- B赤坂御用地一周と青山霊園・六本木コース
- コース 踏破記
- 今日は港区の「B赤坂御用地一周と青山霊園・六本木コース」を歩きます。高橋是清翁記念公園をスタート地点として、赤坂御用地を一周し、青山霊園で師走のお墓詣でをします。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年8月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
B赤坂御用地一周と青山霊園・六本木コース
「B赤坂御用地一周と青山霊園・六本木コース」の歩行距離は約5.5km、歩行時間は約1時間10分、消費カロリーは約200Kcalです。
- スタート地点:高橋是清翁記念公園
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2.26事件のゆかりの地です。
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- ポイント 1 赤坂コミュニティぷらざ
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- ポイント 2 豊川稲荷
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愛知県豊川稲荷の別院です。
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- ポイント 3 弾正坂
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- 紀伊国坂
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- ポイント 4 迎賓館
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外国の大統領や首相などの貴賓客に対して設けられた国の迎賓施設です。
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- 安鎮坂
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- 明治記念館
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- 権田原交差点
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- ポイント 5 絵画館
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- ポイント 6 青山一丁目駅
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- ポイント 7 外苑前(246号)
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秋のイチョウ並木の黄葉が素晴らしい!
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- ポイント 8 梅窓院
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前庭の竹並みが美しい!
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- 子育てひろば あい・ぽーと
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前庭の竹並みが美しい!と
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- ポイント 9 赤坂消防署
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- ポイント10 青山霊園
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都内で最大の霊園です。
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- ポイント11 西麻布交差点
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- ゴール地点:六本木ヒルズ(毛利庭園)
スタート地点の高橋是清翁記念公園から歩き始めます。高橋是清翁記念公園は、青山一丁目駅と赤坂見附駅の中ほどの青山通り沿いに位置し、かつて政財界で活躍した高橋是清の邸宅跡につくられた公園です。高橋是清は、安政元年に幕府絵師川村庄右衛門の子として増上寺中門前で生まれました。仙台藩士高橋是忠の養子となり、11歳の時に横浜ヘボン塾で英語を学び、14歳で米国へ留学しました。宿泊先から奴隷に売られ、苦労の末明治元年に帰国し、官吏や日銀総裁を経て政界へ入り、満州事変以後歴代内閣の蔵相を務めました。卓抜な英語力と苦境に強い精神力を持ち、「ダルマ」の愛称で親しまれましたが、昭和十一年の2.26事件でこの場所にあった邸宅で暗殺されました。池のある日本庭園の趣きをもった公園は、カエデ・モッコク・ウラジロガシなどの広葉樹が四季を彩り、訪れる人を楽しませてくれます。
高橋是清翁記念公園の沿革
この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年〜1936年)の邸宅があったところです。翁は、昭和十一年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和十三年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和十六年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和五十年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母家は故人の眠る多摩霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和三十年(1955年)に再建されました。現在の面積は5、320uで、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。
公園は、手前にすべり台や砂場がある遊具スペース、奥に池や木々が配された庭園スペースとなっています。庭園スペースには、多くの石像や石燈籠が置かれ、和漢折衷の独特な雰囲気があります。緑豊かな庭園スペースに足を踏み入れると、木々のゆれる音や水のせせらぎが聞こえ、都会の喧騒から一歩遠ざかってリラックスした気分になります。
庭園スペース奥の築山には、高橋是清の銅像が建てられています。記念公園が開園した1941年に初代の銅像が建てられましたが戦時中に失われ、現在あるのは1955年に建てられたものです。初代は洋装で現在は和装の姿ですが、どちらも制作者は彫刻家の齋藤素巌です。石碑には、高橋是清の業績と公園設立の経緯について記されています。
高橋是清翁ハ安政元年江戸芝ニ生ル。幼小轗軻不遇(かんかふぐう:ふさわしい地位や境遇に恵まれないさま)。十四歳ニシテ北米ニ渡航。刻苦勉學シ、長シテ轉々窮境ニ在ルモ、氣宇益高邁識見常ニ卓抜。夙ニ特許制度ヲ創設シ、殖産興業國家経済ニ盡瘁シ、或ハ戦時財政ノ確保ニ貢獻スル所多ク、日本銀行總裁・大蔵大臣ヲ歴任シテ、遂ニ首相ノ樞職ニ就き、日夜一死報國ノ純忠ニ終始セラレタリ。昭和十一年二月倏忽(しゅつこつ:たちまち)トシテ此邸ニ薨ス。年八十三。本邸ハ明治三十三年以来翁カ日常起居ノ處ニシテ、之ニ臨メハ洵ニヨク、其ノ高風雅懐ヲ偲フニ足レリ。昭和十三年十月嗣子子爵橋是賢氏ハ故橋是清翁記念事業會卜戮力(りくりょく:互いに心を一つにして協力し合うこと)、邸地二千坪ヲ擧ケテ本市ニ寄附シ永ク翁ヲ追慕スルノ資タラシム。本市ハ其趣旨ヲ承ケ、諸般ノ保存施設ヲ了セリ。茲(ここ)ニ公開ニ當リ由緒ヲ記シ、以テ之ヲ後世ニ傳フ。
公園のトイレの裏に旧赤坂区役所跡の案内板が立っています。
最初の赤坂区役所跡
明治初年の地方制度は、いくたびか改正の繰り返しが続きましたが、明治十一年(1878年)七月二十二日、近代地方自治の歴史上画期的な郡区町村編制法などの公布によって、同年十一月二日、東京は十五区六郡に区画され、区会も設けられました。その時、現在の赤坂・青山の地域が赤坂区として誕生し、最初の赤坂区役所が赤坂表町三−五(現在赤坂七−二[本公園東隣敷地の一画])に置かれ、同年十一月四日に開庁しました。初代区長は翌年一月、島津忠亮が任命されました。赤坂区役所はその後、表町一丁目などに移り、さらに明治二十四年に現在の港区役所赤坂地区総合支所の位置に移りました。なお、芝・麻布・赤坂区は、昭和二十二年三月十五日、統合されて港区となりました。
青山通りの赤坂支所前交差点から南側に、中央が鍋底のようになった坂があります。薬研坂は長さが約180mほどの急坂で、坂の中央付近を底にして北から南に向かって左に曲がりながら下り、底の地点から上っています。別名を「何右衛門坂」といいます。坂名は、中央が窪み、両側が高くなっている形が薬研に似ていることに因んでいます。
薬研坂
やげんざか 中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。
- ポイント1 赤坂コミュニティぷらざ
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赤坂コミュニティぷらざは平成七年(1995年)に竣工し、赤坂地区総合支所や赤坂区民センターなどの施設が入っています。区民センターは、区民の相互交流と自主的活動を促進し、区民福祉の増進を図ることを目的として設立され、定員400名の区民ホールや多目的室などの施設があります。赤坂支所4階の区役所食堂「レストラン ローザ」は、午前11時から夕方まで通し営業をしていて、大きな窓から赤坂御所の緑の木々を眺めながらゆったりとお食事ができます。日替わり定食は二種類あって、サラダと小鉢が付いていますので結構ボリュームがあります。
赤坂コミュニティぷらざから青山通りを挟んではす向かいにある「豊川稲荷」に向かいます。
- ポイント2 豊川稲荷
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豊川稲荷東京別院は曹洞宗の寺院で、豊川稲荷妙厳寺(愛知県豊川市)の唯一の直轄別院(飛び地境内)となっています。代々豊川稲荷を信仰していた大岡家では、江戸南町奉行として活躍した大岡越前守忠相の時に豊川稲荷から(だ)枳尼天を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのが由来となっています。江戸では稲荷信仰が盛んだったため、大岡邸では毎月「午の日」と22日に門を開けて、一般庶民の稲荷への参拝を許していたといわれています。文政十一年(1828年)に信徒の要望により、妙厳寺が大岡邸の敷地の内、4分の1(約250坪)を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが東京別院の創建とされています。江戸参詣所が設けられたことにより、一般信徒も毎日参拝ができるようになりました。その後、大岡邸の一角では手狭になり、堂宇の新・増築も困難であることなどから、明治二十年(1887年)に現在の地に移転しました。
豊川稲荷縁起
豊川稲荷は稲穂を荷い白狐に跨り給うお姿の豊川(だ)枳尼真天にましまし。今から凡そ七百余年の昔、順徳天皇第三皇子寒巌義尹禅師によってはじめて感見され、それより代々伝えられて嘉吉元年(西暦1441年)旧十一月二十二日豊川の霊場豊川閣妙厳寺に奉祀されました。爾来福徳の善神として広く御信者の皆様に信仰せられて今日におよんでおります。当山は愛知県豊川閣の東京別院で江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公が生涯の守護神として日夜信仰せられた由緒ある豊川(だ)枳尼真天の御尊像をおまつりする霊場であります。
THE TOYOKAWA INARI
The Toyokawa Inari is in reality the Toyokawa Dakini Shinten, one of the many Buddhist
saints who were Protectors of the Buddhist doctrines. this saint has a beautiful countenance mounted on a white fox, carrying the ear of rice, and is called the Toyokawa Inari, It has been enshrined in the Myogon-ji, a temple in Toyokawa City,
Aichi Prefecture, since the first founder Kangan Giin received an inspiration, enshrined it about 700years ago, Since then it has been worshipped by peoples of all walks of life bringing them happiness and Saving them from their suffering through the generations to this day.
本殿には、東京別院の本尊である豊川(だ)枳尼天が祀られています。豊川(だ)枳尼天は、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・厄除けなど、様々な御利益をもたらすとされ、特に商売繁盛のご利益で有名であり、多くの企業経営者や商売人が参拝に訪れます。豊川本院の秋季大祭(11月22日)の夜、別院本殿では「おこもり会」が催されます。かつて交通手段が不便だったため、豊川本院に行けない信徒のために明治頃から始まったといわれています。
豊川稲荷と言えば狐ですね。本山の愛知県の妙厳寺豊川稲荷に比べればその数はかなり少ないですが、東京別院にもたくさんの狐たちがいます。稲荷神社の狐は神様の使いです。
豊川稲荷東京別院には幾つかの境内社があります。叶稲荷尊天は縁切り稲荷と呼ばれ、災いと縁を切る、悪いことと縁を切る、いろいろありますが、やはりここを熱心にお参りする人は人間関係の悪縁を切りたいのでしょうか。
三社殿は、中央に商売繁盛の御利益がある宇賀神王、左に円満な人間関係の御利益のある徳七郎稲荷、右に健康の御利益のある太郎稲荷が並んでいます。一度お参りすると沢山の御利益が頂けますね。
三社殿の裏には愛染明王が鎮座されています。恋愛成就・縁結びのパワースポットとして知られ、縁結びや恋愛成就をお願いする絵馬がたくさん結ばれています。愛染明王の祠の前には梛(なぎ)の木が2本立っていて、注連縄で結ばれています。
神木 梛(竹柏)の木
鎌倉の北條政子と源頼朝が梛の木の下で愛を誓って結ばれた事から縁結びの神木として今日に伝えられております。「縁が切れないように」と、この葉を身につけたり、鏡の裏にしのばせて御守りとしてきました。男女のご縁にかかわらず、人と人のご縁を結ぶことから、「商売繁昌」にも通じる大変縁起のよい木なのです。
融通稲荷は、黄色の子袋に入れられた融通金と呼ばれる10円玉を1年間借りて持ち歩き、その後利息を添えて返すことで金運向上のご利益があるとされています。
融通稲荷縁起
融通稲荷と申しますのは財宝を生む尊天様で、正しくは南無如意宝生尊天のことです。皆さまが真心を込めて信心すると金銀財宝の融通が叶えられると言い伝えられています。大きな幸せが授かるように願いを込めてお参り下さい。お受けになられた融通金は一年後に礼金として奉納する習わしになっております。融通金は常に財布の中に入れて大切に祈念して下さい。
豊川稲荷には1ケ所七福神があります。初詣のついでに七福神巡りができますね。
左から、大黒天・毘沙門天・恵比寿・寿老人・福禄寿・弁財天・布袋の神々です。
大黒堂にも大黒天様が祀られています。こちらは「南無豊川招福利生大黒尊天」と呼ばれ、豊川(だ)枳尼真天の化身とされる神です。多くの福を招き、災難を除いてくれると言われ、長い間本殿に祀られていましたが、現在は大黒堂に遷され、七福神の大黒天とは別みたいです。
豊川稲荷と坂道を挟んだ向かい側に赤坂御用地の巽門があります。皇室の方々が出入りされる最も重要な正門です。
豊川稲荷と赤坂御用地の間を「弾正坂」が下っています。
- ポイント3 弾正坂
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弾正坂は長さが約300mほどの緩やかな下り坂で、豊川稲荷と赤坂御用地の間から青山通りを跨いで更に南側の山脇学園前まで延びています。坂名は、坂の西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼に任ぜられたことに因んでいます。弾正とは、弾正台(監察・治安維持などを主要な業務とする役所)の次官をいいます。
弾正坂
だんじょうざか 西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた。
弾正坂から「迎賓館」に向かいます。外堀通りから迎賓館に向かって緩やかにカーブした坂が上がっています。
- 紀伊国坂
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紀伊国坂は長さが約340mほどの左に曲がりながら緩やかに上る坂で、別名を「紀国坂」といいます。坂名は、江戸時代に坂の西側に紀州徳川家の屋敷があったことに由来します。紀州が「紀の国」と呼ばれたことから、屋敷に上る坂を「紀之国坂」と呼ぶことになったとのことです。また、紀州徳川家の屋敷が「赤根山」と呼ばれていたことから、「赤根山の坂」が短縮されて「赤坂」の地名が付いたともいわれています。但し、諸説があって本当のところは分かりません。
紀伊国坂
きのくにざか 坂の西側に江戸時代を通じて、紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。
紀伊国坂交差点の先に堂々とした黒門があります。現在は迎賓館東門になっていますが、かっては紀州藩徳川家中屋敷表門として使われていました。門が開いているところを見たことがありませんので、「開かずの門」といったところでしょうか。
- ポイント4 迎賓館
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迎賓館は、外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎え入れた際に、会食や宿泊等の接遇を行う施設です。日本では皇居宮殿での歓迎晩餐会の答礼など、外交儀礼のための接宴として天皇など皇室関係者が臨席して晩餐会が開催されることもあります。迎賓館は港区元赤坂の迎賓館赤坂離宮と、京都市上京区の京都御苑内の京都迎賓館の2か所があります。2015年までは非公開でしたが、2016年からは通年一般公開されるようになりました。本館と庭園(前庭・主庭)は予約なしで参観できますが、和風別館は完全予約制となっています。
迎賓館から「絵画館」に向かいます。迎賓館と道路を挟んだ西側に学習院初等科があります。元々は神田錦町にありましたが、火事や老朽化で校舎が使えなくなり、最終的に現在の地に移動しました。現在の本館は明仁親王が入学する際に建設されましたが、戦争から身を守るために地下室が設置され、校舎もその頃では珍しいコンクリート製で建てられました。日本で初めてランドセルを使用したことでも知られています。
学習院初等科の先から迎賓館の西側に沿って坂が下っています。鮫河橋坂は長さが約200mほどの緩やかな上り坂で、江戸時代にこの付近に湧き水があって鮫河が流れ、ここに鮫河橋が架かっていたことが坂名の由来になりました。坂の途中にある「みなもと町公園」の前に公園の由来を書いた説明板が立っていて、そこに坂名の経緯が書かれています。
鮫河橋坂
みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の大地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外堀工事の際に余った土で埋め立てられて、町になったといわれています。鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋(さめがはし)と呼ばれていました。鮫河橋は「江戸名所図会」にもとりあげられて有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、今でもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残しています。
- 安鎮坂
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鮫河橋坂下の南元町交差点付近から赤坂御用地の西端に沿って明治記念館横の権田原交差点まで坂が上がっています。この辺りは区境が入り組んでいますが、この坂の西側と南側が港区、北側が新宿区となります。安鎮坂(あんちんざか)は長さが約320mほどの緩やかな坂で、別名を権田原坂といいます。坂名は、付近に安鎮(安珍)大権現の小社があったことに因んでいます。
安鎮坂
あんちんざか。付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう。
安鎮坂上で外苑東通りの権田原交差点に出ます。
- 権田原交差点
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「権田原」の名前の由来は、付近に屋敷のあった権田氏、あるいは権田原僧都の碑にちなむなど諸説があります。この地には、昔、幕府の代官・権田隼人なる者の屋敷地だったとも、あるいは権田丈之助、権田小三郎とその組下の組屋敷だったともいわれています。
権田原交差点の角に、明治神宮による結婚式場として知られる明治記念館があります。
- 明治記念館
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明治記念館の建物は明治初頭に建てられた赤坂仮御所の別殿で、ここで大日本帝国憲法や皇室典範の草案審議の御前会議が行われました。その後、この建物は憲法制定の功績で明治天皇から伊藤博文に下賜されることになり、大井の伊藤邸内に移築されました。伊藤の死後、明治神宮外苑に再移築され、この時に「憲法記念館」となりました。昭和二十二年(1947年)11月1日に、リコーグループの創始者である市村清の主導で憲法記念館を「明治記念館」として開館しました。現在は、結婚式の会場のほか、宴会場・会議施設としても利用でき、レストラン等も併設されています。
権田原交差点で外苑東通りを渡り、明治神宮外苑の敷地に入ります。左手の樹林地に「御観兵榎」の史跡があります。
御観兵榎について
この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇の親臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(1890年)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(1906年)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(1995年)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。平成八年(1996年)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
初代御観兵榎は、幹廻り2.2メートル・高さ9メートル・枝張り16メートルでした。石碑の石材は愛媛県産の天然青石です。題字は、明治三十八年の日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた当時の連合艦隊司令長官東郷平八郎の書になるものです。
御観兵榎
明治天皇には明治二十年青山練兵場設置以来恒例の観兵式又は憲法発布及び凱旋観兵式?親臨あらせ???節???榎の下?御馬を駐め????た。
絵画館前広場の歩道脇に日本ウォーキング協会が設置した石碑が置かれています。
あるけあるけ
日本ウォーキング協会は、東京オリンピック開催中の1964
年(昭和三十九年)10月17日に、ここ新宿区の明治神宮外苑絵画館前から世田谷の東京五輪記念世界青少年キャンプに向けて第1回大会を開催しました。私たちは、運動発足40周年を記念して、八田一朗初代会長による機関紙の題字「あるけあるけ」を掲げ、ウォーキング運動発祥記念碑といたします。
絵画館前広場の植え込みの中に「なんじゃもんじゃ」の木が植えられています。
この木は三代目とのことです。
ひとつばたご (なんじゃもんじゃ)
この木は、和名「ヒトツバタゴ」俗名「ナンジャモンジャ」と呼ばれるたいへん珍しい木で、五月初旬の満開時には、白い清楚な花が、まるで雪を被ったように美しく咲き誇ります。
幕末(1860年代)の頃、ここから南へ約400メートル行った六道の辻という場所(現在のテニスクラブ付近)の近くに「六道木」と呼ばれる珍しい名木(なんじゃもんじゃ)がありました。明治三十六年(1903年)、樹齢百数十年と言われたこの木の価値に注目した白井光太郎博士(元帝国大学教授)が、国に対して、この木の保護を願い出た結果、大正十三年(1924年)十二月、天然記念物の指定を受けましたが、昭和八年(1933年)、遂に枯死しました。その後、白井博士が根接ぎ法により得たと伝えられる「二代目六道木」を昭和五十三年(1978年)に、ここ絵画館前に植樹し、多くの方にご覧いただいておりましたが、平成二十六年(2014年)、その木も寿命を迎え枯死しました。そして、平成二十八年(2016年)、明治神宮外苑創建九十年を記念し、二代目六道木の実生を苑内で育てた「三代目六道木」をここに移し植えています。初代の勇姿は、今も聖徳記念絵画館の洋画七十四番「凱旋観兵式」(小林万吾画)でご覧いただけます。
- ポイント5 絵画館
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聖徳記念絵画館は、神宮外苑の中心的な建物で、幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示している美術館です。明治天皇崩御後に建築計画が持ち上がり、明治天皇の大喪儀が行われた旧青山練兵場の葬場殿跡地で大正八年(1919年)に着工し、大正十五年(1926年)に竣工しました。絵画館は、明治神宮外苑の造営の主たる目的でもあり、現在でも建築当初のままのドーム状の荘厳な建物を見ることができます。
聖徳記念絵画館
本館は明治神宮の祭神
明治天皇、昭憲皇太后の御遺徳を永く記念するため、国民の献金によって大正十五年十月に完成したものであります。館内の壁画はお二方の御事績を当代一流の画家たちが心血を注いで謹写したもので明治天皇の御一代記であると同時に「目で見る明治史」とも言えるものであります。
一、鉄筋コンクリート造り花崗石表装
東西112メートル(62間)南北35メートル(19間)
地階2、500平方メートル(758坪)
面積
主階2、247平方メートル(681坪)
一、資材は総べて国産品を使用
絵画館の裏手に、明治天皇の葬儀が行われた葬場殿址の碑が建っています。
葬場殿址
明治天皇が明治四十五年(1912年)七月三十日にお亡くなりになり、その御葬儀が九月十三日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行われました。ここがその時に御柩車が置かれた葬場殿のあとです。中央の大木はこのことを記念して植えられた楠の木です。
絵画館正面の広場の真ん中に池があります。角池は、昭和三十四年(1959年)から3年間「かっぱ天国」という名前で子供用プールとして使用されました。
神宮外苑のイチョウ並木の終点付近には、噴水付の丸池があります。
絵画館から青山一丁目駅に向かいます。
- ポイント6 青山一丁目駅
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青山一丁目駅は、東京地下鉄(東京メトロ)と東京都交通局(都営地下鉄)の駅になっていて、東京メトロの銀座線と半蔵門線、都営地下鉄の大江戸線が乗り入れ、接続駅となっています。開業は昭和十三年(1938年)で、銀座線に引き続いて昭和五十三年(1978年)に半蔵門線の駅が開業しました。平成十六年(2004年)には大江戸線の駅が開業し、現在に至っています。駅名は、地下鉄が走っている青山通りが地下鉄を建設した当時の町名である赤坂区青山南町一丁目(現在の港区南青山一丁目)と青山北町一丁目(現在の港区北青山一丁目)の境界であったことに由来します。
青山一丁目駅から「外苑前(246号)」に向かいます。
- ポイント7 外苑前(246号)
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明治神宮外苑の入り口でもある青山通りから絵画館を見ますと、イチョウ(銀杏)の並木が絵画館が中心になるように植えられているのが見て取れます。絵画館に近づくにつれ、より低いイチョウが植えられていて、遠近法を用いて実際の距離より絵画館が遠方にあるように見えるよう表現されているのが特徴的で、絵画館の建物の荘厳さを高めています。これらのイチョウは、大正十五年(1926年)の明治神宮外苑創建に先立って、大正十二年(1923年)に植栽されたもので、イチョウ並木の総本数は雄木44本、雌木102本の合計146本となっています。全て新宿御苑の同じイチョウから種を採取した「兄弟姉妹」のイチョウです。紅葉の季節には多くの観光客が訪れ東京の名所になっています。
銀杏並木
いちょう(銀杏・公孫樹)
銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上中生代ジュラ紀(一億五千万年前、巨大な恐竜が棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従って、その化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられており、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど植えられておりません。
並木の総本数は146本(雄木44本・雌木102本)
四並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年(1926年)十月二十二日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。この外苑の銀杏樹が、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和四十一年八十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(1908年)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数1600本にもなりました。外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高六メートル内外に成長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正十二年(1923年)に植栽したものです。直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至る二条の並木も同時に植えられております。最高二十四メートル・目通り周り二メートル八十センチ、最低十七メートル・目通り周り一メートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。
この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や七十年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを如実に物語っております。樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしょうが、よき所で、よく育てられ、よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしょう。同じ時期に、同じ苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましょう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に生長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に見事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。
外苑前(246号)から「梅窓院」に向かいます。
- ポイント8 梅窓院
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外苑前交差点に面してガラス張りのビルを併設した梅窓院の入口(参道)があります。参道の両側には竹が植えられていて、都心とは思えないほどの空間を醸し出しています。
梅窓院は青山の地名の由来にも深く関わっています。徳川家康の関東入府後、家康の鷹狩りの供をしたのが家康の三河時代からの家臣の青山忠成でした。家康は赤坂から西野原村に来たとき、忠成に「目のおよぶかぎりの宅地を与える」と言いました(内藤新宿の話と同じですね)。忠成は馬を走らせて樹木に紙を結びつけ、境界の印としました。その広さは、赤坂から渋谷におよんだといわれています。もとはこの地は「原宿」といいましたが、青山家にちなんで「青山」という地名となりました。梅窓院の寺名は、青山忠成の四男の青山幸成の法名(戒名)からきています。青山幸成が寛永二十年(1643年)に没すると、下屋敷の敷地内で荼毘に付され、側室が施主となり火葬地にお寺が建立されました。これが「長青山 宝樹寺 梅窓院」の始まりで、幸成の法名「梅窓院殿香誉浄董大禅定門」の一部が院名となりました。
「泰平観世音菩薩」と呼ばれる梅窓院の観音さまは「江戸三十三観音霊場」の24番目の札所です。現在の梅窓院の境内は、新国立競技場のデザインを手がけた隈研吾氏によって、平成十六年に再建され、江戸時代の面影はほとんど残っていません。
梅窓院では、ペットの納骨や法要が可能となっています。専用のペット供養塔で永代供養が行われます。
梅窓院から「子育てひろば あい・ぽーと」に向かいます。「子育てひろば あい・ぽーと」は、梅窓院と道路を挟んだ反対側の路地奥にあります。
- 子育てひろば あい・ぽーと
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「子育てひろば あい・ぽーと」は、2003年9月に港区の旧青葉幼稚園の施設を活用してオープンした子育て支援施設です。親子が自由に遊べる屋内スペースと園庭のある施設には、いつでも飲食のできるテーブルと椅子や授乳室も用意してあり、昼食やおやつを持って一日中のんびり過ごすことができます。つどいのひろば「ひだまり」では、親子が楽しく遊び、仲間の親子との交流ができる各種プログラムや季節ごとの楽しいイベントを数多く開催しています。一時保育「あおば」は、曜日や理由を問わず、子どもを預かってくれます。また、園庭では、季節ごとに有機園芸を楽しむ「キッズ交流ガーデン」事業が実施されています。
「子育てひろば あい・ぽーと」から赤坂消防署に向かいます。
- ポイント9 赤坂消防署
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大正十三年9月30日に赤坂消防署の前身である第三消防署青山分署が設置され、大正十五年7月1日に赤坂消防署に改称されました。署長以下43人の署員を擁し、当時の装備は、ポンプ自動車2台(A型・B型)、水管自動車1台、水管車1台、救助袋、救助幕各1でした。昭和三年6月15日に赤坂消防署旧庁舎が竣工し、業務を開始しました。昭和六十一年3月27日に現在の地に新庁舎が竣工し、今に至っています。
赤坂消防署から「青山霊園」に向かいます。といっても、消防署の目の前が青山霊園の入口になっていますが。
- ポイント10 青山霊園
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青山霊園は港区の北西に位置し、ビル街の中にある園内には桜並木が縦横に走り、都心とは思えないほど落ち着いた雰囲気を保っています。面積は約26haで、明治に入ってから会津藩出身の桐生氏が開いた現在の附属立山墓地(青山霊園立山地区)が興りとされ、隣接して現在の青山霊園の造成へと繋がっていきました。
AOYAMA CEMETERY
Aoyama Cemetery - Japan's First Public Cemetery with 140 Years of History
Established and run by the Tokyo Metropolitan Government, Aoyama Cemetery is located in the Minami Aoyama area in Minato Ward. Within the total land area of 260,000 square meters are cherry tree-lined boulevards and many huge red pine trees, forming what one may call an "urban forest". The cemetery's 14,000 tombs are the final resting places of 126,000 departed souls. In addition to the towering trees which have witnessed the growth of Tokyo, Aoyama Cemetery is home to many people who have left their mark on Tokyo or on Japan's modern history. Also found here are sections dedicated to the Metropolitan Police Board and the Foreign Section, preserving their own historical characteristics.
青山霊園案内図の左上の三角形の敷地が附属立山墓地です。
青山墓地は、明治五年(1872年)に美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主であった青山家の下屋敷跡に開設されました。当初は神葬祭墓地でしたが、明治七年(1874年)9月1日に市民のための公共墓地となりました。明治二十二年(1889年)に東京府から東京市に移管され、大正十五年(1926年)には斎場の建物のすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となりました。現在は東京都の所管となっています。墓地には、明治維新の功労者や文学者・科学者・芸術家・政治家等の著名人墓所が数多くあります。外人墓地も1ケ所にまとめられています。忠犬ハチ公の墓もありますが、死後に剥製にされたために何も埋まってはいません。
維新の三傑である大久保利通の墓所は一際目立ちます。墓石には、「贈右大臣正二位大久保公墓」と彫られています。
東京都指定旧跡
大久保利通墓
大久保利通(1830年〜1878年)は鹿児島藩士大久保利世の長男として鍛冶屋町に生まれました。西郷隆盛とともに公武合体運動から倒幕運動に進み、岩倉具視らとは、王政復古を成功させます。明治政府が成立すると参与・参議として中核を担いました。明治四年に岩倉欧米使節団の副使として諸外国をめぐり、帰国後は内政の充実を唱え征韓論の西郷らと対立します。内務卿として権限を振るい、佐賀の乱や西南戦争などの反政府騒動を鎮圧する一方、地租改正反対一揆に対して地租を引き下げて農民を擁護し、板垣退助らと国会開設などの協議(大坂会議)を行います。大久保は、官僚政治家として日本の資本主義国家への基礎を築きましたが、明治十一年、島田一郎らに紀尾井坂で暗殺されました。西郷隆盛・木戸孝允とともに、明治維新の三傑といわれています。
Historic Places
Okubo Toshimichi Haka (The grave of Okubo Toshimichi)
Okubo Toshimichi (1830-1878) was born in Kajiyacho as the eldest son of a feudal
retainer of Kagoshima Domain. He engaged with the movement of Kobu Gattai (Union of the Imperial Court and the Shogunate) and Tobaku(anti-shogunate movement) with Saigo Takamori. He succeeded in restoring imperial rule with Iwakura Tomomi. After Meiji government established, he played a central role as a councillor or an advisor in the government. He insisted on the need to enhance the domestic politics and conflicted with Saigo. While he put down rebellions such as Saga Revolt and Seinan War, he took generous measures for peasants revolted against the land-tax reform by lowering the tax, and also hold a council, Osaka Kaigi, with Itagaki Taisuke to establisia national diet. He was assassinated by Shimada Ichiro at Kioizaka (1878).
「標」と題された案内板が立っています。「標」とは、「書き記す」といった意味でしょうか?
標
内務卿大久保利通は明治十一年5月14日早朝、三年町(現在の千代田区霞が関)の自宅から赤坂の仮御所(現在の港区元赤坂)に向かうところを不平士族の襲撃に遭い、落命しました。公の遺骸は、日本の国葬のモデルとなった葬儀ののち、この地に葬られ、事件のあった場所近くの清水谷公園には哀悼碑が建立されています。事件の際に公が身につけていた衣服は子孫により長年にわたって保管されていましたが、昭和に入り、ここに納められました。
大久保利通の墓の脇には、襲撃で一緒に亡くなった従僕と乗っていた馬のお墓もあります。
中村太郎の墓 大久保家・馬の墓
中村太郎(1852年?〜1878年)は大阪(一説には大井川付近)で大久保利通と出会い、その人柄を見込まれ従僕として召し抱えられました。身寄りがなく“中村太郎”の名は大久保公から賜ったものと伝えられています。大久保公の馭者を務めていたため、明治十一年(1878年)5月14日に清水谷(現在の千代田区紀尾井町)で公と時を同じくして難に遭い、短い生涯を終えます。大久保家ではよく仕えた彼の誠心に報いて公と同日に葬儀を執り行い、公の傍らに手厚く葬りました。また、遭難時に馬車を牽いていた馬も命を落としました。丁重に埋葬されたのち、墓も建立され、手綱を握った中村と共に公に寄り添うようにこの場所に眠っています。
馬の墓石には、生前の姿を模したレリーフも彫られています。
青山墓地の一画には、外人墓地もあります。
青山霊園−歴史の森 外人墓地のあゆみをたどる
明治十年、築地居留地などに住む外国人専用の墓地を青山霊園に設けることが決まりました。そして最初の埋葬が明治十三年に行われました。明治三十二年居留地制度廃止に伴い外人墓地も一般墓所の一部として扱われることになりましたが、現在も「外人墓地」と呼ばれています。ここには、幕末から明治期にかけてわが国の教育や工学など様々な分野の基礎をつくり、日本の近代化に大きく貢献された方々や、そのご家族が多数眠られています。そして現在もご子孫や縁者の方々によって手厚く守られています。また、縁故者が帰国し管理者がいなくなったお墓もありましたが、平成十八年から東京都が管理することにしました。様々な形の墓石や故人の功績が刻まれた碑など、これらはすべて、はるばる海を越え、異国の地で没した方々への思いがこめられたものです。墓域を静かに歩いてみましょう、そして、亡くなられた方々やご家族の気持ちに思いをはせ、日本が近代化をとげた時代を振り返ってみてください。
顕彰碑
青山霊園の「外人墓地」に埋葬されている方々は、江戸時代末期から大正時代にかけて来日し、わが国近代化に指導的役割を果たされました。近代日本の建設に尽力された方々の偉業や功績を称え、永く後世に伝えるため、ここに顕彰碑を建立します。
In Memoriam
Laid to rest here in the 'Foreign Section' of the Aoyama Cemetery are men and women who came to Japan in the 19th and early 20th centuries. Many of them played leading roles, and contributed greatly to the modernization of Japan. We have erected this monument to commemorate their achievements and ensure their memory is passed on to posterity.
「近代日本スポーツの父」と讃えられたストレンジのお墓があります。
日本の近代スポーツの父
F.W.ストレンジ
1853年10月29日〜1889年7月5日 享年35歳
1875年英国より来日し、東京英語学校(後の東京大学予備門、第一高等学校)の英語教師を務めながら、日本にスポーツを広めた。日本初のスポーツ紹介本を出版、体育会による「部活動」のシステムを作りあげ、スポーツマンシップを説き、陸上競技やボートなどを教え、運動会を普及させたスポーツの恩人。
青山霊園から「西麻布交差点」に向かいます。六本木通りの西麻布交差点から六本木交差点に向かって、次の信号付近まで上り坂になっています。霞坂は長さが約250mほどの緩やかな坂で、明治時代に霞山稲荷から霞町の町名ができ、そこを貫通する道であることから霞坂と呼ばれました。
霞坂
かすみざか 明治初年に霞山稲荷(現在の桜田神社)から霞町の町名ができ、そこを貫通する道が明治二十年代に開かれて霞坂と呼んだ。
- ポイント11 西麻布交差点
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西麻布交差点は六本木通りと外苑西通りの交差点で、バブル期には夜になるとタクシーで若者が多く集まっていました。外苑西通りの天現寺橋交差点から西麻布交差点までの区間は、1980年代から1990年代初頭にかけて「地中海通り」と呼ばれていました。その由来は、イタリアンの名店が多かったからだといわれています。今は多様なレストランが軒を連ねていて、表通りだけでなく、隠れ家的な名店も多く、幾多の食通を魅了しています。地中海通りと呼ばれていた頃からお店の顔ぶれは変わりましたが、今も食通を惹きつけています。
1985年に開店したアメリカ発のアイスクリームショップ「ホブソンズ」は現在も人気です。
ゴール地点の六本木ヒルズに着きました。
六本木ヒルズの敷地内にはテレ朝の本社があります。
テレ朝の建物の前に、天気予報のコーナーでも度々登場する毛利庭園があります。毛利庭園の歴史は、凡そ350年前の江戸時代に遡ります。慶安三年(1650年)、毛利元就の孫の秀元が甲斐守となり、麻布日ヶ窪の地(現在の六本木六丁目他)に上屋敷を設け、毛利庭園はその大名屋敷の庭園として誕生しました。その後、元禄十五年(1702年)の吉良邸討ち入り後、赤穂浪士岡島八十右衛門ら10人が毛利家に預けられました(細川・毛利・松平・水野の四家に分けて預けられました)。そして、翌年の2月に全員がこの地で武士の本懐を遂げました。嘉永十二年(1849年)、後に明治時代の陸軍大将となる乃木希典が長府藩上屋敷の侍屋敷に希次の三男として生まれ、幼年期9年をこの日ヶ窪屋敷で過ごしました。元治二年(1865年)になって、堀田相模守がこの日ヶ窪屋敷を拝領しました。明治二十年(1887年)、中央大学の創始者であり、弁護士・法学者・法学博士でもあった増島六一郎氏が自邸として此の地を取得し、庭園を「芳暉園」と名付けました。昭和十八年3月、「毛利甲斐守邸跡」として旧跡指定(現東京都旧跡)を受けました。昭和二十七年3月にニッカウヰスキーの東京工場となり、昭和五十二年にテレビ朝日が此の地を取得し、池はニッカ池と通称されていました。その後、平成十年に六本木六丁目地区市街地再開発組合が設立され、平成十二年4月に再開発事業が着工され、平成十五年4月に「六本木ヒルズ」がオープンし、現在の「毛利庭園」が誕生しました。
東京都指定旧跡
毛利甲斐守邸跡
この地は、吉良邸討入りに加わった元赤穂藩士四十七人のうちの十人が預けられた長門長府藩毛利家麻布日ヶ窪上屋敷の一部である。中国地方の戦国大名毛利元就の孫に当たる秀元を初代とする毛利家は、現在の山口県下関市に藩庁を置いた外様大名(三万六千二百石)である。赤穂事件当時の三代藩主毛利綱元(1650年〜1709年)は、五十六年間の在任中に家臣団の整備や財政の建て直しを図り、藩政を確立させるとともに、歌集「七石集」を著すなど、和漢の学に長じた名君として知られている。元禄十五年(1702年)十二月十五日、藩主毛利綱元は、家老田代要人を請取人として江戸詰藩士三百余人を大目付仙石伯耆守邸(現在の港区虎ノ門二丁目八)に遣わした。岡島八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林唯七隆重、倉橋伝助武幸、間新六光風、村松喜兵衛秀直、杉野十平次次房、勝田新左衛門武尭、前原伊助宗房、小野寺幸右衛門秀富の十人の日ヶ窪の江戸屋敷に収容された。元禄十六年(1703年)二月四日、幕府の裁きにより十人は、 使番斉藤次左衛門利常(千七百石)、目付鈴木次郎左衛門福一(五百石)の立会いのもとに、この屋敷で武士の本懐を遂げた。この時、本藩である長州(萩)藩からも藩士が派遣されており、長府毛利家は、本来の保護を受ける立場であり、義士預りに慎重を期したことが伺える。
小さいながらも滝が造られています。
毛利庭園
六本木ヒルズの緑のシンボルとして、「空」と「緑」を感じられる日本庭園を作庭いたしました。この庭園では、古くからの地形を活かして池や流れを造るほか、クスノキ・サクラなど9本の既存樹木を残して、春はサクラ、秋はモミジと季節の変化を楽しめる回遊式の庭園としました。この庭園が、これからも開かれた庭園として、多くのみなさまに親しまれ愛されることを願っています。
MOHRI GARDEN
The Japanese garden whith an atmosphere of sky and green was created as a symbol of green at Roppongi Hills. In the course of landscaping, old land features were utilized to create the pond and water flow. Nine existing trees such as camphor tree and cherry tree have been preserved, which contributed to the birth of a so-called "stolling garden" with seasonal changes in the scenery like cherry blossoms in spring and maple leaves in autumn. We are wishing that this garden serves as an exhibited garden which
is loved by many people.
池には巨大なハートマークのオブジェがあり、恰好の撮影スポットになっています。また、池には宇宙メダカが放流されているそうです。見つけられませんでしたが。
宇宙メダカ
2003年7月25日、宇宙飛行士の毛利衛さんと全国から集まった約800名の里親の皆さん、そして宇宙メダカ研究会会員により、およそ1万匹の宇宙メダカがこの毛利池に放流されました。宇宙メダカは、1994年にスペースシャトル「コロンビア」内で向井千秋さんらが行った実験において、脊椎動物として初めて宇宙で生殖行動・産卵・孵化したメダカの子孫であり、東京大学の井尻憲一博士が代表研究者として研究しているものです。日本古来種の緋メダカである宇宙メダカが、江戸時代の毛利邸の池に由来する毛利池に泳ぐ姿は、六本木ヒルズの「古いものと新しいものの融合」や「未知の分野への挑戦」の象徴となっています。この六本木ヒルズの新たな住人となったメダカ達を、大切に見守ってください。
SPACE MEDAKA
Approximately 10,000 "Space Medaka" were released into Mohri Pond on July 25, 2003 by astronaut Dr. Mamoru Mohri and 800 associates of the Space Medaka Society including medaka "foster parents" from all over Japan. The Space Medaka are descendents of the fish born in space during a 1994 flight of the Space Shuttle Columbia. Astronaut Dr. Chiaki Mukai took the Japanese fish on the shuttle as part of an experiment to examine the birth of vertebrates in space. Dr. Kennichi ljiri of Tokyo University has been the principal researcher in charge of planning and supervision of this ongoing project.
The concept of Space Medaka living in Mohri Pond, which dates back to the Edo period, is a fitting symbol for Roppongi Hills a city that seeks to achieve the unity of old with new, and strives for an open approach to new ideas. Please watch over these new Roppongi Hills residents.
今日のお散歩の締めはサントリーの生です。うまっつ!
ということで、港区で三番目の「B赤坂御用地一周と青山霊園・六本木コース」を歩き終えました。次は港区で四番目の「C芝浦ウォーターフロントコース」を歩きます。
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