04.東海道品川宿コース  

コース 踏破記  

今日は品川区の「04.東海道品川宿コース」を歩きます。旧東海道品川宿のお寺と神社を中心に、旧跡を巡ります。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年9月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

04.東海道品川宿コース

「04.東海道品川宿コース」の歩行距離は約3.0km(約3,750歩)、歩行時間は約58分、消費カロリーは約263Kcalです。

スタート地点:京浜東北線大井町駅東口
ポイント1 大井町駅線路沿い
線路沿いの細道には桜が植えられており、春には桜と菜の花、電車のコラボレーションが楽しめます。
ポイント2 品川寺
創建は大同年間(806年〜810年)とされ、弘法大師空海が開創した品川最古の寺院です。大梵鐘は「洋行帰りの鐘」と呼ばれています。
ポイント3 荏原神社
和銅二年(709年)、奈良の丹生川上神社より高龍神を勧請して創建され、現在の社殿は弘化元年(1844年)に建てられました。
ポイント4 稼穡稲荷
このあたりはかって薩摩藩島津家の抱屋敷でした。神木のイチョウは樹齢500年〜600年とされ、品川区の指定文化財です。

ゴール地点:京浜急行新馬場駅北口

こぼれ話
高村智恵子記念詩碑には、夫・光太郎が智恵子の最後を描いた「レモン哀歌」が刻まれています。


スタート地点の京浜東北線大井町駅東口から歩き始めます。



大井町といえば、センベロの聖地ですね。中でも大井町駅東口から直ぐのところにある東小路はディープな飲み屋街として知られています。そのルーツは闇市だといわれていて、昭和の路地裏の雰囲気がそのまま残されています。ゲートをくぐると、人とすれ違うのがやっとの狭い路地裏に味のある昔ながらの小料理屋や洋食店、ラーメン店に加え、最近ではおしゃれなバルやレストランも人気です。新旧入り混じる魅力が楽しめます。私も晩杯屋に何度通ったことか。



ポイント1 大井町駅線路沿い

大井町駅東口に隣接する「東京総合車両センター」は、車両メンテナンスを行う工場としてのほか、山手線車両の終電後の留置場所としてもその役割を持っています。その敷地面積は223、475uもあり、これは品川区の約1/100の面積に相当します。センター内は車両工場部分(西エリア)と車両基地部分(東エリア)に分かれていて、車両工場部分では、E231系やE233系といった新系列車両のメンテナンス業務を行っています。一方で車両基地部分には、山手線の車両(E235系)が所属しており、終電後の収容や日夜定期検査業務を行っています。車両基地の東端に京浜東北線の線路が走っていますが、線路は崖下にあるので、線路沿いに歩くと車両基地が一望の下に眺められます。



線路沿いの細い道路は転落防止用のフェンスで線路と仕切られていますが、その隙間に桜の並木が続いています。今は桜の季節ではありませんが、春になると桜のトンネルが出現します。



大井町駅線路沿いから「品川寺」に向かいます。浅間台小学校の角で右折し、住宅街の中を進みます。右手に小さな公園があります。二日市公園は「しながわ百景」にも選ばれていて、四季折々の花々が植えられた花壇が整備されています。遊具は、コンビネーション遊具・ブランコ・すべり台・砂場・健康遊具などが設置され、すべり台は象をモチーフにした幼児向けのものになっています。公園奥にはフェンスで囲まれたスペースもあり、ボールを使った遊びもできます。



二日市公園の裏手に、高村智恵子記念詩碑があります。といっても、そこに辿り着くにはゼームス坂まで出て更に路地に入る必要があります。



路地の左手にマンションが建っています。此の敷地はゼームス坂の坂名の由来となった明治時代の英国人ゼームスが住んでいた邸宅の跡地なのだそうです。

三越 ゼームス坂マンション

ゼームス邸跡地について

此の処は南品川英国人ジョン・M・ジェームス邸跡地である。M・ジェームスは慶應二年(1863年)二十八歳の時に来日した。そして坂本竜馬等とも知り合い後に日本海軍創設に貢献し明治五年海軍省雇入れ以降幾多の変遷を経て住まいの地を此の地に構え隣人に慕われつつ明治四十一年七十歳にて没した。墓は身延山本堂裏山に在り「日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼームス之墓」と刻まれている。その頃のジェームス在りし日を偲ぶ庭の欅も品川区の保存指定樹として樹齢百数十年の姿そのままに苔むす石垣と共に昔の面影を今に止めている。




ゼームス坂マンションの向かいに、民家に挟まれた細い坂が上がっています。坂の途中に「高村智恵子ゆかりの地 文学詩碑」の立て札と共に、夫の高村光太郎が智恵子の最後を描いた「レモン哀歌」が刻まれた石碑が建っています

レモン哀歌 高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯が?りりと噛んだ
トパアズいろの香氣が立つ
その數滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山嶺でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機關はそれなり止まった
寫眞の前に挿した櫻の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう




石碑の足元には詩碑を解説したプレートが置かれています。

この地は、詩人高村光太郎氏の愛妻智恵子氏が、晩年、療養生活を送っていたゼームス坂病院があったところです。また智恵子氏は昭和十三年十月五日、五十三歳のときにこの病院の一室でお亡くなりになりました。品川郷土の会では、この貴重な文化的史跡を永く後世に残すため、詩碑を建立することにし、高村光太郎氏が、智恵子氏との永劫の別れを哀惜して詠まれた、有名な詩「レモン哀歌」を詩碑に刻みました。碑は推定される智恵子氏の背丈にあわせ、文字は高村光太郎氏直筆の原稿をそのまま拡大して刻みました。なお、この詩碑の建立にあたって、快く「レモン哀歌」の使用を承諾していただいた高村規氏、??、土地の使用を承諾していただいたゼームス坂病院跡地所有者、東京マックス株式会社に心より感謝いたします。



第一京浜(国道15号線)に出て、青物横丁交差点で歩道橋を渡ってジュネーヴ平和通リに入ります。通りの入口には青物横丁駅があります。



歩道脇に道路標識とジュネーブ市から贈られたプレートと命名の経緯が書かれた案内板が立っています。ジュネーヴ平和通りは、京浜急行青物横丁駅付近から東方向に続く通りのことで、長さは720メートルほどあリ、青物横丁駅西側の第一京浜から技術専門校交差点付近まで続いています。品川寺の梵鐘を通じて品川区と友好都市提携を結んだスイスのジュネーヴ市から標識が送られ、都道ではあるものの地元からの要望で名付けられたのだそうです。

ジュネーヴ平和通り

この通りは、品川区とジュネーヴ市との友好親善の発展を願い命名されました。フランス語で「平和への道」という意味の「Avenue de la Paix」の標識は品川寺の梵鐘を縁に、品川区との友好都市提携を記念してジュネーヴ市より寄贈されたものです。

Geneva Heiwa St.

This street was given this name to hope for a good friendship between both cities of Shinagawa and Geneva. The sign, "Avenue de la Paix", which means a street for Peace" in French, was presented by the city of Geneva to commemorate an agreement to be a friendship city with Shinagawa City, whose symbol is the big hanging bell of Honsenji Temple.




信号で右折して宿場通り(旧東海道)に入ります。



交差点の先に魚屋さんがあります。今時珍しい丸のままの魚が店先に並んでいます。神奈川産の釣りたての大ぶりな太刀魚もありますね。お刺身にしたら美味しそう。



旬のサンマも山積みです。伊勢エビもアワビもサザエもハマグリも活きています。伊勢エビなんかヒゲがぴくぴく動いていますもん。お魚も貝類もワタ抜き・皮ひき・3枚おろし・殻とりなど調理してもらえるそうです。お散歩の終りなら太刀魚の3枚おろしを頼むんですがね。



ポイント2 品川寺

品川寺(ほんせんじ)は、弘法大師空海が開山し、大同年間(806年〜810年)に創建されたと伝わっています。江戸城を築いた太田道灌により、長禄元年(1457年)に伽藍が建立され、寺号を金華山大円寺と称しました。その後戦乱により荒廃しますが、承応元年(1652年)に弘尊上人によって再興され、現在の寺号の海照山となりました。江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがあり、江戸三十三観音札所の第三十一番でもあります。



山門前左手にある銅造地蔵菩薩坐像は宝永五年(1708年)に造られ、江戸六地蔵の第一番となっています。現存する江戸六地蔵像のうち、唯一頭上に傘を載せていません。

東京都指定有形文化財(彫刻)
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)

江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(1706年)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五躯が残っています。六地蔵のうち、海照山品川寺の地蔵は一番古く、宝永五年(1708年)に造立されたものです。像高は、現存するものの中で一番大きく275cmあり、かつては鍍金が施されていました。江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。

Tangible Cultural Properties (Sculpture)
Dozo Jizo Bosatsu Zazo (Edo Roku Jizo no Hitotsu)

According to a copy of the "printed book of the brief history of the erection of the statues of Edo Six Jizoson," which was dedicated inside the statue, the origin of the Edo Six Jizoson is as follows. Jizo Monk Shogen who resided in Fukagawa, Edo, had been struck by incurable disease. After praying with his parents for cure of the disease to Jizo Bosatsu, Shogen was healed. After the fashion of six Jizo in Kyoto, a petition for the construction of statues of six Jizo was commenced in 1706 to collect public donations. Then a statue of Jizo Bosatsu was erected at each of six locations in Edo. The body and the lotus-shaped pedestal of each statue were incised with the names of solicitors and the year of construction. The statues were cast by Caster Ota Suruganokami Fujiwara Shogi in Kandanabe town. Anti-Buddhist movement at the beginning of the Meiji period destroyed the sixth Jizo Bosatsu at Eidaiji Temple in Fukagawa. Currently there are 5 remaining statues. The statue of jizo at Kaishozan Honsenji Temple is the oldest among the six statues and was erected in 1708. It is the largest among the remaining statues and its height is 275cm. The statue used to be gold-plated. The statue was designated as cultural properties because the statue was rather elaborate for copper statues in the mid-Edo period and there are only a few previous cases as such.




青物横丁駅前にあった道路標識の案内板に、ジュネーヴ市から贈られたプレートが添えられていましたが、それには理由があります。梵鐘には明暦三年(1657年)の銘があり、徳川第四代将軍家綱の寄進とされています。この梵鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)とウィーン万博(1873年)で展示されたと伝わっていますが、その後所在不明となっていました。文部省学芸部長の石丸優三は大正八年(1919年)に梵鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを発見し、石丸から連絡を受けた当時の住職の仲田順海が返還交渉を開始しました。外務大臣の幣原喜重郎他多くの人々の尽力により、ジュネーヴ市議会は梵鐘を日本へ戻すことに同意し、六十余年を経て昭和五年(1930年)に梵鐘は品川寺に返還されました。このことで、梵鐘は「洋行帰りの鐘」と呼ばれています。梵鐘の返還が契機となった交流は戦後も続き、昭和三十九年(1964年)の東京オリンピックには仲田の招待でスイス選手団の歓迎パーティーが催されました。また、平成三年(1991年)5月には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵鐘が贈られ、同年九月には品川区とジュネーヴ市が友好都市となりました。



境内の薬師堂の横に、幹囲5.35メートル・樹高25メートルで樹齢約600年の銀杏の巨木が聳えています。秋には、この大銀杏の木から採れる「厄除開運ぎんなん」が人気となっています。

品川区指定天然記念物
品川寺のイチョウ

本樹は幹周り5.35メートル、樹高25メートル、推定樹齢約六百年という古木であるが、整然とした樹姿を見せ、その樹勢も極めて旺盛であり、幹や大枝からは、多くの乳が垂れている。本区内の数あるイチョウのなかでも、ひときわ目立つ存在であり、かなり離れた地点からも眺めることができ、壮観である。また約六百年という樹齢は、本寺が歴史の古い寺であることを実証するもののひとつである。




古い銀杏の木の表面にはコブのような垂れる枝がでることがあります。日本各地の寺社仏閣ではこのコブを女性の乳房に見立てて「乳垂れイチョウ」・「子授けイチョウ」と呼ばれ、母乳が出にくい女性がお参りに行くことがあるようです。



大銀杏の木の横に「太閤秀吉の枝垂れ桜」があります。「太閤しだれ桜」は、太閤秀吉が自身を支えてくれた人々に感謝の意を表するために催した“醍醐の花見”以来、「利他の心の桜」といわれています。長きに亘り醍醐寺が大切に保全し、寺と共に歴史を紡いできた「利他の心」が込められた桜の木の子孫樹です。「利他の心」とは、自分のことよりも他人の幸福を願い、自分を犠牲にして他人のために尽くすような気持ちで周囲に接する心のありようを言います。



品川寺には、一ヵ所で七福神詣でができる金生(かのう)七福神があります。金生七福神は鐘突き堂の周りを囲むように七福神像が分散して並べてあり、何れも高さ50cmから80cmの石像です。左から、布袋尊・大黒天・恵比寿・寿老人・福禄寿・毘沙門天・弁財天の順になっています。ちなみに、品川寺の東海七福神は毘沙門天で、本堂内に祀られています。



品川寺から「荏原神社」に向かいます。品川寺から直ぐの旧東海道に面した建物の前に「釜屋」跡の記念碑が置かれています。

江戸幕府御用宿 釜屋跡

南品川には旅人が休息をする「建場茶屋」が、数多くありました。江戸に最も近い品川宿は、江戸を立つ旅人達を見送る為の宴会の場であったり、また参勤で江戸に入る大名が、旅装束から江戸屋敷に入る支度を整える場所でもあり、大変賑わいました。中でも品川寺門前の「釜屋」は、海をのぞむ風光明媚な茶屋であり諸大名にも愛され、料理を供するようにもなりました。慶応三年(1867年)には「幕府御用宿」として、多くの幕臣達が東海道を上下する為に利用しております。同年十月二十一日、新選組副長・土方歳三と副長助勤・井上源三郎が、新入隊士や故郷の支援者達、計三十一名で休息した記録が残されております。また、慶応四年正月十二日〜二十三日、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った新選組の「品川屯所」となっておりました。この品川の地で、幕末の風を感じて下されば幸いです。




旧東海道を更に進みますと、左手に長く参道が延びた先に朱色をした山門が建っています。



顕本法華宗・鳳凰山天妙国寺は、弘安八年(1285年)、日蓮大聖人の直弟子である天目上人により創建されました。各時代において地域の有力者に保護され、15世紀半ばには品川湊の豪商だった鈴木道胤親子が17年の歳月をかけて七堂伽藍を建設しました。天正十八年(1590年)には徳川家康が江戸に入る際に宿泊し、翌年10石の寺領を受けました。寺所蔵の「御三代成之覚」には、初代徳川家康が1回・二代徳川秀忠が2回・三代徳川家光が44回と、将軍家が宿泊した記録が残されています。



境内には、明治・大正時代の浪曲師桃中軒雲右衛門(1873年〜1916年)や剣の達人伊藤一刀斎などのお墓があります。桃中軒雲右衛門は、赤穂浪士の事跡「義士銘々伝」を得意とし、浪花節中興の祖とされ、浪曲史上に偉大な足跡を残しました。

品川区指定史跡
桃中軒雲右衛門の墓

桃中軒雲右衛門は、明治、大正時代の浪花節(浪曲)の名手。前幕で覆った立ち机を前にしての口演、陰三味線という型を考案し、琵琶や清元の節調を加味した荘重豪快な節を創始した。また、はじめて台本を作成して内容を高めた。得意の演題は赤穂浪士の事跡「義士銘々伝」でレコードの普及とも相まって絶大な人気を博した。雲右衛門は寄席から劇場へと進出するなど浪曲界の黄金時代を築き、浪花節中興の祖といわれている。浪曲史上に偉大な足跡を残した人物である。雲右衛門は、明治六年(1873年)十月二十五日に生まれ、大正五年(1916年)十一月七日に四十三歳で亡くなり、この地に葬られた。



右側の墓石が桃中軒雲右衛門のお墓です。


天妙国寺の門前に、地元の有力者だった宮川家の旧宅跡の案内板が立っています。

宮川家旧宅跡

南品川妙国寺門前のこの場所に居を構えた宮川家は、江戸時代中頃より玄米を精米して小売する「春米(つきごめ)屋」を営み、江戸城内の米搗(こめつき)も輪番で務めていました。明治に入ってからは店を広げ、薪炭の小売業も始めました。さらに会社経営や投資を通じて、地域資本家としても歩み始め、昭和末年まで精米業を続けていきました。これらの事柄を記録した「宮川家文書」は、火事で古文書がほとんど残っていない品川宿における貴重な史料として、昭和五十六年2月に品川区の有形文化財に指定され、現在は品川歴史館に収蔵されています。宮川家は、城南小学校増築への寄付など社会貢献活動にも力を入れ、幕末に設立した南品川の互助組織から発展し、品川図書館の母体を作り、現在も地域の教育活動を支援してきている一般財団法人六行会とも深く関わっています。




かっての東海道品川宿は、東京湾に面していました。そのため、高潮を防ぐための防波堤が築かれていました。実物は見ませんでしたが、写真のような石垣が東海道に沿って延々と続いていたんですね。石は遠方から運ばれたもので、先人の苦労が偲ばれます。

品川区指定史跡
東海道品川宿石積護岸

本石積護岸は、江戸時代に品川宿をはしる東海道を波濤から護るために構築されたものであり、現存する石積は、地上露出部で全長15.3m、高さ1.7m〜1.9mを測る。十九世紀前半以前に伊豆石で構築され、近代以降も房州石や大谷石を用いて修繕を繰り返しながら使用されてきたものと考えられる。こうした石積護岸は、かつて高輪から大森にかけての東海道海岸線上に存在したが、すでにその多くは開発によって消失しており、江戸時代に構築された石積が地上に露出しているのはこの地点のみである。江戸時代の土木技術を窺うことができ、海に面した宿場町・品川宿の特色を偲ばせる貴重な史跡である。




旧東海道が目黒川を渡るところに品川橋が架かっています。この辺りは、江戸時代には年貢米を積み出す河岸でした。

南品川宿河岸

目黒川の流れが大きく左折(北流)する箇所の右岸にあった河岸(河川の岸で舟から荷物などのあげおろしをするところ)、旅籠屋・百足屋に隣接していたので俗に「百足河岸」と呼ばれた。品川宿周辺の村々から運んでこられた年貢米は、この河岸から浅草御蔵前にあった幕府米蔵に積み出されていた。




橋の歩道の中央部がちょっとした広場になっていて、休息所も設けられています。

品川橋の今昔

この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。[品川橋]は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には[境橋]と呼ばれていました。また別に[行合橋]・[中の橋]とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。[品川橋]がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。




ポイント3 荏原神社

品川橋のすぐ上流に、欄干が朱色に塗られた橋が架かっています。橋の名前は鎮守橋で、北詰は荏原神社に繋がっています。いわば、参道橋です。



荏原神社の境内には、鎮守橋のかっての親柱が保存されています。



荏原神社は、和銅二年(709年)9月9日に大和国丹生川上神社より高(おかみの)神(水神)の勧請を受けて南品川に創建されました。以降、源氏・上杉氏・徳川氏など多くの武家の信仰を受け、南品川の鎮守として崇敬されました。元々は「品川貴船社」という名称でしたが、明治八年(1875年)に名を改め、荏原郡の名に因んで「荏原神社」に改称しました。



東海七福神の中の一社として、恵比須神を祀っています。



6月初旬には天王祭が開催され、神輿の動作指示は「品川拍子」で行われます。

品川区指定無形民俗文化財
品川拍子

品川拍子は祭礼時に神輿が巡行する際の囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる締め太鼓と、俗称トンビといわれる篠笛によって演奏される。その由来は定かではないが、荏原神社では昔から鳳輦(現在は御羽車)に神面と大拍子を付け「天下泰平・五穀豊穣」と叩きながら氏子地域を回ったのが始まりといわれ、品川宿で成立し、当宿とその周辺地域にのみ伝承されている。現在伝えられている品川拍子は、明治初年に嶋田長太郎が集大成したものとされ、初代家元と考えられている。宝暦元年(1751年)に始まる神輿の海中渡御で有名な「荏原神社天王祭」は、六月七日に近い日曜日を中心に行われるが、このとき神輿の上げ下ろしや、揉んだり差したり納めたりの動作を品川拍子で指示するなど、他に類例を見ない特色をもっている。




荏原神社は幾度か明治天皇の奉安所になりました。

明治天皇と荏原神社
内侍所御奉安所史跡

明治元年七月二十七日明治天皇江戸を東京と改め帝都を東京に移すと詔す。この年九月二十日天皇内侍所(今日の宮中賢所)を相具し奉りて京都御発輩諸官三千三百人を従えて陸路東海道を東京へ向われた。下って十月十二日朝神奈川駅御発輦川崎梅屋敷にて御小憩の後午後三時頃当荏原神社に御着輦本社弊殿に内侍所を拝殿に御羽車を御奉安遊ばされた。翌明治二年三月二十七日明治天皇御再幸の節も内侍所を当社に御奉安せらる。この両度の内侍所御奉安所に使用せられた建札はじめ菊花御紋章の高張提灯その他調度品を当社に御下賜せられ今日に至るまで用いられている次第である。明治五年京都に在せし英照皇太后東京へ行啓の除明治天皇は御出迎えのため御通輩の途次当社をもって御休殿に充てられし事は重なる光栄とするところである。




石碑の後ろに、文字が殆ど消えかかった案内板が立っています。

品川区認定文化財
荏原神社文書八点(文五号)
利田家文書十八点(文六号)

将軍家朱印状写を含む本社に関する文書および延宝から明治まで旧南品川宿名主の利田家より寄進された文書で、本社の沿革や南品川宿を知るための貴重な資料とされている。

荏原神社神輿海中渡御(民三十三号)

毎年六月七日に行われる祭禮(さいれい)の一行事で、神輿を海中に入れもみあうものである。江戸時代に海中から出現した神面を年一回神輿につけて海中に入れ、ノリの豊作と魚介類の豊漁を祈願したことに始まる。現在は、海岸が埋立てられたため神輿を船にのせて海上に出て、浅瀬の水のきれいなところで、海中渡御を行っている。




本殿の柱に由緒書きが掲示されています。

郷社荏原神社は、元明天皇御代和銅二年九月九日の創立にして、明治元年十月十二日明治天皇御遷都の際、畏くも内侍所(今の賢所)御鎮座あらせられし?なり。例祭は毎年六月六日より九日迄、小祭は毎月九日。



荏原神社から「稼穡稲荷」に向かいます。

ポイント4 稼穡稲荷

稼穡稲荷が鎮座する場所には、かって佐土原藩島津家の抱屋敷がありました。幕末に南品川宿の地主が中心となってはじまった互助組織(現在の六行会)がこの土地を買い取った際には既に稲荷社があったということから、もとは佐土原藩島津家の屋敷神だったといわれています。その後改めて京都伏見稲荷大社から分霊を勧請し、現在の稼穡稲荷社となりました。

稼穡稲荷社

稼穡稲荷社は、別名荏川稲荷ともいい、祭神は宇迦能比売命である。この稲荷のはじまりについては、こんな話が伝わっている。薩摩屋敷から六行会がこの土地をゆずりうけたとき稲荷社は北東の旧目黒川の方にあった。そこでそんな隅にあったのをたいそう気にしていた六行会の生みの親ともいえる山本伴曹は、ある夜狐の嫁入りの夢をみた。山本伴曹は荏原神社の神主であった鈴木播磨に頼んで、伏見稲荷さんを分請したというのである。そしてそれは文久元年(1861年)という。稼は植える、穡は収める、とりいれを意味し、農業の意味である。稼はカセギともよみ、かせぎためると読み替え商売繁盛の神として命名した。稲荷の祭りは、春に田の神を里に迎える二月の初午である。赤い旗や白い旗を立て、地口行灯を立て、世話人が赤飯を蒸して、町内の子供たちや参詣人に配った。子供たちは、太鼓をたたき町内を回り、各家から菓子などをもらって歩いた。そんなお稲荷さんの初午は、昭和初期まで残っていた。




「稼穡」を「かしょく」と読める人は相当の漢字力があります。



狭い境内には不釣り合いな銀杏の巨木が聳えています。

品川区指定天然記念物
稼穡稲荷のイチョウ

イチョウはイチョウ科に属する落葉の高木で、高さ三十メートルにもなり、葉は扇形で秋に黄葉する。雌雄(めすとおす)それぞれ別の木となる。本樹は雄樹で、幹の囲りは4.1メートル、高さは23メートルあり、推定の樹齢は五百年から六百年である。木の勢いも盛んで、姿も整っており、本区内のイチョウの中でも屈指の巨木である。本樹は、長い間稼檣稲荷社の神木として保護されてきた古木で、遠くからの景観も大変美しい木である。




周囲には住宅が建ち並んでいますので、銀杏の木の全景を写真に撮るのは難しいです。



ゴール地点の新馬場駅に着きました。



ということで、品川区で四番目の「04.東海道品川宿コース」を歩き終えました。次は品川区で五番目の「05.仙台坂と品川シーサイドコース」を歩きます。




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