- 10.旧中原街道とかむろ坂コース
- コース 踏破記
- 今日は品川区の「10.旧中原街道とかむろ坂コース」を歩きます。不動前駅から旧中原街道を辿り、武蔵小山商店街(パルム)を抜けて、悲しい伝説のかむろ坂を下ります。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年9月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。
10.旧中原街道とかむろ坂コース
「10.旧中原街道とかむろ坂コース」の歩行距離は約3.6km(約4,500歩)、歩行時間は約1時間7分、消費カロリーは約303Kcalです。
スタート地点:不動前駅
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- ポイント1 氷川神社
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元禄年間(1688年〜1704年)に記録が残る旧桐ヶ谷村の鎮守です。水量はわずかですが「氷川の滝」と呼ばれる湧水が出ています。
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- ポイント2 旧中原街道供養塔群(戸越地蔵)
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江戸時代、旧戸越村内の中原街道沿いにあった3つの庚申塔と地蔵、供養塔、石造墓碑を集めたものです。
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- ポイント3 朝日地蔵尊
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寛文七年(1667年)に造立され、多くのご利益があるとされています。隣には目黒不動尊と碑文谷仁王尊への道標があります。
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- ポイント4 かむろ坂
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遊女・小紫の禿(かむろ=遊女見習いの幼女)が付近の池に身を投げたことから、この名がつきました。今は桜の名所として有名です。
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ゴール地点:不動前駅
こぼれ話
江戸時代、荏原・平塚地区には竹林が広がり、「たけのこ」の産地として知られていました。
スタート地点の不動前駅から歩き始めます。
- ポイント1 氷川神社
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不動前駅から南東に100mほど進んだ路地の先に氷川神社があります。氷川神社の創立年代は不詳ですが、江戸時代初期の元禄年間にはすでにあったことが記録に残っています。御主神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)です。明治四十一年九月十三日、村内に鎮座の誉田別尊(ほんだわけのみこと)・建御名方命(たけみなかたのみこと)・面足命(おもだるのみこと)・惶根命(かしこねのみこと)の四柱を合祀しました。例大祭は毎年9月13日に近い金・土・日に開催され、大神輿の渡御が行われます。
由緒
當氷川神社の御創立は徳川上期と云はれ新編武蔵風土起稿に依れば元禄年中より社地の年具免除の事が見え御祭神は素盞鳴命を祀り旧桐ヶ谷村の鎮守神にして明治四十一年九月十三日元村内に在りし八幡神社・諏訪神社・廣智神社を合祀し今日に至る。
御祭神 素盞嗚尊、誉田別尊、建御名方命、惶根命、面足命
氷川神社は、しながわ百景に選ばれています。
社殿は昭和十三年(1938年)に造営されたものです。
本殿下の崖には、かつて都内七暴布のひとつに数えられた水量を誇る「氷川の滝」がありました。昔は飲み水として利用され、夏ともなれば各地から涼を求めて人々が集まってきたそうです。現在は湧水量が減りましたが、今もかつての面影を残しています。
弾痕と思われる凹みが残る「鉄砲石」は、品川宿の料亭にあった観桜館に置かれていた石で、幕末の勤皇志士達が鉄砲の練習で標的にした石と伝わっています。
鉄砲石
幕末明治維新の志士等が品川宿御殿山の料亭観桜館の庭内で鉄砲の標的として使われたと言われる石で弾痕が残る一名鉄砲石と言う
氷川神社から「旧中原街道供養塔群(戸越地蔵)」に向かいます。途中でルートを間違えましたが、桐ヶ谷通りに出ます。通りに面してザンビア大使館があります。ザンビア共和国はアフリカ大陸の南部のほぼ中央に位置している内陸国で、コンゴ民主共和国・タンザニア・マラウイ・モザンビーク・ジンバブエ・ナミビア・アンゴラ・ボツワナの8カ国と隣接しています。人口は1、735万人(2018年当時)で、世界平和度指数ランキング(2018年)では163ケ国中で第48位と、アフリカで最も平和な国のひとつとして評価されています。
ザンビアと南隣のジンバブエとの国境に流れるザンベジ川には世界三大瀑布の一つと称されるヴィクトリアの滝があります。1855年にこの地を訪れた探検家にしてキリスト教宣教師であったデイヴィッド・リヴィングストンは「モーシ・オワ・トゥーニャ」の滝をヨーロッパ人として初めて発見し、当時のイギリスのヴィクトリア女王の名に因んで「ヴィクトリアの滝」と名付けました。アフリカを代表する動物のゾウ・カバ・キリン・シマウマ・ヌーも多く住み、大自然が残されています。大使館の壁に観光スポットが紹介されています。
旧中原街道に出ました。
旧中原街道
中原街道は、武蔵国と相模国を結ぶ街道として中世以前から続く古道です。中原街道と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入って徳川幕府が1604年に整備を行った以降のことです。江戸と平塚間を結ぶ東海道の裏街道として、農産物等の運搬に利用されました。現存の旧中原街道は、荏原一・二丁目に約950メートルに渡って、ほぼその道筋を残しています。
旧中原街道に入って直ぐの所に覆い屋があり、「旧中原街道供養塔群」が祀られています。
品川区指定有形民俗文化財
旧中原街道供養塔群(一)
本供養塔群は、かつては現在地の北方約10メートルの辻にあったが、昭和三十八年の区画整理の際、ここに移されてきた。四基の供養塔のうち中央の大きい石造地蔵菩薩は、総高1.9メートルに及ぶ。造立年代はわからないが、台石に刻まれている十七の村名や型態からみて江戸時代中期と考えられる。向かって右の地蔵菩薩は延享三年(1746年)寒念仏供養のためのもの、左手奥の馬頭観音は元文元年(1736年)造立であり、この頃戸越本村に馬持講があったことを示す。その前にある聖観音は石造墓碑で、貞享年間(1684年〜1687年)に建てられた。これらの供養塔は江戸中期から後期の庶民の信仰状況を示すものとして貴重である。
中央の大きい石造地蔵菩薩は頭が天井につく位の大きさです。
旧中原街道の右手奥に星薬科大学があります。正門の手前から続く銀杏並木と正面に見える本館の重厚な建物が印象的です。星薬科大学は薬学部のみの単科大学(薬科大学)で、1911年に創立されました。創設者は「東洋の製薬王」と呼ばれた実業家兼政治家の星一(SF作家星新一の実父)で、星の名前が校名となっています。本館は、チェコ出身のアントニン・レーモンドが設計し、1924年に完成しました。階段がなく、緩やかなスロープが階段の役割を担っているのが特徴です。
星薬科大学に隣接して、航空機装備品・航空機乗員用保安具・海難防止用具/保安具・宇宙科学観測用具の4事業を柱として展開する藤倉航装株式会社があります。藤倉航装は、国防と人命の安全確保・救難を目的とする人体用落下傘(パラシュート)を始め、各種救命装備品を作り続けてきた日本で唯一のメーカーです。昭和十四年(1939年)に創業し、製品が原因となる事故を一件も起こすことなく今日に至っています。
- ポイント2 旧中原街道供養塔群(戸越地蔵)
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旧中原街道が中原街道に合流する手前に「旧中原街道供養塔群(戸越地蔵)」があります。
品川区指定有形民俗文化財
旧中原街道供養塔群(二)
旧中原街道は江戸虎ノ門より相模国平塚に至る道路で、かつては東海道に並行した脇街道として旅行者や物資の輸送に利用された。本供養塔群は旧戸越村地内の旧中原街道に沿った所に六基存在する(した?)。寛文六年(1666年)・延宝元年(1673年)・宝暦四年(1754年)造立の庚申塔、古来子育地蔵と呼んで信仰される造立年代不明の大きな地蔵、風化甚だしく銘文不明の供養塔、髭題目が刻まれた寛文二年銘(1662年)の石造墓碑がある。これらの供養塔群は旧街道時代の状態がよく遺され、江戸期の街道の面影を伝えるものとして、また戸越村・桐ヶ谷村の民間信仰を今に伝える民俗資料としてその価値が高い。
六基の供養塔について、ふたつの案内板が壁に貼られています。以下、両者を併せて解説していきます。
有形民俗文化財(第二十号)
旧中原街道供養塔群(二) 六基
堂内に五基の供養塔と一基の石造墓碑がある。向って右から
(@からEまでは各項に転記しました)
かつて旧中原街道に沿った各所には、各種の供養塔が造立されたが、本供養塔群は旧中原街道供養塔群(一)とともに、その旧状をよく遺しているものとして価値が高い。
@石造地蔵菩薩→丸彫で像高1,47メートル、総高2.41メートルにおよぶ。造立年代は不明であるが、形式から見て江戸中期または後期と推察される。
@古来、子育地蔵と呼ばれ子育ての利益があるとされ、地域住民や通行者に信仰されてきた、江戸中期のもの。
A石造供養塔→笠塔婆型で総高1.6メートル、風化が甚だしく銘文の有無も不明。僅かに残る蓮葉と蓮華から江戸中期造立と思われる。
A風化が甚だしく銘文の有無不明。両側面に蓮華と蓮葉を彫ってあるのが僅かにうかがえる。
B石造庚申供養塔→高さ0.75メートル、長方形板型で宝暦四年(1756【1754?】年)の造立。正面に青面金剛立像を半肉彫している。
B宝暦四年(1754年)、正面に青面金剛立像を半肉彫している。
C石造庚申供養塔→総高0.87メートル、板碑型で延宝元年(1637【1673?】年)の造立である。
C延宝元年(1673年)、願文がなく正面中央部が空白となっているのは珍しい。
【左側】D石造庚申供養塔→総高1.57メートル、笠塔婆型で寛文六年(1666年)の造立。正面に長文の銘文を、下方に三猿を彫んでいる。
【右側】E石造墓碑→高さ0.43メートルで舟型長方形。戒名はないが欠損したものらしく、没年月と思われる記年銘と鬚題目が刻まれる。造立年代は大正三年である。
【左側】D寛文六年(1666年)、塔身の正面に長文の銘文を刻み、下方に三猿を陽刻している。
【右側】E寛文二年(1662年)、石造墓碑で日蓮宗系の墓碑と想定される
正面の大きい方の覆い屋の屋根を突き抜けて銀杏の木が聳えています。乳房のような垂れ枝がありますので、「乳房銀杏」または「子育て銀杏」と呼ばれ、秋には見事な銀杏の実をつけます。
明治時代の戸越地蔵尊の絵が残っています。原画は京陽小学校に飾ってあるそうです。
戸越地蔵尊
下の絵は現在の平塚橋交差点際に新築開校された当時京陽学校(現 京陽小学校)の写生絵です。中央に流れている川が品川用水路、かかっている橋が平塚橋、たもとに茶屋があり旧中原街道を往来する人々の休息場所として栄えた。絵の左下にある地蔵が戸越地蔵である。戸越の竹、平塚橋、地蔵と塔婆、校舎、茶屋等、当時の様子が偲ばれる。
(現在京陽小学校の校長室にタタミ1畳程の大きさで原画が飾られている)
旧中原街道供養塔群(戸越地蔵)から「朝日地蔵尊」に向かいます。平塚橋交差点の手前で右折して、武蔵小山商店街(パルム)に入ります。武蔵小山商店街は、昭和三十一年(1956年)にオープンした日本初の大型アーケード街です。完成時のアーケードは全長470mあり、「東洋一のアーケイド」といわれ、その後も延長拡大を行い、現在は武蔵小山駅から中原街道まで全長約800mの東京で最も長いアーケード商店街になっています。店舗数は約250で、飲食店や雑貨・服飾などバラエティ豊かなお店が立ち並び、雨の日でも傘をささずにショッピングが楽しめます。流氷祭り・納涼祭り・サンバカーニバルなど、年間を通じて様々なイベントを開催しています。商店街独自のクレジットカードやポイントカードを発行するなど、活気あふれる商店街です。都心部では珍しく、収容台数132台の大型駐車場も完備しています。
武蔵小山パルム
武蔵小山商店街は、昭和二十二年に組合が結成され、昭和六十年から「パルム」の愛称で呼ばれるようになりました。有名なアーケードの歴史は古く、昭和三十一年にはすでに第一アーケードが完成しています。完成当時は、「東洋一」とも言われ、各地から視察団が訪れました。全長800メートルにも及ぶアーケードは現在でも都内最長を誇り、多くの来客者により賑わっています。
武蔵小山商店街のマスコットキャラクターは、ビーバーのカップルの「パルくん」と「パムちゃん」です。1993年に誕生したものの、名前がつけられたのは2003年になってからでした。商店街のイベントの際に登場し、イベントの盛り上げに活躍しています。
商店街のお店も以前と比べて入れ替わりが見られます。東急ストアだった店舗には成城石井が入っています。魚屋さんも新規出店してますね。「築地 中島水産 中與商店」は2023年6月23日にオープンし、鮮魚や刺身・お寿司に加え、焼魚やお弁当・惣菜なども販売しています。豊洲市場から1時間以内で店に魚が届く配送体制を敷いていて、鮮度や品質に拘り、購入した鮮魚を捌くサービスや、本マグロの解体即売会などイベントの開催も行っています。当初は「魚河岸」と看板に書いてあったのですが、店内はかっての築地のように個別の魚屋さんが集まったような雰囲気があり、正に魚河岸のような感じです。
近年、武蔵小山駅前再開発により誕生したタワマンの手前で右折し、パルム商店街から武蔵小山一番通り商店街に出ます。突きあたりを右折した先に後地交差点があり、その角にスーパーのライフ武蔵小山店があります。
- ポイント3 朝日地蔵尊
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ライフの入口の手前に「朝日地蔵尊」が祀られています。朝日地蔵尊は、江戸時代初期の寛文七年(1667年)に戸越村の念仏講員16名によって造立されました。安産・厄除け・子育てなどにご利益があります。「朝日」の名称の由来は、九品仏の浄真寺を開山した珂碩(かせき)上人が仏道修業のために毎日夜明け前に浄真寺を出て芝の増上寺まで通っていた頃、ちょうどこの地蔵堂のあたりで朝日が昇っていたため、いつしか朝日地蔵と呼ぶようになったといわれています。地蔵堂の左手前に「朝日地蔵尊ノ由緒」と書かれた石碑が建っています。
朝日地蔵尊ノ由緒
當郷戸越ヲ守護ナシ給フ當朝日地蔵尊ハ、寛文七年玉川邑奥澤九品佛浄真寺開山大和尚珂碩上人ノ命名ナシ給ヘル地蔵尊ニシテ、初メ當郷内有志ニ?リ五方形水落ノ丘上ニ聳ユル大杉ノ古木ノ根元窟内ニ郷内?諸病除ノタメ奉安セシニ、正保年間當郷ノ一隅ニ下屋敷ヲ構ヘ居リタル播ьO日月ノ城主森伊豆守及ビ武蔵守等諸侯ノ崇敬ヲ受クルニ至リ、斯ノ時ニ當リテ遙カ奥澤ヨリ江戸山縁山増上寺ヘ往復ノ道スガラ?大願成就ノタメ朝霧ヲ破リテ毎朝奥澤邑??デ?當地蔵堂ニ着セシ頃ハ東天ヨリ差シ?ル旭日ヲ拝スルヲ常トナセリ。茲ニ於テ此の古木ノ麓ニ奉安ノ地蔵尊像ヲ拝スルヲ亦タ常トナシ給ヒ、遂ニ諸願成就一切ヲ哲シテ朝日地蔵ト命名ナシ給フニ至レリ。是實ニ三百有余年前ナリ。之ヨリ朝日地蔵尊ノ名遠近ニ響キ、數多古文献ニ登載セラルヽニ至リ?、尚霊偉ノ御加護照々トシテ普シ、依テ以テ茲ニ其の御縁起ヲ誌シ後世ニ傳フモノナリ。
昭和三十一年四月廿四日道路改修の為メ十字路西南側ヨリ移轉ス
地蔵堂の手前に古びた道標が建っています。区指定史跡の寛政元年銘石造道標は、江戸時代後期の寛政元年(1789年)に江戸市中の職人や商人が造立したものです。碑文谷道と目黒道の交差点に建てられ、「右目黒不動尊、左碑文谷仁王尊道」と刻まれていましたが、道路の拡張により反対側に移されたため、指す方向が逆になっています。この場所は「地蔵の辻」(現在の後地交差点)と呼ばれた交通の要所で、当時は目黒不動や碑文谷仁王への信仰が盛んであったことが窺えます。
品川区指定史跡
寛政元年銘石造道標
寛政元年(1789年)目黒道と碑文谷道との交叉点に建てられた高さ約1メートルの道標で、江戸時代多数の参詣人を集めた目黒不動尊と、碑文谷仁王尊への行先を示したものである。造立者は江戸の商人や職人たちで、願主は即應である。昭和三十一年道路改修のため僅かながら移動され、左右方向が反対になった。なお堂内左奥にある小さな道標は、明治三十四年に建てられた摩耶寺への案内である。
朝日地蔵堂の前に、その昔「すず団子」という名の茶屋がありました。この茶屋は、目黒不動尊(瀧泉寺)と碑文谷仁王尊(円融寺)への分かれ道の「地蔵の辻」と呼ばれる十字路近くにあったために、江戸時代には多くの参詣客が立ち寄り、賑わっていました。当時の茶屋の面影を残す資料として、店を営んでいた林家に「すずだんご」と書かれた徳利と盃が伝わっていて、店名の由来を伝えるしながわ昔話が残っています。
あるお殿様が鷹狩りに出たときのことです。殿様はお腹が空いていたので、地蔵の辻にある茶屋に立ち寄り、店先の縁台で団子を食べることにしました。この茶屋では、団子は串にささず、くず餅のようにお皿に盛っていました。美味しそうに団子を頬張った殿様がふと団子を見ると、団子に黒い「くもの巣」のようなすす(煤)がついているのに気が付きました。「こりゃなんじゃ?」。殿様の問いを聞いて周りにいた家来たちは真っ青になりました。「これはえらいことになったぞ」と困り果てて返事もできずにいたところ、殿様が気を利かせてこういいました。「これはすすではない。すず団子じゃ。これからは鈴団子(寿々団子)と命名せよ」。昔は火を使う時に家の中で藁などを燃やしていましたので、天井に煤がたくさん付着していました。その煤が団子に付いてしまったのです。こうして「すず団子」は茶屋の名物となり、店の屋号になるほど評判を呼んだということです。
朝日地蔵尊から、不動前緑道公園を横切って「かむろ坂」に向かいます。不動前緑道公園は、平成十八年(2006年)7月2日に東急目黒線の不動前駅と洗足駅間が地下化され、それによって生じた線路跡地に造られた長さ400mほどの公園です。道の両側には、桜やハナミズキなど季節を感じられる木々が植えられています。地域住民の方が管理するポケットガーデンがあり、そちらも美しい花々で緑道を散策する人たちの目を楽しませています。
- ポイント4 かむろ坂
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かむろ坂は、かむら坂通りのかむろ坂上交差点付近から山手通りのかむろ坂下交差点まで下る、長さが約460mほどの緩やかな下り坂です。
かむら坂通りの両側には桜並木が続いていて、春になると品川百景のひとつのお花見の名所となります。
歌舞伎でお馴染みの白井権八と相愛だった遊女小紫が使っていた禿(かむろ)が付近の池に身を投げたことが坂名の由来になっています。「かむろ」は漢字で「禿」と書きますが、これは「はげ」の意味ではなく、江戸時代の高級遊女(吉原などの高級売春婦)の召使いの少女達を指して呼んだ言葉です。「かむろ坂」は、歌舞伎の題目として有名な「浮世柄比翼稲妻」に登場します。江戸前期、同じ藩の侍を斬って浪人になった元鳥取藩士平井権八は、その後江戸で辻斬り強盗を働き、その罪で延宝七年(1679年)に鈴ケ森刑場において処刑され、目黒の冷法寺に葬られました。江戸で平井権八と恋仲となっていた吉原の三浦屋の遊女・小紫は、権八の処刑の報を聞いて店を抜け出し、冷法寺に向かい、墓前で悲しみのあまり自ら命を絶ちました。帰らない小紫を心配した三浦屋の下女で遊女小紫が使っていた禿が目黒へと向かい、小紫の死を知りました。その帰り道に此の付近で襲われそうになり、桐ケ谷二つ池に飛び込み自害しました。これを偲んでかむろ坂の名称が付いたといわれています。
禿坂
江戸時代の延宝七年(1679年)、辻斬り強盗を重ねていた元鳥取藩士平井(白井)権八が鈴ヶ森刑場で処刑され、権八なじみの遊女小紫はこれを悲しんで自害した。このとき、帰りの遅い小紫を探しにきたお付の禿が帰り道でならずものに襲われ、逃げ場を失い桐ヶ谷の二ツ池に身を投げたという。これをあわれんだ近くの人が、なきがらを池の傍らの丘に葬り、その後、この一帯の丘陵をかむろ山、これに通じるこの坂を禿坂と呼ぶようになったと伝えられている。
In 1679 (Edo Period) HIRAI (SHIRAI) Gonpachi, the ex-samurai warrior of Tottori Feudal Clan, was executed in Suzugamori for many street murders and robberies. Due to his death, HIRAI's intimate Yujo* Komurasaki killed herself with sorrow. At that time, Komurasaki's Kamuro* was looking for her but she got attacked by outlaws and
threw herself into Futatsuike Pond near Kirigaya at last. People who sympathized with Kamuro buried her body in the hill by the pond and nowadays, the hill is known as Kamuro-yama and the slope leading to the hill is known as Kamuro-zaka.
*1 Yujo......a prostitute
*2 Kamuro....a(n?) attendant
坂の途中に小さな「かむろ坂公園」があります。平成元年に開園した比較的新しい公園で、遊具もトイレも綺麗です。
歩道の脇に少女2人の銅像が建っています。「優姫」というタイトルが付いていますが、どう見ても小紫と禿には見えませんね。隣にかむろ坂の由来を記した案内板が立っています。
かむろ坂の由来
今から三百年ほど前、数々の悪事を重ねた鳥取の武士、平井権八郎直定(歌舞伎では白井権八)が鈴ヶ森で処刑され、目黒の冷心寺の僧に引き取られて葬られました。権八と相愛であった吉原の三浦屋のおいらん「小紫」は、それを知ると目黒へ急ぎ権八の墓前で自害しました。小紫の帰りを心配した三浦屋の主人は、小紫の可愛がっていた半玉(おいらんの下で働く少女は、おかっぱのような髪形をしていたところから「かむろ」とよばれていました)を迎えに出しました。「かむろ」は、冷心寺で小紫の死を知ることとなります。泣きながらの帰途桐ヶ谷近くにさしかかったとき、突然暴徒に襲われ逃げきれず、目の前にあった「二ツ池」に飛び込み死んでしまいました。この様子を見ていた村人は、「かむろ」を哀れに思い丘の中腹に葬り、「かむろ塚」と呼んでいましたが、その後、丘を「かむろ山」池を「かむろが池」と呼ぶようになったということです。都市化とともに付近の様子も変わり、残されたこの坂道が「かむろ坂」と呼び残されています。
ゴール地点の不動前駅に着きました。
ということで、品川区で十番目の「10.旧中原街道とかむろ坂コース」を歩き終えました。次は品川区で十一番目の「11.目黒不動と林試の森コース」を歩きます。
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