A赤塚散策コース  

コース 踏破記  

今日は板橋区の「A赤塚散策コース」を歩きます。成増駅をスタート地点として、東京大仏を初めとして赤塚地区の由緒ある寺社仏閣、赤塚城跡の広大な梅林、語り伝えられる郷土の芸能などを巡ります。板橋区でも屈指の名所・旧跡が含まれる散策コースです。最初に歩いたのは初冬の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年7月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

A赤塚散策コース

自然と歴史と文化の里・武蔵野の香りが今なお残るエリア

「A赤塚散策コース」の歩数は約9,143歩、歩行距離は約6.4km、歩行時間は約96分、消費カロリーは約288Kcalです。

スタート地点:東武東上線成増駅北口
ポイント 1 赤塚氷川神社
長禄元年(1457年)に、赤塚城主千葉自胤が武蔵国一宮氷川神社より分霊を勧請してここに祀ったもので、上赤塚村の鎮守。長い参道にはけやきの古木が並び、どこか武蔵野の面影が感じられます。
ポイント 2 赤塚城跡
戦国時代に千葉氏の居城となっていたところです。中世の典型的な平山城で、周辺には空壕などの遺構がわずかに残っており、往時をしのばせます。
ポイント 3 赤塚溜池公園
園内には約200本の梅が植えられており、早春の頃、一斉に花をつけた姿は一見の価値ありです。毎年3月上旬には梅まつりも開催されています。
ポイント 4 赤塚諏訪神社
創建は長禄年間といわれ、赤塚城主千葉自胤が信州諏訪大社の分霊を勧請してここに祀り、赤塚城の鬼門除けにしたと伝えられています。国重要無形文化財に指定されている「田遊び」や区指定無形民俗文化財である「獅子舞」が伝わります。
ポイント 5 竹の子公園
ここは以前から竹林があったところですが、新たに鳳凰竹、金明竹など約13種類の竹を植えて、公園として整備しました。竹の葉を揺らす風の音を聴いていると、時の経つのも忘れてしまいそうです。
ポイント 6 不動の滝
東京の名湧水57選にも選ばれた名水です。ここは昔、大山詣りや富士詣りの人々が、滝に打たれ心身を清めるみそぎ場としても使われ、どんな旱魃の年でも水が枯れない湧水でした。水量こそ減りましたが、今でも枯れることなく流れ落ちています。
ポイント 7 乗蓮寺(東京大仏)
乗蓮寺本堂の右手にあるのが高さ13mの青銅製の大仏、通称東京大仏です。平和を祈って建立された大仏は、完成当時日本第3位の大仏と言われました。境内にある様々な石像は、藤堂高虎が朝鮮から持ち帰ったと言われるもので、なかでも「がまんの鬼」のユーモラスな表情は楽しいですよ。
ポイント 8 松月院
徳川家康に40石の朱印地を寄進された由緒ある寺院です。高島秋帆が日本初の洋式砲術訓練を行ったときの本陣となったことでも有名で、境内には砲身と砲弾を模した高島秋帆紀功碑があります。宝物館(有料)には遺品もありますので、こちらにもお立ち寄りください。

       大堂
大堂は、区内で最も古いお寺で、平安朝初期の創建といわれています。室町時代には七堂伽藍を備えた大寺であったと言いますが、上杉謙信が小田原北条氏を攻めたとき、敵の待ち伏せを恐れた謙信に焼き払われてしまったと伝えられています。
ポイント 9 水車公園・徳水亭
園内には水車が回り、水田では田植えから稲刈りまでの稲の育成状況や農業の風景を観察することができます。また、水車公園の道を隔てた隣には日本庭園があり、茶室の「徳水亭」があります。
(徳水亭の予約は、みどりと公園課施設運営グループ 03−3579−2532)
ポイント10 安楽寺
開山は室町時代の暦応三年(1340年)といわれ、御本尊の阿弥陀如来立像は秘仏とされています。明治七年7月には、現在の紅梅小学校の前身である紅梅学校が開校しています。
ポイント11 旧粕屋家住宅
当家は、徳丸脇村の名主粕谷家から享保十一年(1726年)以前に隠居したことに始まります。当住宅は、木造茅葺平屋で江戸時代後期の典型的な農家形式で建築当初の位置を保っている大変貴重な建物です。
ポイント12 徳丸北野神社
徳丸村に古くからある神社で、長徳元年(995年)、京都の北野神社の分霊を勧請し創建されたと伝えられています。当時流行していた疫病が里人たちの祈願した梅の古木の霊験により鎮まりました。この時農夫の業を演じて奉納したのが現在国重要無形民俗文化財にも指定されている「田遊び」の起源とされています。

ゴール地点:東武東上線東武練馬駅北口


スタート地点の成増駅北口から「赤塚氷川神社」に向かいます。北口の手前には、今日歩く「赤塚散策コース」のルートマップが見所ポイントの写真と共に掲示されています。



北口の高架広場には、清水かつらの童謡の歌詞を刻んだ石碑が置かれています。「かつら」という名前から女性と思われがちですが、男性です。本名は「清水桂」といい、童謡詩人として知られています。清水かつらは、大正五年(1916年)に合資会社中西屋書店出版部へ入社しました。中西屋書店は少年少女向けの雑誌を刊行するために「小学新報社」を創設し、清水かつらは、少女雑誌「少女号」や「幼女号」や「小学画報」を編集しました。編集の傍ら童謡の作詞を始め、関東大震災で継母の実家に近い埼玉県白子村・新倉村(現在は和光市)に移り、ここで生涯を送りました。主な作品に、「靴が鳴る」・「叱られて」・「雀の学校」・「みどりのそよ風」があります。

みどりのそよ風

     清水かつら作詞
     草川 信 作曲

みどりのそよ風 いい日だね
ちょうちょもひらひら まめの花
なないろばたけに 妹の
つまみ菜摘む手が かわいいな

石碑の裏面

成増のまちや、そこに住む人々を愛した清水かつらは、この地を舞台として、子どもの歌を数多く作詞した。この童謡詩人を偲び、区内の子どもたちの幸せを願って、ここに童謡の碑を建立するものである。



ポイント1 赤塚氷川神社

赤塚氷川神社の参道入口の左手前に、「赤塚乳房大神」の石碑と共に、樹齢1、750年と言われる欅の大木が聳えています。この欅の木にある洞の中のこぶから出る樹液が乳房の病に霊験があるとして多くの女性の信仰を集めていました。これを見て地主の山崎氏が明治期の落語の名人である三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」の話を聞いて建てた碑です。ちなみに、「怪談乳房榎」とは、次のような話です。

怪談乳房榎

絵師である菱川重信は弟子の磯貝浪江に殺されました。その時、菱川重信の赤ん坊であった真与太郎は使用人の正介に連れられて赤塚に逃れました。松月院境内には乳房の形をした瘤のある榎があり、瘤から滴る雫を乳代わりに成長した真与太郎が見事にあだ討ちを遂げます。


赤塚地域には、瘤を乳房に見立てて乳の出が良くなることを祈願する民間信仰があったことから、「乳ノ木様」とも呼ばれていました。そのため、「ちちのき」という読み方が変化して、赤塚乳房大神の木は榎(えのき)と思われるようになったそうです。実際の木は、榎ではなく、欅とのことです。



赤塚氷川神社の参道には、欅の大木が連なっています。

氷川神社の参道並木

氷川神社は、かつて多くの樹木からなる社叢に囲まれていました。大正七年(1918年)発行の「北豊島郡誌」には「槻及び杉の大木矗々として梢を列ぬ」と当時の氷川神社が記されています。昭和三十三年(1958年)から始まった区画整理にともなう周辺の宅地化や、昭和五十二年度の社殿改築によって、その景観は大きく変わりましたが、参道並木は今もなお昔の面影を残しています。現在、参道と境内にある樹木のうち、比較的大きな十七本が、板橋区の保存樹木に指定されています。また、参道入口の飛び地にあるケヤキは、幕末から明治期にかけて活躍した落語家三遊亭円朝の、「怪談乳房榎」のモデルの一つといわれています。氷川神社の参道並木は、古くから地域の人々に親しまれ、武蔵野の面影をしのばせる景観であるとして、平成六年度に板橋区の文化財(天然記念物)に登録されました。




一の鳥居の後ろにも瘤の付いた木があります。



一の鳥居の脇には宮前不動尊があり、その手前に形の異なる3基の庚申塔が並んでいます。左側の駒型の庚申塔は、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿の図柄で、明和四年(1767年)2月に造立され、「武豊嶋郡上赤塚村 講中拾六人」の銘があります。台石には「右 ふき上道 左 屋くし道」とあり、吹上観音への道と新井薬師への道を示していると思われます。中央の自然石の庚申塔は、正面に大きく「庚申塔」と書かれ、台石には三猿が陽刻されています。上部には日月が刻まれていて、造立年は万延元年(1860年)9月になっています。右側の円柱型の庚申塔の塔型は極めて珍しく、造立年は寛政十二年(1800年)3月で、「青面金剛尊」と正面に彫られています。台石には、「武州豊嶋郡上赤塚村 願主 川上権右衛門 講中拾五人」とあります。



二の鳥居は珍しい様式をしています。両部鳥居という様式で、四脚鳥居・権現鳥居・枠差し鳥居・袖鳥居・児持鳥居・宮島鳥居・四脚鳥居など、いろいろな名称で呼ばれています。「両部」は、真言宗が唱えた両部神道からきているという説があります。本柱の前後に短い控え柱を立て、貫(ぬき)で本柱とつないだ鳥居です。神仏混淆の神社に多く見られます。二の鳥居の前の植え込みの中に由緒書が建っています。

氷川神社

由緒

当神社は、後花園天皇の長録(禄?)元年(皇紀2118年・西暦1458年)、武州赤塚城主千葉介自胤氏が武蔵一之宮氷川神社(埼玉県大宮市に鎮座)の御分霊を奉請し、是に鎮座奉った御神威尊き御社である。広い境内には往時を今に語るが如く、樹令数百年を経た欅の大樹が聳え、楠公孫樹其の他数多くの常緑落葉の樹木が森を成し、特に参道の桜並木は開花季実に見事で、近郷近在にも稀である。

社殿の奉歴

御社殿の創建は、伝承によれば太田道灌が江戸城を築城された末期の頃、御造営がなされ、其の後幾度か修改作が行はれたが、孝明天皇の安政五年正月(皇紀2518年・西暦1858年)、氏子村民一同の発願により、総欅造り柿葺外周には精巧を極めた飛龍鳳鳥貴人等を施刻した御本殿(現在の内神殿)が造営され、其後明治十四年八月拝殿が新築せられたが、明治二十七年六月、地震の被害を蒙り、これらの修復は明治二十九年四月完了し、神楽殿も大正十年四月に建造された。以未数十有星霜?朽次第にあらわれるに伴え、御社殿・神楽殿の新改築をと望む気運が挙り、氏子崇敬者の斉しき願と成り、遂に建設委員会を発足し、以来実に四年一ヶ月の歳月を費し、昭和五十二年四月五日境内盛土2000立方米突、御社殿は従来の御本殿を内神殿として、鉄筋混凝土銅板葦本殿・幣殿・拝殿を連ねた流権現造坪数181.26平方米突、神楽殿は鉄筋混凝土銅板葺真舞殿造地階共坪数49.68平方米突が竣成した。併て手水舍・玉垣・社号社頭の両標・常夜燈等が奉献せられ、御神域の尊厳も一段と奉昂された。




赤塚氷川神社は上赤塚村の鎮守で、長禄元年(1457年)に赤塚城城主の千葉自胤が武蔵国一宮の氷川神社を勧請したといわれています。

氷川神社

御祭神は素盞嗚命、藤原広継命。長禄元年(1457年)に赤塚城主千葉介自胤が武蔵一宮氷川神社から御分霊を勧請したといわれています。御霊神社の由緒については不詳です。文政十一年(1828年)成立の「新編武蔵風土記稿」には「上赤塚村 氷川御霊合社 村の鎮守なり 清涼寺持」とあって、江戸時代には清涼寺が別当として社務にあたり、旧上赤塚村の鎮守として村民から崇敬を集めていたことが記されています。安政四年(1857年)正月に、本殿が再建され、さらに明治十四年(1881年)八月には拝殿が新築されるなど、幕末から明治時代にかけて整備が行われています。なお、拝殿が新築された際には、それを記念して祭礼(奉祝祭)が斎行されましたが、その時の様子を描いた絵馬が明治十六年に村民から奉納されました。この祭礼図絵馬を始め、当社所蔵の絵馬・扁額は平成二十二年度に板橋区の登録有形民俗文化財となりました。また、本社の裏手には、元治元年(1864年)に氏子によって奉納された「御嶽山座王権現」碑が建てられた木曽御嶽塚があり、平成二十七年度に区登録記念物となっています。




江戸時代に氷川神社の別当寺だった清涼寺は、明治時代になって寺運が衰退して住職不在の時期があり、「石成学校」という小学校の校舎として使われたこともありました。明治三十年(1897年)に住職が着任し、寺勢が回復して現在に至っています。

清涼寺

当寺は真言宗智山派に属し、石成山清涼寺と号し、御本尊は不動明王です。山号にある石成は、成増の旧地名「赤塚郷石成村」に由来します。石成村の名称は、古文書や鰐口(わにぐち:仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種)、石碑などから確認でき、南北朝時代から昭和時代前期まで使用されていましたが、現在では当寺の山号と隣の公園の名称で残っているだけです。江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」に開山は宥長と伝えられると記されていますが、寛仁三年(1019年)に入滅した宥長和尚の墓碑が現存します。中世の僧侶の墓碑は有りませんが、元禄年間(1688年〜1704年)より僧侶の墓碑が続いて存在します。この頃には三宝寺(練馬区石神井)の末寺になっていました。また明治時代初期に神仏分離令が出されるまでは、氷川神社(赤塚四丁目)の別当寺でもありました。明治政府によって学制が布かれると、明治九年ここに公立の石成小学校が開校されましたが、明治二十四年に赤塚尋常小学校が新設されるのに伴い廃校となりました。境内には明治十四年より同二十二年まで校長を務めた佐野藏吉氏を偲んで教え子が建立した頌徳碑が現存します。




板橋区には、「田遊び」という伝統的な催しがあります。

赤塚氷川神社田遊び

板橋区には、国指定重要無形民俗文化財の「板橋の田遊び」が伝わり、毎年二月十一日には徳丸北野神社で、同十三日には赤塚諏訪神社でそれぞれ斎行されています。そして当赤塚氷川神社でも毎年二月十日に特殊神事「田遊び祭」が行われています。「田遊び祭」の当日は、午後二時から拝殿において神事が行われ、そのあとに、社務所に移り直会となります。そして、午後四時になると、境内に積み上げられた「オカガリ」に点火され、先導・宮司・役員(総代)・太鼓・獅子・氏子の順に並んだ一行が、太鼓を打ち鳴らしながら、そのまわりを右回りで三回まわるという形態をとっています。また、「タロウジ・ヤスメの面」には、その内側に「氷川大神・御霊権現、宝永八年卯正月九日、氏子奉納、別当清涼寺」の墨書銘が確認され、正月九日という日取りからこれは田遊びに使用されていたものと考えられます。また、その使用痕や修復の状態から、宝永八年(1711年)以降の一定期間、面が使用される所作がこの田遊びにもあったということが推測されます。このように、当田遊びでは、稲作儀礼に関わる唱え言葉や所作は行われず、その形態は簡素なものとなっていますが、「板橋の田遊び」との関連性や、東日本における田遊びの伝播や展開などを解明する上で重要な芸能神事であり、平成二十二年度に区登録の無形民俗文化財となりました。また、その使用道具については、同二十一年度に区登録の有形民俗文化財となっています。




赤塚氷川神社から「赤塚城跡」に向かいます。

ポイント2 赤塚城跡

赤塚城は、市川城(千葉県市川市国府台付近にあった国府台城、別名を市河城又は鴻之台城という)から移った千葉自胤によって康正二年(1456年)に築城されたと伝えられています。赤塚城は、真北にある荒川の早瀬の渡し場を一望し、また武蔵北部から武蔵南部の下赤塚・江古田に至る鎌倉道(埼玉道)を押さえ、陸運と水運を掌握する要衝に位置していました。千葉氏は後北条氏の有力な家臣として活躍しましたが、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収されて赤塚城は廃城になりました。現在、赤塚城跡は都立公園として整備され、本丸跡に行くには長い階段を登っていかなければなりません。



本丸跡は広い野原になっていて、その中に記念碑が建っています。

武蔵千葉氏と赤塚城跡

下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正二年(1456年)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城しました。寛正四年(1468年)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(1590年)まで勢力をふるいました。城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分が二の郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確は(な?)ことはまだ明らかとなっていません。




記念碑が建つ広場が一の郭の跡のようです。



二の郭跡には板橋区有数の梅林があります。毎年3月上旬頃開催される「赤塚梅まつり」には沢山の観梅客で賑わいます。

城址の梅林

梅は春を告げる花です。ここ城址の梅林は梅畑であったものを農家から譲りうけ、平成七年六月から公園地として皆さんに親しんでいただいております。

 白加賀(シラカカ) バラ科 サクラ属
 花期は二月下旬〜三月上旬

中国が原産の梅は花を見るだけでなく、果実も採れる実利の植物でもあります。毎年、公園管理所では梅の実を地元の養護学校の生徒さんたちに摘んでもらい、その一部を近隣の福祉施設にもさしあげたいと考えています。毎年、子供達が楽しみにしていますので、梅の実には手を触れないよう、皆様のご協力をお願いいたします。

 梅一輪一輪ほどのあたたかさ
 嵐雪




赤塚城跡から坂道(階段もあります)を下って、「赤塚溜池公園」に向かいます。

ポイント3 赤塚溜池公園

赤塚溜池公園は、都立赤塚公園に隣接した区立の公園です。公園の中央に、かつて農業用水として使用していた溜池があることからこの名称になりました。園内には区立美術館や郷土資料館、周辺には赤塚諏訪神社や東京大仏などの見所があり、周辺施設も含めて憩いの場となっています。

板橋区立美術館

赤塚城址に沿うように建てられた、モダンな建物の美術館。年間通して様々な企画展を開催しており、江戸時代の屏風や掛軸、戦前、戦中の油絵などの展覧会のほか、絵本原画展も毎年開催しています。また、休憩等に利用できるオシャレなラウンジがあります。

Itabashi Art Museum

The art museum with the modern building that has been built along the Akatsuka Castle Ruins. Various events are being held throughout the year such as exhibitions of Byobu (folding screens) and Kakejiku (hanging scrolls) in the Edo Period and oil paintings before or during the previous war, and also the exhibition of original pictures for picture books is being held every year. It has also a chic lounge that can be utilized for resting etc.

板橋区立郷土資料館

考古遺物・古文書・民俗資料など郷土の歴史資料の展示や、四季折々の年中行事を再現しています。敷地内には古民家もあり、自然に恵まれた環境のもと、地域の歴史・祖先の生活から新たな発見と懐かしさを感じることのできる、心安らぐスポットです。

Itabashi Historical Meseum

Historical materials of the area are being exhibited such as antiquities, old documents and folk materials, and annual events held in four seasons are being reproduced. With an old private house in the premise, it is a relaxing spot where the citizens can enjoy new discoveries from the regional history and the lives of ancestors and feel nostalgic in the environment with rich nature.

赤塚城址(都立赤塚公園内)

戦国時代、この辺りを支配していた千葉氏の居城跡です。中世の典型的な平山城で、周辺には空壕などの遺構がわずかに残る、23区でも珍しい戦国時代の城跡として区民の憩いの場となっています。

Akatsuka Castle Ruins (in the Akatsuka Park)

This site used to be the ruins of the castle for Chiba clan ruling over this area in the Sengoku period, "the period of warring states". It is a typical flatland-mountain castle in the medieval times, which is currently the place of relaxation for Itabashi citizens as the castle ruins in the Sengoku period that is unique in the 23 wards of Tokyo with slight remains such as dry moats in the surrounding area.

赤塚溜池公園の梅

早春の頃、園内の紅梅・白梅など約200本の梅が、一斉に花をつけた姿は、一見の価値があります。板橋十景のひとつ「赤塚溜池公園周辺」として、区内の人気梅見スポットとなっています。毎年3月上旬に「赤塚梅まつり」が開催され、多くの人で賑わいます。

Plum trees in the Akatsuka Tameike Park

It is worth viewing the scene of about 200 Japanese plum trees in the park being in bloom, red or white or others, at one time early in the spring. This park is a popular Japanese plum-blossom viewing spot in the city as one of Itabashi 10 Scenic Spots, i.e. "the surrounding area of Akatsuka Tameike Park". The "Akatsuka Japanese Plum Festival" is held early in March of every year and is crowded with many people.




公園の中央には、名称の由来となった溜池があります。太公望で賑わっていますね。

赤塚城跡と徳丸ヶ原

赤塚城跡は、区立赤塚溜池公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡です。現在大部分が都立公園となっており、城山、お林山などとも呼ばれています。ここは、康正二年(1456年)に下総国市川を逃れた千葉自胤が入城したと伝えられ、現在でも空堀や土塁の跡を見ることが出来ます。北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえています。城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ヶ原とよばれた原野でした。ここで天保十二年(1841年)、長崎町年寄で西洋砲術家の高島秋帆が、江戸幕府から許可を得て洋式の砲術訓練を行い、「高島平」の地名の由来となりました。明治時代以降は開墾されて一面の水田地帯となり、「徳丸田んぼ」と呼ばれました。昭和四十年代になると高島平団地の開発が始まり、景観は大きく変わりましたが、区立徳丸ヶ原公園に残る「徳丸原遺跡碑」(区登録有形文化財)が、高島平の歴史を伝えています。




板橋十景の碑を見つけました!



公園内にはトンボの再生を願ってビオトープが造られました。

赤塚トンボ池 湧き水のビオトープ(biotope)

昔の赤塚ため池には、湧き水が流れ込み、ヨシやガマが茂り、生き物がいっぱいいました。そんな自然を再生しようと1999年春に区民参加で作った小さな土の池がこの赤塚トンボ池です。池の水は赤塚城址の台地から湧き出た水を引いています。この池にトンボやカエルがやって来て卵を産み、小さな虫などを食べて育っていく。そんな生き物たちの小さな宇宙が広がっていくことを願っています。この場所の生態系が壊れないようにそっと見守ってください。
(写真はこの池で見られる生き物たちです。)




赤塚溜池公園から「赤塚諏訪神社」に向かいます。赤塚溜池公園と道路を挟んだ反対側に階段が上っています。赤パッケ坂は長さが約25mほどのやや急な階段です。昔は赤土がむき出しの崖の坂でした。坂名の由来は、崖は「ハケ」と同義語で、赤土のハケがなまって「赤パッケ」になりました。正確には、「はけ(またはハッケ、バケ、バッケ、ハゲ等)」は、丘陵や山地の片岸、即ち崖地形を指す地形名です。



ポイント4 赤塚諏訪神社

赤塚諏訪神社の創建は室町時代の長禄年間(1457年〜1460年)といわれ、赤塚城主千葉自胤が信州諏訪大社の分霊を勧請してここに祀り、赤塚城の鬼門除けにしたと伝えられています。下赤塚村の鎮守でした。国重要無形文化財に指定され、板橋十景にも選ばれている「田遊び」や区指定無形民俗文化財である「獅子舞」が伝わっています。

諏訪神社と無形民俗文化財「田遊び」

御祭神建御名方神。

創建年代は不詳であるが、赤塚の領主千葉介自胤が、長禄年間(1457年〜1460年)に信濃国(現長野県)の諏訪大社を勧請し、武運長久を祈願したと伝えられる。その後寛永七年(1630年)頃に十羅刹女を配祀したが、神仏分離の際これを廃した。江戸時代の江戸名所図会には、「田遊び」神事が記載されている。田遊びは、水田耕作にかかわる神事で、年の始めにあたりその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈る「予祝」の祭りである。毎年二月十三日(旧暦の正月十三日)の夜に行われ、本殿と大鳥居間の朝輿の渡御の後、社前に設けた「もがり」の中で一年間の農耕行事が所作と唱言によって象徴的に演じられている。昭和五十一年(1976年)に徳丸北野神社の田遊びとともに国の重要無形民俗文化財に指定された。




その「田遊び」の石碑が境内の一画に建っています。「田遊び」の風習は、赤塚たんぼを開墾した農家の人達によって今も受け継がれています。

江戸・東京の農業 赤塚たんぼ

この地は天保十二年(1841年)高嶋秋帆が鉄砲や大砲を使って兵を訓練したことが有名で、高島平と呼ぶようになりました。江戸時代、東は志村から徳丸、四葉を経て西は赤塚、新河岸あたりまでの荒川右岸一帯は台地からの湧水の多い湿地帯で、徳丸ヶ原と呼ばれていました。ここに水田を作り正保年間(1644年〜1648年)には4、900俵(294トン)の米が生産されていました。明治二年、徳丸ケ原で大がかりな開墾が行われ、大正五年には、352ヘクタールの水田から、14、000俵(840トン)の米を生産する穀倉地帯となりました。かつてこの地域は大半が旧赤塚村に属していたので、農家の間では「赤塚たんぼ」とよばれ春ともなると、菜の花やれんげの咲き乱れる広々としたのどかな田園風景でした。また、赤塚村には、長徳元年(995年)より五穀豊穣と子孫繁栄を祈る国の指定重要無形民俗文化財の「田遊び祭」が、農家の人達によって今なお受け継がれています。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Akatsuka Tambo

This area began to be called 'Takashima-daira' (Takashima flat) after Shuhan Takashima, the famous strategist in the late Edo Era, trained Tokugawa armies with guns and cannon here in 1841. Abound with spring water, the flatland later developed into a rich granary of Edo which produced as much as 840 tons of rice out of 352 hectares of paddy field in 1916. As most of the paddies were located in the old Akatsuka village, it was called 'Akatsuka Tambo' (Akatsuka Paddies) among the farmers where, in spring, a peaceful country scene spread over distances with a fine display of rape and milk vetch in full bloom. The unique 'Ta-asobi Festival' (Play-Paddy Festival) dates back to th year 995 where they prayed for bumper crops as well as prosperity of posterity. The ritual has been conveyed by the local farmers generation after generation down to the present and is one of the Important Intangible Cultural Assets designated by the State.




「田遊び」は、徳丸北野神社と共に、板橋十景に選ばれています。



規模の大きい寺院では、仏敵が境内に入ってこないように山門に仁王立ちになった金剛力士が両脇を固めています。神社には本殿の前に敵から境内を護っている狛犬がいますが、赤塚諏訪神社には狛犬に加えて境内を守る神様を安置した随神門も建てられています。



本殿の前には銀杏の巨木が聳えています。

赤塚諏訪神社の夫婦イチョウ(一対)

樹種、いちょう(イチョウ科)。樹高、約二十メートル。目通り、雄株は約五百センチメートル・雌株は約四百二十センチメートル。樹齢、不明。本殿に向かって右側に雄株、左側にやや小さい雌株がたっている。この夫婦いちょうは夫婦和合、子孫繁栄などの信仰と結びついて人々の心のよりどころとなっている。平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。




赤塚諏訪神社から、隣り合った「竹の子公園」に向かいます。

ポイント5 竹の子公園

竹の子公園は、以前から竹林があった場所に新たに鳳凰竹や金明竹など約13種類の竹を植えて整備された公園です。園内の小径を歩くと、まるで京都嵐山に来たかのような感覚になります。これほどの竹林は都内でも珍しいのではないでしょうか?



園内には、竹に関する蘊蓄(うんちく)を集めた案内板が立っています。

竹のお話し

竹は私達人類にとって身近な大変役立つ植物です。
●人間と竹
人間の生活と竹のあいだには昔から縁のふかい事は、竹の中から生まれた(かぐや姫)竹取物語などから知られています。この物語は今から約1000年前の延暦年間のころ、竹取の正直な老夫婦が竹の中から一人の美しい少女をみつけて、育てたというお話しであります。現在でもこの(かぐや姫)塚が静岡県の富士市中比奈の山寺にあります。

●竹にちなんだ言葉
私達の身近に使われている竹に関係のある言葉は少くありません。そのいくつかの例
 ●竹馬の友(ともに竹馬にのって遊んだ幼い頃からの友達)
 ●竹帛の功(後世にまで話し伝えられるような功績)
 ●竹頭木屑(役にたたぬことのたとえ)
 ●竹を割った様な気性(つつみかくしすることのないさっぱりとした性質)
 ●わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも 【大伴家持(万葉集)】

●竹は木か草か?
竹は木でも草でもないといわれてきた。かたいところは木のようだが、年輪がないので木の仲間に入れなかった。稈が中空になっているところなど、イネに似ているが、竹の稈は20年も生きるといわれ、短い命のイネや草とはちがうようだ。

●竹はさし木ができないがバンブーはできる。
同じ竹類なのになぜバンブーだけがさし木できるのか。バンブーは地下茎がなく、稈そのものが一種の地下茎なんだ。それで根がでやすいのだ。

●竹はなぜ生長が早いか?
(たった半年で20メートルものびる。)植物は全体がのびるのではなく、てっぺんの生長点がのびるのだ。竹には節ごとに生長点があるので早く大きくなれるのだ。

竹の仲間
世界で1200種ある竹類は、3つの仲間に分けられる。一つは竹の仲間だ。竹は土の中の地下茎からタケノコが出て、それが竹とよんでいる稈に生長してふえていく。だから地下茎がのびれば、竹林もひろがるのだ。

もう一つの種類が、南方原産のバンブーだ。竹に似ているが、地下茎がないため、かたまってはえる。バンブーとは、燃えて破れつするときの音からついた名まえ。

ササも竹類の仲間だ。ササは地下茎があって、竹と同じふえ方をする。

竹と笹の区別
稈が生長すると、すぐ皮の落ちるのが竹で、いつまでも落ちないのがササとバンブーだ。

●上野動物園のパンダは1日にモウソウチク4本分の枝葉を食べる。
 (その他、牛乳・リンゴ・馬肉等をすききらいなく食べる)

●エジソンの白熱電球
竹フィラメントは、京都男山石清水八幡のマダケ(約8年〜16年)を使用した。

筍をおいしく食べるには!
竹の旬と書いて筍、4月上旬〜5月上旬の筍には、最高の風味、香り、歯応えを味わえます。筍のおいしさの素は、アミノ酸の一種チロシンが含まれるからです。生長して少しでも伸びると繊維が発達して固くまずくなるので土中の短く太いものを掘り土が乾かないうちに素早くゆでるのがコツ。時間がたつほどえぐみが増し、味がぐんと落ちるのです。




竹の子公園から「不動の滝」に向かいます。途中の新大宮バイパスの先に、かっての赤塚諏訪神社の参道の入口が残っています。新大宮バイパスの建設によって、参道が分断されたんですね。



かっての参道入口の脇に、赤塚諏訪神社の富士塚があります。

赤塚諏訪神社富士塚

富士塚は、一般的には、富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造られました。富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。また、富士塚への登山自体が、富士山登拝と同様の御利益があるとされています。なお、各地の富士塚では毎年七月一日前後に、富士山の山開きに合わせた祭礼が行われている所もあります。当富士塚を造成した富士講「丸吉講」は、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門が開いた講中です。当地(旧下赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期については、詳らかではありませんが、和光市白子熊野神社境内の富士塚にある、明治三年(1870年)に奉納された鳥居には、他地域の丸吉講の講中とともに下赤塚の人びとの名が見られることから、それ以前の幕末期には当地に伝播していた可能性が考えられます。また、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」へ奉納された明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元富士山」と表記されていることから、それ以前の段階だと考えられます。当富士塚は、平成二十二年度、区の登録記念物(史跡)となりました。




道路の反対側には、赤塚氷川神社で見かけたのと同じ「乳ノ木様」と呼ばれる瘤のある欅が聳えています。

赤塚諏訪神社のこぶ欅

樹種、けやき(ニレ科)。樹高、約20メートル。目通り、約380センチメートル。根回り、約8メートル。樹齢、不明。こぶ欅と呼ばれる由来は、やや湾曲した幹の下部に大きな「こぶ」があることから、この呼び名がつきました。諏訪神社の参道は、新大宮バイパス道路の建設によって分断されましたが、以前はここが境内の入り口にあたり、一の鳥居が建てられていました。また、二月十三日の田遊びに際しても、神輿の渡御が行われていました。この木は別名「乳ノ木様」と呼ばれていますが、これは、木のこぶを乳房にたとえて、母親が乳の出がよくなることを祈願する民間信仰が赤塚地域にあったことによります。また、幕末から明治期にかけて活躍した落語家三遊亭円朝の、「怪談乳房榎」のモデルの一つといわれています。平成六年度、板橋区の文化財(天然記念物)に登録しました。




ポイント6 不動の滝

不動の滝は、江戸時代から富士・大山を初めとした霊山登拜へ出発する際の水垢離場として利用されてきました。寛政十一年(1799年)造立の石造不動尊像により、江戸時代中期には水垢離場として利用されていたことが窺えます。その後、幕末には木曽御嶽山を信仰する赤塚一山元講が利用し、さらに明治三十五年(1902年)1月には石製の玉垣が整えられ、昭和八年(1933年)には滝壺の整備が行われるなど、長年にわたり利用されてきたことが分かります。かつて板橋区内では至る所に湧水があり、生活用水や水垢離場として利用されていましたが、その多くは消滅してしまいました。不動の滝は霊山登拝者が水垢離場として利用されていた当時の姿を留めているだけでなく、その機能も有していて貴重な存在です。

不動の滝

不動の滝は、江戸時代に流行した富士詣・大山詣をはじめ、講と呼ばれる宗教的な集会に参加した人々によって、霊山登拝へ出発する際に心身を浄める水垢離の場として利用されてきました。滝の落ち口には寛政十一年(1799年)に造立された石造不動尊像が祀られており、十八世紀末には水垢離場として利用されていたことがうかがえます。その後、幕末に赤塚地域で長野県の木曽御嶽山への霊山信仰が広がると、赤塚一山元講が盛んに利用するようになりました。明治三十五年(1902年)には滝の周りの玉垣が整えられ、昭和八年(1933年)には滝つぼの整備が行われるなど長年にわたって地元の人々に大切にされてきました。かつて板橋区内の崖線では、いたるところに湧水があり、生活用水や信仰の場として利用されてきました。しかしながら、その多くは土地開発や宅地化によって消滅してしまいました。そのような中で不動の滝は、地域の講の人々によって継承されており、地域の信仰の場として利用されていた当時の姿をとどめています。




滝の落ち口の左側にある小さな石像が不動尊像なのかな?一体しか見えませんけど。。。

赤塚 不動の滝

かつて、板橋区内の崖下には、いたるところで水が湧き、人々の生活にうるおいを与えていました。この滝もその一つです。山岳信仰が盛んになった江戸時代の中頃からは、地元の人たちが富士山や大山(現神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、身を清める「みそぎ」場として使われていました。昔は、滝つぼの前に垢離堂(みそぎをする施設)が設けられていたそうです。また、この滝の上には、あたかも守護神のように不動明王の石像が二体まつられています。この滝水は、いかなる時でも涸れることはないと伝えられていますが、周辺の宅地開発に伴い水量は減少しています。それでも、自然の豊かだった時代をほうふつさせる遺構として、いまも地元の人たちによって守られています。平成十四年度に東京都の名湧水57選に選定されました。




不動の滝から「乗蓮寺(東京大仏)」に向かいます。

ポイント7 乗蓮寺(東京大仏)

乗蓮寺は、東京大仏(俗に赤塚大仏ともいわれます)があることで知られ、毎年初詣には周辺住民や高島平団地居住者も多く参拝し、板橋区内でも随一の賑わいを見せます。

乗蓮寺

御本尊は阿弥陀如来。浄土宗で赤塚山慶学院と称しています。応永年間(1394年〜1428年)に了賢無的が山中村(現仲町)で人々に教化したことに始まり、後に板橋の中宿(現仲宿)に移転したと伝えられています。天正十九年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍から朱印状を与えられました。また寛保三年(1743年)に将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿りしたのが縁となり、それ以降将軍家の鷹狩りの小休所や御膳所となりました。高速道路の建設にともなう国道十七号線の拡幅工事により、昭和四十六年から七年の歳月をかけて現在の地に移転しましたが、その際に天災戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して青銅製の東京大仏が建立されました。境内には、板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保飢饉供養塔、藤堂家ゆかりの石像があります。




乗蓮寺は、応永年間(1394年〜1428年)に山中村(現在の板橋区仲町)で創建されましたが、その後、江戸時代の初期のころまでに板橋区仲宿に移転しました。その後も長く仲宿の地にありましたが、首都高速道路の建設と国道17号線の拡幅により、昭和四十八年(1973年)に現在の赤塚の地(赤塚城二の丸跡)に移転し、山号も赤塚山と称しました。階段を上がったところに山門があり、潜った先の右手の植え込みの中に「赤塚城二の丸跡」の石碑が建っています。



昭和五十二年(1977年)、かつて東京を襲った関東大震災や東京大空襲などの悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込め、乗蓮寺の代名詞にもなっている東京大仏が建立されました。

東京大仏

この大仏さま(阿弥陀如来)は、当山住職二十三世正誉隆道が、昭和四十九年に八十八才にて発願、完成まで約三年の歳月と延べ三千五百人の手によって昭和五十二年四月完成をみました。千葉氏の居城であったこゝ赤塚城二の丸址に乗蓮寺を建立するにあたり、千葉氏一族、戦没者、そして有縁無縁の霊をとむらい、世界の平和と万民救済の願いがこめられております。奈良、鎌倉の大仏に次ぐ東京大仏です。合掌して南無阿弥陀仏と十遍となえましょう。

材質   青銅(ブロンズ)製
重量   32トン
座高   8.2メートル(頭部3メートル)
蓮台   2.3メートル
基壇   地上2メートル、地下1メートル




東京大仏は、板橋十景にも選ばれています。



墓所には、1984年にマッキンリーで消息を絶ち、遺体は発見されていませんが、世界的にも知られ、国民栄誉賞も受賞した日本の冒険家である植村直己を供養する墓があります。境内には幾つかの石塔が建っています。天保飢饉の供養塔は、板橋宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。

天保飢饉の供養塔

天保の飢饉は、享保・天明の両飢饉と並び江戸時代三大飢饉の一つに数えられています。天保四年(1833年)から同七年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。幕府は、白米や銭を支給するとともに、同八年(1837年)には、新宿・品川・千住・板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなる者はあとを絶ちませんでした。この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮譽上人が、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸中期の浄土宗の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀佛」の名号が、また台座には同八年三月から十一月の間に亡くなった423人(男333人、女49人、子供41人)の戒名が刻まれています。昭和六十一年度に板橋区の文化財(歴史資料)に登録されました。




現在の豊島区駒込付近にあった津藩藤堂家下屋敷(染井屋敷)に置かれていた石像が昭和四十二年に乗蓮寺へ寄贈されました。奪衣婆とは、三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼をいいます。

乗蓮寺所蔵旧藤堂家染井屋敷石造物

乗蓮寺境内にある九点の石造物(鉄拐仙人像・婆々像・天邪鬼像・大K像・文殊像・布袋像・役行者像・惠比寿像・十三重塔)は、もとは現在の豊島区駒込付近に所在していた津藩藤堂家下屋敷(染井屋敷)に置かれていたものです。石造物のいくつかは、文政元年(1818年)に作成された「藤堂和泉守殿染井下屋敷図」に呼称・特徴などが付されて描かれており、また天保十三年(1842年)成立の「虎丘堂集書」に、「不思議な形」、「形異状」な珍品であると記録されるなど、江戸時代から特色ある石造物として知られていました。また、明治二十二年(1889年)に発刊された「江戸会誌」収録の「染井藤堂邸の石像」と題するレポートにも、邸内に残っていた古石像十一躰が一所に集められていたとあります。その後、同地は仙人塚と鉄拐堂とも呼称され、とくに足の病気平癒を願う人々の信仰対象となりました。戦後、これらの石像は鉄拐堂に隣接する個人宅に置かれていましたが、昭和四十二年(1967年)に当時板橋区仲宿に所在していた乗蓮寺のもとへと移されました。そして、その数年後に実施された乗蓮寺の赤塚への移転にともなって、現在の場所に移設されました。これらの石造物は、江戸期に大名屋敷内に所在していたことを文献史料から裏付けることができる稀有な資料であり、平成二十三年度に板橋区登録文化財となりました。




浄瑠璃五代目若太夫のお墓もあります。

説経浄瑠璃五代目若太夫墓

これは、「説経浄瑠璃」五代目家元若太夫・本名諏訪仙之助〔文化八年(1811年)〜明治十年(1877年)]の墓石です。「説経浄瑠璃」は、仏教布教の一手段である「節談説経」から派生し、寛永年間(1624年〜1644年)頃からは三味線を伴奏とした「語り物」として流行しました。一時は衰えましたが、寛政年間(1789年〜1801年)頃に、米商人とされる初代薩摩若太夫によって再興されました。その五代目に当たるのが、下板橋宿中宿に居住するとともに同地を拠点として活躍した五代目若太夫です。若太夫は、最盛期には多摩地域や埼玉県域に五十八人もの弟子を抱えていたとされ、「説経節史上の功績者」とも評されています。現在、都指定無形文化財(芸能)である三代目若松若太夫(小峰孝男)と、その師匠二代目若松若太夫(故・松崎寛)の芸能上の祖に当たります。五代目若太夫は没後、旧下板橋宿にあった浄土宗乗蓮寺に葬られましたが、昭和四十六年からの乗蓮寺の赤塚移転にともない、墓石も当地に移設されました。蓮華の上に六角柱という珍しい形状の墓石には、「恵生芳願信士」という若太夫の戒名と辞世の句「何所となく 行先広し 穐の風」、さらには妻ゑんの戒名、娘千代、孫はつ、古石という人物による追悼の句がそれぞれの面に刻まれています。当墓石は、下板橋宿を拠点としていた若太夫の活動によって、「説経浄瑠璃」が幕末維新期に周辺地域へと伝播していく状況を裏付ける重要な歴史資料であるということから、平成二十二年度に区の登録有形文化財となりました。




平安末期から豊島郡を支配した豊島氏の末裔にあたる信濃守忠康のお墓もあります。

板橋信濃守忠康墓(付石灯籠)

板橋氏は、平安末期より豊島郡を支配した武蔵豊島氏の一族であり、その末裔にあたる信濃守忠康は、[寛永諸家系図伝]によると、天正年間(十六世紀末)には、北条氏直に仕えていたとい われています。忠康の子である忠政は、北条氏滅亡後に徳川家康に仕え、子孫は旗本として幕末まで続きました。また、同じく忠康の子で、忠政の弟である蓮源社本誉利覚は、浄土宗の赤坂浄土寺の住職となっており、その関係から歴代の旗本板橋氏は浄土寺を菩提寺としています。その中で、文禄二年(1593年)十一月二十一日に亡くなった忠康だけは、本貫地である下板橋宿にあった乗蓮寺を菩提寺としています。寛政四年(1792年)に、先祖忠康の二百回忌が旗本板橋盛壽・盛種によって乗蓮寺で営まれ、その際に墓石が再建されています。なお、その顛末は、区文化財の「乗蓮寺文書」で確認できます。なお、墓石の脇にある石灯籠は万延元年(1860年)に十三代の板橋政道が奉納したものです。平成十年度に区登録有形文化財となりました。




「がまんの鬼」は見逃しました。津藩主藤堂家が浅井・織田・徳川と三代にわたり仕えてきた、その心持ちはまさに我慢のし通しだったことを現しているのだそうです。



乗蓮寺(東京大仏)から「松月院」に向かいます。乗蓮寺に隣り合って、赤塚植物園があります。赤塚植物園は、武蔵野の面影を色濃く残す赤塚の丘陵地を活用し、自然や植物がより身近なものとして親しむことができるような施設として昭和五十六年(1981年)10月に開園しました。赤塚植物園は本園、万葉・薬用園及び農業園の3つのエリアで構成されています。本園は、約1ヘクタールの敷地内に樹木見本園として多くの樹種が植えられ、その下には野草も可憐な花を咲かせます。万葉・薬用園には、万葉集に詠まれた植物や薬用植物が植えられています。農業園は、主にこどもたちが農作業の体験を行う畑や、来園者に野菜の花や果樹などを観て楽しむことのできるポタジェや果樹園などがある野菜植物園です。

板橋区立赤塚植物園 案内図

Itabashi Akatsuka Botanical Garden Information Map

園内の紹介

赤塚植物園は、武蔵野の面影を色濃く残す赤塚の丘陵地を活用し、自然や植物がより身近なものとして親しむことができるような施設として昭和五十六年(1981年)10月に本園エリアが開園しました。昭和六十一年(1986年)12月に万葉・薬用園エリア、令和二年(2020年)5月に農業園エリアが加わり、現在は広さ約1.2ヘクタールの植物園となっています。

Introducing the Garden

The Main Garden area of the Akatsuka Botanical Garden was opened in October 1981 to provide the people with facility full of plants and trees of nature in a close and familiar settings landscaped on hilly area of Akatsuka which preserves well the appearance of the Musashino forest. In December 1986, Manyo and Medicinal Plants Garden were jointly opened and so was the Agricultural Farm in May 2020, making the Botanical Garden approximately 1.2 hectares in total.

本園エリア

崖線が生み出す特徴的な地形に多くの種類の樹木が植えられ、林床には区の花ニリンソウなどの野草が可憐な花を咲かせます。また、垣根などの見本を有する日本庭園や、大きなケヤキのある広場、ウェルカムセンターには植物の相談や図書の閲覧ができる「みどりの学習室」、講習会や展示会のできる「森のアトリエ」などがあります。

Main Garden area

Variety of trees are planted on the characteristic landform of hilly cliff line and little wildflowers including Nirinso or Anemone, Itabashi City Flower, are coexisting well at the foot of those trees in this Garden. Japanese traditional garden fences are introduced at Japanese Garden. There are Keyaki or Zelkova Tree Field, a wide field of big Keyaki trees and Welcome Center, which has "Green Learning Room" that provides counselling service on plants and library space with accessible books and "Atelier in the Forest", seminar and exhibition space.

農業園エリア

子どもたちを対象とした農とのふれあいの場となる畑や、四季を通じて野菜の姿を楽しむことができるポタジェや果樹園があります。ここでは、農作物の花や果実が実っている様子を観ることができます。

Agricultural Farm area

There are vegetable field where children can experience agricultural activities and "Potager" or vegetable field for family, where people can enjoy viewing vegetables year-round in this Farm. We can see flowers of agricultural products as well as fruits hanging from tree branches.




ポイント8 松月院

松月院は、延徳四年(1492年)に千葉自胤が寺領を寄進して中興したと伝えられている曹洞宗の寺院です。江戸時代には、将軍家から寺領40石を与えられた朱印寺でした。墓地内には、千葉一族や鎌倉時代の僧了雲の墓、境内には天保十二年(1841年)徳丸ヶ原で西洋式砲術の調練を行った高島秋帆を顕彰し、大正十一年(1922年)に建立された顕彰碑があります。

松月院 萬吉山宝持寺 曹洞宗

延徳四年(1492年)、千葉自胤は当寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し、自ら中興開基となりました。開山堂には開基の位牌をまつり、本堂西側墓地には自胤のほか比丘尼了雲の墓碑が建てられています。天正十九年(1591年)、徳川家康は四十石の朱印地を当寺に寄進し、朱印状を発給しました。以降、江戸時代を通じて、歴代将軍が発給した朱印状が、「徳川将軍朱印状」(板橋区指定有形文化財)として現存します。原則では将軍の代替りごとに返還するため、貴重な例です。天保十二年(1841年)、長崎の町年寄で西洋砲術家でもあった高島秋帆が、幕命により、徳丸原で洋式砲術の調練を行いました。秋帆が当寺を本陣にした由緒から、遺品が伝わるほか、大正十一年(1922年)に東京陸軍兵器長を務めた押上森蔵を発起人として建てられた「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」(板橋区登録有形文化財)も境内に残ります。また、赤塚六丁目四十番七号に所在する近世建築「大堂」(板橋区登録有形文化財)に伝わった国重要美術品「大堂 銅鐘」(板橋区登録有形文化財、板橋区郷土資料館寄託)や「大堂阿弥陀如来坐像」「大堂閻魔王坐像」(板橋区登録有形文化財)など、中世以来の由緒をもつ大堂に関わる貴重な文化財も現存しています。なお、大堂は大正十四年に都旧跡(当時は府)にも指定されています。




山門の内側にヒイラギの木が植わっています。

松月院のヒイラギ

樹種、ひいらぎ(モクセイ科)。樹高、約十メートル。目通り、約二百七十センチメートル。根回り、約三百十センチメートル。樹齢、約百年(推定)。ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、さわるとひいらぐことから、この由来が出ている。ヒイラギの小枝と鰯の頭を節分の門辺にさし、鬼の侵入を防ぐという習俗は最近までみられる。また、ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり丸くなることから、人間の成長の過程を象徴するとの説話も残る。松月院のヒイラギは、上部の樹冠の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯を持っている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しい。平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。




板橋十景発見!



松月院は、高島秋帆が日本初の洋式砲術訓練を行ったときの本陣となり、境内にはそれに因んで砲身と砲弾を模した高島秋帆顕彰碑が建てられています。

高島秋帆先生紀功碑

この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟100名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言(ざんげん:事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと)にあい永牢に繋がれた。嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝入りで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月小石川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を碑心に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高六メートル。




砲身には「火技中興洋兵開祖」の文字が記されています。砲身の周囲にある火焔砲弾は東京砲兵工廠が製作したそうです。台座にはの顕彰碑の碑文が添えられていますが、難読のためネットからの転載になります。

贈正四位高島四郎太夫先生。諱は茂敦、字は子厚、秋帆と号す。長崎の人なり。夙に内外の形勢を洞察して本邦兵制の革新せさるへからす。火技戦法の採用せさるへからさるを悟り、私財を損てて新様の鉄砲を購ひ、門人に教ふるに洋式の操練を以てせり。天保十一年九月、長崎奉行に建議して具に自説を陳へ國防を完備せむことを請う事幕府に聞へ翌年五月九日命を承けて門人一百餘人を指揮し、武蔵國豊島郡赤塚村の北方徳丸原に於て歩騎両隊の演習大砲射撃等を行ふ。實に本邦に於ける洋式操練公行の嚆矢なり。先生命を承くる前己に猜疑娼嫉に遭遇し後又事を以て讒を請ふる者あり。先生下獄の厄に罹りしと雖も毫も持説を變せす。爾来兵制幾たひか改革せられ戰法亦變遷を重ね連りに大戰に捷ちて我か武大に揚る。皆當年先生首唱の功に依らすむはあらす。是れ曩に朝廷特に其功を録せられて贈位の恩令あり。今又同人相謀り碑を松月院の境内に建てて長へに偉績を仰く所以なり。松月院は徳丸原操練の際先生の本陣とせし処なり。因て此地を選ふと云ふ。



松月院から「水車公園・徳水亭」に向かいます。松月院参道入口脇の松月院通りに面してふたつの石碑が並んで建っています。左側の四角い板碑には「赤塚村自治記念碑」と記されています。赤塚村は、明治二十二年(1889年)の町村制の施行により、上・下赤塚、成増、徳丸脇、四ツ葉および徳丸本の六か村が合併して成立し、村役場が松月院内に置かれましたが、その後、この碑のある場所に新築移転し、昭和七年10月に板橋区が成立するまで赤塚村の行政を担いました。その歴史を留めるために、この記念碑が建てられました。碑文は長すぎて解読するのは諦めました。



赤塚村自治記念碑の右隣には、「怪談乳房榎記念碑」が建っています。怪談乳房榎は、江戸後期から明治時代にかけて活躍した初代三遊亭円朝による傑作怪談噺として有名で、元々このあたりに伝わる怪談あるいは昔話をヒントにして創作されたのではないかといわれています。赤塚氷川神社にもありましたね。碑文は長すぎて解読するのは諦めました。



松月院前交差点から坂を下ったところに松月院大堂があります。松月院大堂は、奈良時代に建立された寺院で、南北朝時代以降は七堂伽藍を備えた広大な寺院になり、「大堂」と称されていました。この大伽藍は、永禄四年(1561年)3月に越後の長尾景虎が関東管領上杉憲政の命を奉じて小田原に攻め寄せた際、長尾勢の焼き討ちにあい、壮大な伽藍は灰燼に帰してしまいました。しかし、暦応三年(1340年)銘の梵鐘(建長寺四十二世・中岩円月和尚の銘文)と、鎌倉時代に製作されたと伝わる本尊の阿弥陀如来像は江戸時代になっても著名で、同じ敷地に祀られていた八幡社とともに数多くの参詣者が訪れたと記録されています。今では無住の一堂宇が寂しげに建っているのみで、当時の賑わいをうかがうことはできません。

東京都指定旧跡
松月院大堂

この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡峽田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂のことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南北朝時代の建武・延元の頃(1334年〜1340年)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄四年(1561年)三月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北條氏康を小田原に攻めた際に、堂宇悉く焼き打ちにあって焼失したといわれている。文化十一年(1814年)二月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は座像の弥陀、御長式尺四五寸ばかりと覚ゆ」と紀行文「遊歴雜記」に書いている。東側の八幡社は、江戸時代から下赤塚村の鎮守社で、明治初年の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられている。南北朝時代の暦応三年(1340年)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作といわれる本尊阿弥陀如来坐像は共に有名で、江戸市中からの参詣客が絶えなかったといわれている。

Historic Places
Shogetsuin Daido
(The Great Hall of Shogetsuin)

Shogetsuin is a famous Zen temple of Soto Sect in Itabashi Ward. Daido is located a little way to the south of Shogetsuin. Daido is a hall mentioned as Amidado in "Shinpen Musashi Fudokiko" (a topography of Musashi Province published in the early 19th century AD). This hall was, according to it, built in the early Northern and Southern Courts period (the early 14th century AD) and once a large temple with Shichido Garan (seven major strucutures in a temple compound); therefore, Amidado is said to be called Daido (great hall). The temple was entirely burned down at the siege of Odawara by Nagao Kagetora (Uesugi Kenshin) in 1561 and had declined since then. The size of Daido has a 3 ken (ca. 5.45m) by 3 ken. It has a single-story irimoya style building with pantile roof and Kohai (roof built over the steps leading up to a temple building). It is definite that the roof truss was remodeled, because it is proved by an old picture that it had a thatch roof in hip-roof style. The current Daido is seemed to have been built in about 1679, according to the inscription of the donated basin. The Amidabutsu in Daido, which is said to have been made by Shotoku Taishi in Fudokiko, is estimated to have been made in 12th century from the recent study (opens to public in Shohokaku). The temple bell with the inscription of 1340 also remains.




太堂の手前には鐘楼があります。鐘楼に吊り下げられている梵鐘は複製で、本物は板橋区立郷土資料館に展示・保存されています。暦応三年(1340年)の銘をもつ板橋区最古の銅鐘で、国の重要美術品と板橋区の文化財に指定されています。

大堂

本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ約90cmの木造で平安時代後期の作と思われる立派な尊像である。また、堂前の梵鐘は暦應三年(1340年)の鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長寺四十二世中岩(円月)の撰文の鐘銘により名鐘として誉れ高く、古来文人墨客の杖をひくところとなった。鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二の脇坊を備えた大寺であった大堂も、永禄四年(1561年)上杉謙信による小田原攻めのとき兵火にかかったと伝えられ、いまはわずかに本尊と梵鐘に往時の面影をしのぶにすぎない。




境内は繋がっていますが、右側の石段を上がると八幡神社が鎮座しています。

八幡神社

八幡神社は、下赤塚村の鎮守の一つで、御祭神は品陀別命です。ご神体として木像の騎上八幡が安置されていたと伝えられています。創建年代は不詳ですが、暦応三年(1340年)に鋳造された大堂の銅鐘から、当社もこの頃には既に創建されていたものと思われます。また、荒川の氾濫を逃れるため、台地下の低地から遷座したとの伝承も伝わります。当社が鎮座する地は、古墳の上であるともいわれ、江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」によると、「永禄兵火の時、本尊の阿弥陀火中より出現して止る処と云」と、永禄四年(1561年)、長尾景虎(上杉謙信)の小田原攻めの戦火に巻き込まれた折に、大堂の本尊である阿弥陀如来が中から出現し座した場ともされています。特殊神事として、毎年三月に赤塚諏訪神社獅子舞(昭和五十八年度板橋区指定無形民俗文化財)が行われています。獅子舞は、かつては辻々を舞い歩いていましたが、現在では、赤塚諏訪神社で舞を奉納した後、八幡神社に奉納しています。




ポイント9 水車公園・徳水亭

赤塚中央通りから前谷津川緑道に入ります。前谷津川は、かって赤塚新町(東武線下赤塚駅北西)付近から北に流れ、赤塚・徳丸・四葉・西台・高島平を流れて新河岸川に合流していた長さ4.8kmの河川でした。江戸時代から昭和初期には、武蔵野台地の谷内を蛇行し、徳丸ヶ原では水路は定まっていませんでしたが、水田開発後は用水堀として灌漑に用いられました。1955年頃から流域の宅地開発が進み、生活排水路化しました。1965年以降の高島平団地の開発で下流部はコンクリート護岸の人工水路となりましたが、昭和五十九年(1984年)に全区間が暗渠となり、緑道として整備されています。



緑道は住宅地の中を真っ直ぐに延びています。中央にグリーンベルトが設けられ、散策するには恰好のコースです。手入れがよく行き届いていますね。



新大宮バイパスを越えた先に水車公園があります。



水車公園は、水車小屋と水田を再現した公園です。古き良き日本の田園風景をとどめる水田エリアでは、昔一般的に使われていた上掛け式の水車を再現し、水車内部の機構部分の見学ができます。水田では季節によって、近所の小学生が田植えや稲刈りなどを行っています。動いてはいませんが、大きな水車が小屋の横に付いています。

水車には、上掛け、胸掛け、下掛けなどの種類があります。この水車は上掛け水車で、水流の落差を利用できる場所に設置する形式です。水輪の直径は2.7メートルで、水の落下によってひき臼一つとつき臼二つを動かします。



水車小屋の中も見学できます。木製の歯車が迫力ありますね。

水車について

水車は身近な動力源として古くから用いられてきたもので、精米や製粉或いは田んぼの揚水などいろいろな用途に使用されていました。江戸時代から昭和初期にかけては、この板橋の地にも、石神井川や白子川の流れを利用して、水車小屋が点在し、水車屋としてうどん粉などの製造が盛んに行なわれ、またのちには工業用としても使われていました。なかでも下板橋には、輪径一丈六尺五寸(約5.0m)の関東随一の水車が回っていたことが古い文献に記されています。現在では電気の発達とともに、水車の姿を見ることはほとんどなくなってしまいましたが、実は水力発電所のタービンなどに姿を変えて、現代においても私たちの生活に役立っているのです。




公園の植え込みの中に、「記念ノ碑」と書かれた小さな石柱が建っています。

前谷津川

水車公園の前には、かつて前谷津川という小川が流れていました。前谷津川は、赤塚新町二丁目などの水源から水を集め、赤塚・四葉・徳丸・西台・高島平を流れ、新河岸川に注ぎ込んでいます。早くから生活用水として、また水田の用水として利用されてきましたが、周辺の宅地化にともない昭和五十九年(1984年)に暗渠となりました。現在は、その流路跡の一部が緑道となり、往時の流れを辿ることが出来ます。この顕彰碑は、四ツ葉道が前谷津川と交わる場所(現四葉一丁目十八番あたり)に架かっていた宮前橋を、大正十四年(1925年)に架けかえするにあたり用地の提供をした芳川勇蔵と曾根田喜之助の二人を顕彰するために、赤塚村の人が世話人となって建立したものです。顕彰碑は、川の暗渠化により橋が廃止されてしまうと、放置され忘れ去られてしまいましたが、現在は橋のあった場所に近い水車公園内に移されています。




水車公園には、京都を思わせるような日本庭園エリアもあります。日本庭園では、四季折々の風景を楽しむことができます。



庭園内の茶室「徳水亭」には、雪見障子を開けると茶庭が眺められる書院風の造りの広間と、躙り口がありわびさびを感じられる草庵風の造りの小間の二部屋があり、お茶の稽古や茶会で利用することができます。

茶室 徳水亭

外観は銅板葺き、木造平屋造りの茶室です。浄土形式の茶庭に囲まれ、八帖本京間の広間と四帖半本京間の小間に各々に水屋が付き、玄関、化粧室へと続いています。書院席は庭に面した二方向に障子が開き、茶庭を眺めることができます。正面に床の間、明り取りの丸窓が開き引き分け障子の平書院造りの広間です。草庵席は貴人口、にじり口には深い土ひさしを有し、踏石が置かれています。床柱や北山杉の面付柱・天井を野趣豊かな素材で造り上げている素朴なつくりの小間です。茶道を目的とした利用(お茶のお稽古や茶会など)の場合に、事前予約の上ご利用いただけます。




水車公園・徳水亭から「安楽寺」に向かいます。

ポイント10 安楽寺

安楽寺は、応永三年(1396年)に尊栄によって開山され、練馬区にある三宝寺の隠居寺と伝えられています。明治七年(1874年)に赤塚徳丸地区では最初の小学校で、現在の板橋区立紅梅小学校の前身になる「紅梅学校」が寺内で開設されました。

安楽寺

御本尊は阿弥陀如来。真言宗智山派に属し、紅梅山来迎院安楽寺と号しています。寺伝によると、当寺は応永三年(1396年)尊栄によって創建されたと伝えられています。御祭神菅原道真を祀る北野神社とは深い関係があり、寺号安楽寺も九州太宰府天満宮の別当安楽寺に因んだと考えられています。明治七年七月、当寺内に区内最古の私立紅梅学校(現紅梅小学校)が創立され、明治二十二年になって現在の場所へ移転しました。当寺に安置されている聖観音菩薩は、近在にあった旧観音寺の本尊で徳丸観音と呼ばれていましたが、明治二十九年に旧観音寺が安楽寺と合寺した際に当寺へ移されたものです。




寺院には珍しい長屋門が印象的です。



安楽寺から「旧粕屋家住宅」に向かいます。

ポイント11 旧粕屋家住宅

江戸時代、徳丸地域は徳丸本村と徳丸脇村、徳丸四ッ葉村に分かれていました。粕谷氏は代々徳丸脇村の名主を務めた家ですが、享保十一年(1726年)以前に、その名主粕谷家から浅右衛門が隠居し、始まった家と伝えられています。当住宅は関東地方の古い民家に認められる特徴を多く有しており、江戸中期まで遡ることができる関東地方では最古級に属する古民家のひとつです。また、敷地は土地区画整理事業などにより旧来の範囲とは異なるものの、なお屋敷庭として整備されていて、家屋と一体で落ち着いた佇まいを示しています。

敷地面積 1、292.28平方メートル
建築面積 135.71平方メートル

旧粕谷家住宅
東京都指定有形文化財(建造物)・板橋区登録有形文化財・景観重要建造物

旧粕谷家住宅は、江戸中期に徳丸脇村(現在の板橋区徳丸)の名主であった粕谷浅右衛門が隠居に際して建てた住まいです。このため当家は「東の隠居」と呼ばれ、代々「直右衛門」を名乗り「年寄」役を務めていました。当住宅は復元整備工事に伴う調査の結果、柱の見えない部分(柱柄)に享保八年(1723年)の墨書が見つかり、建築年代が正確にわかりました。当住宅は、建築以降茅葺屋根を残しながら土間に床を張る、間仕切りを設ける、仏壇や神棚を設けるなどの改造を経て、平成に至るまで住み継がれてきました。復元整備工事では、痕跡を細かく調べて、建築当初の姿に戻しています。当住宅は、建築年代が明らかな民家としては都内最古級であり、江戸近郊の上層農家の発達過程や地域的特色を示すものとしての高い歴史的・学術的価値を有しており、平成三十年3月15日に東京都指定有形文化財になりました。

構造 木造平屋建、寄棟造、茅葺
桁行 16.253メートル
梁間 8.181メートル

粕谷家が名主を務めた徳丸脇村は、17世紀初頭の段階では「徳丸村」の一部でした。寛文十年(1670年)頃になり、徳丸村が徳丸本村・徳丸脇村・徳丸四ツ葉村の三つに分村したものと考えられます。元禄十五年(1702年)の時点では徳丸脇村の村高は314石余でした。

Kyu Kasuya-ke Jutaku

Kyu Kasuya-ke Jutaku is a residence built by Kasuya Asaemon, the headman of Tokumaru-waki Village (current Tokumaru, Itabashi City), for his retired life in the mid-Edo Period. Therefore, being called "Higashi no Inkyo" (The retiree in the east), this family has been identifying itself as "Naoemon" and taking the role of "the elder manager" for generations. It is assumed that Tokumaru-waki Village, where the Kasuya family served as the leader, was part of Tokumaru Village in the early 17th century and was divided into Tokumaru Honmura (Tokumaru Central Village), Tokumaru-waki Village (Tokumaru Side Village) and Tokumaru Yotsuba Village in about 1670 (Kanbun 10th [in the Japanese era name]). Incidentally, at the time of 1702 (Genroku 15th), Tokumaru-waki Village had a crop yield of over 314 koku. The writing of Kyoho 8th (1723) in India ink was found at the hidden tenon joint of a pillar in the examination made at the time of restoration work, which clarified the building year of Kyu Kasuya-ke Jutaku exactly. After construction, this residence has been continuously used as the living house for many years up to the recent Heisei period with modification such as laying a floor on the earthen entrance hall, making partitions and building a Butsudan (a Buddhist altar) and a Kamidana (a household Shinto altar) while preserving the thatched roof. At the restoration work, the original building appearance was regained upon detailed examination of its traces. This residence is one of the oldest private house in Tokyo as those with clear evidence of the building year, having a high historical and academic value with indication of the development stage of upper-class farmhouses and its regional characteristics in the suburb of Edo. It was nominated as a Designated Tangible Cultural Property of Tokyo on March 15, 2018 (the 30th year of the Heisei period of Japan).

Structure: Wooden one-story house with hipped thatched roof
Longitudinal purlins (Ketayuki): 16.253m
Transverse beams (Harima): 8.181m




萱葺きの屋根が美しいですね。よく伝統を受け継いだ職人さんがいたものです。同じような内容の案内板が入口脇に立っています。先ほどの案内板は、こちらを加筆したものなのでしょう。

東京都指定有形文化財(建造物) 旧粕谷家住宅

          構造 木造平屋建、寄棟造、茅葺
             桁行 16.253m
             梁間 8.181m

旧粕谷家住宅は、江戸中期に徳丸脇村(現在の板橋区徳丸)の名主であった粕谷浅右衛門が隠居に際して建てた住まいです。このため「東の隠居」と呼ばれていました。調査の結果、柱の見えない部分(柱柄)に、享保八年(1723年)の墨書が見つかり、建築年代が正確にわかりました。当住宅は、茅葺屋根を残しながら、土間に床を張る、間仕切りを設ける、仏壇や神棚を設けるなどの改造を経て、平成に至るまで住み継がれてきました。復元整備工事では、痕跡を細かく調べ、建築当初の姿に戻しました。建築の特徴は、以下の四点にまとめられます。
  1. 土間境に建つ三本の大黒柱
  2. 押板
  3. しし窓
  4. 三間四方の板間
これらは、関東地方の古民家に認められる特徴ですが、その四点すべてを構えている例はたいへんめずらしく、古い形式を伝えています。当住宅は、建築年代が明らかな民家としては都内最古級であり、江戸近郊の上層農家の発達過程や地域的特色を示すものとして、高い歴史的・学術的価値を有しており、平成三十年三月十五日に東京都指定有形文化財になりました。




旧粕屋家住宅から「徳丸北野神社」に向かいます。

ポイント12 徳丸北野神社

徳丸北野神社は、長徳元年(995年)に創建された板橋区最古の神社です。創建前年の正暦五年(994年)に疫病が流行した際、疫病に侵された村人が紅梅に寄りかかり病魔退散を祈ったところ快癒したことから、梅に縁がある菅原道真公を祀る北野天満宮を勧請したといわれています。菅原道真を祀っていることから、江戸時代には「天神社」と呼ばれ、徳丸本村の鎮守でした。その後、明治六年(1873年)に「北野神社」に改称されました。

北野神社ご由緒

当社所蔵の「武蔵國豊嶋郡徳丸郷天神宮紀」によれば「當社は天満天神なり 往昔 此の処ろに古木の霊梅あり 一條院正暦年中(990年〜994年)に里人等大勢の者が疫病の為に暴死した 此の時 里人の或る者が梅下に寄って疫病の癒えんことを祈斜し謹拝して去った 將に其の効しを得るなり 斯く祈ることにより奇妙な効果が得られたことは 即ち是の誠の美精に徹する所ろ 鬼神の物に感ずる所以にして奇怪と云うに非ず およそ 梅は聖廟天神の珍愛するところなり これを以て念いを山州葛野郡に通わし 當里に祠を設けて天満宮と号す 人皇第六十六代一條院長徳元年乙未(995年)正月十一日御幣帛を捧げ 大前に田夫の業を以て俳優となし 神威を安んじ奉る 今の田阿曽美の祭り是れなり」とある。江戸時代には、天神社又は天満宮の社号であったが、明治六年から北野神社と改称された。




鳥居の脇に、「田遊び」の碑が建っています。

北野神社と無形民俗文化財「田遊び」

北野神社に伝わる縁起「武蔵国豊嶋郡徳丸郷天神宮紀」によると、長徳元年(995年)、京都北野天満宮から分霊し、徳丸の地に勧請されて当社が造立されました。祭神の菅原道真は、平安時代の学者で右大臣に任じられ重用された人物です。のちに藤原時平の策謀によって九州の太宰府に流され、その地で亡くなりました。没後は天神とあがめられ、学問、能筆の守り神として庶民から信仰を集めています。当社で行われる無形民俗文化財「田遊び」は、毎年二月十一日(旧暦正月十一日)の夜、その年の五穀豊穣や子孫繁栄を祈願して行なわれる予祝の祭事です。当社を造立したときにその奉祝行事として「田阿曽美之祭」を行ったのが始まりとされています。創始の長徳年間から一千年にわたって休むことなく行われてきたとされ、土地の神を招き、稲作の一年間の行事を所作と唄で表わす古い形を残した祭りです。唄や所作、言葉は口伝えで継承されており、全国的に見ても希有なことから国の重要無形民俗文化財に指定されています。また、毎年五月には獅子舞が行なわれ、悪疫の退散と子どもの無事生長が祈願されます。




板橋十景を発見!



お稲荷さんには狐、八幡さまには鳩の彫刻等が多くみられるように、天神さまには臥牛の石像が数多く奉納されています。なぜかというと、狐・鳩・牛はそれぞれの神様のお使いとして崇められているためです。天神さまにとって牛は神様のお使いですから、境内には多くの牛が鎮座しています。では何故、天神さまのお使いとして牛が選ばれたのでしょうか?それは、天神さま即ち菅原道真公(菅公)が丑年生まれであったことが関係しています。菅公は承和十二年(845年)に誕生しましたが、この年は乙丑の年でした。そして、境内の牛が立ち牛ではなく臥牛である由来となったのが、北野天神縁起絵巻で語られる次のような伝説によります。曰く、延喜三年(903年)に菅公が大宰府で生涯を閉じた際、「人に牽かせず、牛の行くところにとどめよ」との遺言があり、遺骸を轜車(牛車)で運んでいる途中で車を曳く牛が座り込んで動かなくなった場所に埋葬したというものです。その場所が、現在の太宰府天満宮です。



徳丸北野神社の向かいに、板橋区立郷土芸能伝承館があります。区内に残る郷土芸能の伝承に寄与し、区民の文化の向上を図る目的として、平成元年に開館しました。“郷土芸能”の伝承や後継者育成などを目的とした練習の場となっています。



ゴール地点の東武練馬駅に着きました。



ということで、板橋区で三番目の「赤塚散策コース」を歩き終えました。次は、板橋区で四番目の「常盤台散策コース」を歩きます。




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