- F三田から東京ミッドタウン・檜町公園・赤坂コース
- コース 踏破記
- 今日は港区の「F三田から東京ミッドタウン・檜町公園・赤坂コース」を歩きます。みなと保健所をスタート地点として、老舗が軒を連ねる麻布十番商店街や東京ミッドタウンを巡り、赤坂の名の通り急坂に息を切らします。最初に歩いたのは年末の2021年12月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年8月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
F三田から東京ミッドタウン・檜町公園・赤坂コース
「F三田から東京ミッドタウン・檜町公園・赤坂コース」の歩行距離は約4.0km、歩行時間は約60分、消費カロリーは約180Kcalです。
三田〜六本木コース
スタート地点:みなと保健所
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- ポイント 1 麻布十番商店街
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- 十番稲荷神社
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- ポイント 2 芋洗坂
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- ポイント 3 六本木交差点
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ゴール地点:六本木駅
Aコース
坂道の少ないゆっくりペースで歩けるコースです。
スタート地点:六本木駅
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- ポイント 1 東京ミッドタウン・檜町公園
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- ポイント 2 乃木邸
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- ポイント 3 青山一丁目
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- ポイント 4 高橋是清公園
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ゴール地点:赤坂コミュニティぷらざ
Bコース
坂道を楽しむ足腰に自信のある人向けのコースです。
スタート地点:六本木駅
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- ポイント 1 檜坂
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- ポイント 2 三分坂
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- ポイント 3 薬研坂
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ゴール地点:赤坂コミュニティぷらざ
六本木アート・トライアングルコース
ちょっと足をのばして、アートな気分にひたってみませんか?
スタート地点:六本木駅
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- ポイント 1 サントリー美術館
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- ポイント 2 国立新美術館
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- ポイント 3 森美術館
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ゴール地点:六本木駅
三田〜六本木コース
スタート地点のみなと保健所から歩き始めます。
古川を一之橋で渡ります。一之橋は、長さ16.4m・幅22.0m・車道16.5m・歩道2.0m(両側)で、昭和五十八年1月に架替えられました。白金御殿の造営にともなう古川の改修により架けられたといわれ、橋名は、元禄十二年(1699年)8月に古川に始めて架けられた橋ということに因んでいます。
- ポイント1 麻布十番商店街
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白金御殿は、別名麻布御殿、富士山がよく見えたので富士見御殿とも呼ばれ、五代将軍徳川綱吉が世を治めていた元禄十年(1697年)十二月一日に将軍の慰安施設として麻布で起工され、翌年十一年四月十四日に完成しました。白金御殿の造営に伴って、将軍が古川を遡って直接船で御殿まで入れるように、古川の川幅拡張・掘り下げの改修工事も行われました。「麻布十番」という地名の由来には、古川の改修工事を行う際に10番目の工夫を出したためとか、10番目の土置き場だったとか、10番目の工区だったなど幾つかの説があります。古川の水運が盛んだった頃は、今の麻布十番周辺が交通の要衝として栄え、物資の商いが行われるようになり、やがて「麻布十番商店街」が形成されていきました。
活気を集めた麻布十番商店街ですが、鉄道交通が主流の時代になると周辺に鉄道の駅がなく、バスでの移動が中心となったこともあり、鉄道駅周辺の街ほどの賑わいは見られなくなりました。しかし、これが“隠れ家”的な雰囲気をもたらし、独特の風情を楽しめる街として注目されるようになりました。平成十二年(2000年)に東京メトロ南北線と都営地下鉄大江戸線の「麻布十番」駅が開業し、交通アクセスの利便性が向上し、再び活気あふれる商店街として注目を集めるようになりました。
麻布十番一帯には外国の大使館が多いという特徴を活かして、アートによる街おこしが行われています。「微笑みのモニュメントシリーズ」は、12ヵ国の大使館の協力で創られた12の微笑みのモニュメントと、日本の作家2人の作品の合計14体のアートモニュメント作品から成っています。「微笑みのモニュメント 父と子」は、ジンバブエ共和国の芸術家の作品です。「母と子」でないところが面白いですね。
と思ったら、「微笑みのモニュメント 母と子」もありました。こちらは韓国の芸術家の作品です。作家によると「純真な息子と母親の愛情、そして息子の未来への母親の夢を表現しています。」とのことです。
もうひとつ、母と子の像があります。「微笑みのモニュメント 微笑み SMILE」は、パキスタンの芸術家の作品です。乳房をあらわにして乳児を抱きしめる母親ですが、微笑んでいるのは母親でしょうか、それとも見ている人でしょうか?
「思い出のパッケージ」は、オーストラリアの芸術家の作品です。作者の解説では、「この作品は、土着の動植物がみやげ物として濫用される現状への問題提起という面を持っています。」とのことです。確かに、スーツケースの側面には、カンガルーとか小動物の浮き彫りがされています。
300年以上の歴史を誇る麻布十番商店街には、蕎麦の「永坂更科布屋太兵衛麻布総本店」や豆菓子の「豆源麻布十番本店」、たい焼きの「浪花家総本店」など、老舗の店が多く営業を続けています。近年は話題の新しい店も増え、さらに魅力を増しています。永坂更科布屋太兵衛麻布総本店は、第十一代将軍徳川家斉治世の寛政年間の頃、初代布屋太兵衛が江戸麻布永坂で看板を掲げたのが始まりといわれています。それより以前の元禄の初めに、太物商を商っていた布屋清助が領主保科兵部少輔に招かれて江戸屋敷内(当時の麻布十番長屋)に住まうようになりました。代々蕎麦打に長じていたことから、八代目清右衛(初代布屋太兵衛)は領主の勧めで故郷の更級郡の「更」と領主保科家の「科」を賜り、それに永坂の地名をつけ加え、「永坂更科」と命名したのが屋号となっています。蕎麦の旨さを際立てさせる拘り製法の濃厚なつゆは、あま汁とから汁の2種類を用意していて、毎日職人が片時も離れず丁寧に仕込んでいます。そのままでもおいしいのですが、自分好みの味にブレンドして食すのもお勧めです。お店の入口の横に、「麻布十番の由来」と記された石板が建っています。両脇には、麻布の風景を詠んだ川柳も並んでいます。
麻布十番の由来
この付近は、南面する傾斜と湧き水に恵まれ、古くから住居の好適地として集落が存在した。江戸時代にはいると、大名旗本の屋敷や新しく移ってきた町屋などが、さらに増加している。延宝三年(1675年)、幕府は救済事業のために古川の改修工事に着手した。このとき、將監橋から一の橋までを、十の工区にわけ、この付近が第十番めに当たった。それを記した杭も、後年まで残っていた、という。別に、元禄十一年(1698年)、いまの南麻布に将軍の別荘である白金御殿を建設したとき、このあたりから十番めの組になった川さらいの労務者を出した、とも伝える。こうして十番の地名が起こり、亨保八年(1723年)[又同十四年とも]に、芝から移転した馬場を十番馬場と言いならわした。続いて十番馬場町もできたが、そこで開かれる仙台産の馬市や、付近の仕立屋が考案した乗馬用の十番袴も有名であった。明治に至って馬場は廃止され、十番馬場町の名も消えたが、山の手の繁華街として栄える十番の呼び名は、絶えることがなかった。昭和三十七年(1962年)十月、麻布十番は再び正式の町名となったのである。
老舗たいやき店「浪花家総本店」の店名は、初代が浪花(現在の大阪)出身だったことから命名されたそうです。創業は明治四十二年(1909年)で、100年以上の歴史を刻んできた老舗です。創業以来の伝統的製法を守り続けるたいやきは、パリッと香ばしく焼きあがった薄皮に、ほどよい甘さのあんこのハーモニーが絶品です。他にも、焼きそばやお汁粉、あんみつなどの甘味がメニューに並んでいて、どれも懐かしい気持ちにさせてくれる逸品ばかりです。夏場のかき氷も評判です。私も鯛焼きを食べてみましたが、皮はパリパリ、あんこは大盛り、焼きたてで火傷をするくらい熱かったです。
麻布十番商店街から「十番稲荷神社」に向かいます。
- 十番稲荷神社
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都道319号環状三号線に面して十番稲荷神社があります。この周辺地域には、以前は末広神社と竹長稲荷神社という2つの歴史ある稲荷神社が鎮座していましたが、昭和二十年(1945年)4月15日の東京大空襲に遭い焼失してしまいました。戦後の昭和二十五年(1950年)6月に復興土地区画整理により、両社の境内地が現在地に換地・隣接指定され、その後両社が合併して社名を現在の「十番稲荷神社」へと改称しました。現在の社殿は、平成九年(1997年)3月29日に建て替えられたものです。
文政四年(1821年)7月2日の大火によって周辺地域が焼失した際、元麻布にあった備中成羽藩主山崎家の屋敷だけは類焼を免れ、それは屋敷内にあるがま池の大ガマが火を防いだからだと信じられ、人々に求められて山崎家は「上」という一字が書かれた御札を万人に授けるようになりました。この御札は「上の字様」と称され、防火・火傷のお守りとして信仰を集めました。「上の字様」は後に十番稲荷神社の前身である末広神社を通して授与されるようになりましたが、空襲による社殿焼失後の戦後には中断していました。しかし、「上の字様」の復活を願う声は多く、昭和五十年(1975年)8月から、代わりとして「かえるのお守り」の授与を開始し、かえるの石像も奉納されました。その後、「上の字様」も神社に伝わる史料を基に、ほぼそのままの姿で復刻し、平成二十年(2008年)元旦から授与を開始しました。
かえるの由来
昔ある年、古川辺から燃え出した火事に此辺りすべて烏有に帰してしまった時、「がま池」のほとり山崎主税助の屋敷のみ類焼を免れたのは、池中にいた大蛙が口から水をふいて、さしもの猛火を吹き消したとの故事により、山崎家から万人に「上の字」様のお守が授けられました。その後末広様(当社の前の御社名)を経てわけられていました。その故事に因んだ「かえる」お守は火防・やけどのお守・無事かえる・若がえる・何でもかえるお守として貴ばれております。
十番稲荷神社は港七福神の「宝船」の社として知られていて、港七福神は「宝船」を含めて合計8ヶ所を巡拝するのが特色となっています。
十番稲荷神社から「芋洗坂」に向かいます。
- ポイント2 芋洗坂
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都道319号環状三号線から六本木方向に道路が枝分かれしています。
六本木中学校付近から六本木交差点までは、緩やかに曲がりながら坂が上がっています。
芋洗坂は長さが約170mほどで、坂名は、かって坂の付近に芋問屋があったことに由来しています。
芋洗坂
いもあらいざか 正しくは麻布警察署裏へ上る道をいったが、六本木交差点への道が明治以後にできて、こちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。
ちなみに、芋洗坂の坂上手前から外苑東通りに向かって短い坂が上がっています。饂飩坂は長さが約60mほどの坂で、坂名はかって坂の脇にうどん屋があったことに因みます。
饂飩坂
うどんざか 天明年間末(1788年)頃まで松屋伊兵衛という、うどん屋があったために、うどん坂と呼ぶようになった。昔の芋洗坂とまちがうことがある。
芋洗坂から「六本木交差点」に向かいます。といっても、芋洗坂の坂上は六本木交差点に面しているのですけど。
- ポイント3 六本木交差点
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六本木交差点は、六本木通りと外苑東通りが交差し、上空には首都高3号渋谷線が通っています。六本木のシンボルといえば、首都高高架桁下に取付けられた「ROPPONGI ROPPONGI」のロゴですよね。現在のロゴプレートは、昭和六十三年4月頃に「六本木交差点に六本木の印が欲しい」と考えた当時の六本木商店街振興組合会長が六本木で英会話教室やフラワーデザインの教室を営んでいた経営者に相談し、約20種類のアイデアの中から選定し、決定されました。ロゴプレートの設置後、平成元年3月6日に除幕式が行なわれました。しかし、現在進行中の六本木交差点のリニューアル計画により、新しいロゴプレートに置き換えられる予定になっています。新しいロゴは、「ROPPONGI」の各アルファベットの文字を樹木に見立て、全体で「並木道」をイメージした若草色のロゴになるそうです。六本木の成長を表すために縦のラインを意識し、天に向かって立つ樹木をイメージしたものにするほか、末広がりにすることで今後の六本木の発展性を表現するとのことです。
六本木交差点の角にギターを奏でる乙女のブロンズ像が置かれています。昭和二十年、終戦と共に戦争の爪痕は六本木の地にも深く残りました。ようやく訪れた平和ではありましたが、やるべきことは山積みです。終戦と時を同じくして六本木の復興計画は幕を開けました。建物の移転や道路・公園・水道などのインフラ整備、これらの整備にやっと一区切りがついたのは終戦から9年が経った昭和二十九年のことでした。区画整理事業が完了して街としての機能が備わり、その記念碑として建てられたのが「奏でる乙女」の像でした。当時はもちろん首都高速はありませんでした。六本木通りの中央には緑地帯があり、当初「奏でる乙女」の像はその緑地帯に建てられました。昭和三十七年に地下鉄日比谷線の工事が始まったために近隣の三河台公園に移転しました。このとき、不幸にも腕などの一部が壊されてしまう憂き目に遭いましたが、この像を守り抜きたいという想いを強くした関係者の尽力により昭和五十年に再建されました。当初のセメント製からより堅強なブロンズ製に変わって再び六本木交差点へ移転されましたが、1990年代後半に差し掛かると、次は都営地下鉄大江戸線の工事で再び移転を余儀なくされました。平成十二年になってようやく元の場所に還ってきました。
奏でる乙女
その昔、緑深い武蔵野の東南に年経た六株の松が聳える小高い丘があった。その松はどこからでも見えたので、いつとはなしに人々はこの土地を六本木と呼び慣れ、それがそのまゝ地名になったと云い伝えられる。もとはわびしい叢(草むら)に道行く人も稀であったが、寛永年間、佛寺三院が創立されるとその?前に商家も集い、やがては瓦もいかめしい大名屋敷が立ち並ぶようになった。延宝から大正迄幾度となく行なった道路拡張で交通が便利になると、このあたり一帯は人馬の通いも繁くなり、おのずから賑わいを増していった。そして明治の代、隣地に兵営が置かれるに及んで土地の繁栄は一層めざましく、みなぎる活気のうちに昭和に入ると山の手でも指折りの盛区に数えられるようになった。だが、一方昔ながらの静かな趣はガス燈の青いかげにも残り、六本木・三河台両町には都内でも有数な高級住宅が?まれて華やかな商店街と映り合い色彩ゆたかな町としての誇りを見せていた。昭和二十年五月二十二日、太平洋戦争の災禍はこの町をも見舞い、美しい町並も?も一夜のうちに灰燼に帰したが、翌二十一年戦災都市復興計画は、焼け朽ちた郷土をいたみ、その再建を夢見る町民の進んで?力するところとなり、その熱意は麻布第一復興土地区画整理組合の結成となってあらわれた。そして子安英男を組合長として昭和二十二年六月より事業を開始したが、当初は終戦直後の?乱期に当り、町民の生活もゆらぎ勝ちで、百年の大計を樹てようとする区画整理は遅々として進まなかった。しかし、幸に関係者の?ゆまぬ努力と理解ある町民の力強い援助によって苦しみを超えて歩んだ十年の歳月の????、今こゝにようやくその事業の完成をもたらしたのである。この記念に、平和と協力とを象徴する本郷新氏の労作を請得てこれを街角に見る喜びと共に、この地のさゝやかな歴史を併せて記し、後の世の人に伝える次第である。
六本木で待ち合わせといえば、喫茶・洋菓子販売のアマンド六本木店でした。現在は建替えられた店舗で営業していますが、どこかピカピカして馴染めません。以前の建物は前回の東京オリンピックが開催された昭和三十九年(1964年)にオープンし、当時の六本木の雰囲気によく溶け込んでいました。外飾がピンク基調なのは、戦後まもなく喫茶と甘味の店として誕生した際に、「復興の中で明るい気持ちになって欲しい」という想いから、当時では斬新な発想の「ピンク」を基調とした店作りにしたからとのことです。今では当たり前となった、おしぼりの提供・店頭にパラソルを置く・彫刻や絵画を飾るなどもアマンドが始めたといわれています。ちなみに、アマンドの店名の由来には「甘人(あまんど)」とか、フランス語の「アマンド(アーモンドの意味)」とか諸説あります。
アマンドの地下には「シシリア」というイタリアンのお店があります(入口は交差点の角にあります)。創業は昭和二十九年で、六本木の飲食店の中でも老舗の部類に入ります。定番のグリーンサラダとフロレンス風サラダに入っているホワイトアスパラガスが絶品だとか。
ゴール地点の六本木駅に着きました。
引き続いて、Aコースを歩きます。
Aコース
スタート地点の東京メトロ・都営地下鉄大江戸線六本木駅から歩き始めます。
- ポイント1 東京ミッドタウン・檜町公園
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この場所には、1641年から1871年まで萩藩毛利家屋敷がありました。明治時代に入ると、1873年から陸軍の駐屯地となり、歩兵第一および第三連隊が使用しました。終戦後の1946年に米軍に接収され、将校の宿舎として使用されました。サンフランシスコ講和条約発効後の1960年に日本に返還され、1962年から陸上自衛隊の檜町駐屯地となリ、防衛庁の本庁舎も設置されました。平成十二年(2000年)5月に防衛庁本庁が新宿区の防衛庁市ヶ谷地区に移転し、跡地の再開発計画が決定しました。工事は平成十六年(2004年)5月18日に始まり、平成十九年(2007年)1月に竣工しました。東京ミッドタウンは、防衛庁本庁檜町庁舎跡地の市街地再開発事業として、2007年3月30日に開業した大規模複合施設です。都営地下鉄大江戸線「六本木駅」に直結していて、オフィスや高級ホテル、さまざまなショップとレストラン、美術館、レジデンス、医療機関、公園・緑地など、多様な施設から構成されています。施設の中核をなす超高層ビル「ミッドタウン・タワー」は、地下5階・地上54階・高さ248.1mで、それまでの東京都庁舎第一庁舎に代わり、都内で最高層のビルとなりました。東京ミッドタウンに含まれる施設には、ザ・リッツ・カールトン東京、赤坂見附から移転したサントリー美術館、オフィス部分のテナントとしては、コカ・コーラボトラーズ、シスコシステムズ、ジーユー(GU)、スルガ銀行、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)、ナイキ、富士フイルムホールディングス、ファーストリテイリング(ユニクロ)などが本社や東京本部を移転・設置したのを始め、ゲーム大手のコナミも都内各所に分散していた拠点をここに集約しました。隣接する港区立檜町公園と合わせて4ヘクタールの緑地帯を確保していて、桜並木も移設されました。他の再開発プロジェクトに比べ、敷地面積内に占める緑地帯の割合が大きいのが特色です。
檜町公園は、東京ミッドタウンに隣接し、面積が14、100uの港区が設置する都市公園(近隣公園)です。此の地には、江戸時代に長州藩・松平大膳大夫(毛利家)の下屋敷があり、庭園は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園のひとつとして知られていました。また周りに檜の木が多かったことから、毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、後の「檜町」という地名や公園の名称もこれに由来しています。明治時代になって毛利家の屋敷一帯は国の管轄に移り、第1師団歩兵第1連隊の駐屯地となりました。第二次大戦後に米軍の接収を受け、返還後は敷地の大部分に防衛庁が設置されました。その残りの部分が檜町公園として整備され、1963年に都立公園として開園し、1968年に港区に管轄が移されました。2000年に隣接する防衛庁が市谷に転出し、その跡地に東京ミッドタウンが開発されたのを受け、檜町公園も再整備され景観が大きく変わりました。隣のミッドタウン・ガーデン(東京ミッドタウンに付属している芝生広場)との調和が取れた開放的な造りとなりました。
公園の一画に、「赤坂檜町」の旧町名由来板が建っています。
赤坂檜町
古くは今井村のうちでしたが、寛永(1624年〜1644年)以後、萩(長州)藩毛利家、松江藩松平家、山家藩谷家の屋敷地となり、幕末まで大きな変化はありませんでした。萩藩毛利家屋敷は元治元年(1864年)、幕府と萩藩とが対立したため、召し上げとなっています。町の北部に麻布今井町年貢町屋がありました。これはかつての今井村の百姓家に由来すると思われ、承応三年(1654年)頃にはこの町屋が今井本村と呼ばれ、中心的な位置をしめていたようです。明治五年(1872年)、麻布今井町年貢町屋と武家地を合併して、「赤坂檜町」となりました。町名は毛利家邸内に檜が多く、檜屋敷と呼ばれていたことに由来します。明治になって、町内の南東部三分の二は陸軍省用地となり東京鎮台歩兵営がおかれ、後に歩兵第一連隊となりました。西部は明治二十年(1887年)頃は、空き地や畑だったようで、明治末頃までには大部分が住宅地となり、北東隅には、わずかに商店がありました。戦後は、歩兵第一連隊が進駐軍に接収されハーディバラックスという兵舎となりました。昭和三十七年、アメリカから敷地が返還され、跡地には平成十二年まで防衛庁が置かれていました。
Akasaka Hinokicho
A long time ago, there were a lot of old samurai residents built in this area. In the fifth year of the Meiji era (1872), the area was unified as a town called Akasaka Hinokicho. It was named Hinokicho because there were numerous hinoki (cypress trees) in the property of the Mouri family of the Choushu clan existed at that time in this
area. Upon the arrival of the Meiji Era, two thirds of the land in the southeastern part of the town was used as the army post and barracks of the Tokyo Army were constructed, which later became the First Infantry Regiment. Around the twentieth year of the Meiji era (1887-) the western part of this area was vacant land and cultivated fields. Around the end of the Meiji era, however, the majority of this had become residential districts, with a small number of shops in the northeastern corner.
After World War II, the First Infantry Regiment was taken over by the occupation army and Hardy Barracks were built there. The United States returned the grounds to Japan in 1962, and the Japan Defense Agency was situated on this site until 2000.
冬期にはスケートリンクも設置されているようです(2021年)。夏には水遊びができる噴水広場もあります。
かなり本格的な彫像やアートモニュメントがあちこちに置かれています。普通の公園とは格が違いますね。
東京ミッドタウン・檜町公園から「乃木邸」に向かいます。
- ポイント2 乃木邸
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乃木邸は、明治期の軍人乃木希典とその妻乃木静子夫妻が暮らし、明治天皇大葬の日に自刃した邸宅でした。乃木希典の遺言により、邸宅・馬小屋の建物ごと東京市に寄贈され、公園として整備されて大正二年(1913年)に開設されました。明治三十五年(1902年)に建てられた邸宅は、乃木希典が留学中に見たフランス連隊本部を参考に設計したもので、現存する数少ない明治期の和洋折衷建築です。標札にある「舊」とは、「昔の・以前の」といった意味で、「旧」と同じ意味です。
邸宅は隣接する公園と一体になっています。
公園附近沿革案内
この公園附近は、江戸時代の初期、青山常陸介忠成が家康の命をうけ、馬を乗り廻して賜わった土地で、力尽きて死んだ馬の塚を築き、駒留八幡といったという伝説がある。青山氏の敷地は現在の南北青山および赤坂7、8丁目を含む広大な地域であった。江戸時代末期このあたりは美濃郡上藩青山大膳亮の邸地で、明治維新後この一帯は新坂町と呼ばれ、名士の邸宅街となった。陸軍大将乃木希典は明治十二年この地を買い求め、同三十五年新築をした。大将は大正元年9月明治天皇のあとを追い、夫人静子とともに自害して果てた。邸宅はその遺言により、東京市に寄付され、整備ののち公園として開園された。現在では、旧乃木邸を含めて区立公園として管理している。
明治期の将官の邸宅は接客を目的とする豪華な建物が多かったのに比べ、旧乃木邸の外観は黒塗りの板張りで飾り気がなく、内部も極めて簡素かつ合理的に造られていて、明治期の和洋折衷建築としても貴重なものとなっています。
旧乃木邸
旧乃木邸は、日清・日露の両戦役に従事し、明治天皇崩御と共に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。この邸宅は、フランス軍隊の建物を模して自ら設計したものと言われています。明治三十五年(1902年)に新築されたものです。本館は、木造の日本瓦葺きで、正面玄関から見ると全体が2階建てに見えますが、傾斜した地形が巧みに利用され、実際は半地下も含め3階建ての構造となっています。建築面積が168平方メートルの建物です。半地下には、台所・茶の間・納戸・浴室・書生部屋・女中部屋があり、1階は、応接室・客室・次室・来賓室・大将居室・夫人居室があります。屋根裏には、2人の令息の居室と物置・書庫が造られています。旧乃木邸と馬小屋は、大正元年9月13日乃木夫妻殉死後、遺言で東京市に寄付され、現在は港区が管理しています。また、夫妻の命日に合わせ毎年9月12日・13日に邸内を一般公開(無料)しています。
注記:旧乃木邸の公開は年に一度でしたが、2017年から年に3回となりました。
Former Residence of General Nogi
This is the former residence of Maresuke Nogi, an army general during the Sino-
Japanese and Russo-Japanese wars who committed ritual suicide upon the death of the Meiji Emperor. It is said that Nogi designed the mansion himself, modeling it after French military-style structures. The building was erected in Meiji 35 (1902). The main building is a wooden structure with tile roofing. When seen from the main entrance the building appears to have two stories; however, the addition of a half-basement through skillful use of the sloping terrain actually makes it a three-story structure. The basement alone has a floor space of 168 square meter. The kitchen, tea room, storeroom, bath, houseboy's room and maid's quarters are located in the basement. A drawing room, guest room, anterroom, living room, and General Nogi's room and Mrs. Nogi's room are on the first floor. Nogi's two son's quarters are in the attic, along with closets and a library. Upon the deaths of General Nogi and his wife on September 13, Taisho 1 (1912) his residence was donated to the city of Tokyo as directed in his will and is now under the administration of Minato City. The residence is opened to the public free of charge on September 12 and 13 of every year in memory of the General and his wife.
一般公開以外の日は、母屋の周りに巡らされている外通路から部屋内を見学することになります。左側の写真には、日露戦争中に乃木希典大將とロシアのステッセリ(ステッセル)将軍の会見が行われた民家で使われていた手術台が置かれています。この手術台は2台セットで会見時のテーブル代わりに使用されました。ちなみに、もう一台は中国大連市水師営会見所で公開されています。右側の写真は「殉死の室」と呼ばれ、1912年9月13日に乃木希典と妻の静子が殉死した部屋です。乃木希典の遺書の中に静子宛てのものがあったことから、当初は乃木希典一人で自決するつもりだったのではないかといわれています。
母屋の屋根に聳えていた煙突もあります。現在、母屋の屋根にあるのはこの煙突のレプリカだそうです。
旧乃木邸の煙突
The Chimneys of Nogi Residence
この煙突は、実際に旧乃木邸の屋根に設置されていた煙突の実物です。平成二十三年の東日本大震災の影響により被災したため、撤去しました。現在、旧乃木邸の屋根にある煙突は、レプリカです。
乃木希典大将は、戦場において馬は人と同様にその力を必要とすることから、平時においても馬を大層可愛がり大事にされました。旧乃木邸の母屋の完成(明治三十五年)よりも早い明治二十二年に竣工した馬小屋は立派な煉瓦造で、煉瓦もイギリスからわざわざ取り寄せるという拘りようでした。質素な木造建築の母屋より立派なことから、「新坂の馬屋敷」と称されました。
東京都港区指定文化財
有形文化財 旧乃木邸及び馬小屋
旧乃木邸は、明治三十五年(1902年)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(1912年)九月十三日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は168u、木造平屋建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。馬小屋は、平屋建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治二十二年(1889年)に建てられた。間口約12.5m、奥行約4.5mの細長い建物には、四つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
General Nogi's Residence
and
Stable
Erected in 1902, the Nogi residence was home to General Maresuke Nogi and his wife
until September 13, 1912, when on the day of the Emperor Meiji's funeral, the couple
committed ritual suicide in order to follow their emperor to the grave. Built in the style of the French army buildings that impressed Nogi so much during his student days in Germany. The Nogi residence is noticeably different from many lavish Meiji Period homes built either entirely in Western-style or with Western-style drawing rooms. General Nogi's home is a simple, unadorned structure befitting a soldier. Making use of the slope on which the building stands, part of the wooden house, which covers 168 square meters and is roofed with Japanese tiles, is actually underground. The general's stable, also a single-story structure roofed with Japanese tiles, was
constructed in 1889 before the house itself was built. The stable, 12.5 meters long and 4.5 meters wide, is a narrow building divided into four sections which were used to house the general's horses and to store feed. A sturdy brick structure, the stable bears witness to the great care the general took of his horses.
乃木希典大將は馬をこよなく愛し、旅順陥落後に旅順要塞司令官のステッセリ将軍から贈られて愛馬となった「壽号(すごう=ステッセリから「ス」を採っての命名)」、明治天皇が崩御後の宮中殯宮に参殿し通夜の際に騎乗した副馬の「璞号(あらたまごう)」、明治三十四年に馬匹改良のため高知県に寄贈し高知県生産馬の品質向上に貢献した「轟号」、日高牧場で生まれて明治二十六年に乃木大將が購入し旅順攻略でも前線に帯同した「雷号(いかずちごう)」などが知られています。馬小屋には、「壽號」と「璞號」の表札が残っています。
馬小屋横には馬用の井戸も残されています。
御供待所は、来客の供が待つ建物です。立派な煉瓦造りの馬小屋に対して見窄らしく見えます。室内の奥には乃木の略歴が掲げられ、中央のパネルには18枚の写真が飾られています。
乃木将軍は、言うまでもなく日清・日露の両役に武功輝き、又高風清節コ望高き人格者として一世の崇敬をうけた。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に叙せられ、晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ、専ら華冑子弟の薫育に盡したが、大正元年九月十三日明治天皇御大葬の当日六十四才を一期として殉死し、静子夫人も共に自刃した。将軍の殉死せらるるや、遺言して自邸を東京市に寄附せられた。時の東京市長男爵阪谷芳郎は、中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。将軍は、嘉永二年十一月十一日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ「少年乃木無人所載年譜」、安政五年十一月将軍十才の砌り一家と共に長門国長府に移った。幼名を無人とよび、慶応二年六月十八才の折文蔵と改名した。明治二年十一月二十一才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊し、その後京都市河東練兵場御親兵練武掛を命ぜられ、又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが、明治四年十一月二十三才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。明治八年二十七才の時、熊本鎮台歩兵第十四聯隊長心得となり、同十年には西南の役に従軍、四月二十二日中佐に任ぜられた。将軍の父希次は、同年十月東京に於て病没した。翌年十一年一月二十六日、熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第一聯隊長となり、八月二十七日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが、夫人は時に二十才であった。当時将軍は芝桜川町に住んでいた「山路愛山著乃木将軍」。翌明治十二年八月二十八日長男勝典が生れ、十一月に新坂町五十五番地に初めて邸宅を設けたのである。同十三年四月大佐に進み、翌十四年十二月次男保典が出生した。その後ドイツ留学、日清・日露両役に従軍。英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間那須別邸に自適されたこともあったが本邸は依然として此地に在り、明治十二年以来三十四年間に及んだ。本旧邸は、素朴高潔であった。将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。因みに長男勝典中尉は、明治三十七年南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は同年十一月三十日、二百三高地に於て戦死した。時に長男は二十六才、次男は二十四才であった。大將夫妻及び両息子の墓はともに青山墓地にある。
旧乃木邸には幾つかのモニュメントが置かれています。「乃木大将と辻占売少年像」は、1891年に用務で乃木大将が金沢を訪ねた際、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていた今越清三郎という少年に出会い、この少年に感銘して2円を渡したというエピソードを銅像化し、1968年に乃木大将生誕の地(六本木ヒルズにある毛利庭園)に設置されたものです。しかし、六本木ヒルズ建設の際に旧乃木邸へ移設されました。ちなみに、その少年はその後金箔加工の世界で名を成したという逸話があります。
乃木大将と辻占売少年像
今に伝えられる「乃木大将と辻占売りの少年」の話は、明治二十四年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時八歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。この銅像は、こうした希典の人となりを伝えるものとして、昭和四十三年に旧ニッカ池(六本木六丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることとなり、希典所縁のこの地に移建されました。
邸内の奥にある乃木家祖霊社には、乃木家祖先と日露戦争で戦死した二人の息子の御霊が祀られています。
乃木家祖霊社の手前に石造りの灯籠が対で建っています。
灯籠
石材は門柱として準備されましたが適当でなかったため、そのまま邸内に保存してあったものを死去後親族が灯籠として建てたものです。
乃木大将の歌碑が建っています。
武士は 玉も黄金も なにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ
旧乃木邸には、何本かの由緒ある樹があります。この木は、旅順要塞を攻略した後に乃木希典大將とステッセリ将軍が会見した水師営の庭に植えてあった棗(ナツメ)の木の孫にあたるとのことです。
乃木希典手植えの木もあります。
月桂樹
明治三十五年頃「イタリア」に洋行した山口県の農学博士豊永直利氏より凱旋の際に寄贈されたもので大将御手植えの木です。
マッカーサーが植樹したハナミズキの木もあります。乃木希典は、日露戦争の際に満州で世界各国の観戦武官たちと歓談したり会見したりしていました。アメリカ陸軍の観戦武官だったアーサー・マッカーサー(ダグラス・マッカーサーの父)もその一人でした。アーサーも乃木に感銘し、息子のダグラスの将来の道標として、「武士道の極致である乃木希典のような軍人になれ」と云い続けたといいます。息子のダグラス・マッカーサーはGHQ司令長官として東京に着任した数日後に乃木邸を訪れ、庭にアメリカハナミズキの樹を植え、現在もその木が残っています。
階段を下りたところにある菜園の奥に、乃木大将夫妻が殉死された時に血の付いたものを埋めた碑が建っています。
乃木神社の一の鳥居の前の坂には「乃木坂」という坂名が付いています。乃木坂は長さが約170mほどの坂で、別名を「幽霊坂・行合坂・なだれ坂・膝折坂」といいます。大正元年に乃木大将が死去して乃木神社に祀られた際に、それまで呼ばれていた幽霊坂から乃木坂へと改名されました。鳥居の脇に大きな石碑が置かれていて、坂名の改名について短く述べられています。改名がされていなかったら、乃木坂46は幽霊坂46だったかも。。。
乃木坂
由来 乃木大将の殉死された大正元年九月以来幽霊坂が乃木坂と改名された。
乃木邸から「青山一丁目」に向かいます。外苑東通りが青山一丁目交差点の手前でクランク状に曲がる角に消防のモニュメントが置かれています。
赤坂消防署発祥之地
赤坂消防署は、この地に大正十五年に誕生し、以来昭和三十年までの間地域と一体となって、協力と和のもとに防災の拠点としてその任務を果たした。
- ポイント3 青山一丁目
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青山一丁目駅は、東京地下鉄(東京メトロ)と東京都交通局(都営地下鉄)の駅になっていて、東京メトロの銀座線と半蔵門線、都営地下鉄の大江戸線が乗り入れ、接続駅となっています。開業は昭和十三年(1938年)で、銀座線に引き続いて昭和五十三年(1978年)に半蔵門線の駅が開業しました。平成十六年(2004年)には大江戸線の駅が開業し、現在に至っています。駅名は、地下鉄が走っている青山通りが地下鉄を建設した当時の町名である赤坂区青山南町一丁目(現在の港区南青山一丁目)と青山北町一丁目(現在の港区北青山一丁目)の境界であったことに由来します。青山一丁目交差点を挟んで南側が「南青山一丁目」、北西側が「北青山一丁目」の町域になっています。従って、「青山一丁目」という町名は存在しません。
青山一丁目から「高橋是清公園」に向かいます。
- ポイント4 高橋是清公園
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高橋是清翁記念公園は、青山一丁目駅と赤坂見附駅の中ほどの青山通り沿いに位置し、かつて政財界で活躍した高橋是清の邸宅跡につくられた公園です。高橋是清は、安政元年に幕府絵師川村庄右衛門の子として増上寺中門前で生まれました。仙台藩士高橋是忠の養子となり、11歳の時に横浜ヘボン塾で英語を学び、14歳で米国へ留学しました。宿泊先から奴隷に売られ、苦労の末明治元年に帰国し、官吏や日銀総裁を経て政界へ入り、満州事変以後歴代内閣の蔵相を務めました。卓抜な英語力と苦境に強い精神力を持ち、「ダルマ」の愛称で親しまれましたが、昭和十一年の2.26事件でこの場所にあった邸宅で暗殺されました。池のある日本庭園の趣きをもった公園は、カエデ・モッコク・ウラジロガシなどの広葉樹が四季を彩り、訪れる人を楽しませてくれます。
高橋是清翁記念公園の沿革
この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年〜1936年)の邸宅があったところです。翁は、昭和十一年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和十三年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和十六年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和五十年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母家は故人の眠る多摩霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和三十年(1955年)に再建されました。現在の面積は5、320uで、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。
公園は、手前にすべり台や砂場がある遊具スペース、奥に池や木々が配された庭園スペースとなっています。庭園スペースには、多くの石像や石燈籠が置かれ、和漢折衷の独特な雰囲気があります。緑豊かな庭園スペースに足を踏み入れると、木々のゆれる音や水のせせらぎが聞こえ、都会の喧騒から一歩遠ざかってリラックスした気分になります。
庭園スペース奥の築山には、高橋是清の銅像が建てられています。記念公園が開園した1941年に初代の銅像が建てられましたが戦時中に失われ、現在あるのは1955年に建てられたものです。初代は洋装で現在は和装の姿ですが、どちらも制作者は彫刻家の齋藤素巌です。石碑には、高橋是清の業績と公園設立の経緯について記されています。
高橋是清翁ハ安政元年江戸芝ニ生ル。幼小轗軻不遇(かんかふぐう:ふさわしい地位や境遇に恵まれないさま)。十四歳ニシテ北米ニ渡航。刻苦勉學シ、長シテ轉々窮境ニ在ルモ、氣宇益高邁識見常ニ卓抜。夙ニ特許制度ヲ創設シ、殖産興業國家経済ニ盡瘁シ、或ハ戦時財政ノ確保ニ貢獻スル所多ク、日本銀行總裁・大蔵大臣ヲ歴任シテ、遂ニ首相ノ樞職ニ就き、日夜一死報國ノ純忠ニ終始セラレタリ。昭和十一年二月倏忽(しゅつこつ:たちまち)トシテ此邸ニ薨ス。年八十三。本邸ハ明治三十三年以来翁カ日常起居ノ處ニシテ、之ニ臨メハ洵ニヨク、其ノ高風雅懐ヲ偲フニ足レリ。昭和十三年十月嗣子子爵橋是賢氏ハ故橋是清翁記念事業會卜戮力(りくりょく:互いに心を一つにして協力し合うこと)、邸地二千坪ヲ擧ケテ本市ニ寄附シ永ク翁ヲ追慕スルノ資タラシム。本市ハ其趣旨ヲ承ケ、諸般ノ保存施設ヲ了セリ。茲(ここ)ニ公開ニ當リ由緒ヲ記シ、以テ之ヲ後世ニ傳フ。
公園のトイレの裏に旧赤坂区役所跡の案内板が立っています。
最初の赤坂区役所跡
明治初年の地方制度は、いくたびか改正の繰り返しが続きましたが、明治十一年(1878年)七月二十二日、近代地方自治の歴史上画期的な郡区町村編制法などの公布によって、同年十一月二日、東京は十五区六郡に区画され、区会も設けられました。その時、現在の赤坂・青山の地域が赤坂区として誕生し、最初の赤坂区役所が赤坂表町三−五(現在赤坂七−二[本公園東隣敷地の一画])に置かれ、同年十一月四日に開庁しました。初代区長は翌年一月、島津忠亮が任命されました。赤坂区役所はその後、表町一丁目などに移り、さらに明治二十四年に現在の港区役所赤坂地区総合支所の位置に移りました。なお、芝・麻布・赤坂区は、昭和二十二年三月十五日、統合されて港区となりました。
ゴール地点の赤坂コミュニティぷらざに着きました。赤坂コミュニティぷらざは平成七年(1995年)に竣工し、赤坂地区総合支所や赤坂区民センターなどの施設が入っています。区民センターは、区民の相互交流と自主的活動を促進し、区民福祉の増進を図ることを目的として設立され、定員400名の区民ホールや多目的室などの施設があります。赤坂支所4階の区役所食堂「レストラン ローザ」は、午前11時から夕方まで通し営業をしていて、大きな窓から赤坂御所の緑の木々を眺めながらゆったりとお食事ができます。日替わり定食は二種類あって、サラダと小鉢が付いていますので結構ボリュームがあります。
引き続いて、Bコースを歩きます。
Bコース
スタート地点の東京メトロ・都営地下鉄大江戸線六本木駅から歩き始めます。ミッドタウン・タワー裏手の檜町公園の北東側に緩やかな坂が下っています。
- ポイント1 檜坂
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檜坂は長さが約130mほどの坂で、別名を「清水坂」といいます。坂名は、江戸時代に檜の木が多かったために檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸前の坂であったことに由来しています。
檜坂
ひのきざか 江戸時代には、檜の木が多いため、檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(檜町公園)に添(沿?)う坂であった。
檜坂から「三分坂」に向かいます。赤坂学園(令和五年度に赤坂小学校と赤坂中学校が統合され、小中一貫校となりました)から小路を進んだ先の三分坂下付近に報土寺があります。報土寺は、江戸時代初期の1614年に創建されました。報土寺を開いた永受法師は越前の武将である朝倉義景の末裔で、義景がいつも兜の中に入れていたと伝えられる阿弥陀如来像が報土寺の本尊となっています。当初は現在の赤坂5丁目付近にありましたが、江戸幕府による用地取り上げにより、1780年に現在の地に移転しました。太平洋戦争の空襲で本堂を焼失しましたが、1965年に再建されました。三分坂に沿って建つ築地塀(瓦を積み上げ、塗りかためた塀)はこの地に移転してきた当時のもので、江戸時代の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物として港区の文化財に指定されています。
港区の文化財 報土寺 築地塀(練塀)
報土寺は、慶長十九年(1614年)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより、安永九年(1780年)に三分坂下の現在地に移転してきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」といいます。
報土寺には江戸時代の伝説の力士である雷電為右衛門のお墓があります。
雷電為右衛門の墓
明和四年(1767年)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。天明四年(1784年)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(1790年)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化十一年(1814年)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれてとりこわさせられた。文政八年(1825年)江戸で没した。
雷電為右衛門のお墓は、丸い巨石に戒名を彫った質素な墓石です。
雷電為右衛門は21年間の土俵生活でたった10番しか負けたことがない史上最強の力士です。報土寺に初めての梵鐘を寄進したのが雷電為右衛門でした。ところがその鐘は、力士の姿や土俵をあしらうなど異形であり、「天下無雙」の文字まで刻まれていたため、ただちに寺社奉行に没収となりました。以来、報土寺には鐘がないままの状態でしたが、明治後期の1908年になって、写真家丸木利陽の呼びかけで新たな鐘が寄進されました。この鐘は戦時中に供出されましたが、後年になって別の寺で使われていることが分かり、47年ぶりに報土寺に帰還しました。このとき一番鐘をついたのは、昭和の大横綱の千代の富士でした。数奇な運命をたどった梵鐘は今日も報土寺で深い音色を響かせています。現在の鐘楼は梵鐘の帰還に合わせて平成の初めに再建されましたが、石積みの土台は江戸時代のものです。鐘楼の屋根瓦には、雷電の「雷」の字が彫られていて、雷電が寄進した初代の鐘楼を再現しています。
港区の文化財 報土寺 梵鐘
報土寺の梵鐘は、文化十一年(1814年)三月に雷電為右衛門が寄進したものが有名です。竜頭の部分は雷電と小野川が四つに組んだ姿、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は十六俵の土俵をめぐらすなど極めて異形であったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。現在の鐘は、明治四一年(1908年)に鋳造されたもので、雷電の鐘に刻まれていた銘と同文のものを刻んでいます。
目を凝らしましたが、「天下無雙」の銘は確認できませんでした。
井部香山のお墓もあるそうです。
東京都指定旧跡 井部香山墓
井部香山(1794年〜1853年)は江戸時代後期の儒学者(朱子学)です。名は鳴と言い
ます。越後旭村に井部孝節の第三子として生まれます。香山の号は故郷の妙高山に因んだものです。二十七歳の時に江戸に出て葛西因是に学び養子にもなりますが、その後独立し井部姓にもどります。築地の軽子橋に塾を開き、岸和田藩主岡部氏、飯山藩主本多氏など、香山に学ぶものが多くありました。天保十四年(1843年)には老中水野忠邦に招かれ浜松藩の客儒となり、門人は藩士三千人に及んだといわれます。著書に「大学講義二巻」などがあります。
Historic Places Ibe Kozan Haka(The grave of lbe Kozan)
Ibe Kozan (1794-1853) was a Confucian (neo-Confucianism). He was born as the third son of Ibe Kosetsu in Echigo Asahi Village. His pseudonym, Kozan was named after Myoko Mountain in his home town. When he was 27, he came up to Edo and learned under Kasai Inze and was also adopted, but he became independent and back his name to Ibe. After he opened a private school at Karukobashi of Tsukiji, he was invited as an associate Confucian of Hamamatsu Domain by Mizuno Tadakuni, a chief of staff for shogun in 1843. It is said that there were 3,000 disciples of feudal retainers. He had written books such as "University Lecture volume 2".
- ポイント2 三分坂
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三分坂は長さが約100mほどの急坂で、坂上付近がクランク状に曲がっています。
坂名は江戸時代に急坂だったことで通る車賃を銀三分増しにしたことに由来します。三分坂は「さんぷんざか」と読むんですね。
三分坂
さんぷんざか 急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん、百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。
三分坂から「薬研坂」に向かいます。青山通りに進みますと、中央が鍋底のようになった坂があります。
- ポイント3 薬研坂
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薬研坂は長さが約180mほどの急坂で、坂の中央付近を底にして南から北に向かって右に曲がりながら下り、底の地点から上っています。別名を「何右衛門坂」といいます。坂名は、中央が窪み、両側が高くなっている形が薬研に似ていることに因んでいます。
薬研坂
やげんざか 中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。
ゴール地点の赤坂コミュニティぷらざに着きました。引き続いて、六本木アート・トライアングルコースを歩きます。
六本木アート・トライアングルコース
スタート地点の東京メトロ・都営地下鉄大江戸線六本木駅から東京ミッドタウン内にあるサントリー美術館に向かいます。
- ポイント1 サントリー美術館
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サントリー美術館は、東京ミッドタウンにある日本の古美術が中心の私立美術館で、公益財団法人サントリー芸術財団が運営しています。1961年、サントリーの社長であった佐治敬三が「生活の中の美」を基本テーマとして千代田区丸の内のパレスビル内にサントリー美術館を開館しました。その後、1975年に港区赤坂のサントリービルに移転し、2005年1月にサントリー東京支社がお台場に移転することに合わせて一時的に休館し、2007年3月30日に、東京ミッドタウンに入居して再オープンしました。2019年11月に一時的に休館し、改修工事を施し、2020年7月にリニューアルオープンしました。この改修によって天井の耐震性が強化され、室内照明がLEDに変更され、エントランス・併設のショップとカフェ・スタッフの制服も一新されました。リニューアルのデザイン監修は、美術館が入居する東京ミッドタウンガーデンサイトと美術館の設計を手掛けた隈研吾が行ないました。サントリー美術館と森美術館と国立新美術館と合わせて、3館で「六本木アート・トライアングル」を構成しています。一般的に、主な収蔵品が日本の古美術である美術館は戦前の実業家のコレクションを母体としたものが多いですが、サントリー美術館は収蔵品が戦後から特定のテーマをもって集められた点が特徴的です。江戸切子・薩摩切子・エミール・ガレ等のガラス工芸品(ひとよ茸ランプ等)も代表的なコレクションのひとつです。現在は年間約6回の企画展を開催し、年間約30万人の来場者があります。収蔵品は、絵画・陶磁・漆工・染織などの日本の古美術から東西のガラスまで、国宝1件、重要文化財15件、重要美術品21件を含む約3、000件に及びます。
サントリー美術館から「国立新美術館」に向かいます。
- ポイント2 国立新美術館
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国立新美術館は、日本で5館目の国立美術館として東京大学生産技術研究所の跡地に建設され、平成十九年(2007年)1月に開館しました。地下1階・地上4階・敷地面積30、000平方メートル・延床面積約49、830平方メートルは日本最大の規模で、それまで最大とされていた大塚国際美術館の約1.5倍に及んでいます。独立行政法人国立美術館に所属している中で唯一コレクションを持っていないため、英語名は収蔵品を持つのが通常であるミュージアムではなくアートセンターを用い、館名は「ナショナルアートセンター・トウキョウ」となっています。コンセプトは「森の中の美術館」で、設立目的を展覧会の開催・情報収集およびその公開・教育普及としています。また、館内にはミュージアムショップ・レストラン・カフェなどが併設されています。3階には、ひらまつが展開するフランス料理店「ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ」、2階にはカフェ「サロン・ド・テロンド」、1階には「カフェ コキーユ」、地下1階には「カフェテリア カレ」があります。黒川紀章設計の美術館としては最後の作品になりました。
国立新美術館から「森美術館」に向かいます。
- ポイント3 森美術館
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森美術館は、六本木ヒルズ森タワーの53階部分に位置する森アーツセンターの核となる美術館です。美術館のある地上約230m(53階)は、建物内の展示空間としては日本最高所に位置しています。通常のビルでは、賃料を高く設定できる最上部にはオフィスやレストランを誘致するのが定石ですが、六本木ヒルズでは開発を手掛けた森稔森ビル社長の「六本木を文化都心にしたい。その象徴として、タワー最上部に美術館を据えたい」との理念により、「経済(オフィス)の上に文化(アート)を置く」をコンセプトに開館しました。森美術館の開館以前は、ビルの中に美術館を設ける事例として、国内では出光美術館(東京本館)や百貨店内のミュージアムなどに限られていました。そうした中、森美術館の開館は「ビルの中に美術館」を開設する契機となりました。展示内容は、現代美術を中心に絵画や彫刻、建築、ファッション、そしてインスタレーションなどで構成されています。欧米からアジアやアフリカに至るまで、世界各地で発信されたあらゆる作品が展示の対象となっていて、近年に発表された現在進行中の表現についても積極的に公開を試みています。
ゴール地点の六本木駅に着きました。
ということで、港区で七番目の「F三田から東京ミッドタウン・檜町公園・赤坂コース」を歩き終えました。次は港区で最後の「Gお台場しおかぜコース」を歩きます。
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