- B常盤台散策コース
- コース 踏破記
- 今日は板橋区の「B常盤台散策コース」を歩きます。中板橋駅をスタート地点として、川越街道沿線の名所旧跡と寺社仏閣、それに年末ですが板橋七福神詣でをします。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年7月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
B常盤台散策コース
川越道の宿場町として栄え、鎮守や道中安寧を目的とした「社」が数多く残るエリア
「B常盤台散策コース」の歩数は約8,571歩、歩行距離は約6.0km、歩行時間は約90分、消費カロリーは約270Kcalです。
スタート地点:東武東上線中板橋駅南口
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- ポイント 1 専称院
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- ポイント 2 轡神社
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江戸時代には轡権現と呼ばれていました。名前の由来については、徳川家康が領国をめぐった際にこの地で馬の疲れを休め、後に残された“くつわ”を祀ったからとも、馬蹄を祀ったからとも言われています。子どもの守り神で、特に百日咳などに霊験のある神として信仰を集めています。
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- ポイント 3 大山福地蔵
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約200年前の文化・文政の頃、川越街道(日大病院入口交差点付近)にお福という行者が来て、街道筋の人々の難病苦業を癒し、大山周辺の人々に慕われていました。大山に住み余生を衆生に尽くしたため、地元大山の人にお福地蔵として祀られています。
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- ポイント 4 豊敬稲荷神社
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- ポイント 5 下頭橋と六蔵祠
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下頭橋は、寛政十年(1798年)に石橋に架け替えられました。名の由来については、諸説があります。一つ目は、旅僧が地に突き刺した榎の杖が、やがて大木に成長した“逆さの榎”がこの地にあったから。二つ目は、川越城主が江戸に出入りする際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて見送り出迎えたから。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというものです。また、六蔵詞はこの六蔵の遺徳を讃えて建てられました。
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- ポイント 6 長命寺
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- ポイント 7 南常盤台天祖神社
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御祭神は天照大神で、創建年代は不詳です。江戸時代には神明社と称し、旧上板橋村の鎮守となりました。明治六年に天祖神社と改称し、今日に至ります。境内の弘化三年の狛犬の台座にある円形の傷は、昭和二十年6月10日の空襲による爆弾の破片による被弾の跡です。
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- ポイント 8 平安地蔵
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- ポイント 9 氷川神社
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旧上板橋村の鎮守である神社です。創建年代は不詳ですが、現在の本殿は嘉永五年(1852年)に改築されました。また、江戸時代の石灯籠や奉納額があります。境内の郷土資料館には、旧上板橋村の農機具や生活用品、生産用具など1000点余を所蔵し、板橋区の文化財に指定されています。
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- ポイント10 旧上板橋村役場跡地
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- ポイント11 安養院
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真言宗豊山派の寺院で、北条時頼が創建したという寺伝が残っています。境内の鐘楼に掛かる銅鐘は、昭和十八年に旧文部省より重要美術品の認定を受けたため、戦時中の供出を免れました。庫裡は、旧前橋藩松平家の本邸を昭和四年に移築したものです。なお、ここには板橋七福神の弁財天が祀られています。また、豊島八十八ヶ所霊場の一番札所ともなっています。
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- ポイント12 茂呂遺跡
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- ポイント13 御獄神社
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- ポイント14 桜川緑道
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- ポイント15 五本けやき
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昭和初期の川越街道の拡幅工事の際、旧上板橋村村長であった飯島弥十郎が屋敷林の一部のけやきを残すことを条件に土地を提供しました。こうして残された屋敷林が5本残り、「五本けやき」とよばれるようになりました。その後、枯死した2本を植え替え、今では、川越街道上板橋付近のランドマークとなっています。
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- ポイント16 子育て地蔵
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ゴール地点:東武東上線上板橋駅南口
スタート地点の中板橋駅南口から「専称院」に向かって歩き始めます。駅前広場は自転車で埋め尽くされています。線路脇のフェンスに今日のコースの道順と見所を記した大きな案内板が掲示されています。板橋区の案内板はよく出来ていますね。
改札口の隣には、オヤ晩杯屋が。。。
- ポイント1 専称院
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専称院の創建年代は不明ですが、寺伝によれば、行基(8世紀の人物)が開山し、豊島清光(12〜13世紀の人物)が開基したとなっています。元々は武蔵国豊島郡豊島村(現在の東京都北区豊島)にあった地蔵堂で、「専称庵」という名称でした。宝永二年(1705年)、豊島村住人の四郎左衛門の願いを聞く形で、祐天が浄土宗寺院「専称院」として中興しました。昭和七年(1932年)に都市道路計画により現在地に移転しました。この場所は、江戸時代初期まで乗蓮寺が置かれていたところで、昭和初期時点で乗蓮寺の塔頭「香林庵」が残っていました。
専称院
宗派は浄土宗で、亀嶋山地蔵寺専称院と号し、御本尊は阿弥陀如来です。むかし鎌倉時代の武将豊島清光が行基に七つの地蔵を作らせたという伝説があり、専称院の前身は豊島村(現北区)で、そのひとつを祀る地蔵堂でした。浄土宗の専称院となったのは、宝永年間(1704年〜1711年)に豊島村民臼倉四郎右衛門の要請を受けた祐天上人によって中興され、堂宇の整備が進んでからです。荒川沿いにあったため、寛政十二年(1800年)水害の溺死者の供養塔が建てられるなど、水難者の供養寺としても著名でした。専称院が都市計画道路建設によって豊島から当地に移ったのは昭和十二年ころのことです。ももともと当地には、江戸時代初頭まで乗蓮寺があり、その後も乗蓮寺に付属する香林庵が残っていました。香林庵は明治七年(1874年)に区域で初めて公立の小学校が設置された場所ともされています。
専称院から「轡神社」に向かいます。
- ポイント2 轡神社
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轡神社(くつわじんじゃ)の創建年代は不明ですが、治承四年(1180年)、源義経が平泉から鎌倉に馳せ参じる途上、義経を乗せた馬が此の地で倒れてしまいました。義経は新しい馬で先を急ぎましたが、倒れた馬はそのまま亡くなったので、馬を葬り、轡を外して祀ったといわれています。また、一説には、徳川家康が此の地で休憩し、休憩後に残された馬の轡を祀ったことからきているともいわれています。江戸時代には「轡権現」とも呼ばれていました。付近には、家康の竹杖を祀る「竹根(竹丈)権現社」という神社もありましたが、現在は氷川神社(板橋区氷川町)に合祀されている他、板橋区仲宿にも現存しています。明治時代の神仏分離政策によって、「轡神社」に改称されました。義経の馬が「ゴホンゴホン」と咳して倒れたことから、百日咳を治すご利益があるとされ、多くの参拝者で賑わっていました。
轡神社
御祭神 倭建命(やまとたけるのみこと)
もと轡権現社と呼ばれていました。名称の由来については、この地を訪れた徳川家康の乗馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれています。江戸時代から「百日ぜき」に霊験がある神として広く信仰を集め、遠方から参拝に来る信者で賑わったといいます。信者は病気の治癒を祈るとともに、当社に奉納されている馬わらじの片方と麻をいただいて帰り、全快すると新しい馬わらじと麻を当社に奉納しました。社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の「板橋」という説もあります。
馬を繋いでいた柵でしょうか、馬草鞋が掛けられています。新しい草鞋もありますが、コロナ咳治癒の願いが叶ったのかな?
古びた石柱の道標があります。一丁は約109メートルですから、二丁は218メートルの距離になります。轡神社の前を通る道路は鎌倉道だったそうですから、その一部が轡神社道となっていたのかもしれません。
轡神社から「大山福地蔵」に向かいます。川越街道に面して、ハッピーロード大山商店街のアーケードが始まっています。ハッピーロード大山商店街のアーケードは、池袋駅から東武東上線に乗って5分の大山駅の南口から川越街道方面に560mもの長さで続いています。移り行く時代の中にありながらも活気にあふれた商店街として、地元の人々のみならず各地から買い物客が訪れています。ハッピーロード大山商店街が誕生したのは1978年で、高度経済成長期から安定経済成長期に入ったことや、池袋にサンシャイン60がオープンしたことなどを受け、「大山銀座商店街振興組合」と「協同組合大山銀座美観街」が合併して生まれました。この時に2つの商店街がアーケードでつながれ、1983年にはそれまで愛称として使われていた「ハッピーロード」の名が正式な商店街名として採用されて、現在の「ハッピーロード大山商店街振興組合」となりました。アーケードには、飲食店を始め、生活雑貨やファッション、各種サービスなどおよそ220の店舗が軒を連ね、1日の来街者数は多い時でなんと約3万人もあります。駅からすぐアーケードが伸びているので、天気を気にすることなく買い物を楽しむことができます。しかしながら、アーケードは今存続の危機に立っています。計4棟のタワーマンションを建設する2つの再開発により、商店街のシンボルである巨大アーケードの一部の解体工事が2024年4月から始まったのです。既に一部の屋根が取り外され、商店街は中心部で分断される形になっています。アーケードは1978年に商店街振興組合が集客の目玉に完成させましたが、東京都が2015年に都市計画道路「補助第26号線」を整備することを決定し、アーケードを所有する振興組合がその整備に協力する形で、都道が横断する部分約180メートルの解体を決めたのです。4月からは「第1期」として、このうち68メートル分を9月末までに撤去することになっています。残る部分の解体時期は決まっていませんが、商店街は大きな変革を迎えることになることでしょう。
- ポイント3 大山福地蔵
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ハッピーロード大山商店街のアーケード入口の手前に、川越街道から分岐する「福地蔵尊通り」という脇道があります。脇道を50メートルほど進むと、左手にお地蔵さまを奉った祠があります。今から150年程前の江戸時代の文化文政の頃、鎌倉街道と川越街道の交差点(現在の日大病院入口交差点)周辺では人馬の往来が絶えず、そのため人馬が亡くなる事もしばしばあったといわれています。そこへお福さまという方が通りかかり、この様子を見て亡くなった人馬を手厚く葬ったそうです。この姿を見た恩田家の祖先の方がお福さまをいたく尊敬し、お福さまが亡くなられた後にお地蔵様としてお祀りをしました。建立された当初は、川越街道の商店街入口付近、その後、今のハッピーロード商店街中央付近の南側に移されましたが、昭和二十八年(1953年)に現在の場所に遷座し、その後本堂を改築して現在に至っています。お地蔵さまがある道路は板橋区に申請され、平成二十一年(2009年)1月に「福地蔵尊通り」という正式な名称となりました。2021年に訪れた時と2024年に再訪した時で地蔵堂の祠が変っています。
左が2021年の地蔵堂、右が2024年の地蔵堂です。
お地蔵さまも木造から鉄筋の祠に変ったことで、さぞや快適になられたことでしょう。
左が2024年現在の祠、右が2021年当時の祠です。
お福さんの絵も掲げられています。
縁起
今より百五十年前文化文政の頃に鎌倉街道(日大交差点付近)にいずれからかおふくさんという行者来りて街道筋の人々の難病苦業を癒し大山宿の住民から大変に慕われておりました。ついに大山に住み余生を衆生につくしましたので、後に地元大山の人々によりおふく地蔵としてまつられ現在に至っております。
大山福地蔵から「豊敬稲荷神社」に向かいます。日大病院入口交差点で、川越街道から下頭橋通り商店街が分岐しています。この通りは旧川越街道の道筋にあたります。
- ポイント4 豊敬稲荷神社
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商店街を少し進んだ右手に豊敬稲荷神社があります。豊敬稲荷神社の創建年代は不明ですが、江戸末期から明治初期に市神様として祀られたものと推定されています。その昔、稲荷神社は仲宿の氏神でしたが、長い歴史の中で人々に忘れ去られてしまったそうです。当時近くに住んでいた福本芳太郎氏が神示を得たことから、昭和の初期頃に自らの財産を投じて現在の「豊敬稲荷神社」を建設することになったという歴史があります。こじんまりとした静かな境内でありながら、神聖な雰囲気漂う稲荷神社です。現在は板橋天祖神社の境外末社になっています。
境内の一画に「豊敬稲荷神社玉垣建設記念」という石碑が建っていて、福本氏の功績が記されています。
豊敬稲荷神社玉垣建設記念
抑々 豊敬稲荷の建設は江戸末期から明治の初期と思はれる。當時市神様として崇められていたが、時代の変ると共に一民家の隅に遷つされていたが、福本芳太郎大人が當地に赴任。爾来敬神の念に厚い大人が本稲荷を発見。調査の結果、この様な地に存置すべきでないと、自ら土地を境内地として購入。祠宇を始め附属建物を工築し、現在の地に御遷座。名稱も豊敬稲荷と命名さる。併而昭和二十八年六月二十一日、芳太郎大人他界の後も福本倫三氏は大人の意思を承継し、其後神輿庫の新設に伴ない、祠宇の見劣は勿論、破損放置は亡父の意に反することを痛感し、祠宇の改築を計画。實弟博次氏並びに役員一同と協議し、一般崇敬者の協力を得て、施工を加瀬工務店に委ね、昭和三十六年一月起工。爾後卓越せる技術と努力にて、昭和三十七年六月竣工。同年七月四日の吉日を撰び、神社庁長を始め、天祖神社総代・稲荷神社役員参列のもとに竣工奉祝祭を執行後、工作物及び境内地を含め天祖神社に奉献後、昭和四十二年十月二十一日倫三氏他界。松子夫人稲荷神社奉賛会長となり、副会長及び世話人と協力を計り、境内整備に力を注ぐ。今回玉垣建設も会長・崇敬者に依り完成せるものなり。依而後世の為に記す。
案内板に旧上板橋宿の概要が記されています。旧上板橋宿は、上・中・下の三宿に分かれていましたが、豊敬稲荷神社は仲宿の氏神でした。当時の川越街道の道筋が現在の下頭橋通りと全く変っていないことが分かります。
旧上板橋宿概要図
川越街道は、江戸時代に川越道中・川越往還とも称し、川越と江戸を結ぶ幹線でした。また、中山道の脇往還としても利用され、信州や越後へも通じていました。この弥生町の旧道沿いは、宿(上板橋宿)と呼ばれ、川越口(下頭橋)から上・中・下の三宿に分かれ、文政六年(1823年)の「上板橋村地誌改書上帳」には、宿内は「六丁四拾間」(約730m)道巾は「三間」(約5.5m)と記載されています。宿の中程には名主屋敷と称する建物があって、昭和の初めごろまで遺っていたようです。名主の河原与右衛門家は明治期には転居してしまいましたが、明治期に副戸長を務めた榎本家には「上板橋宿副戸長」と刻まれた石碑が現存しています。上板橋村は、町場(宿)と村方に分かれ、その村方の範囲には現在の板橋区の南西部地域と練馬区の小竹・江古田も含まれ、その地域からは人馬が提供され旅客や物資の継立を担っていました。
豊敬稲荷神社から「下頭橋と六蔵祠」に向かいます。
- ポイント5 下頭橋と六蔵祠
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旧川越街道が石神井川を渡るところに架かる橋を「下頭橋」といいます。
下頭橋の嬌名の由来については、下頭橋東詰の角に建つ六蔵祠の境内に立つ案内板に解説されています。
下頭橋
弥生町には江戸時代の川越往還が通っています。そのうち、大山町の境から当地までの街道沿いは上板橋宿となっていました。石神井川に架かる下頭橋は、寛政十年(1798年)に近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられています。境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたものです。橋の名の由来については諸説があります。一つ目は、旅僧が地面に突き刺した榎の杖が、やがて芽吹き大木に成長したという「逆榎」がこの地にあったという説。二つ目は、川越往還を利用する川越藩主が江戸に出府の際に、江戸屋敷の家臣がここまで来て出迎え頭を下げたからという説。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからという説の三つが伝わっています。ここにある六蔵祠は六蔵の遺徳を讃えて建てられたものです。下頭橋と六蔵祠は昭和六十一年度に区記念物(史跡)に登録されました。
三つ目の説は次のような伝承に基づいています。昔、この橋は木で造られていて、大水が出るたびに流され、人々は不便な思いをしていました。この橋の袂には、一人の年老いた乞食が住んでいました。乞食は橋を通る人たちに深々と頭を下げ、お金を恵んでもらっていました。乞食は人々から「六蔵」と呼ばれていました。六蔵は子どもたちにからかわれても決して怒ったりすることはありませんでした。ある冬の朝、六蔵は冷たくなって死んでいました。遺体を葬るために村人たちが六蔵の体を持ち上げると、その下からたくさんのお金が出てきました。なんと、六蔵は今まで恵んでもらったお金を貯め込んでいたのです。村人たちがこのお金の始末に困っていると旅のお坊さんが通りかかりました。話を聞いたお坊さんは「六蔵さんは世の役に立ちたいと願っていたかもしれない。このお金で立派な橋を架けて霊を弔ってはいかがかな。」と話され、村人たちは皆なこれに賛同しました。六蔵の遺体はお坊さんの読経のもと、村人たちにより手厚く葬られました。その翌日から工事が始まり、お坊さんの指揮のもと村人たちが力を合わせて働き、やがて立派な石の橋が完成しました。人々はこの橋を「下頭橋」と名づけたということです。
下頭橋と六蔵祠から「長命寺」に向かいます。
- ポイント6 長命寺
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長命寺は、川越街道と環七通りが交差する板橋中央陸橋交差点の角に位置しています。長命寺の御本尊は薬師如来で、承応元年(1652年)の過去帳があるところから、その頃の開山・創建と考えられています。現在の本堂は、天明二年(1782年)に改装した記録があり、大正八年(1919年)と昭和三十八年(1963年)に改造大修理が行われました。板橋七福神のひとつ福禄寿が祀られています。私も七福神詣で何度もお邪魔しました。
長命寺
「新編武蔵風土記稿」に「開山、長栄、寛文十年(1670年)十一月二十四日寂す」とあり、伝存する過去帳も承応元年(1652年)から書き始められていることから、当寺は江戸時代の前期にはすでに創建されていたと考えられます。江戸時代には、天祖神社(南常盤台二丁目)や氷川神社(東新町二丁目)をはじめ付近の神社の別当(管理者)でもありました。明治時代には、豊島八十八霊場の二十一番札所にもなり、またいたばし七福神の一つ福禄寿も祀られています。当寺周辺は、室町時代「お東山」にあったといわれる板橋城跡の伝承地の一つでもあります。
長命寺から常盤台銀座商店街を抜けて「南常盤台天祖神社」に向かいます。
- ポイント7 南常盤台天祖神社
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住宅地の中に一際緑濃い一画があり、木々に埋もれるようにして鳥居が建っています。
南常盤台天祖神社は、旧上板橋村の産土神として古くからお祀りされている神社です。創建年代等は不詳ですが、鎌倉時代に伊勢社を勧請したと伝えられ、江戸期には神明社と称し、上板橋村の鎮守社となっていました。明治五年、村社に定められ天祖神社と改称しました。南常盤台天祖神社の創建には、「北豊島郡誌」によれば二つの伝承があります。ひとつは、後深草天皇(鎌倉時代)の頃に伊勢神宮でお祀りされている天照大御神を勧請したというもの、もうひとつは上板橋村字原(神社周辺の地)に天照大御神のお姿が現われたという「影向跡(ようごうあと)」があってそこに「伊勢神社」を勧請したというものです。この「伊勢神社」は現在境内に「末社」としてお祀りしていますが、この影向跡がどこにあったのかは詳らかではありません。此の地域の住所の「常盤台」は、神社に繁茂する松林の「常磐」より起っているそうです。
天祖神社
天祖神社は主祭神として天照大御神を、配祀神に豊受姫命、大山昨命をまつる神社です。寛政九年(1797年)江戸時代の代表的な文人・大田南畝が当社を参拝したことが地誌「武江披砂」にあり「上板橋の石橋を越へ、右へ曲り、坂を上り行。岐路多くしてわかりがたし。左の方に壱丁余り松杉のたてる所あり。此はやしをめあてに行ば、神明宮あり。長命寺の持なり、松老杉枝をまじへて大きなる柊もあり。宮居のさまも藁ぶきにて、黒木の鳥居神さびたり」と記されています。このように当社は江戸時代「神明宮」(神明社とも)と称されていました。創建については不詳ながら、鎌倉時代、後深草天皇(執権北条時頼)の康元年間という伝承があります。当社の別当寺・長命寺の本寺は北条時頼の創建とされる安養院(武王山最明寺)であることから、当社の創建も、この上板橋地域の中世の歴史と深く関わりがあることが考えられます。明治五年(1872年)には村社と定められ、明治六年には東京府の命により天祖神社と改称し現在に至ります。境内にある弘化三年(1846年)の狛犬の台座には、円形のへこみがあります。これは昭和二十年(1945年)六月十日の空襲の折にできたもので、当時の空襲被害を今に伝える数少ない遺構の一つです。
境内には、「神明宮」の石碑も建てられています。
天祖神社の神さま
当社はかつて「神明宮」と称され、日の神、皇室の祖先神である「天照大御神」を主祭神とし、天照大御神のお食事をつかさどる「豊受姫命」、徳川家の産土神、お酒の神として知られる「大山昨命」をあわせてお祭りしています。御末社は、向かって右から次のとおりです。
稲荷神社(宇迦之御魂神 − 稲霊、食物の神さま)
北野神社(菅原道真公 − 学問の神さま「天神さま」)
日枝神社(大山昨命)
月読神社(月読命 − 月の神さま)
伊勢神社(大日(女)貴命【おおひるめのむち】 − 天照大御神の古称)
榛名神社(火産霊神・植山比売神) − 少し離れたところにある石祠
お末社の伊勢神社、月読神社からも、当社が伊勢の神宮と深いつながりをもっていたことがうかがわれます。日枝神社は、江戸時代には権現社と称し、旧上板橋村向屋敷にありました。榛名神社は、群馬県から勧請話した社です。
御末社の祠が境内の奥に並んで建っています。
境内の片方の狛犬の台座にある円形の傷は、昭和二十年(1945年)6月10日の空襲で爆弾の破片によって生じた被弾の跡です。
南常盤台天祖神社から「平安地蔵」に向かいます。
- ポイント8 平安地蔵
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住宅街のマンションとマンションに挟まれた狭い敷地に小さな祠が建っています。昭和二十年(1945年)6月10日、南常盤台・東新町一帯への空襲があり、死者270名以上、負傷者155名、2467名の罹災者が出ました。平安地蔵は、亡くなった方々の冥福と恒久平和を願い、昭和二十三年(1948年)に地元の人たちにより建てられたものです。
平安地蔵
昭和二十年(1945年)六月十日、午前七時五十五分より約二時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。「帝都防空本部情報」の記録によると、死者269名、重傷者86名、建物の全壊260戸、投下爆弾(250キログラム級)116個、罹災者2467人、罹災世帯498世帯とあります。区内では最大の死者を出した空襲といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和二十三年六月十日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を、被害が最も大きかった当時の富士紙器工場敷地内に造立し、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
大きな板碑も建っています。
平安地蔵尊由来
この地は、大東亜戦争末期の昭和二十年六月十日午前八時半頃、米爆撃機参拾数機の編隊により数百発の爆弾を投下され一瞬にして修羅の巷と化し死者貮百八拾余名を出せり。ここに戦災死没者永遠の冥福を祈るため地元有志発起人となり、昭和二十三年六月十日平安地蔵尊を建立する。
平らけく 安ら希く
世越は 護り座す
地蔵菩薩の
誓ひうれしき
平安地蔵から「氷川神社」に向かいます。
- ポイント9 氷川神社
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氷川神社の創建年代は不明ですが、第五代孝昭天皇の御代三年(紀元前473年)四月の末に、武蔵一宮氷川神社から勧請し、創立されたと伝えられています(ホント?)。天祖神社と共に、上板橋村の鎮守でした。
氷川神社
ご祭神は須佐之男命です。当社は、旧上板橋村字上之根の地に鎮座して、古くから崇敬を集めてきました。創建は不明ですが、文政六年(1823年)の「上板橋村書上帳」に「一御除地五反四畝歩 当所鎮守氷川宮地但宮・拝殿有之候 一御除地中田壱反八畝拾歩同社免」とあるので、江戸時代にはすでに旧上板橋村の鎮守として当地に鎮座していたと考えられます。当社の氏子の範囲は、旧上板橋村の南部に広がり、江古田駅前の浅間神社も当社の境外末社の一つです。なお浅間神社の境内にある富士塚は、昭和五十四年に国の重要有形民俗文化財に指定されています。当社の境内にある資料館は、この地域一帯が都市化により姿を変えていくなかで、往時の姿を保存するため、有志によって昭和四十六年(1971年)に建設されたものです。収蔵品には、衣食住関係(衣服・炊事用具等)や生業関係(農具・工具等)、社会生活関係(防災用具・信仰関係等)等があり、江戸時代から昭和までで千点余に及んでいます。昭和五十九年度に一括して板橋区の指定有形民俗文化財となりました。
二の鳥居は、近年になって建替えられたそうです。
氷川神社二の鳥居 由緒
旧二の鳥居は昭和三十九年三月吉日、篠統一郎氏により総欅材で建立された。しかし月日の経過により、虫食い・湿気等で足元に腐食が発生し、保全の為、何度も防腐処理・根継ぎを繰り返したが改善されない為、解体撤去に至り、平成二十八年八月八日、竹内昭夫氏により、稲田御影石で新規建立した。ここに先人の思いを受け継ぐ為、旧二の鳥居の姿を残す。
氷川神社は、創建当時は小さな祠でしたが、氏子が増加するに従って木造のお宮を建て、屋根は茅葺でした。明治時代になってからトタン葺きとなり、現在は銅版葺きに改造されています。本殿は嘉永五年(1852年)三月に改築され、欅材で四方彫刻、破風権現造でコケラ(桧の板)で葺いてあります。
境内には区有形民俗文化財に指定の郷土資料館があります。江戸時代から昭和時代までの旧上板橋村の農機具や生活用品、生産用具などを所蔵し、板橋区の文化財に指定されています。畑作を中心とした農村であった上板橋地域は、昭和四十年代以降急速に宅地化されていきました。農地は姿を消し、また農家では生活様式の変化により、母屋の建て替えや納屋の取り壊しが行われ、多くの農具や生活道具が廃棄されてしまいました。このような状況を憂いた地元の有志は当地域の生活を後世にのこすために、昭和四十六年(1971年)8月に氷川神社の境内に資料館を建設し、農具や生活道具を収蔵しました。郷土資料館に収蔵されている資料は、ほとんどが氷川神社の氏子の範囲から集められたもので、江戸時代から昭和までで千点余の数に及んでいます。その内訳は、衣食住関連が300点ほど、生業関連が285点、社会生活関連が250点などと多岐にわたっていて、嫁入りの際に曳いてきた車付きの箪笥など珍しい道具もあります。
郷土資料館について
この郷土資料館は、急激に発展してゆく、此の地(旧上板橋村)の住民が日常生活に供した物品、生産に使用した機器等を氏神に納め、祖先を偲び、郷土を愛する心を養いあわせて、教育の資料にと、氏子有志の浄財により設立されたものである。
拝殿の両脇に立つ青銅製の狛犬は、長崎平和公園に設置されている「長崎平和祈念像」で知られる北村西望(きたむら にしも)の作品です。
守護獣(狛犬)建立由緒之碑
氷川神社「狛犬」作者北村西望翁は、この狛犬の謹製(昭和三十年・原型制作昭和十二年)にあたり、「未来永劫に境内を護り、朝夕参拝の方々までも守るものとして謹製した」とその真意を述べている。社殿に向かい右側が「牡(雌?)戌(阿)」左側が「牝戌(吽)」で、姿は正に神獣・霊獣で在るも、天皇の守護獣像としてその誕生の起源をもつ。
氷川神社から「旧上板橋村役場跡地」に向かいます。
- ポイント10 旧上板橋村役場跡地
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明治二十二年(1889年)の町村制施行により上板橋村が成立しました。村役場は当初安養院内に置かれましたが、昭和二年(1927年)に役場を新築し、移転しました。昭和七年(1932年)10月に板橋区が成立するまで上板橋村の行政を担いました。当時の門柱が現存しています。
上板橋村役場跡
江戸時代に川越街道の宿駅になっていた上板橋宿は、現在の弥生町・東山町・東新町・常盤台・南常盤台・桜川・上板橋・大谷口・大谷口上町・大谷口北町・向原・小茂根、そして練馬区の旭丘・小竹町を含む大きな村でした。明治五年の調査では、戸数405戸、人口は2376人でした。明治二十二年(1889年)の町村制施行にあたっては、江戸時代の村をいくつか合併して新町村が編成されるのが普通でしたが、上板橋は単独で上板橋村となりました。役場は、当初安養院の玄関や境内の建物を使用していましたが、昭和二年(1927年)にこの場所に新庁舎を建築しました。以後、昭和七年に上板橋村が東京市に併合されるまでの五年間、ここに役場が置かれていました。石柱はその当時に門柱として使われていたものです。この役場跡は、平成十四年度に「一町三村役場跡地」として、板橋町役場跡、志村役場跡、赤塚村役場跡とあわせて、板橋区の文化財に登録しました。
旧上板橋村役場跡地から「安養院」に向かいます。
- ポイント11 安養院
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安養院は、正嘉元年(1257年)に鎌倉幕府の執権だった北条時頼が持仏の摩利支天を安置したことを起源として創建されたと伝えられています。その後の兵乱により灰燼に帰しましたが、元禄元年(1688年)に祐淳大比丘が再興して現在の山寺号に改められたと伝えられています。安養院には、板橋七福神の弁才天が祀られています。
安養院
当院は、武王山最明寺と号する真言宗寺院で、ご本尊は阿弥陀如来です。開山は、不詳ですが、開創については、諸国を行脚していた北条時頼が、正嘉元年(1257年)に当地を訪れた際に、古刹を中興し、安養院と号したという由緒があります。貞享元年(1684年)の当院の盛衰や由来を記した口書によれば、正保期(1644年〜1648年)までは、北条時頼の御影を安置した御影堂や塚が残り、時頼の法名から最明寺と号したといいます。なお、口書を含む「安養院文書」は、江戸〜昭和にかけての当院と周辺地域の動向を伝える貴重な文化財です。本堂に安置されている前立本尊の紅頗梨色阿弥陀如来は、宝冠をいただき、弥陀定印を結び、孔雀座に坐する造像で、江戸時代初期の正系の仏師の手によるものといわれています。また釈迦四面像は、武田信玄の守本尊であったとされ、紀州徳川家から当院に寄進されたものです。厨子の中には厳山が作られ、四体の釈迦像を配して、釈迦の生誕から入滅までの姿を表しています。厨子の扉や天井には狩野派による仏画が描かれています。庫裡は、明治三十四年(1901年)に東京市麹町区に建てられた旧前橋藩松平家、伯爵松平基則の本邸を、昭和四年に当院の客殿庫裡として移築したものです。近代和風建築の代表的な建物の一つとなっています。境内の鐘楼には、元禄二年(1689年)に鋳造され、享和二年(1802年)に再鋳された銅鐘が掛けられており、昭和十八年(1943年)には国重要美術品に認定されています。
境内の鐘楼に掛かる銅鐘は、享和二年(1802年)に鋳造された江戸時代の作で、昭和十八年(1943年)に旧文部省より重要美術品の認定を受けたため、戦時中の供出を免れました。
安養院庫裡は、明治三十四年(1901年)に、東京市麹町区下弐番町(現在の千代田区二番町)に旧前橋藩松平家十三代目当主で伯爵の松平基則の本邸として建築されたものです。昭和四年に安養院によって買い取られ、現在地へと移築されました。現存する建築時の棟札によると、建築技師は乃木希典邸(港区文化財)や本郷にあった前田邸日本館(焼失)などを設計した、海軍建築技師の北澤虎造が担当しています。建物全体は、向唐破風付きの車寄と内玄関が付属する本陣、正式の書院造の広間を上下に持つ2階建ての書院棟と付属棟で構成されています。なお2階の15畳は、格式の高い接客空間で、黒漆塗の框で仕切られた3畳の上段を備えるなどの特徴があります。昭和四年の建物移築は、畳・建具・瓦などを再利用するなど、正確な移築を目指したもので、当時の大工の技術水準の高さを検証することを可能としています。当庫裡は、日本の近代和風建築を考えるうえで指標となる重要な建築物です。
安養院のカヤは、平成七年3月13日に板橋区登録記念物(天然記念物)に登録されました。カヤはイチイ科の常緑高木で、安養院のカヤは現存するカヤの中で最大のものです。大蛇が棲むという伝説があり、付近の住民から畏れられていました。また、付近のカヤの多くはこのカヤの実を移植したものといわれています。本堂の向かいにあるため環境条件がよく樹勢は旺盛で、枝張りも見事です。毎年4月には花が咲き、楕円形の実をつけます。
安養院のカヤ
樹種、かや(イチイ科)。樹高、約16メートル。目通り、約360センチメートル。根回り、約380センチメートル。樹齢、約三百年以上(推定)。このカヤは区内に現存するカヤのうち最大のもので、白蛇の住むという言い伝えもある巨木である。九月頃には楕円の実をつける。境内にあるため、環境条件にも恵まれ生育状況も良好である。また、この地域のカヤの多くは安養院のカヤの実生を移植したものと言われている。平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。
境内の奥には、「西国三十三観音本尊石仏巡拝霊場」が造られています。西国三十三所巡礼とは、日本最古の観音巡礼です。養老二年(718年)、大和長谷寺の開山徳道上人が病にかかって仮死状態になった際、冥土で閻魔大王と出会います。閻魔大王は、世の中の悩み苦しむ人々を救うために、三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めなさいと、起請文と三十三の宝印を授けました。現世に戻った徳道上人は閻魔大王に選ばれた三十三の観音霊場の礎を築きましたが、当時の人々には受け入れられず、三十三の宝印を中山寺の石櫃に納めました。それから約270年後に途絶えていた観音巡礼が花山法皇によって再興されます。花山法皇は、先帝円融天皇より帝位を譲られ、第65代花山天皇となりますが、僅か2年で皇位を退き、19歳の若さで法皇となりました。比叡山で修行をした後、書寫山の性空上人・河内石川寺の仏眼上人・中山寺の弁光上人を伴って那智山で修行し、観音霊場を巡拝して西国三十三所観音巡礼を再興しました。西国三十三所の総距離は約1000kmに及び、和歌山・大阪・兵庫・京都・奈良・滋賀・岐阜と2府5県にまたがります。また、中世日本の首都であり文化の中心であった京都に三十三所のうち三分の一の札所寺院が集中していることから、憧れの巡礼路としてその人気は全国に広がりました。やがて遠方に住んで巡礼が困難な人々のために、各地に写し霊場が創設されます。西国三十三所とあわせて日本百観音霊場に数えられる坂東三十三所や秩父三十四所はその代表的な巡礼路です。西国三十三所の「西国」は、当時憧れであった最古の巡礼路が坂東から見て西にあったことに由来します。
「四国御砂踏霊場」もあります。
四国御砂踏霊場開創
修行大師像建立
由来之記
真言宗の開祖弘法大師空海は宝亀五年(西暦774年)讃岐国(香川県)に生まれ、承和二年(西暦835年)高野山にて御入定されるまでの六十二年の間、真言の教えを伝え広め、人々の幸福のために生涯を尽くされました。また書道・芸術などにも優れた才能を示し、日本の文化史上にも大きな足跡を残されました。弘法大師は、若い頃から全国を修行行脚され、その霊験によって多くの人々に恵みを与えられました。自然の風光と穏やかな気候に恵まれた四国を一巡する八十八ヶ所霊場もそうした大師の修行の場で、今でも大師の御跡を慕って巡礼するお遍路さんの姿が絶えません。ここに当院では弘法大師修行像を建立し、併せて御砂踏み霊場を開創致しました。この修行大師像は彫刻家藤島茂氏の製作によるもので、真理を求め山野を跋渉し、遠く虚空を見据える若き大師さまの修行の姿を表しています。また御砂踏み霊場は四国大師霊場の御砂を集めたもので、蓮台の石の基には八十八ヶ所の浄砂がそれぞれ収められています。古来、この御砂を踏んでお参りすることは四国の霊場を巡拝することと同じ大きな功徳があると伝えられております。どうぞ皆様の諸願成就、御健勝の為にお参り下さい。お参りは、お大師さまの正面より右廻りに一歩一歩蓮台を踏みしめ「南無大師遍照金剛」の御宝号を唱えつつ、合掌礼拝して御廻り下さい。「同行二人」の御心でお大師さまが皆様をあたたかく見守って下さいます。
安養院から「茂呂遺跡」に向かいます。安養院から城北中央公園の東側の外周を進み、公園を南北に縦断する茂呂山通りに出ます。石神井川に架かる栗原橋を渡った先の左側に小高い山があります。
- ポイント12 茂呂遺跡
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昭和二十六年3月、「オセド山」と呼ばれる独立丘陵(小山)を通る切り通し道路の断面で、石器などが発見されました。その後、同年7月に発掘調査が実施されました。旧石器時代の調査としては群馬県岩宿遺跡に次ぐ全国2例目の調査となり、縄文時代より古い旧石器時代の文化が、日本に普遍的に広がっていることが分かりました。また、この調査で出土したナイフ形石器は、非常に特徴的な形態をしていることから、「茂呂型ナイフ形石器」と名づけられました。遺跡は昭和四十四年に、遺物は平成十一年に東京都の文化財に指定されています。現在は東京都の公園用地となっていますが、樹林保護のため立ち入ることはできません。
茂呂遺跡
通称”オセド山”と呼ばれるこの独立丘陵は、縄文時代早期の土器破片の散布地として知られていました。昭和二十六年(1951年)三月、縄文土器の採集に訪れたひとりの中学生が、この栗原新道の切通し断面の関東ローム層中から、礫群と黒曜石製の石器を発見しました。この発見をもとに、同年七月、明治大学と武蔵野郷土館が合同で発掘調査をおこないました。こうして、旧石器時代の遺跡は、岩宿遺跡が発見された北関東だけでなく、南関東においても存在することが分かりました。また、茂呂遺跡から出土したナイフ形石器(刺す道具)には、両側に加工が施された特徴的な造りが見られます。これは「茂呂型ナイフ形石器」と名付けられ、ナイフ形石器の標式型式の一つとして重要であることから、平成十一年に東京都の有形文化財に指定されました。昭和四十四年、この丘陵の一部は東京都の史跡(考古)に指定され、さらに昭和六十年には板橋区登録記念物になりました。
茂呂遺跡から茂呂山通りを戻って、城北中央公園の中にある「御獄神社」に向かいます。
- ポイント13 御獄神社
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康正二年(1456年)に太田道灌が千代田村に江戸城を築くにあたって、そこに住んでいた先住人を各地に移転させました。その中の宝田姓を名乗る一族は上板橋村栗原に移り住みましたが、その際彼等が祀っていた稲荷神社を石神井川を見おろす小高い丘の上(現在の城北中央公園の一部)に遷座させました。当時上板橋村栗原には神社がなく、この神社に参詣する人が多く賑わいを見せました。しかし、この稲荷社は宝田家の私的な神社であったため、上板橋村字栗原・上板橋村字七軒屋の人々は武州御嶽神社(一説には信州御嶽神社)を勧請して祀ったのが御獄神社であるといわれています。
御嶽神社
創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現在の桜川の一部)・七軒屋(現在の上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山昆古命(かなやまひこのみこと)・金山昆賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。栗原の地は、康正二年(1456年)、太田道灌が千代田村(現在の皇居)に江戸城を築く際、同村宝田の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現在の宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。当神社もその頃、信州の御嶽山(一説に甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永七年(1854年)銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇つている。毎年三月八日に行われる昆謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残されている。
御嶽神社は3対の狛犬によって守られています。一の鳥居を潜ったところにある狛犬は昭和三十五年に奉納されたものです。階段を上ったところの二の鳥居の後ろには昭和六十一年11月に奉納された狛犬がいます。
左が一の鳥居、右が二の鳥居です。
そして社殿の右側にある覆屋の中には、嘉永七年(1854年)に奉納された古い狛犬がいます。御嶽神社は日本狼を神使とする山岳信仰に基づいていますので、狛犬は犬ではなく狼になっています。
御獄神社から「桜川緑道」に向かいます。
- ポイント14 桜川緑道
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城北公園通りを斜めに横切るように、公園の北端に沿って田柄川緑道が延びています。田柄川は、練馬区と板橋区を流れる荒川水系の自然河川で、石神井川の支流でした。1970年代〜1980年代初頭までに水害対策などで暗渠化され、それに伴い多くの区間は「田柄川緑道(グリーンベルト)」として整備されて桜の名所になりましたが、現在も緑道下は下水道幹線として水が流れています。なお、板橋区内では石神井川との合流地点までの短い区間を桜川(桜川緑道)と呼んでいます。ちなみに、「田柄」とは、川が流れていた地域が武蔵野台地にあったために水利に恵まれず、農耕地に適さないというので、「田が枯れる」から「田柄」になったという説があります。
城北公園通りの反対側から南西方向に延びているのが田柄川緑道です。
桜川緑道から「五本けやき」に向かいます。
- ポイント15 五本けやき
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江戸時代、中山道の平尾追分(現在の板橋一丁目)で分岐し、江戸と川越を結ぶ往還として整備された川越街道は蛇行して道幅も狭く、荷車などの往来でできた轍も通行の支障となっていました。川越街道は、関東大震災後の震災復興計画の中で東京から周辺部へ放射状に延びる幹線放射道路のひとつとして再整備が計画され、その拡幅と直線化のために用地取得が必要となりました。この場所には、醤油醸造業を営み、旧上板橋村村長と東京府会議員も務めた飯島弥十郎家の屋敷林がありましたが、道路用地となったことで伐採されることになりました。しかし、飯島氏の強い要望により、道路中央部にその一部を残すことで新川越街道(現在の国道254号線)が完成しました。
新川越街道(現 国道二五四号)は、昭和二年より計画され、当地区は同十四年完成をみた。この五本けやきは、国道建設に際し、元上板橋村村長飯島氏の強い要望により残されたもので、我が区における樹木保存の先駆となった。ここに、これを記念し碑を建立す。
新川越街道の中でも特徴的な景観となったケヤキの木立は「五本けやき」と呼ばれ親しまれてきました。立ち枯れにより、三本になってしまった時期もありましたが、地元有志らによって二本が移植され、元の姿を取り戻しています。
五本けやき
大正十二年(1923年)九月の関東大震災で、甚大な被害を受けた東京の市街地は、復興とともに近郊の農村部へも急速に拡大していきました。その際、道路網の整備も計画されました。江戸時代に、中山道の平尾追分(現 板橋一丁目)で分岐され、江戸と川越を結ぶ往還として整備された川越街道は、蛇行して道幅も狭く、荷車などの往来でできた轍も通行の支障となっていました。川越街道は、震災復興計画の中で、東京から周辺部へ放射状に延びる幹線放射道路の一つとして再整備が計画され、その拡幅と直線化のため用地取得が必要となりました。この地には、醤油醸造業を営み旧上板橋村村長・東京府会議員も務めた飯島弥十郎家の屋敷林がありましたが、道路用地となったことで伐探される予定でした。しかし、同氏の強い要望により、道路中央部にその一部を残すことで新川越街道(現 国道二五四号)が完成しました。新川越街道の中でも特徴的な景観となったケヤキの木立は、「五本けやき」と呼ばれ親しまれてきました。立ち枯れにより、三本になってしまった時期もありましたが、地元有志らによって二本が移植され、元の姿を取り戻しました。昭和四十五年(1970年)には、五本けやき保存会が結成され、その保護活動が行われています。
五本けやきは板橋区の「景観重要樹木」に指定されています。
景観重要樹木
「川越街道 五本けやき」
川越街道 五本けやきは、緑豊かなうるおいのある空間を創出しており、街道の良好な景観形成に寄与していることから、板橋区景観計画における景観重要樹木に指定しています。
(景観法第二十八条第一項)
五本けやきから「子育て地蔵」に向かいます。
- ポイント16 子育て地蔵
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東武東上線上板橋駅と国道254号線(川越街道)の間に旧川越街道が通っています。昔の宿場だけあって今でも賑やかな通りです。この通りは上板橋南口商店街の中心になっていて、そのシンボルとなっているのが2体の丸彫りの子育地蔵尊です。お祭りの御輿などもこの地蔵が起点になっています。
子育て地蔵の由来
当地に安置されている地蔵は、通称「子育て地蔵」と呼ばれ、人びとに広く親しまれています。お堂の中にある二体の地蔵は、もともと栗原堰の一本橋(現在の桜川一丁目5番地)付近に建っていたものといわれていますが、それを裏付けるように、石仏の台座や本体には貞享五年(1688年)や安永六年(1777年)といった造立された年号や、上板橋村栗原を中心とした奉納者の名前が刻まれています。明治初年に、これらの地蔵は、川越街道に面した「ガッカラ坂」と呼ばれる当地に移されたといわれています。大正三年(1914年)、川越街道と東上鉄道(現在の東上線)の上板橋駅を結ぶ道(現在の上板橋南口銀座)が通じた時には、両道が交差した角地に据えられていましたが、この時すでに地蔵は倒され、放置された状態であったといわれています。また、移転した当初には三体あった地蔵も、いつしか二体となっていたといいます。その当時、宝田豆腐店主であった宝田半二郎氏は、地蔵が荒れ果てた状況にあったことを憂慮し、大正十二年頃に店舗に隣接した現在の場所へと地蔵を移しました。さらに昭和十年頃になると、半二郎氏の子息である宝田源蔵氏と七軒家の木下仙太郎氏が中心となって、地蔵をお祀りする地蔵講を結成しました。講員も三百名を数えたといわれています。都市化がすすんだ現在も、子育て地蔵は、人々の素朴な願いを引き受ける仏様として、商店街を中心に大切に守られ、お祀りされています。また、四月から九月にかけての七のつく日には、地蔵堂の前の旧川越街道で縁日が開かれるなど、地域の活性化にも一役かっています。
堂宇の中には3体の地蔵がありますが、古いのは奥の2体で、左側の舟型光背型地蔵立像は安永六年(1777年)10月の造立です。左面に「光明真言四百万遍供養仏」、右面には「上板橋栗原講中 宝田市良右衛門 同久良右衛門」と記されています。右側も舟形光背型地蔵立像で、安永七年(1778年)2月の造立です。「武州豊島郡上板橋村之内栗原村」の銘があります。手前の地蔵立像は新しいもののようですが、詳細は不明です。この2体の地蔵はもともと栗原堰の一本橋付近にあったといわれています。ここから1km近く南の石神井川沿いの茂呂遺跡のある辺りです。川越街道の此の地に移されたのは明治の初めで、当初は3体の地蔵があったといいますが、明治時代に1基は失われてしまったようです。大正時代になって、無残に路傍に放置された地蔵をこの地に祀ったのは豆腐屋を営んでいた宝田半次郎氏です。宝田市良右衛門氏の子孫かも。
ゴール地点の東武上板橋駅に着きました。
ということで、板橋区で四番目の「常盤台散策コース」を歩き終えました。次は、板橋区で五番目の「志村散策コース」を歩きます。
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