- @芝公園一周コース
- コース 踏破記
- 今日は港区の「@芝公園一周コース」を歩きます。都営三田線の芝公園駅をスタート地点として、芝公園を一周します。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年7月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
@芝公園一周コース
こんなこと取り入れてみませんか?
- 芝丸山古墳の登り降り
- 区立芝公園で後ろ歩き
- 近くのプールでクーリングダウン
Why not try these activities?
- Climbing Shibamaruyama ancient tomb.
- Walking backwards in Shiba park.
- Cooling down in a nearby swimming pool.
「@芝公園一周コース」の歩行距離は約1.8km、歩行時間は約20分(絶対無理!)、消費カロリーは約65Kcalです。
スタート地点:都営地下鉄三田線芝公園駅出入口A4
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- ポイント 1 区立芝公園
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準備体操(ウォーミングアップ)をするスペースがあります。
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- ポイント 2 惣門
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- ポイント 3 増上寺(徳川将軍家菩提寺)
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本堂には都会の喧噪を離れ、静かな時間が流れています。ウォーキングで疲れたらチョット寄ってみては?
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- ポイント 4 二天門
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- ポイント 5 宝数院
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港区七福神の一つ、弁財天を祀っています。
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- ポイント 6 東京タワー
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- ポイント 7 赤羽橋
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- ポイント 8 芝丸山古墳・伊能忠敬測地遺功表の碑
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- ポイント 9 芝東照宮
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樹齢約400年の大銀杏は徳川三代将軍家光が手植えしたものといわれています。
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ゴール地点:都営地下鉄三田線芝公園駅出入口A4
スタート地点の芝公園駅から歩き始めます。港区立芝公園は駅の裏手にあります。
- ポイント1 区立芝公園
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芝公園の敷地は、元々は慶長三年(1598年)に徳川家康によって現在の場所に移された三縁山増上寺の境内で、上野の寛永寺と並び称される江戸名所のひとつでした。現在は町名にもなっていますが、一時期は三縁山の名を取って三縁町と称されていました。明治六年(1873年)に宮内省の管轄地となって公園地に編入され、芝公園と定められました。有史以前から人が住む土地であったと考えられていて、貝塚や古墳等が残っています。一般の公園で見られるような遊具はありませんが、広い芝生と都心の景観が楽しめます。
2021年に訪れた時に工事中だった麻布台ヒルズの森JPタワーは昨年完成しています。ちなみに、新旧のコントラストが映える東京タワーの高さは333mで、森JPタワーの330mを僅かに上回っています。
左が2021年当時の写真、右が2024年現在の写真です。
芝公園には、港区の平和への取り組みを象徴するふたつの施設が設置されています。ひとつは「平和の灯」です。
「平和の灯」
この「平和の灯(ひ)」は、港区が昭和六十年8月15日「平和都市宣言」を行ってから20周年を記念して設置したものです。ここに灯された「火」は、広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県星野村の「平和の火」、長崎市の「誓いの火」を合わせました。この灯を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。
もうひとつは、広島と長崎で被爆した木の種から育てられたU世の木の植樹です。
区の取組
港区は、昭和六十年(1985年)8月15日に、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願い「港区平和都市宣言」を行いました。平成十七年(2005年)8月15日、 平和都市宣言20周年事業の一環として、区立芝公園に平和の象徴としての「平和の灯」を設置するとともに、広島・長崎に投下された原子爆弾の熱線と爆風を生き抜いたアオギリ・クスノキの種から育てられたアオギリU世・クスノキU世を植樹しました。
Efforts of Minato City
On August 15, 2005, as part of the 20th anniversary of the Peace City Declaration,
the "Light of Peace" was installed in Shiba Park as a symbol of peace. We also
planted the second generation of A-bombed Chinese parasol tree and camphor tree,
which were grown from the seeds of their mother trees that survived the heat and
blast of the atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki.
あまり知られてはいませんが、芝公園は東京2020オリンピックの聖火リレーで点火セレモニーが行われた場所です。
東京2020オリンピック聖火リレー
点火セレモニー
令和三年(2021年)7月22日、区立芝公園に44人の聖火ランナーが集い、オリンピック聖火リレーの点火セレモニーが実施されました。新型コロナウイルス感染症の影響により、公道での走行が中止になるなど実施方法の変更はあったものの、ここ区立芝公園ではランナーたちが笑顔でトーチキスを行い、「Hope Lights Our Way/希望の道を、つなごう。」というオリンピック聖火リレーのコンセプトを世界中に発信してくれました。午後5時45分に始まった点火セレモニーでは、聖火ランナーによってオリンピック聖火がリレーされ、その火は翌日のオリンピック開会式へ繋がりました。
Tokyo 2020 Olympic Torch Relay Lighting Ceremony
On July 22, 2021, 44 torchbearers gathered at Minato City Shiba Park to partake in the Olympic Torch Relay lighting ceremony. Despite changes made to the celebration to
comply with ongoing safety measures surrounding COVID-19, such as prohibiting torchbearers from running on public roads, torchbearers, smiling from ear to ear, gathered at Minato City Shiba Park to conduct the torch kiss event, presenting to the world the Olympic Torch Relay concept of "Hope Lights Our Way." The lighting ceremony commenced at 17:45, with the Olympic flame being passed from one torchbearer to another, and would go on to light the cauldron at the Opening Ceremony the following day.
東京2020パラリンピック競技大会でも、芝公園付近はマラソン競技の折り返し地点となりました。
東京2020パラリンピック競技大会
マラソン
令和三年(2021年)9月5日、東京2020パラリンピック競技大会の競技日程の最後を飾った陸上競技(マラソン)において、ランナーが港区を走行しました。JR新橋駅近くの外堀通りを通過し、西新橋交差点を日比谷通りに沿って南下したランナーたちは、ここ区立芝公園付近で折り返し、フィニッシュの国立競技場(オリンピックスタジアム)に向けて走り抜けていきました。新型コロナウイルス感染症の影響により、沿道での観戦は自粛となりましたが、力強く走り抜けるランナーの様子は世界中に発信され、多くの感動と興奮を共有し、大会最終日を大いに盛り上げました。
Tokyo 2020 Paralympic Games
Marathon
On September 5,2021, runners ran through Minato City in the Athletics Marathon, the final event of the Tokyo 2020 Paralympic Games. After passing Sotobori Street near JR Shimbashi Station, the runners headed south along Hibiya Street at the Nishi-Shimbashi intersection, turned around near Minato City Shiba Park, and headed towards the finish line at the Olympic Stadium. Despite COVID-19 measures preventing spectators from cheering on runners at the roadside, the sight of the runners determination was televised worldwide, causing people around the world to feel emotional and inspired,
and bringing excitement to the final day of the Games.
お散歩やジョギングの準備体操(ウォーミングアップ)をするスペースも設けられています。
健康五角形 健康歩道(体力測定遊具)
この健康歩道(体力測定)は、下記の5項目・9種類の運動により皆様の体力を測定するものです。各項目には、それぞれの利用方法と全国の標準を示すグラフが書かれています。測定した結果をグラフにてらしあわせ、標準以下の場合は出来るだけ標準に近づけるように努力しましょう。測定が終わりましたら、下記の健康五角形に測定結果をあてはめて下さい。標準ラインより外側の線上で正五角形になればあなたの体力はバランスがとれすぐれています。各項目の測定結果が正五角形になるように努力しましょう。
芝公園には、約70本の梅の木が植えられている梅園もあります。この梅園は、江戸時代に「梅屋敷銀世界」として新宿角筈(現在の西新宿三丁目)にあった梅の木に由来しています。「銀世界」の敷地は、明治になって東京ガスの所有となり、明治四十一年〜四十二年(1908年〜1909年)頃に多くの梅の木が芝公園の16号地グランド西側に移植されました。その後、昭和四十一年(1966年)に首都高速芝公園ランプが建設されることになったため、現在の1号地芝丸山古墳の麓に移されました。「銀世界」の梅の木は、梅屋敷に咲く白梅の様子からその名がつけられ、庶民に親しまれたといわれています。梅園の中に、天保三年に琉球の棟応昌が揮毫した「銀世界」の石碑が置かれています。私は初めて知ったので、来春の観梅シーズンには是非訪れてみたいと思います。
区立芝公園から「惣門」に向かいます。
- ポイント2 惣門
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「惣門」とは、屋敷や寺社の境内などの正式な入口に設けられた大門の総称です。増上寺の惣門は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で増上寺に造営された台徳院霊廟の入口になります。徳川秀忠は寛永九年(1632年)正月24日に死去し、その年の2月から増上寺境内の南側で霊廟の建立が開始され、7月に本殿の上棟式が行われました。霊廟は昭和二十年(1945年)5月25日に空襲に遭い、旧国宝指定物件の15棟のうち、惣門・勅額門・丁子門・御成門・奥院玉垣を除く10棟と附指定の銅燈籠8基が焼失しました。焼け残った惣門・勅額門・丁子門・御成門の4棟のうち、惣門以外の3棟は昭和三十五年(1960年)に埼玉県所沢市上山口のユネスコ村(現在は狭山不動尊)に移築され、惣門のみが芝公園に残っています。なお、台徳院霊廟の跡地には、現在、ザ・プリンスパークタワー東京が建っています。
左の写真の左後方にあるのがザ・プリンスパークタワー東京の建物です。
門内に安置されている金剛力士(仁王)像は元々は埼玉県川口市の西福寺にあったもので、昭和五十三年(1978年)に浅草寺に譲渡され、さらに昭和三十三年(1958年)頃に現在の惣門に移されたものです。
港区指定有形文化財
彫刻 木造仁王像 二躯体
重要文化財「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置している寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の上に立っています。平成十六年から十七年に行われた修理の際に、体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(1789年)、弘化三年(1847年)の二度にわたり修理が行われていることがわかりました。さらに安政二年(1855年)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和二十三年(1948年)、同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和三十三年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。本像は十八世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。
像高 阿形 243.5センチメートル
吽形 247.0センチメートル
惣門から「増上寺(徳川将軍家菩提寺)」に向かいます。惣門の先に、年代を感じさせる「黒門」があります。黒門は、増上寺方丈(僧侶の居住する住居または仏教の修行場)の表門であった旧方丈門で、三代将軍徳川家光の寄進・建立とされています。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となって鐘楼堂脇に移築したものを、昭和五十五年に通用門として日比谷通り沿いに移築されました。
東京都港区指定文化財
有形文化財 増上寺旧方丈門(黒門)
増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったために黒門ともよばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から十七世紀後半のものと推測される。蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
- ポイント3 増上寺(徳川将軍家菩提寺)
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増上寺は、9世紀頃に空海の弟子宗叡が武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町と紀尾井町の辺り)に建立した光明寺が前身だといわれています。室町時代の明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡の時代に真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めました。天正十八年(1590年)に徳川家康が江戸に入府した際、たまたま増上寺の前を通りかかり、十二世源誉存応と対面したのが徳川家の菩提寺となるきっかけだったといわれています。貝塚から一時期日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴って、慶長三年(1598年)に家康によって現在の芝へ移されました。風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられます。明治維新後の神仏分離の影響によって規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となりました。戦時中の東京大空襲により、徳川家霊廟や五重塔を始めとした大半の遺構を失う大きな被害を受けました。また、東京タワーを建設するに際して、増上寺は墓地の一部を提供しています。ちなみに、この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」とは、増上寺の旧総門のことを指しています。
浄土宗 大本山 増上寺
沿革
浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。開山は明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖西誉聖聡上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長三年(1598年)に現在の地に移転しました。文明二年(1470年)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきました。江戸時代初期、増上寺法主十二世源誉存応上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行きました。徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その大きさは、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を保管しています。
The chief temple of the Jodo-Buddhist sect. ZOJOJI
History
Zojo-ji was founded in 1393 by the Jodo Shu denomination as the central monastery in the Kanto (east Japan) region devoted to the rigorous practice of the nembutsu
(recitation of Amida Buddha's name). Zojo-ji was relocated to the present site in 1598 after leyasu Tokugawa, founder of the Tokugawa shogunate, entered Edo (present-day Tokyo) in 1590 to establish his provincial government. After the start of the Edo Period when the Tokugawa shogunate ruled Japan, Zojo-ji became the family temple of the Tokugawa family and an unparalleled grand hall was built. Zojo-ji also served as an administrative center to govern the religious studies and activities of Jodo Shu. In those days, its precincts covered an area of 826,000 square meters which also contained 48 smaller attached temples and about 150 grammar schools. Moreover, as many as 3,000 priests and novices regularly resided here as students. Nevertheless, as the Tokugawa shogunate came to an end and the Meiji Era started in 1868, an anti-Buddhist movement swept through the country. During World War II, Zojo-ji along with all of Tokyo was fire bombed and its main hall, attached temples, and the mausoleum of the Tokugawa family were destroyed. Thus, Zojo-ji was profoundly affected by political and social circumstances. Today, however, its main hall and other structures have been rebuilt, and Zojo-ji continues to serve as the main temple of Jodo Shu and central nembutsu seminary for priests and novices in the Kanto region. Furthermore, it has endeared itself to the general public as both a great religious landmark in the metropolis Tokyo and a hub of religious and cultural activities.
三解脱門は戦災を免れた建物のひとつで、元和八年(1622年)に建立された二重門(重層で、各層に屋根が付く門)です。この門を潜ると、三毒(3つの煩悩:貪・瞋・癡)から解脱できるとされています。内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。
三解脱門
慶長十六年(1611年)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元和八年(1622年)に再建されました。この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門の名は、煩悩から解脱した覚りの境地を開くための三種の修行、「空門」「無相門」「無願門」からなる「三解脱門」に基づいています。また「三門」と通称されています。建築様式は三戸二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。その大きさは、間口十間余(約19メートル)、奥行五間(約9メートル)、高さ七丈(約21メートル)の二階建て構造。さらに左右には三間(約5.4メートル)の山廊を有しています。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が奉安されています。
三解脱門を潜りますと、遙か先の石段の上の広場に巨大な本堂が建っています。
大殿(だいでん)
昭和四十九年(1974年)、浄土宗開宗八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建しました。「大殿」と称し、間口二十六間余(約48メートル)奥行二十五間余(約45メートル)高さ七丈半余(約23メートル)総面積は10、535平方メートルという大きさの大本堂です。石段を登りきった二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に宝物展示室などを備えています。本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。
大殿の右隣には安国殿があります。
安国殿と黒本尊
この建物は徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和四十九年(1974年)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。建物の老朽化に伴い、平成二十三年(2011年)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、五月、九月の各十五日、年三回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。
大殿に向かう境内広場には、様々な建物や石像が建っています。水盤舎は、甲府宰相綱重公の霊廟建立当寺の建物だそうです。
水盤舎
この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。
案内柱も立っています。
港区の文化財 水盤舎
この水盤舎は綱重の御霊屋建築の内、現存する唯一の建物であるとともに、徳川家霊廟の建造物として現存する数少ない遺構として貴重なものです。元は清揚院(三代将軍徳川家光の三男・六代将軍徳川家宣の父、甲府宰相綱重)の御霊屋にあった建物です。綱重は、延宝六年(1678年)に逝去し、初め小石川伝通院に埋葬され、家宣の代に増上寺に改葬されました。御霊屋は増上寺本堂裏手に営まれていましたが、昭和二十年(1945年)の東京大空襲により他の御霊屋の建物とともにそのほとんどが焼失しました。
広場の右手には、大晦日の除夜の鐘で知られる鐘楼堂があります。江戸時代の静寂な夜に鐘を突くと市中に鐘の音が響き渡ったことでしょう。今と違って苦情がくることもなかったかも。
鐘楼堂
寛永十年(1633年)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(1673年)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、七回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。その大きさ、高さ一丈(約3メートル)重さ四千貫(約15トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。
案内柱も立っています。
港区の文化財 増上寺の梵鐘
高さ八尺(龍頭を入れると十尺、約3.3メートル)、径五尺八寸、重さ四十貫(約15トン)といわれ、江戸時代の梵鐘としては東日本最大といわれています。椎名伊予吉寛が品川の御殿山で鋳造したもので、延宝七年(1673年)に七回目の鋳造で完成したといわれます。その音も大きく、「江戸中へ七分通りは響くなり」などと川柳でよまれました。増上寺の南西には九州の有馬や島津の藩邸があったため「西国の果てまで響く芝の鐘」「てもきても諸国へ響く芝の鐘」などの句もあり、当時の江戸の人々の自慢も、実感を伴っていたことがうかがわれます。
境内には由緒ある樹木が植わっています。増上寺南東端の慈雲閣の裏手に、推定樹齢600年を超えるカヤの巨木があります。現在も生育状態は良好で、区内における野生の自然木として貴重であるばかりではなく、都内はもちろん、巨樹としても全国的に有数なものです。本来カヤは暖帯の植物で、関東地方を北限とし、それ以西に自生する針葉樹で珍しい樹木ではありません。分布の南限は屋久島で、伐採の斧が入らない地域では幹径1m前後のものが存在しますが、全体的には80cm以下のものが圧倒的に多い樹木です。したがって増上寺のカヤの木は最大のもののうちの1本に数えられます。分布の北限に近い東京の港区内に、この大きさで残存していることは貴重といえます。
東京都港区指定文化財
天然記念物 増上寺のカヤ
(イチイ科カヤ属)
目通り(地上1.5メートルの高さ)直径1.3mメートル、周囲約4メートル、樹高25メートルを超える独立樹。推定樹齢600年。増上寺の建立時の記録をはじめ、現在までに記載された文書はないが、このことはこのカヤが移植されたものではなく、古くからこの地に自生していたことを示すと思われる。区内に自生する自然木として貴重であるばかりでなく、巨樹としても全国的に有数なものと思われる。本来カヤは暖帯の植物で、関東地方を自生の北限として分布する針葉樹であり、分布の北限に近い港区内にこの大きさで残存していることは、貴重である。
アメリカの大統領に由来する樹木もあります。
グラント松
米国第18代大統領グラント将軍は明治十二年7月国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。
General Grant the eighteenth president of the United States planted this Himalayan
cedar when he visited Zojoji temple as a national guest in 1879.
ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ米国第41代大統領(第43代ブッシュ大統領のお父さん)お手植えの木もあります。
ブッシュ槙(コウヤマキ)
米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和五十七年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹をお手植されました。
This tree was planted by the forty first president GEORGE H W BUSH of the United
States in memory of his visit to Zojoji temple in 1982 when he was a vice president.
境内の東端に沿って、夥しい数の幼児の地蔵が並んでいます。カラフルな前掛けと頭巾が目を引き、手に持った風車がくるくると回っている様はこの世のものとは思えません。
千躰子育地蔵菩薩
子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、それぞれのお施主様がお建てになりました。幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。地蔵菩薩像には触らないでください。
These are "care guardian deities of children". They are dedicated for the safety growth of children and grandchildren, as well as for the memorial service for still
birth or miscarried children. To protect and keep warm their heads, "red hat" "red apron" and "windmill", were dedicated to the guardian deity of children image.
Please refrain from touching.
お地蔵さんは果てしなく続いています。
「徳川将軍家墓所」を拝観することも出来ます。崇源院は、近江の戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)です。崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督(おごう)の名で知られています。
徳川将軍家墓所(徳川家霊廟)特別拝観
当山に埋葬されているのは、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公、の六人の将軍のほか、二代将軍正室崇源院、十四代将軍正室静寛院などです。
霊廟は安国殿裏手にあります。
徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。その後昭和二十年(1945年)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築しました。左右の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下りが鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。墓所には、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(十四代家茂公正室和宮)ら五人の正室、桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
入口は頑丈な青銅製の扉になっています。
港区の文化財 増上寺 鋳抜門
増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和二十年三月の東京大空襲によりその大半が焼失した。昭和三十三年に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画にまとめられた。墓所の門として使用されているこの青銅の門は、元は家宣墓所の門として建造されたもので、左右の扉に五個ずつの葵紋を配し、両袖塀には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている。家宣霊廟の往時の姿を今に伝える数少ない遺構である。
墓所の手前に、4体の菩薩像が鎮座しています。
港区の文化財 四菩薩像
向って左から文珠・虚空蔵・地蔵・普賢の四体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉二年(1258年)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています。触れたり、罵言すればたたるといわれ、像の向きを西向きにしておいたところ、一晩でひとりでに東向きに戻っていたことがあるなど像にまつわる言い伝えも多く、庶民の信仰を集めていたことがうかがわれます。
西向きに安置された観音像は、千躰子育地蔵菩薩近くの観音堂に祀られています。
港区の文化財 西向観音像
西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本尊とともに多くの庶民の信仰の対象として今に続いています。
境内の東南角の敷地に、熊野神社が祀られています。熊野神社は、元和十年(1624年)に増上寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したものです。熊野は「くまの」・「ゆや」と2通りの呼称がありますが、「ゆや権現」として親しまれています。
熊野(ゆや)三所大権現宮 由来記
増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。
御神体は
熊野本宮大社 家津御子大神(ケツミコノオオカミ)
熊野那智大社 大己貴命(オオナムラノミコト)
熊野速玉神社 伊弉諾尊(イザナギノミコト)
以上の三御神体を祀り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。祭禮は毎年三月三日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は四月第三日曜日に定まる。
綿貫次郎翁とは、熊野みこし講を発足させた人です。
大本山増上寺 熊野みこし講
西暦1974年(昭和四十九年)故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。増上寺の繁栄を願い、若者達の力でお手伝いをしようと関係のある神輿仲間に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様になりました。増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願いみこし講の手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成したのです。江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講」です。綿貫のおじいちゃんの言葉、「身をもって奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世につないで行ける様、ここに四十周年を記念し石碑を建立いたします。
境内の手水舎には八咫烏が描かれています。日本書紀によりますと、神武天皇が熊野に上陸する際に、天照大神より「天から八咫烏を使わそう。八咫烏が道案内をするであろう。」というおさとしがあり、無事山越えが出来たことから、熊野の鳥が三本足の八咫烏になったといわれています。
三本足の鳥 [八咫烏(やたがらす)]
「神々のお使い」
日本書紀によると
神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」というおさとしがありました。そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。
「日輪の中に三本足の鳥」
ルーツは中国で、太陽の中に三本足の鳥が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は鳥によって空を運ばれるとも考えられました。鳥の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である「三」こそが太陽にふさわしいと考えられます。日本に於いても、三本足の鳥が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。また時代によっては、「地・仁・勇」或いは「天・地・人」を表すとも言われています。日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の鳥と八咫烏が習合し、熊野の鳥も三本になったものと考えられます。
「シンボルマーク」
天皇の即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八咫烏の刺繍が施されているそうです。近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなはち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。日本サッカーの成長と勝利への導きを願っております。私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の島の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫鳥がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。
増上寺から「二天門」に向かいます。
- ポイント4 二天門
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二天門は、江戸幕府七代将軍徳川家継の有章院(家継の院号)霊廟の惣門だった建物です。霊廟は、享保二年(1717年)に八代将軍徳川吉宗が建立したもので、日光の東照宮に劣らぬ豪華なものだったのだといわれています。しかし、昭和二十年(1945年)5月の東京大空襲で焼失し、二天門だけが残されました。
有章院(徳川家継)霊廟二天門
現在の東京プリンスホテル敷地には、戦前、六代将軍家宣の文昭院霊廟と並んで、七代将軍家継の有章院霊廟がありました。プリンスホテル正面の二天門は有章院霊廟の惣門です。霊廟は八代将軍吉宗が享保二年(1717年)に建立しました。その結構(?)は日光に劣らぬと伝わる程でしたが、昭和二十年(1945年)に東京大空襲で焼失しました。この焼け残った二天門は銅板葺、切妻造りの八脚門で、左右に仏法守護の役目を持つ広目天、多聞天の二点が祀られています。焼けた文昭院霊廟の門に持国天、増長天が置かれ、合わせて四天王として祀られていました。
左が広目天、右が多聞天です。
二天門から「宝数院」に向かいます。二天門先の交差点を左折したところに御成門がひっそりと建っています。
御成門
増上寺(徳川家菩提寺)の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので、「御成門」と呼ばれるようになった。初め「御成門」は、現在の御成門交差点にあったが、明治二十五年の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この位置に移築された。その後、増上寺三門や旧庫裡門・徳川家墓地の惣門・二天門とともに、関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる。
- ポイント5 宝数院
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宝珠院は、貞亨二年(1685年)に増上寺三十世霊玄上人により、蓮池の弁天堂の建立と同時に開創されました。
宝数院には、徳川家康公所蔵の開運出世大辨財天と高さ2mもある木彫りの閻魔大王の像(港区指定文化財)が祀られています。
港区指定有形文化財
閻魔大王坐像および司録・司命半跏像 三躯
閻魔大王は地蔵菩薩の化身であるといわれ、わが国では鎌倉時代から庶民の信仰の対象として広がりました。この閻魔像は、寄木造り、彩色で、玉眼が嵌入されています。眉をつり上げ、眼をむき出して叱咤し、上が開いた方形の冠をつけ、笏を持っています。装束は、中国宋代の裁判官の制服によったものといわれます。宝珠院は貞享二年(1685年)、増上寺三十世霊玄が開創したと伝えられ、本像の制作もこの頃と考えられます。向かって左に罪状を究明する司命、右にそれを記録する司録の二像を従え、さらに人頭杖も添えられるのは、都内では珍しく貴重な作例です。江戸時代には、正月と七月の十六日が閻魔の斎日として参詣人が群集し、門前には露店が立ち並び、見世物小屋が掛って賑わったといいます。
像高 閻魔王 125.0センチメートル
司録 67.0センチメートル
司命 67.0センチメートル
Minato City Tangible Cultural Property
Statues of King Enma, Shiroku and Shimei
King Enma is said to be the incarnation of Jizo Bosatsu and became widely known as
a religious object of the common people of Japan during the Kamakura period (1185-1333). This statue of King Enma was made by assembling pieces of wood using the yosegi-zukuri technique before coloring them and has inlaid crystal eyes. He is wearing a square open-top crown while holding a shaku (ritual baton) with his eyebrows raised and eyes wide open in a scolding expression. The clothing is believed to be based on the uniforms worn by judges during the Song dynasty (960-1279) in China. Hoshuin was established in 1685 by Reigen, the 30th chief priest of Zojoji Temple, and it is believed that this statue was created around that time. This is a rare and valuable piece in Tokyo, featuring the shimei (judgement reader) who investigates offences on the left, the shiroku (record taker) who records these offences on the right, and ninzujo (staffs mounted with human heads). In the Edo period (1603-1868), January 16 and July 16 were days for visiting temples to King Enma, with large numbers of visitors, rows of stalls in front of the gates and crowded show tents.
Statue height King Enma 125.0 centimeters
Shiroku 67.0 centimeters
Shimei 67.0 centimeters
毎年正月には港七福神の弁財天をお参りする人で賑わっています。
宝珠院の脇にある弁天池はかつては「蓮池」「ゆりが渕」などと呼ばれ、文豪や画家にも愛され多くの作品のモチーフとなってきました。都心にいることを忘れさせてくれる木々と弁天池が、日々の疲れを癒してくれます。
紅蓮白蓮の弁天池
中島の弁天社
明治六年(1873年)の太政官布達第16号により芝公園になる以前より、増上寺の山内丘陵の西後方、境内裏鬼門にあたる位置に弁天池という広大な蓮池があり、夏には江蓮白蓮が混ざり合う、清香馥郁(せいこうふくいく)として奥深く静かな景勝地でした。池中の中島には増上寺三十世霊玄上人の時に弁財天が勧進され、弁天堂ができました。弁財天は一尺余りの腰かけ像で、9世紀に智證大師によって作られたものが源頼朝、北条家に篤く信仰され、その後徳川家康が増上寺に移したと伝えられています。また、島には稲荷妙見菩薩も並んで祀られ、現譽公記に「丸山の麓に池あり、二月の頃は近郷の百姓もみを浸して番をなす故に、池の中に少しの島を築き、稲荷の祠をかまへり」とあります。明治維新までは両方の社がありましたが、現在では隣の宝珠院内に祀られ、現在、弁財天は港七福神の一つとして親しまれています。弁天池の名は、古くは「さよ」という女が身を投じた故に呼ばれた「さよが池」、また「ゆりが淵」などとも言ったと伝えられています。また、池中に架かる石橋を接蓮橋、又は芙蓉橋といい、これも霊玄上人の命名したものです。
Benten-ike Pond, the Pond of the Red and White Lotuses
A shrine to Benten in the middle of the pond
Even before the promulgation in 1873 of Order No.16 by the Great Council of State that created Shiba Park, there was an expansive pond called Benten-ike Pond located on the temple grounds of Zojo-ji to the rear west, around the southwest temple gate. In the summer a mix of red and white lotuses bloomed. It was the most picturesque of spots, with its pure, natural fragrances and deeply tranquil surroundings. Devotion to Benzaiten was encouraged during the stewardship of the 30th Abbot of Zojo-ji Reigen, and a shrine to Benzaiten was built on the islet in the middle of the pond. The seated statue of Benzaiten a little over 30 cm high. It is said to have been carved in the 9th century by Chisyo-daishi, was worshipped devoutly by Minamoto no Yoriitomo and the Hojo clan, and later moved to Zojo-ji by order of Tokugawa leyasu. On the island there is also a shrine to the Bodhisattva Myoken in his manifestation as the god Inari. Genyo Koki ("Official Chronicle of the Glory of the Current Era") states, "There is a pond at the foot of Mt. Maruyama, and around February the local peasants take turns soaking unhulled rice in it, so they built a small island in the middle of the pond and constructed a shrine to Inari." Both shrines were present on the islet up to the Meiji Restoration, but they are currently housed in the neighboring Hoshu-in Temple. Benzaiten is now revered as one of the Seven Gods of Fortune enshrined across Minato City. Benten-ike Pond has been known by different names. It is said that long ago it was called "Sayo-ga-Ike" after a woman named Sayo who ended her life by jumping into the pond. Another name was "Yuri-ga-Fuchi". The stone bridge to the island is called Setsuren-kyo ("Bridge Touching the Lotuses") and Fuyo-bashi Bridge ("Cotton Rose Bridge"), both names of which are said to have been conferred by Reigen.
新撰東京名所図会の挿絵も添えられています。
宝数院から「東京タワー」を眺めます。
- ポイント6 東京タワー
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東京タワーは、昭和三十三年(1958年)12月23日に竣工した総合電波塔です。東京タワーの高さは333メートルで、塔脚の中心を基準とした塔脚の間隔は88メートルとなっています。総工費は当寺のお金で約30億円、1年半と延べ22万人の人員を要して完成しました。地上150メートルに大展望台(メインデッキ)、地上250メートルに特別展望台(トップデッキ)があります。特別展望台は、開業時は作業用の資材置場として使われていましたが、昭和四十二年に展望台としてオープンしました。
東京タワーを眺めてから「赤羽橋」に向かいます。
- ポイント7 赤羽橋
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赤羽橋は古川に架かる橋で、正保期(1644年〜1648年)には既に存在していたようです。橋の北東側には増上寺裏門赤羽門があり、寺への延焼を防ぐ火除地として赤羽広小路が設けられていました。都電が走っていた頃は、橋の上を三田線が通っていました。現在の橋は昭和四十九年(1974年)に架けられ、長さ17.5m・幅30mの鋼橋になっています。橋の南詰に古びた親柱が保存されていますが、これは大正十五年に架け替えられた赤羽橋の親柱です。
赤羽橋から芝公園に戻って「芝丸山古墳・伊能忠敬測地遺功表の碑」に向かいます。
- ポイント8 芝丸山古墳・伊能忠敬測地遺功表の碑
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芝丸山古墳は、芝公園内の標高約16メートルの台地先端部に位置し、前方部を南南西に向ける前方後円墳です。築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模です。江戸時代に後円部頂が崩され、広場になっていたと考えられています。
丸山貝塚
丸山貝塚は明治時代から知られていましたが、長い間、正式な調査は行われず、貝塚の範囲や形成時期、貝塚を構成する貝種などはわかっていませんでした。平成八年(1996年)、公園内で行われた工事の際に良好な貝層が発見されたため、翌年、範囲等の確認調査が行われました。その結果、丸山古墳が築造された台地の裾の緩やかな傾斜地に、マガキを主体とする貝塚が形成されていたことが明らかになりました。土器などの遺物が少ないことが、この貝塚の特徴でもありますが、わずかに出土した土器片から、貝塚の形成時期は縄文時代中期末から後期である可能性が高いと考えられます。
Maruyama Shell Mound
Maruyama Shell Mound has been known to people since the Meiji period, but there was no formal excavation conducted on it for a long time. Therefore, we did not know about the range of the mound, the period when it was formed, or the kind of shells in the mound. In 1996, during construction in the park, a good shell layer was found. In the following year, excavation to find the range of the shell layer was conducted. The excavation revealed that there was a shell mound, consisting mainly of pacific
oysters, in a gentle slope on the foot of a plateau where the Maruyama Kofun burial
mound was built. One of the characteristics of this shell mound is the scarcity of artifacts such as pottery. However, a few pieces of pottery excavated from Maruyama Shell Mound tell us that the shell mound was formed at the end of the middle to late Jomon period.
古墳広場に登るには3つのルートがありますが、中央の階段を登るのが分かりやすいです。
東京都指定史跡
芝丸山古墳
全長106メートル前後、後円部径約64メートル、前方部前端幅約40メートル、くびれ部幅約22メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16メートルの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治三十一年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。前方部が狭く低い形態や、占地状態などから五世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。
Historic site
Shibamaruyama Kofun
The Shibamaruyama tomb mound is one of the largest keyhole-shaped tomb mound in the Metropolitan Area. It is located on a tip of a plateau including the Shiba park, at an altitude of about 16 m. Its rectangular mound portion heads for the south-southwest, and as per size, it is about 106 m long in total, with its circular portion having a diameter about 64 m, its rectangular mound portion a width of about 40 m at the end and a narrowed portion a width of about 22 m. Several circular tomb mounds located around were dug away together with the plateau in the Edo Period and later, and a portion of the Shibamaruyama tomb mound was left. The original contour underwent
substantial changes, in particular a top of the mound and the west side of the circular portion have been taken off. In 1898, Dr. Tsuboi Shogoro of the Tokyo Imperial University, a pioneer in archeological studies in Japan conducted excavations, and at that time, the main body (burial facility) which is believed
to be located in the center of the circular portion had been already lost, and circumstances on the body/-ies and burial accessories are not known, except an existence of clay figures. A construction of the mound is estimated to date back to 5th century, on the grounds of the narrow and low shaped rectangular mound portion, as well as land use. The mound is believed to be a tomb of one of the most powerful and wealthy families in Minami-Musashi (covering the areas of today's Tokyo and Kanagawa Pref.), who had sources of their revenue in rice fields developed in adjacent lowlands, as well as held control of traffic roads from the south to the north.
古墳の入口脇に小さな神社があります。
円山隨身稲荷大明神
円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名よりお迎えした御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。
古墳の上の広場の西側隅に「虎」の石像があります。基部には「大野伴睦句碑」・「文揮毫 鳩山薫」の文字が読み取れます。大野伴睦は、衆議院議長や自民党副総裁を務めた大物政治家でした。碑には「鐘がなる春のあけぼのゝ増上寺」と刻まれています。ちなみに、大野伴睦の最も大きな功績は、東海道新幹線の建設で当初計画されたルートをねじ曲げ、選挙地盤の閑散とした地に「岐阜羽島駅」を誘致したことです。これがために、冬期になると関ヶ原で降雪のために新幹線が常に遅延するという問題に悩まれることになりました。
広場の中央の小高い場所に、「伊能忠敬測地遺功表の碑」が建っています。最初の碑は、明治二十二年に、初めて日本地図を作った測量の先駆者である伊能忠敬の功績を顕彰して、東京地学協会が建てました。しかし、戦災で碑は失われ、現在の碑は昭和四十年に再建されたものです。
右側の碑には、日本全図と測量に使ったであろう天球儀(渾天儀)を組み合わせた図が描かれています。左側の碑には、東京地学協会会長の碑文が記されています。
忠敬先生は、延享二年(1745年)上総国に生れて下総国佐原の伊能家を継ぎ、村を治めて後、五十歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦数の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は、1800年の蝦夷地奥州街道の実測を始めとして全国津々浦々にまで及び、文政元年(1818年)江戸八丁堀で七十四歳をもって没するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられ、わが国の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。その偉業は引きつがれて、1821年大中小の大日本沿海輿地全図が完成せられ、その精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり、参謀本部測量局の集成二十万分一地図は実にこの伊能図を骨子としたものである。東京地学協会はその功績を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが、不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。仍って今回各方面の協賛を得てこの碑を再建した次第である。
芝丸山古墳・伊能忠敬測地遺功表の碑から「芝東照宮」に向かいます。
- ポイント9 芝東照宮
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芝東照宮は、日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮と並ぶ四大東照宮のひとつで、徳川家康を祀っています。
御由緒
御祭神 徳川家康公 御神像
慶長六年元旦御年六十歳の時家臣に命じ之を彫刻せしむ 東京都重要文化財指定
御鎮座年月
永世国家を守護し国民の繁栄を祈願せんとの仰せにより元和三年三月に当地に奉安す
祭日
例大祭 四月十七日(御逝去日)
月次祭 毎月一日 十七日
社殿
権現造り 昭和四十四年八月完成 鉄筋コンクリート 旧社殿は国宝なりしが戦災により焼失す
公孫樹
寛永十八年三代将軍家光公の手植
昭和五年文部省指定天然記念物
参道の奥に鳥居が建っていて、扁額に「東照宮」と書かれています。その横に「家達」と添えられていますが、これは徳川宗家十六代当主徳川家達公が書かれた文字とのことです。ちなみに、徳川第十五代当主は徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜です。
芝東照宮は芝公園の一画にあり、元来は増上寺内の社殿でした。徳川家康は慶長六年(1601年)に還暦を迎えた記念に、自らの像を刻ませた「寿像」を駿府城に祀っていました。元和二年(1616年)、家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言しました。社殿は、同年の10月に着工し、翌年2月に竣工しました。この社殿は、家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」から「安国殿」と呼ばれました。これが芝東照宮の起源となっています。その後、三代将軍家光により寛永十年(1633年)に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となりました。寛永十八年(1641年)には移転改築がなされ、駿府城から惣門・福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居が移築され、本殿の周囲には拝殿・唐門・透塀が造営されて豪奢な社殿が整いました。明治初期の神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となりました。本殿は大正四年(1915年)に特別保護建造物に指定されましたが、昭和二十年(1945年)5月25日の東京大空襲によって「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失しました。現在の社殿は、昭和四十四年(1969年)に再建されました。
境内に聳える大イチョウの木は、徳川家光が手植えしたと伝えられるご神木です。
東京都指定天然記念物
芝東照宮のイチョウ
芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれ、「江戸名所図会」にもその姿が見られる。明治の神仏分離によって増上寺から切り離され、東照宮となった。このイチョウは、寛永十八年(1641年)安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられている。昭和五年(1930年)に史蹟名勝天然記念物保存法に基づいて国の天然記念物第二類(地方的なもの)として指定されたが、昭和二十七年に文化財保護法が改正された時、国指定は一旦解除され、その後昭和三十一年に東京都の文化財保護条例に基づき指定し直され現在に至っている。平成五年(1993年)の調査では、高さ約21.5メートル、目通り幹囲約6.5メートル、根元の周囲が約8.3メートルある。
Plant
Shiba-Toshogu no Icyou (Ginkgo biloba at Shiba-Toshogu)
This ginkgo tree is believed that the 3rd Shogun, Iemitsu Tokugawa, planted it when Toshogu was rebuilt in 1641. This is one of the most giant trees in Tokyo with 21.5 m hight, a trunk circumference of 6.5 m (about 1.2 m above ground) and a circumference of 8.3 m at ground. It was designated as a secondary class monument (local monument) and national treasure by a law passed to protect historical sites and national treasures in 1930. In January 1656, based on the present law for Protection of Cultural Properties, it was once removed from the list of secondary class monuments and national treasures, and later designated again by the Tokyo ordinance of Protection of Cultural Properties. This ginkgo tree has witnessed the transition of Zojo-ji and Shiba park, which are located around.
夏には青々とした葉を繁らせていますが、晩秋になると地面は黄色の落葉で覆われます。
ゴール地点の芝公園駅に戻ってきました。
ということで、港区で最初の「@芝公園一周コース」を歩き終えました。次は港区で二番目の「A三田・麻布大使館めぐりコース」を歩きます。
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