C芝浦ウォーターフロントコース  

コース 踏破記  

今日は港区の「C芝浦ウォーターフロントコース」を歩きます。新橋駅をスタート地点として、東京湾を眺めながら海岸通りを歩き、港南の運河で磯の香りを感じます。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年8月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

C芝浦ウォーターフロントコース

「C芝浦ウォーターフロントコース」の歩行距離は約5.2km、歩行時間は約1時間5分、消費カロリーは約190Kcalです。

スタート地点:JR新橋駅汐留地下改札
ポイント 1 旧新橋駅舎
日本最古の鉄道駅である新橋駅舍が、平成十五年に汐留シオサイトに再現されました。
ポイント 2 汐留駅
新交通「ゆりかもめ」の駅です。新幹線・山手線・京浜東北線も行き交い、鉄道ファン必見。
ポイント 3 イタリア公園
イタリアの彫刻と四季折々の花が美しい公園です。
ポイント 4 浜離宮恩賜庭園
ポイント 5 竹芝ふ頭
デッキからのレインボーブリッジ、お台場方面の眺めは絶景です。
ポイント 6 日の出桟橋
ポイント 7 埠頭公園
日本初の南極探検隊が芝浦から出発した記念碑があります。
ポイント 8 五色橋
港南いきいきプラザ(ゆとりーむ)
港区としては初めての温浴施設があります。
ポイント 9 浜路橋
高浜運河沿緑地
運河沿いに遊歩道が設けられています。
ポイント10 芝浦中央公園
手入れの行き届いた庭園には、港区の花バラが多数植えられています。
ポイント11 芝浦水再生センター
品川インターシティ
品川駅東口港区港南に所在する大型オフィスビル群です。

ゴール地点:品川駅北改札


スタート地点のJR新橋駅汐留地下改札から歩き始めます。


ポイント1 旧新橋駅舎

明治五年(1872年)に日本初の鉄道が新橋と横浜との間に開設された際、起点となった新橋駅が汐留に建設されました。しかし、大正三年(1914年)に東京駅が完成し、東海道本線の起点が東京駅に変更されたため、元の新橋駅は汐留駅に改称し、貨物専用駅に変更されました。近年、汐留地区の大規模な再開発(汐留シオサイト)に先立って埋蔵文化財の発掘調査が行われ、新橋停車場の基礎やプラットフォームの遺構が発見されました。その後、「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保存しつつ、目に見える形で後世に伝えるために、当時と同じ場所に駅舎を再現することになり、平成十五年(2003年)4月10日に新橋停車場の駅舎が「旧新橋駅舍」としてオープンしました。駅舎は開業当初の外観を再現することに重点を置きながらも、国宝や重要文化財の建物復元とは異なり、建築基準法に則って造られました。駅舎の外観に使用した材料などは、当時の文献や錦絵などを参考にしながら、現在入手可能な建材が選定されました。再現された駅舍の内部は、防災対策やバリアフリーなど、現代的なデザインが施されました。また、史跡は駅舎の真下に良好な状態で保存されていて、来訪者は各所に設けられた見学窓から駅舎基礎石積みやプラットフォームの石積みなどを見学できるようになっています。

旧新橋停車場

この建物は、明治五年(1872年)10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・プリジェンスの設計により、明治四年(1871年)5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。大正三年(1914年)、 新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの鳥森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、昭和九年(1934年)から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。昭和六十一年(1986年)、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ理蔵文化財の発掘調査が平成三年(1991年)から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とブラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。平成八年(1996年)12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。

Old Shimbashi Station

This building reproduces the external appearance of the first Shimbashi Station, the Tokyo terminus of Japan's first railway line opened on 14 October 1872, as faithfully as possible on its original site. The first station building was designed by the American architect R. P. Bridgens (1819-91). Construction started in May 1871 and was completed in December of the same year. Western-style buildings were still rare in Tokyo at that time, but the station's imposing design symbolized Japan's modernization in tandem with the westernized rebuilding of Ginza Dori soon after the opening of the railway. The passenger-terininal functions of Shimbashi Station were transferred to the new Tokyo Station when it was opened in 1914 and Shimbashi Station was renamed Shiodome Station and became a freight terminal. The Shimbashi Station name was transferred to Karasumori Station, which still remains as today's Shimbashi Station. In its new role as a freight terminal, Shiodome played a pivotal part in Japan's subsequent economic growth. Unfortunately, the magnificent old station building in Shiodome, which had symbolized Japan's westermization movenent during the Meiji period (1868-1912), was destroyed by fire following the Great Kanto Earthquake on 1 September 1923. Renovation works in Shiodome freight terminal from 1934 onwards resulted in the demolition of the old reinaining platforms and original structures not destroyed by the 1923 fire. Following the closure of Shiodome freight terminal in 1986, archacological excavations in 1991 led to the discovery of the station site and the unearthing of the platforms and foundations of the first Shimbashi Station bulding. On 10 December 1996, the Japanese government designated the remains of the station building and part of the platform as the Old Shimbashi Station Historic Site. This reproduction of the first station building has been built to conserve and display these historic remains and to commemorate the birthplace of railways in Japan. The deted Jine shows the extent of the government-designated Old Shimbashi Station Historic Site.




駅舍の外には、高層ビルの谷間に石積みのプラットフォームが再現されました。

ブラットホーム

構造

プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩勝坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。

Platform

Structure

The platform was built with a compacted earth retaining wall structure. A trench was dug directly below both platform edges and filled with small river boulders. Courses of cut stone were laid on top of this foundation to build retaining walls and the space between the two parallel walls was filled with compacted earth. Stone from the foundations of the abandoned on-site residences of Lord (daimyo) Wakisaka of the Tatsuno fief and Lord Date of the Sendai fief was recycled for use in the platform foundations. The platform walls were six courses of stone high including the capstones but only the top three courses were visible above ground. The lowest course is composed entirely of header stones running at right angles to the row. Stretchers and headers are laid alternately from the second course. However, the regular alternation is sometimes inconsistent-there are sections of continuous headers in the second and third courses, and sections of continuous stretchers in the fourth and fifth courses.

規模

プラットホームの全長は151.5m、幅は9.1mありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。

Size

The length of the unearthed platform is 151.5 meters with a width of 9.1 meters. The first 25 meters of the platform behind the station building have been reproduced. Another 10 meters of the original platform remains buried within the designated historic site.




レールも敷設されました。レールの起点には鉄道発祥の証である「0哩(ゼロマイル)標識」と車止めも復元されています。

0哩標識

明治三年3月25日(1870年4月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。昭和十一年(1936年)に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。昭和三十三年(1958年)10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、昭和四十年(1965年)5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。

Mile Marker Zero

This spot is where the first stake was driven at the survey starting point on 25 April 1870. In 1936, the government railways reproduced Mile Marker Zero with a short section of the original track as the birthplace of Japanese railways. The former Japanese National Railways (JNR) designated Mile Marker Zero as a Railway Memorial on 14 October 1958. On 12 May 1965, the government designated it as a national historic site called the Original Starting Point of the Former Shimbashi-Yokohama Railway.

創業時の線路

創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対照のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。 双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社・新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。

Original Railway Track

The original track was formed of symmetrical double-headed I-section wrought-iron rails secured to wooden sleepers by chairs and buried in a mixed ballast of sand, gravel, and earth. Unlike modern tracks, only the head of the rail appeared above ground level. The rails in this restoration were manufactured in Darlington in Great Britain in 1873. After use by the early government railways, they spent long years in service as industrial tracks in an oil refinery in Kashiwazaki City, Niigata Prefecture, before being generously donated to this exhibition by Nippon Oil Corporation and Nippon Petroleum Processing Co., Ltd.




敷地内に芝地区旧町名由来板が立っていて、「汐留」の町名の由来が解説されています。

芝地区旧町名由来板

The origins of old town names in Shiba area

This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.

汐留

昭和七年(1932年)、汐留町一・二丁目および新銭座町の一部を合併して設立された町で、当時は町域のほとんどが元汐留駅の構内に含まれており、北東に汐留川、東に浜離宮を控えた場所にありました。汐留川は土橋で掘止まりのため潮汐の干満は外堀には通じず、汐がこの堀で止まることから汐留川と呼ばれるようになりましたが、いつの頃からかこの辺りの地名のようになったとのことです。

Shiodome

This town was born in the 7th year of the Showa period (1932), from the union of Shiodome-cho 1-chome, 2-chome and a part of Shinsenza-cho, In the northeastern part of the town flows Shiodome River, after which this area is named.

芝口

かつての豊島郡芝村(後に本芝、現在の芝四丁目)を中心として「芝」と呼ばれる広い地域へ通じる場所ということから芝口と称されるようになったようです。宝永七年(1710年)には、一時期江戸の南の出入口として機能した芝口門がたてられ、門の南側の日比谷町一・二・三丁目は芝口ー・二・三丁目と改称されました。文政年間(1818年〜1830年)、芝口三丁目の名主を勤めた長兵衛の十一代前の先祖長兵衛は芝口の前身、日比谷町の開拓者と伝えられています。

Shibaguchi

The extensive area corresponding to Shiba-mura village (the present Shiba 4-chome) in Toshima district and its neighborhood was called "Shiba". The name Shibaguchi means "the entrance to Shiba", as this place was so located. In 1710 Shibaguchi-mon gate was constructed to work as the south gate of the Edo city for a certain period of time.

源助町

源助町は江戸時代のはじめ、名主役の無浪源助が創設した町屋です。その頃、源助町横丁の桑山家屋敷内には水が赤く、飲料にもならない「油の井」と称する井戸がありました。あるとき、この井戸から弁財天の像を一体掘り出したところ、美しい清水が湧き「弁天の井」と称するようになりました。この弁天様は明和六年(1769年)、当時芝口三丁目にあった日比谷稲荷へ相殿して祭られるようになったそうです。

Gensuke-cho

This town was established by the headman Muro Gensuke early in the Edo period. To honour this great founder, it was named after him.

錦絵の説明

汐留より蒸気車御開業祭礼之図 (昇斎一景 明治五年【1872年】)

A colored woodblock print titled "the first railway in Japan at the former Shimbashi Terminal (Shiodome yori Jokisha-gokaigyo Sairei no Zu)" by Shosai Ikkei, 1872




旧新橋駅舎から、ゆりかもめの「汐留駅」に向かいます。

ポイント2 汐留駅

平成七年(1995年)11月1日に、ゆりかもめの新橋駅(仮駅)〜有明駅間が開業しましたが、現在の汐留駅となる駅舎の躯体は完成していたものの、周辺が再開発中で駅へのアクセス道路が未開通であったために汐留駅は開業しませんでした。平成十四年(2002年)11月2日、汐留地区再開発事業の進捗に合わせて、ゆりかもめ汐留駅が開業しました。現在の汐留駅の1日当りの平均乗降人数は約9、000人となっています。都営地下鉄大江戸線の接続駅になっていて、3駅9路線が利用可能とアクセス抜群です。汐留にはメディアや情報関連の企業が多く、日本テレビや電通の本社もあります。汐留は銀座や虎ノ門、お台場などにも近いため、ビジネスの拠点とするのに適していることが利用客の数字に表れています。



汐留駅から「イタリア公園」に向かいます。

ポイント3 イタリア公園

イタリア公園は、「日本におけるイタリア2001年」を記念し、同国から寄贈された面積3、660平方メートルの街区公園です。デザインはイタリア人の設計によるもので、トスカーナ・ルネッサンス様式の本格的なイタリア式庭園です。整形式の美しい植栽の本格的なイタリア式庭園の外観とイタリア製の12体の彫刻、それに噴水が特徴で、汐留イタリア街に隣接し、汐留地区に美しい景観をつくる空間のひとつになっています。公園の東西は首都高速都心環状線とモノレールに、南北は高層ビルに囲われた大都会の中のオアシスです。



14世紀から16世紀にかけてイタリア郊外で発達したイタリア式庭園は、丘の中腹にある隠れ家のような敷地の中に軸線(ビスタ)を通し、左右対称に構成し、人工物を配置することで訪れる人々の目を楽しませるものです。園内には1箇所の芝生広場の他、ベンチのある広場が3箇所あります。ベンチは全部で8基ありますので、イタリア庭園の中の景色や汐留の都会的な景色を眺めながら休憩ができます。



公園の周囲は、秘密の花園を思わせる生垣に囲われています。高さの異なる複数の生垣と、その中に配置された彫刻のコントラストが特徴的です。花壇には、バラが植えられており、花の時期に目を楽しませてくれます。また、生垣に沿って配置された花壇や、園内に配置されたテラコッタに植えられた花は、四季を通じて楽しむことができます。



イタリア式庭園らしい人工物として、園内に12体の彫刻が置かれています。これらは、ピエトロサンタ市のマエストロ達により製作された本場イタリアの彫刻で、「冬」・「春」・「夏」・「秋」・「イタリアンヴィーナス」・「恥じらい」・「目覚め」・「ミロのヴィーナス」・「夢」・「カノーヴァのヴィーナス」・「ばらの香り」をテーマとした11体と、噴水にある彫刻の「泉」があります。

ミロのヴィーナス(Venere diMilo)

Comune di Pietrasanta
ピエトラサンタ市
Citta d'arte Citta Nobile dal 1841
1841年より芸術の街・気品のある街
Marco Giannoni
マルコ ジャンハーニ



ミロのヴィーナスはギリシャだと思うのですが。


イタリア式庭園の特徴である軸線(ビスタ)の中心にあるのが、この噴水です。彫刻「泉」の名の通り、流れ出る水の音は四季を通じて公園に潤いをもたらしています。噴水の前の広場には、ベンチが2基ありますので、噴水の景色を眺めながら休憩できます。



イタリア公園から「浜離宮恩賜庭園」に向かいます。

ポイント4 浜離宮恩賜庭園

浜離宮恩賜庭園は、小石川後楽園と共に現在の東京に残る江戸初期の大名庭園のひとつです。回遊式泉水庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は非常に優れています。明暦(1655年〜1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を老中大久保忠朝が徳川家綱から拝領し、忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は幾人かの所有者を経たのち、明治八年に宮内省が買上げ、翌九年に芝離宮となりました。離宮は、大正十二年の関東大震災で建物や樹木に大きな被害を受けました。翌年、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を施され、同年4月に一般公開されました。入口の脇に案内板が立っています。

旧芝離宮恩賜庭園

沿革

延宝六年(1678年)、4代将軍徳川家綱から埋立地であったこの地を拝領した老中大久保加賀守忠朝は、ここに屋敷を作り、作庭を始めました。忠朝は、藩地の小田原から庭師を呼び寄せて作庭し、貞享三年(1686年)までに完成した庭を「楽寿園」と命名しました。これが、本庭園の起源です。「楽寿園」は、典型的な「池泉を中心とした回遊式庭園」で、その地割と石組は秀逸です。園景の中心には江戸の水辺庭園特有の潮入りの池があり、干満によって景色が変化するよう工夫されていました。池泉の中央部には中国杭州の西湖堤を模した堤や蓬莱山を表した中島など中国の趣を取り入れ、築山の上から白帆の行きかう沖合の海も望むことができました。その後、大久保氏より数氏を経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となりました。さらに有栖川宮家を経て明治八年(1875年)に宮内庁がこれを買い上げ、翌年に「芝離宮」となりました。明治二十四年(1891年)には、迎賓館としての役割を果たすために園内に洋館を新築し、以来、多くの外国貴賓を迎えました。大正十二年(1923年)の関東大震災によって、洋館をはじめとする建物と樹木のほとんどが焼失しましたが、翌大正十三年(1924年)1月、昭和天皇のご成婚記念として東京市(都)に下賜され、庭園の復旧と整備を施して、同年4月に「旧芝離宮恩賜庭園」として一般に公開されました。現在は周囲の埋立、林立するビルにより潮入りの機能、海の展望は失われましたが、中島の蓬莱山をはじめとする石組の妙はかつての面影を残しております。昭和五十四年(1979年)6月に「旧芝離宮庭園(文化財指定名称)」として国の名勝に指定されています。

Kyu-Shiba-rikyu Gardens

History

In 1678, the shogun, Tokugawa Ietsuna, granted this reclaimed area Okubo Tadatomo, a member of Shogunate' s council of elders. Okubo built his official residence on the land and brought garden designers from his clan fief in the Odawara area to Edo to build the garden. This garden, which was completed in 1686 and given the name, Rakujuen, is the origin of today' s Kyu-Shiba-rikyu Gardens. Rakujuen is a classic strolling garden with a central pond, featuring many superb rock and land formations. The central tidal pond is a feature that is unique to waterside gardens of the Edo era. The scenery around the pond is constantly changing as the water level rises and falls with the tides. The garden design incorporated Chinese influences, including a bank that imitated the bank of Xi Hu (West Lake) in Hangzhou, China, and an island in the pond that was meant to resemble Mount Penglai. The top of the small hill offered views of boats, with their white sails, playing the waters off the shore. The residence had several owners after the Okubo family, until it became the official residence in Shiba of the Kishu branch of the Tokugawa family in the final years of the Tokugawa Shogunate. After a period as the residence of the Arisugawa-no-miya branch of the Imperial Family, it was purchased by the Imperial Household Agency in 1875 and became the Shiba-rikyu (Shiba Detached Palace). In 1891, a new, western-style building was built in the garden as an official guest house, where many important guests from overseas were welcomed. In the Great Kanto Earthquake that struck Tokyo in 1923, the ensuing fires consumed the buildings, including the western-style building, and virtually all the garden' s trees. In January 1924, to commemorate the wedding of the Showa Emperor, the property was donated to the City of Tokyo. The garden was restored and improved and opened to the public as Kyu-Shiba-rikyu Gardens in April of the same year. Today, due to the reclamation of the land around the garden and the many buildings that have grown up around it, the pond' s tidal function and the garden' s ocean views have been lost, but its superb rock and land formations, including the replica of Mount Penglai in the island in the center of the pond, still remain. In June 1979, the garden was officially designated by the national government as a place of scenic beauty.




今日は園内には入りませんが、正門の手前の石垣の上に見所を紹介したパネルが立っています。



園内の池は海水を取り込んで潮の満ち引きと共に変化する景色が楽しめましたが、現在は海面の埋め立てなどの周辺整備が進められたことにより、海の遠景とともに潮入りの機能を失い、海水取入口跡のみが残っています。水路の石垣や鋼鉄製の水門は、池が海を取り入れた景観であったことを示す重要な遺構です。

「潮入の池」遺構

池は当初、海水を引入れ干満で景色の変化する「潮入りの池」でした。海と隔てられ真水となった今も随所にその名残がみられます。




根府川山は神奈川県小田原市にあります。それを模して築山が造られています。その築山に並べられた根府川石は根府川に産する輝石安山岩の石材の名前で、板状節理が発達し、敷石や石碑などに利用されます。「へげ石」とか「ねぶかいし」とも呼ばれます。

根府川山

豪壮な根府川石群は、作庭者大久保忠朝が藩地から運んだものと思われます。そばには以前の藩地の名を冠した唐津山もあります。




手水鉢(ちょうずばち)は、元来、神前や仏前で口を漱ぎ、身を清めるための水を確保するための器を指していました。その後、茶の湯にも取り入れられ、露地の中に置かれるようになり、つくばいと呼ばれる独特の様式を形成していきました。「つくばい」とは、手水で手を洗うときに「つくばう(しゃがむ)」ことからその名が付きました。元々は茶道の習わしで、茶室に入る前に客人が這いつくばるように身を低くして、手を清めたのが始まりとされています。

灯籠と手水鉢

園内には様々な灯籠と手水鉢(清めの水をためる鉢)が残されています。その堂々たる姿が江戸期の大名屋敷・明治期の離宮の往時を偲ばせます。




ストーンヘンジの環状列石(ストーンサークル)のような巨大な石柱が4本立っているそうです。普通、茶室には木材しか使われないと思うのですが、どの部分に使おうとしたのでしょうか?

石柱

この由来は長い間謎でしたが、相模の戦国武将、松田憲秀旧邸の門柱と判明しました。茶室の柱に使うため運ばれてきたものです。




日本の多くの庭園の景観設計は西湖の影響を受けているそうです。

西湖の堤

中国杭州(現在の浙江省)の景勝地を模したもので、小石川後楽園や縮景園にも同様の堤があります。ここを通り中島へ渡れます。




芝離宮恩賜庭園は海沿いの平坦な地にありますが、築山された大山は海抜9mもあるそうです。

大山からの眺望

大山は園内一の高台です。頂に立つと驚くほどの見晴らしが開けます。入り組んだ池の形や島の配置も一望のもとに見渡せます。




浜離宮恩賜庭園から「竹芝ふ頭」に向かいます。歩道には伊豆七島を紹介したモニュメントが置かれています。伊豆七島とは、伊豆大島(大島)・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島の七島をいいますが、神津島は見落としたのかな?小笠原諸島もあります。

伊豆大島は、伊豆半島から南東方約25kmに位置し、伊豆諸島最大の島です。ツバキが名物で、椿油が特産品になっています。伊豆大島は、水深300m〜400mほどの海底から聳える火山の陸上部分で、海底部分まで含めると約1、000m程の高さの火山になります。山頂部にはカルデラがあり、その中には中央火口丘の三原山があります。島の最高地点は、この三原山の標高758mの三原新山と呼ばれる頂上です。

大島

伊豆諸島原産の大島桜は、花が大きく純白です。葉は桜餅の皮として、また材は古くから薪や炭の材料として使われ、タキギザクラの名もある程です。さらに江戸時代末期から全国に広まったソメイヨシノは、大島桜とエドヒガンの自然雑種であることが確認されています。大島自然公園から三原山に登る途中にある国の特別天然記念物「大島の桜株」は、役行者の手植えという伝説があるほどの老木で、幹周りが8m以上もあり、根本近くから枝が垂れて根を張るという珍しい形をしています。




利島(としま)は、東京から144km、伊豆大島から南に27kmのところに位置する島で、「外島」と書かれることもあります。伊豆七島では最小の島で、最高峰の宮塚山(標高507m)を中心とした円錐形の火山島(複成火山)になっています。利島の周囲は高さ200mの海食崖に囲まれ、良質な港に恵まれないために天候が悪化すると定期船でも通過することがあります。昭和五十六年(1981年)になって、ようやく100m級の桟橋が完成しました。

利島

利島は島全体が深い緑でおおわれていますが、その主役はなんといってもヤブツバキです。ツバキは古くからその真紅の花や艶やかな葉が人々の関心をひき、万葉集などにも歌われています。用途も多岐にわたっていて、ツバキ油はもちろんのこと、その材の堅さからツバキ杖や武器として、さらには紫染めの媒染剤としてツバキの葉の灰汁が使われたことは古い文献にでています。島ではツバキの林は防風林として生活に欠かせなく、おみやげもツバキ油、ツバキ細工などに人気が集中しています。




新島は、東京から南に約160km、静岡県下田市から南東に36kmの位置にあります。新島は江戸時代から1871年まで、代表的な流刑地のひとつとして利用されていました。上平主税(十津川郷士)や相馬主計(元新撰組隊士)など、政治犯を中心とした流人が多く流され、総勢で1、333人が流されましたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されています。新島には空港があり、調布飛行場まで所要時間は30分で、一日数便が運行されています。島の近辺には黒潮が流れていて、アオムロやサメなどの魚を干物にした「くさや」が有名です。

新島

新島本村は、新島と式根島の二つの島からなっています。新島は白い砂浜や抗火石が有名で、特に羽伏浦海岸の約6kmの美しい白砂の海岸は他に比べようがありません。また抗火石は水に浮くほど軽く(比重0.73)、島のあちこちにこの石を彫刻して作ったモヤイ像が見られます。このモヤイとは力を合わせるという意味で島言葉です。近年新島はマリンスポーツの島として脚光を浴びています。式根島は周りがリアス式海岸で囲まれていて、磯釣りのポイントとなっています。また白い砂浜には松の緑が映えて、伊豆諸島の箱庭といわれています。




新島の至る所に、特産の抗火石を使用したモヤイ像があります。かつて村のイベントとして島のアーティストや一般人など多くの人によって彫られたもので、様々な表情をしています。ちなみに、渋谷駅にあるモヤイ像は新島村から寄贈されたものです。「モヤイ」は、島の方言で「催合」と書き、「力を合わせる」といった意味があります。彫刻者によれば、石像の造形について、知名度の高いイースター島のモアイ像を模した部分はあるそうですが、直接的な関係は無いとのことです。



三宅島は、東京都の本州島側地域から南海上に175km、伊豆大島の南57kmに位置し、直径8kmのほぼ円形をした島です。三宅島周辺海域は魚類などが豊富で、様々な地形を有することからスキューバダイビングが楽しめる場所となっていて、首都圏から多くのダイバーが訪れます。三宅島の島名の由来は幾つかあり、事代主命が三宅島に来て付近の島々を治めたという伝説から宮家島とした説、8世紀に多治比真人三宅麿が流されたことから三宅島とした説、火山が噴火することから御焼島とした説などがあります。江戸時代には流刑地となり、江島生島事件の役者生島新五郎の墓があります。但し、生島新五郎は寛保二年(1742年)2月に徳川吉宗によって赦免され、江戸に戻った後の翌年に小網町で死去しています。ちなみに、江島生島事件とは、

正徳四年1月12日(1714年2月26日)、当時の徳川家第七代将軍である家継の生母月光院に仕える御年寄江島は、主人の名代として同じ年寄の宮路と共に上野寛永寺と芝増上寺に前将軍家宣の墓参りに赴きました。その帰途に懇意にしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の中央区東銀座界隈・歌舞伎座周辺)の芝居小屋の山村座で生島の芝居を見ました。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開きましたが、宴会に夢中になって大奥の門限に遅れてしまいました。大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになりました。しかし、審理する理由は門限に遅れたことではなく、大奥の規律の弛緩を重要視したためとなっていて、判決には門限は重要視されませんでした。評定所や江戸中町奉行坪内定鑑大目付仙石久尚・目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされました。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)でしたが、月光院の嘆願により罪一等を減じて高遠藩内藤清枚にお預けとなりました。連座して、旗本であった江島の異母兄の白井勝昌は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟の豊島常慶は重追放となりました。江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島となり、山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となり山村座は廃座となりました。この巻き添えを食う形で、江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止されました。この外、取り巻きとして利権を貪っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出され、最終的に50人近くの人が罰せられました。江島は27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に61歳で死去しました。

三宅島

三宅島の東部は雄山の噴火による溶岩原や海底噴火の跡が荒々しい景観をつくり、伊豆諸島の中でも独特のムードを持っています。このコーナーに設置してある火山弾は、昭和十五年にひょうたん山(64m)が噴火した時のものです。色の違いは冷え固まる時の化学反応の違いによるものです。また島全体が野鳥のパラダイスとなっていて、バードウォッチングが楽しめます。あと三宅島で忘れてはならないのが、アジサイです。6月中旬頃が花の盛りで、島のあちこちが淡い水色で染まります。




御蔵島(みくらじま)は、東京都心の南約190km・三宅島の南南東19kmの太平洋上に位置し、ほぼ円形の形状をしていて、中央に標高851mの御山があります。島全体が豊かな原生林で覆われているため、島としては珍しく水に恵まれていて、水力発電やミネラルウォーターの採取も行われています。全国有数の巨樹の森として知られ、オオミズナギドリの繁殖地としても有名です。地形上の問題により宅地や農地に使用できる土地が限られ、自給自足で生活する上で人口増加は大きな脅威であったため、江戸時代後期の寛政八年(1796年)頃に「二十八軒衆」という制度が創設されました。これは、当時居住していた28戸以外の人の転入を厳しく制限し、土地の相続に関しても長男以外には認めないという制度で、現在でも島外からの転入者は戸建てを持てず、村営住宅へ入居するという形で残っています。御蔵島で生産されるツゲ材は高級材として知られ、印鑑や櫛、将棋の駒などに加工されています。

御蔵島

御蔵島に見られるツゲは、葉が大きくて厚く、樹高5mもの大木になり、ベンテンツゲといわれています。この名前の由来は、御蔵島産のツゲ(黄揚)が、江戸時代に女性の櫛の材料に使われ、その材質、木膚の美しさが大奥女中達を魅了したことによります。材は黄色をおび、木質は均一緻密で堅く、木目は様々な紋様を表しています。用材として利用できるまでには、風雨に耐え忍び、80年〜100年程も要するといわれていますが、高級将棋駒、こけし、印象、櫛等に利用されています。




八丈島は、東京都の本州島側地域の南方287km・御蔵島の南南東約75kmの海上に位置し、東山と西山のふたつの火山が接合した瓢箪型をした島で、面積は山手線の内側とほぼ同じです。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍石田三成方に属した宇喜多秀家が、慶長十一年(1606年)4月に史上初の流人として八丈島に島流しとなりました。そして、明暦元年(1655年)11月20日に84歳で死去しました。関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生き、八丈島の他に板橋の東光寺や金沢市の大蓮寺などにもお墓があります。最後の流人(最後まで流刑状態にあった人物)は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男の近藤富蔵です。文政九年(1826年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり、50年以上もの間島で流人としての日々を送った末、明治十三年(1880年)にようやく明治政府により赦免されました。

八丈島

八丈島では、ソテツに咲く花を「赦免花」と呼んでいます。昔ソテツに花が咲くと不思議なことに、その年は何人かの流人に必ず赦免状が届いたのでそう呼ぶようになったのです。赦免花が咲いた年、流人達はあたかも恋人を待つかのように、今度こそ自分が赦免されるのではないかと、御用船が吉報を持ってくるのを一日千秋の想いで待ちこがれたのです。

   嬉しさを 人にも告げん さすらいの
      みゆるしありと 赦免花咲く




伊豆七島には属していませんが、青ヶ島の紹介もあります。青ヶ島は伊豆諸島の有人島としては最南端にあり、日本で最も人口が少ない市町村(162人)です。全人口が島の高地である外輪山側に住み、そのほぼ全員が標高100m以上の海を見渡す高台に居住していることから、「海上のマチュピチュ」とか「東洋のマチュピチュ」などと呼ばれることがあります。

青ヶ島

青ヶ島は島全体が複式火山で、その周囲9kmは外輪山の断崖絶壁でとりまかれています。島にはオオタニワタリという珍しい着生植物が自生していますが、特に火山地熱の影響で温暖湿潤な池の沢地区では、直径2mもあるみごとなオオタニワタリの大群生が見られます。またこの付近の島ではアワから酒を醸造するのに、蒸したアワの上をコウジブタと呼ばれるオオタニワタリの葉でおおい、こうじをつくったといわれています。さらにこの島は磯釣りのポイントが多く、伊豆七島(?)の中で一番大物が釣れるとあって、一年中釣りの人の姿がたえません。




小笠原諸島の紹介もあります。小笠原諸島で民間人が居住するのは父島・母島の2島のみです。小笠原諸島は長い歴史の中で各国によって発見されましたが、最終的に、明治九年(1876年)3月に明治政府が小笠原島の日本統治を各国に通告し、日本の領有が確定しました。「小笠原」の地名の由来ですが、享保七年(1722年)の春に伊豆・相模両国の代官山田治衛門が無人島探検を幕府へ具申し、その準備が行われていたところ、小笠原貞任なる人物が先祖の小笠原貞頼が文禄二年(1593年)に伊豆の南で無人島を発見し、所領として安堵されたという写本を提出して渡航許可を求めました。最終的に貞任の主張は虚偽であるとされ、彼は重追放に処されることとなりましたが、この出来事の結果、問題の島々は小笠原諸島と呼ばれるようになりました。また、彼が提出した「辰巳無人島訴状并口上留書」には父島や母島等の名前が記されていて、それぞれの島の名前も彼の命名が元になったと考えられています。

小笠原諸島

小笠原諸島は、東京から南南東へおよそ1000km〜1300kmの太平洋に散在する大小30余りの島々からなり、その内、父島と母島に人が住んでいます。亜熱帯気候に属し本土では見られないガジュマル、タコノキ、 ビロウ等の樹木やムニンデイゴ(島の花)、ハイビスカス、ブーゲンビリアの花々が一年中咲き誇っています。透き通ったコバルトブルーの海には、色鮮やかな魚の群れが泳ぎ、イルカや海ガメも見られます。一年を通し海水浴、釣、スキューバダ イビングが楽しめる、マリンスポーツのメッカといえます。




ポイント5 竹芝ふ頭

竹芝ふ頭は隅田川の河口部にある埠頭で、延長465m・水深7.5m、N・O・Pの3つのバースからなり、伊豆諸島や小笠原諸島への人や物資の玄関口としての機能を果たしています。竹芝ふ頭には、竹芝埠頭公園と竹芝客船ターミナルがあります。公園の入口には巨大な帆船のマスト(帆柱)をイメージしたモニュメントが設置されています。



竹芝客船ターミナル(竹芝桟橋とも呼ばれています)は、東京港の海運旅客ターミナルのひとつです。竹芝ふ頭からは、東海汽船の神津島・八丈島行きや小笠原海運の父島行きの客船が出航しています。



デッキからの東京スカイツリー、レインボーブリッジ、お台場方面の眺めは絶景です。



竹芝ふ頭から「日の出桟橋」に向かいます。

ポイント6 日の出桟橋

日の出桟橋は1925年に完成し、1926年3月から運用が開始された東京で初めての埠頭です。当時その機能を担っていた横浜の強い反対もあり、それ以前の東京には港湾設備が整っていませんでした。延長564m・水深6.7m、H〜Mの6バースがあります。



日の出桟橋は、古くから非鉄金属・化学薬品等の内貿の拠点として利用されているほか、一般には台場・有明方面への水上バスや東京湾クルーズなどが発着する日の出桟橋として知られています。敷地内にはベンチや望遠鏡が設置されていて、東京港の夜景を楽しむカップルに人気があります。また、桟橋待合所の隣にはコンビニエンスストアや食堂もあります。この食堂は建物の2階にあるために東京港が一望でき、近隣ビルのビジネスマンやタクシー・観光バスの乗務員などに利用されています。令和の今も日の出ふ頭にある倉庫群は、埠頭が造成された1925年に建てられたもので、東京港最古の倉庫でもあります。夜はライトアップされ水上観光に一役買っています。



また、日の出桟橋は東京都港湾局により震災時の帰宅困難者や救援物資の輸送拠点となる震災時水上輸送基地に指定されています。



日の出桟橋から「埠頭公園」に向かいます。

ポイント7 埠頭公園

埠頭公園の北側に少年野球場があります。ここには、かって日本初のプロ野球チームの本拠地となった「芝浦球場」がありました。芝浦球場は、選手が野球をすることで報酬を得る「職業野球」を日本で初めて試みたチームである「日本運動協会」の本拠地として、大正十年に埠頭公園付近に建設されました。日本初のプロ野球チーム発祥の地といえる場所です。

「芝浦球場」跡地
〜日本初のプロ野球チーム発祥の地〜

大正十年(1921年)3月、「日本運動協会(通称:芝浦野球協会)」の本拠地として、この埠頭公園付近に「芝浦球場」が建設されました。「日本運動協会」は、選手が野球をすることで報酬を得る「職業野球」を日本で初めて試みたチームでした。当時の資料によると、広さは約6千坪(約20、000u)、バックネット裏と1、3塁側の内野の3箇所にそれぞれ2千人が入れる木造のスタンドがあり、他に外野の立見席を合わせると約2万人の観客を収容することができました。両翼は90m、センターは約120m前後あったと推測されます。右翼の塀の外側には、球場の附属設備として6面のテニスコートとクラブハウス(兼、日本運動協会合宿所)が設置され、クラブハウス内には浴室、集会所、食堂などがありました。「日本運動協会」は結成から約1年間試合を行わなかったため、当初は早稲田大学野球部のOBチームである稲門倶楽部と慶應義塾大学野球部のOBチームである三田倶楽部との試合が主に行われました。大正十一年(1922年)からは、「日本運動協会」の試合も多く行われるようになり、三田倶楽部対大リーグ選抜戦、「日本運動協会」対「天勝野球団」戦(日本国内で初のプロ球団同士の試合といわれる)などが行われてきました。大正十二年(1923年)9月の関東大震災後、芝浦球場は戒厳司令部によって救援物資の集積場として徴発されることとなったため、試合の続行が不可能となり、大正十三年(1924年)、「日本運動協会」は解散。その後芝浦球場も閉鎖されました。




埠頭公園には、日本初の南極大陸探検に使用された「開南丸」を模した遊具が設置されています。開南丸は、元々は漁獲物運搬船として建造された199トンで3本マストの木造の帆船でした。後に白瀬中尉がこの舟を譲り受けて補強工事が施され、蒸気機関も搭載されて1910年11月29日に芝浦港を出港して南極大陸に向けて出港しました。船名は東郷平八郎元帥の命名によるものです。



埠頭公園の南端に、白瀬中尉による南極探検の記念碑が建っています。

南極探検について

我が国で初めての南極探検は、明治四十三年(1910年)白瀬矗(のぶ)隊長以下二十七名によるものです。まだ青く美しい海であったこの地芝浦を同年十一月二十八日小帆船開南丸(204トン・野村直吉船長)にて出航し、70日あまりの後ニュージーランドのウェリントン港に入港しました。隊員の休息と燃料や水の補給をして明治四十四年(1911年)二月十一日同港を南氷洋に向け出航し、悪天候と戦いながら三月十四日南緯七四度十六分に到達しました。この時南極圏は氷結期に入っていたのでそれ以上の前進は不可能であり、五月一日オーストラリアのシドニー港に回航しました。南極の夏を待つため六ヶ月あまりここに滞在して船の修理や食糧・防寒着等を整え、十一月十九日同港を出航し、明治四十五年(1912年)一月十六日南極大陸のホエール(鯨)湾に上陸しました。白瀬隊長以下五名は二台の犬ぞりで氷野を前進して苦難の末一月二十八日南緯八十度五分、西経百五十六度三十七分の地点に到達し、日章旗を立て、ここを「大和雪原」と命名しました。又、留守隊は沿岸の前人未踏の地域を探検しました。一行は天文気象等学術上多くの成果をあげ、六月二十日全員元気に芝浦に帰港しました。この偉業を後世に伝えるため、二十五周年の出発記念日にあたる昭和十一年(1936年)十一月二十八日にこの南極探検記念碑が建立されました。




記念碑には、荒れ狂う南極海を進む開南丸をイメージしたレリーフと「南極探検隊事蹟概要」と題した碑文、それに第一次・第二次南極探検隊に参加した人達の名前が記されています。

南極探検隊事蹟概要

明治四十三年十一月二十八日、南極探検隊長陸軍輜重兵中尉白瀬矗以下一行二十七名は、二百四噸ノ小帆舩開南丸(元帥東卿平八郎命名)ニ搭乗シ、舩長野村直吉是ヲ指揮シ、當時ハ?蒼海ナリシ此地黙ヲ抜錨シ、一路南進ノ航程ヲ起シタリ。狂瀾怒濤ヲ冒シ、櫛風沐雨航走七十餘日後ノ翌四十四年二月八日、ニュージーランド、ウエリントン港ニ到着シ、休息三日、二月十一日紀元節ノ佳晨ヲトシテ南氷洋ニ向ヒ、難航更ニ五十日三月十四日南緯七十四度十六分ニ到達シタリシモ、既ニ南極圏内ハ結氷ノ時期ニ入リ、前進不可能ナルヲ以テ一度背信スルノ止ムナキニ至リ、五月一日濠洲シドニーニ回航シテ用舩ヲ修復シ再舉ノ準備ヲ整へ、十一月十九日シドニー港ヲ解纜シテ第二次探検ノ途ニ上ル。
四十五年一月十六日、南極大陸鯨湾頭ニ上陸シ、白瀬隊長以下五名ノ突進隊ハ直南ノ氷野ヲ橇行シテ、二十八日南緯八十度五分西経百五十六度三十七分ノ地點ニ到達シ、同地點ヲ「大和雪原」ト命名シ、日章旗を樹立シ、學術的観測を終ヘテ、同年二月四日根拠地鯨湾頭ニ歸還セリ。
又沿岸支隊ハ残餘ノ隊員ヲ以テ組織シ、更ニ東航シテ、同月二十三日エドワード七世洲ニ到達シ、前人未到ノ地域ニ上陸シ、海陸ノ探検ニ従事シタリ。一行ハ此間「開南湾」「大隈湾」「四人氷河」「したわし山」等、日本男児ニ?テ最初ノ足跡ヲ南極地域ニ記録シ、動物鉱物等ノ採集ヲナシ、極地ニ於ける航海天文気象博物等ノ各学術上幾多ノ貢献ヲ遂ゲ、六月二十日此地點ニ歸航シ祖國ヲ仰グ。
按ズルニ、往年欧米探検隊ノ列ニ入リテ日本男児ノ意気ヲ発揚シタル我南極探検隊ノ事蹟ハ、最近米国南極探検家バード少将ニ依テ其足跡ヲ再確認サルゝアリ。又近来本邦捕鯨舩ハ続々南氷洋ニ進出シ好成績ヲ示シツゝアリ。往年ノ献身的努力ガ徒爾ナラザリシ證?タルヲ信ズ。今茲二十五周年ノ出発記念日ヲ迎フルニ際シ、此碑ヲ建立シ、一ハ以テ壮烈勇敢ナル快挙ヲ後世ニ傳ヘ、一ハ以テ後進青春ノ徒ニ探検思想鼓吹ノ指針タラシメント欲ス。




記念碑は長年の傷みを修復し、昭和五十七年に復元されました。

この記念碑は、明治四十五年、白瀬矗中尉ら二十七人による我が国最初の南極大陸探検の壮挙を記念して、昭和十一年に建てられたものです。その後、長い年月を経てペンギン像のくちばしや、つばさが損傷するなど、傷みが激しくなったため、港区が文化財を保存する立場から、その制作者である芸術院会員、彫刻家、故朝倉丈夫先生の関係者に依頼し復元しました。



埠頭公園の入口に、「初代砕氷艦船しらせ」のスクリュープロペラが展示されています。平成二十一年(2009年)11月に海上自衛隊から港区に貸与されました。

「しらせ」スクリュープロペラ

「砕氷艦 初代しらせ」は1982年から2007年までの南極観測に使われました。1つのスクリュープロペラは4枚羽根構造となっています。

「初代しらせ」特徴
 主要寸法  134m×28m×14.5m×9.1m
       (長さ×幅×深さ×喫水)
 最大速力  19ノット
       (1ノット=1海里=1、852km/h)
 主機型式  ディーゼル電気推進
 軸馬力   30、000馬力
 乗員    本艦 約170名 観測隊員 約60名




埠頭公園から「五色橋」に向かいます。

ポイント8 五色橋

五色橋は、昭和三十七年2月に高浜運河に架けられた長さ93m・幅14.3mの鋼橋です。橋名は、オリンピックマーク五輪の五色にちなんで名づけられたそうです。



五色橋から「港南いきいきプラザ(ゆとりーむ)」に向かいます。

港南いきいきプラザ(ゆとりーむ)

港南いきいきプラザ(ゆとりーむ)は、区民の健康づくりと高齢者の生きがいづくりの支援や区民の相互交流の促進を目的とした施設です。アクアルームには、歩行用プール・その他ジャグジー・スパベッド・腰湯などがあります。浴場では、月に一度開催の「入浴サービス」で季節の入浴剤を投入しています。トレーニングルームにはスタッフが常駐していて、希望すればマシンの使用法を案内してもらうことができます。喫茶室には、日替わりランチ・カレー・親子丼・飲み物・お菓子・カップアイスクリームなど、充実したラインナップとなっています。リラクゼーションルームには、マッサージチェアとスカイウェルがあります。ラウンジには、机やソファーが置かれていて、休憩・団らん・憩いの場として利用できます。一人でも、お友達グループでも楽しめる施設です。



港南いきいきプラザ(ゆとりーむ)から「浜路橋」に向かいます。

ポイント9 浜路橋

東京湾に面する品川の港南エリアには、貨物船や客船の通り道として運河が張り巡らされています。それ故に、陸地間を結ぶ場所には多くの橋が架けられていて、名称や形も様々です。高浜運河に架かる浜路橋は、風を受けて進むヨットの形をしたユニークな橋です。現在の橋は平成六年11月に、長さ75m・幅14.3m(車道7.5m・歩道片側3.0m)の鋼橋に架け替えられたものです。



架替工事の際に、現在のヨットの形をした外観になりました。目印でもある2本のマスト部分は、実際にマスト製作会社が設計したそうで、高さや構造など、実物に近いスケールで作られています。橋のベンチやタイルも、ヨット型に合わせてデザインが施されています。橋名は、「海浜に向かう道の橋」の意味といわれています。



浜路橋から「高浜運河沿緑地」に向かいます。といっても、浜路橋の両端が高浜運河沿緑地に接しているのですが。

高浜運河沿緑地

品川駅港南口の東に位置する高浜運河には、水路に沿って緑地が整備されています。これは、「芝浦中央公園」近くの浜路橋から、新港南橋・御楯橋を通って楽水橋までを周遊するように設けられた全長約2km遊歩道です。歩行者道と自転車道が分かれていますので安心して散策が楽しめます。付近のオフィスに勤めるランナーには、仕事の後に季節の移り変わりを感じながら走れる安全で快適なランニング・ジョギングコースとして人気です。



遊歩道は、護岸を活用して造られました。

高浜運河周辺案内図

この遊歩道は、台風の時の高潮や地震の時の津波によって起こる水害から、私達のまちを守るためにつくられた護岸を利用したものです。




高浜運河沿緑地から「芝浦中央公園」に向かいます。

ポイント10 芝浦中央公園

芝浦中央公園は、東京都下水道局芝浦水再生センター内の曝気槽の上部を鉄筋コンクリートで蓋をして造られた人工地盤の公園です。公園の計画は芝浦処理場を改築する際に持ちあがったもので、それまであったA面・B面・C面に加え、平成二十七年4月に商業施設の緑地と一体となったD面が誕生しました。A面西側のビルとも通路でつながっていて、ビル敷地内のエレベーターが利用できます。高層ビルの谷間からレインボーブリッジや新幹線が望める人気スポットになっています。面積は45、782平方メートルあります。



芝浦水再生センターの設備を眺めることもできます。



A面は昭和五十五年に開園しました。園路沿いに四阿(あずまや)が建てられ、芝生と松の美しい日本庭園をゆっくり散策することができます。サクラ・ハナミズキ・アジサイ・クチナシ・サルスベリ・サザンカ・ツバキなど四季折々の花が楽しめます。また、小さな児童でも安心して遊べる遊具コーナーも備わっています。



A面からは、JR線の線路越しに、現在再開発中の「高輪ゲートウェイシティ」が眺められます。高輪ゲートウェイシティは、2020年3月に開業したJR高輪ゲートウェイ駅の西側に隣接する品川車両基地跡地を再開発して誕生する新たな街です。開発区域面積は線路に沿って南北に広がる約9.5ヘクタールで、都心において最大級のプロジェクト規模とされています。一部エリアは2025年3月に開業予定で、その他のエリアも2025年度中の開業を予定しています。



B面も昭和五十五年に開園しました。人工芝とゴムチップ舗装のボール遊びができる多目的広場、木製アスレチック遊具のある遊具広場、ビオトープ、ドッグランがあります。バラ園では、「区の花」であるバラが約40品種植えられていて、見事なバラの花と香りが堪能できます。(見頃は5月中旬と10月中旬です)


木製アスレチック遊具のある遊具広場です。


小さいですが、ビオトープもあります。

ビオトープ

ここは、小鳥や昆虫などの生きものがすめる空間となるよう、草や池を自然に近い状態で管理しています。

ビオトープとは
ビオトープ(Biotop:ドイツ語)は、バイオトーブ(biotope:英語)とも表記し、生物群集の生息空間を示す言葉です。日本語では生物空間、もしくは生物生息空間とも略されます。語源はラテン語とギリシア語からの造語で「bio(いのち)+topos(場所)」です。最近では、植物や魚、昆虫を共存させた人工的な空間を指すことが多いとされています。失われた自然を回復し、少しでも自然と触れ合える憩いの場として、地域の公園や工場跡地、個人宅の庭やベランダなどに造られています。




ドッグランを利用するには事前の登録が必要です。



バラ園は季節外れですが、少しだけ花を付けています。

バラ(薔薇)

バラの語源
イバラ(茨)。古くはウバラから出た刺のある小さな木の総称です。「薔薇」という漢字は明治以降西洋から渡ってきた「ローズ」に対応させて用いるようになりました。「ローズ」の語源はギリシャ語のロードン=”赤”を意味します。バラの原種は300種近くありヨーロッパやアジアなどの北半球に自生しています。原種は一季咲きで春に一度開花しますが、ヨーロッパで品種改良され四季咲きの現代バラが誕生しました。日本自生のノイバラ、テリハノイバラ、ハマナスは品種改良の重要な親として有名です。

Roses

Origins of the Flower's Name
The Japanese word for a rose is bara, which is derived from ibara (or ubara), which from ancient times has been used as the generic term for any number of small-tree-like thorny shrubs that grow in thickets, much like the English word "briar." The word bara (and its famously hard-to-write characters '') came to be used specifically to correspond to the English word "rose" after the Meiji Restoration. The English "rose" comes from the Greek rodon, meaning red. Progenitor (or wild) rose species reach almost 300 in number, and are indigenous to regions in the Northern Hemisphere spanning Europe, Asia, and elsewhere. The wild species generally flower only once a year, specifically in the spring, when they bloom all at once locally, but breeding efforts in Europe gave rise to the modern roses that bloom in all four seasons. Noibara, Terihanoibara, and Hamanasu are indigenous to Japan and well-known as important progenitor species for breeding.

バラの用途
バラは古代よりヨーロッパでは香料(香水)や薬用として栽培され、その後庭や鉢に植えて鑑賞されるようになりました。現代では切花やドライフラワーなどの利用や、香りを生かしたローズティーとして楽しまれています。

Uses of the Rose
Since ancient times, roses have been cultivated in Europe for their scent (in perfumes) and for medicinal purposes. They later came to be grown in gardens and in pots for their aesthetic and decorative value. In modern times, they have also come to be used as cut flowers and dry flowers, and even enjoyed for their aromatic properties in the form of rose tea.

バラの花言葉
花色により愛・恋愛(赤花)、純潔(白花)、嫉妬(黄花)、満足(ピンク)など。

The Rose in the Language of Flowers
Literary and visual arts often impart symbolic meanings to flowers, which are meant to evoke specific emotions in readers or viewers. For example, red flowers connote love or romance, white flowers are associated with purity, yellow flowers imply jealousy or envy, and pink flowers are supposed to evoke feelings of satisfaction.

シンボルとしてのバラ
バラはここ港区の「区の花」に指定されています。イギリスの国花であることもよく知られています。

The Rose as an Official Symbol
The rose has been designated as the official flower of Minato City. The rose is also well-known as the national flower of England.




よく手入れがされていますね。



C面は昭和六十三年に開園しました。旧海岸通りをはさんでA・B・D面の向かいに位置し、運動施設が中心です。人工芝のテニスコート、テニス練習ボード、フットサル場などがあります。



芝浦水再生センター内の曝気槽の上部を鉄筋コンクリートで蓋をして造られた人工地盤の公園であることがよく分かります。



D面は平成二十七年に開園しました。芝浦水再生センターの上部に建設された商業施設の緑地と一体で整備され、水と緑があふれる空間となっています。広大な芝生地には風の森や展望台、噴水があります。季節を通じて草花や生き物が移り変わる湿生花園には、トンボやカルガモも遊びに来ています。

湿生花園

港区立芝浦中央公園は、既成市街地で分断されている東京湾臨海部の緑地群と武蔵野台地の緑地群とを生態的に結ぶ、都市の生態系ネットワークを考える上で重要な場所に位置しています。この湿生花園は、トンボや水鳥などの水辺のいきものを呼び込み、次の水辺へと繋ぐ、生態ネットワークにおける重要な役割を担っています。春夏秋冬、季節に応じて湿生花園に咲く花々、そこを訪れるいきものは移り変わっていきます。季節の移ろいを感じられる水辺です。




芝浦中央公園から「芝浦水再生センター」に向かいます。といっても、同じ敷地にありますが。

ポイント11 芝浦水再生センター

芝浦水再生センターは、昭和六年に稼働を開始した東京で3番目に古い水再生センターです。周辺環境は、かつての港湾倉庫街からオフィスビルの立ち並ぶ都心の市街地に変貌しています。処理区域は、千代田・中央・港・新宿・渋谷区の大部分及び品川・文京・目黒・世田谷・豊島区の一部で、面積は6、433haです。これは、JR山手線の内側の広さに相当します。処理した水は東京湾(運河)へ放流しています。また、その一部を繊維ろ過してセンター内で機械の洗浄・冷却・トイレ用水に使用している他、オゾンと膜ろ過によってさらに綺麗にしてから近隣地区にトイレ用水等として供給しています。発生した汚泥は南部スラッジプラントへ圧送し、処理しています。



案内図を見ますと、芝浦中央公園が芝浦水再生センターの上に造成されたことがよく分かります。

芝浦水再生センター案内図

●芝浦水再生センターは、家庭やビルなどから排出された水(汚水)をきれいにするところです。昭和六年(1931年)に「芝浦汚水処分場」という名称で、都内で3番目に誕生しました。ここでは、70年以上も動き続けているサイホン式採泥機がある一方、よりきれいな水にするために、わが国で初めて採用された高速ろ過施設等の新旧施設が日夜働いています。また、下水道管の中を通した光ファイバーケーブルなどを用いて5か所のポンプ所を運転しています。

●敷地面積は約20万u(20ha)で、施設上部(広さ約26、600u)は公園やテニスコート(4面)・運動広場等として地域の方々の憩いの場となっています。

●地球環境の保全に向けて積極的に貢献しています。その一環として、ここできれいにした水の一部は品川駅東口・大崎・汐留・永田町及び霞ヶ関・八潮及び東品川地区のビルのトイレ用水や修景用水などに利用しています。また、水を処理する過程で発生した汚泥は、大田区内の処理施設に送り焼却処分しています。焼却した後に残る灰はセメントの原料などとしてリサイクルしています。

●芝浦水再生センターでは、首都東京の中心エリアである、千代田・中央・港・新宿・渋谷区の大部分と品川・文京・目黒・世田谷・豊島区の一部地域で発生した汚水をきれいにしています。この面積は、6、440万uでJR山手線の内側の広さに相当します。

●平成二十三年度には一日あたり70万立方メートル[小学校のプール(25mx12mx1.2m)で約2千杯]の汚水をきれいにしました。




芝浦水再生センターから「品川インターシティ」に向かいます。

品川インターシティ

品川インターシティは、港区港南・品川区北品川に跨がり、かって品川駅東口にあった旧国鉄の操車場跡地を再開発したプロジェクトのひとつで、1998年11月に竣工しました。約35、564平方メートルの敷地に、A棟・B棟・C棟の3棟からなる高層オフィスビルとショッピングエリア、ホール棟から構成されています。ちなみに、日本マイクロソフトの本社は、品川インターシティのC棟にあります。



ゴール地点の品川駅に着きました。



ということで、港区で四番目の「C芝浦ウォーターフロントコース」を歩き終えました。次は港区で五番目の「D東京タワーから有栖川宮記念公園コース」を歩きます。




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