- 14.ぐるっと西大井コース
- コース 踏破記
- 今日は品川区の「14.ぐるっと西大井コース」を歩きます。西大井駅から徳富蘇峰の邸宅跡を辿り、初詣でも訪れた養玉院と上神明天祖神社に詣でます。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年10月に改めて歩きました。なので、冬と秋の写真が入り交じっています。
14.ぐるっと西大井コース
「14.ぐるっと西大井コース」の歩行距離は約3.7km(約4,625歩)、歩行時間は約1時間7分、消費カロリーは約303Kcalです。
スタート地点:西大井駅
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- ポイント1 蘇峰公園
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「国民之友」などを刊行した徳富蘇峰の邸宅跡の公園です。園内全体は日本庭園で、蘇峰の足跡を記す記念館があります。
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- ポイント2 養玉院
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お堂には大きな五智如来像があります。境内には金剛力士(仁王像)、龍神観音、座聖観音、布袋尊像が安置されています。
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- ポイント3 上神明天祖神社
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白蛇に縁起のある神社で、防災招福総鎮護として知られています。境内の弁財天には小さな池があります。
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ゴール地点:西大井駅
こぼれ話
初代総理大臣・伊藤博文の墓所は、普段は非公開ですが、文化の日の前後に公開されることがあります。
スタート地点の西大井駅から歩き始めます。
西大井駅から滝王子通りを東方向に進み、西大井二丁目交差点で右折して西大井本通りを南下します。
品川区と大田区の区界に「志高荘」という看板が見えます。志高荘は、大同燐寸製造・満洲重工業開発・日本コロンビア蓄音器・日産などの重役を歴任した三保幹太郎氏が昭和十六年(1941年)に建てた和風2階建ての私邸として誕生しました。その後、昭和二十八年(1953年)に東芝に譲渡され、東芝が政財界要人を接待する目的で所有した東芝迎賓館「東芝会館」となり、平成三十年(2018年)にニトリグループが所有する迎賓館の「志高荘」になりました。約六千平方メートルの広大な庭園内には、大森八景園旧在と伝わる茶室「雪庵」もあり、庭園の池には色とりどりの鯉が優雅に泳いでいます。
- ポイント1 蘇峰公園
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志高荘のすぐ先に、蘇峰公園があります。ここはもう大田区になります。蘇峰公園は、徳富蘇峰の居宅跡(山王草堂)を公園にしたものです。入口には高くそびえる2本のイチョウの木があり、公園の目印になっています。
入口の脇には、「馬込文士村散策のみち」と題された巨大な案内板があります。馬込文士村は、大正後期から昭和初期にかけて、当時の馬込村を中心に多くの文士が暮らしていた地域の呼称です。関東大震災後に移り住んでくる文化人が増え、最盛期には100人にも達しました。
馬込文士村散策のみち
馬込は昔から九十九谷と呼ばれ、丘と谷が複雑に入り組む起伏に富んだ地です。周囲は大根畑と雑木林、都会からも離れたこの九十九谷に尾崎士郎・宇野千代夫婦がやって来たのは大正十二年のこと。面倒見がよく親分肌の士郎の誘いに関東大震災直後の住宅難も手伝って、多くの文士が誘いにのり、以前から住んでいた画家や作家も加わって、馬込はにわかに騒がしくなってきました。これがのちに「馬込文士村」といわれるもとになりました。互いの家を行き交い、酒を酌み交わしては文学談義に花を咲かせ、麻雀やダンスに興じてはハメを外し、果ては離婚騒動までもち上がった文士村。文学的に転換期を迎え、時代の間で漫然とした不安にかられながら、次代の文学を模索する彼らの人間味あふれる生き生きした姿がそこにはありました。今では残っている旧宅もわずかですが、文士たちが通っていた九十九谷の坂を歩きながら当時の面影にひたってみてはいかがでしょうか。
略年表
大正十年〜大正十五年(文士村時代)
●馬込一帯のほとんどは田や畑。文士たちに先立って多くの画家や芸術家が居住していた。
●山王の望翠楼ホテルで芸術家たちの集まり「大森丘の会」が開かれていた。(明治四十三年〜大正十五年)
●本郷や田端周辺に集まっていた文士たちが、馬込へ移り始める。
●関東大震災が起こる。郊外にある馬込や山王への移住者が増えてくる。
●文士たちの交流が盛んになり、尾崎・宇野家には馬込放送局なる呼び名がつく。
●広津和郎らを中心に麻雀が大流行。
昭和元年〜昭和五年(文士村時代)
●「日本文学全集」の刊行をきっかけに、円本(1冊1円の全集物)時代始まる。
●大衆文学が盛んになる。
●衣巻家でダンスパーティーが開かれ、萩原朔太郎一家などがこれに加わり、恒例となる。
●文士村のモガの間で断髪が流行。
●静養、執筆のため、馬込文士たちの伊豆湯ヶ島への往来が多くなる。
●馬込以外の文士との交流も広がる。
●馬込に町制がひかれ、宅地化が進む。
●文士たちの間で浮気や離婚が相次いだり、住人の引っ越しや入れ替わりが頻繁になる。
昭和六年〜昭和十年(空想部落時代)
●大森相撲協会発足、「相撲大会」開かれる。
●文士村の退廃的な雰囲気が影をひそめ、文士たちも腰を据えて執筆に取り組むようになる。
●文士たちの作品が次々と認められる。
入口右手の植え込みの中に「二十三夜塔」が建っています。二十三夜塔は、旧暦二十三日の月待行事の記念として、二十三夜講中によって造立された塔です。月待行事とは、十五夜・十六夜・十九夜・二十二夜・二十三夜などの特定の月齢の夜に「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にした後、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられます。
廿三夜(にじゅうさんや)碑
この石碑は陰暦八月二十三日の夜、月待ちをすれば、願いごとがかなえられるという二十三夜待ち信仰に由来するものです。上部には信仰のシンボルとして日輪と月輪が彫られているのも特徴です。裏面には、明治十七年(1884年)八月二十三日と世話人八名の氏名が刻まれています。
公園は入口が狭く、奥は広くなった台形のような形状をしていて、谷底に位置する入口から階段を上がって園内に入っていく感じです。
庭園は植え込み・梅林・流れと池などで構成され、落ち着いた雰囲気があります。園内にはイチョウ・マツ・クヌギ・ウメ・カタルパ・アジサイなどの樹木や花が見られます。
公園の中央には小さな「もみじ池」があり、水源の井戸から流れ出た水が池を経由して小さなせせらぎになっています。
池の畔に石碑が建っています。この石碑は台座に当る部分で、その上に置かれていた銅像は戦時中の金属類回収令より、国に供出されたのだそうです。
園内の石造物
ここに見られる台座には左の写真にみられるようにかつて「徳富蘇峰」の胸像がありましたが、戦時中に供出してしまったために今は台座だけが残っています。この他にも園内には、五輪塔・道標などの各種石造物がありますが、これらの大部分は、蘇峰の二男徳富萬熊氏が収集したものといわれています。
公園の南東部にある入口から園内に上る階段には、「カタルパの小径」という名前が付いています。
カタルパの樹(日本名:アメリカキササゲ)は、同志社の創設者である新島襄がアメリカから持ち帰ったもので、徳富蘇峰にその苗が譲られ、大江義塾(熊本市)に植えられました。大江義塾で蘇峰と平田一十は師弟関係にありましたが、のちに一十が地元の黒松に合志義塾を開いたことを聞きつけ、蘇峰はその苗を合志義塾にも譲り渡しました。カタルパの樹は「文教の地・合志」の象徴として、合志義塾より株分けされた苗が合志市内の全小中学校にも植樹されました。毎年5月になると白い花を咲かせます。このカタルパの樹は、「カタルパの小径」が開通した記念に植えられたものです。ちなみに、園内の山王草堂記念館の入口脇にもカタルパの樹が聳えていますが、そちらは新島襄から徳富蘇峰に贈られた樹の三代目に当るそうです。
公園の北東部にある入口の脇に小高い盛土があります。徳富蘇峰が邸宅を建てる際にこの塚も取り込んだのでしょう。個人宅に歴史的な塚があるのは珍しいですね。
古塚
塚は、地面を60cm掘り込み、高さ2.5m余り赤土を方形に二段築きあげ、その内部には、一辺1.3m・厚さ20cmの凝灰岩質砂岩の切石が石壇として安置されていた。塚の南面は、東西15m・深さ50cmの溝が「コ」の字型に掘られていた。このことから、築造当時は、赤々とした人工の山が周囲の黒土から際立った存在として人々に仰ぎ見られたことであろう。塚は、内部に石壇があることと築造方法が古墳と異なることから、祭祀に用いられたと考えられ、その年代は、かわらけ系の土器が溝から出土したことにより平安時代末期から鎌倉時代にかけてと推定される。また、塚は、築造方法とその特異な内部構造から区内に類例がなく、非常に貴重である。
蘇峰公園の園内には、かって3棟の建物がありました。
徳富蘇峰と山王草堂邸内の建築
徳富蘇峰(1863年〜1957年)は大正十三年(1924年)、この地に居宅を建て、山王草堂と称して昭和十八年(1943年)熱海伊豆山に移るまでここに起居した。邸内には母屋の他に三つの建築が建っていたことが知られており、それぞれ成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)、一枝庵(いっしあん)、牛後庵(ぎゅうごあん)と名付けられていた。それら蘇峰ゆかりの建築について記す。
成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)
蘇峰の収集した和漢書十万冊に及ぶ書籍類を収蔵していた、鉄筋コンクリート造三階、地下一階の書庫。大正九年(1920年)、山王草堂に先立って着工され、大正十三年(1924年)、山王草堂と同時に落成した。文庫には蘇峰が長年苦心して収集した収蔵品があり、中には国宝二点、当時の重要美術品(現在の重要文化財)七十二点が含まれていた。それらは蘇峰によって体系的に整理され、わが国の文化史研究の資料として非常に価値の高いものであった。この文庫の存在によって多くの資料が緻密に分類され、蘇峰の「近世日本国民史」執筆に大いに役立ったと考えられる。後にそれらの書籍類は主婦の友社に譲渡され、現在は千代田区にあるお茶の水図書館に収蔵されている。「成簣堂文庫」の名称の由来は、文政元年(1818年)、江戸時代の歴史学者頼山陽(らいさんよう)が肥後来遊の際、山陽から蘇峰の祖父徳富美信(とくとみよしのぶ)に書き与えられた「成簣」(せいき=中国の古典「論語」の中の言葉で竹の箕(み)に盛った土の意)から採られたものである。
一枝庵(いっしあん)
大正十二年(1923年)、関東大震災直後に青山草堂の古材をもって建てられた間口一間半、奥行き二間の小庵。当時山王草堂が建築中であったため蘇峰は付近に借家していたが、借家が手狭なことと、国民新聞社社屋が震災で焼失したことからこの庵で「近世日本国民史」などを執筆した。庵は、山王草堂落成後に門人の青木藤作氏に譲られたのち、栃木県佐久山町(現在は大田原市)に寄贈された。なお、庵内の蘇峰の揮毫した書、遺品等は栃木県馬頭町、馬頭町広重美術館に所蔵されている。「一枝庵」の名称の由来は、中国の古典「荘子」の「鷦鷯巣於深林、不過一枝」(鷦鷯(しょうりょう=みそさざい)深かれる林に巣くうも一枝をもちうるに過ぎず)から採られている。
牛後庵(ぎゅうごあん)
大正十三年(1924年)、蘇峰の次男の徳富萬熊(とくとみまんくま)の住居として建てられた木造二階建の建築。蘇峰が山王草堂に居を構える以前の居宅、青山草堂の書斎を移築したもの。萬熊は考古学の研究を趣味とし、古瓦、板碑、土器、石造物等約七千点を牛後庵一階に収蔵し、二階に起居していた。これらの収蔵品のうち、四点は「徳富コレクション」として当記念館に展示しているが、他は主に国学院大学考古学資料館に寄贈されている。「牛後庵」の名称の由来は、やはり中国の古典「史記」の「寧為鶏口、無為牛後」(むしろ鶏口となるとも牛後となるなかれ)から採られている。
これらの建築は蘇峰公園内には現存しないが、当時建てられていたと推測される地点に旧跡として標柱を建て、蘇峰の起居していた往時を偲ぶものである。
その跡地には建物の名前を記した標柱が立っています。
もみじ池の畔には東屋が建っていて、その周辺には「肥後六花」と称される野草が見られます。
肥後六花
「肥後六花」は、徳富蘇峰の生地肥後熊本で、江戸時代から「武士の園芸」として育まれてきた、つばき、さざんか、しゃくやく、はなしょうぶ、きく、あさがおの銘花たちです。六花を観賞する上で最も肝要なことは、「まず花芯を見よ」ということであり、六花に共通していることは、花芯の見事さ、一重一文字咲きの花形の均斉美、花色の清麗さの三点をかたくなに守ってきたことであり、花を愛する肥後人の心の現われといえます。園内のもみじ池の周辺には、あさがおを除く五花とともに、万葉集で詠まれる「あさがほ」にちなんだききょうなどの野草が樹々の中に見られます。
林試の森公園でも見かけましたが、蘇峰公園にも孔子廟からもたらされたランシンボクの樹があります。
中国孔子廟からもたらされた樹
ランシンボク
Pistacia chinensis
和名 爛心木(ウルシ科) 一名 楷樹(かいのき)
中国原産の落葉樹。高さ20m〜25mになる。4月、円錐花序を出し淡黄色の花を多数開く。果実は直径6mm程度の藍黒色の核果を付け、葉は秋には美しく紅葉する。中国山東省、曲阜にある孔子廟に植えられている木として有名で、わが国には大正時代に渡来した。この木は昭和十五年4月9日、孔子廟からもたらされた苗木を、蘇峰が多数の来客に見守られながら、正装し威儀を正して移植ししたものである。当時の日記には、「来客、山の如し、水俣からも他に、藤村、清水氏ら楷樹を持参し、・・・・・・」と記されており、記念写真も撮られている。蘇峰は、毎朝山王草堂の一木一草にも挨拶をかわす程の愛着を示し、そのことは著書「書斎感興(しょさいかんきょう)」にくわしく記されている。
山王草堂記念館の入口横には、新島襄から徳富蘇峰に贈られた樹の三代目に当るカタルパの樹が聳えています。
新島襄と蘇峰との師弟愛の樹
カタルパ
Catalpa bignonioides Walt
和名 アメリカキササゲ(ノウゼンカズラ科)
アメリカ原産の落葉樹。高さ20mにもなる。6月、香りのよい白いベル状の花をつけ、秋にはサヤエンドウの様な実をつける。わが国では全国的にみても珍しい木。明治十年代に同志社の創立者新島襄がアメリカから種子を持ち帰り、蘇峰の父淇水と蘇峰に贈ったのがはじまりと伝えられる。蘇峰は明治十五年、20歳の若さで郷里の熊本に「大江義塾」を開いた。「青少年の教育に奮闘している姿に恩師新島が激励の意味で種子を贈ったといわれている。新島と蘇峰の師弟愛を物語る由緒ある木。この木は現在、熊本市立徳富記念館(大江義塾跡)にある2代目の木から昭和六十三年6月に挿し木した3代目であり、平成二年3月同記念館から贈られたものである。
山王草堂記念館は、徳富蘇峰の旧居の一部を保存し、蘇峰の蔵書や書簡・愛用の品などを展示しています。中でも、「近世日本国民史」の自筆の原稿は圧巻です。
大田区立山王草堂記念館
大田区立山王草堂記念館は、徳富蘇峰(1863年〜1957年)の旧宅である山王草堂の一部(2階部分など)と蘇峰の関連の資料を保存・公開するために建てられた施設です。蘇峰は明治・大正・昭和の時代を生き、ジャーナリスト・評論家など多岐にわたって活躍した人物です。大正十三年(1924年)、蘇峰は当所に邸宅を構え、昭和十八年(1943年)まで暮らしました。
パンフレットには次のように紹介されています。
記念館のご案内
徳富蘇峰(とくとみそほう 1863年〜1957年 ジャーナリスト)は、勝海舟(1823年〜1899年 政治家)や新島襄(1843年〜1890年 教育者)から直接教えを受けた後、日本で最初の総合雑誌「国民之友」(1887年)を発行し、続いて「国民新聞」(1890年)を創刊しました。「国民新聞」創刊後、蘇峰は多くの作品を発表しました。大正七年(1918年)、56歳の蘇峰は「近世日本国民史」を書き始め、35年近くの歳月をかけて、全100巻を完結させました。同書の原稿は、ほとんどが大森山王で書かれたものです。大正十三年(1924年)、蘇峰は大森山王に居宅を建てて「山王草堂」と称し、昭和十八年(1943年)に熱海へ移るまで、そこで暮らしました。その後、山王草堂は静岡新聞社が所有していましたが、昭和六十一年(1986年)に同社から大田区が譲りうけて蘇峰公園として整備しました。そして、山王草堂記念館は、蘇峰の旧宅である山王草堂の一部(2階部分など)と蘇峰ゆかりの資料を保存・公開するため、昭和六十三年(1988年)4月に開館しました。往時の趣を残した記念館から、近代日本ジャーナリズムの立役者として活躍した蘇峰ゆかりの品々をぜひご覧ください。
Sanno Sodo Memorial Museum Introduction
Soho Tokutomi (1863 - 1957, journalist) published "Kokumin no Tomo" (The People's Friend) (1887), the first general magazine in Japan, and then published "Kokumin Shinbun" (The People's Newspaper) (1890) after directly studying under Kaishu Katsu (1823 - 1899, politician) and Joseph Hardy Neesima (1843 - 1890, educator). After launching Kokumin Shinbun, Soho published many works. In 1918, at 56 years of age, Soho began writing "Kinsei Nihon Kokuminshi" (History of the Japanese People in the Early Modern Period) and after nearly 35 years had completed a total of 100 volumes.
Most manuscripts were written in Omori Sanno. In 1924, Soho built a house in Omori Sanno and called it "Sanno Sodo", living there until he moved to Atami in 1943. After he moved out, Sanno Sodo was owned by Shizuoka Shimbun (newspaper company) and then in 1986 was passed to Ota Ward and was developed to be Soho Tokutomi Park. In April 1988, Sanno Sodo Memorial Museum of Literature was opened to the public, where part of Sanno Sodo (the 2nd floor area), the former home of Soho, and Soho-related materials are preserved. The museum preserves the charm of old times, so please take a moment to explore items related to Soho, one of the leader of modern Japanese journalism.
館内には、かっての山王草堂の建物の写真が掲示されています。
山王草堂について
山王草堂は、徳富蘇峰が大正十三年(1924年)から昭和十八年(1943年)まで暮らした邸宅です。蘇峰は明治十九年(1886年)に故郷の熊本から上京すると、赤坂の勝海舟邸の借家、青山に建てた「青山草堂」と住まいを変えました。大正十年(1921年)12月に文化施設の青山会館の建設計画を発表すると、青山の土地を会館建設のために提供しました。そして、同十一年(1922年)に蘇峰は大森山王の仮住まいに移り、同十三年(1924年)の晩春に山王草堂を落成して、暮らし始めたのです。山王草堂の土地は、明治三十三年(1900年)頃に蘇峰が新聞に掲載された売地の広告を見つけ、父の徳富淇水の保養のために購入した約1、300坪の雑木林でした。また、山王の邸宅の建築の際には、青山の旧宅の部材が多く使われました。屋敷内には母屋以外にも、蘇峰が蒐集した書籍類を収蔵する「成簣堂文庫」、仮住まいのために建てられた「一枝庵」、蘇峰の次男の萬熊が集めた遺物などを保管する「牛後庵」がありました。
左側の写真は昭和初期の表門の様子、右側の写真は山王草堂の外観を撮ったものです。
館内には、月刊誌「国民之友」の創刊号の実物が展示されています。
徳富蘇峰の代表作である「近世日本国民史」を執筆した部屋もそのまま保存されています。
代表作「近世日本国民史」
徳富蘇峰が著した「近世日本国民史」は、織田信長の時代から明治時代までを描いた歴史書です。山王草堂で過ごした日々は、本作の執筆を中心として営まれました。蘇峰は大正七年(1918年)56歳で起稿し、34年という歳月をかけて、昭和二十七年(1952年)90歳にして執筆を終えました。全百巻の本作は、11、781回の連作で、原稿用紙約17万枚を超える大作となりました。蘇峰は明治天皇の崩御を契機として、明治という時代を後世のために書き残すため、本作の制作に至ったと言われています。蘇峰個人の独力によって、ほとんどの原稿を完成したことも注目に値します。本作で用いられている文献は、各時代の基本史料だけではなく、蘇峰が蒐集した貴重な古書・古文書や、彼が実際に見聞きした話しに至るまで、多数の史料が満載されています。記念館内で展示している本作の原稿は、第98巻の途中から第100巻までの2巻半を除き、その全てが蘇峰の直筆によるものです。
山王草堂前の広場に蘇峰の胸像が建っています。パンフレットには次のように紹介されています。
徳富蘇峰
徳富蘇峰は、明治から昭和戦後期にかけて活躍した日本のジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家です。小説家の徳冨蘆花は実弟になります。徳富蘇峰は肥後藩郷士の長男として生まれ、明治五年(1872年)に熊本洋学校に入学し、京都の同志社英学校に転入しましたが卒業目前に退学しました。明治十四年(1881年)に熊本に戻り、翌年大江義塾を設立しました。「将来之日本」で好評を得て上京し、明治二十年(1887年)に民友社を創設しました。月刊誌「国民之友」を発刊し平民主義を唱えました。明治二十三年(1890年)には民友社とは別に国民新聞社を設立し「国民新聞」を創刊し、以後、明治・大正・昭和の三代にわたってオピニオンリーダーとして活躍することとなりました。その後国権主義へと転換し、明治三十年(1897年)松方内閣の内務省勅任参事官に就任し、桂内閣にも深く関与しました。昭和四年(1929年)に国民新聞社を退き、大阪毎日新聞の社賓となりました。昭和十七年に日本文学報国会・大日本言論報国会会長に就任し、昭和十八年に文化勲章を受賞しましたが、終戦後にA級戦犯容疑者に指名されて公職を追放されました。昭和二十七年に「近世日本国民史」100巻を完成させました。
蘇峰公園から養玉院に向かいます。
- ポイント2 養玉院
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東海道新幹線と横須賀線の高架を潜った先に養玉院があります。でも、手元の地図には「如来寺」と表示されています。実際に見てみますと、山門前の石標は「大佛 如来寺」となっていますが、山門の表札は「天台宗養玉院」と書いてあります。現在の養玉院は、かつて上野にあった養玉院と芝高輪にあった如来寺の2寺が1926年に合併して成立しました。なので、両方の寺院の名称を併せて「帰命山養玉院如来寺」と号しています。宗教法人としての登録名は「養玉院」ですが、このような経緯から「養玉院如来寺」とか「如来寺」とも呼ばれているのです。
ちなみに、しながわ百景には、「68 養玉院(如来寺)」という名前で登録されています。併記されている「69 大仏の千灯供養」とは、迎え盆の8月13日に境内に設置された1000個の堤灯に次々と火が灯され、幽玄な情趣を醸し出す供養の行事のことです。
養玉院は、「大井の大仏(おおぼとけ)」として知られています。朱塗りが鮮やかな五智如来堂の「瑞應殿」には、木造五智如来坐像が鎮座しています。五智如来像とは、密教の主尊である大日如来の有する5種の智恵を象徴したもので、薬師如来・宝勝如来・大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来の5体の仏像のことです。
木造の仏像としては都内最大級の3メートル超の五智如来は高輪の大仏と呼ばれ、江戸有数の名作として評判となりました。薬師如来を除いて他の4体は享保十年(1725年)と延享二年(1745年)の火災で焼失しましたが、延享三年(1746年)頃に再興されました。現在は大井の大仏として親しまれています。
品川区指定有形文化財
木造五智如来坐像(五躯)
五智如来堂(瑞應殿)内に、向かって右から薬師如来、宝生(勝)如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の五体が安置されている。いずれも像高三メートルにも及び、「大井の大仏」と呼ばれている。五像は、木食但唱が弟子と共に信濃国で造立し、寛永十三年(1636年)江戸芝高輪に如来寺を建てて安置した。如来寺は、明治三十年代に、大井村(現在地)に移り、大正十五年養玉院と合併したが、五智如来は、如来寺伝来のものである。薬師如来以外は、火災で諸堂と伴に焼失し、宝暦年間(1751年〜1764年)に再建されたが、壮観な姿は江戸庶民の信仰と結びつき、由緒ある如来像は貴重である。
養玉院は東海七福神の布袋尊をお祀りしていて、お正月には初詣や七福神巡りの人々で賑わいます。
養玉院から上神明天祖神社に向かいます。立会道路を横断し、三間通りに入った先で左折します。民家の前に町名由来板が立っています。
蛇窪村
現在の二葉、豊町、戸越、西大井の一部は、江戸時代初期までは蛇窪村と呼ばれていました。鎌倉時代、この地に生息していた白蛇が、地元の人の夢枕に現れ、お告げにより弁天社を建立されました。現在、この地に暮らす人々や町会、商店街、企業などが手を結び、「スネークタウン」として街おこしを行っています。
- ポイント3 上神明天祖神社
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文永八年(1272年)、北条四朗左近大夫陸奥守重時は五男の時千代に多数の家臣を与え、蛇窪に残ってこの地を開くよう諭し、自らはこの地を去りました。その後、時千代は法圓上人と称して大森に厳正寺を開山し、家臣の多くを蛇窪周辺に居住させました。それから50年ほどを経た元亨二年(1322年)、武蔵の国一帯が大旱魃となり、飢饉の到来は必至と見られました。この時、厳正寺の当主だった法圓の甥の第二世法密上人はこの危機を救うため、厳正寺の戌亥(北西)の方向に当る森林の古池の畔にあった龍神社に雨乞いの断食祈願をしました。上人の祈願により大雨が沛然と降り注ぎ、遂に大旱魃の危機を免れることができました。これに感激した時千代の旧家臣たちは蛇窪に神社を勧請し、これが現在の蛇窪神社の縁起とされています。当初は神明社と称していましたが、村社に昇格した際に「天祖神社」に改名し、令和元年(2019年)5月1日に別称として使用していた「蛇窪神社」を通称表記に格上げしました。「蛇窪神社」を冠した大鳥居は、同年末に建立されたものです。
大鳥居縁起
◎旧檜の大鳥居
大正初期、土地の有志が発起人となり、建立されました。昭和二十年の空襲で、本殿や境内建造物、樹木等が丸焼けになりましたが、大鳥居のみが戦禍を免れ、その不思議な神の御加護により氏子全体をご照覧くださいました。昭和四十九年、氏子篤志氏家の熱意により、銅で修復され、歴史とともに約百年、平成三十年8月に安全性を考慮して、惜しまれつつ解体されました。
◎新檜の大鳥居
蛇窪神社鎮座七百年記念事業(奉賛募金期間 平成三十年12月20日〜令和三年12月20日)の一環として、地域発展のシンボルとなる大鳥居が、今和元年12月26日氏子崇敬者各位の御奉賛により建立されました。
上神明天祖神社は、しながわ百景に選ばれています。そのうちに「88 蛇窪神社」に書き直されるかもしれませんね。
現在の本殿は平成十年に建て替えられ、平成二十三年には屋根が改修されました。
本殿右奥に、蛇窪神社鎮座七百年を記念して令和三年4月1日に元宮として建立された「蛇窪龍神社」があります。蛇窪龍神社は蛇窪神社創建前の神社で、千年以上の歴史があると伝えられ、蛇窪の守護神と称えられています。七夕は蛇窪龍神社の水まつりの日です。鎌倉時代に龍神様が旱魃で苦しむこの地に雨を降らせて大飢饉を救ったことで、龍神様と水恩に感謝する日となっています。7匹の白蛇や全長8メートルの白龍は、昭和五十年2月5日に奉納されたもので、神様の使いである白蛇が八匹目で白龍になるという言い伝えを表しています。
蛇窪龍神社の左手に、白蛇辨財天の社があります。鎌倉時代、天祖神社の社殿の左横(現在の消防団詰所付近)に清水が湧き出る洗い場があり、そこに白蛇が住んでいました。時移り、いつのまにか洗い場がなくなり、やむなく白蛇は現在の戸越公園の池に移り住むようになりました。あるとき、土地の旧家森谷友吉氏の夢枕に白蛇が現れ「一日も早くもとの住みかに帰してほしい」と懇願しました。森谷氏はこの話を宮司に伝え、白蛇をもとに戻すよう願い出ました。宮司は辨財天社を建立することに決め、現在の駐車場に池を掘り、池の中央に小島を設け、その中の石窟に石祠を造って白蛇を祠ることにしました。古老の話によれば白蛇を迎える日の夜、いよいよお迎えの祝詞を奉上しようとしたとき、それまでの輝くばかりの星空が一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに大風が立ち起こり、そのさまは身のすくむ思いだったということです。
白蛇辨財天の脇には「白龍の滝」と呼ばれる滝があり、そこから流れ出た水路には「夢巳橋」が架かっています。
白蛇辨財天の前には「銭洗い所」があります。これらの施設は、鎮座七百年を記念して令和三年4月1日に建替え・新設されました。
白龍の滝の横には、「蛇松」が植えられています。松葉が繁っていてよく見えませんが、松の木の枝が絡みあって蛇のような恰好をしています。
本殿の左手前に、境内社の「法密稲荷社」があります。元亨二年(1322年)に武蔵の国が深刻な大飢饉に見舞われた際に、厳正寺第二世法密上人は雨乞いの断食祈願をしました。そして豊作を祈るため、京都伏見稲荷大社の御分霊をお祀りし、稲荷社が建立されました。雨乞いが行われてから七百年目に当る令和四年11月1日に建て替えられ、稲荷社の由緒を後世に伝えるために「法密稲荷社」と改名されました。
法密稲荷社の参道脇に、土搗(づつき)石が祀られています。
土搗石(づつきいし)
この土搗石は江戸時代より武蔵国荏原郡上蛇窪村に伝わる石で村内で住居、納屋などの普請がある度に村人が交替で手伝い歌を歌いながら敷地を固めた石で(別名オカメサン)大正七年頃まで使用されました。平澤忠義氏より譲り受け社宝として後世に伝えるものです。
上神明天祖神社から立会道路を通って西大井駅に向かいます。途中で右折してクランク状に曲がった先に、立派な門構えの伊藤博文公墓所があります。伊藤博文(1841年〜1909年)は長州藩の下級武士の子として生まれ、幕末期に高杉晋作らと倒幕運動に参加しました。明治維新後は初代内閣総理大臣を務め、明治四十二年にハルビンで暗殺されて国葬が行なわれた後、大井に居館があったことからこの地に葬られました。伊藤門と呼ばれる門柱と門扉は、昭和二十五年に伊藤博文公宅から譲り受けたものです。門柱には、「大勲位伊藤博文公墓所」と刻まれています。
墓所は、高さ約2メートルの円墳の前に鳥居を配した神式で、隣にはやや小型の梅子夫人の墓があります。墓所は一般的な霊園やお墓と違い、歴史的な文化財として保全されています。通常は非公開のため入れませんが、文化財ウィークの毎年11月の一般公開日には数日限定で公開されます。伊藤博文公墓所は、しながわ百景に選ばれています。
墓所内には立ち入れませんでしたが、広い敷地には伊藤博文公の胸像や案内板が建っています。
案内板の文字は望遠レンズでも読み取れませんが、ネットで探しましたら画像がみつかりました。
品川区指定史跡
伊藤博文墓
伊藤博文は、天保十二年(1841年)に長州藩(山口県)の武士の子として生まれ、松下村塾で学んだ。若くしてイギリスに遊学し、帰国後は海外の状勢をもとに、新政府の樹立に力を尽した。明治の新政府では要職を歴任し、その間に三度も欧米諸国を巡って各国の制度を視察して、憲法制度や行政組織などの内閣制度の基礎をつくった。明治十八年(1885年)にわが国初の総理大臣となり、長期間にわたって国政の発展に貢献した。明治四十二年(1909年)十月に、中国のハルピンで朝鮮の独立運動家によって狙撃され、六十九歳で没した。
ゴール地点の西大井駅に戻って来ました。
ということで、品川区で十四番目の「14.ぐるっと西大井コース」を歩き終えました。次は品川区で十五番目の「15.大森貝塚と品川歴史館コース」を歩きます。
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