- 15.大森貝塚と品川歴史館コース
- コース 踏破記
- 今日は品川区の「15.大森貝塚と品川歴史館コース」を歩きます。大井町駅中央東口から立会川の跡地に造られた立会緑道を巡り、大森貝塚遺跡庭園を訪れた後、古代東海道の名残りである池上通りを散策します。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年10月に改めて歩きました。なので、冬と秋の写真が入り交じっています。
15.大森貝塚と品川歴史館コース
「15.大森貝塚と品川歴史館コース」の歩行距離は約3.7km(約4,625歩)、歩行時間は約1時間8分、消費カロリーは約306Kcalです。
スタート地点:大井町駅中央東口
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- ポイント1 立会道路
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立会川の暗渠の上を整備した下流側は、花と緑の遊歩道になっています。春には隣にある東芝病院の桜も彩りに加わります。
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- ポイント2 大森貝塚遺跡庭園
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モース博士が発掘した大森貝塚を整備した公園です。貝層の剥ぎ取り標本や縄文時代の暮らしを伝えるパネルなどがあります。
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- ポイント3 鹿嶋神社
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御祭神は武甕槌之神。御創建は平安期の安和二年(969年)に常陸の国、鹿島神宮の御分霊を当地に勧請したのが始まりです。
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- ポイント4 品川歴史館
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常設展示のメインテーマ(註:2022年当時)は「東海道品川宿」と「大森貝塚」。茶室や水琴窟を備える日本庭園では、四季折々の草木を楽しめます。
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ゴール地点:大井町駅中央西口
こぼれ話
桐畑地下道の壁面には、大森貝塚の貝層を復元した模型が飾られています。
スタート地点の大井町駅中央東口から歩き始めます。
東口駅前は高架の広場になっていて、正面と右手に巨大なLABIヤマダデンキのツインビルが聳えています。ちなみに、LABIとは造語の「LIFE ABILITY SUPPLY」の略語です。右手ビルの脇から階段を下りると立会道路が通っています。といっても、右手は京浜東北線の駅ホームに突き当たって行き止まりになっています。大井町駅が出来る前は、立会川は現在駅ホームが建っているところを横切るように流れていたのでしょう。
- ポイント1 立会道路
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現在暗渠化されて上部が立会道路になっている立会川は、目黒区と品川区を流れて東京湾に注ぐ、全長7.4kmの二級河川です。昭和二十年代までは魚やザリガニが棲むきれいな小川であり、子供たちの絶好の遊び場でしたが、現在では大部分が暗渠となり、道路(立会道路)や、緑の豊富な遊歩道、公園などになっています。目黒区にある碑文谷池と清水池に源を発し、南東方向へ流れて品川区の西小山駅・荏原町駅・西大井駅・大井町駅・立会川駅付近を通り、東京湾の勝島運河に注ぎます。昭和後期には水量の減少と生活廃水等により汚れた川となり、1996年には生物化学的酸素要求量が都内の中小河川で最悪となっていました。しかし2002年7月からJR東日本が馬喰町駅〜東京駅間の総武線トンネル内に湧き出る地下水の下水費用(年間約3億円)対策と立会川の水量増加および水質改善を兼ねて敷設した12kmの配水管によって立会川への送水を開始しました。このことにより水質が大幅に改善し、2003年には海で孵化したボラの稚魚が大群で現れて話題になりました。立会川の名称の由来には次のような幾つかの説があります。
- その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とした。
- 鈴ヶ森刑場へ送られる罪人の親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった。
- 中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わった。
池上通りの高架下を通り、緑溢れる植栽に囲まれた遊歩道に入ります。
遊歩道の中ほどに小さな公園があります。「関ヶ原公園」という名称ですが、これは昔の地名が「関ヶ原」だったことに由来しています。JR線の敷地を含むこの辺り一帯は江戸時代には島津家の屋敷だったそうです。
旧・薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡
この付近より東海道線を越えた地域を含む広大な地は、鹿児島藩島津家の抱屋敷(万治二年【1658年】買得)および抱地(天保三年【1832年】取得)であった。敷地は約1万8千坪に及ぶ。安政三年(1856年)当時、藩主島津斉彬の父で前藩主の斉興(松平大隅守)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていたため、絵図上では「松平大隅守」と表記されている場合がある。慶応年間になり、大井村の平林九兵衛が島津家よりこの地を譲り受け、開墾して耕地にしたと伝えられている。安政二年(1855年)頃の薩摩藩主島津薩摩守斉彬は77万800石の家禄があり、上屋敷は幸橋御門内(現・千代田区内幸町)にあった。
*上記大名屋敷の所有関係は、安政三年頃のもの。
緑道のところどころには、川をモチーフにしたモニュメントが設置されています。昔は緑道そばに巨大な東芝病院がありましたが、2018年に事業移管されて東京品川病院に変わったのだそうです。東芝も大変な時期でしたからね。
遊歩道の終端から立会川は開渠となり、勝島運河に注ぐ河口まで住宅地の中を流れて行きます。
立会道路から大森貝塚遺跡庭園に向かいます。大井五丁目交差点までJR線の線路と並行に南下し、交差点で右折して線路下のトンネルを潜ります。「コ」の字型に進み、今度はJR線の西側を線路に沿って進みます。線路越しに奇妙な形状のマンションが建っています。「パレ大森プルミエール」は1998年5月に新築された高級マンションで、曲線を描いた外観のデザイン・ダイナミックな吹き抜けエントランス・建物全体を緑で囲む植栽・アメニティープールの設置など、マンションの新しいあり方を提案した集合住宅です。特に曲線の外観デザインが強調されるJR線路側には共用廊下の梁横に照明器具を設置し、玄関側壁面に光を積極的に集め、建築全体を美しく演出しています。
大井町駅から大森駅までのJR線には平面交差の踏切はなく、道路はアンダーパスで線路下を潜っています。地下道を通って桜新道に出ます。
桜新道の線路側は公園になっていて、桜並木が続いています。
公園の一画に煉瓦造の古風な塔が建っています。公園の地下には下水道管が敷設されているのでしょう。でも、何でここだけに設置されているのでしょうか?
空気抜き塔
この塔は、台風や大雨のときに下水道管の中を勢い良く流れる雨水により、押されて逃げ場のなくなった空気の圧力を逃がすための施設です。
桐畑地下道を通って再びJR線の西側に出ます。桐畑地下道は1995年に開通した歩行者と自転車専用のトンネルで、大森貝塚遺跡庭園に隣接しています。この辺りはかつて海岸線となっていて、この付近の線路は太古の海が台地を削って形成された崖に沿って敷かれています。1877年にアメリカ人学者エドワード・モースが車窓からこの崖の地層中に縄文後期の遺跡である大森貝塚を発見しました。この地は古くから湧水が豊富で、縄文人たちにも生活に便利な場所だったのでしょう。
そんな大森貝塚に隣接する桐畑地下道の入口には、縄文時代の暮らしを描いたタイルが貼られていて、地下道内には1984年の大森貝塚発掘調査で実際に出土した貝殻を使って貝塚の断面を再現した標本が展示されています。
大森貝塚復元模型
昭和五十九年(1984年)の大森貝塚発掘調査で出土した実物の貝殻を使い、貝塚の断面を再現したものです。
出土した土器類の用途を推測した絵入りのタイルも貼られています。お茶が中国から伝来したのは奈良時代のことですから、急須はお酒を注ぐために使用されていたに違いありません。
- ポイント2 大森貝塚遺跡庭園
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平成八年4月に開園した大森貝塚遺跡庭園には、「大森貝塚碑」やモース博士の胸像・貝層の剥離標本などあり、縄文時代や大森貝塚について学習できるようになっています。大森貝塚は、明治十年(1877年)にアメリカから来日した動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(1838年〜1925年)によって発見された貝塚で、日本で最初に学術調査が行われたことから「日本考古学発祥の地」と言われています。しながわ百景にも選ばれています。
園内の案内図を参考にして、見所を巡ります。
庭園の中央には、「縄文の広場」があります。30分毎に霧を発生させ、時間を超越した幻想的な空間を演出しているのだそうです。
中央のサークルの中に霧の発生装置が埋め込まれています。
縄文の広場の脇には、「モースの広場」があります。大森貝塚の発見者、モース博士の胸像が広場の中央に置かれています。また、博士生誕の地であるポートランドとの姉妹都市記念碑もあります。
品川区・ポートランド市 姉妹都市提携記念
日本考古学発祥の地 国指定史跡 大森貝塚
大森貝塚は、明治十年(1877年)アメリカ人エドワード・S・モース博士によって発見され、日本で初めて学術調査が行なわれた縄文時代後期から晩期の貝塚遺跡で、日本考古学発祥の地である。品川区は、モース博士生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携を記念してこの碑を建立する。
実物の貝層を利用して、発見当時の貝塚を復元した「貝塚展示ブース」があります。
貝塚は縄文時代のタイムカプセルだ。
目の前の貝層は、ここ大森貝塚から発掘されたものです。この貝塚の中には、縄文時代の品川人のくらしをとく鍵が、いっぱいつまっています。この台の上の貝がらや縄文土器片などは、すべてこの貝塚から出土した本物です。そっとさわってみてください。
- この貝塚から出土した海の生物の骨
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スズキ、クロダイ、マアジ、サバ、ヒガンフグ、ウナギ、トビエイ、ウミガメ
- 陸の生物の骨、鳥の骨
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ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、タヌキ、ニホンザル、イヌ(埋葬されたと考えられている)、ガン、カモ
この他に、弥生時代、奈良時代の遺物も出土しています。
階段を下りた線路際の一画に、「大森貝塚の碑」が建っています。明治十年(1877年)にモース博士が大森貝塚を発見したことを記念し、昭和四年(1929年)に建てられた碑です。石碑の上には、土器を模した坪が置かれています。碑文には、「The Site of the Omori Shell Mounds discovered by Professor Edward S.Mourse」と書かれています。「Shell Mounds」とは「貝塚」のことです。
「貝塚学習広場」は、当時の縄文人の暮らしぶりや生活環境が学習できる広場です。パネルには、縄文時代の生活が挿絵付きで解説されています。先ずは生存に不可欠な食べ物の種類と調理方法です。
縄文時代の植物と食事
貝塚から想像すると、縄文時代の人たちは貝や魚、獣などを主に食べていたように考えられがちです。でも実際には、人間にとって必要なカロリーの約40%は、植物性のものからとっていたといわれています。では縄文時代、この一帯にはどんな植物が育っていたのでしょう。そして人々は、どんな植物をどのように料理して食べていたのでしょう。
縄文時代の植物
クルミ、トチノキ、マテバシイ、スダジイ、ワラビ、ゼンマイ、クリ、コナラ、クヌギ、ウバメガシ、ヤマイモ、ユリネなど。
料理方法(想像図)
トチの実やドングリの仲間には、アクが強く、このままでは食べられないものがある。細かくくだいて水でさらしたり、灰汁で煮てアク抜きをするという、今と同じ料理方法をすでに発見していた。
@天日によく干し、皮と実を分ける。
A石皿(石うす)、磨石(たたき石)で粉にする。
B水でよくさらし、アクをとる。
C天日に干す。一度にたくさん干し、保存しておく。
D食べる時は、水を混ぜよくこねる。
Eだんごにして、ほかのものといっしょに煮て食べる。
Fだんごを焼き、クッキーを作る。
G天然の酵母を入れて焼き、パンを作る。
H肉をまぜて、ハンバーグを作ったという説もある。
ワラビ、ゼンマイ、ヤマイモやユリネなど、私たちが今食べている植物と、ほとんど変わらないものを食べていたと考えられます。縄文時代の人びとはこのようにしてデンプン質をとっていました。秋のみのりの時期はとても忙しかったことでしょう。たくさんの木の実をとり入れるカゴを編んだり、粉を干すためのムシロなどを織る、織物の技術も発達したと考えられます。この園内にも、縄文時代と同じ植物が植えられています。
次に、住まいと暮らしの道具について解説してあります。家がなければ生きていけませんからね。
住まいと、くらしの道具
ここ大森貝塚では、はっきりとした住居の跡は発見されていませんが、この付近に小さな集落を作っていたものと考えられます。縄文時代の気候はあたたかく、自然のめぐみも豊かでした。人々は便利な場所に竪穴式の家を建て、生活するようになりました。土器の種類もだんだんふえ、狩りや漁のための道具にも工夫が加えられ、今の時代にも通用するほど精巧なものが作られました。
竪穴式住居の建て方
@50cmくらいまで地面を掘り、よく固める。石などの道具を使って、柱を立てる穴を掘る。
Aそれぞれの柱の間に樹木をわたす。
B屋根の骨組みになる柱を立てる。それぞれの柱の間に横木をわたす。
C竹や細い柱で骨組みを細かくする。入口を作る。
D全体を草や、木の葉などでふく。
1軒の家にはだいたい、4〜5人前後の家族が暮らしていたと考えられます。中央には炉(いろり)があり、暖房や照明、そして料理に使われました。
くらしの道具
@漁や狩りの道具
動物を狩る道具: 矢、石槍(石鏃・石槍・尖頭器)
魚をとる道具(骨角器): もり、釣り針
木を切りたおしたり穴を掘る道具: 打製石斧、磨製石斧
ものをつくる: 石錐、スクレイバー(石匙)
A布、かご
次は、道具の中でも最も重要だった土器についての解説です。
土器から見た、縄文時代のくらし
縄文時代は、今から1万2、3千年くらい前から始まり、1万年近く続きました。ここ大森貝塚は、今から約3千年前に住んでいた人々によって残されたものです。貝塚には、さまざまな土器のかけらがふくまれていますが、それらを組み合わせ、土器を再現して調べると、その遺跡の年代や人々のくらしぶりを想像することができます。
縄文土器の作り方(想像図)
@粘土に砂などを混ぜ、水を加えてよくこねる。
A数日間、日陰でねかせた後、粘土を取り出し、まず底の部分を作る。
B粘土を一定の太さのひも状に伸ばす。
C適当な長さに切りながら、ひもを輪にして積み上げていく。
D全体の形を整え、デコボコやすき間をたんねんにつぶす。
Eなわを棒に巻つけ、転がして紋様をつける。(全体の厚さを均一に引きしめる)。
F生乾きのうちに内面をていねいにこすり、粘土の中の気泡をつぶす。
Gかげ干しにして、十分に乾燥させる。
H土器のまわりをたき火で囲い、焼き上げる。800〜900度前後。
大森貝塚に人々がくらしていたころには模様も形も違うさまざまな土器が作られました。それは、必要だったからというよりも、食生活を豊かにしようとしたからだと考えられます。
その他の土製品
@耳かざり(直径3.8cm、重量12.1g)
A土版
滑車の形をした耳かざりは、アクセサリーに使われたと思われます。また土版は、お守りとして作られたものといわれていますが、よくわかっていません。皆さんはどう思いますか。
最後は、共同作業と交易です。既にムラの概念が成立していたんですね。
共同作業と交易
春には木の芽や山菜つみ、貝漁、夏から秋にかけては魚の漁、秋には木の実とり、冬になると狩りと、四季それぞれにやるべき仕事が自然に決まっていたようです。家を建てたり、狩猟に出たり、また貝や木の実を干したり、土器を焼くにも、集落のみんなが力を合わせて、共同で作業を進めたのです。また、かなり遠くの人たちと交易があったことも分かっています。そんな時、縄文時代の人たちはどんな言葉や身ぶりでお互いの気持ちを伝えあったのでしょう。
季節ごとの共同作業
春: 干し貝作り
貝は一度に大量にとれる。煮てから日に干し、日持ちをよくした。
夏: 海での漁
魚が回遊してきて、近くの海でもたくさんとれた。
秋: 木の実の製粉
木々はいっせいに実をつける。日に干してから製粉する。
冬: 森や山での狩猟
獣や鳥がよく太ってくる。木の葉もおち、見通しもよくなる。
黒曜石はガラス質の石で、矢の先につける鋭いヤジリの材料として重要なものでした。大森貝塚でもヤジリが出土しています。この近くで黒曜石を産出するところは伊豆の神津島、箱根、和田峠(長野県)があります。
モース博士の経歴についても紹介してあります。
モース博士と大森貝塚
モース博士の略歴
1838年 6月18日:アメリカ・メイン州ポートランド生まれ
1859年 ハーバード大学の動物学者ルイ・アガシー教授の助手/
この年、ダーウインの「種の起源」刊行される
1877年 39歳の誕生日に横浜着
6月19日:東京に向かう車中から大森貝塚を発見
7月12日:東京大学動物学・生理学教授
9月16日:大森貝塚発掘調査
10月 6日:日本で初めて「進化論」を講演
1878年 4月23日:家族とともに来日
1879年 7月 :調査報告書「SHELL MOUNDS OF OMORI(大森貝塚)」を刊行。
8月31日:東京大学教授満期辞任
9月 2日:帰国
1880年 ピーボディ科学アカデミーの館長となる
1882年 6月 :3回目の来日 陶器を収集する
1925年12月20日:マサチューセッツ州セーラムで死去 87歳
1926年 遺言により全蔵書が東京大学に寄贈される
なお「縄文」の名称は、モースの「コード・マーク」を白井光太郎が和訳したことに始まる。
大森貝塚遺跡庭園から鹿嶋神社に向かいます。
- ポイント3 鹿嶋神社
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鹿嶋神社は、安和二年(969年)9月19日に、武蔵国荏原郡大井村字関ヶ原(現在の東大井6丁目)の常行三昧寺住職であった尊栄法印により、常陸国鹿島神宮から分霊を勧請して創建されました。同日、別当として来迎院を建立し、慈覚大師(794年〜864年)が作った薬師如来像を安置しました。御祭神は武甕槌之神(たけみかづちのかみ)です。明治元年(1868年)の神仏分離令により同一敷地内で来迎院と分離し、鹿嶋神社は大井村の村社・総鎮守として親しまれ、交通安全や旅行安全のご利益があるとされています。来迎院は通称「お茶屋寺」と呼ばれています。立会道路で立寄った「関ヶ原公園」の名前は、当時の地名に由来しているようです。
鹿嶋神社は平安朝のころ、第六十二代冷泉天皇の御代・安和二年(西暦969年)に、南品川常行寺の僧尊栄法印が、常陸の国(今の茨城県)鹿嶋神宮の御分霊を請けたてまつり、同年九月十九日遷宮したてまつったのが始まりである。
鹿嶋神社は、しながわ百景に選ばれています。鹿嶋神社は古くから祭礼として相撲が奉納されていて、渋谷氷川神社・世田谷八幡宮と共に江戸郊外の三大相撲として知られていました。例大祭は毎年10月の第3土・日に行われ、この日は約200年の歴史をもつ祭囃子の「大井囃子」が演奏されます。
現在の本殿は檜造りで、昭和六年(1931年)に建てられました。四尺四方の旧社殿は文久二年(1862年)の造営で、精巧を極めた鎌倉彫の彫刻が施されていて、これを後世に伝えるために本殿右奥へ移築され、覆屋をかけて保存されています。
旧社殿には、三峰神社・金刀比羅神社・天祖神社・八幡神社・稲荷神社の五社が境内社として祀られています。
五つの神社は、鹿嶋神社の末社として、小さな祠に祭られていたが、昭和六年、鹿嶋神社の御本殿が新築された際に旧本殿であるこの社に合祀された。この御本殿は、文化八年(西暦1811年)に建てられ、鎌倉彫りの彫刻が貴重なものであり、後世に伝えるため境内南寄りの地に移し、雨風を防ぐ復舎を設けて、今に至っている。
広々とした境内は多くの樹木に覆われ、特に大きな推定樹齢200年のタブノキ2本と樹齢200年以上のアカガシは品川区の天然記念物になっています。本殿前のタブノキ(1)は強風によって上半分がなくなり、幹の先が鉄板で覆われています。
もう一本のタブノキ(2)は旧社殿の前に聳えています。
品川区指定天然記念物
鹿嶋神社のタブノキ(1)(2)
タブノキは、別名イヌグスといい、クスノキ科の常緑の高木で、暖かい地方の海岸に自生し、よく大木となる。(1)は本殿に向かって左側の境内中央部にあり、幹の周りは約3.2m、木の高さは約13m、推定樹齢は約二百年である。強風によって上半分がなくなり、幹の先を鉄板で覆ってあるが、下の方の木の勢いは盛んである。(2)は本殿の脇にある旧本殿の前に生えており(本樹)、幹の周りは約2.5m、木の高さは約18m、推定の樹齢は約二百年である。木の姿・勢いとも立派で、自然の姿を保っている。
アカガシの木は、旧社殿の奥にあります。
品川区指定天然記念物
鹿嶋神社のアカガシ
アカガシは、ブナ科の常緑の高木で、本州中部より西の暖かい地に生える。材質は堅く、大工道具などに用途は広い。本樹の幹の周りは約2.1m、木の高さは約6m、推定の樹齢は約二百年である。上半分が折れて欠けているために、幹の先を鉄板で覆っている。一時木の勢いは衰えたが回復している。暖かい地を好む木の性質から、このあたりでは極めて珍しく貴重である。
鹿嶋神社から品川歴史館に向かいます。
- ポイント4 品川歴史館
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品川歴史館は、品川区が1985年に設立した区立の歴史博物館です。原始時代からの品川の歴史や生活文化に関する資料を展示し、史料の収集・保存も行っています。地域史などの歴史を学ぶ場としての機能もあり、企画展や講演会、子供向けの講座、親子体験講座を随時開催しています。伝統的文化活動の場として庭園に茶室や書院を併設しています。この地には、昭和初期に安田財閥創始者安田善次郎の甥である安田善助の邸宅が建てられ、その後財団法人吉田秀雄記念事業財団が譲り受けて1966年に吉田記念館として開館した書院造の屋敷が建っていました。歴史館の建設に際しては、離れで建てられていた茶室と庭園の大部分をそのままの形で残しています。令和四年(2022年)7月から、開館以来初となる施設全体の大規模改修工事のため休館し、令和六年(2024年)4月にリニューアルオープンしました。なので、最初に訪れた2022年はリニューアル前の展示内容でしたが、2024年に訪れた際は装いも新たに一新された展示になっていました。
品川歴史館は、しながわ百景に選ばれています。
エントランスの脇に、石垣の一部が展示されています。
品川御殿山下台場の石垣石
嘉永六年(1853年)6月にアメリカのペリー艦隊が来航した後、江戸幕府は、8月末から1854年12月にかけて品川沖に御台場を築造しました。この石は、1854年12月、品川御台場のうち南品川猟師町(現在の東品川1丁目)の地先を埋め立てて築造された品川御殿山下台場の石垣に使われていたものです。伊豆半島から切り出された安山岩を丁寧に加工しています。昭和三十二年(1957年)ごろ、品川区立台場小学校の建設中に土の中から多くの石垣石が見つかりました。品川歴史館は、昭和六十年(1985年)5月の開館にあわせてその一つを譲り受け、この場所に展示しています。
エントランスの正面に遺跡をイメージした巨大なタイル画があります。
その左手には、品川宿の護岸で使われた石垣が復元されて展示してあります。
東海道品川宿の石垣石
長徳寺門前の南品川二丁目14番地に位置し、平成二十七年11月末に解体撤去された石積護岸(南D地点)の隅角部の石材です。撤去に際し所有者からその一部を譲り受けました。この石材は、いずれも千葉鋸山産の凝灰岩「房州石」であり、明治時代に積まれたものと考えられます。江戸時代、徳川幕府の直轄領で海に面していた品川宿では、幕府が石垣を築いて街道を保護しました。南D地点の護岸には伊豆半島産安山岩と凝灰岩の「伊豆石」積が残されています。伊豆石の石垣は江戸城や品川御台場の石垣と同様であり、幕府の「御普請」でした。房州石は、街道筋の土留修復材として使用される一方、文政十二年(1829年)に幕府代官が護岸としての利用を想定していることから、やがて護岸の石材としての利用が拡大していったのでしょう。
隅角部の調査と成果
品川歴史館では、南D地点の隅角部の解体に際し、石垣裏(裏込め)の構造を調査しました。東海道品川宿の遺構としては、品川区初の調査事例です。江戸時代後期の文献史料では、伊豆石積の品川宿護岸の裏込めに割栗石、砂利、泥岩(三浦岩)を使用したと記されていますが、この調査では、厚さと幅が約20〜22cm、長さ約75〜80cm、重さ約80kgの規格材が大半を占める房州石積の護岸とその裏込めが対象でした。調査の結果、裏込め材としての石材は皆無であり、代わりに土砂が隙間なく充填され、かつて裏込めとして使用されたであろう泥岩や江戸時代の陶磁器片、貝殻が混入していました。後世に石垣の積み直しや裏込めの改良が行われたのかも知れません。調査ではこのほか、隅角部の石組みや道路面下に3段(約60cm)の石垣が残されていることが明らかになりました。
品川歴史館には、常設展示室と期間限定の特別展示室があります。2024年10月に訪れた時の特別展示室のテーマは、リニューアルを記念して「品川の海に御台場ができるまで−日記でひも解く170年前の大工事−」でした。撮影不可のため、展示内容の紹介はできません。常設展示室の内容は、資料・模型・映像を融合し、原始・古代・近世・近現代の4つの時代区分で品川の歴史を紹介しています。2022年1月に訪れた時の展示内容は昭和時代の日用品が主でした。
リニューアル後の2024年10月に訪れた時の展示内容は、第1展示室では古代の縄文土器・弥生土器・人物埴輪の展示、江戸時代の農業・漁業の解説・器具などの展示・品川用水の模型・品川宿の賑わいなどを模型で紹介しています。第2展示室では、明治以降の資料や出土した花瓶や戦時下の暮らしの様子・空襲で溶けたガラスなどを展示しています。各時代の概要はそれぞれ1枚のパネルに要約されています。
現在の品川区域に人が住み始めたのは、紀元前9000年から紀元前5000年ごろということがこれまでの調査でわかっています。紀元前300年ごろまでは海が今よりも内側まで広がっていて、人びとは海の近くで生活していました。その証に、人びとの生活のあとが、東五反田の池田山北遺跡や大崎の居木橋遺跡、大井の大森貝塚など台地の上で見つかっています。当時の人びとがどのようにくらしていたのか、さぐっていきましょう。
大和朝廷は、7世紀に今の都道府県にあたる国とよばれる行政エリアをつくり、今の都道府県庁にあたる国府を置きました。武蔵国府は現在の府中市にあり、庁舎には郡名を刻んだ瓦が使われていました。地方にはいくつかの国をまとめた道という行政エリアをつくり、7世紀後半には、都(奈良)と道の国々を結ぶ広い道路を全国につくりました。大井は東海道で都(奈良・京都)とつながっていました。
10世紀後半から12世紀にかけ、各地で武士の活動が目立つようになります。元暦二年(1185年)に平氏を倒した源頼朝が建久三年(1192年)に征夷大将軍となり、武士が政治を行う幕府を鎌倉に開きました。現在の品川区域には、将軍の家来である御家人として、大井氏とその一族の品河氏がおり、多摩川の北側にある自分たちの領地と鎌倉や京都などを行き来しながら勢力を広げていきました。
14世紀後半から、品川の港では活発な活動がみられるようになります。港に出入りする船の中には伊勢(三重県)など紀伊半島からやってくるものがあり、陶磁器などさまざまな物や人を運んでいました。さらに有徳人とよばれる富を蓄えた人たちが活動して、物が各地から行き来し、寺や神社の増築や修理がなされ、品川は港町として発展していきました。
天正十八年(1590年)、徳川家康は江戸に入って町づくりを始めます。慶長六年(1601年)には江戸の日本橋と京都・大阪方面を結ぶ東海道がととのえられました。江戸の南で海に面していた品川には、江戸から最初の宿場町品川宿ができます。荷物を運ぶための人と馬がいる場所のほか、宿屋や料理屋などいろいろな店が建ち並び、多くの人でにぎわっていました。その様子を見ていきましょう。
嘉永六年(1853年)6月、アメリカのペリーが軍艦4隻を率いて江戸湾(現在の東京湾)にやってきました。幕府は、外国の武力から江戸を守るため、品川沖に「御台場」とよんだ砲台(品川御台場)をつくります。機械がない時代に海中を埋め立てる工事を支えたのは、幕府の役人や資材の切り出し・運搬の仕事をした職人などのカでした。御台場の完成により、品川の風景は大きく変わっていきました。
明治元年(1868年)に江戸が東京となって、ヨーロッパやアメリカから入ってきたくらし方が、人びとの生活をだんだんと変えていきました。明治五年(1872年)5月の鉄道仮開業により、日本で最初にできた駅のひとつ、品川停車場(品川駅)を蒸気機関車が走ります。続いて目黒川沿いにガラスや耐火レンガなどをつくる工場ができると、しだいに目黒川沿いだけでなく立会川沿いにもさまざまな工場が建てられていきます。
大正十二年(1923年)に関東大震災が起こり、東京を焼き尽くす炎が品川からも見えました。都心部の人びとは被害の少なかった周辺地域へ移り住みます。荏原地区では、震災前後の7年間でおよそ10万人の人口増加となり、東京の復興を支えました。その後、太平洋戦争のさなか、昭和十七年から二十年(1942年から1945年)には工場をねらう空襲により一面焼け野原になりました。人びとはこうした苦難に負けず、力強く町を復興させていくのです。
東京港の埋立地が広がり、品川の臨海部には、新幹線の車両基地、火力発電所、コンテナターミナル、公園がつくられていきます。昭和五十八年(1983年)には、保育園や小・中学校を備えた大規模な品川八潮パークタウン(八潮団地)ができました。その後、大崎駅周辺など内陸部でも新しいまちが次々とでき、交通網も発展していきます。大井埠頭など東京港の中核となる施設がある品川は、さらに世界とつながっていきます。
モースコーナーでは、大森貝塚の出土品(複製)の展示やエドワード・S・モース博士に関するパネルが展示されています。
梅・桜・紅葉などの草木が四季折々の姿を見せる回遊式の日本庭園には、「松滴庵(しょうてきあん)」という茶室が当時のままの姿で建っています。
茶室 松滴庵(しょうてきあん)
松滴庵は、昭和二〜三年頃、ここに居住していた安田財閥の安田善助氏が邸宅内に六窓庵(現在の東京国立博物館内の茶室)を手本にして建てた茶室です。松滴庵では高橋是清、藤原銀次郎、根津嘉一郎など戦前の政財界の著名人を招いて茶会が開催されたと言われています。その後、邸宅は(株)電通の吉田秀雄氏に引き継がれました。昭和六十年(1985年)の品川歴史館の開設にあたり、歴史的に貴重な茶室をそのままの形で残しました。現在では、隣接の書院とともに茶会で多くの方々にご利用をいただいています。なお書院は、邸宅の母屋の大広間をできる限り、もとの材料を再利用して建てられています。
庭園には、渓流を模した流れ、歴史館建設中に敷地内で発見された水琴窟や大井鹿島遺跡の住居跡(復元)などもあります。
水琴窟(すいきんくつ)
水琴窟とは、小さな洞窟に水滴を落とし、かめの中で反響する水音を楽しむもので、その歴史は江戸時代まで遡ると言われています。水琴窟は安田善助邸の時代からありましたが、長らく忘れられていました。昭和五十五年(1980年)、品川歴史館建設に際して調査したところ、庭の片隅に落ち葉や土に埋もれた常滑焼の水琴窟が発見されました。その後「幻の水琴窟」として紹介され、その魅力を再び世間に知らせることになりました。今でも、きれいな音色を奏でて品川歴史館庭園の「主役」となっています。水琴窟の穴の周りに水を滴らして、竹筒を耳にあてて優雅な水滴音の響きを聴いてみましょう。
庭園の中に水準点の蓋石が残されています。
T号 一等水準点の蓋石
明治二十四年(1891年)9月10日設置
明治政府が品川区荏原1丁目15番地に設置した水準点の蓋に使われていた石です。水準点は、標高を測るためのものです。一等水準点は、千代田区永田町の水準原点の変動を観測するために荏原や新宿など5ヶ所(T号〜X号)に設置されました。失った板橋のV号を除く4ヶ所は今も東京都が使用しています。
品川歴史館を出て池上通りを北方向に進み、大井三ツ叉交差点からレトロな三ツ叉商店街を抜けて大井駅に向かいます。
商店街の入口に小さな地蔵尊の祠が建っています。古道の分岐点に当たるこの地に、昔十一面観音を祀った堂があった、あるいは直ぐ近くの庚申堂付近から出土した地蔵を祀ったといわれています。
ゴール地点の大井町駅に着きました。
ということで、品川区で十五番目の「15.大森貝塚と品川歴史館コース」を歩き終えました。次は品川区で十六番目の「16.しながわ花海道コース」を歩きます。
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