- D東京タワーから有栖川宮記念公園コース
- コース 踏破記
- 今日は港区の「D東京タワーから有栖川宮記念公園コース」を歩きます。東京タワーをスタート地点として、巨大再開発が佳境を迎えている(2023年に完成済)麻布台の工事現場を眺め、各国大使館と六本木ヒルズを巡ります。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年8月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
D東京タワーから有栖川宮記念公園コース
「D東京タワーから有栖川宮記念公園コース」の歩行距離は約3.8km、歩行時間は約50分、消費カロリーは約140Kcalです。
スタート地点:東京タワー
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- ポイント 1 芝給水所公園
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憩いの場所です。
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- ポイント 2 オランダ王国大使館
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- ポイント 3 神谷町駅
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地下鉄日比谷線の駅です。標識もおしゃれですが、接近しないと良く見えないのが難点。
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- ポイント 4 スウェーデン王国大使館
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- ポイント 5 倉雁木坂児童遊園
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子供が安心して遊べます。ちょっとした運動もできます。
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- ポイント 6 ロシア連邦大使館
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- ポイント 7 狸穴公園
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風水の刻があり、美しい公園です。
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- ポイント 8 麻布図書館
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- ポイント 9 シンガポール共和国大使館
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- ポイント10 毛利庭園
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テレビ朝日のすぐ近く。きれいな庭園です。
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- ポイント11 六本木ヒルズ
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- ポイント12 櫻田神社
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- ポイント13 麻布消防署
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- ポイント14 中華人民共和国大使館
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- ポイント15 愛育クリニック
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ゴール地点:有栖川宮記念公園
スタート地点は東京タワーです。東京タワーの正式名称は「日本電波塔」で、昭和三十二年(1957年)6月29日に着工し、昭和三十三年(1958年)12月23日に竣工しました。東京タワーの高さは333メートルで、塔脚の中心を基準とした塔脚の間隔は88メートルとなっています。総工費は当時のお金で約30億円、1年半と延べ22万人の人員を要して完成しました。
東京タワーの建主は、「大阪の新聞王」と呼ばれていた前田久吉が設立した日本電波塔株式会社(2019年10月1日に「株式会社TOKYO TOWER」に改称)です。設計は、建築設計の構造力学を専門とする学者で、戦艦大和の鉄塔や名古屋テレビ塔や大阪の通天閣の設計も行い、さらに数十本におよぶラジオの電波塔を設計した実績があり、日本の塔設計の第一人者である内藤多仲と日建設計株式会社が共同で行いました。施工はゼネコンの竹中工務店、塔体加工は新三菱重工(現在の三菱重工業)と松尾橋梁、鉄塔建築は宮地建設工業(現在の宮地エンジニアリング)が請け負いました。それぞれの名称を記したプレートが塔の基礎部分に嵌め込まれています。
地上150メートルに大展望台(メインデッキ)、地上250メートルに特別展望台(トップデッキ)があります。特別展望台は、開業時は作業用の資材置場として使われていましたが、昭和四十二年に展望台としてオープンしました。
東京タワーでは、年間を通して様々なイベントが行われますが、毎年9月に開催される「さんま祭り」は秋の味覚を求めて沢山の人々で賑わいます。
岩手県大船渡市と東京タワー
岩手県大船渡市と東京タワーは、毎年9月に開催される「三陸・大船渡 東京タワーさんままつり」を通じ友好関係にあります。東京タワーでは、東日本大震災で被災された大船渡市の、一日も早い復興を願い、大船渡市から送られた「大漁旗」と特別に制作した「さんまのぼり」を「一緒に頑張ろう!」という気持ちを込めて掲げています。
がんばろう東北! がんばろう大船渡!
東京タワーから「芝給水所公園」に向かいます。
- ポイント1 芝給水所公園
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芝給水所公園は、東京都水道局芝給水所の改築に合わせて、給水所上部を利用して整備された公園です。
芝給水所公園
この公園は、東京都水道局の協力を得て、芝給水所の配水池上部に港区が造成した公園です。なお、震災時において、配水池上部は給水活動拠点、そして緊急車両基地として機能を有する防災拠点となっていますので、東京都水道局が使用します。
面積は11、062平方メートルで、少年サッカー場や遊具広場が主体となった公園です。
配水池の角に古風なモニュメントと銘板が残されています。
芝給水所の歴史
芝給水所は、芝増上寺の北西部の高台に位置し、信濃小諸藩主牧野遠江守康済の屋敷跡地に、芝給水工場として明治二十九年(1896年)8月に竣工、明治三十一年12月に淀橋浄水場から浄水を受け給水を開始しました。この給水所は、淀橋浄水場、本郷給水工場と共に、東京近代水道の始まりとなった施設で、その後100年にわたり、関東大震災や戦災に見舞われながらも、東京都民の暮らしに欠かせない水を送り続けてきました。旧芝給水所は煉瓦造りであり、東京における近代水道創設当時の高い土木技術を物語る文化的・技術的遺産です。芝給水所を改築するに当たり、先人の遺業を称え、旧芝給水所の一部を保存し後世に伝えるものです。
旧芝給水所の正門も残されています。構内にも幾つか遺構が残されているそうですが、門が閉っていて見れませんでした。モニュメントがあったのは、流入弁室の外壁だったようです。
旧芝給水所の遺構について
これらの遺構(保存施設)は、明治三十一年旧給水所で施設の一部として実際に使用されていたもので、近代水道の建設に従事した当時の関係者の情熱や技術力を後世に伝えるため保存しています。
- @ 正門
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給水所の正門柱は、明治三十一年に造られた淀橋浄水場に設置されていたものを昭和四十年にこの地に移設したもので、更新にあたり平成十四年に復元したものです。
- A 水道管
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建設当時(明治二十八年)に使用されていた水道管径600mmを保存したもので、表面には明治二十八年を表す明治「二八」の表示があります。(フランジには2本の溝があり、溝内には麻をより込んで止水するメカニズムとなっています)
- B 馬蹄型通路
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点検用通路として2つの配水池の間に設置されていたものです。天井はアーチ構造を用いています。
- C 配水池連絡管
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2つの配水池をつなぐ連絡管の一部を保存したもので、ラッパ管とバタフライ弁が確認できます。
- D 配水池のレンガ
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配水池のう(迂)流壁(水が滞留しないように設けた壁)をブロック共に切り出して、保存したものです。(レンガは明治二十八年当時の日本製のものを使用しています)
- E 流入弁室外壁・銘板
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明治三十一年通水当時の旧流入弁室の入口部、銘板を保存したものです。
芝給水所公園から「オランダ王国大使館」に向かいます。芝給水所公園の向かいに幸稲荷神社があります。幸稲荷神社は、江戸初期の寛永年間に府内古社十三社に定められ、東京でも最も古い神社の一つとされています。幸稲荷神社の創立は応永元年(1394年)四月、武蔵国豊島群岸之村(現在の芝大門芝公園十号地)の鎮守として勧請されたと伝えられています。古くから、この付近は鎌倉街道にあたり、人々の往来も盛んで、郭公(カッコウと鳴く夏鳥)の名所としても知られ、江戸時代になってからは境内に講談寄席・大弓場・水茶屋などが常設されて非常な賑わいをみせていました。社号は当初は岸之稲荷と称せられていましたが、氏子や信者中に幸事が続出したため、いつの頃からか幸稲荷神社と尊称されるようになりました。
慶長年間から伝わる社宝が御祠石(みふくらいし)です。その由来を記した案内板が立っています。
慶長年間より伝わる社宝
御祠石(みふくらいし)
【御神徳 病気平癒・子供の夜泣き封じ】
由来は増上寺観智国師夢に告あり、翌朝社頭に神拝の折、この石に腰を掛け誓約の事あり、この石に水を注ぎ心願する時はいかなる熱病もたちまち癒えるという。
また子供の夜泣き等ただちに止むと言い伝えられています。
※観智国師
増上寺の高僧、源誉存応(げんよぞんのう)が天正十二年(1584年)増上寺十二世に就任し、当時の天皇より与えられた勅諡号(ちょくしごう)。
- ポイント2 オランダ王国大使館
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オランダ王国大使公邸は、大きな鉄の門と豊かな緑に囲まれた美しい近代建築です。すぐ裏手にはオランダ王国大使館のオフィス棟があります。日本が鎖国していた400年以上も前から、西洋で唯一国交のあったのがオランダです。オランダを通じて伝えられた西洋の学問などは蘭学と呼ばれ、当時の日本で盛んになりました。幕末に欧米諸国との交流が始まると、江戸に各国の公使館(現在の大使館)を設置することになりましたが、折しも攘夷論が高まっていた時代で、大名屋敷が多く比較的安全だった港区近隣の寺院が各国代表を受け入れることになり、オランダは港区芝の西応寺や長応寺(のちに北海道に移転)などを利用しました。オランダ王国大使館が現在の場所に移転したのは明治十六年(1883年)で、当時丘の上に建てられた建物は和蘭公使館と呼ばれ、都内の街並みが見渡せたそうです。その時の建物は木造だったため、大正十二年(1923年)の関東大震災後の火災で焼失してしまいました。その後、同じ場所に再建されたのが現在のオランダ王国大使公邸です。
オランダ王国大使館は、大使公邸の左手にあります。門の奥には鬱蒼とした樹木が生い茂っていて、他国の大使館とは趣が異なっています。
門の両側に大使館の標識と金色のライオンがデザインされたオランダ王国の紋章が掲げられています。プジョーのエンブレムに似ていますね。
オランダ王国大使館から「神谷町駅」に向かいます。大使館から芝学園下交差点に下る坂は「切通坂」という坂名になっています。切通坂は長さが約230mほどのかなり急な坂で、オランダ大使館の前辺りは手まり坂とも呼ばれています。江戸時代の寛永年間の頃に開かれたという坂下一帯は寺参りの男女を当て込んだ民衆芸の小屋が並んで大変賑やかだったといいます。
神谷町交差点の手前に光明寺というお寺があります。境内には明和の大火で焼死した人達の供養墓があります。
港区指定文化財 旧跡 明和の大火死者供養墓
明和九年(1772年)二月二十九日の午後、目黒行人坂の大円寺より出火した火事は、強い西南の風に勢いを増し、麻布・芝から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して、翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦三年(1657年)一月十八日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。死者は1万4700人、ほかに行方不明者も4000人を超えています。光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓は、この惨事に心を痛めた当時の住職が、焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。
- ポイント3 神谷町駅
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神谷町駅は日比谷線の駅で、昭和三十九年(1964年)に開業しました。駅名は開業当時の町名(港区芝神谷町)に由来しますが、昭和五十二年(1977年)9月1日の住居表示実施に伴い、「芝神谷町」の町名は消滅し、現在は「虎ノ門」の一部となっています。お洒落な標識はどこを探しても見付かりませんでした。
神谷町駅から「スウェーデン王国大使館」に向かいます。2021年に通った時には未だ旧ホテルオークラの特徴ある塔屋があったのですが、2024年に再訪した時にはホテルの敷地はすっかり更地になっていました。奥にはオフィスビルかと見間違うような新館が建っています。
左が2021年当時の旧ホテルオークラの建物、右が2024年現在の敷地の様子です。
旧ホテルオークラのはす向かいにスペイン大使館があります。
- ポイント4 スウェーデン王国大使館
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スウェーデン王国大使館が建つ敷地は、1930年代に起業家グループからスウェーデン政府に寄贈されたものです。現在のスウェーデン大使館の施設は1991年に完成し、建築家ミカエル・グラニットと同僚の加藤吉人によって設計されました。大使館の建物には、大使館と公邸、スウェーデンとのビジネスに関する事務所および在日スウェーデン商工会議所の事務所の区画が含まれ、さらに職員住宅が約20戸と会議施設・講堂・展示ホール・レクリエーション施設があります。
大使館の案内板が掲げられています。
Sveriges ambassad i Tokyo
Den svenska ambassadanlaggningen invigdes ar 1991 och ersatte da den tidigare ambassaden som lag har pa samma plats. Den nya byggnaden ar ritad av den svenske arkitekten Michael Granit och hans japanske kollega Yoshito Katoh. Ambassadbyggnaden har en trappformad uppbyggnad som sveper upp i en bage, fran tva till nio vaningars hojd. Det ar en sinnrik form som gor att huset foljer solens vag pa himlen och minimerar skuggan pa omgivningen. De grona koppartaken i olika hojder har
inspirerats av japanska tempel. Fasaden ar kladd med svensk granit som skiftar i roda och rosa nyanser. Byggnaden rymmer bland annat ambassadens kansli och ambassadorens residens. Har finns aven ett antal personalbostader, en konferensanlaggning, en utstallningshall, ett auditorium och en rekreationsanlaggning. Huset ar ett nav for svensk representation i Japan och ett centrum for kommersiellt och kulturellt utbyte
mellan Sverige och Japan. Fastigheten ags och forvaltas av svenska staten genom Statens fastighetsverk (SFV) och ar en del av vart svenska kulturarv i utlandet.
The Embassy of Sweden in Tokyo
The Swedish Embassy complex opened in 1991 as a replacement for the previous embassy on the same site. The new building was designed by Swedish architect Michael Granit and his Japanese colleague Yoshito Katoh. The embassy building has a stepped shape that sweeps up in a curve from the second to the ninth storey. This ingenious form follows the path of the sun across the sky and minimises the shadow cast over
the surroundings. The green copper roofs at different heights were inspired by Japanese temples. The facade is clad in Swedish granite in hues of red and pink.
The building houses the embassy's chancery and the ambassador's residence. It also provides a number of staff quarters, a conference suite, an exhibition hall, an auditorium and recreational facilities. The building is the hub for Swedish representation in Japan and a centre for commercial and cultural exchange between Sweden and Japan. The property is owned by the Swedish state and managed by the
National Property Board Sweden (SFV) as part of Sweden's cultural heritage abroad.
スウェーデン大使館 (東京)
現在のスウェーデン大使館は、同じ敷地にあった旧大使館に取って替わり1991年に開館しました。新しい建物は、スウェーデンの建築家ミカエル・グラニート氏および日本人建築家加藤吉人氏によって設計されました。大使館本館は、弧を描きながら2階から9階まで階段の様に高揚するエキサイティングな建築物です。アーチ型に大空の太陽の動きをフォローする絶妙なフォームによって、建物の陰となる周囲の面積を最小限に抑えています。高さが異なる緑色の銅製の屋根は日本の寺社を基にしたものです。正面は、赤やローズ色に色変わりするスウェーデン産御影石で装われています。館内には、大使館事務局および大使公邸がある他、職員宿舎、会議設備、展示ホール、オーディトリアム、レクレエーション施設も備わっています。大使館は、日本でスウェーデンを代表するための拠点であり、またスウェーデンと日本の間での商業的・文化的交流のためのセンターでもあります。土地および建物は、スウェーデン不動産庁(SFV)を通じてスウェーデン国が管理しており、海外におけるスウェーデンの文化遺産の一つです。
大使館は、改修工事のために2023年7月20日からアーク森ビル16階に仮事務所が置かれています。そのためか、スウェーデン王国の紋章も取り外されています。仮事務所に移されたのでしょうか?
左が2021年当時の紋章、右は現在の様子です。
スウェーデン王国大使館から「倉雁木坂児童遊園」に向かいます。アーク八木ヒルズ内に「日本国憲法草案審議の地」の記念碑が置かれています。「アーク八木ヒルズ(現在の名称はMFPR六本木麻布台ビル)」は、八木通商株式会社と森ビルが共同開発したオフィス棟です。
日本国憲法草案審議の地
この地は、昭和二十一年(1946年)二月、連合国軍総司令部と、日本国政府との間で、日本国憲法草案について審議された跡地である。(この地には(財)原田積善会の本部があり、戦後に外務大臣官邸として使用されていた。)当事者は、総司令部側代表としては、民生局長ホイットニー准将、民生局次長ケーティス大佐の両名で、日本側は、当時の外務大臣吉田茂と法務大臣松本烝治であった。
サウジアラビア大使館は、昨年グランドオープンを迎えた麻布台ヒルズ傍の泉通りに面したところに建っています。泉通りを通るということは、既に道に迷っているということになります。
- ポイント5 倉雁木坂児童遊園
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倉雁木坂児童遊園の場所を見つけることは地元民でなければ相当に難しいと思います。ルートマップの表示も実際の場所からかなりずれています。名称を素直に読めば「雁木坂」の近くだろうとは直ぐに思いつく筈なんですけどね。雁木坂は長さが約15mほどの急な階段で、別名を「岩岐坂・雁来坂」といいます。
雁木坂
がんぎざか 階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたことから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書く。
最も分かりやすいのは、外苑東通りに面したロシア大使館の向かいの路地から公園を目指すことです。といっても、この路地は駐車場と民家に挟まれた極狭の通路なんですが。
倉雁木坂児童遊園は、各国の大使館やオフィスなどが建ち並ぶ都会の真ん中の細い路地の中にある小さな公園で、ビルとビルの谷間にあるスペースをうまく整備して造られています。遊具などは何もなく、住宅地の一画にある空き地のような感じです。公園の名前が記された石柱の裏側に水道の蛇口がある珍しいデザインが目を引きます。公園内にはベンチ(腰掛け石)だけが設置されていますが、水道とベンチは同じ色で統一されたデザインになっています。
倉雁木坂児童遊園から路地を戻って「ロシア連邦大使館」に向かいます。
- ポイント6 ロシア連邦大使館
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最初のロシア東京領事館は、イギリス人建築士スメードリの設計により1876年に建設が始まりました。1904年の日露戦争開戦に伴い閉鎖されましたが、1905年のポーツマス条約締結の後、ロシア公使館として再開しました。1928年に現在の場所に移転し、コンクリート造2階建ての建物になりました。現在の建物は1976年に建築されました。ソビエト社会主義共和国連邦の崩壊後、東京のソ連元大使館はロシア連邦(旧ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)が引き継ぐとみられましたが、ウクライナとの関係悪化に伴って登記の変更ができないために今だに登記上の名義はソビエト社会主義共和国連邦になっています。
ロシア連邦大使館から「狸穴公園」に向かいます。大使館脇に急坂が下っています。狸穴坂は長さが約250mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、タヌキの巣穴が坂下にあったためとか、採鉱の穴との説があります。
狸穴坂
まみあなざか まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴(まぶ)が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。
坂上の案内柱の袂に、坂名を記した石柱が建っています。
- ポイント7 狸穴公園
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狸穴公園は、狸穴坂下の右手の閑静な住宅街にある公園です。園内には彫刻のある街づくり事業に基づいて設置された「風水の刻」の噴水があり、噴水池の周りに設置されたベンチで休憩や読書ができます。公園の傾斜地に植えられた港区の花「あじさい」が梅雨の季節を爽やかに彩ります。
公園の奥の階段の上に「狸穴稲荷神社(狸穴稲荷大明神)」が鎮座しています。赤い鳥居が目を惹きますが、社は超ミニサイズです。創建の年代や経緯などは不明とのことです。
狸穴公園から「麻布図書館」に向かいます。麻布通りを横断した先の右手に麻布図書館が入るお洒落な建物があります。
- ポイント8 麻布図書館
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麻布図書館は1階に子育てひろば、乳児一時預かりの「あっぴい麻布」を併設していることもあり、子育て支援に力を入れています。外国人居住や在勤が多いこの麻布エリアの特徴に合わせて外国語の資料も豊富に揃えられています。また、壁面緑化や館内の書架や閲覧室の椅子に国産木材を用いるなど、環境への配慮も行っています。収蔵図書は約11万冊で、麻布図書館にない本でも港区内の図書館が蔵書していれば、パソコンやスマートフォン・館内の検索端末機・窓口で予約申込みが可能となっています。また、港区が所蔵していない図書についてもカウンターで取り寄せの相談をすることが可能です。同じ空間で本とアートの一体感が味わえるのが麻布図書館の特徴です。おはなし会・映画会・文学講座・歴史講座・コンサートなどのイベントも行っていますので、読書以外でも楽しめます。
麻布図書館から「シンガポール共和国大使館」に向かいます。都道319号環状三号線に面して十番稲荷神社があります。この周辺地域には、以前は末広神社と竹長稲荷神社という2つの歴史ある稲荷神社が鎮座していましたが、昭和二十年(1945年)4月15日の東京大空襲に遭い焼失してしまいました。戦後の昭和二十五年(1950年)6月に復興土地区画整理により、両社の境内地が現在地に換地・隣接指定され、その後両社が合併して社名を現在の「十番稲荷神社」へと改称しました。現在の社殿は、平成九年(1997年)3月29日に建て替えられたものです。
文政四年(1821年)7月2日の大火によって周辺地域が焼失した際、元麻布にあった備中成羽藩主山崎家の屋敷だけは類焼を免れ、それは屋敷内にあるがま池の大ガマが火を防いだからだと信じられ、人々に求められて山崎家は「上」という一字が書かれた御札を万人に授けるようになりました。この御札は「上の字様」と称され、防火・火傷のお守りとして信仰を集めました。「上の字様」は後に十番稲荷神社の前身である末広神社を通して授与されるようになりましたが、空襲による社殿焼失後の戦後には中断していました。しかし、「上の字様」の復活を願う声は多く、昭和五十年(1975年)8月から、代わりとして「かえるのお守り」の授与を開始し、かえるの石像も奉納されました。その後、「上の字様」も神社に伝わる史料を基に、ほぼそのままの姿で復刻し、平成二十年(2008年)元旦から授与を開始しました。
かえるの由来
昔ある年、古川辺から燃え出した火事に此辺りすべて烏有に帰してしまった時、「がま池」のほとり山崎主税助の屋敷のみ類焼を免れたのは、池中にいた大蛙が口から水をふいて、さしもの猛火を吹き消したとの故事により、山崎家から万人に「上の字」様のお守が授けられました。その後末広様(当社の前の御社名)を経てわけられていました。その故事に因んだ「かえる」お守は火防・やけどのお守・無事かえる・若がえる・何でもかえるお守として貴ばれております。
十番稲荷神社は港七福神の「宝船」の社として知られていて、港七福神は「宝船」を含めて合計8ヶ所を巡拝するのが特色となっています。
都道319号環状三号線の鳥居坂下交差点から急坂が上っています。鳥居坂は長さが約90mほどの急な坂です。別名を「鳥井坂」といいます。坂名の由来は、元禄時代に坂の東側に大名鳥居家の屋敷があったことに因んでいます。
鳥居坂
とりいざか 江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688年〜1703年)ごろ開かれた道である。
- ポイント9 シンガポール共和国大使館
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1965年8月9日に日本がシンガポールを国家承認し、1966年4月26日に日本とシンガポールとの間で外交関係が樹立された後、東京の帝国ホテル別館に最初のシンガポール共和国大使館が開設されました。その後、大使館は1968年に霞が関ビルディングに移転しました。1973年にシンガポール政府は港区六本木に大使館用地として新たに土地を購入し、建築家の岡田新一の設計によって大使公邸や大使館員住居を含む大使館複合施設の建設が始まり、1978年に竣工しました。この大使館複合施設には造園家の稲田純一が設計した日本庭園が併設されています。
シンガポール共和国大使館から、テレ朝の天気予報のコーナーでも度々登場する六本木ヒルズの「毛利庭園」に向かいます。
- ポイント10 毛利庭園
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毛利庭園の歴史は、凡そ350年前の江戸時代に遡ります。慶安三年(1650年)、毛利元就の孫の秀元が甲斐守となり、麻布日ヶ窪の地(現在の六本木六丁目他)に上屋敷を設け、毛利庭園はその大名屋敷の庭園として誕生しました。その後、元禄十五年(1702年)の吉良邸討ち入り後、赤穂浪士岡島八十右衛門ら10人が毛利家に預けられました(細川・毛利・松平・水野の四家に分けて預けられました)。そして、翌年の2月に全員がこの地で武士の本懐を遂げました。嘉永十二年(1849年)、後に明治時代の陸軍大将となる乃木希典が長府藩上屋敷の侍屋敷に希次の三男として生まれ、幼年期9年をこの日ヶ窪屋敷で過ごしました。元治二年(1865年)になって、堀田相模守がこの日ヶ窪屋敷を拝領しました。明治二十年(1887年)、中央大学の創始者であり、弁護士・法学者・法学博士でもあった増島六一郎氏が自邸として此の地を取得し、庭園を「芳暉園」と名付けました。昭和十八年3月、「毛利甲斐守邸跡」として旧跡指定(現東京都旧跡)を受けました。昭和二十七年3月にニッカウヰスキーの東京工場となり、昭和五十二年にテレビ朝日が此の地を取得し、池はニッカ池と通称されていました。その後、平成十年に六本木六丁目地区市街地再開発組合が設立され、平成十二年4月に再開発事業が着工され、平成十五年4月に「六本木ヒルズ」がオープンし、現在の「毛利庭園」が誕生しました。
東京都指定旧跡
毛利甲斐守邸跡
この地は、吉良邸討入りに加わった元赤穂藩士四十七人のうちの十人が預けられた長門長府藩毛利家麻布日ヶ窪上屋敷の一部である。中国地方の戦国大名毛利元就の孫に当たる秀元を初代とする毛利家は、現在の山口県下関市に藩庁を置いた外様大名(三万六千二百石)である。赤穂事件当時の三代藩主毛利綱元(1650年〜1709年)は、五十六年間の在任中に家臣団の整備や財政の建て直しを図り、藩政を確立させるとともに、歌集「七石集」を著すなど、和漢の学に長じた名君として知られている。元禄十五年(1702年)十二月十五日、藩主毛利綱元は、家老田代要人を請取人として江戸詰藩士三百余人を大目付仙石伯耆守邸(現在の港区虎ノ門二丁目八)に遣わした。岡島八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林唯七隆重、倉橋伝助武幸、間新六光風、村松喜兵衛秀直、杉野十平次次房、勝田新左衛門武尭、前原伊助宗房、小野寺幸右衛門秀富の十人の日ヶ窪の江戸屋敷に収容された。元禄十六年(1703年)二月四日、幕府の裁きにより十人は、 使番斉藤次左衛門利常(千七百石)、目付鈴木次郎左衛門福一(五百石)の立会いのもとに、この屋敷で武士の本懐を遂げた。この時、本藩である長州(萩)藩からも藩士が派遣されており、長府毛利家は、本来の保護を受ける立場であり、義士預りに慎重を期したことが伺える。
小さいながらも滝が造られています。
毛利庭園
六本木ヒルズの緑のシンボルとして、「空」と「緑」を感じられる日本庭園を作庭いたしました。この庭園では、古くからの地形を活かして池や流れを造るほか、クスノキ・サクラなど9本の既存樹木を残して、春はサクラ、秋はモミジと季節の変化を楽しめる回遊式の庭園としました。この庭園が、これからも開かれた庭園として、多くのみなさまに親しまれ愛されることを願っています。
MOHRI GARDEN
The Japanese garden whith an atmosphere of sky and green was created as a symbol of green at Roppongi Hills. In the course of landscaping, old land features were utilized to create the pond and water flow. Nine existing trees such as camphor tree and cherry tree have been preserved, which contributed to the birth of a so-called "stolling garden" with seasonal changes in the scenery like cherry blossoms in spring and maple leaves in autumn. We are wishing that this garden serves as an exhibited garden which
is loved by many people.
池には巨大なハートマークのオブジェがあり、恰好の撮影スポットになっています。また、池には宇宙メダカが放流されているそうです。見つけられませんでしたが。
宇宙メダカ
2003年7月25日、宇宙飛行士の毛利衛さんと全国から集まった約800名の里親の皆さん、そして宇宙メダカ研究会会員により、およそ1万匹の宇宙メダカがこの毛利池に放流されました。宇宙メダカは、1994年にスペースシャトル「コロンビア」内で向井千秋さんらが行った実験において、脊椎動物として初めて宇宙で生殖行動・産卵・孵化したメダカの子孫であり、東京大学の井尻憲一博士が代表研究者として研究しているものです。日本古来種の緋メダカである宇宙メダカが、江戸時代の毛利邸の池に由来する毛利池に泳ぐ姿は、六本木ヒルズの「古いものと新しいものの融合」や「未知の分野への挑戦」の象徴となっています。この六本木ヒルズの新たな住人となったメダカ達を、大切に見守ってください。
SPACE MEDAKA
Approximately 10,000 "Space Medaka" were released into Mohri Pond on July 25, 2003 by astronaut Dr. Mamoru Mohri and 800 associates of the Space Medaka Society including medaka "foster parents" from all over Japan. The Space Medaka are descendents of the fish born in space during a 1994 flight of the Space Shuttle Columbia. Astronaut Dr. Chiaki Mukai took the Japanese fish on the shuttle as part of an experiment to examine the birth of vertebrates in space. Dr. Kennichi ljiri of Tokyo University has been the principal researcher in charge of planning and supervision of this ongoing project.
The concept of Space Medaka living in Mohri Pond, which dates back to the Edo period, is a fitting symbol for Roppongi Hills a city that seeks to achieve the unity of old with new, and strives for an open approach to new ideas. Please watch over these new Roppongi Hills residents.
毛利庭園から「六本木ヒルズ」に向かいます。
- ポイント11 六本木ヒルズ
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六本木ヒルズは、高さ238mの高層オフィスビル(六本木ヒルズ森タワー)を中心に、集合住宅(六本木ヒルズレジデンス)、ホテル(グランドハイアット東京)、テレビ朝日本社社屋、映画館(TOHOシネマズ)を始めとする文化施設やその他の商業施設などで構成されています。事業主は森ビルで、六本木6丁目地区の都市再開発として完成迄に約17年の歳月を要しました。六本木ヒルズ森タワー(54階建て)には、ブランド街のショッピング・モール、オフィス、上層部は展望台の「東京シティビュー」や「森美術館」、様々な企画展が実施されるギャラリースペースの「森アーツセンターギャラリー」、会員制クラブの「六本木ヒルズクラブ」で構成される森アーツセンターがあります。企業テナントでは、ゴールドマン・サックスや民放FMラジオ局のJーWAVEなどがあります。屋上には、オープンエア展望台として都心の夜景を一望できる(海抜270m)スカイデッキがあります。森タワー地下の最下階には自家発電設備があり、六本木ヒルズ全体の電力を賄っています。
六本木ヒルズから「櫻田神社」に向かいます。六本木通りとテレビ朝日通り、それに外苑西通りに囲まれた西麻布三丁目一帯が更地になっています。櫻田神社も暫くの間遷座されているとのことです。「西麻布三丁目北東地区第一種市街地再開発事業」は、六本木ヒルズの西側に住宅・事務所・商業・ホテル機能を導入した地上54階・地下4階・高さ200m・延べ面積96、826uの超高層ビルを整備するものです。2024年9月下旬に着工し、2028年4月下旬の竣工を予定しています。櫻田神社はビルの南側に戻って来ることになっています。
- ポイント12 櫻田神社
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櫻田神社は、治承四年(1180年)に霞山桜田明神として今の霞が関の桜田門辺りに創建されました。源頼朝は奥州征伐の際に神社に神領を寄進しましたが、その際に他の田と区別するために桜の木を畔に植えたところ、この桜が大いに茂ったことから「桜田」と呼ばれるようになりました。寛永元年(1624年)に社地が江戸城御用地となったため、代地として麻布の地に移されました。写真は2021年に訪れた際のものです。
狛犬は、文化元年(1804年)に桜田久保町(現在の西新橋一丁目)の氏子が寄進したものです。二の鳥居は、文政十三年(1830年)に育種家として有名な旗本の松平定朝が寄進しました。手水盤は、弘化四年(1847年)奉納のものです。これらはどうなるのでしょうか?
ちなみに、2024年に再訪した際の仮社殿はビルの一室に祀られていました。
櫻田神社から「麻布消防署」に向かいます。
- ポイント13 麻布消防署
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麻布消防署には本署(港区元麻布3丁目4番42号)と飯倉出張所(港区東麻布1丁目30番5号)があり、港区の南西部分を管轄しています。東は芝消防署、西は渋谷消防署、南は高輪消防署、そして北は赤坂消防署の区域にそれぞれ隣接しています。区域内には全国的にも有名な六本木や麻布十番の繁華街があります。東京メトロ日比谷線・南北線・都営大江戸線の各地下鉄が南北及び東西に延びていて、地下鉄としては日本一の深さ(42m)を誇る都営大江戸線六本木駅をはじめ、7つの地下鉄駅舎が設けられています。また、主要道路以外の道路は幅員6m以下の狭隘路が多く、名称由来のついた坂が51カ所と起伏の多い区域となっています。麻布消防署の管轄内には、国内に存在する153の大使館のうちの約3割となる53の大使館があり、管轄区域内人口の10.1%(令和4年1月1日現在)が外国人居住者となっています。言語や生活習慣の違いを踏まえた外国人に対する消防施策として、大使館及び外国人居住住宅などでの消防演習や防火防災訓練を行い、防火・防災思想の普及・啓発と地域全体の防災力の向上を推進しています。六本木を中心として大規模な再開発事業が行われていて、外資系企業の集まるビジネス街、外国人や観光客が訪れる世界の名所として、快適な生活環境と都市機能が造り出され、開放感豊かな街並みに変貌しつつあります。麻布消防署には、139名の消防職員と4分団97名の消防団員が所属しています。現在の庁舎は、待機宿舎を併設した延べ床面積約3500u規模の新庁舎に建替えられることになっています。
麻布消防署から「中華人民共和国大使館」に向かいます。
- ポイント14 中華人民共和国大使館
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1972年9月29日、中華人民共和国の首都北京市に於いて田中角栄首相と周恩来国務院総理の両者が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」に署名しました。これに基づき、両国間の国交が樹立(日中国交正常化)したことを受けて両国間の駐在公館開設が決定しました。中華人民共和国は、1973年に大使館を設置しました。大使館のある場所は、大正時代に後藤新平(第7代東京市長)の私邸があったところで、昭和時代には駐日満洲国大使館、戦後は断交前の駐日中華民国大使館が設置されていました。
中華人民共和国大使館から「愛育クリニック」に向かいます。
- ポイント15 愛育クリニック
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愛育クリニックのある場所には、平成二十七年(2015年)に芝浦に移転するまで愛育病院がありました。
愛育病院は、昭和九年(1934年)に現在の上皇である明仁親王の誕生を記念して昭和天皇より受けた下賜金をもとに設立された「恩賜財団母子愛育会」によって、昭和十三年(1938年)に開設されました。平成十八年(2006年)9月6日には、紀子妃が悠仁親王を出産しました。都内では、聖路加国際病院・山王病院と共に「ブランド出産御三家」のひとつといわれています。
愛育クリニックの西側に坂が下っています。木下坂は長さが約340mほどの緩やかな坂で、やや左にカーブしながら上がっています。江戸時代に坂の北側に木下家の屋敷があったことが坂名の由来になっています。
木下坂
きのしたざか 北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために、呼ばれるようになった坂名である。
木下坂を下り、有栖川宮記念公園に着きました。有栖川宮記念公園はかつての有栖川宮の御用地(有栖川宮御用地)に造られた公園で、現在は港区立の公園となっています。園内は起伏に富み、東側の高台から西南側の低地に向けて大きく傾斜した地形となっています。公園の敷地は、江戸時代に陸奥盛岡藩下屋敷でした。明治二十九年(1896年)に有栖川宮威仁親王が霞が関の御殿から転居することとなり、代替地として御用地となりました。有栖川宮家が断絶すると、大正二年(1913年)には同家の祭祀を引き継いだ高松宮に継承され、高松宮御用地となりました。児童の健康や自然に格別の関心を持っていた高松宮は、昭和九年(1934年)1月5日に有栖川宮の没後20年の命日に因んで御用地約11、000坪を公園地として東京市に下賜され、東京市はただちに整備工事を開始して有栖川宮記念公園と命名し、同年11月に開園しました。
有栖川宮記念公園の由来と特色
この地は江戸時代、旧盛岡藩主南部美濃守の下屋敷でしたが、明治二十九年(1896年)に有栖川宮御用地となり、更に大正二年(1913年)には高松宮御用地となりました。その後、児童の自然教育および健康に格別の関心をもたれた高松宮殿下が、昭和九年(1934年)1月5日、故有栖川威仁親王の御命日にちなんで御用地約11、000坪(36、325u)を公園地として賜与され、当時の東京市は直ちに工事を進め、同年11月17日有栖川宮記念公園と命名し開園したものです。本園は都心にはまれな閑雅な地であり、丘陵から渓谷を下り池畔に至る地形の変化と、うっそうとした樹木など日本古来の林泉式の修景により、高雅な自然趣味の庭園となっております。またウメやサクラ、ハナミズキなどをはじめとして四季折々の花も多く、秋にはカエデやモミジの紅葉も楽しむことができます。また、園内の広場には本園にゆかりの深い故有栖川宮熾仁親王の銅像があります。なお、現在は麻布野球場と庭球場を編入し、本園の総面積は67、131uです。
Origins and Special Features of Arisugawanomiya Memorial Park
This land was the site of the Tokyo-area estate of Nanbu Minonokami, samurai lord of
the former Morioka Domain, from the Edo Period (1603-1867) until 1896. In that year,
the land went to Arisugawanomiya line of the Imperial Family, and then in 1913 it was
passed on to the Takamatsunomiya line. Out of a great personal interest in promoting
children's health and education about nature, His Imperial Highness Prince Takamatsu
(Nobuhito) (1905-1987) donated 36,325m (approximately 9 acres) of land for use as a park on January 5,1934, the anniversary of the death of Prince Arisugawa Takehito
(1862-1913). The city of Tokyo immediately began construction and the Arisugawanomiya Memorial Park was opened on November 17,1934. The park's cascading hills and valleys, ponds, and densely wooded areas have been arranged in harmony with the natural terrain according to the traditional Jaoanese rinsen style of landscaping, expressing an elegant natural beauty and crestion a tranquil setting rarely found in central Tokyo. The park is also home to numerous seasonal flowers such as plum and cherry blossoms, flowering dogwoods, and water lilies, and the different varieties of maple tree offer a beautiful display when their leaves change colors in autumn. In addition, a statue of Prince Arisugawa Taruhito (1835-1895) sits in an open space on top of a hill, commemorting the connection between the park and the Arisugawanomiya family. After having expanded to include the Azabu Baseball Field and tennis courts, the park's total area is currently 67,131m (approximately 16.6 acres).
有栖川宮記念公園の南側に沿って坂が上がっています。南部坂は長さが約200mほどのやや急な坂で、坂名は、江戸時代に有栖川宮記念公園の敷地が盛岡南部家の屋敷であったことに因んでいます。
南部坂
なんぶざか 有栖川宮記念公園の場所が赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)
南部坂の南側にドイツ大使館があります。現在のドイツ大使館が位置する一帯は、江戸時代初期は「広尾」という地名でした。明治時代になっても、「土筆(つくし)が岡」と呼ばれるほど武蔵野の面影を残す野趣に富んだところでした。大使館は武蔵野台地の先端部に位置し、大使公邸から南の部分は急斜面になっています。江戸時代には斜面の場所に「麻布御薬園」が置かれ、五代将軍綱吉は別荘となる「白銀御殿」を造営させました。富士山が望めたことから「富士見御殿」とも呼ばれていました。現在も近くに「富士見坂」という坂名が残っています。江戸時代には、現在の大使館敷地は武家地でしたが、明治時代に入ると一時期この場所には海軍の懲罰施設「海軍囚獄処」が置かれていました。大正時代には、政治家で政友会の重鎮だった小泉策太郎が現在の大使館が建っている敷地に接客用の洋館と居住用の和館から成る邸宅を建て、庭園を築きました。小泉の没後、日本タイプライター会社の創設者で衆議院議員の桜井兵五郎が終戦時までここに邸宅を構えました。戦後、不動産は康楽寺に委ねられ、一時期は中国大使館の施設としても利用されていました。最初の駐日ドイツ領事館は、文久二年(1862年)に横浜市に開設され、その4年後に麻布の春桃院に移設されました。その後、明治五年(1872年)から昭和二十年(1945年)にかけて、永田町に公使館(1906年以降は大使館)が設置されました。昭和二十年(1945年)5月の空襲で大使館は焼失し、戦後は他のドイツ関連資産と同様に、大使館の土地もGHQの接収対象となりました。国会議事堂の隣にあるこの場所には、現在国立国会図書館が建っています。その後、昭和二十七年(1952年)から昭和三十五年(1960年)にかけて、大使館は麻布東鳥居坂町(現在の六本木5丁目)に置かれました。昭和二十九年(1954年)、日本政府から戦前のドイツ大使館敷地に対する一種の代替地として、現在の港区南麻布の土地を1円という名目的な価格で取得することについて打診がなされました。当時この土地には中華民国(台湾)大使館の官舎が建っていました。その2年後、面積約14、500平米の敷地に大使館事務棟と大使公邸を建設する作業がスタートしました。事務棟も公邸も現代建築の粋を集めたものでした。竣工と入居は大使公邸が1957年、事務棟は1960年でした。事務棟内部の吹き抜けの階段室には、1階から最上階にまで達する南向き全面にガラスブロックの部材をふんだんに使った明かり取りが設けられていました。ルーフ部分の軽やかな反り屋根は西洋的な機能主義と東洋的建築意匠の伝統の組み合わせを表現していました。1995年の阪神淡路大震災後、大使館事務棟と大使公邸の耐震性検査が行われ、事務棟は新築が必要であるとの結論が出されました。新事務棟の基本設計選定にあたっては国際コンペが実施され、5階建てキューブ型(箱形)の建物を提案したマーラー・ギュンスター・フクス設計事務所が当選しました。開放的で透明性が高い一方で、質実剛健なデザインでもあります。
今年は、東京とベルリンの友好都市提携30周年に当たるのだそうです。
30 Jahre Stadtepartnerschaft
Dieses Jahr feiern Tokyo und Berlin ihr 30-jahriges Stadtepartnerschaftsjubilaum. Seit dem 14. Mai 1994 sind die beiden Hauptstadte durch die Unterzeichnung einer Gemeinsamen Erklarung des Regierenden Burgermeisters und des Gouverneurs von Tokyo formal verbunden. Tatsachlich verbindet Tokyo und Berlin schon seit viel langerer Zeit eine Freundschaft, die sich auf einen langjahrigen Informations- und Erfahrungsaustausch stutzt. Tokyo gilt als DIE Metropole fur Kunst und Kultur in Asien. Berlin ist fur seine Dynamik und Aufgeschlossenheit bekannt und zieht weit uber Westeuropa hinaus Kreative aus allen Bereichen an. In beiden Stadten gibt es zahlreiche Orte, die als eine Art Zukunftslabore Visionen von morgen entwickeln: neue Modestile, innovative Musik, kreative Technologien. In Tokyo und Berlin kommen auBerdem Menschen mit vielen verschiedenen Hintergrunden zusammen. Diese Diversitat ist eine hervorragende Ausgangslage fur die Grundung von Start-Ups und fur
Innovationen. Die junge Kreativ- und Start-Up-Szene ist damit auch Motor fur die
wirtschaftliche Zukunft beider Stadte. Die jeweils andere Metropole ubt eine groBe Faszination auf junge Menschen und Unternehmen in Berlin und Tokyo aus, was einen regen Austausch zwischen Start-Ups, wissenschaftlichen Einrichtungen, und in Kunst, Kultur und Sport fordert. Beispielsweise nehmen Berliner und Tokioter Sportlerinnen und Sportler regelmaBig an den Stadt-Marathons der Partnerstadt teil und zahlreiche japanische Kunstlerinnen und Kunstler sind an den Berliner Buhnen tatig. Berliner Hochschulen und auBeruniversitare Forschungsprogramme sind dank vieler Kooperations- und Austauschprojekte mit Japan verbunden. SchlieBlich sind Tokyo und Berlin nicht zuletzt fur ihre beeindruckenden Museen weltbekannt, die ebenfalls regelmaBig
miteinander kooperieren. Berlin und Tokyo teilen nicht nur gemeinsame Interessen und Austauschprogramme, sondern sehen sich auch mit ahnlichen Herausforderungen konfrontiert, vor denen die Metropolen einer globalisierten Welt stehen. Dazu gehoren der Klimawandel, gesellschaftliche Veranderungen wie der demographische Wandel und technologische Umwalzungen wie die Digitalisierung, aus denen sich viele konkrete Fragestellungen urbaner Politik ergeben. So sind beispielsweise die urbanen offentlichen Transportsysteme sowie die Strategien der Energieeffizienz der beiden Stadte haufig Thema bei Delegationsbesuchen. Der Austausch zwischen den beiden Hauptstadten in den verschiedensten Bereichen und nicht zuletzt in Form von Hospitation-Programmen fur Angehorige der Verwaltungen, ist der Grundpfeiler des
voneinander Lernens und der gemeinsamen Entwicklung neuer Ideen und innovativer
Losungen. Auch im Jubilaumsjahr wollen Tokyo und Berlin gemeinsam weiter an diesen wichtigen Themen arbeiten. Ein besonderer Fokus wird dabei auf den Themen Nachhaltigkeit, Diversitat und Innovation liegen. Folgen Sie uns in den Sozialen Medien um mehr uber die Stadtepartnerschaft und Veranstaltungen im Jubilaumsjahr zu erfahren.
ベルリン × 東京 友好都市提携30周年
今年、東京とベルリンは友好都市提携30周年を迎えます。1994年5月14日、ベルリン市長と東京都知事が共同宣言に調印し、ふたつの首都が正式に結ばれました。実際には東京とベルリンはそれ以前から友好的な関係のもと、長年にわたって情報や経験を共有してきています。東京は、アジアにおける芸術と文化の「都」です。ベルリンはそのダイナミズムとオープンな風土で知られ、西欧という枠を越え、あらゆる分野のクリエイティブな人々を魅了しています。両都市には、新しいファッションスタイル、イノベーティブな音楽、独創的なテクノロジーなど、ある意味で未来研究所のように、明日のビジョンを生み出す場所が数多く存在します。また、東京とベルリンにはさまざまなバックグラウンドを持つ人々が集まり、この多様性がスタートアップ企業の設立やイノベーションのための卓越した土壌を形成しています。若いクリエイティブ・シーンやスタートアップ・シーンは、両都市の経済的発展の原動力にもなっています。ベルリンと東京は、それぞれの都市の若者や企業に大きな魅力を与え、スタートアップ企業や研究機関、芸術、文化、スポーツの分野で活発な交流が行われています。ベルリンマラソンや東京マラソンに両都市のアスリートが定期的に参加し、多くの日本人アーティストがベルリンの舞台で活躍しているのは、その好例です。ベルリンの大学や学外研究プログラムは、多くの連携・交流事業を通じて日本と結びついています。また、東京とベルリンは、特に美術館・博物館が充実していることで世界的に知られており、ここでも定期的な協力関係をみることができます。ベルリンと東京は、共通の利益や交流プログラムを共有するだけでなく、グローバル化した世界の大都市ならではの共通の課題にも直面しています。これには気候変動をはじめ、人口動態による社会の変化、デジタル化等による技術的大変革といった、都市政策における具体的な課題が挙げられます。例えば、両都市における都市公共交通システムやエネルギー効率戦略は、代表団の訪問の際にも頻繁に議論のテーマとなります。両首都間の交流を支える分野は多岐にわたり、特に行政機関の職員を対象とした研修プログラムは、相互に学び合い、新しいアイデアや革新的なソリューションを共に開発する礎となっています。友好都市提携30周年を迎える今年も、東京とベルリンはこういった重要課題に互いに手を携えて取り組んでいきます。特に、持続可能性、多様性、イノベーションはその中心となるテーマです。東京ベルリン友好都市提携や記念行事については、ソーシャルメディアで紹介してまいります。皆様のフォローをお待ちしております。
ドイツ大使館の敷地の東端に有栖川宮記念公園の入口があります。
入口を入った左手の広場に、有栖川宮熾仁親王の銅像が建っています。ここが今回のコースのゴール地点となります。
有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)の銅像
有栖川熾仁親王(1835年〜1895年)は有栖川宮家九代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役ですぐれた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治二十八年(1895年)1月に亡くなられました。この銅像は大熊氏広作で明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治三十六年(1903年)10月10日千代田区三宅坂旧参謀本部構内に建立したものを、昭和三十七年(1962年)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園に移設しました。
ということで、港区で五番目の「D東京タワーから有栖川宮記念公園コース」を歩き終えました。次は港区で六番目の「E泉岳寺から白金プラチナコース」を歩きます。
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