09.戸越の公園めぐりコース  

コース 踏破記  

今日は品川区の「09.戸越の公園めぐりコース」を歩きます。大井町駅から品川区の特色ある3つの公園を巡ります。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年9月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

09.戸越の公園めぐりコース

「09.戸越の公園めぐりコース」の歩行距離は約2.1km(約2,625歩)、歩行時間は約43分、消費カロリーは約195Kcalです。

スタート地点:大井町駅西口
ポイント1 しながわ中央公園
家族で楽しめる噴水や流れのある広場、運動施設などがある大きな公園です。線路際のトリム広場には健康器具もあります。
ポイント2 戸越公園
肥後国藩主・細川家の下屋敷跡にある公園です。池や渓谷、滝、築山、薬医門などから大名庭園の面影が感じられます。
ポイント3 文庫の森
国文学資料館跡地を整備した公園です。水辺と芝生の広場があり、片隅には大正時代の書庫「旧三井文庫」の建物があります。

ゴール地点:戸越公園駅南口

こぼれ話
文庫の森の外周路は、ジョギングコース(1周約470m)になっています。


スタート地点の大井町駅西口から歩き始めます。



大井町駅周辺では、品川区とJR東日本による大規模な再開発が進行中です。これは品川区が策定した「大井町駅周辺地域まちづくり方針(2020年)」に基づくプロジェクトで、開業は2025年度末の予定です。JR東日本は大規模複合施設を、品川区は新区庁舎などを整備し、大井町エリアの新たな賑わい創出が期待されています。再開発の計画地は、東急大井町線「大井町駅」から「下神明駅」方向に広がる約29、400uの区画(品川区広町2丁目と大井1丁目地内)です。大井町駅から「しながわ中央公園」方面まで重層的な歩行者デッキを整備し、1・2階層は東急大井町線の高架下通路、3階は新商業施設を抜けるような構造になります。歩行者ネットワーク周辺には3つの広場が設置され、駅前には待ち合わせなどに最適な街の玄関口となる広場が整備されます。広場と繋がるデッキからは整列する大井町車両基地の電車が望めるようになります。歩行者ネットワークの中央には開発街区の中心となる広場が、しながわ公園寄りには約4、600uの広大な広場が設置され、イベントや地域活動の拠点として、また広域避難所としての機能もあわせ持ちます。大井町駅に関しては東口駅舎を改良し、開発街区へ繋がる改札口と出口が新設され、コンコースも拡張されます。さらに駅の北側には、バリアフリーでアクセスできる、バス・タクシー乗り場が整備されます。開発街区には二棟の大型複合施設が整備されます。駅前には賃貸住宅やホテル、レストラン、ルーフトップバーを備えた施設が、その隣には1フロアあたりの賃貸面積が約5、000uと、東京南エリア最大規模のオフィスビルが建設され、両施設とも地上26階・地下3階となります。さらに、公園寄りには、地上2階・地下2階のアウトモール型商業施設を整備し、シネマコンプレックスなどの出店が予定されています。工事は2023年4月から開始されていて、現場には何台ものクレーンが林立しています。再開発の敷地内にあった四季劇場「夏」は2021年6月に閉館し、ロングラン作品の「ライオンキング」は同年9月から有明四季劇場に引き継がれています。



大井町駅から品川区役所方面に延びる都道450号線沿いには「大井サンピア商店街」があり、居酒屋やラーメン店などの飲食店が軒を連ね、「オーイ地下飲食街」には、個人経営のスナックやバー・居酒屋などが集まり、大井町のディープスポットとして親しまれています。また、都道450号線の反対側には飲食店・美容院・カラオケ店・コンビニ・不動産屋などが並び、活気ある雰囲気を醸し出しています。



以前は、大井サンピア商店街は大井町駅から品川区役所前交差点まで東急線の高架下に連なっていましたが、高架の耐震化工事のために途中で途切れ、そこにあった店舗は全て退去しています。お店の看板は残されていますが、戻ってくるのでしょうか?



ちょうどお店が途切れる境目に、私が足繁く通った「俺のやきとり大井町店」がかろうじて踏みとどまっています。「なだ万」出身の岡田徹也シェフも健在のようです。



やきとり専門というお店ではなく、居酒屋で見かけるメニューや、「牛フィレとフォアグラのロッシーニ」といった高級フレンチでしか味わえない一品も提供されています。私もここ大井町店で「牛フィレとフォアグラのロッシーニ」を頂きました。



品川区役所前交差点で右折し、区役所通りに入ります。右手には「品川区役所」の庁舎が並んでいます。品川区本庁舎・議会棟・第三庁舎は昭和四十三年(1968年)に建てられ、建物本体や設備の老朽化が進んでいます。近年、区を取り巻く環境の変化や多様化する行政への要望に対応する庁舎の機能が求められていて、段階的に新庁舎の整備が進められています。



令和五年度に基本設計が完了し、令和六年度には実施設計を終え、令和七年度から工事に入り、令和十年度に新庁舎の竣工と業務の移転が行われる計画になっています。新庁舎の場所は、さきほど紹介した大井町駅北側の再開発地の一画で、敷地面積は約8千u、建物は地上14階・地下2階・高さ61m・延べ床面積は約6万uとなる予定です。区役所にしては破格の大きさですね。


計画地の建物配置図です。


地区全体イメージパースです。


注記: 「イメージパース」とは、出来上がり予想をパースペクティブ(遠近法)という手法で描かれた絵です。図面を見て完成の想像ができる人はそう多くいません。そこで、建築分野では、ビルや家屋の完成予想をお客様に見てもらうのに大きな役割を果たしています。

ポイント1 しながわ中央公園

品川区役所前の区役所通りを挟んだ向かいには、平成十五年4月1日にオープンした「しながわ中央公園」があります。

しながわ中央公園

しながわ中央公園は、平成十五年に三菱マテリアル工場跡地を利用して開設されました。品川区の中央に位置する公園で、約二万一千平方メートルの広さがあります。テニスコートなどがあるスポーツ広場と、児童向け広場があり、桜の季節には多くの区民の方で賑わいます。




その名の通り、品川区の中央に位置する公園で、噴水や水の流れやロックガーデンのあるエリア、健康遊具を設置したトリム広場、さらに区民住宅に隣接する児童向け広場があります。有料のテニスコートや多目的広場などのスポーツ広場もあり、地域住民の憩いの場として利用されています。公園の西側には防災機能を備えたエリアがあります。



手前が霧の噴水広場、その奥が山の噴水広場です。



公園の北端には、健康遊具を設置したトリム広場があります。「トリム」とは、スポーツを通じて積極的に心身のバランスをとり、健康の維持・増進を図ることで、1967年にノルウェーで始まり、欧米各国に広まった運動です。元々は、「外力によって船首と船尾に生じる喫水差のバランスをとる」という意味です。



公園の中央にはグラウンドがあり、サッカーを始めとして多様な用途に使用される多目的広場になっています。



早川町は山梨県の南西部に位置し、東西15.5キロメートル・南北38キロメートル・総面積約370平方キロメートルで、広さは品川区の約16倍もあります。人口は約900人ですが、豊かな自然が残された町です。町は南アルプス連峰の間ノ岳や農鳥岳の3、000メートル級の山々に囲まれた雄大な自然の中にあります。町の中央には北から南に早川が流れ、これに多くの支流が注ぎ込み、変化に富んだ美しい渓谷をなしています。品川区と早川町は平成二年4月19日に「ふるさと交流協定」を結び、活発な交流を続けています。そんな縁で早川町から贈られた「かつら」の木が植えられています。

早川町の木「かつら」

山梨県早川町と品川区は、平成二年4月19日に「ふるさと交流協定書」に調印し、品川区民のふるさととして様々な交流事業を行っています。早川町は南アルプスの麓にあり、町の面積の95.5%にもおよぶ山林に囲まれた渓谷の町で、大自然と温泉を活かした観光と、農林業が基盤の町です。この「かつら」の木は、早川町から贈られ植樹したもので、これとあわせて隣には品川区の木「かえで」(イロハモミジ)を植えてあります。



かつらの木に葉っぱが付いていませんが、大丈夫でしょうか?


しながわ中央公園から「戸越公園」に向かいます。道路の上空には、横須賀線と新幹線の高架が二段になって通っています。



戸越銀座商店街から南方向に上がる坂がありましたが、ここはその坂上にあたるようです。

平和坂通り商店会

大正時代、この坂のあたりは東京府荏原郡品川町大字北品川の三ツ木耕地と呼ばれていました。また、当時はこの坂から上の道は有隣社通りとも言われていました。昭和二十三年に「平和坂通り商店会」が結成され、この時にこの坂も平和坂と名称されました。




ポイント2 戸越公園

住宅地の中に、緑濃い「戸越公園」があります。戸越公園が立地する一帯は、江戸時代初期の寛文年間に肥後国熊本藩主細川家の下屋敷があったところで、後に細川家の戸越屋敷として屋敷や回遊式庭園などが整備されました。その後所有者は、松江藩松平不昧公家や出羽上山藩松平家、久松松平家などを経て、明治維新後は久松伯爵、吉井幸蔵伯爵、彫刻家の堀田瑞詳などの所有を経て1890年に三井家に移りました。昭和七年(1932年)には三井家から当時の荏原町(後の品川区)に庭園部分が寄付され、昭和十年(1935年)3月24日に東京市立戸越公園として開園しました。昭和二十五年(1950年)には管轄が東京都から品川区に移譲されました。池を中心にして渓谷や滝・築山などの配置の中を一周する回遊式庭園で、薬医門(正門)や冠木門(東門)など、江戸時代の大名庭園の雰囲気を醸し出しています。梅や桜、藤・銀杏など四季折々の美しい植栽が楽しめる公園です。

戸越公園の沿革

本公園は寛文二年(1662年)、肥後熊本藩の分家熊本新田藩主細川利重が下屋敷として拝領、寛文六年に本家の所有となり、寛文十一年までに数奇屋造りの御殿や庭園からなる戸越屋敷として整備された屋敷地の一部にあたります。文化三年(1806年)、石見浜田藩松平周防守の屋敷となり、さらには伊予松山藩松平隠岐守の手に渡りました。明治の変革により何人かの手を経て、明治二十三年(1890年)三井家の所有となりました。昭和七年(1932年)9月、三井家は学校用地、公園用地として、現在の戸越小学校、都立大崎高等学校を含む別邸の庭園部分を荏原郡荏原町に寄付しました。同年10月、東京市域拡張に伴い、荏原町は東京市の一部として荏原区となり、公園用地は東京市に移管され、昭和十年3月東京市戸越公園として開園しました。その後、昭和十八年の都政施行により東京都が管理することとなり、昭和二十五年9月、一部が都立大崎高等学校となるなどの変遷を経て、翌10月現在の公園部分が品川区に移管されました。その後区では数次にわたる改修を重ね、歴史的な風情を復元させ武家屋敷の雰囲気をかもしだすよう、正門を始め施設の再整備を行い現在に至っています。

<公園の概要>
面積
16、847平方メートル(池の面積 1、815平方メートル)
開園日
昭和十年3月24日
公園便所
2ケ所
みどころ
池を中心とした回遊式庭園に咲くサクラやツツジ、キンモクセイ、ウメなど
主な利用
区内だけでなく区外からの利用も多く、朝のラジオ体操やゲートボール、祭り、いろいろな催しなど多岐にわたり利用されています。




戸越公園は、しながわ百景にも選ばれています。



戸越公園の入口には、立派な屋敷門が建っています。

「薬医門」

本公園は寛文年間(1662年)に熊本藩細川家の下屋敷の一部となっていました。この戸越屋敷は、江戸滝の口の上屋敷及び芝白金の下屋敷とは性格が異なり、鷹狩りやきじ狩り、あるいは茶会等を行う別荘風の邸宅であったとされています。したがって、この戸越屋敷に設けられていた武家屋敷門は、上屋敷あるいは芝白金の下屋敷に構築されていたと推定される長屋門とは異なり薬医門、冠木門等の簡素なものが中心であったと考えられます。以上の歴史的背景をふまえ簡素で質実剛健な様式であり、本公園の正門にふさわしい点から平成四年四月この薬医門を、平成二年三月には東門として冠木門を構築しました。薬医門のいわれは医師の門として使われたことからこう呼ばれていたようです。主材としては台檜(台湾檜)、三州日本瓦などを使用した本格的な造りとなっています。




薬医門から園内に入りますと、築山の手前に広場があります。かっては、この広場に蒸気機関車が展示されていたそうです。

C12型蒸気機関車7号機−物語

◆公園に蒸気機関車がやってきた
昭和四十五年九月、都内の一般公園としては初めて、戸越公園に本物の蒸気機関車が登場しました。地元、豊町の人たちの「蒸気機関車を公園に保存して、子どもたちの遊び場にしてほしい」との願いが通じ、当時の国鉄が、廃車になったばかりのC12型蒸気機関車の七号機を無償貸与してくれました。貸与された機関車は昭和八年生まれ。会津若松や北海道、福井、新潟などで活躍し、昭和四十四年十一月、高崎・足尾線を最後に引退するまでに、約132万キロもの距離を走り続けたベテランでした。

◆解体、そして第三の人生へ・・・
一般開放されてからは、二年ごとに塗装をし直していましたが、内部の腐食が進んで、子どもたちが乗り込んで遊ぶには危険な状態となったことから、平成三年に解体されました。解体された部品の一部は、静岡県の大井川鉄道を走っているC12型164号機の交換部品となって、今も活躍しています。

◆思い出を記念して・・・
この解説板は、ここにおよそ二十年間保存されていたC12型七号機の思い出を、いつまでも伝えていくために建てられました。折に触れて、当時の重厚な姿を思い出していただけたら幸いです。




公園の中心には大きな池があり、周囲は樹木で覆われています。現在の池は湧水と水道水の併用ということですが、少量ながら滝から流れ落ちる水も池に注ぎ込んでいます。



公園の奥の広場には遊具も設置されています。



何故か巨石が置かれています。

山北の石

神奈川県北西部に位置する山北町は、日本列島の生い立ちを物語る多くの手掛かりを残しているところです。特に、ベスブ石・キンセイ石・大理石・金・鉄・マンガン等の鉱物をはじめ、地殻変動や熱を受け変成した岩石、動植物の化石等を多数産出し、学術的にも貴重なところです。この大きな石は、石灰藻という下等な海の植物とサンゴの化石を含む石灰岩で、今からおよそ1、500万年前のものです。この石から、現在、木々の緑に囲まれ、清流に洗われる山北町は、当時、サンゴ礁の青い海の中にあり、激しい海底火山の噴火にみまわれたことがわかります。




垣根も独特の作りをしています。

光悦垣

江戸初期の文化人本阿弥光悦の菩提寺である京都鷹ケ峰日蓮宗光悦寺の茶庭に造られていた透かし垣です。矢来垣の上に割竹を巻いた太い玉縁をかぶせます。玉縁のゆるやかな曲線もこの垣根の特徴です。




鯉塚は、この池で死んだ鯉を供養するための墓です。



戸越公園から歩いて数分の距離にある「文庫の森」に向かいます。

ポイント3 文庫の森

文庫の森は、国文学研究資料館跡地(旧三井文庫)に、池や樹木など元からある環境資源を生かして、平成二十五年(2013年)2月23日に開園した日常の憩いの場所となる公園です。しながわ百景にも選ばれています。敷地は災害に強い街づくりの観点から広域避難場所に位置づけられた「戸越公園一帯」の一部であり、園内のオープンスペースは大地震時に発生する延焼火災などから避難した人々の身の安全を確保する避難場所としての機能を持っています。



公園といっても遊具類は設置されていません。園内には、中央に「陽だまりの広場」、北側に「憩いの広場」、西側に「こもれびの広場」があり、また「水辺の広場」には「八ツ橋」が架かる池もあります。



この辺り一帯はかつて肥後熊本藩細川家の下屋敷でしたが、明治二十三年(1890年)に財閥三井家の所有となりました。大正七年(1918年)に三井家編集室が日本橋からこの地に移転し、三井文庫が発足しました。事務棟と書庫2棟が建てられましたが、戦後の財閥解体により、昭和二十六年(1951年)に部外者に売却され、国文学資料館として多くの学者・研究者に利用されました。

文庫の森と旧三井文庫第二書庫のあゆみ

文庫の森から都立大崎高校にかけての一帯、約3万3千坪(約10万9千u)は、江戸時代、大名下屋敷がおかれました。文庫の森と北西側の区道の間が外部との境界にあたり、南西側の区道は、直線の馬場だったとされています。江戸時代初期、熊本藩細川家が所有していた時期がこの下屋敷の最盛期でした。19世紀初頭には分筆され、何回か所有者が変わりました。明治二十六年(1893年)頃、三井銀行がほぼ下屋敷の範囲となる約3万坪(約9千9百u)を買収、南側に農園(三井農園)、北側に外国人接待用別邸(三井別邸)を建設しました。大正七年(1918年)、三井家の江戸時代以来の営業記録等歴史史料を管理する三井家同族会事務所庶務課記録掛が三井別邸に移転し、「三井文庫」と改組しました。移転した年に第一書庫、大正十一年に第二書庫を建設し、江戸時代以来の史料が保管されました。関東大震災後の防火対策にみられるように、この書庫は資料の保存を第一に作られています。また、外壁はモルタルをタイル風に塗り、その間を東京駅でも使われている覆輪目地で仕上げており、このような職人の卓越した技を各所に見ることができます。現在の文庫の森の土地は、昭和二十二年(1947年)文部省に売却されたのち、昭和二十六年設立された文部省史料館が置かれ、同館は昭和四十七年には国文学研究の機能も備えた国立国文学研究資料館へと改組しました。両書庫とも国立国文学研究資料館の書庫として利用されていましたが、敷地内整備のため第一書庫は昭和五十一年に取り壊され、第二書庫のみが残りました。国立国文学研究資料館は平成二十年(2008年)立川市に移転し、その際品川区は防災機能を持った公園を作るため跡地を買収、第二書庫はその文化財的価値から、修理の上保存することになりました。平成二十五年3月に公園は開園し、三井文庫そして第二書庫にちなんで「文庫の森」と名付けられました。




現在は第二書庫のみが公園内に保存されています。第二書庫は現存する日本最古の壁式鉄筋コンクリート造建物として貴重なものです。

旧三井文庫第二書庫
壁式鉄筋コンクリート造3階建て、1922年、改修1926年

[歴史]

「文庫の森」一帯は寛文二年(1662年)に熊本藩の分家熊本新田藩が下屋敷として拝領、その後本家の所有となり戸越屋敷として整備された。その後、明治二十三年(1890年)に、財閥の三井家の所有となった。やがてこの地に三井文庫が設置されることになり、平家の事務棟と3階建ての同形の書庫2棟が、すべて鉄筋コンクリート造で建てられた。事務棟の主要部と第一書庫の竣工は大正七年(1918年)で、第二書庫は、事務棟増築とともに大正十一年(1922年)に完成した。これらの建物を設計したのは、東京帝国大学営繕課長(当時)の山口孝吉(1873年〜1937年)である。このうちで現存するのが第二書庫である。

[構造形式]

第二書庫は、約14mX9mの長方形平面の建物で、空気層を挟む2重の鉄筋コンクリート造壁で囲われている。柱ではなく、壁が荷重を支えるこのような形式は、壁式構造と呼ばれる。大正・昭和戦前期の日本の鉄筋コンクリート造建物にはこの形式は稀で、現在知られているかぎりでは、この建物が最古の現存例である。ちなみに、2重壁にしたのは史料を火災の熱から守るためと考えられる。1階スラブ(床)と屋根スラブまで鉄筋コンクリート造にしているのは当時では珍しいが、建物を不燃材で囲うということで、これも防火のためと見られる。内部には書架が並んでいるが、その書架の柱を鉄骨にして、その上の梁を受ける構造材としても利用しているのが注目される。梁は、平行に並ぶ書架に合わせて、通例よりもはるかに狭い1.6m間隔で並び、その梁のラインに1.2m間で3本1組になった書架の鉄骨柱2組が一列に配されて、6つの点で梁を受ける。この鉄骨による多支点支持は、書などの史料の重さに耐える必要があるという書庫の目的にもかなうユニークで巧みな手法で、それにより約9mの梁間では90cm程度必要になるはずの梁の高さを20cmに抑えることもできた。ちなみに、書架の鉄骨柱は、アメリカ製の山型鋼を背中合わせに4本組み合わせて十字形断面(端の柱は2本でT字型断面)にしたものである。

[建築技術史的価値]

大正十二年(1923年)の関東大震災では、この建物はほとんど被害を受けなかったが、この震災の被害の多くが火災によるものだったことを教訓に、三井文庫は直ちにこの建物の防火性能を高める改修工事に着手した。窓を市松模様につぶして火が入る危険を減らしつつ、残した開口部の内外面に人造石研ぎ出しの防火戸を増設した。この改修工事は大正十五年(1926年)年に完了した。以上から、この建物は、ユニークで巧みな構造でつくられている点で、日本における壁式鉄筋コンクリート造建物の現存最古のものと見られる点で、また震災の教訓をすぐに活かして防火性能を高めた点で、建築技術史上注目すべきものといえる。




現在は中に入ることはできませんが、防災備蓄倉庫として活用されています。



ゴール地点の戸越公園駅に着きました。



ということで、品川区で九番目の「09.戸越の公園めぐりコース」を歩き終えました。次は品川区で十番目の「10.旧中原街道とかむろ坂コース」を歩きます。




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