02.桜の御殿山コース  

コース 踏破記  

今日は品川区の「02.桜の御殿山コース」を歩きます。城南五山のひとつ、御殿山を一周します。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年9月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

02.桜の御殿山コース

「02.桜の御殿山コース」の歩行距離は約2.3km(約2,875歩)、歩行時間は約48分、消費カロリーは約217Kcalです。

スタート地点:京浜急行新馬場駅北口
ポイント1 品川神社
東京十社のひとつで、源頼朝が文治三年(1187年)に創建しました。北品川宿の鎮守で、参道階段の左手には富士塚があります。
ポイント2 御殿山
桜の名所「御殿山」の名は、徳川将軍家の別邸や太田道灌の館があったことから名づけられた、といわれています。
ポイント3 御殿山の坂
御殿山と大崎方面を繋ぐ坂道。かってはもっと急な坂でしたが、幾度かの改修により現在の姿になりました。
ポイント4 沢庵和尚の墓
但馬国出石の生まれで京都大徳寺などの住職を歴任した沢庵和尚の墓は、沢庵和尚が開山した東海寺の大山墓地にあります。
*参拝は囲いの外からお願いします。

ゴール地点:京浜急行新馬場駅北口

こぼれ話
板垣退助の墓所は、品川神社の社殿の右手から回り込んだ突き当たり(神社の境外)にあります。


スタート地点の京浜急行の新馬場駅北口から歩き始めます。第一京浜(国道15号線)を挟んだ反対側の台地の上に品川神社があります。



ポイント1 品川神社

品川神社は、文治三年(1187年)に源頼朝が安房国の洲崎神社から海上交通安全と祈願成就の守護神として天比理乃当スを勧請して祀り、品川大明神と称したのに始まります。鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に、北条高時の臣二階堂道蘊が「宇賀之売命(稲荷神)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478年)に太田道灌が「素戔嗚尊(天王神)」をそれぞれ祀りました。天正十九年(1591年)には徳川家康から5石の社領の朱印を受け、徳川家の尊崇する特別な神社として社紋も徳川家の家紋の「丸に三つ葉葵」と定め、「御修復所(神社の建物の再建・修復などは全て江戸幕府が賄う)」として徳川家の厚い庇護を受けました。慶長五年(1600年)、徳川家康が関ヶ原の戦いへ出陣の祭に品川神社を参拝して戦勝祈願し、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納し、寛永十四年(1637年)に三代将軍徳川家光が東海寺を建立した際には、境内の一部がその敷地となったために代替地を賜わり、神社の位置が東海寺の鬼門に当たることから、東海寺の鎮守としました。

品川神社御由緒

御祭神
天比理乃当ス
天太玉命(天岩戸の神話に登場する神様)の后神。
祈願成就・航海安全の神。源頼朝公御勧請。
宇賀之売命
お稲荷様。農業・商業・産業繁栄の神。二階堂道蘊公御勧請。
素戔嗚尊
天王様。風水害除け・疫病(病気)除けの神。太田道灌公御勧請。

■御由緒
今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(1187年)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃当スを当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478年)に、太田道灌公が「素戔嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。慶長五年(1600年)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。また、寛永十四年(1637年)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄七年(1694年)・嘉永三年(1850年)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。時代は明治に移り、同元年(1868年)十一月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964年)氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。




明治元年(1868年)11月8日、明治天皇が品川神社を准勅祭社と定め、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社のひとつとしました。明治五年(1872年)に郷社に列し、昭和五十年(1975年)に東京十社に列しています。東京十社は、元准勅祭社12社の内から、昭和五十年(1975年)に定められた東京近郊の10の神社のことです。明治維新が成立した後、東京に奠都した明治天皇は、明治元年(1868年)10月17日に氷川神社の例大祭を新たに勅祭に定めました。それに続いて11月8日に、それまでの畿内二十二社などの勅祭社に併せて東京近郊の主だった神社を准勅祭社と定めて東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としました。当初は12社(日枝神社・根津神社・芝神明宮・神田神社・白山神社・亀戸神社・品川神社・富岡八幡神社・王子神社・赤坂氷川神社・六所神社・鷲宮神社)でしたが、2年後の明治三年(1870年)9月1日には廃止され、准勅祭社の制度は一時的なもので終わってしまいました。その結果、12の神社は府社あるいは郷社となりました。昭和五十年(1975年)、昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行い、准勅祭社から遠隔の府中町六所宮と埼玉県久喜市の鷲宮神社を外し、23区内の10社を巡る「東京十社巡り」が成立しました。



境内に上がる参道石段下に、門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」があります。左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻され、双龍鳥居は杉並区の宿鳳山高円寺と馬橋稲荷神社にもあり、品川神社と合わせて「東京三鳥居」ともいわれています。参拝すれば運気上昇間違いなしです。



品川神社は、東海七福神の一社として、大黒天を祀っています。



参道石段を上がって拝殿に進みます。6月の例大祭では、この急な石段を神輿が上り下りし、祭りのなかでも一番の見所となっています。拝殿には、海上交通安全と祈願成就の守護神である天比理乃当ス・宇賀之売命・素盞嗚尊、それに東海七福神の大黒天が祀られています。拝殿は、戦災は免れたものの、老朽化によって昭和三十九年に再建されました。

御由緒

平安時代末期の文治三年(1187年)に源頼朝公が安房国の洲崎明神(千葉県館山市洲崎神社)の天比理乃当スを当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に二階堂道蘊公が「宇賀之売命」を、室町時代中期の文明十年(1478年)に太田道灌公が「素戔嗚尊」をそれぞれお祀りしました。慶長五年(1600年)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に戦勝を祈願し、後に祈願成就の御礼として仮面・神輿などを奉納され、これ以降、歴代の徳川将軍家の厚い庇護を受けました。明治元年(1868年)、明治天皇様が国家の繁栄を御祈願されるため「准勅祭神社」と定められました。大東亜戦争の折は戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964年)現在の社殿が再建されました。




拝殿の右隣には、朱色の鳥居が立ち並ぶ阿那稲荷神社があります。



その右手にも鳥居が連なっていて、坂を下りた奥には金運や商売運のご利益があるとされる阿那稲荷社があります。鳥居の奥に社殿があり、神額には「一粒萬倍」の文字が書き添えられています。



社内には「一粒萬倍の御神水」があり、備え付けのザルにお金を入れて御神水で洗うと何倍にも増えるという御利益が得られます。私は眺めただけでしたので、財布のお金は増えるどころか減る一方です。

一粒萬倍の御神水

万物は「天・地・水」の恵みを受けて生成化育し、米は一粒の種より萬倍の稲穂となる。当稲荷社は「上社」が「天の恵みの霊」を「下社」が「地の恵みの霊」と「御神水」をお祀りする。家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの水をそそぐが吉。また、持ち帰りて家・店の入口・四隅にそそぎ、清く明るき心を持って暮らし・商売するが吉。そそぎし銭の一部は門前・北品川の商家にて使用するが吉。




拝殿の左隣に寶物殿があります。庫には宝物や神輿が納められています。今は改修工事のために見ることはできません。額には、神輿の渡御風景が描かれています。「天下一嘗の面」は、慶長五年(1600年)に徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣の際に戦勝を祈願し、合戦の後で勝利の御礼としてこの面を奉納しました。もとは舞楽の演目の「二の舞」に用いられる面で、室町時代中期に作られたと考えられています。江戸時代の中頃の疫病が流行したある年のこと、「この面を神輿に付け町々を廻れば苦しみから救うぞ」との神様のお告げがあり、以来、6月の例大祭ではこの面をお神輿につけて渡御し、無病息災・幸福招来を祈願するようになりました。「品川拍子」は、神輿が渡御するときの囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる桶胴の締め太鼓を竹で作った撥でたたき、俗称トンビと呼ばれる篠笛によって演奏されます。

天下一嘗
  神面つけて
品川拍子で
  担がれる
氏子の弥栄
  祈願して
渡らせ給ふ
  大神輿




神楽殿では、品川神社の例大祭で神楽が奉納されます。また、年に4回拝殿で奉納される太太神楽は東京都の無形民俗文化財に指定されています。太太神楽は、品川神社の宮司家に相伝として受け継がれてきたもので、大正初年までは神職によって奉納されていました。現在では氏子有志によって継承されている古い形態を残す見応えある神楽として有名です。



拝殿右手から建物の裏に回り、通路を辿っていくと、自由民権運動の主導者として知られた板垣退助の墓所があります。境内の端のひっそりとした場所ですが、歴史的人物の墓所とあって多くの歴史ファンが訪れています。

品川区指定史跡
板垣退助墓

板垣退助は、天保八年(1837年)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、討幕運動や戊辰戦争(1868年)に参加して功績をあげた。明治七年(1874年)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(1881年)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧かせた。明治二十九年(1896年)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(1900年)に政界を引退した。大正八年(1919年)に亡くなり、この地に葬られた。




墓石の横には石碑が据えられ、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が記されています。揮毫したのは、自由民主党総裁で第六十三代内閣総理大臣だった佐藤榮作です。板垣退助らが結成した日本最初の近代政党である自由党は、現在の自由民主党の源流とされています。



境内には、「品川ネギとカブ」の案内板があります。あちこちの神社には、JA東京が制作した地元に古来から伝わる江戸・東京野菜の歴史を解説した案内板が立っていますね。

江戸・東京の農業 品川ネギとカブ

品川は江戸湾に面し、中世以来の港町、宿場町として栄え、町をささえる漁業や農業も盛んでした。とくに、農業は、目黒川、立会川流域の低湿田地帯と荏原台地に広がった畑地で、年貢のための稲作を中心に麦や雑穀を作る粗放的農業が行われていましたが、野菜は荏原郡の中でも最も早く産地として発展しました。江戸にネギが入ったのは天正年間(1573年〜1592年)に大阪方面からの入植者によって、砂村(現在の江東区)で栽培されたのが始まりですが、品川も同じで、入植者が持ち込んだネギの栽培は品川宿の周辺から広がり「品川ネギ」として産地化しました。また、文化元年(1804年)に著された「成形図説」には越冬用漬物として栽培された長カブ「品川カブ」が記され、天保十四年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、品川ネギ、大井ニンジン、戸越のタケノコが名産として記されています。その後、江戸市中へ出荷する野菜の生産地は江戸市街地の発展により、大井、大崎地区を中心に移っていきました。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Shinagawa Negi and Kabu

Facing to Edo Bay, the people here in Shinagawa lived on fishing and farming. Negi (welsh onion) was introduced to Edo during 1573-1592 by the settlers from Osaka districts. Its culture started in and around Shinagawa post town and won the brand name 'Shinagawa Negi'. The record around 1804 describes of the Shinagawa Kabu (turnip) which was grown for preserved food in winter. The center of vegetable production gradually moved to Oi and Osaki areas.




境内には幾つかの石碑が建っています。的矢の絵が描かれた記念碑の碑文にある「新東京八名勝」とは、1932年に報知新聞社が東京市拡張(近隣の5郡【荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡】82町村の各全域を編入して新たに20区を置き東京35区となり、1936年には北多摩郡砧村・千歳村を世田谷区に編入して現在の東京都区部の範囲が確定)と報知新聞社の新聞発行二万号の記念を兼ねて選定されたものです。選定は投票で行われ、投票総数は実に850万以上でした。そして、第一位は池上本門寺、第二位は西新井大師と続き、第三位に品川神社が選ばれたのです。



この石碑はそれを記念して建てられたとのことです(正確には、中央の心棒は選定当時に建てられ、その六十周年を記念して常夜灯と記念碑が建立されたようです)。消防団との関わり合いは分かりませんでした。

記念碑 建立の趣旨

此の碑は中央に位置する心棒を昭和七年に当品川神社が東京八名勝の第三位に入選した記念に吾々の先人が時の協賛者と共に建立したもので、丁度六十周年の節目を期に常夜灯と記念碑を建立し品川神社の敬神の昂揚と境内の景観に粋を添え先人の鎮魂の意も含め更に社会に役立つ心の地形をなし人の和を基本としながら江戸町火消の永い歴史によって培われた伝統文化の灯を消す事なく之を後世に伝承せんとするものである。




包丁塚も建っています。

包丁塚の由来

抑(そもそも)もここ品川の地は、往昔より江戸出入の要宿にして、近代となりてその地域広大となるも、まことに殷賑をきわめ、ゆえに調理をなりはいとする店多く、またこれらに使用されし包丁数知れぬなり。このたび品川区鮨商組合連合会発足二十五周年を記念し、ここ縁の地品川神社の神域に包丁塚を建立、調理に役し、使い古されし数多包丁を納め、とわにその労を謝すると共に、同じくそれら包丁により調理されし鳥獣魚介の類、はた又蔬菜(そさい)等を慰霊し、併せて業界の発展を期し、とこしえに連合会の隆昌を願うものなり。




「東海七福神めぐり発祥の碑」もあります。東海七福神は、昭和七年(1932年)に品川をはじめとする周辺町村を編入した大東京市の成立を記念し、品川の繁栄を願って発足し、品川宿から鈴ヶ森に至る旧東海道沿いの7つの寺社を巡る七福神霊場です。



境内の東端に浅間神社があります。浅間神社は、富士信仰の神社です。



浅間神社の東隣には、崖を利用した都内最大の冨士塚が造られています。富士塚とは、富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚をいいます。江戸時代には一般的に「お富士さん」などと呼ばれ、現在では「ミニチュア富士(ミニ富士)」などとも呼ばれています。富士塚を登ることで富士山を登ったのと同じご利益が得られるといわれていて、都内には数多くの富士塚が存在します。品川神社の富士塚「品川富士」は比高約15mで、江戸七富士と呼ばれる七つの富士塚の中でも最大といわれています。毎年7月1日に近い日曜日には「山開き」の神事も行われていますが、品川冨士は一年中登ることができます。

品川区指定有形民俗文化財
品川神社富士塚

富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山ができない講員のために造った築山である。品川神社の富士塚は、明治二年(1869年)、北品川宿の丸嘉講社の講中三百人によって造られた。神仏分離政策で一時破壊されたが、明治五年に再築し、大正十一年(1922年)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。江戸後期に盛んだった民間信仰を知る上で、たいせつな文化財である。

品川区指定無形民俗文化財
品川神社富士塚山開き

毎年七月一日に近い日曜日に、講員一同が白装束で浅間神社神前で「拝み」を行う。その後、はだしで富士塚に登り、山頂の遥拝所や小御嶽の祠でも「拝み」をして下山し、社殿にもどってから平服に着替える。かつては盛んだった行事であるが、現在も行っている富士講はたいへん少ない。




富士塚山麓の窪みに、蛙の石像が鎮座しています。これは「富士」と「かえる」をかけて「無事、帰る」、つまり安全守護の石像として作られたものだそうです。旅行の前などに参拝すると無事に帰宅できますね。



そこに山があるからには登らざるを得ませんね。これまで都内の富士塚には数多く登ってきましたが、今回はその中の最大の富士塚なのでテンションが上がります。参道石段の中ほどに富士塚の登山道の入口があります。登山道の入口脇には、足の神様とされる「猿田彦神社」があり、旅の安全を祈願できます。



二合目の標識の横に、役行者の石仏があります。役行者は、伊豆大島に流されたとき夜な夜な富士まで飛び修業していたとのいい伝えがあります。脇侍は、前鬼と後鬼です。



五合目までは比較的楽に登れますが、六合目からは本格的な富士登山を感じさせるような急勾配となります。足場が岩でゴツゴツしているので、鎖を掴んで登らないと危いです。



やっとこさ頂上に着きました。登頂成功です。頂上は広場になっていて、国旗掲揚台以外は何もありません。浅間神社のミニ祠があるのが普通なんですが。



山頂からの眺めは、東側は京急の高架が眼下に眺められて見晴らしがいいのですが、西側は木々に邪魔されて富士山を拝むことができません。富士塚を造るときは、頂上から富士山が見えるように山頂を設計すると聞いたのですが、今まで一度も富士山は見えなかったですね。



品川神社から「御殿山」に向かいます。品川神社の北側に沿って細い路地が延びています。

緒明横町

この横丁の奥(権現山公園下)に、明治時代の実業家の緒明菊三郎邸があったことが名称の由来である。緒明は伊豆下田出身で、明治十六年(1883年)に、品川沖の御台場(第四砲台)跡を利用して西洋式造船所を設け、盛況を極めた。邸宅の望楼から緒明造船所をみることができた。




権現山公園は、桜の名所でもある御殿山の並びに作られた公園です。園内は、林のエリアと遊具があるエリアに分かれています。林のエリアには桜が沢山植えられていて、春にはお花見を楽しむことができます。



遊具のエリアには、鉄棒・砂場・飛行機のジャングルジムや二股の滑り台、コーヒーカップ型の回転する乗り物など、ちょっとユニークなものがあります。飛行機のジャングルジムはちゃんと操縦席のスペースもあり、子供達は操縦している気分で遊べます。



権現山はかって桜の名所でした。

権現山の桜

この地は御殿山からの地続きの高台で、江戸時代には東海寺の境内であった。維新後、官有地となり軍艦に飲料水を供給するための海軍省用地となる。明治初年の鉄道敷設工事によって花見の名勝「御殿山」は切崩されたが、この地は大正七年(1918年)、桜の名所を保存するために品川町に払い下げられ、権現山公園として整備された。

ここ権現山から北の御殿山、さらに高輪台へと連なる小高い丘陵地帯は、関東台地が東の海へと突き出した最先端に位置し、大変に眺めがよく、特に御殿山は江戸時代から「海が見える桜の名所」として人気のスポットであった。現在も桜の季節には、江戸の昔を忍ばせる風景が広がっており、人々が憩い交流するのに格好の公園となっている。




公園の崖下にはJRの線路が何本も走っていて、ブランコに乗りながら東海道新幹線や山手線、時間帯が合えば成田エクスプレスが走っている光景を見ることができます。間近で見る電車はなかなか迫力があります。



権現山公園からJRの線路伝いに進んで、品川女子学園の手前から跨線橋を渡ります。その先は御殿山通りに繋がっています。品川女子学園は大正十四年(1925年)に私立荏原女学校として開校し、何回かの変更を経て、平成三年(1991年)に現在の校名になりました。平成十六年(2004年)からは完全女子中高一貫校となりました。学業優先を条件として芸能活動を許可しているという特色があります。このため、在学期間は限られますが、桜田淳子・島倉千代子・広末涼子・山口百恵などの芸能人が一時在籍しています。



跨線橋からJRの線路を眺めますと、山手線・京浜東北線・東海道線、それに新幹線の電車が走っている様子が見て取れます。鉄道マニアなら一日中眺めていても飽きませんね。



ポイント2 御殿山

御殿山は高輪台地の最南端に位置し、島津山・池田山・花房山・八ツ山と共に、城南五山のひとつとして知られています。御殿山の名称は、徳川将軍家が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があったことに因んでいます。御殿山は、昔は品川湊を見下ろすことができた海沿いの高台で、桜の名所としても有名でした。桜の木は、寛文年間(1661年〜1673年)から移植され、御殿山は600本にも及ぶ桜の名所として整備されました。明治時代には富裕層の屋敷が多くあり、戦後はソニーがこの地区に移転し、ソニー創業の地として知られています。ソニーが2007年に港区へ移転した後、本社跡地は売却され、商業施設のガーデンシティ品川御殿山や高級マンションのプライムメゾン御殿山になりました。

ソメイヨシノ

<染井吉野> 江戸彼岸と大島桜の雑種。明治初年に東京の染井(現在の駒込)から広まったサクラの代表種です。(バラ科)




御殿山地区にはミャンマー大使館があります。大国の大使館みたいに随分と立派な建物ですね。



大使館のはす向かいには翡翠原石館があります。翡翠は古代から世界中で崇められてきたパワーストーンで、深緑の半透明な鉱物です。東洋や中南米では古くから宝石のひとつとして珍重され、古代には玉(ぎょく)と呼ばていました。日本では新潟県糸魚川市地域が産地として知られています。翡翠原石館は2002年に開館した個人所有の展示館です。館長が約30年かけて世界中から収集したさまざまな色・形の翡翠を展示しています。入館すると先ず目に飛び込んでくるのは、10万個の石を使い6年の歳月をかけて制作された巨大なモザイク画で、古事記に登場する「奴奈川姫」と「カワセミ」が描かれています。また、糸魚川産の翡翠を数十トン刳り抜いた総翡翠造りのお風呂や、巨大な翡翠原石と植物のコントラストが美しい中庭も必見です。原石ギャラリーでは展示だけでなく販売も行っています。



御殿山から目黒川に向かって下っている大崎ビジネスガーデンには、神戸製鋼グループが入居するONビルと大崎MTビルがあり、周囲は公開緑地になっています。



植え込みの中に立っている案内板に、御殿山の解説が記されています。

地元(北品川)の歴史

◆北品川
「北品川」の地名は古く、戦国時代に小田原北条氏から北品川村宛の印判状が出された記録があり、室町時代にはこの地名で呼ばれていたようです。江戸時代から明治前期にかけて東海道沿いの目黒川以北を北品川宿と呼んでおり、本陣1軒、旅籠(はたご)屋2軒がありました。また、細川家・久留島家などの大名下屋敷や東海寺・品川神社などの寺社が多く、早くから開けていました。東海寺少林院は江戸文人のサロンの場として、多くの学者・文人を集めたといわれています。代表的国学者賀茂真淵の墓のある大山墓地には、江戸の著名な学者、文化人の墓が多く残されています。明治六年には現在の三共製薬敷地に官営品川硝子製作所(愛知県明治村に移築)が創設され、日本ガラス工業発祥の地となっています。

◆御殿山
御殿山は、長禄年間に太田道灌の館があったと伝えられています。また、江戸初期に将軍の狩猟の休憩所や諸大名の参勤送迎のために御殿が建てられたところからこの名が付けられたと言われています。また、将軍家光・小堀遠州・沢庵和尚が茶の湯に興じた風雅の地でもあり、寛文期頃から吉野桜が植えられ、江戸百景の一つに数えられるほどの花見の名所となり、享保六年には狼藉を禁ずる制札が立てられるほど花見客で賑わったそうですが、嘉永六年の品川砲台(台場)構築と明治期の東海道本線敷設により一部が掘崩され昔の面影は失われました。江戸末期には英国公使館が建てられ、文久二年、高杉晋作らの長州藩士攘夷派による焼討ち事件の舞台ともなりました。明治期には西郷従道、その後戦前までは益田孝らの政財界人の邸宅もありました。また、縄文時代前期の貝塚として知られる「御殿山貝塚」では、最近の調査で御殿山台地緑辺より弥生時代後期と古墳時代前期の住居跡が発掘されています。

◆居木橋(いるきばし)
現在の環状6号線は、室町時代以前のころから品川から多摩方面に抜ける主要な街道であったそうです。品川宿から丁度1kmのこのあたりで目黒川を渡りますが、この川辺に風が吹くとゆらゆらと揺れる一本の松の木があったそうです。多摩方面から来た旅人はこの松の木が見えるともう品川宿も近いと思ったことでしょう。そしていつしかこの松の木を人々は「ゆるぎの松」と呼んだそうです。この 「ゆるぎの松」 が時の流れとともに変化し、しだいに「いるぎ(居木)の松」と呼ばれ、ここにかかる居木橋の名前の由来となったと言われています。当時の旅人に親しまれた「居木の松」も安政年間に暴風雨で倒失したとのことで、場所は定かではありませんが現在の森永橋の付近にあったと伝えられています。




御殿山から「御殿山の坂」を下りて山手通りに向かいます。

ポイント3 御殿山の坂

御殿山の坂は、長さが約150mほどの狭く急な坂です。江戸時代にこの辺りは徳川将軍の御料地であり、御殿山と呼ばれていたことに因んで坂名が付きました。

御殿山の坂

このあたりは、江戸時代に将軍が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があった場所で、御殿山と呼ばれている。坂の名称もそこからつけられたものである。もとは急な坂であったが、何回かの修理でゆるやかになった。

Gotenyama-no Slope

This area is called "Goten-yama" (Palace mountain). There was once the Shinagawa Palace where the shogun (the General) took a rest on the time of the falconry the Edo Period.




御殿山の坂は、御殿山の高台から途中で大きく”く”の字に曲がって、目黒川に架かる居木橋付近に出て山手通りに合流します。



山手通りと目黒川が交差する地点に居木橋が架かっています。山手通りは、室町時代以前の頃から品川から多摩方面に抜ける主要な街道でした。この辺りは品川宿から丁度1kmのところで、かって目黒川の川辺に風が吹くとゆらゆらと揺れる一本の松の木があったそうです。多摩方面から来た旅人は、この松の木が見えるともう品川宿も近いと感じたことでしょう。そしていつしかこの松の木を人々は「ゆるぎの松」と呼ぶようになりました。この「ゆるぎの松」が時の流れとともに転訛し、次第に「いるぎ(居木)の松」と呼ばれ、居木橋の橋名の由来となったといわれています。当時の旅人に親しまれた「居木の松」ですが、安政年間に暴風雨で倒失してしまいました。



御殿山の坂から「沢庵和尚の墓」に向かいます。東海道線・京浜東北線と山手線・東海道新幹線が分岐する地点の山手通りに面して、リニア中央新幹線の北品川工区の工事現場があります。



ゲートの入口からはよく見えませんが、巨大な縦坑が掘られ、シールドマシンが大深度トンネルを掘削しているのだそうです。工事はかなり難航しているとのことです。



東海道線・京浜東北線の高架の手前の路地の入口角に、日本で最初の西洋式硝子工場跡の記念碑が建っています。この場所には、明治六年(1873年)に日本最初のガラス工場である「興業社」が創設されました。その後官営の「品川硝子製造所」となりましたが、紆余曲折を経た後の明治二十五年(1892年)に解散となりました。敷地の多くと設備は製薬会社の「三共」に引き継がれ、また技術者などは「品川白煉瓦」・「日本光学(ニコン)」・「東京電気(東芝)」などに引き継がれました。品川硝子製造所の煉瓦造りの工場建屋の一部は、現在愛知県の明治村に移築され保存されています。

品川区指定史跡
官営品川硝子製造所跡

日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(1873年)に東海寺境内に創設された興業社である。興業社は、明治九年(1876年)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(1885年)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(1892年)に解散した。昭和三十六年(1961年)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。




石碑の隣には、ガラスの原料となる珪石が置かれています。

近代硝子工業發祥之地

此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル。同社ハ明治六年時ノ太政大臣三條實美ノ家令丹羽正庸等ノ發起ニヨリ我國ニ始メテ英國ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ、外人指導ノ下ニ廣大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル。然ルニ最初ハ技術至難ノタメ經営困難ニ陥リ、同九年政府ノ買上ゲル所トナリ、官營ノ品川硝子製作(造)所トシテ事業ヲ再開シタ。同十七年ニハ再ビ民營ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ、同廿一年品川硝子會社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ、収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ己ムナキニ至ツタ。其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ、斯業ノ開發ニ貢獻シ本邦硝子工業今日ノ基礎原動力トナリ、我國産業ノ興隆ニ寄與スル所顧ル大ナルモノガアッタ。吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ圖ッタガ、會々此ノ擧ニ賛シタ。三共株式會社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ。斯クテ有志ノ協賛ト相俟ツテ今茲ニ由緒アル發祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ傅フルヲ得タノデアル。




路地の入口角には「東海寺大山墓地」の案内板が立っています。



ポイント4 沢庵和尚の墓

路地の先の小高い場所に墓地が広がっています。墓地の入口の階段下には、沢庵和尚墓の石碑が建っています。



沢庵和尚の墓地はかなり広く、入口には立派な門があり、周囲は竹垣に囲まれています。沢庵和尚は遺言として、「葬儀はするな、死骸は山に埋め参ってはならない、墓を作ってはならない、位牌も作ってはならない、法事はしてはいけない、朝廷が名誉な位を授けようとしても受けてはならない」と残しました。そのためか、墓石は大きな石だけで、何も書かれてはいません。沢庵漬けの石にしては大きすぎますね。



門の横に案内板が立っています。

国指定史跡
沢庵墓

沢庵(1573年〜1645年)は、江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭、沢庵は道号。但馬国出石(現、兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して信望を集め、慶長十四年(1609年)大徳寺の百五十三世住持となった。寛永六年(1629年)紫衣事件で流罪となり、出羽国上山(現、山形県上山市)藩主土岐頼行に御預けとなる。三年後許され、その後は三代将軍徳川家光に重用される。寛永十六年(1639年)家光によって創建された品川・東海寺の開山に迎えられ、晩年を送った。正保二年(1645年)十二月没、七十三歳。沢庵は禅僧として大成しただけでなく、兵法、儒学に通じ、書画、詩歌にもすぐれ、茶道に造詣が深かった。




門の手前には、宝暦三年(1753年)年銘の亀趺(きふ:亀の形に刻んだ碑の台石)碑があります。亀趺碑の四面には、びっしりと銘序として澤庵和尚の行実が刻されています。



沢庵和尚の墓地の前には、天明三年(1783年)銘の千利休の追悼碑があります。



澤庵和尚の墓地の裏手に、沢庵和尚の遺偈(ゆいげ)となった夢の一文字刻んだ「夢塔」が建っています。平成五年(1993年)に合葬墓として建立されました。夢塔の脇にある「夢塔之記」には、遺偈が刻まれています。

夢塔之記

茲は東海寺開山澤庵和尚墳墓の地なり。正保年間より幾ゝ度の変遷をへて今日に至る。澤庵和尚死に臨んで遺偈を残す。


  百年三萬六千日  ひゃくねんさんまんろくせんにち
  弥勒観音幾是非  みろくかんのんぜひをみる
  是亦夢非亦夢   ぜもまたゆめひもまたゆめ
  弥勒夢観音亦夢  みろくもゆめかんのんもまたゆめ
  佛云應作如是観矣 ほとけいわくまさにかくのごときかんをなすべし
  澤庵埜老卒援筆  たくわんやろうついにふでをひく

開山和尚去って既に三百五十年。此の度墓域整備にあたって廣く壇信徒以外の方々にも納骨ができる様夢塔を建立す。




「夢塔」の手前には、「服部南郭」のお墓があります。服部南郭は江戸時代中期の日本の儒者・漢詩人・画家で、荻生徂徠の高弟として知られます。



東海寺大山墓地の入口から左手の石段ではなく、線路に沿った坂道を進むと、左手に国指定史跡「賀茂真淵墓」があります。賀茂真淵は江戸時代の国学者で歌人です。石塀に囲まれた広い墓域の入口には、寺であるにもかかわらず鳥居があります。墓石には賀茂真淵の「方円論」が反映されていて、半円形の自然石となっています。



墓地の中には、昭和三年に東京府が建てた標柱があります。



石鳥居をくぐってすぐ右手には、明治二十一年(1888年)銘の「賀茂翁墳墓改修碑」があります。



鳥居の先の左手に、賀茂真淵の門人である加藤千蔭による享和元年(1801年)銘の「真淵碑」があります。



賀茂真淵墓地の先に、日本製靴株式会社(現在のリーガルコーポレーション)を創立した「西村勝三之墓」があります。石燈籠が全て倒壊したままで、寂しい印象を受けます。



更に墓地の奥に進みますと、東海道新幹線・山手線と東海道本線・京浜東北線に挟まれた場所に井上勝のお墓があります。死後も鉄道を見守っていたいという意向から、生前にこの地を選んで墓地としたそうです。



井上勝は明治時代の鉄道官僚で、日本の鉄道発展に寄与し、「日本の鉄道の父」と呼ばれています。

初代鉄道頭 井上勝 天保十四年(1843年)〜明治四十三年(1910年)

“鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生まれた。15才から長崎、江戸で学び、文久三年(1863年)井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、明治四年(1871年)には初代鉄道頭となり、明治五年(1872年)、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓所として東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。




井上勝のお墓の向かいに、歌手の島倉千代子のお墓があります。島倉千代子は、演歌・歌謡曲の歌手で、「お千代さん」という愛称で人気を博しました。島倉家は、越前一乗谷城主朝倉義景の末裔といわれています。



東海道新幹線・山手線のフェンス際に、渋川春海のお墓があります。一列に並んだ一族の墓の左端にある「大虚院透雲紹徹居士」と刻まれた墓石が「渋川春海墓」です。



左隣りの墓石は、明治四十年(1907年)に改暦の功績によって従四位が贈位された際に建立されたもので、正面に「大虚院透雲紹徹居士」と刻まれ、左側面には「贈従四位 渋川助左衛門源春海」と記されています。

品川区指定史跡
渋川春海墓

渋川春海は、寛永十六年(1639年)に京都で生れ、十四歳で父の跡をついで幕府の碁所となり安井算哲(二代)と称した。囲碁の研鑽の一方で天文・数学・暦学を学び暦学者となった。その頃、日本では中国の宣明暦を使っていたが、二日の誤差があったので、春海はみずから計算して新しい暦を作った。これが貞享元年(1684年)に官暦となり翌年から用いられ、貞享暦として後の太陰暦の基本となったのである。貞享暦は日本人の手で作られた初めての和暦であり、春海はこの功によって、幕府最初の天文方に任ぜられ、本所(墨田区)に、宅地を拝領した。春海は、屋敷内に司天台(天文台)を設けて天体観測にあたった。これが江戸で最初の天文台である。春海は正徳五年(1715年)十月六日に七十七歳で亡くなり、この地に葬られた。




同じく東海道新幹線・山手線のフェンス際に墓石が一列に並んでいます。旧肥後熊本藩細川家家臣とその一族の墳墓地です。

この墓所は、旧肥後熊本藩細川家家臣及びその一族の墳墓地で、第十八代細川家当主細川護熙殿より平成二十三年五月宗教法人東海寺へご寄附して頂いたものです。



ゴール地点の新馬場駅に戻ってきました。



ということで、品川区で二番目の「02.桜の御殿山コース」を歩き終えました。次は品川区で三番目の「03.相生坂と八ツ山橋コース」を歩きます。




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