C志村散策コース  

コース 踏破記  

今日は板橋区の「C志村散策コース」を歩きます。本蓮沼駅をスタート地点として、小豆沢の由緒ある寺社仏閣、広大な公園、志村城址、都内でも希少な志村一里塚跡などを巡ります。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年7月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

C志村散策コース

崖線沿いに湧水が豊富だったころの遺跡や名所・旧跡が点在し工業地域の顔を併せ持つエリア

「C志村散策コース」の歩数は約10,000歩、歩行距離は約7.0km、歩行時間は約105分、消費カロリーは約315Kcalです。

スタート地点:都営地下鉄三田線本蓮沼駅出入口A2
ポイント 1 氷川神社
ポイント 2 南蔵院(南蔵院のしだれ桜)
江戸時代初期に創建されたと伝わる真言宗寺院で、八代将軍吉宗の鷹狩りの際の休憩所でした。境内には、承応二年(1653年)に旧蓮沼村の庚申待講によって造られた丸彫り地蔵の庚申塔があり、ここのしだれ桜は境内の不動堂などを背景として花の季節には見事な眺めとなります。
ポイント 3 長徳寺
ポイント 4 熊野神社
ポイント 5 常楽院
ポイント 6 見次公園
昭和二十八年4月に開園され、面積約14、000平方メートルのうち約45%が手こぎボート池になっています。自然の湧水をたたえた見次公園は、ゆったりした時間を過ごすのに適した公園です。
(4〜10月 土・日・祝のみ)
ポイント 7 延命寺
大永四年(1524年)志村城をめぐる戦いで自分の子供が討ち死にするのを目にした見次権兵衛が、世の無常を悟り、自らの屋敷を寺としたと伝わる真言宗寺院です。境内には、区内最古の建長四年(1252年)の板碑やいぼ取りの通称「蛸薬師」として信仰をあつめた正保四年(1647年)の庚申塔があります。
ポイント 8 志村城跡と熊野神社
ポイント 9 富士大山道道標・庚申塔
相模国にある大山や甲斐国・駿河国の富士山に登山、参拝する人々が通った道。この先は下練馬宿のある川越街道に出て、石神井川に向かう富士街道になります。入り口に立つ道しるべは寛政四年(1792年)の造立で正面には「是より大山道井ねりま川こへみち」と刻まれています。右に立つ庚申塔は万延元年(1860年)の造立で、正面には庚申塔と刻まれ、左側には、「是より富士山大山道 練馬江一里 柳沢江一里 府中江七里」とあります。
ポイント10 薬師の泉庭園
八代将軍吉宗が大善寺に立ち寄った際、境内に湧く清水を見て、ここの薬師像を清水薬師と命名。資料をもとに当時の庭園が復元されています。
ポイント11 御手洗不動
ポイント12 水上バス小豆沢船着場
新河岸川、隅田川、東京湾、荒川、岩淵水門を巡る水上バスが運行されています。(注:特定日に運行)
乗船申込 東京水辺ライン
電  話 03−5608−8869
ポイント13 龍福寺
室町時代末に袋町の真頂院の住職運珍和尚が、創建したと伝わる真言宗寺院です。境内には、平安時代に台地下にひろがっていた七々子崎という入江で発見されたとの縁起をもつ薬師如来を祀っています。建長七年(1255年)の板碑など数基の板碑があって、「板碑の寺」として有名です。
ポイント14 小豆沢神社
ポイント15 戸田橋親柱
昭和五十三年に現在の戸田橋に架け替えられる前の東京側の親柱。左の親柱背面には銅版が埋め込まれていて由緒と仕様が書かれています。埼玉県側の親柱は現在戸田競艇場の東側にある戸田橋親水公園の入口にあります。
ポイント16 志村一里塚
江戸日本橋から数えて三番目の一里塚。当時の姿を残しているのは都内でも2ヶ所しかなく、国の史跡にも指定されています。

ゴール地点:都営地下鉄三田線志村坂上駅出入口A2


スタート地点の本蓮沼駅出入口A2から「氷川神社」に向かって歩き始めます。歩道の脇の案内板に今日のコースの道順と見所を記した大きな案内板が掲示されています。板橋区の案内板はコースの要所要所に立てられていてとても便利です。


ポイント1 氷川神社

氷川神社は慶長年間(1596年〜1615年)に創建され、享保十二年(1727年)の荒川の洪水で高台の現在地に移転しました。新井三郎衛門が資材を提供したことによって此の地に定着することになりましたが、それ以前も洪水の度に社殿が流失して鎮座地を移動した結果、「十度の宮」と呼ばれていました。

氷川神社

当社は古来蓮沼村の鎮守で、御祭神は須佐之男命と奇稲田姫命です。慶長年間(1596年〜1615年)に現さいたま市の氷川神社から、蓮沼村字前沼(現在の浮間舟渡駅の西側一帯)に勧請されたのが創建と伝えられています。蓮沼村は、享保年間(1716年〜1736年)に荒川氾濫の被害を受け、高台にある現在地に移動しました。その時に、当社も新井三郎衛門が村人とともに、前沼から現在地に移転したといいます。また、当社の別当寺であった南蔵院も、同様に移転したと伝えられています。明治七年には村社に指定されました。彼岸前の日曜日に行なわれる秋祭の際には、湯花神楽が奉納されています。




昭和四十四年に、鉄筋流れ造の現社殿が完成しました。摂末社として、昭和七年(1932年)に町内から境内に移転してきた稲荷神社、御嶽神社、榛名神社、阿夫利神社があります。



氷川神社から「南蔵院」に向かいます。

ポイント2 南蔵院(南蔵院のしだれ桜)

中世の頃、新井三郎盛久が他の仲間達と戦乱を避けて武蔵国豊島郡の志村庄に移り住み、荒れ地を開墾して蓮沼村を開きました。そして自らが開基となって志村坂下に寺院を創建したのが南蔵院の始まりといわれています。本尊には十一面観世音菩薩が安置されました。その後、弘法大師空海が自らを刻んだ大師坐像と行基菩薩作の阿弥陀如来像を拝受し、本尊の傍らに安置しました。しかし、拡大する戦乱に堂宇はとうとう全焼の憂き目に遭い、すんでのところで諸尊像は運び出されて焼失の難は免れましたが、古文書などの他の寺宝は灰燼に帰してしまいました。江戸時代初期の寛文二年(1662年)に宥照上人が中興しましたが、たび重なる荒川(現在の新河岸川)の洪水のために、志村坂下から現在地に移ったと伝えられています。昭和二年(1927年)には、隣にあった「金剛院」を合併しています。関東三十六不動霊場の第十二番札所であると共に、豊島八十八ヶ所霊場の第三十四番札所でもあります。

南蔵院

当院は、宝勝山蓮光寺と号する真言宗寺院で、ご本尊は十一面観世音菩薩です。開山は、寺歴では宥厳とされていますが、「新編武蔵風土記稿」では、開山を宥照、開基を蓮沼村の名主新井家の先祖、新井三郎盛久としています。当初、南蔵院は荒川低地にあった「道生沼」の畔(坂下二丁目二十四番地付近)に建っていましたが、度重なる洪水によって現在地に移転したといわれています。この移転伝承は、隣接する氷川神社や、蓮華寺(蓮根一丁目十番)と同様のものであることから、当該地域における歴史的環境の変化と、村の対応などを考えていく上で注目されます。なお、移転の時期は、長らく享保期(1716年〜1736年)とされてきましたが、それ以前の正保期(1644年〜1648年)に作成された「武蔵国図」を始めとする絵図類には、すでに蓮沼村や南蔵院などが現在の位置に描かれていることから、その時期は大きく遡るものと考えられます。また、享保七年十一月二十五日に行われた八代将軍徳川吉宗による戸田・志村原の鷹狩りに際しては、当院が御膳所となっています。境内にある庚申地蔵は、承応三年(1654年)に庚申待講中が造立したものです。また、安永六年(1777年)と文化元年(1804年)に建立された南蔵院石造出羽三山供養塔の台座には、蓮沼村・前野村・小豆沢村の講員70名の氏名と房号が刻まれており、当該期の出羽三山講の様子を知る貴重な資料となっています。これらは、区の有形民俗文化財に登録されています。




本堂には、本尊の十一面観世音菩薩が安置されています。十一面の仏面は、人々の愚痴を断ち、仏の位を得させる功徳を表しています。また、この本尊の他、行基菩薩が作った阿弥陀如来坐像や、弘法大師が天長年中に相州江ノ島で一万座の護摩修行を行なった時の灰で自作した厄除大師も奉安されています。


文字が不鮮明で解読断念。。。


南蔵院の境内には桜や紅葉など美しい花木が植えられていて、四季折々の葉景色が楽しめます。中でも八重紅枝垂桜(やえべにしだれざくら)は見事で、かつて南蔵院が鷹狩りの際の御膳所こなった際、この桜を見た徳川八代将軍吉宗は、紀州に咲きほこっていた桜を思い出したのか、南蔵院を別名「櫻寺」と名付けたといわれています。



この八重紅枝垂桜は、「板橋十景」にも選ばれています。



不動堂の本尊は不動明王です。不動明王は、大日如来が一切の悪を退治する為に忿怒の相に化身したとされ、一心に祈れば何事によらず必ずひとつは叶えてくれますが、少しでも修行を怠れば仏罰がたちどころに下るという有難い代わりに恐ろしい明王です。所願成就、災難・厄難・病難など全ての難を除き、財富を得、商売・事業の繁昌、福徳円満の功徳があるとされています。堂内の撮影は禁止なので、斜めからそっと撮りました。

護摩堂
御本尊不動明王

五大明王・八大明王(降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉・鳥枢沙摩・愛染・大元帥各明王)の主尊で、大日如来さまが一切の悪を退治するために、忿怒の相に化身したとされる明王さまです。別名不動威怒明王・無動尊と申します。私たちの煩悩や悪魔・災いから救わずにはいられない大慈悲心に満ち、つねに仏ごころをおこさせて導くという役目をもつておられます。髪は蓮の形に結んで頂に乗せ、弁髪と呼ばれる髪を左肩にたらし、両眼を見開き、口もとはかみしめて右は上、左は下へ牙をだし、下半身は裳を着け、半身は条帛と呼ばれる布をまとい、盤石の上にお坐りになっておられます。身色は青黒で降魔の義を表し、背後の火焔は火がすべてのものを焼き尽すように、ひとびとの迷いや欲望を焼き尽し、またすべての災難の種を焼いて願いをかなえて下さるという、願心をあらわしておいでになります。他に矜迦羅・制多迦両童子を率いる三尊像です。持ち物は、右に煩悩を断ち切る利剣を握り、左手には羂索をもっておられます。言うことを聞かない敵をしばりあげ、ときにはその命をも断つというものでありますが、それと同時に自分の欲望や迷いをたち切り、勝手気ままになりがちなおのれの心をしばりつけるという剣と紐でもあります。お不動さまの信仰は、仏教”動”の世界です。動きをおさえるのではなく、躍動する力を発揮させる明王です。故に古くからおおぜいのひとびとから信仰されてきているのです。一心に祈れば何ごとによらず一つは必ずかなえて下さる明王さま、もしちょっとでも修行をおこたれば仏罰たちどころにくだるという、有難いかわりに又おそろしい明王さまです。堅固不動の心。諸願成就、災難、病難等すべての難を除き、財富を得、商売、事業の繁昌、福徳円満等の功徳がおおくの諸軌に説かれております。

御本尊真言
のうまくさまんだばざらだんかん




境内には、承応二年(1653年)に旧蓮沼村の庚申待講十人によって建立された丸彫り地蔵の庚申塔があります。板橋区内で現在確認されている203基の庚申塔の中でも二番目に古いものです。庚申信仰は、奈良時代に日本に入ってきた中国の道教で説く「三尸(さんし)説」をもとに、仏教や神道・修験道・呪術的な医学などのさまざまな民間信仰や習俗などが融合してできあがったものです。平安時代に貴族の間で流行し、その後室町時代になると本尊を掲げて宗教儀礼を伴う庚申待が行われるようになりました。江戸時代には、庶民に広く普及し、庚申塔が数多く造立されました。この地蔵は、江戸時代に地蔵が庚申信仰の礼拝対象であったことを示す代表的な例としても貴重です。昭和六十三年に板橋区登録有形民俗文化財(信仰)に登録されました



地蔵堂の御本尊は地蔵菩薩です。俗に歯の痛みが治る「はいた地蔵」と称され、今なお多くの信仰を集めています。地蔵菩薩は、大地にまいた種が成長し収穫できるように、地中に色々なたからものを蔵し、人々の役に立ち繁栄できるように、そして死んでいった後の世までも慈悲の手を差し伸べるという、人々を慈しむ心を持っています。

地蔵堂
地蔵菩薩

別名悲願金剛・悲愍金剛・与願金剛と申します 大地のように安定し、万物を育てる力と心をもち、釈迦の入滅後、弥勒仏が現れるまでの無仏の時代に僧侶の姿(比丘形)でこの世に現れ、六道のひとびとを救い、みんなを救ってから自分は仏になることをご誓願にしている仏さまです。地蔵の名のおこりは、ひとびとの苦しみや悩みをとり除き、大地にまいた種が生育し収穫できるように、また地中にいろいろのたからものを蔵し、ひとびとの役にたち、繁栄させるように、そして、死んでいった後の世までも慈悲の手をたれて下さると言う、ひとびとをいつくしむ心を無限にもつておられるところから、地蔵菩薩という名がつけられました。人間はこの世での行いの報いとして、死んだのち六つの世にそれぞれ生まれます。これを「地獄」「餓鬼」「畜生」「阿修羅」「人間」「天上」の六道といつていますが、ことにこのうちの、地獄・餓鬼・畜生の三つの世界は苦しみの責苦にあうだけの処なのですが、このようなところにもお地蔵さまは、左手に宝珠をのせ、右手に錫杖をもつて、いつでも、どこでも、苦しみ救いを求めているひとひとのところに出むいて行き、懺悔改心させ救って下さる慈悲深い仏さまです。お地蔵さまをもつと身近なものにしたのは、賽の河原のかなしい和讃です。親子の縁が薄く幼くして死んだ子供らや、まだこの世の陽の目をみないうちに、母親の胎内から去っていった水子、母に名を呼ばれず、手を合すことすら知らないで死んで行った水子たちの物語です。お地蔵さまは、新たに生れた子供を護り、その寿命をのばし、若死、そしてすべてのひとびとの病難、悩み等を除いて下さるという功徳がお経に説かれております。また山門内右側の六体のお地蔵さまは、「六地蔵」と申しあげ、六種に身をかえてそれぞれ六道のひとびとを救って下さるお地蔵さまたちです。

地蔵菩薩真言
おんかかかびさんまえいそわか




「六地蔵」は、山門を入ったところに祀られています。



南蔵院から「長徳寺」に向かいます。

ポイント3 長徳寺

長徳寺の坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。別名を「お大日坂(おだいにちざか)」といいます。坂名は、長徳寺の前を通る坂であることに因んでいます。別名は、練馬道(富士見街道)から分れて出井川の谷に下り、長徳寺の南側を通っていた前野の地の古道「お大日道」に因んでいます。



長徳寺の創建年代は不明ですが、建久年間(1190年〜1199年)に行慈阿闍梨によって中興されたことから、少なくとも鎌倉時代初期には既に存在していたものと推測されます。かつての本尊は運慶作とされる大日如来像であり、「子育大日尊」として知られていましたが、昭和二十年(1945年)4月13日の空襲で焼失しました。現在の本尊は、昭和三十八年(1963年)に造立された不動明王です。本尊と同じ年に本堂などの堂宇も再建され、昭和五十五年(1980年)には現在の山門も再建されました。

長徳寺

宗派は真言宗豊山派で、挙一山遍照院長徳寺と号し、御本尊は不動明王です。鎌倉時代初期に中興開山されたと伝えられていますが、いくどか火災にあっているので、江戸時代初期以前のことはよくわかりません。江戸時代後期に書かれた新編武蔵風土記稿には、寛保三年(1743年)に鋳造された鐘があったことが記されています。また、かつては大日如来像が御本尊で、子育大日尊として信仰を集めていました。しかし、これらは昭和二十年四月十三日の空襲によって、本堂とともに焼失してしまいました。当寺には、区内で一、二を競う古い仏像があります。平安時代末につくられたもので、平泉の中尊寺に由来すると伝えられる阿弥陀如来の木像です。戦後の再建時に受け入れられました。この仏像は平成四年度に板橋区の有形文化財に指定されています。また、境内には、さまざまな石仏や力石が数多く残されています。




長徳寺のかつての本尊は運慶作とされる大日如来像であり、「子育大日尊」として知られていました。しかし、昭和二十年(1945年)4月13日の空襲で焼失し、現在の本尊は昭和三十八年(1963年)に造立された不動明王となっています。本尊と同じ年に本堂などの堂宇も再建され、昭和五十五年(1980年)に山門も再建されました。



長徳寺から「熊野神社」に向かいます。

ポイント4 熊野神社

前野町には、同じ社名の「熊野神社」の名称を持つ神社が存在します。熊野神社は「東熊野神社」とも呼ばれるのに対し、もうひとつの神社は「西熊野神社」と呼ばれています。熊野神社の創建年代は不明ですが、中世末期の頃とされています。江戸時代には、西熊野神社と共に前野村の鎮守でした。明治七年(1874年)に村社に列格されました。

熊野神社

御祭神伊佐那岐命、伊佐那美命。

創建年代は不詳であるが、中世末期頃に紀伊国(現和歌山県)の熊野那智大社より勧請されたと伝えられる。旧前野村の鎮守であるが、同村には熊野神社が二社あり、東方に鎮座する当社は東熊野と呼ばれている。明治二年の「社寺取調」によると、前野村三社の内の一つで、江戸時代の寛文二年(1662年)の「御水帳」に祭神は天神七代地神五代と記載されている。境内には、春日社、月山社、榛名社が祀られているが、このうち榛名社は長徳寺(大原町四十番)境内にあったものが、区画整理によって昭和十八年に現在地に移された。




鳥居は、長い参道の先に建っています。参道が住宅と道路に挟まれてますので、スペースがなかったのかも。狛犬は鳥居を潜ったところに鎮座しています。経年の為に薄れてはいますが、体一面に渦巻き状の毛と思われる彫り込みが見られます。石工の名前には蓮根村(前野町より少し東寄りになります)の村田清八と刻まれています。嘉永二年(1849年)に造立されたのだそうです。



境内には、摂末社として、春日社・月山社・春名社の三社が祀られています。これらの社は元々長徳寺にありましたが、区画整理によって昭和十八年(1943年)熊野神社の境内に移転してきました。



熊野神社から「常楽院」に向かいます。

ポイント5 常楽院

常楽院は、江戸時代の初期に賢鏡によって開山されました。山号の「熊野山」という関係からか、区内の前野町の東熊野神社や前野町の西熊野神社や熊野町の熊野神社の別当寺でもありました。常楽院は、幕末期に境内で寺子屋を開設していて、常楽院が所蔵している杉戸絵には寺子屋の子供のいたずら書きも残されています。

常楽院

御本尊は不動明王。宗派は真言宗豊山派。熊野山法界寺と称します。常楽院は、法印賢鏡の建立した逆修碑が寛文十年(1670年)四月であるため、正保・慶安年間(1644年〜1652年)に開山したと推定されます。明治十年(1877年)九月、同寺の住職が幕末に寺子屋を開いていたことにより、寺内に中仙学校(現志村第二小学校の前身)が開設されました。同寺の墓地に立つ板碑は、正面に阿弥陀三尊種子が薬研彫りで刻まれています。紀年銘は明らかではありませんが、龍福寺(小豆沢四丁目)の建長七年(1255年)の板碑とよく似ており、常楽院の板碑も建長年間に造立されたものと考えられます。平成元年度に板橋区有形文化財に登録されています。同寺に所蔵の絵馬四点と扁額二点は、平成二十三年度に区有形民俗文化財に登録されています。また、同寺の周囲には弥生時代末から古墳時代初頭の前野町遺跡群があります。出土した土器は、板橋区の有形文化財に指定された後、平成十年度には、前野町遺跡出土弥生土器として五十九点が東京都有形文化財に指定されました。なお、これらの土器は、寺内の展示室に保管されています。




常楽院の周辺には、「前野町遺跡」と呼ばれる遺跡があり、多くの弥生土器が出土しています。これらの土器は弥生時代末期を象徴する土器ということで「前野町式土器」と呼ばれています。常楽院はこの前野町式土器を収蔵していることから、別名「土器寺」とも呼ばれています。

有形文化財(考古資料)
前野町遺跡出土弥生土器

前野町遺跡は武蔵野台地の縁部に広がる集落跡です。昭和十三年から十四年にかけて杉原荘介が発掘調査を行い、出土した土器は弥生時代終末の「前野町式」土器として設定されました。同時期、常楽院に転住した守山聖真は、寺院周辺の区画整理で掘り出された遺物の収集と保存に尽力します。昭和三十六年、杉原荘介は常楽院(五十六点、現存五十三点)、明治大学博物館 六点)所蔵資料を図示し、「前野町式」土器を再定義しました。「前野町式」土器は壺・台付甕・高坏・鉢・器台・小形壺で構成されます。土師器の研究が進む過程で、「前野町式」土器の中には古墳時代初頭の土師器が含まれていることが明らかとなり、現在これらの土器は「弥生時代終末から古墳時代初頭」の時期に位置づけられています。

Tangible Cultural Properties (archaeological material)
Maenocho iseki shutsudo yayoi doki

Maenocho site is a settlement extended to edge of Musashino Plateau. From 1938 to 39 Sugihara Sosuke conducted archaeological research, excavated potteries which were named Maenocho Type as a index of the last stage of Yayoi Period. At the same time, Moriyama Shoshin, migrated to Jorakuin temple, put an effort for collection and preservation of artifacts uncovered surroundings of Temple upon land readjustment. In 1961, Sugihara Sosuke redefined Maenocho-Type pottery, with scale drawing of the type collection 56 pieces (currently 53 pieces exist) owned by Jorakuin, 6 pieces owned by Meiji University Museum. Maenocho-Type pottery consist of jar, pot with stand,pedestaled dich, bowl, jar stand, small jar. By the progress of chronological study about Haji ware, it became clear that Maenocho-Type pottery contains Haji ware in the beginning of Kofun Period. Currently these potteries are defined as that of "the last stage of Yayoi Period to the beginning of Kofun Period".




常楽院から「見次公園」に向かいます。

ポイント6 見次公園

見次公園には23区内には数少なくなった湧水による池があり、ボートによる遊覧や釣りができます。また、池ではカルガモやオオバンやマガモ等の水鳥を見ることもできます。案内板が立っているそうですが、見落としました。

見次公園とその周辺

この公園は、昭和二十八年(1953年)四月に開園しました。「見次」の名前は、隣接する志村延命寺の由緒に関連しています。「新編武蔵風土記」や同寺の縁起によると、延命寺は中世の志村城に在城していた篠田五郎の家臣見次権兵衛を開基とし、見次の氏をとって山号を「見次山」としたといいます。また、大永四年(1524年)、小田原北条氏の志村城攻めにより、息子を失った見次権兵衛が、菩提を弔うために屋敷を寺院としたともいわれています。この公園の池は、台地の縁から湧き出る水をためたもので、水に恵まれたこの周辺には原始・古代の遺跡も多く分布しています。池ではボート遊びや釣りなどを楽しむことができます。




見次公園から「延命寺」に向かいます。

ポイント7 延命寺

延命寺は、志村城をめぐる戦いで自分の子供が討ち死にするのを目にした見次権兵衛が世の無情を悟り、自らの屋敷を寺としたと伝わる寺院です。境内には、区内最古の建長四年(1252年)の板碑や、いぼ取りの通称「蛸薬師」として信仰をあつめた正保四年(1647年)の庚申塔があります。

延命寺

当寺は、見次山と号する真言宗寺院で、ご本尊は地蔵菩薩です。開山は頼眞、開基は見次権兵衛とされています。大永四年(1524年)、北条氏綱は、上杉朝興が拠点としていた江戸城を攻め落としました。結果、上杉勢は河越へと遁走していきますが、その際には志村城でも戦闘が行 われたといわれています。戦いの中で、志村城主篠田五郎の家臣見次権兵衛は、子息権太郎が討死するのを目の当たりにし、戦後、息子の菩提を弔うために居宅を供して寺院とし、自らは開基となったと伝わります。「新編武蔵風土記稿」によれば、享保年中(1716年〜1736年)の鷹狩りに際し、当寺に御腰掛・御成門が設けられ、御膳所となったと記されています。将軍は当寺を拠点として戸田・志村原で行われた鷹狩りへと赴いて行きました。境内には、大日如来の種子が心字蓮坐に刻まれた、区内最古となる建長四年(1252年)の板碑を含む板碑群と、正保四年(1647年)に造立された庚申薬師などがあります。庚申薬師は、舟型光背を有し、薬師が刻まれた庚申塔で、いぼとりの「蛸薬師」としても知られています。なお、山門脇には、江戸時代から知られていた樹齢八百年ともいわれる欅が立っていました。昭和六年(1931年)には「延命寺の欅」として国指定の天然記念物となりましたが、同三十七年に枯死したため、指定が解除されています。また、その樹幹は、近年まで保存されていましたが、平成二十二年の建設工事によってこれも撤去されています。




境内には、いぼ取りの通称「蛸薬師」として信仰をあつめた正保四年(1647年)の庚申塔があります。



区内最古の建長四年(1252年)の板碑群もあります。



延命寺から「志村城跡と熊野神社」に向かいます。

ポイント8 志村城跡と熊野神社

熊野神社は、長久三年(1042年)に志村将監が紀州熊野から勧請したと伝えられています。天喜年間(1053年〜1058年)に源頼義と義家が奥州追討の際に武運を祈り、境内に八幡社を祀りました。大正十三年に郷社に昇格し、志村七ヶ村の総鎮守として近郷住民の崇敬をあつめてきました。かつて此の地にあった志村城の二の丸跡に建立されています。

熊野神社由緒

一、御祭神 伊邪那岐命
      伊邪那美命
      事解男命

一、例祭日 九月十九日

後朱雀天皇の長久三年(1042年)、この地の豪族志村将監が紀州熊野より勧請したものと伝えられています。天喜年中、八幡太郎義家が父頼義と共に奥州追討のとき、武運長久の祈願をしました。康正二年(1456年)千葉隠岐守信胤が、西部に城砦を築き、城内鎮守として厚く崇敬しました。社殿西側の低地は本丸と二の丸との間にあった空壕の跡です。




鳥居を潜った先の左手に、志村城跡の石碑が建っています。

志村城跡と熊野神社

志村城は、志村氏によって築かれたとされる中世城館です。康正二年(1456年)に千葉自胤が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入城して、拠点となりました。本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ、「守るに易く攻めるに難し」といわれる堅城でしたが、大永四年(1524年)に北条氏綱に攻められて落城しました。熊野神社の位置する場所は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳と云われる築山の上に建てられています。当社は長久三年(1042年)、この地の豪族である志村将監が紀州から勧請したと伝えられてお り、千葉自胤が志村城の守護神に定めました。大永四年に千葉氏が滅亡した後は、志村七か村の総鎮守となり、江戸時代には志村の鎮守として近郷住民の崇敬を集めました。現在の社殿は昭和三十二年(1957年)に改築されたものです。社殿の西側には今でも空濠の跡を見ることができます。




熊野神社は、明治五年(1872年)に村社に列格し、大正十三年(1924年)には郷社になり、近隣町村の鎮守として祀られています。社殿は昭和三十二年(1957年)に、流造の建築様式に改築されています。古くからの本殿は奥の院といい、石造の小祠でした。この柱石には「長久三年(1042年)」と、熊野三山から神霊が勧請・奉斎された年が刻まれています。社殿が鎮座する築山は古墳であるといわれていて、後に経塚として利用されたと考えられます。明治三十三年(1900年)の改築の際には、塚から平安時代の松喰鶴文鏡と山吹文鏡の古鏡二面が発見されています。1800年代に刊行された「江戸名所図会」には、同じ場所から古鏡二面のほかに刀一振が発見されたが、祟りを恐れて埋め戻したという記載があります。



絵馬殿は旧拝殿を改修したもので、調査により江戸時代中期から後期に建築された入母屋造・銅板葺(元は茅葺)の建物であることが分かっています。18世紀半ば頃には、伊勢や熊野にお参りした際に、その様子を絵馬にして地元の氏神様に奉納する習慣がありました。絵馬殿には江戸時代から大正時代にかけて奉納された絵馬が80点以上飾られていて、板橋区の登録文化財となっています。中でも、寛政七年(1795年)奉納の「参詣図 伊勢太々神楽奉奏」は、板橋区最古の絵馬とされるものです。その他、絵馬殿には古い時代のお神輿や江戸時代に火消しに使われていた手押しポンプの「竜吐水」、水を運ぶ「玄蕃桶」なども保存されています。絵馬殿の中は誰でも自由に見ることができます。

志村熊野神社所蔵絵馬・扁額 付寄進札

当社所蔵の絵馬と扁額はその多くが江戸時代中期から大正期にかけて、地域住民により奉納されたもので、絵馬八十二枚、扁額九枚、寄進札四枚が現在奉納されています。絵馬には、参詣図や神話図、物語図など多様な画題がみられますが、特に注目すべきは伊勢太々神楽奉奏の様子を描いた寛政七年(1795年)の大絵馬です(110.5cm X 121cm)。伊勢太々神楽とは室町時代末期から江戸時代を通して、伊勢や熱田の大神宮の御師・社家の神前で奉納された神楽です。参宮者は祈願成就と参宮の証しとして、この神楽奉奏の様子を絵馬に描き、地元の氏神様に奉納しました。当社の寛政七年の伊勢太々神楽奉奏図絵馬は区内で最も古い絵馬であるとともに、同様の神楽奉奏を描いたものとしても最古級の絵馬です。現在、絵馬と扁額および寄進礼は絵馬殿内に架けられて保存されています。当絵馬殿は江戸時代中期から後期に建築された入母屋造の旧拝殿を移築(曳き屋)したもので、虹梁・肘木には繰り形彫刻の意匠が施されるなど、小規模ながら建立当時の大工技術や社寺建築の特徴が窺えます。志村熊野神社所蔵絵馬・扁額は当社に対する地域住民の信仰が明らかとなる資料として、平成二十一年度に板橋区登録有形文化財となりました。




絵馬殿内には、夥しい数の絵馬と扁額が展示されています。


樽の右下に「伊勢太々神楽奉奏図絵馬」が掛けられ、注釈が添えられています。


熊野神社の「鎮守の森」には、その土地本来の自然植生が残っています。自然植生はさまざまな種類の樹が混じり合い、共生することによって生命の循環が行われる本物の森です。

熊野神社の樹林

熊野神社一帯は中世城郭の志村城の比定地にあたり、樹林部分には空堀と土塁の跡も観察できる。樹木全体の面積は約千九百二十平方メートルとかなり広大な広さをほこる。昭和四十年十一月一日に「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」により「熊野神社内樹林」として指定された。武蔵野の面影を残す区内でも数少ない樹林のひとつであり、鳥居から社殿までの間には比較的常緑樹が多く、スダジイ、イチョウ、イヌシデ、ケヤキ、クスノキ等がみられ、社殿裏並びに西側の空堀を含む一帯にはケヤキ、イヌシデ、コナラ、アカメガシワ等の落葉樹の間にシロダモ、アオキ等の陰樹が生育しつつある。平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。




志村城跡と熊野神社から「富士大山道道標・庚申塔」に向かいます。熊野神社の隣に、かって「志村役場」が置かれていました。2021年に訪れた時は案内板が立っていたのですが、2024年に再訪した時は見付かりませんでした。東京聴覚障害者支援センターの敷地内にそれらしき石碑が見えたのですが、中に入れないために確認はできませんでした。

志村役場跡

この地には、大正二年(1913年)から昭和七年(1932年)までの二十年間、志村役場が置かれていました。現在の板橋区域は、明治十一年(1878年)に郡区町村編成法が公布されると北豊島郡に属することになり、さらに明治二十一年に市制及町村制の公布にともなって町村の統廃合が進められ、翌年五月の施行時には板橋町・上板橋村・志村・赤塚村の一町三ヶ村が成立しました。このうち志村は、志村・本蓮沼村・上蓮沼村・小豆沢村・前野村・中台村・西台村・根葉村の八ヶ村が合併したものです。志村の成立当初は、延命寺内に仮庁舎が設置されましたが、明治三十六年三月に火災で焼失してしまいました。これを機に、大字志の山上兼太郎所有地に庁舎を建設して執務にあたりましたが、事務量の増加で手狭となったことを理由に、大正二年十一月に当地へ西洋造木造瓦葺二階建の庁舎を新築して移転しました。この庁舎は、昭和七年に板橋区が誕生したことによって、役場としての役割を終えましたが、城山寮と名称を変えて、太平洋戦争による戦災者や海外引揚者などに宿泊場所を提供する社会事業施設として利用されていました。




ポイント9 富士大山道道標・庚申塔

清水坂は、旧中山道の最初の難所といわれ、志村の台地から荒川流域の低地に下る急坂でした。途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。名前の由来は、坂を下っていくと、街道の右側に大善寺があり、ここで八代将軍吉宗が鷹狩りの折り休憩した際、この崖からの湧き水の見事さに寺の本尊薬師如来を清水薬師と命名したことにより、やがてこの坂も清水坂と呼ばれるようになりました。



坂下に案内板が立っています。

清水坂

この坂は、江戸日本橋から京都方面へと向かう旧中山道の中で最初の難所とされています。慶安二、三年(1649年、1650年)に作成された絵図には「隠岐殿坂」とあり、文政十一年(1828年)に完成した「新編武蔵風土記稿」には、地蔵坂と記述されています。現在は、清水坂と呼ばれています。清水坂は、武蔵野台地上から荒川低地へ下っていく急坂で、途中で大きく屈曲しています。なお、ここは、荒川と富士山を一望できる名所の一つになっていました。坂の途中には、下板橋宿と次の蕨宿をつなぐ合の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがおかれ、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に、待機する場所となっていました。この周辺地域は昭和三十年代までは旧街道の面影をのこしていましたが、都営地下鉄三田線の開通など、都市化が進み、その姿を大きく変えました。




歩道には富士山を描いたタイルが埋め込まれています。



そんな清水坂の坂上の民家の前に、富士大山道道標と庚申塔が建っています。

富士・大山道の道標と庚申塔

富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山へ通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政四年(1792年)に建てられたもので、正面には「是より大山道(ならびに)ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(1860年)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬・柳沢(西東京市)・府中への距離が示されています。この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和五十九年度に板橋区の文化財に登録されました。




富士大山道道標・庚申塔から「薬師の泉庭園」に向かいます。

ポイント10 薬師の泉庭園

中山道(国道17号線)に面して、薬師の泉庭園の塀が続いています。中山道から入る木戸の前に「薬師の泉」と書かれた石柱が建っています。



木製の案内板が掛かっています。

薬師の泉

十五世紀末、この地に、農民新見善左衛門は聖徳太子作と伝える薬師如来を本尊として大善寺を開基した。後、八代将軍徳川吉宗遊猟の途中立寄り、清泉に因んで「清水薬師」と称すべしという。志村三泉の一つとも言われる豊かな湧泉は、中仙道を往来する旅人や江戸名所を訪ねる人々の信仰と憩いの場所として賑わった。大善寺は昭和初め総泉寺と併合し、総泉寺亀山荘庭園が築造されたが、戦中戦後荒廃した。この度、板橋区は、「江戸名所図会」にまで登場する水と緑の名所を現代に再生すべく、学術的検討をふまえて江戸の風情を復元整備した。




薬師の泉に隣り合った総泉寺は、当初浅草橋場(現在の台東区橋場)にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるといわれています。その後、武蔵千葉氏の帰依を得て、弘治年間(1555年〜1558年)に千葉氏によって中興されたとされています。佐竹義宣によって再興され、江戸時代には青松寺・泉岳寺と共に曹洞宗の江戸三箇寺のひとつでした。大正十二年(1923年)の関東大震災で罹災したため、昭和三年に現在の地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転し、その後合併して現在に至っています。大善寺は15世紀末の開山で、「江戸名所図会」にも載るほどの有名な寺であり、現在境内に残る薬師三尊(聖徳太子作と伝えられる清水薬師)は元の大善寺の本尊でした。八代将軍吉宗が鷹狩りの途中で大善寺に立ち寄り、境内の湧き水(薬師の泉)があまりに美味であったため「清水薬師」と命名したと伝わっていて、これが現在の地名である「清水坂」のいわれとされています。



庭園は高低差を活かした造りになっています。

薬師の泉庭園

「境内山の腰より清泉沸出」と「江戸名所図会」(江戸時代の地誌)の挿絵に描かれた薬師の泉は、かつてこの地にあった大善寺という曹洞宗寺院の境内にありました。江戸時代、八代将軍徳川吉宗が志村周辺で鷹狩りをした際、大善寺に立ち寄り、境内に湧き出す清水を誉めて、寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名したと伝わっています。この他にも、江戸時代の文献などには、薬師の泉や周辺の清水に関する記載が多く見られ、この地が古くから良質の水を産する土地であったことを物語っています。板橋区では、先の挿絵(下図)をもとに庭園整備を行い、平成元年十二月に「薬師の泉庭園」を開園いたしました。挿絵は、現在のあずまや付近から見下ろした境内の風景を描いています。画面左上に見える道は、中山道の清水坂です。泉の水は、中山道を通る旅人の喉も潤していたのでしょう。教育委員会では、この整備をうけて、同二年度、当庭園を記念物に指定しました。




薬師の泉は小さな池のようです。鯉も泳いでいますね。

「江戸名所図会」と薬師の泉

「江戸名所図会」は神田雉子町の名主、斉藤幸雄、幸孝、幸成ら三代が四十年の歳月をかけて天保七年(1836年)に完成した江戸風俗地誌。絵は長谷川雪旦の筆になり精(正?)確と評価されている。図中、左上が中山道清水坂、階段を下り細流の橋を渡ると大善寺境内、右手のお堂が清水薬師で参拝者も描かれている。崖下にひろがる池泉近くに湧出する清泉がある。これを地域の人々は「薬師の泉」と呼んで親しんできた。

清水薬師
清水坂
境内山の腰より
清泉沸出す
故に清水の号あり
此辺夏蘿葡(だいこん)を
名産とす
清水種とて
世に賞しはべり




薬師の泉庭園から「御手洗不動」に向かいます。

ポイント11 御手洗不動

小豆沢(あずさわ)公園の崖下に小さな祠が祀られています。

御手洗池(御手洗不動旧跡)

御手洗池は、江戸中期に江戸周辺で爆発的に流行した富士・大山詣の道者たちが、旅立ちにあたって心身を浄め、水垢離をした禊場で、かたわらには石造の不動尊がおまつりされていました。ところが、明治以降鉄道などの交通機関が発達して手軽に富士・大山詣ができるようになると、この禊場は利用されなくなっていき、やがて荒廃していきました。昭和三十七年、不動尊は龍福寺の山門脇に建立された不動堂へ奉遷されました。近年地元の方が雑草を刈るなどの整地を行い、御手洗池を復元しました。その際、池のかたわらには新たにお堂を建立し、金銅の不動尊と聖観音をおまつりしました。この御手洗池は龍福寺の秘仏薬師如来が出現したという伝説がある池です。また、古くはここの水が眼病に霊験があると信じられ、眼を病んだ人々が訪れていたといいます。




復元された御手洗池です。



御手洗不動から「水上バス小豆沢船着場」に向かいます。

ポイント12 水上バス小豆沢船着場

水上バス小豆沢船着場のあるこの場所は、昔は小豆沢河岸と呼ばれ、船運の要所として賑わったところです。現在は隅田川・荒川・臨海部をむすぶ水上バスの発着所となっていて、葛西臨海公園や両国へ船の旅を楽しむことができます。



新河岸川の小豆沢から隅田川を通って、東京湾に面した葛西臨海公園まで行くんですかぁ。



かっては、この場所に新河岸川の対岸の浮間に渡る渡船場がありました。

小豆沢河岸と浮間の渡船場

小豆沢という地名は、文政十一年(1828年)に完成した「新編武蔵風土記稿」の記事によると、平将門が活躍した頃に、小豆を積んだ船が、当地にあった「七子崎」という入江に沈んだことにちなみ、付けられたといわれています。このように小豆沢河岸から舟渡にかけての荒川右岸沿いには、古くから港入江が広がり、水上交通の要所となっていました。また、近くを通る中山道などの陸上交通網との結節点にもなっていました。江戸時代以降、小豆沢河岸は荒川舟運の河岸として、主に近接地で生産された大根を積み出していたことから、大根河岸とも呼ばれていました。また、志村の名主を務めた大野家に伝わる史料(大野和夫家文書)によれば、小豆沢村近隣の東叡山(寛永寺)領であった志村・蓮沼村から寛永寺へと運ばれる「御用物」の積み出し場としても使用されていました。大正三年(1914年)の東上鉄道(現 東武東上線)の開通によって、荒川舟運の機能は大きく低下しましたが、砂取り船や肥船の舟運は続きました。また、大正年間から始まった新河岸川の開削工事は、昭和五年(1930年)頃には終了し、現在の東坂下二丁目十八番付近で元の荒川河道に結ばれ、小豆沢河岸に面する流路は新河岸川となりました。同四十八年に新河岸川に護岸壁が整備されると、昔の小豆沢河岸の跡は見られなくなりまし た。また、このころまでには河岸の目印にもなっていた赤芽柳(写真)も姿を消しました。浮間の渡船場は、江戸時代に荒川右岸の豊島郡小豆沢村と、左岸の足立郡浮間村(現北区)を舟で行き来した渡し場であり、その位置はここから約二百メートル下流部分に置かれ、川幅は四十間(72メートル)でした。渡船場の起源などは不明ですが、小豆沢二丁目三十六番に立つ延享年間(1744年〜1747年)の庚申塔に、道しるべとして「北 あづ沢わたしハ(小豆沢渡場)」と刻まれており、呼称は一定していないものの、すでに十八世紀半ば頃には利用されていたことがわかります。「新編武蔵風土記稿」には、「船渡シアリ、コレハ農民耕作ノ往来二備へシノミナリ、サレド此事アルヲ以テ近キ宿駅へ助ノ人馬ヲ出スコトヲ許サルルト云」とあり、近在の農民が耕作を行う時の往来に利用していたこと、また浮間村がこの渡船場を管理することで、板橋宿などへの助郷人馬を出すことが免除されていたことがわかります。また、浮間、戸田などの荒川の氾濫原は、江戸時代から桜草の名所として知られており、春になると赤羽方面から人々が訪れ、渡船場を利用して浮間原へと桜草見物に行きました。このように浮間の渡船場は、長い年月にわたり利用されてきましたが、昭和三年(1928年)に浮間橋の完成により廃止されました。なお、対岸の北区浮間三丁目六番先には、「浮間の渡船場跡」と「浮間渡船場跡の供養塔群」の案内板などがあります。




水上バス小豆沢船着場から「龍福寺」に向かいます。

ポイント13 龍福寺

龍福寺は、室町時代末に袋町の真頂院の住職運珍和尚が創建したと伝わる真言宗の寺院です。境内には、平安時代に台地下にひろがっていた七々子崎という入江で発見されたとの縁起をもつ薬師如来が祀られています。建長七年(1255年)の板碑など数基の板碑があって、「板碑の寺」として有名です。

龍福寺

御本尊は大日如来。宗派は真言宗智山派。薬王山東光院龍福寺と号しています。本寺は室町時代末に袋村の真頂院(北区赤羽三丁目)の僧運珍が隠居寺として創建したのに始まるといわれています。その後の寺歴については不明ですが、十九世紀初頭の「新編武蔵風土記稿」に末寺として興隆寺や教性院があげられているので、この頃には寺勢を誇る寺となっていたことがわかります。本寺に伝わる「薬師縁起」には、薬師堂に祀られている薬師如来(秘仏)が、天長年間(824年〜834年)に台地下の七々子崎と呼ばれる荒川の入江で発見されたことや、小豆沢の地名が、平将門への貢物を積んだ舟がここで沈み、その際積荷の小豆が流出したことに由来していることが書かれています。本寺には、かつて二十余基の板碑があって、板碑寺とも呼ばれていましたが、先の大戦の空襲により半数以上を失い、現在では九基が残るのみです。そのうち建長七年(1255年)の板碑は昭和五十八年度に板橋区の指定文化財となり、残りの八基は平成二十七年度に登録文化財となりました。なお、本寺は豊島八十八ヶ所霊場の第八十六番札所となっています。




板碑は境内の隅にまとめて置かれています。中央の一番大きい板碑の正面には、「建長七年・・・」という建立年が書かれています。



薬師堂には、薬師如来が祀られているそうです。



龍福寺は、豊島八十八ヶ所霊場の第八十六番札所となっています。



猫ちゃんも冬の日差しを満喫しています。



龍福寺から「小豆沢神社」に向かいます。といっても、龍福寺と隣合わさっていますが。

ポイント14 小豆沢神社

小豆沢神社の創建年代は不詳ですが、一説には康平年間(1058年〜1065年)に源義家によって勧請されたといわれています。江戸時代は「十二天社」と呼ばれていて、小豆沢村の鎮守でした。明治二年(1869年)に「小豆沢神社」に改称されました。

小豆沢神社とスダジイ

御祭神 国之常立神(くにのとこたちのかみ)
    他十六柱

当社は、康平年間(1058年〜1065年)、源義家の勧請と伝えられます。江戸時代には、十二天社と呼ばれ、小豆沢村の鎮守でした。小豆沢の地名の由来については、

一、
平将門の時代、神社の台地下の入江(荒川の昔の河道)に停泊中の船が嵐に遭い、小豆を積んだ袋を流失した。
二、
上流から漂着した米を腐らないうちにと食べたことを、裁判で評価され、祝いの小豆飯を炊いた。


という二つの故事が残ります。現在では、後者の故事に因み、毎年六月一五日に餅つき祭が執り行われています。明治二年(1869年)、社号を小豆沢神社に改め現在に至っています。二の鳥居脇の「スダジイ」は、当社の御神木です。南の道路側へやや傾斜し、幹の内部が空洞化していますが、樹勢は良好です。天然記念物として、平成六年度、区の記念物に登録されました。




二の鳥居脇に、天然記念物に指定されたご神木のスダジイが聳えています。



社殿は志村古墳群を構成する「小豆沢観音塚古墳」の上に建っています。昭和の改築前は、もっと古墳の原型を保っていたといわれています。



社殿の左側には末社神社が並んでいます。左から天満宮、諏訪神社、御嶽神社、稲荷神社、水神宮二社です。



天満宮の左横に金ぴかの蛙が祀られています。「復興(幸福)カエル」と名付けられ、平成二十三年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災で被害を受け、故郷を離れて避難生活をしている人々が板橋区内にも大勢いるので、一日でも早く故郷に戻って幸福な生活を送れるようにと祈願されて製作されたものだそうです。

復興(幸福)カエル

東日本大震災が平成二十三年三月十一日(2011年)に発生しました。この震災で多くの皆さんが被害をうけて故郷をはなれて、避難生活をされています。板橋区内にも、避難生活をされていらっしゃる皆さんが、おおぜいいらっしゃいます。避難生活をおくっていられる皆さんが、一日でも早く、故郷にもどられ幸福な生活をおくれますように、ご祈願もうしあげます。あわせて、子供さんはじめ、皆さん、世界中の人々が、平和で幸福に暮らせますよう心をこめて制作しました。皆様のおもいが、かないますよう、手を合わせてお参りください。




社殿の右側には榧の巨木が聳えています。最高級の碁盤は、例外なく榧から切り出されています。この榧の木が碁盤の材料になることはないでしょうけど。



小豆沢神社から小豆沢公園沿いに「戸田橋親柱」に向かいます。

ポイント15 戸田橋親柱

小豆沢公園の端っこに、かっての戸田橋の親柱が移築されています。

戸田橋

戸田橋親柱は、昭和七年(1932年)から昭和五十三年まで荒川にかかっていた三代目戸田橋の板橋区側に設置されていた親柱の遺構です。江戸時代の中山道は、荒川を渡し船で渡っていましたが、明治八年(1875年)通行料をとる橋として、初代戸田橋が架けられました。大正元年(1912年)には、路面を土で固めた木製土橋の二代目に架け替えられました。大正十二年の関東大震災を受け二代目が老朽化すると、昭和七年、三代目戸田橋が竣工されました。長さ528m、幅11m、近代的なトラス構造の鉄橋で、位置は二代目から約100m上流側に建設されました。昭和二十六年からは橋のたもとで納涼花火大会が開催されるようになり、昭和三十九年の東京オリンピックでは、聖火ランナーがこの橋を渡るなど、近現代の板橋区を見守り続けた橋でした。昭和五十三年、現在の四代目戸田橋が完成し、三代目は解体されましたが、橋の顔であった親柱は移設保存されることになり、板橋区側の二基は当地に保存されることになりました。なお戸田市側の二基は戸田市親水公園に移設され、戸田市指定有形文化財になっています。親柱の構造は、花崗岩と御影石を積み上げ、磨き仕上げで、目地はモルタル詰め、柱内部は空洞になっていると推定されます。正面に「東京府」「戸田橋」、背面に橋の来歴を記した鋳造銅製プレートが付設されています。下段石積みの面取り加工や、石積み中段下部に曲線と直線を混合させたアール・デコ調の石造彫刻など、ディティールにこだわった意匠とデザインが特徴的です。橋の構造的には機能を持たない親柱に意匠とデザインを施すことで、橋を象徴するような上品かつ重厚な印象をもたらした設計者の意図が感じられます。照明器具や柱頂部などの造作物は、移設時の復原と考えられますが、当初の形状に倣って造られており、架橋当初の様子に近い形を伝えています。戸田橋親橋は、関東大震災後、都市化する東京の北の玄関口として架橋された戸田橋の貴重な遺構であり、板橋区の発展とともに歩んできた近代化遺産であることから、平成二十三年度に板橋区登録有形文化財となりました。




何度見ても美しいですね。



左側の親柱の背面に戸田橋の歴史をまとめたプレートが埋め込まれています。

戸田橋は、東京市板橋區と埼玉縣北足立郡戸田村との境を流下する荒川に架設す。本橋は明治八年、長野縣人正木哲・戸田の住人永井吉右衛門と合信社を組織し、賃取橋として架設せられたるを?矢とし、越えて同二十九年許可當時の條件に基き、埼玉縣に移管し直接維持管理し来りたるが腐朽漸く、甚敷を以て之が架換を計(画)し、東京府と協議を遂け、工費を均等負(担)として、大正元年長七十一間幅三間の木造土橋を架設せられたり。大正九年、道路法の實施と共に本橋亦國道九號線の道路付屬物となり、埼玉縣に於て管理する事となりたるも、架橋以来十數年の星霜を?し橋齢古く、世運の進展に伴ふ交通量の激増と重量交通用具の普及発達と、加ふるに頻牛蒙る水災に依り、交通上の安固期し難く、且又荒川改修に伴ふ河幅の(拡)大等の為め、本橋改築の機運を醸成し、東京埼玉両府縣協調成り、内務省の援助を受け、工費は両府縣の折半負(担)とし、國庫より三分之二の補助を仰ぎ、起工に決し、位置を?橋の上流約百米に移し、昭和四年四月十三日工事に着手し、同七年十月十日竣工したり。而して本橋の概要を示せば次の如し。

以下略




戸田橋親柱から「志村一里塚」に向かいます。

ポイント16 志村一里塚

徳川家康は、慶長九年(1604年)に諸国の街道整備のために秀忠に命じて江戸日本橋を起点とする全国の街道沿いに一里(約4km)毎に一里塚の整備を命じました。それ以来、旅人にとっては道のりの目安や、塚に植えられた榎などによる木陰が休憩場所となりました。しかし、明治時代になると永年の風雨などによる劣化や、鉄道の発達などによる交通体系の変化により荒廃が進み、明治九年(1876年)には「一里塚廃毀」の法令が出され、全国的に取り壊しが進んでいきました。志村一里塚は中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、明治以降多くの一里塚が消滅するなか、今日でも2基一対で残っている一里塚は全国的にも大変少ないものです。現在は国の史跡に指定されています。



昭和に入ると、中山道の下板橋から戸田橋までの道幅を25m(含歩道)に拡幅・改修する工事が開始され、昭和八年に完成しましたが、もともと志村一里塚は中山道からやや離れた位置に築かれていたため、拡幅工事による影響は受けませんでした。ちなみに、板橋区にもうひとつある西ヶ原の一里塚も、大正時代に東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。しかし、渋沢栄一や滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功し、今も変らぬ姿を見せています。

志村一里塚

江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604年)二月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(4km弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830年)の「新編武蔵風土記稿」では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治九年(1876年)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和八年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正十一年(1922年)に国の史跡に指定され、昭和五十九年に板橋区の史跡に登録されました。




板橋十景の石碑を発見!



一里塚の片方に隣り合って、何やら古ぼけた家屋が建っています。

齋藤商店

齋藤商店は、欅を主に扱う原木商として明治二十二年(1889年)に当地で創業しました。現在は竹材を主とし、箒や笈などの竹製品も商っています。現在の建物は、昭和八年(1933年)の中山道(現:国道十七号線)の拡張工事に伴って新築されたものです。建物全体は、店舗部分と住居部分が一体となっており、下屋庇を廻したL型平面の入母屋造桟瓦葺の平屋に二階部分を載せた複雑な構造となっています。築材には国産材を使っており、また宮大工が建てたとも伝わりますが、大工の名前などは不明です。建物の外観には、破風を各所に見せる複雑な屋根の構成や、二階の窓の手すりに高欄風の反りを持たせるなどの意匠が見られます。さらに外壁には真壁漆喰塗りが施されています。齋藤商店は、郊外の独立住宅の趣を呈する区を代表する近代和風建築であり、近接する志村一里塚(大正十一年国史跡)と一体化した町のランドマークとしても親しまれています。また、平成四年には「活き粋いたばしまちなみ景観賞」にも選ばれています。齋藤商店は、区の歴史や文化に関係が深く、また、意匠的、技術的にも優秀であることから、区の建築史を明らかにするうえで重要な建造物です。平成二十四年度に登録文化財となりました。




竹籠も売られていますね。



ゴール地点の志村坂上駅に着きました。



ということで、板橋区で五番目の「志村散策コース」を歩き終えました。次は、板橋区で最後の「板橋散策コース」を歩きます。




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