E泉岳寺から白金プラチナコース  

コース 踏破記  

今日は港区の「E泉岳寺から白金プラチナコース」を歩きます。泉岳寺駅をスタート地点として、高輪の赤穂浪士縁の史跡やシロカネーゼが闊歩する白金プラチナ通りを巡ります。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年8月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

E泉岳寺から白金プラチナコース

「E泉岳寺から白金プラチナコース」の歩行距離は約3.4km、歩行時間は約45分、消費カロリーは約125Kcalです。

スタート地点:泉岳寺駅
ポイント 1 泉岳寺前児童遊園
泉岳寺児童公園を出発し、左手に泉岳寺の山門が見えます。
ポイント 2 泉岳寺
主君・浅野内匠頭長矩夫妻とともに、「忠臣蔵」の吉良邸討ち入りで名を馳せた四十七士の墓がある曹洞宗の名刹です。
ポイント 3 高輪中学校・高等学校
ポイント 4 昔なつかしい民家の古井戸
ポイント 5 旧高松宮邸
緑が多く、静かで鳥の鳴き声が聞こえてきます。
ポイント 6 細川邸跡の椎の木
ポイント 7 高輪コミュニティぷらざ
ポイント 8 白金高輪駅前
ポイント 9 高輪消防署
ポイント10 清正公(せいしょうこう)
5月5日のこどもの日には清正公まつりが催されます。多くの人が訪れ、出店もいっぱいです。
八芳園
ポイント11 東京大学医科学研究所
建物も目を引きます。秋にはイチョウの葉が色づき景色が変わります。
白金台いきいきプラザ・白金台児童館
ポイント12 通称プラチナ通り
ポイント13 松岡美術館
ポイント14 光林寺
初代駐日米国総領事、ハリスの通訳ヒュースケンの墓がある

ゴール地点:広尾駅


スタート地点の泉岳寺駅出入口A2から泉岳寺前児童遊園に向けて歩き始めます。


ポイント1 泉岳寺前児童遊園

泉岳寺前児童遊園は、赤穂浪士のお墓がある泉岳寺の目の前にあり、昭和五十一年4月1日に開園しました。遊園には、ターザンロープやザイルクライミング(ネットジャングル)など、大きな公園へ出かけないと遊べないような遊具が設置されていて、ちょっとしたアスレチック気分が味わえます。ブランコや鉄棒や砂場もあり、遊園の入口には足ツボマッサージの健康遊具もありますので、子供だけでなく、大人も気軽に運動が楽しめます。泉岳寺前児童遊園の位置する場所には、幕末にイギリス公使館が置かれていました。イギリス公使館は、当初高輪の東禅寺に公使館を構えていましたが、文久元年(1861年)と文久二年(1862年)の2度にわたって攘夷派の武士らによる襲撃を受け、多数の死傷者を出しました(東禅寺事件)。翌文久三年(1863年)には、「イギリス公使館焼き打ち事件」まで発生しました。このようにイギリス公使館が置かれた場所はたびたび尊王攘夷派の武士らにより襲撃を受けたため、何度か引っ越しを余儀なくされた後、慶応元年(1866年)に現在の泉岳寺前児童遊園の敷地に公使館を開設しました。もちろん、攘夷派による襲撃を避けるために「イギリス公使館」の名称は一切使わず、正式名称を「高輪接遇所」として開館しました。高輪接遇所は、明治二年(1869年)に当時の列強五カ国(英・仏・米・独・伊)を交えて行われた「高輪談判」の地としても歴史に刻まれています。開国当時に幕府が諸外国と結んだ条約により、日本の金が大量に流出し、その結果として国内では貨幣が不足し、贋金や低質の貨幣が流通して大幅なインフレが発生したのです。これに困った明治政府は、列強五カ国と高輪接遇所で対策を協議しました。これが「高輪談判」と言われる会談で、そこでわが国の近代貨幣制度の導入が決まり、造幣局が設置されるきっかけともなりました(因みに、日本側からは岩倉具視・大隈重信らが出席し、伊藤博文がこれを補佐しました)。その記念すべき「高輪談判」が行われた場所が今の泉岳寺前児童遊園の敷地なのです。高輪接遇所(イギリス公使館)は東京の新たな名所となり、錦絵にも描かれました。イギリス公使館としての役割を終えた後は、新政府の外国人接遇所として外国使節との交渉などに使用されました。泉岳寺前児童遊園は、歴史的にも重要な舞台の跡地にあるのです。



泉岳寺前児童遊園から「泉岳寺」に向かいます。

ポイント2 泉岳寺

泉岳寺は曹洞宗の寺院で、江戸時代には青松寺・総泉寺と共に曹洞宗江戸三箇寺のひとつ、ならびに三学寮のひとつとして名を馳せていました。泉岳寺は、慶長十七年(1612年)に徳川家康によって外桜田(桜田門周辺)の地に門庵宗関を招いて創建されました。寛永十八年(1641年)の寛永の大火により焼失しましたが、徳川家光の命により、長府毛利・笠間浅野・鹿沼朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建されました。移転してきた当時の泉岳寺は、現在の三倍近い寺領を有し、学寮だけでも九棟あって、二百人もの学僧が修行していました。元禄十四年(1701年)3月に起きた松の廊下の刃傷によって切腹した浅野長矩、元禄十五年(1702年)12月14日の吉良邸討ち入り事件で切腹した赤穂四十七義士の墓所があります。長矩正室の瑤泉院(阿久里)、長矩実弟の浅野長広(浅野大学)、長広の代々子孫、大石家の墓所も泉岳寺にあります。

萬松山 泉岳寺

泉岳寺は曹洞宗の寺院です。曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。道元禅師の主著は仏教の神髄を表した「正法眼蔵」という九十五巻に渡る書物です。さて、泉岳寺は慶長十七年(1612年)に「門庵宗関」(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝情して徳川家康が外桜田に創設した寺院です(現在のホテルオークラの近く)。しかしながら、寛永十八年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ケ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。

Banshozan Sengakuji

Sengakuji is a famous and popular Buddist temple known throughout Japan. There are numerous Buddhist lineages and Sengakuji belongs to the Soto Zen School. Soto Zen has two large main temples, Eiheiji on the northwest coast and Sojiji near Tokyo. Zen Master Dogen introduced the Soto lineage to Japan and founded Eiheiji. Master Dogen's main written work,"Shobogenzo", expresses his understanding of Buddhist practice and doctrine. Currently there are many translations available. Buddhist teachings inform that all of us can actually live as Buddha by acting sincerely and being guided by all-embracing wisdom and deep compassion. Master Dogen taught that Zazen (Buddist meditation), when practiced beyond discriminating consciousness, is the very present realization of Buddha. He widely recommended Zazen and it was his firm belief and cherished wish that this practice could form the base of an authentic "way" or means of salvation. Sengakuji was built by Tokugawa Ieyasu, the first Shogun of the Edo era, in 1612 near Edo Castle as an establishment of Dogen's tradition. However, after only 30 years, it was devastated by fire and this led to a reconstruction at the present site. Sengakuji is now regarded as a temple closely related to the Ako Gishi, but it was in fact one of the three principle Soto Zen temples of Edo (old Tokyo) and known in its own right as a prestigious Buddhist institution. Many dedicated monks gathered from all over Japan (it was said that numbers sometimes reached 200) to deepen their practice and study. To this day this tradition continues. Numbers are considerably less, but young training monks still practice here whilst studying Buddhism at university.




泉岳寺の縁起を記した長大な案内板が立っています。

萬松山泉岳寺の縁起

当萬松山泉岳寺は、慶長十七年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546年〜1621年)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第四代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。将軍によって建立された当寺も、寛永十八年(1641年)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光(1604年〜1651年)の命により現在の高輪の地に移転再建された(一説に移転は正保年間(1644年〜1648年)とも)。この移転に際しては、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が尽力して完成し、その因縁により以後この五大名が共に檀越となり外護の任に当った。江戸時代当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして、大僧録たる関三刹(埼玉県龍穏寺・千葉県総寧寺・栃木県大中寺)の下、特に本寺大中寺の下で触頭として曹洞宗の行政面の一翼を担った。また、吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟とならぶ江戸三学寮の一つとして重きをなし、宗内外の碩学によって仏典・祖録・漢籍等が講じられ、曹洞宗僧侶の養成に大いに寄与した。山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時二百名程の学僧が修学していたという。また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから元禄十五年の義挙(1702年十二月十四日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約五十年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参拝者が訪れるようになった。現存する山門は天保年間に当寺三十四世大道貞均和尚によって建立され、二階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、一階中央天井には我が国彫金の名匠、関義則の龍蟠が嵌め込まれている。明治初期には廃仏毀釈の余波を受けて、やや荒廃を余儀なくされたが、当寺四十世圓頓霊巌和尚の地道な努力と創意工夫とによって本堂・庫院を恢(カイ:大いに)興し、また煉瓦造りの義士宝物館を創設し、既存の石(ラン)師資制作の義士像を展示する木像堂と共にこれらを公開することによって広く衆望を集めて寺運の再興を果し、次代の四十一世普天霊明和尚がこれを継承して関東大震災に崩壊せる義士宝物館を再建し、書院を新築して、寺域の拡張・整備に努め、明治・大正・昭和に跨る当山の隆昌期が築かれた。然るに先の第二次世界大戦の戦火に遭遇し、山門・義士館(旧義士館=現講堂)以外の諸堂が焼失し、歴代の功業は大いに削がれてしまった。しかし次の四十二世祖天準爾和尚は戦後の苦境の中に諸堂の再興を発願し、遂に昭和二十八年(1953年)に本堂の再建を果し、以後これが継承されて現在に至る伽藍・境内等の整備が戦後復興の一環として続けられている。先年義士討入り三百年を記念し、浄財を募って浅野家の榮城(史蹟)を整備し、新たに赤穂義士記念館(平成十三年開館)を建設して、寺宝と共に大石良雄の書状をはじめとする赤穂義士関係の資料を展示して、赤穂義士の已むに已まれぬ心情を伝承することに資している。平成十六年、江戸期の学寮の伝統と戦前に宗門の宗義自覚の発露であった道元禅師鑚仰会の活動等を再興すべく、泉岳寺学寮講座を開設し、漢学・仏教学・宗学の各講座を毎週開講し、また参禅会を公開して道俗の好学の士の渇望に応えている。




先ずは中門から境内に入ります。

港区の文化財
泉岳寺中門

切妻造、本瓦葺、一間一戸四脚門で、天保七年(1836年)に再建されたものです。左右に袖塀を持ち、正面右手には通用門を持っています。また、番小屋を配し、禅宗寺院の中門の様式の中でも格式の高い様式を残した門です。

港区文化財
中門

元来、泉岳寺には三門といって三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。現在の中門は天保七年(1836年)三十五世大(ホウ)梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和七年に大修理を施されています。「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書です。

A cultural asset of Minato City
@ Chumon (Middle Gate)

Sengakuji originally had three gates: Somon (Outer Gate), Chumon (Middle Gate) and Sanmon (Main Gate). Chumon and Sanmon still remain at present. The Middle Gate was reconstructed in the late Edo era under the 35th abbot in 1836. The script above the gate "萬松山" (Banshozan) written by a Chinese monk is Sengakuji's mountain name and means "mountain of many pines".




中門を潜った先に広場があります。右手には大石内蔵助良雄の銅像が建っています。

大石内蔵助良雄銅像

この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正十年十二月十四日に除幕したものです。内蔵助が、当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。

A Bronze statue of Oishi Kuranosuke

The leader of the Ako Gishi or 47 loyal retainers who led the attack on Kira's residence. The statue was built in 1921. He holds a roll listing the names of the loyal retainers.




山門(の脇の通用門)を潜ります。


入母屋造、本瓦葺、三間一戸八脚門で、天保年間に再建されたものです。楼上に極彩色の十六羅漢像が安置され、階下の天井には銅彫大蟠龍がはめ込まれています。区内に残された楼門建築は、他に増上寺三解脱門があるだけで、貴重な遺構です。

港区文化財
山門

この門は天保三年(1832年)、三十四世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書です。

A cultural asset of Minato City
B Sanmon (Main Gate)

Rebuilt in 1832 under the 34th abbot. On the upper floor, there are 16 statues of "Arakan" (Arahats) or Buddhist saints. A bronze dragon can be seen on the ceiling of the ground floor. The script above the gate "泉岳寺" (Sengakuji) was written by Ono Yakuan, who studied the Zen calligraphy (bokuseki) of China's Jin and Tang periods.




山門の先に本堂があります。

本堂

旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和二十八年十二月十四日に落成した鎌倉様式の建築です。ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また、大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが祠められています。本堂では坐禅・読経などの修行が住職をはじめとした修行僧により厳粛に勤められています。正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指します。

C Hondo (Main Hall)

The original building was destroyed in WW II. The present construction was built 8 years later. The main statue is that of Shakyamuni Buddha (the historical Buddha). Also enshrined are statues of Master Dogen and Master Keizan, the two principal "patriarchs" of the Soto Zen sect, and "Marishi-ten" (Marici), the protecting god of Oishi Kuranosuke. It is here in the main hall of Sengakuji that the abbot and training monks regularly practice Zazen (Buddhist meditation), recite sutras and officiate ceremonies. The characters above the central door ""(Shishi-ku) mean "lion's roar" and refer to the teachings of Shakyamuni Buddha, which were said to have been uttered with the force and courage of a lion.




赤穂義士の墓所に向かいます。墓所の入口の横に梅の木があります。

主税梅

大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅と伝えられています。

F Chikara Plum Tree

Oishi Kuranosuke's eldest son, Chikara, took part in the attack on Kira Kozukenosuke at the age of 16. This plum tree was said to have been transplanted from the house where he subsequently committed seppuku (hara-kiri).




墓所への通路脇に、もう一本の梅の木があります。

瑶池梅

義士の墓守をしていた堀部妙海法尼が瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものと伝えられて います。

G Yochi Plum Tree

The nun who took care of the graves of Ako Gishi was said to have received this tree from Yozeiin, the wife of Asano Naganori.




血染めの石もあります。段々と物騒になってきました。

血染の梅
血染の石

浅野内匠頭が、田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。




ますます物騒になってきました。

首洗い井戸

義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。

I Kubi-Arai (head washing) Well

After the retainers accomplished their avenge by killing Kira, they marched to Sengakuji to report to their lord's grave. When they arrived, they first washed Kira's decapitated head (kubi) at this well and then laid it in front of their lord's grave and announced their success.




墓所への入口に建つ門は、浅野家の上屋敷にあった門を移築したものです。

義士墓入口の門

この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。

J Gate to Ako Gishi Graves

This gate was originally at Asano's residence but was relocated to the present location during the Meiji era.




案内柱も立っています。

港区の文化財 浅野長矩及び赤穂義士墓所門

切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として貴重です。




墓所に入ります。赤穂義士は元禄十六年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されました。ただし、間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うしました。現在も曹渓寺に眠っています。泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、寺坂の墓は慶応四年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものです。また、いわゆる四十七士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります(明和四年【1767年】9月建立)。義士のお墓の配置図があります。

義士墓解説

赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及び咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄十五年(1702年)十二月十四日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。義士一同は、十二月十五日夕刻細川家(十七名)、松平家(十名)、毛利家(十名)、水野家(九名)の四家に預けられた。翌元禄十六年二月四日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。

附記 遂道退身信士(寺坂吉右衛門)、刃道喜劔信士(萱野三平)の墓は供養墓で在る。

Ako Gishi Graves

About the graves of Ako Gishi (loyal samurai retainers of Ako) Asano Naganori, the feudal lord of Ako, was driven to assault his advisor and protocol official Kira Kozukenosuke with his sword at the solemn Edo Castle when he could no longer tolerate how Kira treated him with no respect for the way of the samurai. Consequently, the shogunate punished Asano with an order to kill himself by seppuku (hara-kiri) on the very same day. His retainers could not accept the judgment and 47 of them were united under the chief retainer, Oishi Kuranosuke Yoshitaka, with a mission to avenge the death of their master. On December 14, 1702, they raided Kira's residence in the Honjo area of Edo and made up for the humiliation suffered by their lord. They reported their accomplishment to Asano's grave by presenting Kira's decapitated head and turned themselves in to authorities to seek justice. On the evening of December 15, four other lords (Hosokawa, Matsudaira, Mori and Mizuno) were entrusted with the custody of the loyal retainers. After weeks of difficult deliberation, the shogunate sentenced them to seppuku on February 4,1703, saving their dignity as samurai: they were spared outright execution by beheading. They were immediately buried beside the grave of their master, separated into four blocks according to the residences where they had been accommodated.




浅野内匠頭長矩のお墓は、主君ということもあって四十七士のお墓の区画外にあります。



浅野内匠頭長矩の正室の瑤泉院は、名を阿久里といいました。墓標には、「阿久利」という名が書かれています。



赤穂四十七義士の頭梁大石内蔵助良雄とその長男の大石良金(通称は”主悦”)のお墓は離れています。これは、墓所の配置図にあったように、四十七士のお墓が討ち入り後にお預けとなった屋敷毎に分けられているからです。


左が大石内蔵助良雄のお墓、右が大石主税良金のお墓です。


四十七士の標札には戒名が書かれていますが、寺坂吉右衛門を除いて、どれも「刃xx剣信士」となっています。泉岳寺の説明によりますと、「中国の仏教書である碧巌録に、「氷凌の上を行き剣刃の上を行く」という言葉があり、氷の角や剣刃の上を歩くという常識では不可能なことを成し遂げたという意味から、当時の住職らが「刃」と「剱」の文字を引用したと言われている」とのことです。寺坂吉右衛門は討ち入りには加わったものの、義士一行が泉岳寺に引き上げた時には彼の姿はありませんでした。討ち入り直前に逃亡したとも、討ち入り後に大石良雄から瑤泉院に報告するよう密命を受けて一行から離れたとも、足軽の身分の者が討ち入りに加わっていることを大石が公儀に憚りがあるとして逃したともいわれていますが、その真相が不明であったことから他の義士の戒名と区別したものと考えられています。



泉岳寺から「高輪中学校・高等学校」に向かいます。

ポイント3 高輪中学校・高等学校

高輪中学校・高等学校は、港区高輪にある中高一貫教育を行う私立の男子校で、明治十八年(1885年)に西本願寺により「普通教校」として開校しました。明治三十四年(1901年)に現在地である高輪に移転し、明治三十九年(1906年)に仏教との関係を解消して高輪中学校となりました。戦後の昭和二十二年(1947年)、学制改革に伴って高輪中学校・高輪高等学校となり、平成元年(1989年)に中・高一貫教育を行う学校となりました。



高輪中学校・高等学校から「昔なつかしい民家の古井戸」に向かいます。学校の敷地に沿って細い路地が曲がりくねって延びています。



ポイント4 昔なつかしい民家の古井戸

路地の先は開けた住宅地になっていて、民家前の小広場に今でも現役で使われているような井戸があります。井戸にはステンレス製の手押しポンプが付いていて、「DRAGON」という製品名が書かれています。川本製作所という会社の製品のようで、掘抜井戸や打込井戸からの給水が可能となっています。電動ではないので、災害時に停電しても使えますね。



昔なつかしい民家の古井戸から「旧高松宮邸」に向かいます。

ポイント5 旧高松宮邸

現在は「高輪皇族邸(皇族共用の殿邸)」となっている旧高松宮邸は、大正時代に東宮御所が置かれ、戦前は「高輪御殿」と通称され、昭和六年(1931年)から平成十六年(2004年)まで、高松宮宣仁親王と宣仁親王妃喜久子が住まわれ、高松宮邸と呼ばれました。高松宮邸は熊本藩細川家の下屋敷跡地の一部で、大正二年(1913年)から大正十三年(1924年)までは皇太子裕仁親王(昭和天皇)の東宮御所でした。昭和六十二年(1987年)2月に宣仁親王が82歳で薨去され、平成十六年(2004年)12月に喜久子妃も92歳で薨去されて高松宮家は絶家となりました。令和二年(2020年)3月31日から令和四年(2022年)4月12日まで上皇・上皇后の仮住まいとして使用され、その期間は「仙洞仮御所」という名称になりました。邸内は樹木に覆われて、中の様子は窺い知れません。



歩道脇の植え込みの中に薔薇の花が植えられています。

上皇上皇后両陛下 ご移居記念樹

港区と品川区は、上皇上皇后両陛下の高輪仙洞御所へのご移居を奉迎し、ねむの木の庭(東京都品川区)のプリンセス・ミチコを移植しました。

上皇后美智子さまと「プリンセス・ミチコ」
プリンセス・ミチコは、昭和四十一年(1966年)にイギリスのディクソン社から当時の皇太子妃美智子さまへ贈られた、四季咲きでオレンジ色のバラです。

上皇后美智子さまと「ねむの木の庭」
ねむの木の庭は、上皇后美智子さまのご実家、旧正田邸の跡地を整備した品川区の公園です。園名は、上皇后美智子さまが高校時代に創作された詩にちなんでつけられました。




旧高松宮邸の西側に沿った小路から「細川邸跡の椎の木」に向かいます。左手の奥に、塀とフェンスに囲まれた「大石良雄外十六人忠烈の跡」があります。門には鍵が掛けられていて、中の様子は分かりません。ここには、江戸時代に肥後熊本藩細川家の下屋敷があり、吉良邸討ち入りを決行した大石内蔵助良雄以下十七名が切腹を行なった場所です。

東京都指定旧跡
大石良雄外十六人忠烈の跡

この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。赤穂事件とは、元禄十四年(1701年)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日夜から十五日にかけての吉良邸討ち入り及びその一連の事件のことをいいます。当時の藩主五代綱利は、老中稲葉丹後守からの御預けの命を受けると、大目付仙石伯耆守の屋敷に総勢875人の藩士と駕籠を送り引渡しを受けます。このような大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すとともに、上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。細川家は、大藩の威厳と識見をもって優遇し、御預四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。元禄十六年(1703年)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹の申渡しを受け、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べました。切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置でした。

Historic Places
Oishi Yoshitaka Hoka Jurokunin Churetsu no Ato

This is the place that Ako Roshi, who was retainers concerned Ako Incident, committed seppuku (ritual suicide). The cause of Ako Incident was that Asano Naganori, who was a lord of Ako Domain, wounded Kira Yoshihisa in the Edo Castle on March 14, 1701. And the next day, Naganori was made to commit seppuku by Tokugawa Shogunate. To avenge their master's honor, 47 retainers of Ako Roshi made a raid on the Kira residence at midnight of December 14, 1702. They were caught after this incident, 17 retainers of them were in the custody of this villa of Hosokawa clan. On February 4, 1703, they were committed seppuku for the crime of murder in the courtyard of the residence. There was a pond behind them.




ポイント6 細川邸跡の椎の木

旧高松宮邸の高い塀が途切れた先に巨大な老木が天を突いています。

東京都指定天然記念物
旧細川邸のシイ

高輪支所の丘陵上に独立する単木で、樹高10.8メートル、幹囲り8.13メートル、枝張りは東に6.7メートル、西に2.7メートル、南に5.6メートル、北に5.8メートルを測る巨樹である。幹の下部に大きな空洞があったため、昭和五十六年には大規模な外科手術を実施した。スダジイは、別名イタジイともナガジイとも呼ばれ、本州の福島県・新潟県以南、四国、九州、沖縄に分布するブナ科の常緑高木である。葉は長楕円形で先は尖り大きな鋸歯がある。果実は先の尖った卵円形で二年目に熟し食用になる。古くは材は建築や家具用に使われていた。旧細川邸とは、肥後熊本藩細川家の下屋敷のことであり、元禄十六年(1703年)二月四日、赤穂事件の大石内蔵助良雄・吉田忠左衛門亮・小野寺十内秀和・原惣右衛門元辰ら十七人が切腹を命ぜられたところとして、屋敷跡は東京都指定旧跡に指定されている。

Natural Monuments
Kyu Hosokawa-tei no Shii
(Castanopsis sieboldii at the Former Residence of Hosokawa Family)

This beech tree of Castanopsis sieboldii, a natural monument, stands on the hill behind Takanawa Minato city office. It used to be a giant tree but was largely scale down in 1981 because it had a huge hollow in the lower trunk that may cause collapse. However, it still remains as large about 10.8m height and 8.13m of trunk circumference now. Castanopsis sieboldii, which belongs to the Fagaceae family, is one of the major evergreen tall trees in the warm temperate forests in Japan. The leaves have the length of 5-10 centimeters, width of 2-3 centimeters. The tree blooms in early summer and bears egg-shaped fruits that become ripe and edible in the second autumn. Castanopsis has been used for building and furniture for long time. This tree stands on the remains of residence of Hosokawa family (the former feudal lords of Kumamoto Domain). This place is well known for the Ako incident (Chushingura revenge), where 17 Ako Roshi including Ohishi Kuranosuke Yoshitaka committed seppuku in 1703.




幹の開腹手術跡と枝の切断跡が何とも痛々しいですね。



細川邸跡の椎の木から「高輪コミュニティぷらざ」に向かいます。

ポイント7 高輪コミュニティぷらざ

高輪コミュニティぷらざの入口は2ケ所にあります。ひとつは細川邸跡の椎の木の直ぐ先の5階入口で、もうひとつは桜田通りに面した1階入口です。細川邸跡と高輪コミュニティぷらざの高低差が5階分あるのですから、如何にこの辺りが丘陵地帯になっているか実感できます。


左が桜田通りに面した1階正面入口、右が5階部分の入口です。


高輪コミュニティぷらざは白金高輪駅直結の便利な場所に位置し、1階は区民ホールと集会室、音楽スタジオ、2階は展示ギャラリーと絵画や工芸作品を作るための創作室、3階は会議室などの設備が整った区民センターと図書館になっていて、区民の様々な活動に利用されています。4階と5階は区役所の出張所で、6階から上はマンションになっています。レストランやATMも併設され、来庁者用の地下駐車場も用意されています。



高輪コミュニティぷらざから「白金高輪駅前」に向かいます。

ポイント8 白金高輪駅前

白金高輪駅は、「シロガネーゼ」の名を生み出したセレブタウンの白銀高輪エリアの最寄駅で、東京メトロ南北線と都営地下鉄三田線の2社2路線が乗り入れている接続駅です。両路線とも都心部の主要地を通る路線で、白金高輪駅から大手町駅や永田町駅などの都心部の主要駅まで10分程度で行くことができます。三田線は神奈川県内を走る相鉄線と直通運転を行っていて、神奈川県の主要駅である横浜駅にも30分ほどしかかかりません。



駅舎とホームは、国道1号桜田通りと都道が交差する白金一丁目交差点の地下にあり、国道に沿って出口が多数設けられています。高層住宅兼オフィスビルで白金高輪エリアの買い物処および飲食街としても利用される複合施設「白金アエルシティ」は地下で直結されています。他の出口も周辺の住宅街に直結していて、利便性の高い駅です。駅とセレブタウンの中に生まれた新たな街とも言える白金アエルシティのプロムナードを抜けていきますと、敷地内には庭園や遊歩道や児童遊園などもあり、白金高輪駅前はファミリーの街としても整備されています。



白金高輪駅前から「高輪消防署」に向かいます。

ポイント9 高輪消防署

高輪消防署は、港区内の4つの消防署のうちで最も南に位置し、東西に長い管内となっています。東は東京湾に面し、南は品川区に、西は渋谷区に、北は港区の麻布消防署及び芝消防署の管内と隣接しています。町名は白金・白金台・高輪及び港南の4つで構成されています。高輪消防署は、明治四十一年7月に芝区二本榎町二丁目15番地に第二消防署(現芝消防署)二本榎派出所として発足しました。大正十五年7月に二本榎派出所から高輪出張所に改称し、昭和八年12月に高輪出張所から高輪消防署に昇格しました。昭和五十九年10月に高輪消防署本署が現在の場所に新築され、従来の本署は二本榎出張所に改称されました。



二本榎出張所の建物は、昭和八年(1933年)12月28日に落成したもので、近代建築の遺産(ドイツ表現主義)として東京都文化デザイン事業により保存建築物に指定されています。



高輪消防署から「清正公」に向かいます。

ポイント10 清正公(せいしょうこう)

桜田通りから目黒通りが分岐する角に覚林寺があります。覚林寺は日蓮宗の寺院で、加藤清正の位牌や像が祀られていることから清正公と通称され、付近の住民からは「清正公さま」と呼ばれて勝負祈願の寺として信仰を集めています。ここはかっての肥後熊本藩主細川家の中屋敷でした。寛永八年(1631年)に誕生寺十八世可観院日延の隠居寺として開山しましたが、日延は李氏朝鮮第14代国王宣祖の長男の臨海君の子であり、文禄・慶長の役の際に加藤清正によって日本へ連れてこられた人物でした。

当山略縁起

通称、白金の清正公さまと呼ばれる当山は最正山覚林寺と号し、寛永八年(1631年)可観院日延上人(韓国の王族)によって開創されたお寺であります。開創と同時に上人によってご奉安申し上げられた清正公大尊儀は古く江戸時代より開運の神さまとして霊験まことにあらたかで、広く庶民大衆に崇敬されてまいりました。毎年五月四日・五日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与され、東都における清正公信仰のみなもととして今もなお各界の参詣祈願者でにぎわいます。ご神徳を仰ぎ謹んでご拝礼ください。




境内の奥に本堂があります。

港区指定有形文化財
建造物 清正公堂及び山門

覚林寺は弘化二年(1845年)の大火で全焼し、山門は安政三年(1856年)、清正公堂は慶応元年(1865年)に再建されたものです。清正公堂は拝殿・幣殿・本殿からなる権現造形式です。拝殿は間口三間奥行三間、幣殿は間口一間奥行三間。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と考えられますが、伝統的な意匠をもちます。山門は覚林寺の表門で、木造・銅板葺の薬医門であり、両側に脇戸が付きます。斗に皿斗が付くほかは装飾的要素の少ない簡素な門です。清正公堂は本殿部分を土蔵造とする権現造で、近世の建物構成を継承しています。拝殿・幣殿は本格的な禅宗様形式を採用し、本殿も伝統的な意匠を引き継いでおり、近世以来の技術を伝えるものとして高く評価されます。また山門は現在の境内において最古の建築であり、同時期の建設になる清正公堂とともに、近世以来の境内の構成を伝えている貴重な建造物です。




覚林寺は、江戸最初の七福神巡りとされる元祖山手七福神の毘沙門天を祀る寺でもあります。



清正公から「八芳園」に向かいます。目黒通りは、目黒駅に向かって長い上り坂になっています。日吉坂は長さが約300mほどの緩やかな坂です。別名を「ひよせ坂・ひとみ坂・ひとせ坂」といいます。坂名の由来は、かって付近に能役者の日吉喜兵衛が住んでいたことに因みます。

日吉坂

ひよしざか 能役者日吉喜兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかに、ひよせ・ひとせ・ひとみなどと書く説もある。




目黒通りの日吉坂上交差点から八芳園の先まで坂が下っています。桑原坂は長さが約150mほどの緩やかな坂です。坂名の由来ははっきりしませんが、この芝白金の付近はかって今里村という地名で、その地名のひとつであった桑原が坂名になったといわれています。

桑原坂

くわばらざか 今里村の地名のひとつである。その起源について、特別の説は残っていない。




八芳園正門の横に小さな神社が祀られています。

古地老稲荷神社の由来

昔「江戸の名物は火事」といわれたほどで、火伏せの稲荷信仰がさかんでありました。中でも古地老稲荷さまは「あが縁日の存続する限りこの地に出火をみせじ」の強いご神託より、文政十三年、日吉坂上に鎮座されたもので、しかも縁日には霊妙不可思議にも必らずといってよいほどに雨のおしるしがある。土民その霊験をかしこみ、火伏の稲荷、人丸様、火止る様とも呼び、お祀りしました。この境内に、大正四年六月石刻連名の方により、遷宮され、ご神託どおり歴史に出火のないこと、わけても大正十二年九月一日の関東大震災にも第二次世界大戦空襲にも、火災を免れたのは祭神のご利益と信仰し、昭和二十年迄は、神前に神楽、余興を奉納し、盛況でありました。現在白金台敬崇会により左の神事が行なわれております。

  四月十七日 例大祭
  九月 一日 鎮火祭




八芳園

桑原坂の坂上手前に八芳園があります。八芳園は1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストランや結婚式場を有し、名称は「四方八方どこを見ても美しい」風景に因んで名付けられました。八芳園の敷地の一部は、江戸時代前期に譜代の旗本であった大久保忠教(彦左衛門)の屋敷でしたが、その後薩摩藩の抱屋敷や島津家(松平薩摩守)の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡りました。大正四年(1915年)に実業家の久原房之助邸宅となり、現在の建物と庭園が整備されました。戦後になって久原房之助(当時公職追放中)は銀座や築地で料亭などの経営を手がけていた長谷敏司に海外からの旅行者(賓客)向けに日本庭園を活かした本格的な料亭の共同経営を持ちかけ、自ら命名して昭和二十五年(1950年)に八芳園を創業しました。令和四年(2022年)5月23日には、日米首脳会談のため来日していたアメリカ合衆国大統領のジョー・バイデンと岸田首相が敷地内の料亭「壺中庵」で夕食会を催しました。



八芳園から「東京大学医科学研究所」に向かいます。

ポイント11 東京大学医科学研究所

東京大学医科学研究所は、東京大学の附置研究所で、癌や感染症その他の難治疾患を対象にした最先端の研究と医療を進めることを目的とする研究所です。研究所敷地内に附属病院を有し、国内最大規模の医学研究所となっています。2001年に近代医科学記念館を設置し、医科学に関する歴史的資料を保存・展示し、最新情報の提供を行っています。



東京大学医科学研究所は、明治二十五年(1892年)に芝公園に設立された「伝染病研究所」を起源としています。ドイツ留学から帰国した北里柴三郎に当時日本で受け入れる研究機関がなく、国家有為の才能を発揮できない状態でした。そんな北里柴三郎を見て、福澤諭吉が私財を投じて設立したのが国内で最初の伝染病研究所です。現在の港区白金台に移転したのは明治三十九年(1906年)のことです。大正三年(1914年)に内務省から文部省に移管されましたが、これに反対した所長以下所員が総辞職し、北里柴三郎は新たに私立の「北里研究所」を設立して研究を続けることになりました。大正五年(1916年)、伝染病研究所は東京帝国大学附置伝染病研究所になりました。国内の衛生状態が改善されるのに伴い、昭和四十二年(1967年)に「感染症・癌その他の特定疾患に関する学理及びその応用の研究」を目的とする医科学研究所に改組されました。時計台のある3階建てのゴシック様式風の本館は、大正十二年(1923年)の関東大震災の直後に、内田祥三(のちの総長)が耐震・耐火建築研究の実績に基づいて設計したものです。本館の奥には、8階建ての真新しい病院棟と研究棟が並び、その左右には基礎研究と臨床研究のための建物が密集しています。敷地面積約7万平方メートルの中に緑に囲まれた公園を有し、2001年には近代医科学記念館を開設しました。



東京大学医科学研究所から「白金台いきいきプラザ・白金台児童館」に向かいます。

白金台いきいきプラザ・白金台児童館

白金台いきいきプラザは、白金台駅から徒歩1分の好立地にあります。地域の高齢者や区民の世代を超えた触れあいコミュニティの場として利用されています。入浴設備やマッサージ機・調理室・音楽室・会議室・和室・ホール・トレーニングルームなど豊富な施設を活用し、スポーツ・趣味・学習など様々な企画で、主に地域高齢者に対して健康で豊かなひとときを提供しています。



白金台児童館は子供達の「遊び基地」で、3階の広い遊戯室はテンカやドッジボールなどのボール遊びができ、廊下は一輪車で毎日大賑わいです。2階フロアーでは、本やマンガを読んだり、駒やゲーム遊びなどができます。乳幼児親子も専用遊具で遊べ、年齢別の親子のつどいも行われていますので、仲間作りの場にもなっています。乳幼児専用のちびっこルームもあります。



白金台いきいきプラザ・白金台児童館から「通称プラチナ通り」に向かいます。

ポイント12 通称プラチナ通り

プラチナ通りとは、白金六丁目にある交差点から白金台交差点までの外苑西通りの通称で、全体で1km弱の区間を指します。イチョウ並木沿いにおしゃれなカフェ・レストラン・ショップが建ち並んでいます。通称は「白金」の地名に由来し、洗練されたこの街の雰囲気に合う女性を「シロガネーゼ」と呼んでマスコミに取り上げられたことから一躍有名になりました。ちなみに、プラチナの正式名称は「白金(はっきん)」です。「しろがね」ではありません。更に云えば、地元のセレブは白銀を「しろかね」と濁らずに発音します。なので、「シロガネーゼ」という名前が流行した際は、眉をひそめたといわれています。



通称プラチナ通りから「松岡美術館」に向かいます。

ポイント13 松岡美術館

松岡美術館は、昭和五十年(1975年)11月25日に港区新橋の松岡田村町ビル8階に開館しました。初代館長で美術館の創設者でもある松岡清次郎は、若い頃から書画骨董を愛し、約半世紀をかけて一大コレクションを築きました。80歳を迎える頃、「優れた美術品は一般に公開し、一人でも多くの美術を愛する人に楽しんで頂こう。学術的価値のあるものは、その道の専門家や若い学究の研究資料として利用して貰おう。そうしてこそ私のこれまでの蒐集が意義を持つのではないか」と考えるようになり、美術館の設立を決意しました。1800件あまりの所蔵品の多くは、ロンドン・ニューヨーク・香港などで開催されるオークションでの落札によるものです。清次郎は開館後も国内外の美術展に足しげく通い、また精力的に海外へ赴き、自分の審美眼を信じ、生涯蒐集を続けました。松岡美術館は開館以来、所蔵品のみで展示を行っています。それは、「私立美術館は美術品を蒐集した館の創立者の美に対する審美眼を、そのひとつひとつの美術品を通して、ご覧いただく方に訴えるべき場所」と考えた清次郎の意志によるものです。松岡清次郎は、明治二十七年(1894年)1月8日に築地・小田原町の米穀商の三男として生まれ、中央商業学校を卒業と同時に銀座の貿易商に就職し、貿易のノウハウを身につけました。22歳の時に独立して松岡商店を設立し、当時は先進的だった第三国中継貿易を採用して商才を発揮しました。その後、倉庫業・不動産業・観光業・教育事業など数々の事業を手掛け成果を上げました。最初に貿易で扱ったものがイミテーション・ダイヤで、その後、ルビー・ダイヤモンド・アレキサンドライトなど「美しいもの」に惹かれた松岡清次郎は美術にも関心を寄せるようになり、日本画や陶磁器などの蒐集を始めます。会社経営と並行して美術品蒐集を晩年まで続け、平成元年(1989年)3月20日に95年の生涯を閉じました。



松岡美術館から「光林寺」に向かいます。

ポイント14 光林寺

首都高目黒線の天現寺ランプ前に光林禅寺があります。格式の高いお寺とされ、墓地には大名・旗本・大企業の役員などのお墓が多くあります。2018年9月30日、光林禅寺において女優・樹木希林の葬儀が執り行われ、その後亡くなった夫の内田裕也と一緒に光林禅寺に埋葬されました。



そんな有名人に混じって、光林禅寺には幕末時代の外国人のお墓もあります。ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケンという若者で、オランダ人ですが一家でアメリカに渡りアメリカ国籍をとった後、当時の日本がオランダ語を外交時の公用語としていたこともあって、英語とオランダ語がわかる人物としてアメリカ総領事ハリスの通訳として雇われました。ハリスと共に来日した後で日本語も習得し、日米修好通商条約の締結に貢献しました。英語とオランダ語ができる貴重な通訳として、ヒュースケンは各国から通訳を依頼され、プロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、ドイツ統一の中核となった王国)の仕事も引き受けていました。万延元年12月4日(5日という記述もあります)、ヒュースケンは江戸城の周りを馬でまわって(ヒュースケンは乗馬が好きでした)午後6時頃にプロイセン王国の使節宿舎であった芝赤羽接遇所(北区の赤羽でなく、現在の赤羽橋の近くにあった)に到着し、プロイセン王国の使節らと夕食を摂ったあとも夜8時半頃まで雑談に興じ、その後幕府の3名の騎馬役人・従僕ら4人・馬丁2名を警護に付けて善福寺のアメリカ大使館への帰路につきました。しかし、その途中の夜9時頃、芝薪河岸にある中の橋付近で攘夷派「浪士組」所属の薩摩藩士8名に襲撃されました。腸を切断するほどの深手を負い、約200m先で落馬したヒュースケンはアメリカ公使館に運ばれ、ハリスはプロイセン王国使節団の医師と数名を呼び寄せました。また、既に駆けつけていた日本人医師らと懸命な手当をおこないましたが、翌5日(6日という記述もあります)に失血死で28歳の若さで息を引き取りました。

ヒュースケン墓

アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官として、安政三年(1856年)七月に下田に到着したオランダ人ヒュースケンは、その仮公使館が設けられるに及び江戸に入り、ハリスの片腕となって困難な日米間の折衝に活躍し、日米修好通商条約を調印にいたらしめ、また、日本と諸外国の条約締結にも尽力した人物である。万延元年(1860年)十二月、ヒュースケンは日本とプロシアとの修好条約の協議の幹旋のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、五日午後九時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の浪士に襲われ、刀で腹部を深く切られた。その後宿所に運ばれ、プロシア使節団の医師らによる処置が行われたが、六日未明に死亡した。遺体は江戸光林寺に埋葬された。




ヒュースケンの遺骸はプロイセン王国が用意した棺に納められるとアメリカ国旗で包まれ、善福寺は土葬が禁じられていたために、土葬が可能な光林禅寺に運ばれて埋葬されました。



ヒュースケンとは関係ありませんが、通訳伝吉のお墓が直ぐ近くにあります。小林伝吉は、摂津の船乗りでしたが、乗っていた舟が遭難してアメリカ船に救助され、サンフランシスコに渡りました。その後、日本に送り届けられることとなり、アメリカ海軍の軍艦で清国へ向かいましたが、清国に滞在中に他の船員と離れて単独行動を取り、広州領事として勤務していたオールコックに通訳として雇われてイギリス国籍を取得し、ボーイ・ディアスと名乗りました。オールコックが駐日総領事に任命されると、安政六年(1859年)5月にオールコックと共に長崎を経て、江戸高輪の東禅寺に入り、通訳としてイギリス公使館で勤務しました。伝吉は洋装の日本人として有名で、短気で傲慢な人物であったといわれています。市中で多くのトラブルを起こし、素行が悪く恨みを買うことも多かった人物でした。安政七年(1860年)1月7日、東禅寺に置かれていたイギリス公使館の門前に伝吉が立っていたところ、2人の侍の襲撃を受け、背後から短刀で刺されて殺害されました。葬儀はイギリス公使館員によって光林寺で行われ、ヒュースケンの墓所近くに埋葬されました。


墓石の背面には英語表記がありますが、読み取れませんでした。


ゴール地点の広尾駅に着きました。



ということで、港区で六番目の「E泉岳寺から白金プラチナコース」を歩き終えました。次は港区で七番目の「F三田から東京ミッドタウン・檜町公園・赤坂コース」を歩きます。




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