11.目黒不動と林試の森コース  

コース 踏破記  

今日は品川区の「11.目黒不動と林試の森コース」を歩きます。不動前緑道の美しい木々を愛で、瀧泉寺(目黒不動尊)で甘藷先生の業績を偲び、林試の森公園の深い森林に癒やされます。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年9月に改めて歩きました。なので、冬と夏の写真が入り交じっています。

11.目黒不動と林試の森コース

「11.目黒不動と林試の森コース」の歩行距離は約3.5km(約4,375歩)、歩行時間は約1時間3分、消費カロリーは約284Kcalです。

スタート地点:武蔵小山駅東口
ポイント1 不動前緑道
東急目黒線の地下化に伴い、その上部に作られました。道の両側には、季節感のある花と木が植えられています。
ポイント2 瀧泉寺(目黒不動尊)
大同三年(808年)に開創された関東最古の不動霊場です。湧水[独鈷の滝]は開創以来涸れずに流れる霊水と言われています。
ポイント3 林試の森公園
林野庁の林業試験場跡を整備し、平成元年(1989年)に開園した都立公園です。園内各所で国内外の珍しい樹木が見られます。

ゴール地点:武蔵小山駅西口

こぼれ話
林試の森公園には、都心部ではなかなか出会えないカワセミやオオタカの目撃情報があります。


スタート地点の武蔵小山駅東口から歩き始めます。



かっては武蔵小山駅東口の武蔵小山商店街の脇に雑多なお店が路地裏に密集していましたが、再開発によって見違えるように綺麗になりました。場末の酒場のイメージが強かった晩杯屋武蔵小山本店もおしゃれなモールに入居し、昼間っから飲んだくれるおじさんには敷居が高くなりました。



武蔵小山駅周辺では大規模な再開発事業が進行中ですが、「武蔵小山パルム駅前地区」と「武蔵小山駅前通り地区」の2つのエリアでは、既に再開発事業が完了しています。第1号プロジェクトとして、「武蔵小山パルム駅前地区」に「パークシティ武蔵小山ザ・タワー」が2020年に竣工し、続いて「武蔵小山駅前通り地区」に「シティタワー武蔵小山」が2021年に竣工しました。この2つの再開発事業により、現在の武蔵小山駅前には品川区の西の玄関口として相応しい景観が広がっています。



ポイント1 不動前緑道

武蔵小山駅から不動前駅手前まで延びる不動前緑道公園は、東急目黒線の不動前駅と洗足駅間が平成十八年(2006年)7月2日に地下化され、それによって生じた線路跡地に造られた長さ400mほどの公園です。



道の両側には、桜やハナミズキなど季節を感じられる木々が植えられています。地域住民の方が管理するポケットガーデンがあり、そちらも美しい花々で緑道を散策する人たちの目を楽しませています。



不動前緑道から「瀧泉寺(目黒不動尊)」に向かいます。不動前緑道の終端から大回りをして桐ヶ谷通りに出ます。左折した先に、前のコースで通った「かむろ坂上交差点」があります。交差点を横断して道なりに進んだ先に瀧泉寺があります。



瀧泉寺の門前に白井権八と遊女小紫を供養する小さな塚が建っています。白井権八は鳥取藩の武家の嫡男でしたが、父の同役本庄助太夫を殺害して国元を出奔し、江戸で渡り徒士奉公をしているうちに吉原三浦屋の太夫小紫に深く馴染み、金に詰って強盗殺人を重ねた結果、延宝七年(1679年)に鈴ヶ森で処刑されました。小紫も瀧泉寺の門前にあった東昌寺の権八の墓の前で後を追って自害したことから東昌寺に塚が建てられましたが、東昌寺が廃寺になって何度か移転し、昭和三十七年(1962年)に現在の地に落ち着きました。

権八・小紫の悲話伝える比翼塚

処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は「後追い心中」として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、二人の来世での幸せを祈りたてられたという。




ポイント2 瀧泉寺(目黒不動尊)

「瀧泉寺」は天台宗の寺院で、大同三年(808年)に慈覚大師円仁が15歳の時に下野国から比叡山に赴く途中、この地で不動明王の夢を見ました。そして夢にみた像を自ら刻み、それを安置したことに始まるといわれています。貞観四年(862年)に清和天皇から「泰叡」の勅額を賜わり、それから山号を「泰叡山」としました。不動明王像を本尊とすることから、古くより「目黒不動尊」・「目黒不動」・「お不動さん」などと通称されています。江戸三大不動のひとつで、目白不動・目赤不動・目青不動・目黄不動と共に江戸五色不動のひとつにもなっています。この地域の名称である「目黒」は目黒不動尊に由来するとの説があります。さつまいもの栽培を広めた青木昆陽の墓があることでも知られています。

瀧泉寺(目黒不動尊)

天台宗泰叡山瀧泉寺は、大同三年(808年)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。江戸時代には三代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。その他、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。




瀧泉寺は、昭和二十年5月の空襲で殆どの建物が焼失してしまいました。仁王門は三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和三十七年(1962年)に再建されたものです。仁王門の上には、「泰叡山」と書かれた額があります。江戸時代の楼門に掲げられていた「泰叡山」の額は後水尾天皇の筆によるものとされています。仁王門に安置されている仁王像は、目黒在住の彫刻家の後藤良が制作を依頼されました。後藤良は皇居外苑の楠正成の銅像の馬などを制作した後藤貞行の息子でしたが、昭和三十二年に原型が完成したところで突然に亡くなり、完成を見ることができませんでした。その後の作業を3人の高弟が引き継ぎ、仁王像は昭和三十五年に完成しました。仁王門の中には狛犬も鎮座しています。



仁王門を入りますと、右手に幾つかの堂が建っています。正面に阿弥陀堂、その隣に観音堂があります。阿弥陀堂では御朱印が受けられます。観音堂は江戸三十三観音霊場の三十三番札所です。ということは、ここが結願所ということになります。



左手の奥まったところには、精霊堂があります。精霊堂の堂内には、六地蔵の前にお地蔵さん、手前に奪衣婆と閻魔の地獄トリオが並んでいます。六地蔵の頭上の壁面に「西の河原地蔵菩薩和讃」が掲げてあることから、精霊堂は夭逝者と水子の霊を弔うお堂のようです。

西の河原地蔵菩薩和讃

帰命 頂礼 地蔵尊
物の哀れのその中に
西の河原の物がたり
身に心の耐えがたき
十より内の幼な子が
広き河原に集まりて
父を尋ねて立まわり
母をこがれて歎ぬる
余りの心の悲しさに
石を集めて塔を組む
一つ積んでは父を呼び
二つ積んでは母恋し
乳房を与え給えかし
一口飲まば歎くまじ
東に西に駆けまわり
声を張上げ悶えても
親と答うる声もなし
暫し泣き居る有様を
地蔵菩薩は御覧じて
今より後は我を皆
父とも母とも思べし
われもわれもと集りて
大悲の仏に縋る子を
抱え給うぞ有り難き




精霊堂の手前には、「春洞西川先生碑」と大書きされた高い立派な顕彰碑が立っています。西川春洞氏は、明治・大正時代にかけて活躍した書道の大家で、その門に学ぶ者は2000名といわれました。明治の漢字書道界で最も多くの門下を擁したのは日下部鳴鶴ですが、これに拮抗する唯一の大きな系列を形成したのが西川春洞です。今日の漢字書道界の基礎は殆どこの2人の系列を中心に作られたといっても過言ではありません。碑の裏側にはびっしりと字が刻まれていますが、これは明治時代の石工の第一人者であった井亀泉が彫ったものです。



地蔵堂の右手奥には「刷毛筆供養塔」が建っています。西川春洞の顕彰碑と関係がありそうです。



精霊堂の左手に地蔵堂が建っています。地蔵堂の手前には「後生車」があります。左面には「遊化(ゆけ)六道/抜苦与楽」と刻されています。お地蔵様は、毎朝人間界に現れて、人々を苦しみから救い、楽にしてくれるという意味だそうです。(写真には写っていませんが)地蔵堂前に橋らしき石造物があります。下は暗渠になっていて、独鈷の滝から流れ出た水が通っているようです。



男坂の左手に「独鈷の瀧」があります。「独鈷(とっこ)」とは、古代インドの武器に由来する密教の仏具の一種のことです。滝の入口には、平成八年に建立された「水かけ不動明王」が立っています。この不動明王に水をかけると、不動明王が身代わりになって参詣者を清めるとされています。

當山の開基は天台座主第三祖慈覚大師圓仁で、一千二百有余年前の大同三年(808年)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。天安二年、大師が法具「獨鈷」を投じて堂宇造営の敷地を卜されたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は「獨鈷の瀧」と称されました。大師はお堂の棟札に「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号され、「泰睿」の勅願を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏瀧しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。「獨鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬公の當病平癒を祈願されました。

 目黒不動尊御詠歌

 清らけき 目黒の杜の獨鈷瀧 災厄難を除ける不動尊

ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で目黒のお不動さまに参詣できることとなりました。合掌礼拝して「獨鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。




池を取り囲む石垣には2体の龍の口があり、水が吐き出されています。伝承では、円仁が寺地を定めようとして独鈷を投げたところ、その落下した地から霊泉が涌き出し、今日まで枯れることはなかったといわれています(ただし、天保年間に1年ほど枯れたことがあったと伝わっています)。別の説では、円仁が唐からの帰り、故郷下野に戻る途中で目黒に立ち寄った時、独鈷で地を掘ったところ水が湧き出て滝になったとされています。目黒不動の正式な寺名は瀧泉寺ですが、この瀧に因んで寺号が瀧泉寺と命名されたといいます。清水が2つの銅製の竜口から注いでいますが、この独鈷の瀧は旱魃でも涸れないといわれ、信者が祈願成就のため瀧にうたれて垢離をとる水垢離場でしたが、目黒区史によれば、納涼のために瀧にうたれる人も少なくなく、この瀧水で子供のさかやきを剃ると、明王の効験で子供が動かないでおとなしく剃らせるといわれたそうです。西郷隆盛は島津斉彬の病気平癒を祈願し、二宮尊徳は報徳仕法の成功を祈願し、東郷元師は日本海海戦の勝利を祈願したと伝わっています。

独鈷(とっこ)の滝

このお滝は今を去る千二百年程前、当山をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を独鈷の滝と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。今日都内では大変珍しい名所である。




垢離堂(こりどう)は、独鈷の滝の左に隣接して建っている小堂です。堂内には青龍大権現が祀られています。 密教では、如意輪観音の化身とされる神だそうです。



垢離堂の更に左手には、宝形造朱塗りの前不動堂が建っています。江戸時代中期の建築で、東京都の有形文化財に指定されています。前不動堂の本尊は不動明王像です。江戸時代には将軍や大名の参詣があると庶民は本堂に近づけませんでした。そのため、庶民の便宜を図って本堂の代わりの参拝の場としたのでしょう。

東京都指定有形文化財(建造物)
滝泉寺前不動堂

泰叡山滝泉寺は、通称「目黒不動尊」と呼ばれており、大同三年(808年)、慈覚大師円仁の創建と伝えられる天台宗の寺院です。境内にある前不動堂は、江戸時代中期の建築になり、「江戸名所図会」にも、現在地付近に「前不動」として図示されています。前不動堂は、滝泉寺本堂手前の男階段左下にある、独鈷の滝の左崖下に建立され、堂内には木造不動明王三尊立像等を安置してあります。江戸時代中期の仏堂建築として、比較的良く往時の姿を保っています。建造物と併せて、扁額「前不動」も附として指定されています。この扁額には「佐玄龍書」の署名があり、堂建立当時のものと推測されています。筆者の佐々木玄龍は、通称万二郎、池庵をしていました。慶安三年(1650年)、江戸に生まれ、書風一家をなし、享保七年(1772年)に亡くなり、墓標は青山霊園にあります。

Tangible Cultural Property (Building)
Ryusen-ji-Maefudo-do
In the middle of Edo period

3-bays wide, 2-bays deep, Pyramidal roof, 1-bay wide step canopy, Light weight tile roofing (a pantile that combines broad concave tiles and semi-cylindrical convex tiles), Lacquered in red, 3.96 m wide (distance between pillar centres), 4.88 m deep (distance between pillar centres)

Taieizan Ryusen-ji Temple, so-called Meguro Fudoson is the Tendai sect of Buddhism, founded by Jikakudaishi Ennnin in 808. Maefudo-do of the temple was built during the middle of Edo period. As it was drawn in Edo Meisyo Zue (illustrated guide of famous Edo sites), Maefudo-do is located below the cliff, left of Dokko waterfall which is bottom left of the Otoko-kaidan (Male Stairs) leading to the Main hall of Ryusen-ji. There is placed some wooden statues, such as Fudomyoo, in it. The Calligraphy of Maefudo-do, engraved with a wood board is preserved hanging on the front wall. It was signed "Sagenryu-sho", that was Sasaki Genryu (1650-1772), who was a famous calligrapher in the time.




狛犬がうなだれています。



前不動堂の手前に、明治四十四年10月に建立された高さ7mの巨大な「甘藷先生祈念碑」と、小さめの「甘藷講」の石碑が建っています。元々は別々の場所にありましたが、平成九年(1997年)に現在の地にまとめられました。入口には鍵がかかっていて中には入れません。建て主は何れも東京の甘藷商人で、江戸から明治時代にかけ、安い食べ物ながら、莫大な販売量で利益を上げた「芋や」が金を出し合い、建碑したものです。「甘藷先生祈念碑」は建立時に大きなニュースになりました。その理由は、碑文ではなく、碑材の大きさにありました。宮城県から鉄道で大崎駅に運ばれてきたのですが、あまりの大きさ故に陸上輸送は困難を極め、遂には破損して碑面が4分の3になったのです。碑文は漢文ですが、その中に「種子は之を伊豆七島、八丈島、佐渡島、及び諸州に頒つ。我邦、蕃薯を殖すこと、実に此に始まる。時に享保廿年なり」とあります。何故、種芋を離島や辺地に送ったのかといいますと、「官宥の罪囚人にして海島にはなつ者は天寿を保たしむるに在り。而して島中穀乏しく往々餓死す。若し蕃薯を植うれば、即ち以て之を救う可しと」という背景があるのです。小さい碑には、中央に「甘藷講」と大書きしてあり、右側面に「予輩亦甘藷ノ売買ヲ業トシ其澤(めぐみ)ニ浴ス」とその恩恵を記しています。



前不動堂の左手に勢至堂が建っています。勢至堂は、宝形造の小堂で、正面が前不動堂と似ていることから同時期に建てられたのではないかと思われます。元は前不動堂の手前に建っていましたが、昭和四十四年に現在の地に移築されました。目黒区の有形文化財に指定されています。

瀧泉寺勢至堂

瀧泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の瀧泉寺の面影を残しています。向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和四十四年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、瀧泉寺境内の優れた景観を形成しています。




勢至堂の左手手前には、作曲家の本居長世の顕彰碑が建っています。

童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き、第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財です。本居長世は音楽学校で中山晋平・弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送りました。ことに大正九年、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられました。本居はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜、この寺の境内を散歩しながら想を練ったことでしょう。今ここに氏の曲の碑を建てて、氏の功績を記念したいと思います。



境内の西の端に、腰立不動堂が建っています。腰立不動は「立身出世のお不動様」といわれ、堂の上部に「腰立不動由来」が掲げてあります。

山不動

腰立不動由来

妙なる力に
おこされて
二度世に立
不動尊
かめの祝の
末広く
朝日ののぼる
みごとさで
東都のつどい
善男女
すくいとらすぞ
妙なる力




六地蔵は、南面を背にして北を向いて立っておられます。仏様は南向きで、拝む信者が北向きに座すのが普通ですが、お地蔵様は仏の身ながら、人々の救済のために菩薩のままでいらっしゃいますので、人々と同じ立ち位置、即ち北向きに座しているというのが一般的な北向き地蔵です。しかし、瀧泉寺の場合は少し意味が違うようです。

北向六地蔵尊

地蔵菩薩の浄土「伽羅陀山」は南方にあり、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し、吾々のいる北に向かって救いに来て下さるので、北を向いています。




瀧泉寺は、山手七福神のうち恵比寿神をお祀りしています。

如意大黒天

大黒天 如意宝珠
だいこくさまは
よのひとを
たすけなされた
かみさまよ
ほんぢはだいにち
ふどうそん
だいこくてんの
にょいほうし
ふくどくまるく
じざいにみだす




瀧泉寺の本堂に上がるには、男坂か女坂のどちらかを選びます。男坂は傾斜が急なのに対し、女坂は角度も緩やかで踊り場もあるのが特徴です。神社や寺はかつて修行の場でもありました。男坂は僧侶の修行の場とされた坂道です。しかし、後に一般の参拝客が訪れるようになると女性でも上れるなだらかな坂道をつくる神社や寺が増加しました。そして、いつしか傾斜の違うふたつの坂を「男坂」・「女坂」と呼ぶようになりました。



男坂と女坂の坂下の間に、枝振りの良い一本の松の木が植わっています。



将軍家光の愛鷹が行方不明となり、松の枝に戻ってきたのが「鷹居(たかすえ)の松」です。現在の鷹居の松は、何代か後のものです。

鷹居の松跡

江戸幕府三代将軍徳川家光が寛永(1624年〜1644年)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹が行方不明になりました。家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に飛び戻ってきました。このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。これ以後、家光は不動尊を深く信仰するようになり、火災によって焼失していた目黒不動尊の堂塔を次々と再建させ、寛永十一年(1634年)には諸堂末寺等を併せて50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。幕府の保護を受けて以来、歴代将軍が目黒不動尊へ参詣するようになると江戸庶民にも不動信仰が広がり、目黒不動尊は江戸近郊の有名な行楽地の一つとなり大変にぎわいました。尚、現在の松は「鷹居の松」の話から何代か後のものになります。




先ずは男坂を上ります。目黒不動男坂は長さが約20mほどの急な47段の石段で、転げないように真中に鉄の欄干が通っています。右隣にある女坂より急峻な階段であることから男坂の坂名で呼ばれています。石段下にある「男坂」と記された石碑には、「経に つつまれ 不動心」と書かれています。



瀧泉寺の本堂は男坂の坂上から更に階段を上がった先にあります。本尊の目黒不動明王(秘佛)は、十二年に一度の酉年に御開帳されます。



本堂の右手の広場の一番奥に、小高い盛り土に何体かの石像が配置されています。中央に不動明王が立ち、その回りを、不動明王を助け、礼拝する人を影の如く離れず守り、衆生を救済する南無八大童子が囲んでいます。



甘藷先生の言葉を記した案内板とサツマイモ畑があります。

甘藷先生 青木昆陽の言葉

享保二十年 甘藷を種う
甘藷流傳して
天下をして餓うる人無からしむる
是れ予が願なり




本堂の左手の広場に、愛染明王の像が建っています。「当たるも八卦」の言葉通り、台座は八角形の八卦文様になっています。愛染明王は縁結びのご利益があるとのことで、絵馬を両手に挟み身体の前で合掌しながら、男性は右側から反時計回りに、女性は左側から時計回りに愛染明王像の周りを一周すると良縁成就に恵まれるとのことです。



銅造大日如来坐像は本堂の裏にあり、蓮華座に結跏趺座しています。高さは385センチメートル・坐高は281.5センチメートル・頭の長さは121センチメートルです。宝髪・頭部・体躯・両腕・膝など十数個の部分に分けて鋳造して組み合わせた吹き寄せという技法で制作されています。体躯に比べて頭部を大きく造るのは大仏像に共通し、この像もそれにならっています。天和三年(1683年)に鋳物師の横山半右衛門尉正重により造られたこと、開眼に関係した僧侶や寄進者と思われる人々の名前などが台座部分に刻銘されています。江戸時代には堂舎に納められ、その後は長らく露座していましたが、現在は覆屋根が設けられています。

銅造大日如来坐像

蓮華座に結跏趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られています。総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躯にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躯も衣文表現もよく整っています。現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の「目黒不動堂」の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴名が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名が見えることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和三年(1683年)と、制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。




行きは男坂を上がりましたので、帰りは女坂から下ります。階段の踊り場に力石が奉納されています。ちなみに、「五拾六貫」は210kgになります。現在の男子105kg超級の重量挙げクリーン&ジャーク種目の世界記録は265kgですから、今の世でもオリンピック代表になるチャンスはあるでしょう。この場所に石を置いた人も相当の力持ちだったのでしょうけど。



女坂の途中に小さな洞があり、そこに「銅造役の行者倚像」が置かれています。

銅造役の行者倚像(区指定文化財)

役の行者(役小角【えんのおづの】ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖として崇拝されている人物です。この像は寛政八年(1796年)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cmです。やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもとても巧みで江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品の一つです。表面は黒光りしており、これは鋳工の間でカラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、左手には巻子を持っています。また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や、神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかります。




「江戸最初山手七福神」は、龍泉寺の参詣道筋(白金台の清正公〜目黒の龍泉寺)に設置された江戸最初の七福神巡りです。目黒不動への江戸市中からの参詣は、多く詠まれた川柳から、七福神ルートの他、品川宿に寄るルートもあったことが窺えます。龍泉寺は、かつては大黒堂に大黒天と恵比寿神を祀っていて、恵比寿神も龍泉寺だったようです。「江戸名所図会」には、本堂の前の鐘楼脇に大黒堂が見えます。現在の三福堂は当時の弁天社の場所にあります。



恵比寿様は堂前の縁側におわします。



瀧泉寺(目黒不動尊)から「林試の森公園」に向かいます。林試の森公園東門の前に緩やかな坂が上がっています。石古坂は長さが約210mほどの緩やかな坂です。別名を「石河坂」といいます。坂名の由来には諸説ありますが、一般的には石ころが多い坂だったので「石ころ」が転じて「石古坂」と呼ばれるようになったという説が有力です。他には、近くに「石河(いしこ)」という屋敷があったという説、飲料に適した清流を「石川(河)」と呼び、付近を流れる羅漢寺川がそうした清流だったという説があります。

石古坂

その昔石ころが多い坂だったので、石古坂と呼ぶようになったといわれる。他に、古地図に記された「石河坂」が転じた説などがある。




ポイント3 林試の森公園

林試の森公園は、目黒区と品川区にまたがる東西に700m・南北に250mの広大な都立公園です。西ケ原(現在の北区)にあった農商務省林野整理局樹木試験所(明治十一年【1878年】に設立)から、目黒川支流の羅漢寺川谷戸南側の北斜面の現在の地に植樹を移し、明治三十三年(1900年)6月に「目黒試験苗圃」が設置されました。当時の広さは約45、000坪でした。明治三十八年(1905年)に林野庁「林業試験所」、明治四十三年(1910年)に「林業試験場」と改称されました。また、林業試験場の周辺には明治から大正にかけて多くの研究所が置かれ、戦後にかけても北里研究所目黒支所・津村研究所・石炭綜合研究所・国立予防衛生研究所など、18もの研究所が置かれていました。林業試験場は昭和五十三年(1978年)につくば市に移転し(現在の独立行政法人・森林総合研究所)、跡地は都に払い下げられて公園として整備され、平成元年(1989年)6月1日に「都立林試の森公園」として開園しました。開園時の面積は12ヘクタール(約36、000坪)でした。今でも林業試験場当時の樹木がそのまま残されていて、都内でも屈指のケヤキ・クスノキ・プラタナス・ポプラ・スズカケノキなどの巨木があります。その他、カイノキ・トチュウ・シナユリノキ・チンタオトゲナシニセアカシア・ベニカエデ・ヒマラヤゴヨウ・レバノンスギまどの外国産樹木やアベマキ・ハナガガシ・ニオイドロ・シマサルスベリ・ヨコグラノキ・ナナミノキなどの珍しい木もあり、それぞれに解説のプレートが付けられています。園内で最も太い木は幹周が3.82mのケヤキで、最も高い木は高さ35.5mのポプラの木です。園内中央を南北に小さい谷地形が走っていますが、これはかつて小山台を流れていた品川用水(玉川上水の分水)を羅漢寺川に通水していた名残であり、当時を偲ばせる水車が復元されています。大木の揃った森の他、芝生広場やデイキャンプ施設、夏期に子供が入れるじゃぶじゃぶ池、西側には野球やサッカーの練習にも使用できるグラウンドも整備されています。春と秋開催の「林試の森フェスタ」ではコンサートやフリーマーケットなどが行われ、2万人以上が来場します。この他にも野外体験教室・樹木観察会・音楽会など年間を通じて数多くのイベントが実施されています。



園内は都心とは思えないほど大木に覆われ、まるで森の中を歩いているような気分になります。遊具が設置されているところもあります。



園内に、「林業研究発祥の地」碑とその説明用の副碑が並んで建っています。

林業研究発祥の地

顧みれば 明治十一年 東京府下西ヶ原で開始された樹木試験場の事業をうけて 明治三十三年 この地に農商務省目黒試験苗圃が設定され 明治三十八年(1905年)十一月一日 山林局林業試験所が発祥した

 以来 昭和五十三年三月 農林省林野庁林業試験場として筑波研究学園都市へ移転するまで日本の森林 林業 林産業の研究の中心として輝かしい業績をあげてきた

 この間 数多くの国内外の研究者が 学術交流 研鑽のために この地を訪れ「林業試験場」の名は世界に広く知れわたった

 林業試験場は 現在筑波の地において森林総合研究所として発展を続けている

 この度 跡地に「林試の森公園」が建設されるにあたり 林業試験場の栄光をたたえ 関係者多数のご賛同を得て 記念碑を建立する




公園の中央部にはせせらぎがあり、その上に橋が架かっています。このせせらぎは、かつて小山台を流れていた品川用水(玉川上水の分水)を羅漢寺川に通水していた名残です。



出合いの広場の先に、林試の森公園管理所があります。公園管理所の入口横には、森林の役割について解説したパネルが貼られています。

温室効果ガスを吸収する森の役割

現在の地球は過去1400年でもっとも暖かくなっており、異常高温(熱波)、大雨、干ばつの増加など様々な気候変動を伴うため、大きな問題となっています(地球温暖化問題)。将来、地球の気温はさらに上昇すると予想され、自然・社会・経済などに深刻な影響が生じると考えられています。

地球温暖化の原因
18世紀半ばの産業革命の開始以降、化石燃料の使用や森林の減少などにより、大気中に含まれる二酸化炭素などの温室効果ガスの濃度が急激に増加しました。このために温室効果が強まったことが地球温暖化の主な原因と考えられています。

温室効果
地球の大気に含まれる二酸化炭素などの温室効果ガスには、赤外線を吸収して再び放出する性質があります。温室効果ガスのはたらきにより、太陽光に暖められた地球の表面から地球の外へ向かう赤外線の多くが熱として大気に蓄積され、再び地球の表面に戻ってきます。これを温室効果といい、大気中の温室効果ガスが増えると温室効果が強まり、地球の表面の気温が高くなります。

カーボンニュートラルをめざして
政府は2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする「カーボンニュートラル」をめざすことを宣言しています。カーボンニュートラルとは、温室効果ガスの人為的な排出量と森林などによる吸収量が均衡している状態で、排出量から吸収量を差し引くと、排出量が実質的にゼロになることを意味しています。カーボンニュートラルを達成するためには、排出量の削減とあわせて、森林などの吸収作用の保全と強化が求められます。

森の木々は温室効果ガスを吸収・貯蔵します
カーボンニュートラルの実現に向けて、大気中の主要な温室効果ガスである二酸化炭素を吸収・貯蔵する森林の役割が注目されています。樹木は光合成によって二酸化炭素から有機物(炭素を含む化合物)を作り成長するため、森の木々を守り育てることは、カーボンニュートラルに向けた有効な対策のひとつといえます。年を重ね大きくなった林試の森公園の木々をみれば、二酸化炭素の貯蔵庫としての役割が実感できるでしょう。樹木は若い木ほどより多くの二酸化炭素を吸収することがわかっています。樹木は成熟するにつれて二酸化炭素の吸収量に対する呼吸量(排出量)が多くなっていくためです。大きく育ち成熟した木を伐って建材などに使うとともに、新しい苗木を植えて育てることは、温室効果ガスの吸収効果を高める取組といえます。

森の土にも温室効果ガスを貯蔵する役割があります
地表付近の炭素分布を地球全体でみてみると、土壌中に有機物として蓄積されている炭素の量は、陸上植物や大気中の2倍ほどに達するといわれています。土壌中の有機物は、落ち葉、枯れ枝、倒木などが地表に積み重なることで供給され、樹木などの根が枯死することで地中にも供給されます。地中にすむ様々な生き物によって、土壌中の有機物は長い時間をかけて分解され、最後には二酸化炭素と水に戻ります。有機物の供給量にくらべて分解される量が少ないため、土壌中に有機物の蓄積が生じます。有機物が分解される速さは植物によって異なります。一般に、草の葉より樹木の落ち葉の方が分解されにくく、樹木の落ち葉より枝や幹などの方が分解されにくい傾向があります。

古くから自然と文化が豊かな立地

林業試験場が開設されたころ、ここは目黒不動の門前町の先に広がる田園地帯であり、草深い林にキツネやノウサギがすみつく自然豊かな場所でした。都心方面から林業試験場へ行くときには、目黒駅から行人坂を下って目黒川の太鼓橋を渡り、目黒不動の門前町に沿って進み、林業試験場の正門(今の東門)に至りました。

林試の森公園の名前の由来は「林業試験場」

1900年、当時の農商務省林野整理局は、北区西ヶ原にあった「樹木試験場」をこの地に移転し「目黒試験苗圃」を開設しました。1905年に「林業試験所」、1910年には林試の森公園の名前の由来となる「林業試験場」に改称されました。




公園管理所の横手に孔子縁の木が聳えています。

カイノキ(ランシンボク)
楷木(爛心木) ウルシ科
Pistacia chinensis

中国、台湾、フィリピン原産の紅葉がとても美しい木です。中国山東省曲阜にある孔子廟に植えられている木として有名です。老木になると幹が腐って空洞ができることが多いので、芯が腐爛する木という意味でランシンボクともいわれています。日本では林試の森公園の前身である林業試験場の白澤保美博士が、大正四年に中国の孔子廟から初めて種子を持ち帰り、この試験場で苗を育てました。その苗木は、孔子にゆかりのある場所にそれぞれ寄贈されました。東京の湯島聖堂、岡山県の閑谷学校、栃木県の足利学校には、今なお林試の森公園に由来するカイノキが生育しています。




公園には、デイキャンプの設備もあります。



南門から公園を退出します。



都立小山台高等学校の脇道を通って武蔵小山駅西口に向かいます。西口に向い合っているのは裏門です。都立小山台高等学校は、大正十一年(1922年)に東京府立第八中学校として創立されました。当時は東急目蒲線(現在の東急目黒線)が開設目前であり、東京府が今後この地域が住宅地域の中心となることを予想して開校したのではないかといわれています。当初の目蒲線の予定路線は現在より北側となっていたらしく、それに合わせて正門を北側に設けたところ、実際には南側を通ることとなり、当時の小山駅(現在の武蔵小山駅)からは裏門が近いという結果となりました。昭和二十五年(1950年)に現在の校名に改称されました。1950年〜1960年代は、毎年東京工業大学の合格者数が全国1位になるなど、理工系に強い高校として知られていました。また、東京大学合格者数も全国上位10校に入る年もありました。著名な卒業生には、菅直人元首相・御手洗富士夫元日本経団連会長・河上和雄元東京地検特捜部長・筑紫哲也キャスター・山田洋次映画監督などがいます。



ゴール地点の武蔵小山駅に着きました。



ということで、品川区で十一番目の「11.目黒不動と林試の森コース」を歩き終えました。次は品川区で十二番目の「12.さいかち坂と立会道路コース」を歩きます。




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