壊する
                             が復興する

草創より三百年、平成九年二月現在、裕幸代において老朽甚だしい堂宇を再改築し子々孫々の代に伝えんと発願し、同年六月佳日に落慶法要を厳修す。それ以後、香華の絶ゆることなく近在の人々の信仰のよりどころとして今日に到る。

※観音さまのご縁日は毎月十八日です。

注記:「仝」は、繰り返しを表す記号として用いられ、「同」の「古字」とされています。




観音堂の右手前には、正面に大きく「庚申塔」と書かれた文化五戌辰年(1808年)造立の庚申塔が建っています。下の台の正面には、自由に振る舞う三猿が彫られています。



観音堂の左手前には、嘉永六年(1853年)造立の青面金剛立像庚申塔が建っています。足下の邪鬼は二匹で、向かって右側の邪鬼は頬づえをついています。土台には、蹲踞の姿勢をとっている三猿が揃っています。ちょっと珍しい構図です。右側面には「東 中台 板橋道」と書かれ、左側面には「西 大山 ねりま 北 戸田渡し?道」と書かれています。道標も兼ねているようです。



馬頭観音堂から蓮根二丁目交差点を右折し、蓮根中央商店街(ハミングロード商店街)を通って「氷川神社」に向かいます。途中の路地に入ったところに「植村冒険館」があります(ありました)。日本人の登山家である植村直己は、1970年に世界最高峰エベレストに日本人で初めて登頂しました。同じ年に世界初の五大陸最高峰登頂者となり、1978年には犬ぞり単独行として世界で初めて北極点に到達しました。しかし、1984年に冬期のマッキンリー(現:デナリ)に世界で初めて単独登頂しましたが、下山中に消息を絶ちました。これらの業績に対して、1984年に国民栄誉賞を受賞しています。植村直己は板橋区に約15年間住んでいたため、板橋区は植村の冒険精神を永く後世に伝えるべく、1992年に植村記念財団を設立し、ここ蓮根に植村冒険館を開館しました。蓮根の施設は手狭で常設の展示室がなかったことから、令和三年(2021年)8月29日限りで閉館しました。



ポイント2 氷川神社

氷川神社は、かって元蓮沼村・上蓮沼村・根葉村(ねっぱむら)の総鎮守でした。明治三十三年(1900年)に当時の上蓮沼村と根葉村が合併し、一文字ずつを取って蓮根村となると、蓮根氷川神社と呼ばれるようになりました。蓮根氷川神社は、須佐之男命と奇稲田姫命の祭神を奉祀し、元々は蓮沼村前沼にあった丸池の沼畔(現在の志村橋近辺)に鎮座していましたが、大正十三年(1924年)の荒川上流改修工事(新河岸川開鑿)に伴い、此の地に遷座しました。

氷川神社

当社は、須佐之男命、奇稲田姫命の御祭神を奉祀しています。もともとは、蓮沼村前沼にあった丸池の沼畔(現在の志村橋近辺)に鎮座していました。文政十一年(1828年)に完成した地誌、「新編武蔵風土記稿」には、蓮沼村の記事に「氷川社三、一ハ村ノ鎮守、一ハ蓮沼・根葉二村ノ鎮守、共二南蔵院持、一ハ金剛院持」とあり、蓮沼・根葉両村の鎮守でした。明治三十三年(1900年)に当時の上蓮沼村と根葉村が合併して蓮根地域となると、同地域の鎮守となりました。大正十三年(1924年)の荒川上流改修工事(新河岸川開鑿)にともない、現在地に遷座しました。境内には、末社として御嶽神社、稲荷社が祀られ、また古い石祠が残っています。




蓮根氷川神社は、大正十三年(1924年)の新河岸川開削以前は、此の地から北に2kmほど先にある志村橋のあたりに鎮座していました。志村橋付近には、浮間氷川神社やこの後で訪れる舟渡氷川神社があり、狭い地域に氷川神社が三社あったことになります。1924年の遷座ですので、2024年に再訪した時は遷座100周年になります。特にそれらしき案内は見られませんでしたが。境内には、「氷川神社遷宮碑」の石碑が建っています。

氷川神社遷宮碑

當社ハ、古来其の鎮座詳カナラスト雖ドモ、元蓮沼・上蓮沼・根葉三ケ村ノ総鎮守ニシテ、元蓮沼字前沼ニ鎮座シ給ヒシガ、此の地往昔ヨリ荒川氾濫ノ惨害アリ為ニ、元蓮沼ハ南方高地ニ移住シ随テ分霊シテ、一社ヲ創建ス。是ヨリ明治六年本社ヲ二村ニ譲渡セラレキ。又上蓮沼根葉ノ二村ハ明治三十二年、村治上之ヲ併合シテ蓮根村ト改メ、當社モ蓮根氷川神社ト號セリ。爾来神霊安泰ノタメ遷座奉祀ノ聲【しばしば】ニ起リシモ時到ラズ、星霜(せいそう:歳月)ヲ?シタルモ、去ル明治四十三年未曾有宇ノ大水害アリ。當局遂ニ荒川改修ノ企劃(企画)スルニ臻リ、當社殿ハ其ノ河川地域ニ?リ移築ノ已ムナキニ至ル。乃チ、大正十三年二月、宮ニ請ヒテ神域ヲ此所ニ其ノ社殿ヲ遷シ、神霊ヲ奉安シテ遷宮ノ式ヲ挙ゲ賽ニ大正十五年四月十五日ナリ。而シテ永ク氏子鎮護ノ神ト崇敬ス。茲ニ其ノ由緒ヲ記シ以テ後人ニ傳フ。




本社殿の右脇に蓮根稲荷神社が鎮座しています。別当を務めたのは、この後訪れる蓮華寺でした。



境内には、小さいながらも富士塚があります。頂上には御嶽神社が鎮座し、「文政十亥歳三月(1827年)」と記されています。また、富士山の五合目に小御嶽神社があるのを模しているのか、五合目あたりも祠があります。登山道はありますが、細くて不安定なようですので、今回は登頂はパスします。都内には数多く富士塚があるんですね。



氷川神社から「蓮華寺」に向かいます。

ポイント3 蓮華寺

蓮華寺の創建年代は不明ですが、江戸時代中期には既に存在していたものと思われます。元々は荒川河畔に位置していましたが、度々起こる荒川の洪水により現在地に移転したといわれています。

蓮華寺と客殿・庫裏棟札

蓮華寺は、医王山東光院と号する真言宗寺院であり、旧蓮沼村(上蓮沼)と旧根葉村両地域の檀那寺です。高野山の子院に伝わる「龍泉院過去帳」の元和九年(1623年)の記事に、「蓮花寺法印行秀」の名があることから、当寺は少なくとも十七世紀前半には成立していたものと推定されます。寺歴によると創建当初の蓮華寺は、荒川(入間川)河畔に立地していましたが、荒川の氾濫による上蓮沼地域の村落移動にともない、元禄年間以前に現在地へと移転したとされています。当寺の客殿・庫裡棟札は、当地移転後の元禄七年(1694年)と宝永二年(1705年)に、それぞれ行われた客殿・庫裡の建立や再建に際して作製され、納められたもので、「新編武蔵風土記」の蓮沼村の頃にも「宝永二年宥賢ノ時堂宇再建ノ棟札アリ」と記され、江戸時代からその存在が知られていました。棟札には、寺の再興にあたった内田氏をはじめとする上蓮沼と根葉両村の檀家の名前と、供出した人足・馬・銭・米などの諸経費がこと細かく記録されており、棟札自体が、文書史料が少ない当寺や当地域の十七世紀末〜十八世紀初頭の様子を知る上で貴重な資料となっています(平成二十六年度区登録有形文化財)。




本殿の左手前には「弘法大師修行像」が建っています。弘法大師(空海)は、平安時代初期の僧で、真言宗の開祖です。774年6月15日、空海は讃岐国(現在の香川県)で誕生しました。幼名は「真魚(まお)」といい、幼い頃から聡明で、桓武天皇の皇子の教育係を務めた伯父、阿刀大足から詩や漢語、儒教を学んでいました。18歳になった真魚は大学に入学しますが、そこは官僚養成所で、出世のために学ぶ場所でした。真魚は困っている人を助けたいという想いが強く、それには仏教の教えが重要だと考え、大学を中退して僧侶として生きることを決意します。修行を続けていた空海は、奈良県にある久米寺に納められていた密教の経典、「大日経」と出会い、密教こそが人々を救う教えだと気付き、31歳のときに遣唐使として唐へと渡りました。唐では、密教の理解に必要なサンスクリット語(梵語)も学びつつ、密教の勉強に励みます。そして唐に入って約半年後、真言密教を正式に受け継いだ僧である恵果和尚に会います。恵果は一目で空海を認め、自身の弟子にして密教のすべてを伝授しました。わずか3ヶ月という短い期間で空海は師である恵果から「真言密教の師」と認められたのです。唐に渡った二年後の806年に空海は日本へ帰国し、816年に和歌山県の高野山に真言宗の修行道場として「総本山金剛峯寺」を開創しました。そして承和二年(835年)3月21日に62歳で入定しました。空海の入定後80年以上が経過した921年になって、醍醐天皇から生前の功績として「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られました。

注記:
「入定」とは、真言宗に伝わる伝説的信仰のことで、弘法大師空海が永遠の瞑想に入っているという信仰を指します。空海は835年に入定しましたが、生死の境を超え、弥勒菩薩出世の時まで衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で入定していると信じられています。




その弘法大師像の前には「お砂踏み場」が設けられています。

四国八十八ヶ所霊場お砂ふみ

手前の足型の付いた石の下には四国八十八ケ所全寺院と高野山のお砂が埋めてあります。この石の上で
  南無、大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)
と3回お唱え下さい。弘法大師さまのご縁日は毎月21日です。

3月21日はこ入定なさった日です。




蓮華寺から「城北交通公園」に向かいます。とある酒屋さんに「禁断の酒」という張り紙がしてあります。試そうとは思いませんが、どんな味なんでしょうかね?

禁断の酒アブサン

※禁断の酒・ アプサンとは
主原料のニガヨモギに含まれるツヨンという香味成分には、向精神作用があります。幻覚や妄想などの精神錯乱を引き起こすような症状が出てしまうことが問題となり、1907年にスイスで、1915年にフランスでアプサンの製造や販売が禁止になってしまいました。中毒症状によって犯罪行為が横行した事例もあり、まさに「禁断の酒」なのです。アプサンによって身を滅ぼした有名人(芸術家)も多くいました。その後徐々にツヨン成分数値などの明確化が進み中毒にならない許容量でニガヨモギをリキュールに使用することが認められ、2005年にアプサンの製造も許容されています。長い間取り締まりを受けていたお酒なので、禁断の酒と呼ばれるようになったのです。




住宅地の中に、かなりの幅の空き地が延びています。戦前、この辺りの工場地帯の中に開削された蓮根川という人工の河川を埋め立てて緑道にしたものだそうです。工場への物資運搬に使われていたので、それなりの大きさの船が行き来していたのでしょう。



ポイント4 城北交通公園

城北交通公園は、城北公園の中にあります。



城北公園は、野球場を中心にして、ジャブジャブ池やお花見広場などを備えた大人から子供まで楽しめる公園です。



城北交通公園では、蒸気機関車やミニSLや都バスの実物も展示していて、自由に見学することができます。また、未就学児を対象として、自転車・豆自動車・三輪車が無料で貸出しされていて、園内のコースを走ることができます。展示されている蒸気機関車はD51−513型で、この型は通称「デゴイチ」と呼ばれて親しまれていました。製作車両数1116両のうちの1車両です。デゴイチは、主に貨物輸送のために用いられた機関車で、戦前から戦後にかけて活躍していましたが、昭和四十七年に山形県酒田機関区で活躍を終え、城北交通公園に寄贈されました。

D51型 蒸気機関車

昭和十一年製作を開始し、製作車両数1、116両。代表的貨物蒸気機関車で勾配線区では旅客列車にも使われ、製作当初は箱型輸心など各部に新しい設計が取り入れられ、煙突、給水加熱器、砂箱、蒸気ドームなどを1体のケースに収めた半流線形で当時としてはグッドモダンでカ強い機関車だったが、昭和十三年以降製作されたものは普通の形に作られるようになった。この蒸気機関車(D51513)は、昭和十五年12月国鉄大宮工場で作られ信越線や北陸線などで使っていましたが、昭和四十七年6月山形県酒田機関区を最後に廃車となりました。

●車の長さ  19.73メートル  ●重さ   125.77トン
●動輪の直径   1.4メートル  ●最大時速  85キロ
●全走行キロ 22万3098キロ  ●馬力   1300馬力




運転席にも立ち入ることが出来ます。



ミニSLも展示されています。ドイツのコッペル社製で、名前は「ベビーロコ号」です。和歌山県の有田鉄道から東武鉄道が譲り受けたものの、小さい機関車でたくさんの貨物を引けなかったため、長く放置されていたものをときわ台駅前で展示していました。さまざまな旅を終えて現在は城北交通公園のマスコットとなっています。

ベビーロコ号

明治四十五年ドイツのアーサーコッペル社で作製され、有田鉄道(和歌山県)で使用され紀州の山野で活躍した。戦後、東武鉄道がガソリン機関車と交換取得したが性能はけん引力10車両程度のうえ、燃料・水の積載量も少なく、制動機は手動のため東上線を回送で走っただけで川越機関区に移され、放置されていた。その後昭和三十三年7月以降、常盤台駅に展示されていたものである。

・車の長さ  4.7メートル
・重さ    7.11トン
・動輪の直径 0.6メートル
・最大時速  20キロ




都バスは、平成三年に城北交通公園にやって来ました。車内に入って見学することもできます。



交通資料館には、蒸気機関車の模型、Nゲージの新幹線や電車、昔の蒸気機関車の写真などが展示されています。



城北交通公園から「稲荷神社」に向かいます。

ポイント5 稲荷神社

稲荷氷川神社は、高島通りと御成塚通りが交差する交差点の奥にあります。創建年代は不詳ですが、此の地に農家が3軒しかなかった時代から鎮座しているといわれています。稲荷神社が現在の蓮根二丁目に移転した(現在の蓮根氷川神社)後、此の地の人々は跡地に遥拝所を設け、神拝する時代が続きました。大正十三年(1924年)に、土地の川口氏が境内地を奉納し、「稲荷氷川神社」の社殿が再興されました。昭和十三年十二月に長後町の厳島神社(弁財天)を、昭和十四年八月に舟渡の第六天神社を合祀しました。境内には、稲荷社も祀られています。稲荷社と稲荷氷川神社の関係は分かりません。



稲荷氷川神社本殿の御祭神は、蒼稲魂神(うかのみたまのみこと)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の二神です。御利益として、五穀豊穣・商売繁盛・安産・厄除け・縁結び・合格祈願・病気平癒・交通安全があります。



相殿として、弁財天と第六天が境内奥に祀られています。弁財天の御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、御利益として、芸能上達・招福・子守育児があります。第六天の御祭神は、面足尊(おもだるのみこと)で、御利益として、無病息災・疫病除けがあります。



稲荷社の創建年代は不詳ですが、石祠には「武蔵蓮沼村稲荷三社明神 寛文六年(1666年)二月初午」と刻されています。御利益として、縁結び・厄除開運・安産守護があります。



稲荷神社から中山道(国道17号線)を北上し、現在の戸田橋から少し下流に位置していた「中山道戸田の渡し」に向かいます。

ポイント6 中山道戸田の渡し

江戸時代に整備された五街道のひとつである中山道は、日本橋から京都の三条大橋まで、板橋・浦和・高崎・軽井沢・下諏訪・妻籠・関ヶ原・草津を経由して結ぶ街道でした。日本橋を出て最初の宿場が「板橋宿」で、江戸四宿のひとつとして栄えましたが、その次の「蕨宿」との間には荒川を渡るための「戸田の渡し」がありました。この荒川には江戸防衛の意味から橋は架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざる得ませんでした。これが中山道戸田の渡しです。この渡しは、天正年中(1575年〜1591年)から存在したとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保十三年(1842年)には家数46軒、人口226人でした。その中には、組頭(渡船場の支配人)1人・船頭8人・小揚人足31人がいました。船の数は、寛保二年(1742年)に3艘でしたが、100年後の天保十三年には13艘に増えています。やがて、明治八年(1875年)5月に木橋の戸田橋が完成し、「戸田の渡し」は廃止されました。現在の戸田橋から約100メートルほど下流の辺りが渡しのあった場所ということで、「中山道戸田の渡し」の碑が建てられています。

戸田の渡し場

中山道の荒川を渡る所に、戸田の渡し場がありました。対岸の戸田村の名によって呼ばれたものです。戸田の渡し場には、いつも人や馬を運ぶための舟と人夫が用意されていて、川を渡るのにさしつかえのないようになっていました。また、ここは、「戸田河岸」ともいわれ、荒川の下流の江戸から積んできた塩、砂糖、雑貨品などがおろされ、江戸に向う舟には、大根や漬け物など、この付近の特産物が積みこまれました。




案内板に描かれている浮世絵は、曲亭(滝沢)馬琴の長編小説である「南総里見八犬伝」に登場する人物とその役割を理解しないと意味が分かりません。
網干左母次郎
網干左母次郎は色白で眉目秀麗、「鄙には稀なる美男」とされ、元関東管領扇谷定正に小姓として仕えました。弁舌の爽やかさから主君に寵用されましたが、人をそしることが多く追放になりました。筆跡に優れて歌舞音曲にも通じていたため、信乃の故郷である大塚村で手習いや歌舞の師匠となりましたが、多くの浮名を流し、村長夫人の亀篠にも気に入られました。網干左母次郎は村長の養女の浜路に恋し、亀篠から浜路との結婚を条件に、信乃の刀と蟇六の刀の刀身をすり替えるよう依頼されます。首尾よく事を果たしますが、信乃の刀が名刀村雨丸と見るや、蟇六に偽物を渡して村雨丸を自分の物としました。しかし、蟇六と亀篠が浜路と簸上宮六との婚儀を準備をしているのを見て、浜路誘拐の挙に出ました。本郷円塚山で焚火をしながら左母次郎が浜路に村雨丸のすり替えの件を告げ、偽物を献上すれば信乃もさしずめ斬首刑だろうと諭しました。浜路は愕然としますが、芝居を打ちます。さも信乃との縁は破談と諦めるそぶりで村雨丸を見たいと所望し、手渡したとたん「夫(許嫁の信乃)の敵」と襲いかかりますが、抵抗の甲斐もなく彼女は致命傷を浴びてしまいます。しかし、どこからともなく左母次郎の胸に手裏剣が命中します。焚火のあとから火遁の術の使い手の犬山道節が現れ、左母次郎にとどめを刺し、村雨丸を奪いました。後に、犬山道節は村雨丸を信乃に返しています。

犬塚信乃
犬塚信乃は武蔵大塚で生まれ、元服まで性別を入れ替えて育てると丈夫に育つという言い伝えに母が願いを託したため、女名を付けられ、女装されながら育てられました。信乃は幼いときに母と死に別れ、信乃が11歳のときに父が「御教書破却事件」で自害しました。信乃は父の遺言に従い、叔母の大塚蟇六・亀篠夫婦に引き取られ、その養女の浜路を許嫁(いいなずけ)としました。父が自害する際に鎌倉公方足利家の宝刀・村雨丸を渡され、いつの日か足利家に返すことを願っていましたが、伯母夫妻はこれを奪取しようと企てていました。村雨丸は、人を斬れば刀身に帯びた水気が血を洗い流すという名刀でした。

大塚蟇六・亀篠
亀篠は信乃の伯母で、蟇六は元々はごろつきでしたが亀篠の夫となり、大塚家の家督を奪って大塚村の村長になりました。信乃の父が自害すると村人の手前信乃を引き取り、養女浜路を娶わせて家督を譲ると約束しますが、信乃の持つ村雨丸を奪おうと様々な策を練ります。村雨丸の献上を持ちかけて信乃を遠ざけ、村雨丸をすり替えて浜路を陣代の簸上宮六に嫁がせようとしました。しかし、浜路が網干左母次郎に誘拐され、激怒した簸上らに殺戮されました。

浜路
大塚蟇六・亀篠の養女で、許嫁の信乃を慕い、信乃が古河公方となった足利成氏に村雨丸を献上すべく滸我(こが:古河)へ旅立ちする前夜には切々と想いを訴えました。養父母の姦計にはめられて陣代の簸上宮六に嫁がされそうになり、首を吊ろうとする所を、かねて浜路に横恋慕する網乾左母二郎に誘拐されました。しかし浜路は左母二郎に従わず、本郷円塚山で網干左母次郎が持っていた本物の村雨丸を奪取して左母次郎に突きかかったために返り討ちにされました。

左下に描かれているのは網干左母次郎です。 歌川国芳が嘉永五年(1852年)に制作した「木曽街道六十九次之内 板橋」では、戸田川(現在の荒川)の神宮河原で溺れる蟇六を救う信乃が描かれています。蟇六はわざと舟から落ち、信乃が助けようと水中に飛び込んだ間に、小舟の上で網干左母次郎が村雨丸をすり替えている場面が描かれています。



中山道戸田の渡しから「舟渡氷川神社(十度の宮)」に向かいます。

ポイント7 舟渡氷川神社(十度の宮)

昭和十九年の土地区画整理により志村橋と戸田橋間に舟渡町が誕生した際、神社建設の議起こり、昭和三十八年に氏子会を結成し、区画整理組合より交付された土地に社殿を建設し、境内の整備を行なった後、昭和四十一年五月十二日付で舟渡町の鎮守として舟渡氷川神社が設立されました。



此の舟渡の地には、万治二年(1659年)に建立された氷川大明神の笠塔婆型の石祠があって、人々に崇敬されていました。この石祠は荒川の洪水のために何度も流されていましたが、十度此の地に戻ってきたので、「十度の宮」と称せられました。

氷川神社と十度宮

御祭神は、須佐之男命と奇稲田姫命です。舟渡の地には、往古より十度宮と呼ばれる石祠が祀られていました。「新編武蔵風土記稿」によると、元は旧蓮沼村の西南の辺りで祀られていましたが、洪水で十度流されて、そのたびに同じ場所(舟渡2−8)に流れ着いたことから、村人らは、これを神意ととらえ、流れ着いた場所に塚を築き、榎を植えて、そこに石祠を遷し、併せて十度宮と呼ぶようになったといいます。石祠の正面には「奉修造立氷川大明神御宝前」、左面には「万治二年六月十五日」、右面には「寛保三癸亥年十二月吉日建立 武州豊島郡蓮沼村 別当金剛院」と刻まれています。これにより、万治二年(1659年)に勧請され、その後寛保三年(1743年)に当社の別当金剛院により再建されたことがわかります。昭和八年(1933年)、中山道の拡幅工事が行われると、十度宮は蓮根氷川神社の境内に遷され、しばらくの間そこで祀られていました。その後、地元の声を受けて昭和四十一年に当社が創建されると、十度宮も現在の場所へ遷されました。




境内の一画に、「十度宮」の石祠が祀られています。

「十度の宮」の由来

この舟渡の地には、昔から「十度の宮」といわれた笠塔婆型の石祠が祀られていた。「十度の宮」の語源について「新編武蔵風土記稿」に「・・・・古へ村内西南の方にありしが、爰に塚を築き榎を植えて社を移す。土人今も「十度の宮」と稱せり」とある。この石祠は洪水のため何度も流されていたが、十度この地(現在舟渡二の八付近)に戻って来たので、その名が生まれたといわれている。

「十度の宮」の石祠

右面  万治二巳亥年六月十五日
西南  奉修造立氷川大明神御宝前
左面  寛保三発亥年十二月吉日造立
    武州豊島郡蓮沼村別當金剛院




舟渡氷川神社(十度の宮)から「都立浮間公園」に向かいます。

ポイント8 都立浮間公園

都立浮間公園は、JR浮間舟渡駅の北側正面に広がる大きな公園で、公園面積の約40%を占める浮間ヶ池は元々大きく蛇行していた荒川の一部でした。戦前の荒川の大改修の際に荒川の流路から切り離されて、残った川の跡が池になりました。

公園の沿革

この辺一帯は、荒川が蛇行していて、川の中の浮島のような湿地であったため、江戸時代から浮間ヶ原とよばれ桜草の自生地として有名でした。大正時代の中期から荒川の改修工事が始まり、昭和三年頃ここに堤防が築かれたことから、廃河川敷となって浮間ヶ池の原形が出来上がりました。その後、この池はつり堀などとして親しまれて来ましたが、昭和三十五年、この廃河川敷を中心に都市計画公園の事業決定がなされ、昭和四十二年に都立浮間公園として開園しました。昭和五十二年には、知事からチビッ子にプレゼントの形で、都立公園としては唯一、釣り池として全面開放されました。昭和六十年10月には、埼京線浮間舟渡駅が開設され、公園利用者も一段と増えたことに伴い、昭和六十二年度から3ヶ年で大改修が行われ、施設など公園が一新されました。




公園内の風車は見どころのひとつで、季節によってさまざまな景色を見せてくれる他、期間限定でライトアップが行われることもあります。



ゴール地点の浮間舟渡駅に着きました。



ということで、板橋区で二番目の「高島平散策コース(歴史ルート)」を歩き終えました。次は、板橋区で三番目の「赤塚散策コース」を歩きます。




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