D板橋散策コース  

コース 踏破記  

今日は板橋区で最後の「D板橋散策コース」を歩きます。板橋駅をスタート地点として、近藤勇墓碑に参拝後、旧中山道の板橋宿を余すところなく巡ります。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年7月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

D板橋散策コース

江戸日本橋から二里半、かつて中山道の宿場として栄えた板橋宿があるエリア

「D板橋散策コース」の歩数は約6,429歩、歩行距離は約4.5km、歩行時間は約67分、消費カロリーは約201Kcalです。

スタート地点:JR埼京線板橋駅東口
ポイント 1 近藤勇の墓
慶応四年(1868年)、流山で捕らえられた新撰組局長の近藤勇は、当時板橋宿に置かれていた新政府軍の本陣に送られ、その後処刑されました。このお墓はその近く、現在の板橋駅東口前に立てられています。
ポイント 2 加賀公園
江戸時代、このあたり一帯には加賀藩前田家の下屋敷があり、その広さは21万7千坪余りにものぼりました。この公園は屋敷内庭園にあった築山の跡です。明治から終戦までは、この地に火薬を製造する板橋火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所)がありました。
ポイント 3 東光寺
室町時代の創建と伝わる浄土宗寺院です。境内には、青面金剛のみごとな彫刻がほどこされた寛文二年(1662年)の庚申塔や、江戸時代に平尾一里塚上にあったと伝わる石造の地蔵菩薩座像、明治時代になって板橋に移り住んだ子孫が建てた戦国時代の武将宇喜多秀家の供養塔があります。
ポイント 4 観明寺
室町時代の創建と伝わる真言宗寺院です。本尊の聖観音立像は12世紀頃の作と考えられています。境内には、寛文元年(1661年)の庚申塔や、加賀藩下屋敷から遷されたといわれる稲荷社と赤門があります。
ポイント 5 平尾宿脇本陣跡
板橋平尾宿の脇本陣豊田家の屋敷跡、豊田家は代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねました。近藤勇が処刑までの間監禁され、また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが逗留したこともあります。
ポイント 6 板橋三丁目縁宿広場
ポイント 7 いたばし観光センター
ポイント 8 遍照寺
ポイント 9 板橋宿本陣跡
代々新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡です。参勤交代で通行した大名や幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩しました。
ポイント10 文殊院
江戸時代前期、延命地蔵を祀るお堂を寺院としたと伝えられている真言宗寺院です。本尊の文殊菩薩坐像は寛文年間(1661年〜1673年)の作と伝えられています。板橋宿本陣を勤めた飯田家の菩提寺で、墓地には、飯田静の墓や宿場の飯盛旅龍の一つ「大盛川」の墓などがあります。
ポイント11 中宿脇本陣跡
代々宇(卯)兵衛を世襲し、板橋宿中宿の名主を務めた脇本陣飯田家の屋敷跡。幕末には14代将軍家茂へ降嫁する和宮が宿泊し、また明治初年に大宮氷川神社に行幸する明治天皇が休憩しました。
ポイント12 板橋
旧中山道の仲宿付近、石神井川にかかる橋です。板橋の地名の由来になったとも言われています。「延慶本平家物語」などの文献にも「板橋」の名は見られ、鎌倉時代にはすでに地名にもなっていたと考えられています。花見の頃になると石神井川の上流から下流まで、桜の花が咲き誇ります。
ポイント13 縁切榎
江戸時代から板橋宿の名所として名高かったのがこの縁切榎です。「悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれる」と言われ、庶民の信仰を集めていました。
ポイント14 智清寺
ポイント15 日曜寺

ゴール地点:都営地下鉄三田線板橋本町駅出入口A3


スタート地点の板橋駅東口から歩き始めます。


ポイント1 近藤勇の墓

板橋駅と道路を挟んだ反対側に小さな広場があり、ポイント1の「近藤勇の墓」が建っています。近藤勇と新撰組隊士供養塔が建つこの広場は、寿徳寺の境外墓地になります。新選組隊長だった近藤勇は、慶応四年4月25日に板橋平尾宿にあった一里塚で斬首の刑を受け、首は京都三条河原にさらされ、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬されました。墓碑は近藤勇・土方歳三の他、殉死した隊士の供養のために新選組隊士の永倉新八が発起人となり、旧幕府典医松本順(良順)の協力を得て明治九年に建てられました。側面には110名の新選組に関わった人々の名が刻まれています。 菩提寺である寿徳寺と「近藤勇と新選組隊士の墓保存会」は、近藤勇の命日にあたる4月25日またはその直前の日曜日に墓前供養祭を行い、4月29日には、地元の商店街等が滝野川新選組まつりを行い、地元の人を中心に多くの人々が訪れます。

東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
近藤勇と新選組隊士供養塔

慶応四年(1868年)四月二十五日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。本供養塔は没後の明治九年(1876年)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 ¥ケ 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宜が昌宜とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 發起人 旧新選組長倉新八改瘻コ義衞 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。




近藤勇・土方歳三・永倉新八の肖像画も掲示されています。



近藤勇の銅像も建っています。その後ろには埋葬当初に使われた墓石も置かれています。そこまでしなくても。。。



墓地の奥にひときわ高い慰霊碑があります。明治七年に官軍に抵抗した側の死者を祀ることが許され、それを受けて明治九年に建てられました。生き延びた永倉新八が発起人になり、書は松本良順のものです。正面に「近藤勇宜昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれています。しかし、近藤勇の名は「昌宜(まさよし)」で、碑には逆に書かれています。



慰霊碑の左手前に永倉新八の墓が建っています。永倉新八は、杉村家に婿養子に入って北海道小樽市で暮らし、大正四年1月5日に77歳で亡くなります。墓は小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、そしてここ板橋駅前の墓と分骨されています。板橋駅前のこの墓は、昭和四年にこの墓所の大改修に合わせて長男の杉村義太郎が建立したものです。正面の「新選組永倉新八之墓」の書は、杉村義太郎と繋がりのあった蜂須賀正韶侯爵(阿波徳島藩最後の藩主の長男で徳川家と縁戚)が書いています。



近藤勇の墓から「加賀公園」に向かいます。中山道に面した板橋駅西口広場に欅の巨木が聳えています。仲宿にある「縁切榎」は「悪縁を切って良縁を授かる」とされていますが、「縁切榎で悪縁を切って、むすびのけやきで良縁を授かる」という願いを込めて「むすびのけやき」と名付けられたのだそうです。



ポイント2 加賀公園

加賀公園は、加賀藩前田家の下屋敷内庭園にあった築山の跡地に造られました。明治時代から終戦までは、此の地に火薬を製造する板橋火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所)がありました。

加賀藩前田家の下屋敷跡

江戸時代、中山道の板橋宿の東側に21万坪という広い敷地の加賀藩前田家の下屋敷がありました。本公園は、その下屋敷の跡地に作られています。




公園の中に、公園の歴史を記した案内板が立っています。

加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜

江戸時代に成立した参勤交代制度により、大都市江戸には日本各地から多くの大名が集まり、その家族や藩士、奉公人などとともに日常生活を送っていました。そして、各大名に対しては、将軍より屋敷地が下賜されました。延宝八年(1680年)の段階で、加賀藩前田家は本郷邸(現:東京大学周辺)を上屋敷に、駒込邸を中屋敷(現:本駒込六丁目周辺)に、板橋宿に面する平尾邸(現:加賀二丁目、板橋三・四丁目周辺)を下屋敷に定めています。上屋敷は藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は隠居した藩主などの住居に利用されました。下屋敷の平尾邸は、約二万八千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷でした。邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が展開してい ました。その規模は本国金沢にある有名な大名庭園、兼六園の約七倍の広さがあります。平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、かれらが保養や散策に訪れ、時には鷹狩や花火などが行われました。また、幕末には園遊会も催され、その席に招かれた松平容保をはじめとする会津藩の人びとは、邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ」と表現しています。なお、当邸が中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場としても利用されました。また、その家族や家臣による送迎の場にもなっていました。邸内には与力を筆頭に50人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理していました。彼らは代々平尾邸に在番し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地域の名主などの娘と婚姻関係を結ぶ人もいました。なかには板橋宿の寺子屋の師匠として、地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られます。幕末になると、加賀藩も世情の影響を受け、邸内でオランダ式ゲベール銃を使った調練を実施しています。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っています。明治期以降には、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用し火薬を製造する、板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠)となります。なお、現在、平尾邸の面影は、わずかにここ加賀公園に残る築山の一部だけとなっています。




案内板の隣に、ステンドグラスを飾った記念碑が建っています。

板橋区と金沢市との友好交流都市協定締結記念

板橋区は、平成二十年七月九日の金沢市との友好交流都市協定締結を記念し、加賀藩江戸下屋敷の築山にあたる加賀公園に、この記念碑を設置しました。モデルとしたのは、金沢のシンボルともなっている尾山神社神門第三層のステンドグラスです。

尾山神社 神門

尾山神社は、加賀藩祖前田利家公並びに、その夫人お松の方を奉斎する神社で、二代藩主前田利長公が、慶長四年十二月に金沢城の鬼門にあたる卯辰山麓に、利家公の霊を祀る卯辰八幡社を建立したのが始まりとされています。その後、金沢市の中心部にあたる現在地(石川県金沢市尾山町十一番一号)の旧金谷御殿跡に、明治六年社殿が新設され、神霊を遷座し社名も尾山神社と改められました。国の重要文化財として指定されている尾山神社の神門は、社殿造営後の明治八年に建立されました。和漢洋の三洋式を混用した異色の門として早くから全国に知られ、兼六園と共に金沢のシンボルともなっています。オランダ人ホルトマンの設計との説もありますが、棟札によると、建築総管は藤田貴知であり、工匠長は津田吉之助とあります。第一層には戸室石、俗称加賀花崗岩を用いてあり、第三層は四面五色のギヤマン張り(ステンドグラス)で、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する帆船の目標とされたものです。なお、第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものと言われています。




公園の外周に沿ってコンクリート敷の通路が延びています。かっての線路の跡だそうです。

電気軌道(トロッコ)線路敷跡

区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。軌道は、北区十条の銃包製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治三十八年(1905年)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治四十年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正十二年(1923年)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。なお、板橋火薬製造所は昭和十五年(1940年)に東京陸軍第二造兵廠(二造)に改組されています。また、この軌道は幅が750mmの珍しいもので、そこを走る電気機関車は、その車体の形状から「だるま電車」とも、走りながら鐘を鳴らしたことから「チンチン電車」とも呼ばれていました。




石垣の上にコンクリートの塊が乗っています。戦前には、弾丸の標的に使われていたのだそうです。

弾道検査管(爆速測定管)の標的

区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和十五年以降は東京第二陸軍造兵廠=二造)内におがれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径68.6mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。これば、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前の二造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。戦後、旭化成などの創業者である野口遵が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。




加賀公園から「東光寺」に向かいます。

ポイント3 東光寺

東光寺は、室町時代の創建と伝わる浄土宗寺院です。境内には、青面金剛の見事な彫刻が施された寛文二年(1662年)の庚申塔や、江戸時代に平尾一里塚上にあったと伝わる石造の地蔵菩薩座像、明治時代になって板橋に移り住んだ子孫が建てた戦国時代の武将宇喜多秀家の供養塔があります。

東光寺

御本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい)
宗派  浄土宗(じょうどしゅう)
丹船山薬王樹院(たんせんざんやくおうじゅいん)

創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳三年(1491年)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現、板橋3−42)あたりにありましたが、延宝七年(1679年)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。境内には、昭和五十八年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文二年(1662年)の庚申塔と平成七年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養の為に建立した宇喜多秀家の墓などがあります。




左が寛文二年の庚申塔、右が石造地蔵菩薩坐像のようです。



宇喜多秀家の墓のようです。この頃iPhoneのカメラの調子が悪く、暗くて文字が判読できませんでした。



東光寺から国道17号線(中山道)に出て、斜め右方向に延びる旧中山道に入り、「観明寺」に向かいます。ところで、中山道を「中仙道」と表記することがありますが、両者はどう違うのでしょうか?初めて中山道六十七次が定められた時は「山」と「仙」は特に統一されていませんでした。正徳六年(1716年)、当時の学者・新井白石が道中奉行に、「東海道は海岸を通るから海道でよいが、中山道は東山道のうちの中筋の道であり、古来、東山道、山陰道、山陽道と読んでいるから、山の字である中山道を使用するように。」と命じたことの背景があり、公式に中山道と書くようになったと言われています。江戸時代、旧中山道には板橋宿が置かれました。板橋宿は日本橋から北へ向かう中山道第一番目の宿場でした。東海道・品川宿、日光街道・千住宿、甲州街道・内藤新宿とならび、江戸四宿に挙げられていました。中山道を京方面から下ってきた人や荷物はここから江戸市中に入り、京方面に上る人や荷物はここから中山道へ旅立って行きました。宿場は南から平尾宿・中宿・上宿で構成され、本陣が一軒、脇本陣が三軒、五十四軒の旅篭屋がありました。



ポイント4 観明寺

観明寺は、室町時代の創建と伝わる真言宗寺院です。本尊の聖観世音菩薩像は12世紀頃の作と考えられています。観明寺には、板橋七福神の恵比寿神が祀られています。明治六年(1873年)、当時の住職が宿場に旧来の活気を取り戻そうと、成田山の不動尊を勧請して縁日を開き反映しました。不動通り商店街の名前は観明寺の不動尊に由来します。



境内の入口横には、寛文元年(1661年)に建立された庚申塔があります。

観明寺と寛文の庚申塔

当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338年)と伝えられていますが、不明です。「新編武蔵風土記稿」には、延宝五年(1677年)十月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。明治六年、当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勘請しました。現在も、出世不動と呼ばれて親しまれています。なお、不動通りの名称は、このお不動様に由来します。境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661年)八月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和五十八年度に板橋区の指 定有形文化財になりました。




境内の豊川出世稲荷社と赤門(通用門)は、加賀藩下屋敷から遷されたものです。



観明寺から「平尾宿脇本陣跡」に向かいます。

ポイント5 平尾宿脇本陣跡

平尾宿脇本陣は、板橋平尾宿の名主である豊田家の屋敷に置かれました。幕末には、流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇が処刑されるまでの間この屋敷に幽閉されていました。また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが江戸に入る前にここにとどまり話題となりました。脇本陣は、本陣の役割を補うための重要な施設で、此の地はその役割を担っていた豊田市右衛門の屋敷跡です。近藤勇がここへ連行された時、本陣には新政府軍が駐留していました。現在はマンションが建ち、かつての面影はありませんが、通り沿いに石碑と案内板が設置されています。

板橋宿平尾脇本陣豊田家

豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正十八年(1590年)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の「玄関(ゲンカ)」と呼ばれていました。文政四年(1821年)、当時平尾に住んでいた俳諧師匠の加藤曳尾庵は、日記風随筆「我衣」を記しました。その中には、中山道を経由して江戸での興行に向かっていたペルシャ産のラクダが、当家の奥庭に引き入れられている記事があります。曳尾庵はラクダのスケッチとともに、江戸周辺の多くの人びとが、その姿を一目見ようと当家に押しかけた様子を記録しています。幕末から明治にかけての当主である喜平次は、煎茶道に傾倒し、「鉄蕉(ソテツの異名)」の号を持つ茶人でした。煎茶道具のコレクションを中心とした「脇本陣豊田家資料一括」は平成八年度に区登録有形文化財となっており、文化サロンとして賑わっていた宿場の姿を伝えています。慶応四年(1868年)四月、下総国流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されますが、それまでの20日間、この豊田家に幽閉されていました。




平尾宿脇本陣跡から「板橋三丁目縁宿広場」に向かいます。

ポイント6 板橋三丁目縁宿広場

板橋三丁目縁宿広場の園内に立てられた高札板には、いたばし観光ボランティア「もてなしたい」が作成した中山道六十九次の宿場紹介や区内の街角情報のパネルが掲示されています。



板橋宿の紹介パネルも掲示されています。

中山道板橋宿と加賀藩前田家下屋敷

中山道は江戸時代における五街道の一つで、東山道の内の中筋の道であるという意味でこの名がついたと言われております。仲仙道や中仙道とも表記しますが、正徳六年(1716年)、徳川幕府は公的に中山道と名称を統一しています。江戸の日本橋を起点とし、東海道に合流する草津宿まで129里(約508km)あり、その間に67箇所の宿場が置かれていました。その一番目の宿場が「板橋宿」で、現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県を通っています。

※中山道六十九次と言われるのは、草津宿と大津宿を東海道と共有していたとの考え方からです。

中山道板橋宿の北に位置する加賀藩下屋敷は、江戸時代の延宝七年(1679年)2月、同藩五代目の前田綱紀が、四代将軍徳川家綱から6万坪を拝領したことに始まります。その後数回の替地拝領を経て、最終的に総面積は21万7千坪余り(地図に示した範囲)となり、前田家の参勤交代途中の休息や狩猟、散策などに利用されました。この歴史的なつながりから、板橋区と金沢市は様々な交流を深めており、更なる友好関係の発展を目的に、平成二十年7月9日に「友好交流都市協定」を締結しました。なお、この締結を記念し、加賀藩下屋敷の山にあたる現在の加賀公園に、金沢のシンボルともなっている尾山神社神門第三層のステンドグラスを模した記念碑(右図内写真)が設置されました。




謎解きもありますね。問題が分からないので何とも言えないのですが、「中山道算学奇談」を読めば問題が載っているかも。



板橋三丁目縁宿広場から「いたばし観光センター」に向かいます。

ポイント7 いたばし観光センター

いたばし観光センターでは、区内の名所・旧跡など、板橋の魅力をPRする観光パンフレットの配布や観光グッズの販売、パネル展示などを行っています。また、いたばし観光ボランティア「もてなしたい」による区内観光ガイド(無料)も行っています。



いたばし観光センターから仲宿に入ります。



仲宿に入った直ぐ先の右手に、古風な外観の商店があります。

板五米店

板五米店は、整備工事の際に発見された棟札の銘文から、大正三年(1914年)に、当主の川口角太郎が地元の棟梁である市川寅吉らに依頼し、建てられたことが判明しています。開店当初の店名は「田中米店」で、その後「板五食料販売所」、さらに「板五米店」と改められています。現在は米屋としての営業は行われておらず、飲食店として使用されています。板五米店は、中山道の街道に面して立地する町家の系譜を引いた、道路側に下屋庇(げや・ひさし)をもつ土蔵造町家(どぞうづくり・まちや)であり、店舗部分と住居部分によって構成されています。近世町家に煉瓦の袖卯建(そでうだつ)が配されるなど、和風建築に洋風の意匠(いしょう)が加味された、近代の息吹を感じさせる建造物です。板五米店の大きな特徴は、袖卯建を大規模にしたような煉瓦造の左右の妻壁が軒高まで建ち上がっている点です。ここに両妻の煉瓦壁が倒れるのを防止するための引張鉄筋(テンションバー)が数カ所に設けられ、調整用のタンバックルが付されています。




店名はお米屋さんになっていますが、お握りやお弁当の販売が主なようです。お値段はややお高めですが、お客さんがひっきりなしに来店していますので味は本物なのでしょう。



お握りに惹かれつつ、「遍照寺」に向かいます。

ポイント8 遍照寺

遍照寺の創建年代は不明ですが、寛文二年(1662年)に寂の慶雲が中興したとされていることから、江戸時代初期には既に存在していたと推測されています。創建当時は天台宗の寺院で、山号も「大日山」でした。江戸時代は板橋宿の「馬つなぎ場」でもあり、多くの馬が常備されていました。明治時代の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、明治十四年(1881年)に成田山新勝寺系の講「成田山新栄講」により「旭不動堂」となりました。戦後、昭和二十二年(1947年)に真言宗智山派の寺院として復活し、山号も「成田山」となりました。

遍照寺

江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院でした。明治十四年(1881年)に旭不動堂と称して成田山新栄講の道場に、昭和二十二年(1947年)真言宗寺院となり、現在は千葉県成田山新勝寺末寺となっています。中山道沿い、板橋宿内に所在し、境内は宿場時代の馬つなぎ場として活用され、幕府公用の伝馬に使う囲馬や公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがつながれていました。境内にまつられる寛政十年(1798年)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめています。加えて絵馬五十点を所蔵し、区内有数の所蔵点数を誇っています。なかでも馬の絵柄の絵馬が最も多く、遍照寺と馬のゆかりの深さを物語っていると考えられます。また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の描いた、明治期の板橋遊廓千代本楼遊女道中の「遍照寺参詣図絵馬」が納められました。明治初期の板橋宿の風俗をうかがい知ることができる貴重な資料です。




境内には、「成田山遍照寺」と記された石碑が建っています。馬頭観音はどれか分かりませんが、それらしき石像が沢山並んでいます。駅馬模型ってどこにあるのでしょうか?



遍照寺から「板橋宿本陣跡」に向かいます。旧中山道から路地を入った先の公園の中に、「旧板橋町役場跡」の案内板が立っています。

板橋町役場跡地

明治二十二年(1889年)、明治政府は、憲法の制定および国会開設に先立って、本格的な地方自治制度を定めた「市制・町村制」を制定しました。これにともない、江戸時代の旧町村を大まかな単位とする大規模な町村合併が行われ、現在の板橋区域には板橋町・上板橋村・志村・赤塚村の一町三村が誕生しました。地方行政を担うこととなった市町村では、市町村長および議会の議員が公選で選ばれ、公共事業の事務処理をするための役場が設置されました。当初、板橋町役場は大字下板橋2128番地(現仲宿五十六番地あたり)の民家を借りて開設されました。明治二十六年の記録によれば、板橋町役場の組織は庶務・戸籍・地籍・収税の四係で構成され、町長のほか収入役・書記2名・雇用人2名で運営されていたようです。その後、板橋町役場は、事務処理の増加により役場が手狭となったため、二代目町長青山五郎右衛門の時に、当地(仲宿四十四番地、現区立仲宿ふれあい広場)の土地を購入し、付属していた建家を増改築して、明治三十年七月竣工の新庁舎へと移転しました。この時の土地購入と庁舎建設費用は、すべて板橋町民の寄付によるものでした。なお、明治三十年の記録では、町長・助役・収入役・書記4名・付属員・用務員の9名が町役場で勤務していたことが分かります。その後、さらなる事務処理の増加にともなって、隣接地を購入するとともに、大正三年(1914年)に木造瓦葺き洋式二階建ての町役場が完成しました。昭和七年(1932年)、十四代目町長水村清の時に板橋区が誕生すると、板橋町は消滅し、併せて板橋町役場も廃止されましたが、旧役場の建物は清掃部・板橋出張所などとしてその後も使用されました。




ポイント9 板橋宿本陣跡

板橋宿本陣跡は民家の入口脇に石碑と案内板が立っています。板橋宿本陣は、代々飯田新左衛門を世襲した飯田家の屋敷に置かれました。江戸時代には、本陣や脇本陣は参勤交代の際の宿場として重要な施設でした。参勤交代で通行した大名や幕府の公用の武士、僧や公家などだけが休息所としての利用を許されました。本陣の建物は明治時代に火事で焼けてしまい、現存していません。石碑と案内板とスーパーのライフがある区画辺りが全て板橋宿本陣でした。板橋宿本陣は、「大久保大和」を名乗って流山から越谷宿の新政府軍に出頭した近藤勇が、新政府軍の本部だった「東山道総督府本陣」が置かれていた板橋宿に連行され、元新選組隊士(御陵衛士)の加納鷲雄・清原清に正体を見破られた場所として知られています。

板橋宿本陣飯田新左衛門家

本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半(約10km)の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されました。また、その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたようです。宝永元年(1704年)、当家は飯田本家より別家していますが、その際、世襲名「新左衛門」と本陣・問屋役を引き継いでいます。また併せて、屋敷地359坪、田畑1.5町余(約1万6000u)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家三代目新左衛門珎儀の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「御本陣家」に指定されたことが窺えます。本陣は「中山道宿村大概帳」によると建坪97坪、門構え玄関付の建物でした。また、本陣指図からは、間口・桁行ともに十二間半(約22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか、御膳所や十八畳の玄関などを備えていたことが分かります。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示しています。本陣の建物は明治二十三年(1890年)に火災に遭い焼失しましたが、昭和三十九年(1964年)、明治期に建てられた母屋の解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えています。




板橋宿本陣跡から「文殊院」に向かいます。

ポイント10 文殊院

文殊院は、江戸時代の前期に延命地蔵を祀るお堂を寺院としたと伝えられている真言宗寺院です。本尊の文珠菩薩坐像は寛文年間(1661年〜1673年)の作と伝えられています。板橋宿本陣を勤めた飯田家の菩提寺で、墓地には飯田静の墓や宿場の飯盛旅籠のひとつ「大盛川」の墓などがあります。また、板橋七福神の毘沙門天も安置されています。

文殊院

真言宗豊山派、幡場山大聖寺文殊院と号し、御本尊は文殊菩薩です。江戸初期、板橋宿本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立されました。開山は寛永二年(1625年)に入寂した権大僧都慶恵と伝えられます。天保六年(1835年)に全焼し、安政年間(1854年〜1860年)以降は正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ転住していることから、出世寺とも呼ばれました。山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現があります。閻魔堂内には、文化年間(1804年〜1818年)に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られています。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓があります。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されています。飯田家墓地の飯田静の碑は昭和六十三年度に、また本尊文殊菩薩坐像は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録されました。




文殊院から「中宿脇本陣跡」に向かいます。とある食堂の前の歩道に案内板が立っています。

高野長英ゆかりの地(旧水村長民宅)

蘭学者・蘭方医の高野長英(1804年〜1850年)は、幕府の外交政策を批判して永牢の身となりました。弘化元年(1844年)六月三十日、小伝馬町牢屋敷から出火した火事で、一時的に収監者を解き放つ「切り放ち」が行われると、長英は脱獄し、長い逃亡生活が始まりました。平成九年、旧板橋宿中宿名主家の飯田侃家から、その足取りを示す史料が見つかりました。それによれば、長英は六月三十日午後十時ごろ、板橋宿で医者をしていた門弟の水村長民を訪ね、道案内を頼みました。長民はその頼みを受けると、自身の実家で足立郡大間木村(現さいたま市)の高野隆仙のもとへ長英を導きました。隆仙は長民の実兄で、長民と同じく長英の門弟でした。長英は、隆仙宅でしばらく休憩し、夜明けには奥州方面へと向かっていったと記されています。その内容すべてが事実とは言えない点もありますが、長英が逃避行のはじめに、この地にあった水村長民宅を訪れたことは確実だと考えられます。




老舗和菓子店の新月堂の店先に「下乗」と書かれた木板が立っています。

下馬下乗の立て札

江戸時代の板橋宿仲宿名主飯田家は、明治元年と同三年に行われた武蔵一宮氷川神社への明治天皇行幸に伴い昼餐の行在所を務めていました。行在所となった屋敷の門前には、待在所の立て札の外に馬や乗物から降りる場所を明示した立て札が建てられました。これらの立て札は現在、板橋区郷土資料館が保管しています。




ポイント11 中宿脇本陣跡

中宿脇本陣は、和宮降嫁の時には本陣役を務め、戊辰戦争の際は東山道総督府の本営となり、明治に入ってからは行幸する明治天皇の行在所として使用されました。マンションの敷地内に石碑と案内板が立っています。

板橋宿中宿名主飯田家跡

当家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(1704年)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて名主・問屋・脇本陣を務めました。世襲名は宇兵衛。飯田家は、大坂の陣で豊臣家に仕えたとされ、その後、区内の中台村から下板橋村へと移り、当地を開発して名主となりました。元禄期頃の宿場絵図には、当家の南側に将軍が休息するための御茶屋が設けられており、元和〜寛永期に板橋の御林で行われた大規模な鹿狩りの際に使用されたとみられます。そして当家が御茶屋守としてこれを管理していたと思われます。なお、御林四十町歩は、後に当家に下賜されたといわれています。江戸時代を通じ、名主家と本陣家の両飯田家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら、中山道板橋宿の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営にあたってきました。そのような中で、文久元年(1861年)の和宮下向に際しては、宇兵衛家が本陣役となっています。その後も慶応四年(1868年)の岩倉具定率いる東山道軍の本営となり、明治初期の明治天皇行幸などでも宇兵衛家が本陣を務めました。




2024年に再訪した時は、案内板の位置が変って、別のマンションの植え込みの中に移されていました。



中宿脇本陣跡から「板橋」に向かいます。

ポイント12 板橋

「板橋」は、旧中山道が石神井川を渡る地点に架けられた橋で、板橋の地名の由来となったといわれている橋です。

板橋

この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治二十二年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和七年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政十年(1798年)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正九年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和七年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和四十七年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。




板橋は、「板橋十景」のひとつにも数えられています。



板橋は、日本橋から10、642mの地点にあるそうです。



板橋から「縁切榎」に向かいます。休息スペースに古風な櫓が建っています。



櫓の入口のドアには江戸時代の中山道の様子を描いたプレートが貼られています。



平尾宿・中宿に続いて、上宿に入ります。

中山道板橋宿上宿

江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは十五町四十九間(約1.7km)でした。天保十四年(1843年)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川にかかる板橋から現在の環状七号線あたりまでが上宿でした。平成十四年(2002年)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長七年(1602年)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。




ポイント13 縁切榎

縁切榎には、次のような昔話があります。縁を切られた妻と幼子が身禄に追いすがる姿を思うと涙が出てきます。

元禄時代のおわり頃、伊勢国(三重県)に生まれた伊藤身禄という人がいました。志をたてて江戸で精一杯働き、奥さんと3人の娘と本郷 (文京区)で幸せな日々を送っていました。身祿は、子供のころから、富士の浅間様を深く信仰しており、自分は大きくなったら北側からの登山口を切り開いて富士山の上で死のうという願を立てていました。そこで心を鬼にして、家を捨てる決心をし、家族を振り切るように家を出ました。奥さんは3人の娘の手を引き「おとうさーん」と呼びながら後を追い、とうとう板橋宿の上宿(本町)まで来てしまいました。困った身禄は、道端に生い茂った大木の木陰の橋のらんかんに奥さんと娘を腰掛けさせ、最後の別れをしました。別れた身禄は、決心したとおり、富士の北口(吉田口)から登山道を切り開いて、富士山頂で亡くなりました。のちにこの大木の榎の木を「縁切榎」、下を流れる中用水を「おんだし川」というようになり、また妻子を腰掛けさせたらんかんのある橋を「なみだ橋」というようになったと言われています。



縁切榎は緩やかな上り坂の中ほどにあります。「岩之坂」という坂名で、かつて坂の左側に榎の大木が聳え、奥に第六天社がありました。今は反対側に移され縁切榎と呼ばれる社になっています。昔は坂の両側から覆いかぶさる樹木により昼なお薄暗く不気味な坂でしたので、「いやな坂」が訛って「岩之坂」と呼ばれるようになったといわれています。江戸時代には、この辺りは水茶屋のような風俗っぽい店が多かったとのことです。縁切榎の歴史の中で、幕末の皇女和宮が江戸幕府第十四代将軍家茂の正室となった時に、中山道を京都から江戸まで降嫁の行列で向かいましたが、その行列の長さは50kmもあったそうです。縁起を担いで、その行列はこの縁切榎を避けて迂回したという話が残っています。

緑切榎(板橋区登録文化財)

江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったといいます。板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861年)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。なお、この時に榎を菰で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。




現在の縁切榎は三代目だそうですが、二代目の榎がご神木として祀られています。



縁切榎から国道17号線を渡って「智清寺」に向かいます。

ポイント14 智清寺

智清寺は、室町時代の初期に見誉智清によって開山されましたが、天明四年(1784年)の火災で記録を失ってしまったため、詳細は不明となっています。

智清寺

御本尊阿弥陀如来。宗派浄土宗。龍光山惠照院と称する。室町時代初期、見誉上人智清によって創建されたと伝える。天正十九年(1591年)徳川家康より寺領五石を寄進された御朱印寺である。境内には、板橋上宿の名主板橋市左衛門家歴代の墓碑や、明治初年前田家下屋敷払い下げに活躍した小松了従の墓碑、そして明治の歌人相尺朮(おけら)の墓碑などがある。山門前にある正徳四年(1714年)の石橋は、江戸から大正時代に使用された中用水に架けられたもの。中用水は、農業用水として石神井川の水を分水したもので、明治五年板橋町と下流の上十条村以下七ヶ村との間で配水を巡って争い、板橋の農民が当寺に立てこもった。同石橋は、昭和六十年度の板橋区登録文化財(史跡)に認定された。




境内には、「中用水遺構石橋」と呼ばれる橋の跡があります。「中用水」とは、石神井川から分かれた用水路で、別名「稲付川」「北耕地川」とも呼ばれました(現在は、その殆どが暗渠化されています)。この中用水は、かつて智清寺の境内を横断していました。



境内には、「木下藤吉郎出世稲荷大明神」を祀る祠があります。大坂の陣の際、高松半平という浪人が智清寺まで落ち延びて「豊臣秀吉の守護神像」を祀ったのが起源であるといわれています。「木下出世稲荷大明神縁起」と書かれた石碑も建っています。長文の上、文字があまり読み取れませんでしたので、解読は断念しました。



明治の歌人である相尺朮の墓碑もあるそうですが、案内板には相尺朮の板橋との関わりが記されています。

雪廼舍相沢朮の墓と板橋

相沢朮は、文政八年(1825年)、越後国(現新潟県)六日町の医者石川有節の長男として生まれました。幼名は富蔵、諱は高尚、後に玄英、周碩と改めました。医術を江戸の大久保東渓や成田宗信に、蘭学を大坂の六人部右衛門に学びました。弘化三年(1846年)に三河国(現愛 知県)西尾藩主松平乗全の側医相沢良安の養子になり、その娘扇子と結婚して江戸で暮らしました。後に家督を継いで湛庵と改め、明治元年に西尾に移り、同三年に朮の名を藩主乗秩より賜りました。朮は文学を好み、漢学を江戸の前田観海、桑名の森樅堂に、和歌を井上文雄、加藤千浪、佐々木弘綱に学びました。明治九年(1876年)に東京へ移り、医を開業するかたわらで、和歌の研鑽に励みました。同二十年に板橋町に居を構えると、医業を離れ、雪廼舎と号して門人への和歌の指導に専念しました。同二十六年には初めて歌会を開催し、板橋町長を務めた飯田春教や松村孫兵衛といった板橋の人々も参加しました。晩年まで精力的な文化活動を続け、明治三十七年五月二十八日に八十一歳で逝去すると、親族が眠る智清寺に埋葬されました。法名は修徳院仁誉高尚居士です。




智清寺から「日曜寺」に向かいます。

ポイント15 日曜寺

日曜寺は、正徳年間(1711年〜1716年)に宥慶比丘によって開山されました。御三卿の田安徳川家初代徳川宗武の庇護を受け、寺院として整備されました。その後も田安家の祈願所として繁栄しました。しかし、太平洋戦争の戦災により山門を除き全焼し、田安家から寄進された累代の寺宝も失いました。山門の扁額(田安家出身の松平定信の筆)のみが田安家の遺品となっています。

日曜寺と徳川御三卿田安家

宗派は真言宗霊雲寺派で、本尊は愛染明王、光明山愛染院日曜寺と号します。「新編武蔵風土記稿」によると、開山は宥慶比丘で、正徳年間(1711年〜1716年)に小堂を営んだのが始まりと伝えています。その後、八代将軍徳川吉宗の次男で田安家初代の徳川宗武やその室近衛通子(宝蓮院)から等身大の愛染明王像などの仏像や仏画、曼荼羅、什器類などの奉納を受けたことで祈願寺として整備されました。令和三年度に区登録有形文化財になった「日曜寺田安家奉納仏画」は宗武とその一族が奉納した仏画で、愛染曼荼羅、両界曼荼羅、弘法大師影像が現存しています。曼荼羅は霊雲寺に特有の構図を呈し、豪華な描表装仕立てです。制作者は不明ですが、筆致は精細で、江戸時代の絵仏師が携わったことが推察されます。なお、田安家の奉納品は、ほかの霊雲寺派寺院にも伝来しています。このような田安家からの奉納を機に、日曜寺では「開運愛染明王略縁起」が作られ、寛政十一年(1799年)に中山道と参道との分岐点に道標が建てられると、武士や町人ら参詣者で賑わうようになりました。現在でも正月と五月、九月の護摩祈祷には参詣者で賑わっています。また、山門に架かる扁額は、寛政の改革で有名な松平定信が父宗武の生誕百年に合わせて奉納したものです。ケヤキの一枚板に定信揮毫の「日曜寺」が草書体で書かれ、周縁が彫り込まれて朱が塗られています。これは彫工柴田喜四郎によるもので、現在、千葉県の成田山新勝寺の一切経殿に架かる定信揮毫の扁額も柴田喜四郎によるものです。




山門に架かっている扁額は、松平定信が奉納したものです。



境内にふたつの石碑が並んで置かれています。

阪昌周歯髪埋納の碑と愛染講奉納石造物・奉納額

阪昌周歯髪埋納の碑は、阪昌文が天明四年(1784年)十一月五日に死亡した父昌周の歯と髪を土に埋め、その記念に建てたもので、昌周の事績が記されています。昌周は代々幕府連歌師を務めた里村家の出身で、宝暦九年(1759年)正月十一日に江戸城中で開催された連歌始めに出仕して以来、毎年幕府の連歌始めに出仕しました。連歌とは、複数の人が同席して、長句と短句を交互に詠み続けていく形式の文芸です。昌周の墓は深川本誓寺にありますが、当碑が建立されたのは昌周が当寺の住職に帰依していたからと考えられます。宥慶比丘に帰依した徳川宗武から等身大の愛染明王が寄進されたことで、当寺は武士や町人から篤い信仰を集めるようになりま した。なかでも愛染が藍染に通じることから、染色業に関わる人から広く信仰を集めました。彼らは江戸・東京周辺で同業者組合を結成し、組合ごとに参詣していました。現在、境内にある天保十年(1839年)の手水鉢や記念碑は、彼ら組合によって奉納されたものです。今でも正月と五月と九月の二十六日の縁日には、東京愛染講や豊染講などが参詣しています。




日曜寺の山門前には橋の跡があり、かつては「中用水」(別名:稲付川・北耕地川)と呼ばれる石神井川から分かれた用水路が山門前を流れていました。先ほど訪れた智清寺の境内にも流れていましたね。



ゴール地点の板橋本町駅に着きました。



ということで、板橋区で最後の「板橋散策コース」を歩き終えました。板橋区の散策コースは今回で終了し、次は久しぶりに都心の港区を歩きます。最初は、「@芝公園一周コース」です。




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