- 03.相生坂と八ツ山橋コース
- コース 踏破記
- 今日は品川区の「03.相生坂と八ツ山橋コース」を歩きます。桜田通りの相生坂とかってソニーが君臨した八ツ山坂を巡ります。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年9月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
03.相生坂と八ツ山橋コース
「03.相生坂と八ツ山橋コース」の歩行距離は約3.1km(約3,875歩)、歩行時間は約58分、消費カロリーは約263Kcalです。
スタート地点:JR五反田駅東口
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- ポイント1 雉子神社
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ビルの1階に社殿があります。3代将軍・徳川家光が鷹狩の際、神社で白雉を見かけて「雉子宮と称すべし」と命じました。
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- ポイント2 八ツ山の坂
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八ツ山の由来には、8つの岬があった、8つの大名屋敷があった、谷山が「八ツ山」に転化した、など諸説あります。
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- ポイント3 八ツ山橋
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新橋〜横浜間の鉄道開業時に誕生した日本初の跨線橋です。ここから南が東海道・品川宿になります。
こぼれ話:
八ツ山橋は、映画「ゴジラ(1954年版)」で、ゴジラが本土に初上陸した場所になり橋も壊されました。
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ゴール地点:京浜急行北品川駅
スタート地点のJR五反田駅東口から歩き始めます。「五反田」の地名は、江戸時代に目黒川の谷がほぼ東西に流れ、その谷周辺の水田が一区画5反あったために「五たんだ」と呼ばれていたことに由来するといわれています。
桜田通り(国道1号線)は、有楽街入口付近から高輪台交差点の手前まで、北東に向かって長い上り坂になっています。有楽街は、五反田駅の東側一帯に広がる東西約200mほどの商店街で、全体的に飲食店や風俗店やラブホテルが多く、山手線沿線有数の歓楽街として知られています。
相生坂は長さが約500mほどの緩やかな坂で、別名を「雉子の宮坂」といいます。坂名は、桜田通り(旧中原街道・鎌倉街道)と御殿山方面から来る道(現在は桜田通りの下で立体交差しています)とがY字型に合流していたことに因んでいます。
相生坂
相生坂の名称は、古く江戸時代から呼ばれていた。その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田一丁目)前を通る道と、この坂のある中原街道が、雉子神社(東五反田一丁目)の手前で合流していたことにもとづくとされる。昔は急坂で険しいものであったが、だんだんと道路整備がされて現在のようになった。別名を雉子ノ宮坂ともいう。
Aioi-Slope
This slope has been known as "Aioi-Zaka" from the Edo Period. It was once a steep slope, but today it is a gentle slope after gradual re-constructions.
有楽街と桜田通りに挟まれた三角形の狭い敷地に東京オイスターバー五反田本店のお店があります。
店主がヨーロッパ旅行をした際に、路地裏の露店で出会った生の剥きたての牡蠣の美味しさに感動して、「日本だけでなく、海外の牡蠣も味わえる」ことをコンセプトとして、1999年に五反田に「東京オイスターバー」をオープンさせました。
2022年1月に訪れた際には東京オイスターバーのお洒落な外観の建物があったのですが、2024年9月に再訪した時にはお店は跡形もなく無くなっていました。HPには、建替えのために2年間休業するとの告知があります。元のお洒落な外観の建物の復活を期待したいですね。
- ポイント1 雉子神社
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相生坂の坂名の別称の由来となった雉子神社は坂上近くの東側に鎮座しています。雉子神社は「雉子ノ宮」の名で親しまれている古い神社(文明年間【1469年〜1487年】の創建と伝えられています)で、江戸時代までは「大鳥大明神」と呼ばれていました。三代将軍徳川家光が鷹狩りをしていたとき、一羽の白いキジがこの神社に逃げ込んで見えなくなったことから、家光が神社の名を「雉子ノ宮」と呼ぶよう命じたと伝えられています。
雉子神社御由緒
一、御祭神
本社 日本武尊 天手力雄命 大山祗命
末社
三柱神社 大國主命 倉稲魂命 埴山姫命
一、御由緒
当社鎮座の起源は古く、御社号は元荏原宮文明年中には大鳥明神山神社とも称して居りましたが慶長年間に徳川三代将軍家光公が鷹狩の折に一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀な目出度いしるしであるとして雉子宮と名付けられて、江戸の社寺名所にその名を連らね、明治維新に雅子神社と改められて現在に及んでいます。当社は武蔵国荏原群上大崎村、下大崎村、谷山村、永峰町、六軒茶屋町、現在の品川区上大崎東五反田の全域と、両五反田一、二、三丁目一圓の氏神鎮守であります。神域は昔から現在の処で、社前の中原街道(國道一号線)が明治三十八年以来三度横幅改修されて、次第に狭隘(きょうあい: 面積などが狭くゆとりがないこと)となりました。明治以前は自椎山宝塔寺が別当職でありました。明治五年村社と定められ、明治四十三年上大崎村に鎮座の三島神社を合祀して現在に及んでいます。
文藻
大崎村と言う所に行けり、この辺は古時幕府の唐より渡りし雉子を数多放ち給いける由、雉子宮と申して小祠あり。
なくたびに 紅葉散るなり 雉子の宮
文政九年 酒井雅楽頭抱一
ほろほろと なくやきぎすの 宮に来て
天若彦の むかしとはばや
加藤線浪
鳥居の脇に樹齢200年ともいわれるイチョウの大木が聳えています。
品川区指定天然記念物
雉子神社のイチョウ
イチョウはイチョウ科に属する落葉の高木で、高さは三十メートルにもなり、葉は扇形で秋に黄葉する。雌雄(めすとおす)それぞれ別の木となる。本樹は雌樹で、幹の囲りは約四メートル、高さは十八メートルあり、推定の樹齢は百五十年から二百年である。木の勢いも盛んで、樹姿も整っており、本区内のイチョウの中でも代表的な巨木である。本樹は、本社境内の樹木景観の中で中心的な存在となっており、美しい姿を見せている。
社殿はビルの一階の中庭に建っています。というか、敢えてビルの構造をそのようにしたのかもしれません。神様の上に人が座ったり立ったりしてはバチが当たりますからね。雉子神社は昔から現在の地にありましたが、社前の中原街道(現在の桜田通り)が明治三十八年以来3回も拡幅改修され、次第に敷地が手狭になったことも影響しているのかもしれません(実際は神社維持の為のようですが)。ビルの隅っこに石碑が建っていて、都市計画に基づく中原街道の改修工事により境内が狭まったと記されています。
ビルの中に神社が移されたことについては、その経緯が次のように記されています。
建築記
雉子神社の氏子地域は、昭和から平成に至る異常景気による再開発の波に?されて、住民の移動が続き、旧来の氏神神社護持に欠かせぬ地縁意識の希薄化を招来した。よって、次代の神社護持に具えて境内に複合ビルを建設した。建物の役割が全うされ神社護持が確立された朝には、神木に囲まれた緑豊かな境内の復元を期している。ビル建設に当たって、氏子並びに崇敬者の皆様から戴いた御理解と御支援に深甚なる謝意をこめて茲に永く誌すものである。
雉子神社が所有する文化財について、案内板が立っています。
品川区指定有形文化財
雉子神社文書
雉子神社文書は、神道裁許状三通、仙台藩伊達家より代参等の書付一巻、合祠以前の三嶋明神絵図一枚、年行事留帳十二冊一括、諸入用等覚書一冊、日待帳面箱一箇を含む八点である。年行事留帳は、元上大崎村山崎家に伝えられていた日待講の会計や諸事を記録したものである。この文書は、江戸時代末期の厳重な共同体規制下にあったと伝えられる村民の、信仰生活を知ることのできる史料として貴重なものであり、他の文書とともに、品川区の歴史を知る上で価値のある史料である。
雉子神社祭礼幟
祭礼幟は、長さ12メートル、幅0.8メートルの木綿布で、中央に大きく社号を、右側に小さく年月を、左側には筆者の署名をそれぞれ黒字で、署名の下には落款を朱印で染めぬいている。下方に氏子三ヶ村の村名を列記し、氏子中と記し、上方に注連を藍・茶など複数の色で描いている。これは、当神社を鎮守とする大崎三ヶ村(上大崎村・下大崎村・谷山村)の氏子が、享和三年(1803年)に寄進したものである。神社の祭礼に祭礼幟を掲げることは、江戸時代から明治時代にかけて盛んに行われた習慣であるが、材料が布であるために、出存は少数で、十九世紀初めのものは稀少である。また、黒以外の色を使用している点も特異である。
境内社の三柱神社は、縁結び・商売繁盛・安産などにご利益があるとのことです。
四方がガラスで囲まれた展示室の中に、2基の大神輿が鎮座しています。
西五反田一二三町会の神輿は、大正七年に当時の大崎町大字上大崎の町会有志や若衆の力によって建造され、永年維持管理を保ちながら愛好されてきました。その雄壮な姿は当時の耳目を一堂に集めたものといわれています。しかし、途中戦争などのために破損して放置されていましたが、町会員の賛同を得て修復されました。
此の神輿は大正七年当時大崎町大字上大崎の若者中の熱意と町内有志の浄財により建造され、永年雉子神社の例大祭に舁(かつ)き上げられて来ましたが、時移って西五反田一二三町会が維持して来ました。この度町会役員有志相計り浄財を集め、目黒住中村正治に依頼して素木造りを漆塗りとし錺金具を補い荘厳に修復したものであります。
かって巡行に用いられていた「鳳輦」の解説と写真もパネルに貼られています。
雉子神社「鳳輦」(ほうれん)
大正四年(西暦1915年)の制作(写真は、大正七年とあります)。大正天皇ご即位を奉祝して制作されたものと思われます。昭和六十年代まで、二年に一度・例大祭に雉子神社の御霊代を乗せて「御羽車」として氏子二十一町会(昭和三十年代は二十三町会)の村々を巡行しました。
鳳輦
屋根の上に金色の鳳凰(ほうおう)の飾りをつけた輿(こし)。晴れの行幸に天皇が乗用。一般に、天皇の乗り物。御羽車。古式の車の一種。特に、賢所(かしこどころ)のお移り・遷宮などに際し、御霊代(みたましろ)を奉安する。
雉子神社から「八ツ山の坂」に向かいます。雉子神社ほどは知られていませんが、同じ列びに袖ヶ崎神社が鎮座しています。袖ヶ崎神社は、東五反田三丁目と四丁目の一部の鎮守社で、元は忍田稲荷大明神と称し、保延元年(1137年)に京都稲荷山から奉斎されました。徳川三代将軍家光を始め、伊達家・細川豊前守など多数の諸侯に崇敬され、古蹟社と称されて寺社奉行直支配でした。明治時代になった際に、地名を冠して袖ヶ崎神社と改称されました。かつての社殿の扉には、伊豆国の名工入江長八によるこて絵「八岐の大蛇退治」が描かれていましたが、昭和二十年(1945年)の空襲で焼失してしまいました。現在の社殿は、昭和四十二年6月に社前の中原街道の拡幅に伴い、境内整備と共に新築されたものです。
袖ヶ崎神社御由緒
当神社は東五反田一・三丁目、仝四丁目の一部の鎮守社で元忍田稲荷大明神(しのだいなり)と称し、保延三丁巳年(1137年)京都稲荷山より奉斎されました。其後康永三年(1344年)越前國丹生郡小川村の鎮守八旛宮の神主山口真奇の次男真正が東國へ下向し、当社の神主となり爾来現在まで二十二代累代宮司として奉仕しております。真正が神主となった時、神明宮を柱の南の方へお祀りして当所の地名を以て袖ヶ崎神明宮と奉称、又八旛宮を祀り其後元禄年中に天満宮を、正徳年中に塩竃(槌)大神をお祀しました。又厳島大神(弁天様)は東都歳事記に言う御府内弁財天百社番外の四番でありました。明治維新の際袖ヶ崎神社と改称されました。当社は徳川三代将軍家光公を初(始?)め伊達家細川豊前守等多数諸侯の崇敬あり、古蹟社と称されて寺社奉行直支配でありました。御社殿は江戸時代以来大東亜戦争罹災まで四度類焼、昭和二十二年氏子諸氏の奉賛により仮社殿が竣工、昭和四十二年六月社前の中原街道の?幅に伴い境内整備と共に社殿其他を新築しました。
末社祖霊社 真正神社 神社祭祀に功のあった山口真正命が祀られて居ります
命日至徳二年(1385年)八月八日より本年は600年になります
(昭和六十年当時)
いはら高輪ビルの入口ドアの横に、黄金(色)の鯱鉾が展示してあります。
鯱鉾は、城の天守や櫓などの屋根に使われる装飾のひとつです。「鯱」は想像上の生き物で、頭は龍または虎ともいわれ、胴体は魚、空に向かってそり返る尾を持っています。「鉾」は、この尾の形が鉾のように上にそそり立っていることから付けられたものです。鯱は建物が火事になると口から水を吐きだして消してくれるという伝説があることから、屋根の上に乗せられ、鬼瓦と同様に守り神として大切にされてきました。この鯱に金色の装飾を施したものは「金鯱」と呼ばれています。鯱鉾を初めて城に取り入れたのは織田信長の安土城といわれています。その後、豊臣秀吉が大阪城の天守に金鯱を飾って権威を示し、これが全国の大名たちに広がっていきました。くい込み継手を中心とした油圧用の高圧継手の専門メーカーであるイハラサイエンス株式会社では、各事業部に鯱が展示されているとのことです。
国宝 彦根城の鯱鉾
文化財保護法による国宝は松本城・大山城・彦根城・姫路城であったが、2015年に松江城が加わってわずか五城しかない。ここに展示された鯱鉾は、名門小林伝統製作所(姫路市)で国宝彦根城向けに新規製作された数体のうちの一体である。鯱鉾は、多くの厄を寄せ付けない魔除けの象徴とも言われる。鯱鉾を支える台座は、式年遷宮(20年毎に建替えられてる伊勢神宮神殿)用に育てられた岐阜県中津川市付知町にまたがる阿寺山地の木曽檜である。当ビル近郊の皆様の健康と安全を願ってここに寄贈する。
National Treasure Hikone-jo Castle's "Shachi-hoko"
The national treasures under the Law for the Protection of Cultural Properties in Japan were Matsumoto-jo Castle, Inuyama-jo Castle, Hikone-jo Castle and Himeji-jo Castle, and Matsue-jo Castle was added in 2015. There are only five castles in Japan.
The "Shachi-hoko" displayed here is one of the newly produced for Hikone-jo Castle, a national treasure, at the prestigious Kobayashi Traditional Kawara Plant (Himeji City). The "Shachi-hoko" is also said to be a symbol of the evil repellent that doesn't attract many evils. The pedestal supporting the "Shachi-hoko" is of Kiso-hinoki cypress from Atera Mountains, in Tsukechi-Cho, Nakatsugawa City, Gifu, which was raised for the Shikinen-Sengu, Regular Shrine Removal (Ise-jingu Shrine rebuilt every 20 years). For many companies in this building by some fate, I will donate it
here in the hope of continuing safety and prosperity.
現在の港区南東部エリアの飲用水として1664年に開通した三田上水は、世田谷区北沢で玉川上水から分水し、世田谷区・渋谷区・目黒区・品川区を経て港区高輪に至り、そこからさらに地下に埋められた木樋で港区芝まで配水されていた全長10kmほどの水路でした。桜田通りが高輪台駅前で北東から北方向に向きを変える交差点の角辺りが地上の用水路から地下の木樋に変る中継点になっていました。
高輪台駅の地上出入口に建つ高層マンションの脇に何やらそれらしき遺構のモニュメントがあります。石の形が水の流れのように見えます。あくまで私の推測ですが、ここが三田用水の中継点だったのかも。
高輪台交差点で右折し、高輪三丁目交差点から二本榎通りを南下します。グランドプリンスホテル新高輪は、1982年に高輪ゴルフセンターの跡地に新高輪プリンスホテルという名称で開業しました。設計は箱根プリンスホテルも手掛けた日本芸術学院会員の村野藤吾が手掛け、村野藤吾の晩年の代表作で傑作のひとつとされています。建物はホテルとして採算が取れなかった場合、賃貸アパートとして使用されることを前提に、2室を1室に容易に改造できるようになっていました。都心のホテルには珍しい客室のバルコニーにはリゾートのやすらぎを感じさせる彫刻が施されています。2007年にグランドプリンスホテル新高輪に改称されました。
大宴会場「飛天」は、約2、000平米の広さがあり、曲線を描いて23mもの高さに吹き抜ける天井には4つのシャンデリアをはじめ、30万枚のアコヤ貝が散りばめられています。オープンして間もなくの1983年4月にはフリオ・イグレシアスのディナーショーが開催されたのをきっかけに、各種のディナーショーのメッカとなりました。「飛天」の命名と書は作家の故井上靖によるもので、「天女が舞うさま」をイメージしています。
プリンスホテルの角を品川駅方向に曲がらず、そのまま真っ直ぐに進みますと、左手に物流博物館があります。物流博物館は、昭和三十三年(1958年)に大手町ビルにあった日本通運株式会社本社内に創設された「通運史料室」 がその基礎となっています。当初は社史に関わりのあるわが国の近世及び近代初期の交通・運輸の概要を展示していましたが、昭和三十七年(1962年)の日通本社の移転に伴って外神田の日通本社ビルに移り、昭和六十二年(1987年)には名称を「物流史料館」に改め、財団法人利用運送振興会に管理運営がゆだねられました。この間、展示内容も中世から現代に至る物流にかかわる歴史上の重要事項へと拡大しました。平成十年(1998年)8月、展示内容の一層の充実を図り、「物流」を社会にアピールすることを目的に「物流博物館」として港区に誕生し、広く公開することとなりました。収蔵資料はその多くが日本通運株式会社の所有する資料で文書史料約6、000点、美術工芸資料約200点、実物資料約1、000点、写真資料約十数万点、映像資料約200点を収蔵しています。
ブルネイ・ダルサラーム国はボルネオ島(カリマンタン島)北部に位置するイスラム教国で、イギリス連邦の加盟国です。石油や天然ガスなどの資源を多く埋蔵していて、日本は長年にわたりブルネイ最大の貿易相手国になっています。現在、ブルネイのLNGの輸出総額の約7割が日本向けであり、ブルネイは日本へのエネルギー資源の安定供給の面からも重要な国となっています。そのブルネイの大使館が八ツ山通りに下る坂上にあります。
ウォーキングマップには載っていますが、ブルネイ大使館のはす向かいにあったソニー歴史資料館は2018年12月に閉館し、跡地には高級老人ホームが建っています。
- ポイント2 八ツ山の坂
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かっては道路沿いにソニーの建物が並んでいた八ツ山通リですが、現在は跡地が再開発されてバブリーな巨大ビルが建っています。ガーデンシティ品川御殿山という施設名で、大企業の本社なども入居しています。
巨大ビルの一階には、ミシュランガイドに毎年掲載されるフレンチの三つ星レストラン「Quintessence」があります。店名はフランス語で「真髄(神髄)」という意味なのだそうです(英語でも同じ綴りです)。お店・料理・サービスの全てにおいて真髄を極めるという意味なのでしょうか?ちなみに、メニューは「おまかせの1コース」のみになっています。一度は行ってみたいけど、一見さんには敷居が高いかな?
八ツ山の坂は長さが約480mほどの緩やかな上り坂です。江戸時代に品川宿の外れの芝高輪との境に位置する丘は「八ツ山」と呼ばれていました。此の地に八つの岬があったので「八ツ山」と名づけたという説、八人の諸侯の屋敷があったので「八ツ山」と名づけたという説、此の地がかつての谷山(やつやま)村の一部だったことから谷山が「八ツ山」に転化したという説などがありますがどれも定説にはなっていません。八ツ山は江戸時代に道路整備や目黒川の洪水復旧、護岸整備のために切り崩され平地となりました。坂の中ほどに品川区が設置した案内板が立っています。
八ツ山の坂
このあたりは、武蔵野台地の突端にあたる丘陵で、湾岸に突き出た洲が八つあったところから八ツ山と呼ばれた。この地にある坂のために、いつしか八ツ山の坂という名がつけられた。この道は、もと三間道路と呼ばれ、道幅は三間(約六メートル)で、あたりには人家も少なく、夜はさびしい通りであったという。
Yatsuyama-Slope
This slope is known as "Yatsuyama-no-Saka". "Yatsuyama" means the eight mountains,
because the slope lies between the hill and eight sandbanks sticking to the ocean.
八ツ山の坂から「八ツ山橋」に向かいます。八ツ山通りが第二京浜(国道15号線)に合流する地点に開東閣があります。周囲は石垣に囲まれ、内部は鬱蒼とした森になっていて、外からは内部が窺い知れません。
開東閣は11、200坪の広大な敷地面積を有し、敷地内にはジョサイア・コンドルの設計で明治四十一年(1908年)に完成した本館が建っています。開東閣はかって三菱財閥を築いた旧岩崎家の高輪別邸でした。現在は三菱グループの迎賓館として使われているそうです。
本館は非公開のため、ネットからの転載です。
- ポイント3 八ツ山橋
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八ツ山橋は、旧東海道とJR東海道線を立体交差させるために、明治五年(1872年)に架けられた橋です。大正二年(1913年)・昭和五年(1930年)・昭和六十年(1985年)に架け替えられ、現在の萌黄色の橋は四代目となります。日本の映画史に残る名作「ゴジラ」で、ゴジラが上陸の第一歩を印したのはこの八ッ山陸橋でした。八ッ山は武蔵台地の突端の丘陵で、地名は海岸に突き出た岬が八つあったことに由来します(諸説あります)。
八ツ山橋の東詰に、かって架けられていた旧橋の親柱が保存されています。歴史が感じられていいですね。
八ツ山橋を斜断するようにして京浜急行の線路が通っています。京浜急行の運行本数は多く、しかもこの地点はカーブしていることで速度を落とす必要があり、八ツ山橋の踏切は開かずの踏切となっています。これを解消するため、現在八ツ山橋上の線路を高架にする工事が行われています。新しい高架橋は合計10本の線路の上を跨ぐ橋になりますので歴史的な大工事になりそうです。
新しい高架橋はネットから転載した合成図です。
八ツ山橋を渡った先に広場があり、品川宿の案内板が立っています。北品川から青物横丁付近までの旧東海道上に置かれたのが品川宿です。線路沿いには、品川宿から始まる東海道五十三次の宿場町名が石柱に記されています。
北品川本通り商店街を通って北品川駅に向かいます。八ツ山通りに向かって坂が下りています。その角に「問答河岸跡」の石碑が建っています。問答河岸は、かつて北品川の海岸にあった波止場の名前です。三代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、沢庵和尚がこの辺りまで出迎えて禅問答をしたという話が「徳川実記」に記載されています。家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたと伝わります。現在の問答河岸の碑は地元有志によって建てられたもので、実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりといわれています。
案内板の文字は消えかけて読み取れませんが、次のように書いてあるそうです。
問答河岸由来記
寛永の昔、徳川三代家光将軍勇壮活達の明君也。宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ。寺域五萬坪寺領五百石。殿閣僧房相連って輪奐美を極む。将軍枉駕年間十数度法を聴き 政治を問う。厚遇思う可し。将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り、目黒河口に繋船して東海寺に詣し、喫茶法話。薄暮に至って江戸城に還らんとす。禅師河畔に立って是れを送る。将軍乗船に臨んで禅師に参問して曰ク、「海近くして如何が是れ東海寺」と。禅師答而曰ク「大軍を指揮して将軍と言が如し」と。将軍一笑、纜を解いて而て還る。時移りて三百年地勢亦変じ河海遠し。然れ共市人傳えて問答河岸と称す。一世の英主、一代の名僧、諧謔談笑の蹟。菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永世芳を傳えんとす。亦可しからすや。
ゴール地点の北品川駅に着きました。
ということで、品川区で三番目の「03.相生坂と八ツ山橋コース」を歩き終えました。次は品川区で四番目の「04.東海道品川宿コース」を歩きます。
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