- A三田・麻布大使館めぐりコース
- コース 踏破記
- 今日は港区の「A三田・麻布大使館めぐりコース」を歩きます。みなと保健所をスタート地点として、三田や麻布地域の大使館と寺社仏閣をめぐります。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年7月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
A三田・麻布大使館めぐりコース
麻布は武家屋敷が多く、保科、松平家をはじめとする上屋敷や寺院が多くありました。
「A三田・麻布大使館めぐりコース」の歩行距離は約3.6km、歩行時間は約45分、消費カロリーは約135Kcalです。
スタート地点:みなと保健所
↓
- チリ共和国大使館
↓
- ポイント 1 イタリア大使館
↓
- ポイント 2 綱町三井倶楽部
-
大正二年三井家の迎賓館として建てられました。
↓
- 天祖神社
↓
- ポイント 3 オーストラリア大使館
↓
- 善福寺
-
樹齢760年「逆さ銀杏」があり、初代アメリカ公使宿館跡、ハリス公使の碑があります。
↓
- ポイント 4 大韓民国大使館
↓
- アルゼンチン共和国大使館
↓
- ポイント 5 麻布運動場
↓
- ポイント 6 フィンランド大使館
↓
- ポイント 7 フランス大使館
↓
- ポイント 8 ドイツ連邦共和国大使館
↓
- ポイント 9 有栖川宮記念公園
↓
- 都立中央図書館
↓
- ポイント10 ノルウェー王国大使館
↓
- ポイント11 スイス大使館
↓
ゴール地点:広尾駅出入口1
スタート地点のみなと保健所からチリ共和国大使館に向かいます。
みなと保健所にはレストランが併設されています。保健所にレストランとは、さすがお洒落な港区です。メニューを見ますと、本格的なレストランというよりかは、カフェか喫茶店のような感じです。
- チリ共和国大使館
-
桜田通りの交差点の北東角のオフィスビルの上層階に旗がひらめいています。この旗がチリの国旗だと分かる方はかなりの地理(駄洒落)通でしょう。
桜田通りを南方向に進み、三田一丁目交差点で右折して「綱の手引坂」を上がります。綱の手引坂は長さが約310mほどの緩やかな坂で、別名を「小山坂・姥坂・馬場坂」といいます。平安時代の勇士源頼光四天王の一人、渡辺綱が幼少の砌に姥に手を引かれて行き来したという伝説に因んで坂名が付けられました。
綱の手引坂
つなのてびきざか 平安時代の勇士源頼光の四天王の一人、渡辺綱(わたなべのつな)にまつわる名称である。姥坂(うばざか)とも呼んだが、馬場坂の説もある。
渡辺綱の伝説は次の通りです。
渡辺綱は摂津源氏の源頼光(満仲の子)に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られました。また先祖の源融は源氏物語の主人公の光源氏の実在モデルとされていますが、渡辺綱も美男子として有名でした。「御伽草子」には、大江山の酒呑童子退治の話が載っています。源頼光が家来の渡辺綱・藤原保昌・坂田金時・碓井貞光・占部季武を引き連れて大江山に出向き、八幡・住吉・熊野三神の加護を得ながら酒呑童子一味を見事討ち果たしました。一行は山に囚われていた姫と救い出し、酒呑童子の首を土産に都へ凱旋して帝に首尾を報告して沢山の褒美を授けられました。また、京都の一条戻橋の上で大江山鬼退治で逃げた茨木童子の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話でも有名です。謡曲「羅生門」は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものです。
綱の手引坂の北側一帯で、「三田ガーデンヒルズ」という名称の大規模な再開発が行なわれています。敷地面積2万5千uにも及び、港区最大の低層邸宅地になるとのことです。
左は2021年当時の工事の様子、右は建物がほぼ完成した2024年の様子。
綱の手引坂の坂上で左折しますと、慶応大学の北西端まで急坂が下っています。綱坂は長さが約150mほどのかなり急な坂で、別名を「渡辺坂・馬場坂」といいます。坂名は、渡辺綱が付近に生まれたという伝説に因んでいます。
綱坂
つなざか 羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝説による。
- ポイント1 イタリア大使館
-
綱坂の坂上付近から左折した先にイタリア大使館の正門があります。イタリア大使館の敷地は、江戸時代には伊予松山藩の松平隠岐守の中屋敷となっていました。忠臣蔵で有名な大石主税や堀部安兵衛ら元赤穂藩士10名が切腹した場所です。当時のまま残されている庭園では、駐日イタリア大使が毎年切腹した赤穂浪士の供養をされているそうです。
大使館の外壁にはイタリアらしいポスターが貼られています。最初に訪れた2021年はダンテ没後700年に当たり、記念のポスターが貼られていました。
ダンテ700年
2021年は、1265年にフィレンツェで生まれ、1321年にラヴェンナで没した、イタリアの歴史上最重要人物の一人であるダンテ・アリギエーリを記念する年です。今年は、このイタリアの詩聖・世界文学の巨匠の没後700年ですので、イタリアはその功績に相応しく祝賀することにしました。東京のイタリア大使館を始め、在大阪イタリア総領事館や在日イタリア文化会館など、世界中のすべての大使館が通年で、展覧会、討論会、講演会などさまざまな数多くの事業を実施します。皆様は必ずや、なぜ大使館が、1300年代という昔にフィレンツェやその他のイタリアの都市に住んだ文学者を祝賀して、その人物や業績を伝え広めることに力を入れるのか、疑問に思われることでしょう。当時の日本は、鎌倉時代でした。その答えは、とても簡単です。ダンテは、今日でも世界中で絶賛される作品を遺した並外れた詩人であるばかりでなく、その後数世紀に亘って、画家、芸術家、イラストレーター、そして映画監督までがその作品から着想を得ているからです。ダンテは、1200年代後半から1300年代初頭にイタリアに住んでいた人々が毎日話していた俗語で、初めて作品を著わしました。そのために、イタリア語の父とされており、現在私たちはそのイタリア語を学び、話しているのです。ダンテ以前は、文書、写本、文学作品は、私たちの祖先の言語であるラテン語で書かれていました。従って、ダンテの作品から現代イタリア語やイタリアの文化がもたらされました。イタリアのすばらしい文化遺産の樹がそこから芽し育っていった根に当たると言えます。一方、イタリア語は、1300年代にダンテの不朽の名作によって集大成され、記述されました。当時イタリアは多くの王国や共和国に分割された状態でしたが、その後数世紀を経て国家統一を果たしました。ダンテが700年を経てもなお高名であるのには、もう一つの理由があります。ダンテは、初めてイタリア語で、単なる詩ではなく世界文学の傑作を著したことです。ダンテが編み出したすばらしい三部作では、3つの異なる世界である地獄、煉獄、天国を遍歴する空想の旅が一人称で語られており、そこでは神話上の生き物、宗教上の人物、歴史的人物、さらにはダンテの時代に生きた人々に出会うことができるのです。そのために、ダンテ・アリギエーリは、没後700年を経た今日でも、イタリア文学の最大の代表者であると共に、イタリア語の父として世界中で称賛され、回顧され続けるのです。イタリア大使館は、ダンテの生涯と業績の重要性を理解するのに役立つ歴史的絵画と写真、現代アーティストの視点で詩聖とその作品を表象する画像の6点を展示します。各作品の下部には、「説明文と「神曲」から抜粋した一節が掲載されており、フィレンツェの天才が創造した世界へ皆様をお誘いします。
700 anni di Dante
Il 2021 e dedicato ad uno dei piu importanti Italiani della Storia, Dante Alighieri, nato nel 1265 a Firenze e morto a Ravenna nel 1321. Quest'anno ricorre il 700mo anniversario della morte di questo grandissimo Poeta, un vero gigante della letteratura mondiale, percio l'Italia ha deciso di celebrarlo come merita. Tutte le Ambasciate nel mondo - tra cui questa Ambasciata, il Consolato Generale a Osaka, nonche gli Istituti italiani di Cultura in Giappone - hanno realizzato un fitto calendario di eventi di ogni tipo distribuiti nel corso dell'anno, tra cui mostre, dibattiti, conferenze. Sicuramente vi chiederete: perche un'Ambasciata ha tanto interesse a celebrare, diffondere e far conoscere la figura di un letterato che e vissuto a Firenze e in altre citta italiane nel 1300, mentre in Giappone si era nel
pieno del periodo Kamakura? La risposta e molto semplice: Dante non e stato solo un poeta eccezionale, che ha scritto opere ancora oggi apprezzate in tutto il mondo e che hanno ispirato pittori, artisti, illustratori e anche registi nei secoli successivi. Dante e stato il primo a scrivere in "italiano volgare", nella lingua parlata tutti i giorni dal popolo che viveva in Italia tra la fine del 1200 e l'inizio del 1300, e per questo e considerato il padre della lingua italiana cosi come noi tutti oggi la studiamo e parliamo. Prima di Dante, documenti, manoscritti, opere letterarie erano infatti scritti in lingua latina, la lingua dei nostri avi. Dalle opere di Dante deriva quindi la lingua italiana moderna e la cultura del nostro Paese, le radici che hanno portato a far germogliare e crescere quello splendido albero che e il
patrimonio culturale italiano. Mentre la lingua italiana e stata codificata e
trascritta da Dante nelle sue opere immortali nel 1300, in un'Italia divisa tra
molti Stati, Regni e Repubbliche, per arrivare ad avere un Paese unito ci
vorranno ancora diversi secoli. Inoltre vi e un altro motivo per cui Dante e
cosi celebre e noto anche a settecento anni di distanza dalla sua epoca.
Dante mette in versi per la prima volta in italiano non una semplice poesia,
un capolavoro della letteratura mondiale. Una ma crea un'opera che meravigliosa trilogia in cui egli da vita e attraversa in prima persona tre mondi diversi, l'Inferno, il Purgatorio e il Paradiso, incontrando in questo suo viaggio fantastico creature mitologiche, figure religiose, personaggi storici e anche persone vissute durante la sua epoca. E per questo che, anche a distanza di 700 anni dalla sua scomparsa, continuiamo a celebrare Dante Alighieri come il massimo esponente della letteratura italiana e come il padre della nostra lingua, riconosciuto e apprezzato in
tutto il mondo. L'Ambasciata d'Italia espone qui sei immagini iconiche, che
rappresentano Dante e la sua opera visti con gli occhi degli artisti contemporanei, oltre ad immagini storiche e fotografie che ci aiutano a capire l'importanza della figura del Sommo Poeta. Sotto ogni immagine troverete, oltre alla didascalia delle opere, dei versi tratti dalla Divina Commedia, per farvi entrare nel mondo creato dal genio di Firenze.
左は2024年のポスター、右は2021年当時のダンテ没後700年記念ポスターです。
イタリア大使館から「綱町三井倶楽部」に向かいます。
- ポイント2 綱町三井倶楽部
-
格式あるネオ・バロック様式の綱町三井倶楽部の設計者は、鹿鳴館やニコライ堂、その他著名な建造物を生み出したイギリスの建築家であるジョサイア・コンドルで、大正二年(1913年)に竣工しました。三井倶楽部は、日向・佐土原藩島津淡路守江戸藩邸と会津藩保科家の屋敷跡地に建てられ、南側の斜面及び低地には庭園が広がり、平成二十一年(2009年)頃までは大名屋敷の建物を模して近代に建てられた長屋が前面道路に面して現存していました。
綱町三井倶楽部本館
綱町三井倶楽部本館は、大正二年(1913年)にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計で建てられました。コンドルは明治十年(1877年)に来日し、鹿鳴館、銀座煉瓦街をはじめ幾多の建築にたずさわり、建築の分野で日本の近代化に貢献しました。この建物は、三井家の賓客接待用として建てられたもので、ネオ・バロック風の特徴を持ち、室内装飾や家具
などに優美な曲線の装飾が見られます。また、建物の背後の庭園も優れています。平成二十年(2008年)には、門も建築当時の姿に復元され、大正時代の様子を伝えています。なお、三井倶楽部の敷地は、江戸時代には佐土原藩島津家・会津藩保科家の屋敷があったところで、かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模して近代に建てられた長屋もありました。
現在は三井不動産株式会社が所有・管理しており、使用中のため公開していません。
綱町三井倶楽部から「天祖神社」に向かいます。綱町三井倶楽部の西北角の交差点から坂が下っています。神明坂は長さが約110mほどの緩やかな坂で、別名を「馬場坂」といいます。坂下の天祖神社が元神明宮と呼称されることに因んで坂名が付けられました。
神明坂
しんめいざか 天祖神社を元神明というところから神明坂と呼んだ。馬場坂という説もあるが、綱の手引坂との混同があるらしい。
神明坂の坂下に天祖神社が鎮座しています。
- 天祖神社
-
天祖神社は、寛弘二年(1005年)に一条天皇の勅命により創建され、渡辺綱の産土神であったことから、多くの武人に崇敬されたといわれています。また、江戸時代に徳川将軍家の命により神体や神宝が飯倉神明(現芝大神宮)に移されることになりましたが、氏子・崇敬者の熱意により境内に神体を隠し留め、これを昼夜警護したとも伝えられています。「元神明宮」と称し、藩邸が隣接した有馬氏を始め、広く衆庶の崇敬を集めました。大正十二年の関東大震災や昭和二十年の東京大空襲等の災厄から氏子・崇敬者を守ったとされたことから、厄除けの神としても崇敬を受け、平成十七年(2005年)9月には「御鎮座壱千年」の記念事業を挙行しました。相殿の水天宮は、文政元年(1818年)に有馬家藩邸の邸内社として筑後久留米の水天宮から分祀されたもので、安産の神・水の神として崇拝されてきましたが、明治元年(1868年)に有馬邸が青山に移転するに際してその分霊を相殿として奉斎することになりました(因みに、青山の有馬邸内社の水天宮は日本橋蛎殻町に遷座され、現在の水天宮となりました)。現在の社殿は旧社殿の老朽化のために全面的な改築を行ない、平成六年6月に竣工しました。
天祖神社の斜め向かいに民家のような佇まいのキルギス大使館があります。キルギス共和国は、中央アジアに位置する共和制国家で、首都であり最大の都市はビシュケクです。ソビエト連邦の崩壊に伴い独立し、カザフスタン・中華人民共和国・タジキスタン・ウズベキスタンと国境を接しています。人口600万人のうちキルギス人が過半数を占め、人口の90%はイスラム教徒となっています。
天祖神社から「オーストラリア大使館」に向かいます。
- ポイント3 オーストラリア大使館
-
オーストラリア大使館の敷地には、幕末期に大和柳本藩織田家と日向・佐土原藩島津家の屋敷がありました。明治期になって蜂須賀侯爵家の所有となり、当主の蜂須賀正氏がケンブリッジ大学に留学した後の大正時代に此の地に英国風カントリーハウスを建てました。昭和十五年(1940年)にオーストラリア政府は屋敷を公使館として借用し、昭和二十七年(1952年)に全敷地を購入しました。屋敷は蔦の生い茂る建築物として知らていましたが、昭和六十年(1988年)に現在の現代的な外観の建物に建て替えられました。
オーストラリア大使館から「善福寺」に向かいます。明治通りの二の橋交差点まで坂が下っています。日向坂は長さが約130mほどの急な坂で、別名を「ひなた坂・袖振坂」といいます。江戸時代、坂上付近に徳山藩毛利日向守の屋敷があったことに因んで坂名が付けられました(日向・佐土原藩島津家の可能性もあるのでは?)。
日向坂
ひゅうがざか 江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。袖振坂ともいった。由来は不明である。誤ってひなた坂とも呼んだ。
麻布山入口交差点を右折して善福寺に向かいます。
- 善福寺
-
善福寺は、都内では浅草寺、深大寺に次ぐ古刹のひとつで、境内には福沢諭吉など著名人の墓も多くあります。安政五年(1859年)には、日米修好通商条約に基づき、寺院内がタウンゼント・ハリスら一行の宿舎となり、一室が初代アメリカ合衆国公使館として使われました。万延元年(1861年)には、ハリスの通訳だったヒュースケンが公使館へ戻る際に暗殺され、善福寺内に運ばれて亡くなりました。参道の先に奇妙な形状をした建物が聳えています。元麻布ヒルズフォレストタワー(高所得者向けマンション)の形状は樹木をイメージしています。高さ約96m地上29階のタワーが閑静な住宅街に建つことによって、影やビル風で住民の住環境に害を及ぼす可能性がありました。そこで20階以上の部分の幅を約40m、16階より下の幅を約33mという「頭でっかちで下半身スリム」な形が採用されました。この形にすることで、高層ビルにつきまとう影とビル風という2つの大きな環境問題が解決されました。また下部を細くすることで敷地に樹木が植えられる広いスペースが生まれました。建物の形状から「耐震構造」ではなく、建物と基礎の間の免震装置を介してエネルギーを減衰させる「免震構造」が採用されています。ちなみに、元麻布ヒルズフォレストタワーの敷地は元々は善福寺の所有地でしたが、バブル景気直前の1983年に森ビルが譲り受けてタワーが建設されました。
参道の途中に柳の木が植わっていて、その脇には小さな井戸があります。「柳の井戸」は、空海(弘法大師)が柳の木の下で錫杖を立てたところ、水が湧き出してきたという伝承から名付けられました。現在でも少量ながら水が湧き出ていますが、関東大震災や東京大空襲の際には多くの人々が飲料水として利用しました。
柳の井戸
自然に地下から湧き出る清水である。東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて掘ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。
善福寺の山門には由緒があります。
麻布山善福寺勅使門
当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(1274年)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。寺院の門として最も重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。当時の火災は免れたものの、昭和廿年五月廿五日戦災を受けて焼失し、昭和五十五年十一月五日の再建によって、現在の形を再び現わした。
善福寺の本堂は、江戸時代に建てられた建物を移築・再建したものです。
港区指定有形文化財
建造物 善福寺本堂
善福寺本堂は、当初東本願寺八尾別院大信寺の本堂として建設された建物を移築して、昭和三十六年に現在地で組上げたものです。大信寺は慶長年間の創建で、移築された本堂は明和四年(1767年)に再建されたものです。再建の際に創建当初の柱など建築部材を一部利用したと思われます。正面幅約二十八メートル、奥行約三十四メートル。入母屋屋根、桟瓦葺。広い外陣と装飾性豊かな内陣、内陣の正面を華やかな欄間彫刻で飾り、金、極彩色で仕上げ、浄土真宗特有の形式をとります。組物は尾垂木付の二手先です。天明の大火[天明八年(1788年)]で京都の東本願寺が焼失したので、同年から寛政十年(1798年)まで東本願寺へ移築されて御影堂として使用されましたが、翌年八尾別院に再建されました。本建築は江戸時代の大規模な浄土真宗の本堂の構成を良く示す都内有数のものであり、また三度の移築を経るなど特殊な履歴も含めて、大変に貴重な建築です。
本堂前の広場に、「アメリカ公使宿館跡」の記念碑があります。
東京都指定旧跡
最初のアメリカ公使宿館跡
安政五年(1858年)六月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政六年(1859年)善福寺をアメリカ公使館として八月に赴任します。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していましたが、文久三年(1863年)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを消失したため、本堂、開山堂なども使用しました。明治八年(1875年)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。寺には「亜墨利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられています。
Historic Places
Saisho no America Koshi Shukukan Ato (The place of the first legation for American minister)
After the conclusion of the Treaty of Amity and Commerce between United States and Japan in June 1858, Townsend Harris, an American consul general at Shimoda, was promoted to minister and was transferred to the legation on Zenpukuji Temple in August 1859. Its drawing room and a part of reception hall of the temple were used for their
residence. After their drawing room and others burnt down by the attack of samurais who left Mito Domain, they used also its main building and temple hall commemorated
its founder for their legation until 1875 to move to the Tsukiji Settlement. However,those buildings were lost by the World War II, some records remain and tell us the details of the legation.
墓地の一画に公孫樹の巨木が聳えています。こんなに太い幹は初めて見ました。「逆さいちょう」と呼ばれる推定樹齢750年以上の公孫樹の木は、親鸞聖人自らが植えたとされ、伝承によりますと、親鸞の突いた杖から生えてきたといわれています。「逆さいちょう」の名前は、枝が下のほうに伸びて逆さになっているように見えることに由来しています。大戦時の空襲で被災して小さくなったものの、現在でも都内最大のイチョウであり、国の天然記念物に指定されています。
国指定天然記念物
善福寺のイチョウ
イチョウ(銀杏・公孫樹)は、中国原産のイチョウ科の落葉高木である。雌雄異株で、神社や寺院の境内樹・公園樹・庭園樹・街路樹として広く植栽されている。四月に開花し、雌株は十月に種子(イチョウの実)が成熟して独特の臭気を放ち、黄葉する。この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは10.4メートルあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹令は750年以上と推定される。善福寺は、昭和二十年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。根がせり上がって、枝先が下にのびているところがら「逆さイチョウ」ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した杖から成長したとの伝説から「杖イチョウ」の別名もある。
Giant Ginkgo-Tree of Zempukuji
The Zempukuji Temple founded in 824 by Kobo Daishi (founder of the Shingon Sect of Buddhism, was converted in 1232 to a sanctuary of the Jodo-Shinshu Sect, as the abbot of the temple. Saint Ryokai, became the follower of Shinran-Shonin, the founder of that sect. This sect claims salvation by faith in Amitabha, who is invoked by the prayer formula Namu-Amida- Butsu. The legend goes that on leaving the temple after teaching Abbot Ryokai the doctrines of his sect, Shinran Shonin put down his staff in the ground, saying that such was the manner in which the prayer formula was to be propagated and the manner in which the common mortal would come to his end. Soon the
staff began to put forth buds and spread branches, finally growing into a stately
ginkgo-tree. In 1926 the tree was designated a "Natural Monument" by the Government. It measures nearly 10 meters in girth and 20 meters in height, although its trunk was burnt and perhaps it's the oldest of its kind in Tokyo, broken by an incendiary bomb toward the end of the last war.
墓地には、昭和時代の歌手の越路吹雪の歌碑があります。芸能関係者らが訪れることもあり、その姿が報道されることもあります。石碑には、越路吹雪の代表曲である「愛の讃歌」の歌詞も刻まれています。なお、越路吹雪の墓所は川崎市にあるそうです。
墓地には、福沢諭吉夫妻のお墓もあります。福沢諭吉は慶應義塾大学の創設者で、命日の2月3日には慶應義塾の関係者らが多数福沢諭吉の墓所を訪れます。福沢諭吉の葬儀は福沢家の菩提寺である善福寺で行われましたが、埋葬されたのは品川区上大崎の常光寺でした。しかし、複雑な事情により、昭和五十七年(1977年)に善福寺の墓地に改葬されました。
善福寺から「大韓民国大使館」に向かいます。麻布山入口交差点付近から仙台坂上交差点まで、長い坂が上がっています。仙台坂は長さが約330mほどの緩やかな坂で、坂名は江戸時代に坂の南側に仙台藩伊達家の下屋敷があったことに因んでいます。
仙台坂
せんだいざか 坂の南部一帯が仙台藩伊達家の下屋敷であったところから、その名に呼ぶことになった。
- ポイント4 大韓民国大使館
-
大韓民国大使館は、仙台坂の中ほどに位置しています。大韓民国(韓国)は、1948年8月15日に独立国家として建国を宣言した後、1949年1月14日に中央区銀座4丁目の服部時計店ビル(和光ビルディング)を間借りする形で駐日大韓民国代表部を設置しました。その後、サンフランシスコ講和条約の発効により、駐日大韓民国代表部は服部時計店ビルを立ち退くこととなり、移転先を探していたところ、戦前は明治の元勲たる松方正義一族の邸宅であり、戦後は駐日デンマーク公使の公邸であった港区南麻布の土地を見つけ、在日大韓民国人であった大阪府の阪本紡績社長の徐甲虎などの尽力により物件を入手し、駐日大韓民国代表部を移転させました。1965年に日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が締結され、その年の12月18日に発効して日本国と大韓民国の外交関係が樹立されたことを受け、直ちに駐日大韓民国代表部は「駐日本国大韓民国大使館」に昇格し、本格的に外交業務を開始して現在に至っています。
大使館の警備は厳重で、写真を撮るのは至難の業です。
大韓民国大使館からアルゼンチン共和国大使館に向かいます。
- アルゼンチン共和国大使館
-
大韓民国大使館から仙台坂を上がった仙台坂交差点の右手にアルゼンチン大使館があります。アルゼンチンといえばワインと牛肉ですね。アルゼンチンで最も主要なワイン産地はメンドーサ州で、全体の7割のワインを生産しています。また、世界でもっとも高品質なマルベック種のワインを生産する国として知られています。私も一時期ハマってしまいました。アルゼンチンでは牛は放牧されていて、自然の牧草を食べて育っていますので無駄な脂肪がなく、肉本来の味わいのあるおいしい牛肉を安く食べることができます。普通、家で食べる牛肉は100g65円くらいで、上質の肉でも100g85円くらいで手に入ります。私がアルゼンチンに住んだら即肥満死することになるでしょう。
アルゼンチン共和国大使館から麻布運動場に向かいます。
- ポイント5 麻布運動場
-
有栖川宮記念公園と有栖川公園通りを挟んで向い合っている「麻布運動場」の東の角の交差点脇に木製の奇妙なモニュメントが建っています。ケヤキの枯れ木を風車をイメージして再生したのだそうです。
風の吹くところ 石上和弘
このモニュメントは、街路樹として長い間人々に愛されてきたケヤキの枯木を、新たな地域のシンボルとして再生したものです。
麻布運動場は、軟式野球場と庭球場からなるスポーツ施設です。
軟式野球場の広さは、両翼77メートル・中堅88メートルの土と芝生の球場です。また、テニスコートは砂入人工芝を使用しています。
麻布運動場から「フィンランド大使館」に向かいます。
- ポイント6 フィンランド大使館
-
フィンランド大使館は、港区内にある約60もの大使館のひとつです。大使館の建物は1983年に建てられ、大使館の中庭には樹齢数百年の堂々とした椎の古木が聳え、重厚な雰囲気を添えています。
フィンランド大使館から「フランス大使館」に向かいます。大使館ではありませんが、EU(欧州連合)の代表部もフィンランド大使館の近くにあります。キプロス共和国の大使館も同じ建物に入っているようです。
- ポイント7 フランス大使館
-
フランス大使館の庁舎は2009年11月に竣工しました。日仏協力の下で旧庁舎と同じ敷地内に建設された新庁舎は極めて洗練された外観をしていて、環境性能の高い現代的な建物です。新しい大使館は環境に極めて優しい建物で、高性能の断熱システムに加えて、雨水を回収できる緑化屋根を備えています。設備全体がエネルギー消費の管理制御システムを装備し、照明システムはすべて省エネ型となっています。自然換気システムによって空調エネルギー消費量を四季を通じて最適化することができ、建物にはリサイクル建材もしくはリサイクル可能な建材が多数使われています。これらの特長によって新庁舎は日本の評価レベルで最高ランクの「S」の格付けを取得しました。日本でこれほど高い評価を受けた公共事務所建築物は他にありません。
フランス大使館から「ドイツ連邦共和国大使館」に向かいます。有栖川宮記念公園の南側のドイツ大使館前に坂が上っています。南部坂は長さが約200mほどのやや急な坂で、坂名は、江戸時代に有栖川宮記念公園の敷地が盛岡南部家の屋敷であったことに因んでいます。
南部坂
なんぶざか 有栖川宮記念公園の場所が赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)
- ポイント8 ドイツ連邦共和国大使館
-
現在のドイツ大使館が位置する一帯は、江戸時代初期は「広尾」という地名でした。明治時代になっても、「土筆(つくし)が岡」と呼ばれるほど武蔵野の面影を残す野趣に富んだところでした。大使館は武蔵野台地の先端部に位置し、大使公邸から南の部分は急斜面になっています。江戸時代には斜面の場所に「麻布御薬園」が置かれ、五代将軍綱吉は別荘となる「白銀御殿」を造営させました。富士山が望めたことから「富士見御殿」とも呼ばれていました。現在も近くに「富士見坂」という坂名が残っています。江戸時代には、現在の大使館敷地は武家地でしたが、明治時代に入ると一時期この場所には海軍の懲罰施設「海軍囚獄処」が置かれていました。大正時代には、政治家で政友会の重鎮だった小泉策太郎が現在の大使館が建っている敷地に接客用の洋館と居住用の和館から成る邸宅を建て、庭園を築きました。小泉の没後、日本タイプライター会社の創設者で衆議院議員の桜井兵五郎が終戦時までここに邸宅を構えました。戦後、不動産は康楽寺に委ねられ、一時期は中国大使館の施設としても利用されていました。最初の駐日ドイツ領事館は、文久二年(1862年)に横浜市に開設され、その4年後に麻布の春桃院に移設されました。その後、明治五年(1872年)から昭和二十年(1945年)にかけて、永田町に公使館(1906年以降は大使館)が設置されました。昭和二十年(1945年)5月の空襲で大使館は焼失し、戦後は他のドイツ関連資産と同様に、大使館の土地もGHQの接収対象となりました。国会議事堂の隣にあるこの場所には、現在国立国会図書館が建っています。その後、昭和二十七年(1952年)から昭和三十五年(1960年)にかけて、大使館は麻布東鳥居坂町(現在の六本木5丁目)に置かれました。昭和二十九年(1954年)、日本政府から戦前のドイツ大使館敷地に対する一種の代替地として、現在の港区南麻布の土地を1円という名目的な価格で取得することについて打診がなされました。当時この土地には中華民国(台湾)大使館の官舎が建っていました。その2年後、面積約14、500平米の敷地に大使館事務棟と大使公邸を建設する作業がスタートしました。事務棟も公邸も現代建築の粋を集めたものでした。竣工と入居は大使公邸が1957年、事務棟は1960年でした。事務棟内部の吹き抜けの階段室には、1階から最上階にまで達する南向き全面にガラスブロックの部材をふんだんに使った明かり取りが設けられていました。ルーフ部分の軽やかな反り屋根は西洋的な機能主義と東洋的建築意匠の伝統の組み合わせを表現していました。1995年の阪神淡路大震災後、大使館事務棟と大使公邸の耐震性検査が行われ、事務棟は新築が必要であるとの結論が出されました。新事務棟の基本設計選定にあたっては国際コンペが実施され、5階建てキューブ型(箱形)の建物を提案したマーラー・ギュンスター・フクス設計事務所が当選しました。開放的で透明性が高い一方で、質実剛健なデザインでもあります。
ドイツ連邦共和国大使館から「有栖川宮記念公園」に向かいます。
- ポイント9 有栖川宮記念公園
-
有栖川宮記念公園はかつての有栖川宮の御用地(有栖川宮御用地)に造られた公園で、現在は港区立の公園となっています。園内は起伏に富み、東側の高台から西南側の低地に向けて大きく傾斜した地形となっています。公園の敷地は、江戸時代に陸奥盛岡藩下屋敷でした。明治二十九年(1896年)に有栖川宮威仁親王が霞が関の御殿から転居することとなり、代替地として御用地となりました。有栖川宮家が断絶すると、大正二年(1913年)には同家の祭祀を引き継いだ高松宮に継承され、高松宮御用地となりました。児童の健康や自然に格別の関心を持っていた高松宮は、昭和九年(1934年)1月5日に有栖川宮の没後20年の命日に因んで御用地約11、000坪を公園地として東京市に下賜され、東京市はただちに整備工事を開始して有栖川宮記念公園と命名し、同年11月に開園しました。
有栖川宮記念公園の由来と特色
この地は江戸時代、旧盛岡藩主南部美濃守の下屋敷でしたが、明治二十九年(1896年)に有栖川宮御用地となり、更に大正二年(1913年)には高松宮御用地となりました。その後、児童の自然教育および健康に格別の関心をもたれた高松宮殿下が、昭和九年(1934年)1月5日、故有栖川威仁親王の御命日にちなんで御用地約11、000坪(36、325u)を公園地として賜与され、当時の東京市は直ちに工事を進め、同年11月17日有栖川宮記念公園と命名し開園したものです。本園は都心にはまれな閑雅な地であり、丘陵から渓谷を下り池畔に至る地形の変化と、うっそうとした樹木など日本古来の林泉式の修景により、高雅な自然趣味の庭園となっております。またウメやサクラ、ハナミズキなどをはじめとして四季折々の花も多く、秋にはカエデやモミジの紅葉も楽しむことができます。また、園内の広場には本園にゆかりの深い故有栖川宮熾仁親王の銅像があります。なお、現在は麻布野球場と庭球場を編入し、本園の総面積は67、131uです。
Origins and Special Features of Arisugawanomiya Memorial Park
This land was the site of the Tokyo-area estate of Nanbu Minonokami, samurai lord of
the former Morioka Domain, from the Edo Period (1603-1867) until 1896. In that year,
the land went to Arisugawanomiya line of the Imperial Family, and then in 1913 it was
passed on to the Takamatsunomiya line. Out of a great personal interest in promoting
children's health and education about nature, His Imperial Highness Prince Takamatsu
(Nobuhito) (1905-1987) donated 36,325m (approximately 9 acres) of land for use as a park on January 5,1934, the anniversary of the death of Prince Arisugawa Takehito
(1862-1913). The city of Tokyo immediately began construction and the Arisugawanomiya Memorial Park was opened on November 17,1934. The park's cascading hills and valleys, ponds, and densely wooded areas have been arranged in harmony with the natural terrain according to the traditional Jaoanese rinsen style of landscaping, expressing an elegant natural beauty and crestion a tranquil setting rarely found in central Tokyo. The park is also home to numerous seasonal flowers such as plum and cherry blossoms, flowering dogwoods, and water lilies, and the different varieties of maple tree offer a beautiful display when their leaves change colors in autumn. In addition, a statue of Prince Arisugawa Taruhito (1835-1895) sits in an open space on top of a hill, commemorting the connection between the park and the Arisugawanomiya family. After having expanded to include the Azabu Baseball Field and tennis courts, the park's total area is currently 67,131m (approximately 16.6 acres).
園内の広場には、有栖川宮熾仁親王の銅像があります
有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)の銅像
有栖川熾仁親王(1835年〜1895年)は有栖川宮家九代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役ですぐれた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治二十八年(1895年)1月に亡くなられました。この銅像は大熊氏広作で明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治三十六年(1903年)10月10日千代田区三宅坂旧参謀本部構内に建立したものを、昭和三十七年(1962年)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園に移設しました。
有栖川宮記念公園には、都立の図書館もあります。
- 都立中央図書館
-
都立中央図書館は、昭和四十八年(1973年)に、都立日比谷図書館の蔵書を引き継いで開館しました。蔵書数は国内の公立図書館では最大級の約225万冊を所蔵していて、このうち新しい図書を中心に約35万冊を開架しています。なお、資料の個人貸出は行っていません。
有栖川宮記念公園から木下坂を上がって「ノルウェー王国大使館」に向かいます。木下坂は長さが約340mほどの緩やかな坂で、やや左にカーブしながら上がっています。江戸時代に坂の北側に木下家の屋敷があったことが坂名の由来になっています。
木下坂
きのしたざか 北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために、呼ばれるようになった坂名である。
- ポイント10 ノルウェー王国大使館
-
2021年にノルウェー大使館を訪れた時は南麻布に大使館が置かれていましたが、2023年5月からは改修工事のため、一時的に芝公園ビルの9階で業務を行っています。
左が2021年当時の大使館、右が2024年に再訪した際の工事中の大使館です。
「KGL・NORSK AMBASSADE」とは、「ROYAL NORWEGIAN AMBASSADE」の意味らしいです。ちなみに、ビートルズの作品に「NORWEGIAN WOOD」という曲がありますが、日本では「ノルウェーの森」というタイトルになっています。本当のところは「ノルウェイ材を使った家具・内装の部屋」という意味らしいですが、「WOOD」を直訳して「森」としたらしいです。「WOODS」でないと「森」とは訳せませんが語呂が良かったのでしょうか。歌詞を読めば「森」とは絶対にならないのですが、日本人は英語の歌詞の意味なんか誰も気にしませんからね。
大使館の外壁には、ノルウエーの代表的な画家ムンクの「叫び」の絵が貼られています。
ノルウェー王国大使館から道路を挟んだ向かい側にある「スイス大使館」に向かいます。
- ポイント11 スイス大使館
-
スイスと日本の外交関係は、徳川幕府とエメ・アンベール=ドロー率いるスイス連邦代表団が元治元年(1864年)に修好通商条約を締結した時に始まりました。それ以来、両国の関係は発展を続け、その成果は強い経済関係、科学技術や教育分野での協力、高官レベルの訪問回数の多さ、豊かで多様性に富む文化交流などに現れています。平成二十六年(2014年)には日本とスイス国交樹立150周年を迎えました。この年だけで250を超えるイベントが日本各地で開催され、様々な分野で両国のつながりを深めるために大いに貢献しました。スイス大使館は、両国の外交関係に関わる政治・経済・金融・法務・科学・教育・文化・観光などのあらゆる分野でスイスの利益を代表しています。
ゴール地点の広尾駅に着きました。
ということで、港区で二番目の「A三田・麻布大使館めぐりコース」を歩き終えました。次は港区で三番目の「B赤坂御用地一周と青山霊園・六本木コース」を歩きます。
戻る