- 01.運河と天王洲アイルコース
- コース 踏破記
- 今日は品川区で最初の「01.運河と天王洲アイルコース」を歩きます。天王洲アイルを中心として、高浜運河・天王洲運河・京浜運河・天王洲南運河を巡ります。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年9月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
01.運河と天王洲アイルコース
「01.運河と天王洲アイルコース」の歩行距離は約4.5km(約5,625歩)、歩行時間は約1時間22分、消費カロリーは約371Kcalです。
スタート地点:京浜急行新馬場駅北口
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- ポイント1 聖蹟公園
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東海道品川宿本陣跡にある公園です。公園名は、明治天皇の行在所(外出時の仮御所)となったことに因みます。
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- ポイント2 品川浦
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かっては豊富な水揚げがあり、海苔の主要な産地でもありました。現在ではビル群を背景に、つり船や屋形船が並んでいます。
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- ポイント3 天王洲ふれあい橋
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レトロな雰囲気を醸し出す、天王洲運河に架かる歩道橋です。橋の作りも現在では珍しいピントラス構造です。
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- ポイント4 東品川海上公園
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アイル橋で繋がれた水辺の公園です。北側にはクジラを模した遊具があり、南側は東品川屋上庭園と隣接しています。
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ゴール地点:京浜急行新馬場駅北口
こぼれ話
天王洲の埋立は、黒船来航に端を発する第4台場の築造から始まりました。
スタート地点の京浜急行の新馬場駅北口から歩き始めます。
北馬場参道通りに出て旧東海道まで進みます。「参道」とは、品川神社の参道のことです。
- ポイント1 聖蹟公園
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旧東海道に面して「聖蹟公園」があります。公園の入口の右側の門柱には「品川区立聖蹟公園」、左側の門柱には(松の木でよく見えませんが)「品川宿本陣跡」と書かれています。東海道品川宿の本陣跡は、明治五年に宿駅制度が廃止された後は警視庁品川病院となりましたが、昭和十三年に公園として整備され今に至っています。明治元年(1868年)の明治天皇東幸の際に行在所となったことで、「聖蹟公園」という名称になりました。
品川区指定史跡
東海道品川宿本陣跡
品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、品川三宿の中央に位置していた。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(1872年)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。現在、跡地は公園となり、明治元年(1868年)に明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。
江戸時代、品川宿は日本橋を起点とする東海道最初の宿場町として栄えていました。大名や勅使が休息・宿泊する旅宿は本陣といわれ、江戸前期には北品川宿、南品川宿にそれぞれの本陣がありましたが、中期以降は北品川宿ひとつだけになりました。現在の本陣跡は1771年に定着し、品川三宿のほぼ中央に位置しています。品川宿本陣跡は、「しながわ百景」にも選ばれています。
公園の入口に案内板が立っています。
品川宿本陣跡(聖蹟公園)
江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本・門跡・公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には初め南品川宿と北品川宿に一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札をたて、紋の入った幕をめぐらしました。明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。
要人が利用する本陣の建物は格式を重んじ、表門、玄関、式台(玄関先の板敷きの小間)などを備えていた。一般の旅籠屋が、こうした建築様式を用いることは許されなかった。
品川宿本陣が明治天皇の行在所となったのは計3回。明治元年(1868年)10月12日:第1回東幸の際に宿泊。同年12月8日:京都還幸の際に休息。翌1869年3月27日:第2回東幸の際には宿泊している。
案内板の隣に、土山宿から贈られた街道松があります。
土山宿の街道松
この松は、東海道が取りもつ縁で四十九番目の宿場町、土山宿より寄贈されたものです。土山宿はいち早く、「東海道の歴史性を生かしたまちづくり」を提唱され、東海道五十七次のリーダーとして宿間の交流、ネットワークづくりに多大な貢献をされています。この松は、両宿の友好のシンボルとして三十年、五十年と地域の方々と共に大切に育ててまいります。品川宿にはこの他にも、東海道の宿場町から同様の趣旨で寄贈された街道松が植えられています。
公園内には、当時の東京市長の撰文になる「聖蹟公園由来」の碑・「景仰聖徳」の碑・「御聖蹟」の碑・「石井鐵太郎翁之像」などの記念碑が建っています。石井鐵太郎の提案によって昭和四十二年に建てられた「夜明けの像」という新聞配達の少年の像は、昭和二十四年に建てられた二宮尊徳像に替えて設置したものです。「聖蹟公園の石碑案内」に従って、右側から見ていきます。
- 聖蹟公園由来の碑
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昭和十三年(1938年)聖蹟公園として整備開園するに当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
- 灯籠
- 聖徳の碑(景仰聖徳の碑)
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東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記録した碑。
- 御聖蹟の碑
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明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和十三年(1938年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。
- 旗台
- 石井鐵太郎氏胸像(石井鐵太郎翁之像)
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常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽し、昭和五十年に社会福祉功労を顕彰し名誉区民となった。
- 夜明けの像
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昭和二十四年に二宮尊徳像が建立さ(ら)れたが、昭和四十二年に石井鐵太郎によって、現在の子ども達が親しみやすい像ということで改めて新聞少年の像が贈られた。
聖蹟公園から「品川浦」に向かいます。旧東海道沿いにある生本まぐろが売りの魚屋さん「魚より」の看板の下に、何故か「京浜急行新馬場駅の由来」と題された案内板が掛けられています。
京浜急行新馬場駅の由来
北馬場町(きたぱんばまち)
品川の宿場には、幕府公用の旅行者に対して、一日あたり百匹の馬と百人の人足を提供するように割り当てられていた。この宿役に従事する馬を飼育する馬小屋があったために付けられた地名であるという。南品川宿にも馬場町があるので、北品川宿の馬場町ということで北馬場町という名称になったものと考えられる。北馬場町は、東海道に面する一丁目と二丁目の境から北品川宿の鎮守(現品川神社)へ向かう道を挟んだ一帯に付けられた地名である。京浜急行の北馬場駅があったころの北馬場商店街通りの周辺がかつての北馬場町と呼ばれたところである。
品川宿本陣跡(現在の聖蹟公園)
- 本陣
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街道の宿場に置かれた参勤交代の大名・公家・幕府役人・高僧など、主に貴人の宿泊施設である。
- 脇本陣
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本陣の予備として建てられた宿泊施設で、本陣が満室の場合に利用された。
文化元年(1804年)の品川宿には、本陣一ヵ所・脇本陣が二ヵ所置かれていた。
旧東海道から横丁が延びています。
虚空蔵横町
東海道北品川本宿から西方の養願寺(正安元年【1299年】の開創)への横町を通称「虚空蔵横町」という。かつては阿弥陀如来が寺の本尊であったが、境内の虚空蔵堂が「品川の虚空蔵さま」として親しまれた。現在は虚空蔵菩薩が本尊。江戸時代、子どもが13歳になった時に虚空蔵参りをすると福・徳・知恵を授かるとされ、毎月13日にお参りをした。現在は4月と11月の大祭に開帳されている。
旧東海道に面して、東海七福神の延命・長寿と福徳をもたらす神である寿老人をお祀りする一心寺があります。一心寺は、安政二年(1855年)の創建で、ご本尊は成田山の分身である不動明王です。古くから延命と商売繁盛の寺として信仰を集めています。
旧東海道から左手の路地に入りますと、路地の奥に法禅寺というお寺があります。治承三年(1179年)に浄土宗の開祖である法然が東北地方で布教活動している金光坊に自分の肖像を送ろうとしたところ、この地で法然像が動かなくなってしまいました。そのため法然像を草庵に安置したのが法禅寺の起源とされています。その後、械蓮社言誉定実によって寺院化され、「法禅寺」として開山されました。
法禅寺の門の脇に石碑が建っています。品川小学校は品川区内で創立した最も古い小学校です。明治六年(1873年)に、都築幾三郎という人がこの法禅寺のすぐ北にある善福寺を借りて算術中心の寺子屋を始めました。まもなく法禅寺に移りますが、地元の戸長がこれに目をつけて、明治七年(1874年)に公立学校にすることを申請して認められました。当初の名前は第一大学区第二中学区第六番公立小学校品川学校でした。その後、義務教育化や周辺の人口増加と共に学校の規模も大きくなり、大正十三年(1924年)に京浜急行線を挟んで西側の現在の品川学園の敷地に移転しました。
境内に入った左手に、寺院には珍しい煉瓦造りの建物があります。
建物の中には、板碑や塔が並んでいます。
品川区指定有形文化財
法禅寺板碑・宝篋印塔・五輪塔
附 遺墳碑・萬霊塔・枯骨之墳
板碑は、鎌倉時代から戦国時代にかけて作られた石造の供養塔で、この板碑の石材は多くの関東の板碑同様、秩父産の緑泥片岩が使われています。宝篋印塔・五輪塔とも、中世を代表する供養塔・墓塔です。板碑は総数116点で、最古の銘は徳治三年(1308年)です。宝篋印塔は52点、五輪塔は104点の部材を数え、最古の銘は、宝篋印塔が応永十六年(1409年)、五輪塔が応永十三年(1406年)となっています。これほど大量の板碑などが一カ所から出土し保管されている例は珍しく、大変貴重なものです。萬霊塔と枯骨之墳は同時に出土した人骨を弔うために建立されたもので、遺墳碑はその経緯を記し明治二年(1869年)に建てられました。板碑のうち、宝徳四年(1452年)銘の阿弥陀三尊種子を刻んだものは、品川区立品川歴史館に常設展示されています。
建物の右隣には、天保の大飢饉で亡くなった人々の供養塔があります。
品川区指定史跡
流民叢塚碑
この碑は、天保の大飢饉でなくなった人たちを祀る供養塔である。天保四年(1833年)に始まった天候不順は、その後数年におよび、多数の餓死者を出した。品川宿には、農村などから流浪してくる者が多く、この付近で病や飢餓でたおれる人が八百九十一人を数えるに至った。これらの死者は、法禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が埋葬されたという。初めは円墳状の塚で、この塚の上に、明治四年(1871年)に造立の流民叢塚碑が立てられていた。昭和九年(1934年)に境内が整備された折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの碑が置かれた。碑の正面には、当時の惨状が刻まれており、天保の飢饉の悲惨さを伝えるとともに、名もない庶民の存在を伝えている。
品海公園(ひんかいこうえん)は、旧東海道沿いに整備された敷地が細長い公園です。お散歩をしながらこの公園を利用するにはちょうどいい広さです。敷地は細長くなっていますが、遊具は色々と揃っていて、小学生に上がる前の子供なら十分満足できます。桜の木も植えられていて、春には満開の桜を見に多くの人が訪れる公園です。さくら祭りも開かれます。
品川宿の案内板が立っています。
「東海道品川宿」
「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。旅人は、品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は1600軒、人口7000人規模で賑わっていた。今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かっての宿場町として、活気が息づいている。
公園の入口に街道松が植えられています。
品川宿の街道松
この松は、品海公園の改修工事竣工を記念し品川宿で五本目の「街道松」として品川宿の方々から寄付していただいたものです。
花壇の石垣に使用されている石は房州石だそうです。
東海道品川宿の石垣石
この花壇に使用されている石材は、品海公園北隣の民家の基礎として使われていたものです。かつて東海道品川宿の街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれていました。石材は千葉鋸山産の凝灰岩(房州石)であり、幕末から明治時代の加工と考えられます。品川宿の護岸は、もともと伊豆半島産の安山岩(伊豆石)で構築されていましたが、江戸時代後期に房州石が加わるようになります。房州石は産地も近く、柔らかく切り出しやすい石質のため、次第に伊豆石に取って代わっていきました。海に接していた品川宿の歴史を伝える貴重な文化財です。
品海公園の角で右折した左手に「北品川ゆうゆうプラザ」があります。北品川ゆうゆうプラザは、高齢者を始め、子育て世代や障害者など幅広い世代の区民の交流の場として地域に開かれた区内で5番目の施設です。老朽化のために2022年6月に閉館した「北品川シルバーセンター」跡を改築し、3階建で面積は約190坪あります。壁の一部には、多摩産の杉と区と連携協定を結んでいる高知県産の杉や土佐しっくいが使われています。
北品川ゆうゆうプラザから道なりに進んで八ツ山通りに出ます。通りに沿って細長い公園があります。
品川浦 公園の由来
東海道五十三駅の、親宿としての品川宿は、1635年に本陣の指定を受けたが、この本陣に接して流れていた旧目黒川はその後、漁業の基地としても発達し、繁栄したところである。1968年3月、当区の旧目黒川埋立事業が竣工して、旧目黒川の漁猟の永い歴史が閉じられるにあたって、埋立地内に区民のための、憩いの公園を設け、これを永く記念したい。
品川浦公園には、隣接する利田(かがた)神社に伝わる「鯨塚」に由来するクジラのモニュメントがあります。
「しながわ百景」にも選ばれています。
- ポイント2 品川浦
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かって、品川浦は「御菜肴八ヶ浦」という獲れた魚を江戸城に納める漁村のひとつに決められていました。豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でしたが、東京港建設のため昭和三十七年(1962年)に漁場権利を東京都に譲り渡し、翌年品川周辺の海苔養殖は幕を閉じました。現在では、つり船や屋形船が舳先を並べています。早朝や夕暮れ時は独特の風情があり、撮影や写生、吟行にもお勧めです。水辺と背景の品川の古い家並み、その向こうの品川駅周辺の再開発のビル群との対比は東京を象徴する風景です。「品川浦と船だまり」として、「しながわ百景」にも選ばれています。
水路にかかる石造りの北品川橋は、大正十四年に架けられました。
品川浦から旧海岸通りに出ます。天王洲橋を渡った先で運河沿いの遊歩道に入ります。
運河が交差する地点に奇妙な形をした橋が見えます。橋の南詰には、お洒落なレストランとして知られ、倉庫をリニューアルして醸造所を併設したブルワリーレストラン「T.Y.HABOR」が隣接し、運河に面したテラス席では食事を楽しむことが出来ます。この辺りは綺麗な夜景スポットととしても有名で、天王洲ふれあい橋はドラマ撮影でも人気で、多くのドラマ作品にロケ地として登場しています。
高浜運河を楽水橋で渡ります。楽水橋は昭和四十四年3月に架け替えられ、長さ76.6m・幅4.5m(車道4.0m)で、隣に昭和五十二年10月に竣工した幅2.3mの歩道橋を併設しています。橋名は、東京水産大学同窓会名楽水会に由来したといわれていて、平成十六年に東京水産大学から港区に移管されました。
楽水橋を渡った先に東京海洋大学の裏門があります。東京海洋大学は、明治八年(1875年)に、大久保利通が岩崎弥太郎に命じて設立させた三菱商船学校が起源となっています。海洋研究において国内最高峰の研究機関で、特に海洋資源分野・船舶分野においては世界的に高い研究成果を誇っています。少数精鋭の学生に対して船舶実習を行うなど、実践的な習得を重視した大学でもあります。東京海洋大学は、共に120年以上の歴史を持つ名門の東京商船大学と東京水産大学が平成十五年(2003年)10月に統合して開学しました。両校とも、日本の明治の発展を支えた超名門学校でした。
- ポイント3 天王洲ふれあい橋
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天王洲ふれあい橋は、天王洲運河の上に架けられた歩行者専用の人道橋で、品川区の天王洲アイルと港区の港南公園を結び、レトロなピントラス構造が特徴です。長さ69.3m・幅4mで、1996年10月に完成しました。
天王洲ふれあい橋から「東品川海上公園」に向かいます。天王洲運河には、京浜運河との間に天王洲水門があります。水門の左手の東京海洋大学構内には、雲鷹丸が展示されています。雲鷹丸は、漁業練習船および漁業調査船として使用された3本マストの帆船です。明治四十二年(1909年)5月から昭和四年(1929年)8月まで20年間にわたり36回の航海を行うと共に、捕鯨実習を始め、漁業調査・学生実習・漁撈技術・漁具開発などに貢献し、漁獲物処理では船上でのカニ缶詰製造に成功し、後の大型蟹工船の先駆けとなりました。昭和三十七年(1962年)に東京海洋大学品川キャンパスに移設され、平成十年(1998年)12月11日に国の登録有形文化財として登録されました。
天王洲運河沿いに設置された遊歩道(ボードウォーク)は、春には梅や菜の花が咲く憩いのスポットです。所々に椅子が用意され、人通りも少ないので、運河を眺めながら休息することができます。
アイルの散歩みち利用者のみなさんへ
このアイルの散歩みちは、みんなが水辺に親しめる場所です。大切に使って、いつまでも美しく、快適な所にしましょう。
天王洲アイル駅の出入口近くに天王洲公園があります。
公園の多目的広場には、人口芝が敷き詰められていて、本格的にサッカーや野球を楽しむことができます。運河沿いに位置し、高層ビル群が近いため、夜景がきれいな公園としても知られています。
- ポイント4 東品川海上公園
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東品川海上公園は、目黒川が天王洲南運河に注ぎ込む河川部に位置し、アイル橋を挟んで北側と南側に分かれています。北側は天王洲公園に隣接し、鯨をイメージした大きな滑り台が設置された芝生広場があります。滑り台は、種類や長さの違うものが5本もあります。約200年前にこの地域に鯨が漂着し、日本人が初めて捕鯨した場所だという言い伝えから、鯨の滑り台ができたのだそうです。
寛政の鯨
今から約200年前、寛政十年(1798年)5月1日、この天王洲に1頭の鯨がまぎれ込みました。当時漁師町だった品川の漁師達は、初めて見る鯨に驚きながらも勇敢に鯨をつかまえました。9間(16メートル)もある鯨が品川にあがったという話しはまたたくまに江戸じゅうに広がり将軍も見に来るほどの大騒ぎだったそうです。その後骨は、利田神社に埋められ「鯨塚」として現在も残っています。この史実に基づき、ここに鯨の遊具を設置しています。
現在の鯨の滑り台は二代目で、初代が設置後20年以上経ち、老朽化していたためにリニューアルされました。二代目の製作に際しては、人気のあった川の方へと向かってダイナミックに降りるすべり台を継承したデザインとし、ロングスライダー・幅広滑り台・螺旋滑り台など5種類の滑り台と、沢山のクライムや回廊など多機能に富んでいて、大勢の子供達がそれぞれの能力に応じ て一緒に遊ぶことができます。
滑り台の先にある目黒川水門にも鯨の絵が描かれています。
アイル橋は目黒川河口付近の天王洲公園と東品川海上公園をつなぐアーチの美しい歩行者専用の橋です。
アイル橋を渡った右手の運河沿いにミッフィー花壇があります。「ミッフィー」は、オランダの絵本作家ディック・ブルーナが描いた絵本の主人公の兎の女の子のキャラクターで、日本では「うさこちゃん」の名前でも知られています。ちなみに、「ミッフィー」は英語での呼称で、元々のオランダ語では小兎を意味する「ナインチェ・プラウス」というキャクター名です。
花壇には、花に埋もれたミッフィーちゃんが顔を出しています。耳がなかったら、キティちゃんに似ていますね。
花壇から階段を上がったところにはミッフィー広場があり、滑り台やシーソー、それにミッフィーが描かれた汽車の遊具があります。
5月には水が流れている浅めのじゃぶじゃぶ川や噴水広場もあります。毎年3月末から4月第1週に「しながわ運河まつり」が盛大に開催され、近隣から多数の花見客が訪れます。
東品川海上公園からゴール地点の新馬場駅に戻ります。
旧東海道が目黒川を渡るところに品川橋が架かっています。この辺りは、江戸時代には年貢米を積み出す河岸でした。
南品川宿河岸
目黒川の流れが大きく左折(北流)する箇所の右岸にあった河岸(河川の岸で舟から荷物などのあげおろしをするところ)、旅籠屋・百足屋に隣接していたので俗に「百足河岸」と呼ばれた。品川宿周辺の村々から運んでこられた年貢米は、この河岸から浅草御蔵前にあった幕府米蔵に積み出されていた。
橋の歩道の中央部がちょっとした広場になっていて、休息所も設けられています。
品川橋の今昔
この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。[品川橋]は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には[境橋]と呼ばれていました。また別に[行合橋]・[中の橋]とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。[品川橋]がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。
品川橋のすぐ上流に、欄干が朱色に塗られた橋が架かっています。橋の名前は鎮守橋で、北詰は荏原神社に繋がっています。いわば、参道橋です。
荏原神社の境内には、鎮守橋のかっての親柱が保存されています。
荏原神社は、和銅二年(709年)9月9日に大和国丹生川上神社より高(おかみの)神(水神)の勧請を受けて南品川に創建されました。以降、源氏・上杉氏・徳川氏など多くの武家の信仰を受け、南品川の鎮守として崇敬されました。元々は「品川貴船社」という名称でしたが、明治八年(1875年)に名を改め、荏原郡の名に因んで「荏原神社」に改称しました。
東海七福神の中の一社として、恵比須神を祀っています。
6月初旬には天王祭が開催され、神輿の動作指示は「品川拍子」で行われます。
品川区指定無形民俗文化財
品川拍子
品川拍子は祭礼時に神輿が巡行する際の囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる締め太鼓と、俗称トンビといわれる篠笛によって演奏される。その由来は定かではないが、荏原神社では昔から鳳輦(現在は御羽車)に神面と大拍子を付け「天下泰平・五穀豊穣」と叩きながら氏子地域を回ったのが始まりといわれ、品川宿で成立し、当宿とその周辺地域にのみ伝承されている。現在伝えられている品川拍子は、明治初年に嶋田長太郎が集大成したものとされ、初代家元と考えられている。宝暦元年(1751年)に始まる神輿の海中渡御で有名な「荏原神社天王祭」は、六月七日に近い日曜日を中心に行われるが、このとき神輿の上げ下ろしや、揉んだり差したり納めたりの動作を品川拍子で指示するなど、他に類例を見ない特色をもっている。
荏原神社は幾度か明治天皇の奉安所になりました。
明治天皇と荏原神社
内侍所御奉安所史跡
明治元年七月二十七日明治天皇江戸を東京と改め帝都を東京に移すと詔す。この年九月二十日天皇内侍所(今日の宮中賢所)を相具し奉りて京都御発輩諸官三千三百人を従えて陸路東海道を東京へ向われた。下って十月十二日朝神奈川駅御発輦川崎梅屋敷にて御小憩の後午後三時頃当荏原神社に御着輦本社弊殿に内侍所を拝殿に御羽車を御奉安遊ばされた。翌明治二年三月二十七日明治天皇御再幸の節も内侍所を当社に御奉安せらる。この両度の内侍所御奉安所に使用せられた建札はじめ菊花御紋章の高張提灯その他調度品を当社に御下賜せられ今日に至るまで用いられている次第である。明治五年京都に在せし英照皇太后東京へ行啓の除明治天皇は御出迎えのため御通輩の途次当社をもって御休殿に充てられし事は重なる光栄とするところである。
本殿の柱に由緒書きが掲示されています。
郷社荏原神社は、元明天皇御代和銅二年九月九日の創立にして、明治元年十月十二日明治天皇御遷都の際、畏くも内侍所(今の賢所)御鎮座あらせられし?なり。例祭は毎年六月六日より九日迄、小祭は毎月九日。
ゴール地点の新馬場駅に戻ってきました。
ということで、品川区で最初の「01.運河と天王洲アイルコース」を歩き終えました。次は品川区で二番目の「02.桜の御殿山コース」を歩きます。
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