07.五反田の緑コース  

コース 踏破記  

今日は品川区の「07.五反田の緑コース」を歩きます。五反田駅から城南五山のひとつ、池田山の高級住宅地を巡ります。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年9月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

07.五反田の緑コース

「07.五反田の緑コース」の歩行距離は約3.7km(約4,625歩)、歩行時間は約1時間7分、消費カロリーは約303Kcalです。

スタート地点:五反田駅東口
ポイント1 池田山公園
急坂に沿って造られた日本庭園で、低地部では池のほとりを回遊できます。元は岡山池田藩の下屋敷でした。
ポイント2 ねむの木の庭
皇后陛下のご実家・旧正田邸跡を整備した公園です。園内は四季の花と木で彩られています。
ポイント3 五反田公園
坂道を挟んで2段に分かれている公園です。坂道は歩行者専用の石畳で、桜並木の名所として知られています。
ポイント4 亀の甲橋
かって亀の甲島と呼ばれた亀甲型の出洲がありましたが、埋立で消滅したことから、この橋に名が残されました。

ゴール地点:目黒駅西口

こぼれ話
品川区内には江戸時代、最も多い頃に30軒近い大名屋敷(多くは別邸の下屋敷)がありました。


スタート地点の五反田駅東口から歩き始めます。「五反田」の地名は、江戸時代に目黒川の谷がほぼ東西に流れ、その谷周辺の水田が一区画5反あったために「五たんだ」と呼ばれていたことに由来するといわれています。



桜田通り(国道1号線)は、有楽街入口付近から高輪台交差点の手前まで、北東に向かって長い上り坂になっています。有楽街は、五反田駅の東側一帯に広がる東西約200mほどの商店街で、全体的に飲食店や風俗店やラブホテルが多く、山手線沿線有数の歓楽街として知られています。



相生坂は長さが約500mほどの緩やかな坂で、別名を「雉子の宮坂」といいます。坂名は、桜田通り(旧中原街道・鎌倉街道)と御殿山方面から来る道(現在は桜田通りの下で立体交差しています)とがY字型に合流していたことに因んでいます。

相生坂

相生坂の名称は、古く江戸時代から呼ばれていた。その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田一丁目)前を通る道と、この坂のある中原街道が、雉子神社(東五反田一丁目)の手前で合流していたことにもとづくとされる。昔は急坂で険しいものであったが、だんだんと道路整備がされて現在のようになった。別名を雉子ノ宮坂ともいう。

Aioi-Slope

This slope has been known as "Aioi-Zaka" from the Edo Period. It was once a steep slope, but today it is a gentle slope after gradual re-constructions.




有楽街と桜田通りに挟まれた三角形の狭い敷地に東京オイスターバー五反田本店のお店があります。



店主がヨーロッパ旅行をした際に、路地裏の露店で出会った生の剥きたての牡蠣の美味しさに感動して、「日本だけでなく、海外の牡蠣も味わえる」ことをコンセプトとして、1999年に五反田に「東京オイスターバー」をオープンさせました。



2022年1月に訪れた際には東京オイスターバーのお洒落な外観の建物があったのですが、2024年9月に再訪した時にはお店は跡形もなく無くなっていました。HPには、建替えのために2年間休業するとの告知があります。元のお洒落な外観の建物の復活を期待したいですね。



東京オイスターバーの向かいの交差点で左折し、坂を上がって行きます。道なりに進みますと、左手に巨大なNTT東日本関東病院の建物があります。NTT東日本関東病院は、東日本電信電話(NTT東日本)が運営する企業立病院で、昭和二十七年(1952年)1月に日本電信電話公社の職域病院である関東逓信病院として開設されました。昭和六十一年(1986年)6月以降は保険医療機関の指定を受けて一般に開放され、NTTグループ社員に限らず誰でも利用できるようになり、平成十一年(1999年)7月に現在の名称となりました。私も代々木踏切転倒事件の後で整形外科の先生に診てもらいました。



道路の上を連絡通路が跨ぐ品川区立第三日野小学校の向かいに池田山公園の正門があります。



ポイント1 池田山公園

此の地には、江戸時代に岡山藩主池田氏の下屋敷があり、付近一帯の高台は「池田山」という名称で呼ばれました。明治維新になって廃藩置県が行われて以降も池田氏の屋敷として使われていました。やがて、池田山付近は宅地化され、邸宅が立ち並び池田山は山の手有数の高級住宅街として知られるようになりました(その中の邸宅のひとつに上皇后美智子の実家である正田家の邸宅があり、現在は建物は取り壊されて跡地は「ねむの木の庭」という小さな区立公園になって一般に公開されています)。

【池田山公園のあらまし】

この公園は、かつて庭園美を誇った自然と景観をできる限り残しながら、公園として必要な施設を整備し、既存の池・滝・園路を中心に自然を観賞できるように整備した、回遊式庭園です。

【ねむの木の庭のあらまし】

この公園は、皇后(現在は上皇后)陛下・美智子様のご実家・正田邸の跡地に整備されました。園内には美智子様ゆかりの樹木や多数の草花が植えられ、四季折々楽しむことができます。
池田山公園より徒歩、約5分の所にあります。




池田山公園のあるところは、池田家の下屋敷の奥庭の部分で、戦後しばらくは私人の邸宅がありましたが、品川区が庭園を保存すべく土地を取得し、公園として整備し、1985年に区立公園として開園されました。現在でも江戸時代の回遊式庭園が良好に整備・保存されていて、一般にも公開されています。

池田山公園

この公園は、池を中心に園路をめぐり鑑賞する回遊式庭園となっています。起伏に富んだ自然地形のなかに滝や既存林などを生かし、準和風庭園の趣をつくり出しています。みどり豊かな園内を、ゆっくり散策してみましょう。四季折々の変化や、そこに暮らす生きものたちを静かに楽しみましょう。




園内には多様な植物や樹木が見られます。



一段と低くなったところには池があり、小高い崖から細い滝が流れ落ちています。



坂上の入口付近に案内板が立っています。

池田山公園

池田山公園の位置する一帯は寛文十年(1670年)以降、備前国岡山藩池田家の下屋敷(大崎屋敷)があり、この付近一帯の高台は「池田山」と呼ばれるようになりました。高台にあるこの広大な敷地は11、642坪(38、419u)あり、武蔵野台地の先端の高台からは眼下に目黒川を望む眺望に優れた景観地であったことがうかがわれます。明治時代の廃藩置県以降敷地は縮小されて大崎屋敷は池田侯爵の邸宅として使用されていましたが、大正末期以降ここ一帯は宅地化され都内有数の高級住宅地に姿を変えていきました。池田山公園は池田山の北端部斜面の崖から灌水を利用した大きな池のある庭園があったと見られる一部分で、品川区が庭園を保存すべく土地を取得し、四季折々の樹木、草花の景観を楽しめ、日本庭園を構成する池、滝、石組、灯籠、水鉢等々が配されている池泉回遊式庭園として1985年4月に開園しました。

■四季の自然
木々は新緑、深緑、紅葉、冬木立と姿を変え、季節ごとの草花が彩りを添えます。

■四阿、見晴らしデッキ
すり鉢状の急斜面の上部に四阿があり、その見晴らしデッキの眼下には瓢箪型の池、池を囲むモミジ、急斜面にはサツキ・ツツジの大刈り込みを見ることができます。(開花時期:4月から5月)

■灯籠
瓢箪型の池に石橋が架り、橋の脇に雪見灯篭があります。その他園内のところどころに灯籠が配されています。

■滝、石組
池奥には巨石が巧妙に組み上げられていて、その上部の滝口から水が流れ出て三段の段爆となって池に流れ込んでいます。

■雪吊り・雪囲い(12月〜2月)
冬を迎える頃、職人の手作業により赤松に雪吊り、ソテツに雪囲いが施されます。

Ikedayama Park

CHISEN KAIYUSHIKI TEIEN Garden with full of green plants located on the northern edge of IKEDAYAMA Hillside in HIGASHI-GOTANDA, SHINAGAWA-KU, TOKYO.

The high-land area of this Park started to be called as IKEDAYAMA Hills from 1670 in early Edo era since the residence of the IKEDA Clan, DAIMYO of OKAYAMA HAN BIZEN-NO- KUNI used to be located here. The residence was called under the alias name OSAKI - YASHIKI-Osaki Residence. The premises were so huge with 38,419 sq and the place was seemed to be a scenic point with a stunning view as MEGUROGAWA River was overlooked from the high-land, the northern edge of MUSASHINO Plateau. The premises were downsized after the establishment of prefectures instead of HAN in Meiji restoration era (around 1871). However, it had been used by the IKEDA clan as their dwelling even though the title of IKEDA had changed to Marquis. After the end of Taisho era (around 1920), this area has gradually been changing to the residential area, and finally has become one of the poshest residential districts in Tokyo. IKEDAYAMA Park is situated at the part of the garden area with the big pond filled with water from IKEDAYAMA northern hillside. Therefore, SHINAGAWA Municipality obtained the land to preserve the garden, and opened the park as the CHISENSHIKI KAIYU TEIENI - Garden with strolling passage surrounding the ceriter pond and various plants associating seasonal beauties in April 1985.




ちなみに、最初に訪れた2022年1月は雪が降った後の日でした。赤松には雪吊りが施されています。



池田山公園から「ねむの木の庭」に向かいます。



ねむの木の庭の手前にインドネシア大使公邸があります。この大使公邸は、池田山の高級住宅街に建つ歴史的建造物で、昭和十一年(1936年)に伊藤鈴三郎邸として建てられた鉄筋コンクリート造2階建ての洋館です。家の外壁には天然石が貼られ、庭には大きな紅葉の木が赤々としています。建物自体も歴史的な価値があります。



ポイント2 ねむの木の庭

此の地には、美智子上皇后の生家として知られる正田家の邸宅がありました。昭和八年(1933年)に日清製粉の正田英三郎社長邸として建てられ英三郎氏の死後、平成十三年(2001年)に相続税の一部として物納されました。建物の保存を求める要望書や署名活動、住民団体による募金活動が行われたり、長野県北佐久郡軽井沢町への移築が検討されましたが、平成十四年(2002年)に解体されました。その後、品川区が国から公園用地として跡地を取得して整備し、平成十六年(2004年)8月26日に「ねむの木の庭」として開園しました。公園の名前の由来は、美智子上皇后が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」にちなんでいます。

「ねむの木の庭」について

この公園は、皇后(上皇后)陛下美智子様のご実家・正田邸の跡地に開設したものです。昭和九年十月二十日、正田家の長女としてお生まれになった皇后さまは、昭和三十四年四月十日、民間初の皇太子妃として皇太子殿下(現・天皇陛下【現在は上皇】)のもとへ、この地より嫁がれました。品川区は、平成十五年にこの土地を譲り受け、皇后(上皇后)さまがお誕生からご成婚までを過ごされた場所にふさわしい公園として整備しました。この公園には、ご成婚当時の門を再現しているほか、皇后(上皇后)さまゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木・草花を多数植え、訪れていただいた方それぞれが皇后(上皇后)さまに思いを馳せていただけるようにしました。またこの公園の園名は、皇后(上皇后)さまが高校生時代におつくりになった詩「ねむの木の子守歌」や、皇室に入られた後にお詠みになったお歌の中でも使われたゆかりの樹木「ねむのき」にちなんで命名いたしました。



公園の中央に聳える高木は「ねむの木」です。駐車場の車はガラス塀に映り込んだものです。


公園は、年末・年始の期間を除いて日中開放されています。

ねむの木の庭

平成十六年8月に池田山の地に品川区立「ねむの木の庭」が開園されました。約200坪の庭園には、約60種類の草花、50本の樹木が植えられています。この庭は上皇后美智子様が成婚までを過ごされた、正田邸の跡に作られました。ねむの木の庭の命名の由来や、上皇后の御歌、植物紹介、夜間のライトアップ、当時の御門の再現など、随所に細やかな工夫がなされています。閑静な雰囲気にとけ込んだ、ほっと心の和むお庭といえます。




様々な樹木や草花で彩られる公園は邸宅の跡地なので広くはありませんが、美智子上皇后にちなむバラの「プリンセス・ミチコ」も植えられています。

ヒツジグサ

美智子上皇后陛下にとって大切な思い出のあるお花「ひつじぐさ」は長女清子様のお印にお選らびになりました。昭和四十四年(1969年)4月18日(金)紀宮(のりのみや)様御誕生。紀宮清子内親王(のりのみやさやこしんのう)現:黒田清子(くろださやこ)様

特性:
花の寿命は数日、未の刻(午後14時)頃に開花し夕方には閉花します。観賞用スイレンにくらべると葉や花が小さく花弁数が少ないです。国内唯一の国有種で減少、絶滅した地域もあり、東京都では絶滅種に指定されています。

プリンセスミチコ

庭一番の人気
例年、開花は4月の最終週の頃、ゴールデンウィークの後半から見頃を迎えます。

プリンセスミチコは上皇后美智子様が皇太子妃だった1988年に英国のディクソン社から献上されたバラです。一番花が終った後、6月中旬には2番花が8月頃には3番花が咲きます。一番花は花数、色、大きさとそれは見事に私達を楽しませてくれます。一番花以降、花は小さくなり数も減りますが、9月上旬に夏剪定を行い10月中旬にはまた秋のバラを楽しめます。秋バラは春の見事さとは違いますが季節の落ち着いた雰囲気の中12月いっぱいまでその美しさを観賞することが出来ます。

ネムノキの花 庭のシンボル

5月下旬から7月中旬頃まで次々と花が咲きます。

ネムノキの名前は夜になると葉が閉じることから、その由来になっています。マメ科の落葉高木で丈夫で成長がよく、公園のシンボルになっています。花は花びらの先端に向かって白から淡いピング色で扇型に広がり、ふんわりした花びらはとても繊細で可愛いらしさを感じさせます。




「個人の庭の様な空間を思わせるねむの木の庭」の案内板が立っています。

@ねむの木

正門を入るとすぐに公園のシンボル、大きなネムノキがあります。木の下には、公園の由来を記した説明板が設置されています。

Aトレリスと出入り口

ガラススクリーンに続くようにフェンス状のトレリスがあります。バラやクレマチスなどが育ち枝を絡ませていますトレリス中央の出入口から、バラのトンネルをくぐって園内に入れます。



B上皇后さまゆかりの樹木

この付近には、上皇后さまゆかりの樹木や花が沢山植えられています。御歌の中で詠まれたヤマボウシ、ライラック、ウメ、シラカバ、上皇后さまが皇太子妃時代に贈られたバラ「プリンセス・ミチコ」など、上皇后さまがお詠みになった御歌の数々が樹名板に紹介されています。



C正門

上皇后さまご成婚時の正田邸の門に近い木製の門に再現しました。大きさは、当時より大きめ(高さ2m)です。向かって右側の門柱にはガラス製の園名札がつけられています。



Dガス灯

正田邸の暖炉の煙突をモチーフにしたガス灯です。夜間には、ガス灯ならではの暖かい光を放ちます。



Eガラススクリーン

道路沿いには、強化ガラスを使った壁があり、外側から中が見通せます。夜間は下からライトアップされ白壁のように見えます。

F佐久産の舗装材

上皇・上皇后両陛下ゆかりの地、軽井沢に近い長野県佐久市付近で産出する鉄平石を敷き詰めています。場所によって石の敷き方を変えています。

この公園は、上皇后陛下美智子さまの御実家・正田邸の跡地に開設したものです。昭和九年十月二十日、正田家の長女としてお生まれになった上皇后さまは、昭和三十四年四月十日、民間初の皇太子妃として皇太子殿下(現・上皇陛下)のもとへ、この地より嫁がれました。品川区は、平成十五年にこの土地を譲り受け、上皇后さまがお誕生からご成婚までを過ごされた場所にふさわしい公園として整備しました。この公園には、ご成婚当時の門を再現しているほか、上皇后さまゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木・草花を多数植え、訪れていただいた方それぞれが上皇后さまに思いを馳せていただけるようにしました。またこの公園の園名は、上皇后さまが高校時代におつくりになった「ねむの木の子守歌」や、皇室に入られた後にお読みになったお歌の中でも使われたゆかりの樹木「ネムノキ」にちなんで命名いたしました。

ねむの木の庭は、上皇后陛下のご実家、旧正田邸跡地にできた区立公園です。園名は上皇后陛下の高校生時代に作られた「ねむの木の子守歌」からつけられたものです。公園のシンボルとなるねむの木は、園内のどの位置からも眺められます。足を止めた場に植栽されている花々を愛でることで、様々な違った姿を私達に見せてくれます。

【ネムノキ】
ネムノキはマメ科の落葉高木です。山野や河原に多くみられ、夕方には葉を閉じる性質を持ちます。この動作は就眠運動によるもので、シロツメクサ、インゲンマメ、オジギソウなどにも見られる性質です。葉を閉じる仕組みは、概日リズムによるもので、一種の体内時計であり、24時間の周期を持ちます。真っ暗な所から、光が差し込むことで、概日リズムにスイッチが入り役割を果たします。

この公園の敷地にあった旧正田邸は、昭和初期に建てられた、趣のある建物でした。保存運動も行われましたが、建物も解体され、その後、品川区が跡地を公園用地として取得、2004年に公園として開園しました。

ねむの木の庭は、城南五山と呼ばれる、池田山・御殿山・島津山・花房山・八つ山の5つの高台の中の一つに存在します。最近では龍の通り道として噂になり、メディアでもパワースポットとして紹介される様になり、名物スポットの一つになりつつあります。

園内には、ねむの木を思う様に、上皇后陛下の歌のパネルが設置され、ウメ、クワ、ヤマボウシ、ハマギク、コブシ、ライラック、バラ、ルピナスなど、上皇后陛下が御歌に詠まれた多数の花が育てられています。また、上皇后陛下のお印である、白樺の木も園内にて眺めることが出来、上皇后さまに関連する樹木や花、門や敷石に至るまで拘りの配置が所々になされています。ねむの木の庭で、代表的なものに「プリンセス・ミチコ」があり、訪れる方々の人気の的になっています。

【プリンセスミチコ】
1967年にイギリスのディクソン社から美智子皇太子妃殿下(現上皇后陛下)に捧げられたバラ「プリンセス・ミチコ」は花色は濃いオレンジ色で、フロリバンダ系の品種です。半八重咲きで、たくさんの花を房咲きします。エリザベス女王から贈られたとも言われています。枝変わり品種に、つる性の「つるプリンセス・ミチコ」があります。




ねむの木の庭から「五反田公園」に向かいます。ねむの木の庭の直ぐ先の左手に、マンション風の建物があり、見慣れない国旗が掲げられています。1991年8月25日に白ロシア・ソビエト社会主義共和国(ベロルシア・ソビエト社会主義共和国)がソビエト連邦からの独立を宣言した後、同年9月19日に国名をベラルーシ共和国に改称しました。同年12月28日に日本がベラルーシ共和国の独立を承認した後、1992年1月26日に両国間の外交関係が樹立され、1995年7月に大使館が開設されました。



ポイント3 五反田公園

ベラルーシ大使館からクランク状に進んだ右手から石畳の坂が下っています。坂の両側には桜並木が続いています。



五反田公園は品川百景の桜並木の中にある公園です。東五反田保育園と児童センターに隣接していて、車が通ることもなく安心して子供を遊ばせることができます。遊具は少なく、大型の鉄棒がある程度です。公園は石畳の歩行者専用道路で東西に分かれていて、西側の広場では幼児のボール遊びが出来そうです。



五反田公園から「亀の甲橋」に向かいます。花房山通りが山手線の線路際に出るところに小さなスペインバルのお店があります。「ばる・あらら」は正統派のスペイン料理に拘りつつも、本場と同じオープンなバル・スタイルでお料理を提供しています。味と素材の品質を第一に考え、肉類・魚介類・野菜、そして調味料も本物ばかりを使用しています。ワインも現地で評判の手頃な価格帯のものを厳選してラインナップしています。私も一度お邪魔しましたね。



上大崎三丁目交差点で左折し、首都高目黒線の高架に沿って進み、谷山橋を渡ったところで右折します。川沿いには最近建った高層マンションが並んでいます。ムサコのような悲劇が起きなければいいのですが。



そのまま目黒川に沿って進みますと、市場橋に出ます。こんな所に市場なんかないのに、橋名がヘンですね。



目黒川の歴史を紐解いてみましょう。昭和三十年代初め頃までは、この目黒川で友禅流しが行われ、魚釣りや水遊びで賑わい、蛍も飛び交う清流でした。しかし、川幅が狭くて水深も浅かったため、大雨が降るたびに川の流れが変わるほど氾濫し、暴れ川と異名をとるほどでした。そのため護岸工事が繰り返され、昭和十二年には船が運航できる運河として完成し、曲がりくねっていた川の流れもほぼ現在と同じように真っすぐになりました。昭和二年に始まった川沿いの桜の植樹も護岸工事のたびに記念として植えていき、現在の桜並木を生むきっかけとなりました。今では品川区と東京都により廃止された旧中央卸売市場荏原支所(昭和十一年【1936年】に業務を開始し、昭和六十四年/平成元年【1989年】に閉鎖され、大田市場に統合されました)跡地に地上部が高齢者複合施設(大崎第一地域センターが在する施設)や都営住宅、地下に4層構造の貯留施設の「目黒川荏原調節池」という貯水槽も完備し、大雨が降って増水することはあっても氾濫することはなくなりました。市場橋の「市場」とは、「荏原市場」のことだったんですね。橋の欄干には、野菜の運搬に使用したであろう大八車がデザインされています。


対岸の高層住宅に囲まれた辺りに、荏原市場があったようです。


ポイント4 亀の甲橋

市場橋のすぐ脇に人道橋が架かっています。市場橋にも歩道があるので、あまり必要性は感じないのですが、市場橋が架けられる前はこの橋を使っていたのでしょうか?現在の亀の甲橋は昭和六十一年(1986年)に竣工したのだそうで、市場橋との関係は分かりません。



ちなみに、目黒川沿いの池尻大橋から亀の甲橋までが桜並木の区間で、約4kmにおよそ800本のソメイヨシノが植えられています。



東急目黒線沿いに坂道を上がりますと、左手の高台に杉野服飾大学の校舎が聳えています。杉野服飾大学は学校法人杉野学園が運営する服飾学部単科の大学です。1926年3月に杉野芳子が創立したドレスメーカースクールから始まり、2002年に男女共学の杉野服飾大学に改称されました。



JR線の線路に沿って目黒駅方向に坂を上がりますと、目黒さつきビルの前に巨大な鉄道の車輪が左右並んで展示されています。

C5515蒸気機関車の車歴

走行キロ   2、975、268km
主動輪重量  2、500kg
主動輪直径  175cm

この蒸気機関車C5515号は、昭和十年10月28日、川崎車両株式会社において製造されました。当時は国鉄自慢の花形機関車で、最初は仙台機関区に旅客列車用として配置され、昭和十三年11月23日より東北本線・常磐線の平〜盛岡間の急行列車を牽引しました。続いて青森機関区および会津若松機関区に配属されるなど、長期間にわたって東北・奥羽・磐越西線の旅客列車を牽引しました。その後、昭和二十五年12月6日に九州の門司機関区に配置換えとなり、鳥栖・大分・早岐・若松機関区に配属され、旅客列車を専門に鹿児島本線をはじめ長崎・佐世保・日豊・大村・筑豊の各線で活躍しました。最終列車は昭和四十三年10月6日の筑豊線飯塚駅15時34分発−若松駅16時57分着の736列車で、昭和四十五年1月15日に国鉄鹿児島工場で解体されました。ここに展示してある主動輪は、この機関車の写真にある三つの大きな車輪の真ん中に位置します。初運転より廃車に至るまでの走行キロは(約33年間で)地球から月まで4往復したキロ数となります。この動輪は、昭和六十二年に解散した国鉄動力車労働組合の「寄付行為」によって財団法人・日本鉄道福祉事業協会が設立され、労働者の団結と連帯の強化を願って「目黒さつき会館」(現・目黒さつきビル)に末永く保存することにしたものです。




ゴール地点の目黒駅に着きました。



ということで、品川区で七番目の「07.五反田の緑コース」を歩き終えました。次は品川区で八番目の「08.戸越銀座と3神社コース」を歩きます。




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