- 20.東海七福神コース
- コース 踏破記
- 今日は品川区の「20.東海七福神コース」を歩きます。京浜急行の新馬場駅をスタート地点として、旧東海道品川宿沿いの七福神を巡ります。最初に歩いたのは2022年のお正月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年10月に改めて歩きました。なので、お正月と秋の写真が入り交じっています。
20.東海七福神コース
東海七福神
東海七福神は、昭和七年(1932年)に品川地区(荏原郡)が東京市に編入されたことを記念して「東海七福神初詣」が定められ、今に至っています。古くから東海道の沿道には、多くの社寺が建立されており、七福神も祀られていました。東海七福神の参観期間は、1月1日から1月15日までとなっています。参観期間中は、七福神巡り用の色紙が各社寺で有料頒布され、この色紙に各社寺の印を押していきます。このほか、小さな宝船に各社寺の福神像を載せていく七福神宝船も有料で頒布されます。七福神宝船は、神棚や床の間に祀ると良いとされています。
七福神各社寺
大黒天 品川神社
布袋尊 養願寺
寿老人 品川成田山一心寺
恵比寿 荏原神社
毘沙門天 品川寺(ほんせんじ)
福禄寿 天祖諏訪神社
弁財天 磐井神社
東海道の歴史
「東海道」は、律令時代(7世紀後半〜10世紀)に地域区画の名称として使われており、当時は「うみつみち」と読まれていました。一方、道としての「東海道」も、古くから東西を結ぶ幹線として利用されてきました。そして、慶長六年(1601年)、徳川家康の全国統一に必要な事業として本格的な街道整備がスタートし、江戸時代の初めには、現在一般的に知られる「東海道(旧東海道)」の姿になりました。
「20.東海七福神コース」の歩行距離は約4.8km(約6,000歩)、歩行時間は約1時間30分、消費カロリーは約406Kcalです。
スタート地点:京浜急行新馬場駅
↓
- ポイント1 品川神社
-
徳川家康が関ヶ原合戦出陣の際に戦勝祈願した神社です。6月に催される例大祭では参道の急階段を神輿が上がります。
↓
- ポイント2 養願寺
-
創建は正安元年(1299年)とされ、本尊が虚空蔵菩薩であることから「品川の虚空蔵さま」とも呼ばれています。
↓
- ポイント3 品川成田山一心寺
-
江戸時代末期の安政二年(1855年)に開山した寺社です。旧東海道筋において、裏鬼門の方角に向いて守護しています。
↓
- ポイント4 荏原神社
-
元品川宿の総鎮守であり、改修前の目黒川は荏原神社の北側を流れていました。天王祭は「かっぱ祭り」ともいわれます。
↓
- ポイント5 品川寺
-
境内には樹齢300年のイチョウがあり、入口には江戸六地蔵の一つである約3mの地蔵菩薩座像があります。
↓
- ポイント6 天祖諏訪神社
-
立会川を挟んで祀られていた天祖神社と諏訪神社は、昭和四十年(1965年)に合祀されました。浜川町と元芝の氏神様です。
↓
- ポイント7 磐井神社
-
敏達天皇(572年〜585年)の代に創建されたと伝えられ、社名の由来となった井戸は、東海道の旅人に利用されていました。
↓
ゴール地点:京浜急行大森海岸駅
こぼれ話
品川区内の旧東海道は、ほとんどが江戸時代の海岸線にあたります。
北品川から鈴ヶ森までの旧東海道の道幅は、江戸時代からほとんど変わっていません。
スタート地点の京浜急行新馬場駅北口から歩き始めます。第一京浜(国道15号線)を挟んだ反対側の台地の上に品川神社があります。
- ポイント1 品川神社
-
品川神社は、文治三年(1187年)に源頼朝が安房国の洲崎神社から海上交通安全と祈願成就の守護神として天比理乃当スを勧請して祀り、品川大明神と称したのに始まります。鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に、北条高時の臣二階堂道蘊が「宇賀之売命(稲荷神)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478年)に太田道灌が「素戔嗚尊(天王神)」をそれぞれ祀りました。天正十九年(1591年)には徳川家康から5石の社領の朱印を受け、徳川家の尊崇する特別な神社として社紋も徳川家の家紋の「丸に三つ葉葵」と定め、「御修復所(神社の建物の再建・修復などは全て江戸幕府が賄う)」として徳川家の厚い庇護を受けました。慶長五年(1600年)、徳川家康が関ヶ原の戦いへ出陣の祭に品川神社を参拝して戦勝祈願し、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納し、寛永十四年(1637年)に三代将軍徳川家光が東海寺を建立した際には、境内の一部がその敷地となったために代替地を賜わり、神社の位置が東海寺の鬼門に当たることから、東海寺の鎮守としました。
品川神社御由緒
御祭神
- 天比理乃当ス
-
天太玉命(天岩戸の神話に登場する神様)の后神。
祈願成就・航海安全の神。源頼朝公御勧請。
- 宇賀之売命
-
お稲荷様。農業・商業・産業繁栄の神。二階堂道蘊公御勧請。
- 素戔嗚尊
-
天王様。風水害除け・疫病(病気)除けの神。太田道灌公御勧請。
■御由緒
今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(1187年)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃当スを当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478年)に、太田道灌公が「素戔嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。慶長五年(1600年)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。また、寛永十四年(1637年)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄七年(1694年)・嘉永三年(1850年)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。時代は明治に移り、同元年(1868年)十一月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964年)氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。
明治元年(1868年)11月8日、明治天皇が品川神社を准勅祭社と定め、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社のひとつとしました。明治五年(1872年)に郷社に列し、昭和五十年(1975年)に東京十社に列しています。東京十社は、元准勅祭社12社の内から、昭和五十年(1975年)に定められた東京近郊の10の神社のことです。明治維新が成立した後、東京に奠都した明治天皇は、明治元年(1868年)10月17日に氷川神社の例大祭を新たに勅祭に定めました。それに続いて11月8日に、それまでの畿内二十二社などの勅祭社に併せて東京近郊の主だった神社を准勅祭社と定めて東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としました。当初は12社(日枝神社・根津神社・芝神明宮・神田神社・白山神社・亀戸神社・品川神社・富岡八幡神社・王子神社・赤坂氷川神社・六所神社・鷲宮神社)でしたが、2年後の明治三年(1870年)9月1日には廃止され、准勅祭社の制度は一時的なもので終わってしまいました。その結果、12の神社は府社あるいは郷社となりました。昭和五十年(1975年)、昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行い、准勅祭社から遠隔の府中町六所宮と埼玉県久喜市の鷲宮神社を外し、23区内の10社を巡る「東京十社巡り」が成立しました。
境内に上がる参道石段下に、門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」があります。左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻され、双龍鳥居は杉並区の宿鳳山高円寺と馬橋稲荷神社にもあり、品川神社と合わせて「東京三鳥居」ともいわれています。参拝すれば運気上昇間違いなしです。
品川神社は、東海七福神の一社として、大黒天を祀っています。
参道石段を上がって拝殿に進みます。6月の例大祭では、この急な石段を神輿が上り下りし、祭りのなかでも一番の見所となっています。
拝殿には、海上交通安全と祈願成就の守護神である天比理乃当ス・宇賀之売命・素盞嗚尊、それに東海七福神の大黒天が祀られています。拝殿は、戦災は免れたものの、老朽化によって昭和三十九年に再建されました。
御由緒
平安時代末期の文治三年(1187年)に源頼朝公が安房国の洲崎明神(千葉県館山市洲崎神社)の天比理乃当スを当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に二階堂道蘊公が「宇賀之売命」を、室町時代中期の文明十年(1478年)に太田道灌公が「素戔嗚尊」をそれぞれお祀りしました。慶長五年(1600年)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に戦勝を祈願し、後に祈願成就の御礼として仮面・神輿などを奉納され、これ以降、歴代の徳川将軍家の厚い庇護を受けました。明治元年(1868年)、明治天皇様が国家の繁栄を御祈願されるため「准勅祭神社」と定められました。大東亜戦争の折は戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964年)現在の社殿が再建されました。
拝殿の右隣には、朱色の鳥居が立ち並ぶ阿那稲荷神社があります。
その右手にも鳥居が連なっていて、坂を下りた奥には金運や商売運のご利益があるとされる阿那稲荷社があります。鳥居の奥に社殿があり、神額には「一粒萬倍」の文字が書き添えられています。
社内には「一粒萬倍の御神水」があり、備え付けのザルにお金を入れて御神水で洗うと何倍にも増えるという御利益が得られます。私は眺めただけでしたので、財布のお金は増えるどころか減る一方です。
一粒萬倍の御神水
万物は「天・地・水」の恵みを受けて生成化育し、米は一粒の種より萬倍の稲穂となる。当稲荷社は「上社」が「天の恵みの霊」を「下社」が「地の恵みの霊」と「御神水」をお祀りする。家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの水をそそぐが吉。また、持ち帰りて家・店の入口・四隅にそそぎ、清く明るき心を持って暮らし・商売するが吉。そそぎし銭の一部は門前・北品川の商家にて使用するが吉。
拝殿の左隣に寶物殿があります。庫には宝物や神輿が納められています。今は改修工事のために見ることはできません。額には、神輿の渡御風景が描かれています。「天下一嘗の面」は、慶長五年(1600年)に徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣の際に戦勝を祈願し、合戦の後で勝利の御礼としてこの面を奉納しました。もとは舞楽の演目の「二の舞」に用いられる面で、室町時代中期に作られたと考えられています。江戸時代の中頃の疫病が流行したある年のこと、「この面を神輿に付け町々を廻れば苦しみから救うぞ」との神様のお告げがあり、以来、6月の例大祭ではこの面をお神輿につけて渡御し、無病息災・幸福招来を祈願するようになりました。「品川拍子」は、神輿が渡御するときの囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる桶胴の締め太鼓を竹で作った撥でたたき、俗称トンビと呼ばれる篠笛によって演奏されます。
天下一嘗
神面つけて
品川拍子で
担がれる
氏子の弥栄
祈願して
渡らせ給ふ
大神輿
寶物殿の横に案内板が立っています。
品川拍子の案内板です。
品川区指定無形民俗文化財
品川拍子
品川拍子は祭礼時に神輿が巡行する際の囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる締め太鼓と、俗称トンビといわれる篠笛によって演奏される。その由来は定かではないが、品川神社太々神楽の系統に属するもので、三代将軍徳川家光が品川神社に神輿を奉納された頃に始まったと伝えられ、品川宿で成立し、当宿とその周辺地域にのみ伝承されている。現在伝えられている品川拍子は、明治初年に嶋田長太郎が集大成したものとされ、初代家元と考えられている。千貫神輿の渡御で有名な「北の天王祭」は毎年六月七日に近い日曜日を中心とする三日間行われるが、このとき神輿の上げ下ろしや、揉んだり差したり納めたりの動作を品川拍子で指示するなど、他に類例を見ない特色をもっている。
品川神社に所蔵されている古文書の案内板です。
品川区指定有形文化財
品川神社文書
品川神社文書は、北品川地域の鎮守として親しまれている品川神社に所蔵される文書である。古いものは天正十一年(1583年)にさかのぼり、現在にいたる膨大な文書が伝来している。とくに、明治五年(1872年)までの文書415点は、神社の由緒や境内絵図、神社と地域の人々との関わり、幕府や明治政府とのさまざまな応答、天王祭や太太神楽のことなど、品川地域の歴史の解明や、江戸時代から明治初年の神社史を知る上でも貴重な古文書である。
鳥居・水盤・燈籠・神輿の案内板です。
品川区指定有形文化財
品川神社石造鳥居並水盤
石造鳥居と水盤(水船)は、下総(千葉県)佐倉城主で三代将軍徳川家光の側近・堀田正盛が、慶安元年(1648年)に寄進したもので、ともに貴重な石造遺物である。鳥居に、寄進銘と宝暦十二年(1762年)の修理銘が刻まれている。
品川神社石造燈籠 一対
慶安元年に、亀岡政重(石工)と後藤光利(装剣具彫刻工)が寄進したもので、浅間神社の参道に置かれているが、もとは拝殿前に設置されていた。都内に残っている石造燈籠の中でも早い時期に製作されたもので、江戸時代初期の石造遺物として価値が高い。
神輿 一基(宝物殿安置)
屋上に鳳凰を置く鳳輦型の神輿である。台上に円柱を方形に立てて屋根を支え、胴の前部を唐戸にし、他の三面を牡丹唐草文毛彫の金銅板で飾っている。屋根は立花文を型押しした金銅板で覆い、三葉葵の紋を四方に打ち出している。屋根に比べて胴部が大きく、その上彫刻が少なく、簡素で重厚な作風であり、江戸時代前期に製作されたものと考えられる。
神楽殿では、品川神社の例大祭で神楽が奉納されます。また、年に4回拝殿で奉納される太太神楽は東京都の無形民俗文化財に指定されています。太太神楽は、品川神社の宮司家に相伝として受け継がれてきたもので、大正初年までは神職によって奉納されていました。現在では氏子有志によって継承されている古い形態を残す見応えある神楽として有名です。
拝殿右手から建物の裏に回り、通路を辿っていくと、自由民権運動の主導者として知られた板垣退助の墓所があります。境内の端のひっそりとした場所ですが、歴史的人物の墓所とあって多くの歴史ファンが訪れています。
品川区指定史跡
板垣退助墓
板垣退助は、天保八年(1837年)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、討幕運動や戊辰戦争(1868年)に参加して功績をあげた。明治七年(1874年)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(1881年)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧かせた。明治二十九年(1896年)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(1900年)に政界を引退した。大正八年(1919年)に亡くなり、この地に葬られた。
墓石の横には石碑が据えられ、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が記されています。揮毫したのは、自由民主党総裁で第六十三代内閣総理大臣だった佐藤榮作です。板垣退助らが結成した日本最初の近代政党である自由党は、現在の自由民主党の源流とされています。
境内には、「品川ネギとカブ」の案内板があります。あちこちの神社には、JA東京が制作した地元に古来から伝わる江戸・東京野菜の歴史を解説した案内板が立っていますね。
江戸・東京の農業 品川ネギとカブ
品川は江戸湾に面し、中世以来の港町、宿場町として栄え、町をささえる漁業や農業も盛んでした。とくに、農業は、目黒川、立会川流域の低湿田地帯と荏原台地に広がった畑地で、年貢のための稲作を中心に麦や雑穀を作る粗放的農業が行われていましたが、野菜は荏原郡の中でも最も早く産地として発展しました。江戸にネギが入ったのは天正年間(1573年〜1592年)に大阪方面からの入植者によって、砂村(現在の江東区)で栽培されたのが始まりですが、品川も同じで、入植者が持ち込んだネギの栽培は品川宿の周辺から広がり「品川ネギ」として産地化しました。また、文化元年(1804年)に著された「成形図説」には越冬用漬物として栽培された長カブ「品川カブ」が記され、天保十四年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、品川ネギ、大井ニンジン、戸越のタケノコが名産として記されています。その後、江戸市中へ出荷する野菜の生産地は江戸市街地の発展により、大井、大崎地区を中心に移っていきました。
THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Shinagawa Negi and Kabu
Facing to Edo Bay, the people here in Shinagawa lived on fishing and farming.
Negi (welsh onion) was introduced to Edo during 1573-1592 by the settlers from Osaka districts. Its culture started in and around Shinagawa post town and won the brand name 'Shinagawa Negi'. The record around 1804 describes of the Shinagawa Kabu (turnip) which was grown for preserved food in winter. The center of vegetable production
gradually moved to Oi and Osaki areas.
境内には幾つかの石碑が建っています。的矢の絵が描かれた記念碑の碑文にある「新東京八名勝」とは、1932年に報知新聞社が東京市拡張(近隣の5郡【荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡】82町村の各全域を編入して新たに20区を置き東京35区となり、1936年には北多摩郡砧村・千歳村を世田谷区に編入して現在の東京都区部の範囲が確定)と報知新聞社の新聞発行二万号の記念を兼ねて選定されたものです。選定は投票で行われ、投票総数は実に850万以上でした。そして、第一位は池上本門寺、第二位は西新井大師と続き、第三位に品川神社が選ばれたのです。この石碑はそれを記念して建てられたとのことです(正確には、中央の心棒は選定当時に建てられ、その六十周年を記念して常夜灯と記念碑が建立されたようです)。消防団との関わり合いは分かりませんでした。
記念碑 建立の趣旨
此の碑は中央に位置する心棒を昭和七年に当品川神社が東京八名勝の第三位に入選した記念に吾々の先人が時の協賛者と共に建立したもので、丁度六十周年の節目を期に常夜灯と記念碑を建立し品川神社の敬神の昂揚と境内の景観に粋を添え先人の鎮魂の意も含め更に社会に役立つ心の地形をなし人の和を基本としながら江戸町火消の永い歴史によって培われた伝統文化の灯を消す事なく之を後世に伝承せんとするものである。
包丁塚も建っています。
包丁塚の由来
抑(そもそも)もここ品川の地は、往昔より江戸出入の要宿にして、近代となりてその地域広大となるも、まことに殷賑をきわめ、ゆえに調理をなりはいとする店多く、またこれらに使用されし包丁数知れぬなり。このたび品川区鮨商組合連合会発足二十五周年を記念し、ここ縁の地品川神社の神域に包丁塚を建立、調理に役し、使い古されし数多包丁を納め、とわにその労を謝すると共に、同じくそれら包丁により調理されし鳥獣魚介の類、はた又蔬菜(そさい)等を慰霊し、併せて業界の発展を期し、とこしえに連合会の隆昌を願うものなり。
「東海七福神めぐり発祥の碑」もあります。東海七福神は、昭和七年(1932年)に品川をはじめとする周辺町村を編入した大東京市の成立を記念し、品川の繁栄を願って発足し、品川宿から鈴ヶ森に至る旧東海道沿いの7つの寺社を巡る七福神霊場です。
境内の東端に浅間神社があります。浅間神社は、富士信仰の神社です。
浅間神社の東隣には、崖を利用した都内最大の冨士塚が造られています。富士塚とは、富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚をいいます。江戸時代には一般的に「お富士さん」などと呼ばれ、現在では「ミニチュア富士(ミニ富士)」などとも呼ばれています。富士塚を登ることで富士山を登ったのと同じご利益が得られるといわれていて、都内には数多くの富士塚が存在します。品川神社の富士塚「品川富士」は比高約15mで、江戸七富士と呼ばれる七つの富士塚の中でも最大といわれています。毎年7月1日に近い日曜日には「山開き」の神事も行われていますが、品川冨士は一年中登ることができます。
品川区指定有形民俗文化財
品川神社富士塚
富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山ができない講員のために造った築山である。品川神社の富士塚は、明治二年(1869年)、北品川宿の丸嘉講社の講中三百人によって造られた。神仏分離政策で一時破壊されたが、明治五年に再築し、大正十一年(1922年)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。江戸後期に盛んだった民間信仰を知る上で、たいせつな文化財である。
品川区指定無形民俗文化財
品川神社富士塚山開き
毎年七月一日に近い日曜日に、講員一同が白装束で浅間神社神前で「拝み」を行う。その後、はだしで富士塚に登り、山頂の遥拝所や小御嶽の祠でも「拝み」をして下山し、社殿にもどってから平服に着替える。かつては盛んだった行事であるが、現在も行っている富士講はたいへん少ない。
富士塚山麓の窪みに、蛙の石像が鎮座しています。これは「富士」と「かえる」をかけて「無事、帰る」、つまり安全守護の石像として作られたものだそうです。旅行の前などに参拝すると無事に帰宅できますね。
そこに山があるからには登らざるを得ませんね。これまで都内の富士塚には数多く登ってきましたが、今回はその中の最大の富士塚なのでテンションが上がります。参道石段の中ほどに富士塚の登山道の入口があります。登山道の入口脇には、足の神様とされる「猿田彦神社」があり、旅の安全を祈願できます。
二合目の標識の横に、役行者の石仏があります。役行者は、伊豆大島に流されたとき夜な夜な富士まで飛び修業していたとのいい伝えがあります。脇侍は、前鬼と後鬼です。
五合目までは比較的楽に登れますが、六合目からは本格的な富士登山を感じさせるような急勾配となります。足場が岩でゴツゴツしているので、鎖を掴んで登らないと危いです。
やっとこさ頂上に着きました。登頂成功です。頂上は広場になっていて、国旗掲揚台以外は何もありません。浅間神社のミニ祠があるのが普通なんですが。
山頂からの眺めは、東側は京急の高架が眼下に眺められて見晴らしがいいのですが、西側は木々に邪魔されて富士山を拝むことができません。富士塚を造るときは、頂上から富士山が見えるように山頂を設計すると聞いたのですが、今まで一度も富士山は見えなかったですね。
品川神社から国道15号第一京浜を渡り、北馬場参道通りを旧東海道方向に進んで養願寺に向かいます。かって、この道は旧東海道から品川神社へ通じる参道でした。
- ポイント2 養願寺
-
養願寺は、正安元年(1299年)に創建された天台宗のお寺です。虚空蔵菩薩を本尊とし、毎月13日が縁日で、特に春季4月第2土・日と秋季11月第2土・日の大祭時に開帳され、多くの参詣者が訪れます。周辺の商店街では露店や物産市や大道芸などが出て終日賑わいます。虚空蔵尊は「品川虚空蔵」とも呼ばれ、家内安全と厄除のご利益があります。丑年・寅年生まれの守り本尊として信仰を集めると共に、「十三詣り」と結びつき、子供が13〜15歳までにお参りすると福・徳・智慧が授かるとされています。かつては虚空蔵堂に安置されていましたが、現在は本堂に移されています。商店街からお寺へと続く「虚空蔵横丁の煉瓦塀」は大変趣きがあり、映画のロケ地としても使われました。
看板で見えませんが、山門の脇に案内板が立っています。本尊の虚空蔵尊については解説がありませんね。
品川区指定有形文化財
銅造阿弥陀如来立像
この阿弥陀如来立像は、木造の観音・勢至像を脇侍とし、本尊の脇に安置されている。本像は衣を通肩にまとい、右手を屈して五指を伸ばし、掌を正面に向けている。左手は垂下して第二指と第三指を伸ばし、他の指を屈した刀印を結んでいる。善光寺(長野市)の本尊(秘仏)の模作のひとつであるが、鎌倉時代(1192年〜1332年)の制作と推定され、大変貴重なものである。脇侍は江戸時代の作。
木造不動三尊像 三躯
この三尊像は、中尊が不動明王立像、脇侍が制(多)迦童子立像・矜羯羅童子立像の三躯である。像内の文書から甲州(山梨県)の出身で、武州豊島郡金杉村(台東区)世尊寺に住む権大僧都玄雄が、万治元年(1658年)に発願造立した像であることがわかる。仏師は春達であると推定される。三尊とも彩色が施されているが、彩色は後世のものである。
養願寺は、東海七福神の布袋様を祀っています。
養願寺から旧東海道に出ます。旧東海道から横丁が延びています。かっては、この横丁が養願寺に向かう参道だったのでしょう。
虚空蔵横町
東海道北品川本宿から西方の養願寺(正安元年【1299年】の開創)への横町を通称「虚空蔵横町」という。かつては阿弥陀如来が寺の本尊であったが、境内の虚空蔵堂が「品川の虚空蔵さま」として親しまれた。現在は虚空蔵菩薩が本尊。江戸時代、子どもが13歳になった時に虚空蔵参りをすると福・徳・知恵を授かるとされ、毎月13日にお参りをした。現在は4月と11月の大祭に開帳されている。
旧東海道に面して、品川成田山一心寺があります。
- ポイント3 品川成田山一心寺
-
一心寺は、安政二年(1855年)の創建で、ご本尊は成田山の分身である不動明王です。古くから延命と商売繁盛の寺として信仰を集めています。
一心寺は、東海七福神の延命・長寿と福徳をもたらす神である寿老人をお祀りしています。お正月には、本堂の入口奥に寿老人が開帳されます。
一心寺之由来
安政二年(西暦1854年)、日本開国之機運高まり、国運の境目に接面し時、大老職にある井伊直弼公が縁起に依り、江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて、鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に依って建立されたと伝えられております。当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山廷命院一心寺と云う寺格を拝受し、成田山分身の不動明王を本尊とし、延命、商売の護りとして今日に続いております。昭和六十一年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く、又、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称せられており、内陣には、両大師、中国渡来??仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光雲?観音像、寿老人等が祀られ(て)おります。
品川成田山一心寺から荏原神社に向かいます。旧東海道が目黒川を渡るところに品川橋が架かっています。この辺りは、江戸時代には年貢米を積み出す河岸でした。
南品川宿河岸
目黒川の流れが大きく左折(北流)する箇所の右岸にあった河岸(河川の岸で舟から荷物などのあげおろしをするところ)、旅籠屋・百足屋に隣接していたので俗に「百足河岸」と呼ばれた。品川宿周辺の村々から運んでこられた年貢米は、この河岸から浅草御蔵前にあった幕府米蔵に積み出されていた。
橋の歩道の中央部がちょっとした広場になっていて、休息所も設けられています。
品川橋の今昔
この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。[品川橋]は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には[境橋]と呼ばれていました。また別に[行合橋]・[中の橋]とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。[品川橋]がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。
- ポイント4 荏原神社
-
品川橋のすぐ上流に、欄干が朱色に塗られた橋が架かっています。橋の名前は鎮守橋で、北詰は荏原神社に繋がっています。いわば、参道橋です。
荏原神社の境内には、鎮守橋のかっての親柱が保存されています。
荏原神社は、和銅二年(709年)9月9日に大和国丹生川上神社より高(おかみの)神(水神)の勧請を受けて南品川に創建されました。以降、源氏・上杉氏・徳川氏など多くの武家の信仰を受け、南品川の鎮守として崇敬されました。元々は「品川貴船社」という名称でしたが、明治八年(1875年)に名を改め、荏原郡の名に因んで「荏原神社」に改称しました。
荏原神社は、東海七福神の中の一社として恵比須神を祀っています。
毎年6月初旬には天王祭が開催され、神輿の動作指示は「品川拍子」で行われます。
品川区指定無形民俗文化財
品川拍子
品川拍子は祭礼時に神輿が巡行する際の囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる締め太鼓と、俗称トンビといわれる篠笛によって演奏される。その由来は定かではないが、荏原神社では昔から鳳輦(現在は御羽車)に神面と大拍子を付け「天下泰平・五穀豊穣」と叩きながら氏子地域を回ったのが始まりといわれ、品川宿で成立し、当宿とその周辺地域にのみ伝承されている。現在伝えられている品川拍子は、明治初年に嶋田長太郎が集大成したものとされ、初代家元と考えられている。宝暦元年(1751年)に始まる神輿の海中渡御で有名な「荏原神社天王祭」は、六月七日に近い日曜日を中心に行われるが、このとき神輿の上げ下ろしや、揉んだり差したり納めたりの動作を品川拍子で指示するなど、他に類例を見ない特色をもっている。
荏原神社は幾度か明治天皇の奉安所になりました。
明治天皇と荏原神社
内侍所御奉安所史跡
明治元年七月二十七日明治天皇江戸を東京と改め帝都を東京に移すと詔す。この年九月二十日天皇内侍所(今日の宮中賢所)を相具し奉りて京都御発輩諸官三千三百人を従えて陸路東海道を東京へ向われた。下って十月十二日朝神奈川駅御発輦川崎梅屋敷にて御小憩の後午後三時頃当荏原神社に御着輦本社弊殿に内侍所を拝殿に御羽車を御奉安遊ばされた。翌明治二年三月二十七日明治天皇御再幸の節も内侍所を当社に御奉安せらる。この両度の内侍所御奉安所に使用せられた建札はじめ菊花御紋章の高張提灯その他調度品を当社に御下賜せられ今日に至るまで用いられている次第である。明治五年京都に在せし英照皇太后東京へ行啓の除明治天皇は御出迎えのため御通輩の途次当社をもって御休殿に充てられし事は重なる光栄とするところである。
石碑の後ろに、文字が殆ど消えかかった案内板が立っています。
品川区認定文化財
荏原神社文書八点(文五号)
利田家文書十八点(文六号)
将軍家朱印状写を含む本社に関する文書および延宝から明治まで旧南品川宿名主の利田家より寄進された文書で、本社の沿革や南品川宿を知るための貴重な資料とされている。
荏原神社神輿海中渡御(民三十三号)
毎年六月七日に行われる祭禮(さいれい)の一行事で、神輿を海中に入れもみあうものである。江戸時代に海中から出現した神面を年一回神輿につけて海中に入れ、ノリの豊作と魚介類の豊漁を祈願したことに始まる。現在は、海岸が埋立てられたため神輿を船にのせて海上に出て、浅瀬の水のきれいなところで、海中渡御を行っている。
本殿の柱に由緒書きが掲示されています。
郷社荏原神社は、元明天皇御代和銅二年九月九日の創立にして、明治元年十月十二日明治天皇御遷都の際、畏くも内侍所(今の賢所)御鎮座あらせられし?なり。例祭は毎年六月六日より九日迄、小祭は毎月九日。
旧東海道に戻って品川寺に向かいます。旧東海道沿いには、かっての宿場町から寄贈された街道松が植えられています。
浜松宿の街道松
この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、二十九番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された樹齢約百年の黒松です。斜めに傾いた幹は、風雨に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を忍ばせる見事な枝ぶりです。松の名称は、寄贈された有賀氏より「品川宿の松」と命名されました。また、約百五十メートル南の「南品川二丁目児童遊園」には、三島市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。
- ポイント5 品川寺
-
品川寺(ほんせんじ)は、弘法大師空海が開山し、大同年間(806年〜810年)に創建されたと伝わっています。江戸城を築いた太田道灌により、長禄元年(1457年)に伽藍が建立され、寺号を金華山大円寺と称しました。その後戦乱により荒廃しますが、承応元年(1652年)に弘尊上人によって再興され、現在の寺号の海照山となりました。江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがあり、江戸三十三観音札所の第三十一番でもあります。
山門前左手にある銅造地蔵菩薩坐像は宝永五年(1708年)に造られ、江戸六地蔵の第一番となっています。現存する江戸六地蔵像のうち、唯一頭上に傘を載せていません。
東京都指定有形文化財(彫刻)
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)
江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(1706年)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五躯が残っています。六地蔵のうち、海照山品川寺の地蔵は一番古く、宝永五年(1708年)に造立されたものです。像高は、現存するものの中で一番大きく275cmあり、かつては鍍金が施されていました。江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。
Tangible Cultural Properties (Sculpture)
Dozo Jizo Bosatsu Zazo (Edo Roku Jizo no Hitotsu)
According to a copy of the "printed book of the brief history of the erection of the statues of Edo Six Jizoson," which was dedicated inside the statue, the origin of the Edo Six Jizoson is as follows. Jizo Monk Shogen who resided in Fukagawa, Edo, had been struck by incurable disease. After praying with his parents for cure of the disease to Jizo Bosatsu, Shogen was healed. After the fashion of six Jizo in Kyoto, a petition for the construction of statues of six Jizo was commenced in 1706 to collect public donations. Then a statue of Jizo Bosatsu was erected at each of six locations in Edo. The body and the lotus-shaped pedestal of each statue were incised with the names of solicitors and the year of construction. The statues were cast by Caster Ota
Suruganokami Fujiwara Shogi in Kandanabe town. Anti-Buddhist movement at the beginning
of the Meiji period destroyed the sixth Jizo Bosatsu at Eidaiji Temple in Fukagawa. Currently there are 5 remaining statues. The statue of jizo at Kaishozan Honsenji Temple is the oldest among the six statues and was erected in 1708. It is the largest among the remaining statues and its height is 275cm. The statue used to be gold-plated. The statue was designated as cultural properties because the statue was rather elaborate for copper statues in the mid-Edo period and there are only a few previous cases as such.
品川寺の梵鐘には明暦三年(1657年)の銘があり、徳川第四代将軍家綱の寄進とされています。この梵鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)とウィーン万博(1873年)で展示されたと伝わっていますが、その後所在不明となっていました。文部省学芸部長の石丸優三は大正八年(1919年)に梵鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを発見し、石丸から連絡を受けた当時の住職の仲田順海が返還交渉を開始しました。外務大臣の幣原喜重郎他多くの人々の尽力により、ジュネーヴ市議会は梵鐘を日本へ戻すことに同意し、六十余年を経て昭和五年(1930年)に梵鐘は品川寺に返還されました。このことで、梵鐘は「洋行帰りの鐘」と呼ばれています。梵鐘の返還が契機となった交流は戦後も続き、昭和三十九年(1964年)の東京オリンピックには仲田の招待でスイス選手団の歓迎パーティーが催されました。また、平成三年(1991年)5月には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵鐘が贈られ、同年九月には品川区とジュネーヴ市が友好都市となりました。
境内の薬師堂の横に、幹囲5.35メートル・樹高25メートルで樹齢約600年の銀杏の巨木が聳えています。秋には、この大銀杏の木から採れる「厄除開運ぎんなん」が人気となっています。
品川区指定天然記念物
品川寺のイチョウ
本樹は幹周り5.35メートル、樹高25メートル、推定樹齢約六百年という古木であるが、整然とした樹姿を見せ、その樹勢も極めて旺盛であり、幹や大枝からは、多くの乳が垂れている。本区内の数あるイチョウのなかでも、ひときわ目立つ存在であり、かなり離れた地点からも眺めることができ、壮観である。また約六百年という樹齢は、本寺が歴史の古い寺であることを実証するもののひとつである。
古い銀杏の木の表面にはコブのような垂れる枝がでることがあります。日本各地の寺社仏閣ではこのコブを女性の乳房に見立てて「乳垂れイチョウ」・「子授けイチョウ」と呼ばれ、母乳が出にくい女性がお参りに行くことがあるようです。
大銀杏の木の横に「太閤秀吉の枝垂れ桜」があります。「太閤しだれ桜」は、太閤秀吉が自身を支えてくれた人々に感謝の意を表するために催した“醍醐の花見”以来、「利他の心の桜」といわれています。長きに亘り醍醐寺が大切に保全し、寺と共に歴史を紡いできた「利他の心」が込められた桜の木の子孫樹です。「利他の心」とは、自分のことよりも他人の幸福を願い、自分を犠牲にして他人のために尽くすような気持ちで周囲に接する心のありようを言います。
品川寺には、一ヵ所で七福神詣でができる金生(かのう)七福神があります。金生七福神は鐘突き堂の周りを囲むように七福神像が分散して並べてあり、何れも高さ50cmから80cmの石像です。左から、布袋尊・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・恵比寿・寿老人の順になっています。
ちなみに、品川寺の東海七福神は毘沙門天で、本堂内に祀られています。
品川寺から天祖諏訪神社に向かいます。旧東海道が立会川と交差する地点に浜川橋が架かっています。
浜川橋
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は、昭和九年(1934年)に架け替えられたものです。
涙橋の由来
慶安四年(1651年)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。
浜川橋を渡った右手に天祖諏訪神社があります。
- ポイント6 天祖諏訪神社
-
天祖神社と諏訪神社は、古くは神明宮(天祖神社の旧名)・諏訪社と称し、旧東海道沿いに立会川を挟んでそれぞれ並んで鎮座していました。天祖神社(南浜川鎮守)の創建は1100年〜1190年頃で、諏訪神社(北浜川鎮守)は松平土佐守の下屋敷の海岸寄りにあり、江戸時代初期の寛永八年(1631年)以前の創建と伝わっています。昭和四十年(1965年)に天祖神社の改築に伴い、天祖神社のあった現在地に社殿を建て、両社は合祀されました。現在、諏訪神社の跡地には末社の稲荷神社があります。御祭神は天照大御神・豊受大神・建御名方刀美神・小碓命で、勝負ごとや己に勝つための祈願をしたお守り「勝守り」が人気になっています。
由緒
天照大御神
祭神 豊受大神
建御名方神
天祖諏訪の両社は江戸時代から此の地の鎮守とし、神威昭々郷土の発展と共に今日にいたりました。昭和三十六年一月、氏子各位の要望により、天祖神社諏訪神社御改築奉贊會設が設立せられ、新社殿を建立し、昭和四十年十一月一日両社を合祀いたしました。
同時期に、南大井二丁目にある浜川神社から東海七福神の福禄寿を移しました。お正月には多くの参拝客が訪れます。
境内には他にも厳島神社(弁天様)をお祀りしていて、その周りの池には大きな鯉が悠々と泳いでいます。
境内の奥に、天祖神社に置かれていた狛犬が保存されています。
江戸時代の天祖神社に設置されていた狛犬で、台座には「伊勢太々講奉納 天明七年丁未(ひのとのひつじ)二月日 芝伊皿子(いさらご)屋元治郎」と記されています。
天祖諏訪神社から磐井神社に向かいます。旧東海道が国道15号線(第一京浜)に合流する手前に大経寺があります。大経寺は、慶安四年(1651年)に鈴ヶ森刑場が開設されたのと同時に創建されたと推測されています。当時、刑死者を手厚く葬ることは禁止されていたため、申し訳程度の小さな堂宇が建てられ、仏教の慈悲の心をもって秘かに供養されていました。
鈴ヶ森刑場は、小塚原(荒川区)と並ぶ江戸の処刑場で、慶安四年(1651年)に開設されました。鈴ヶ森の名は大井村の隣の不入斗村(大田区)にあった鈴森八幡宮(現磐井神社)に由来しています。旧東海道に面していて、元禄八年(1695年)の検地によれば、間口40間(約74m)、奥行8間(約16.2m)の規模がありました。現在は文久二年(1862年)に創建された日蓮宗大経寺の境内にあります。処刑に使用したといわれる台石や首洗いの井戸などが残されている他、近代以降の様々な供養塔が建てられています。最初の処刑者は、慶安四年の由井正雪の乱に加わった丸橋忠弥だといわれ、他にも平井(白井)権八、天一坊、八百屋お七など、歌舞伎や講談でおなじみの人物がこの地で最期を迎えました。歌舞伎「浮世柄比翼稲妻(鈴ヶ森)」で有名な題目供養塔は、高さ3m超の石塔にひげ文字で南無妙法蓮華経と書かれ、裏面には元禄十一年(1698年)の年号と、この供養塔を建立した法春比丘尼、谷口氏の名が刻まれています。
東京都指定旧跡
鈴ヶ森遺跡
鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年(1651年)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年(1695年)実施の検地では間口四十間、奥行き九間であったとされます。東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態を留めていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は池上本門寺二十五世貫首日の筆によると伝えられるもので、元禄十一年(1698年)若しくは元文六年(1741年)の建立とされます。この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡です。
Historic Places
Suzugamori Iseki (The remains of Suzugamori)
Suzugamori Iseki was the site of execution ground, located since 1651 in the south of Shinagawashuku (Shinagawa Post Town) along Tokaido Highway. It was 72 meters in frontage and 16 meters in depth according to the land survey in 1695. However, at present there are no remains due to widened Tokaido Highway. Daikyoji Temple was built next to this ground for the repose of executed people's souls. The stone monument in the temple was built in 1698 or 1741, inscribed "Nan Myoho Renge Kyo" with seven characters written by Nichigi, who was the 25th head priest of Ikegami Honmonji Temple. It is important for knowing the history of punishment in the Edo period.
遺跡内の見所ポイントが案内図に記されています。
@火炙台礎石・・・中央の穴に鉄柱を立て、処刑者はこの石の上で生きたまま焼き殺されました。
Death-by-immolation site: The prisoner was burned alive here atop the stones.
A礫台礎石・・・中央の穴に角柱を立て、罪人を縛りつけて刺殺しました。
Post: The prisoner was tied to posts at the hole in the center, and stabbed to death.
B題目供養塔・・・3メートルを超す御影石に、ひげのような筆太の字体で「南無妙法蓮華経」の御題目が深く彫りこまれています。
Memorial tower: Namu Myoho Renge Kyo inscribed in deep, bold letters on a three-meter-plus slab of granite.
C首洗の井戸・・・処刑された罪人の首を洗ったと言われる井戸。
Well where it is said that the necks of executed individuals were washed.
D勇猛院日健居士の墓碑・・・1871年、この地で最後に処刑された渡辺健蔵の墓。
1871 Grave of Kenzo Watanabe, last person to be executed here.
鈴ヶ森刑場遺跡から磐井神社に向かいます。今日はお正月の三日です。国道15号第一京浜には箱根駅伝のランナーが次々と駆け抜けていきます。今年(2022年)は青学がトップで快走しています。
- ポイント7 磐井神社
-
磐井神社は、平安時代後期に編纂された「延喜式」などにも記載されている古社で、「江戸名所図会」には鈴森八幡宮という名で記録されています。
大田区文化財
磐井神社
式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社である。「三代実録」によれば貞観元年(859年)「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された「延喜式」の神明帳に記載されている。別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記されている。万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を 見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁天を指したものという説もある。
磐井神社の狛犬は子だくさんです。
磐井の狛犬
親犬と三匹の子犬に囲まれた狛犬は、子宝・安産・家族円満の象徴として親しみと愛情が込められております。
磐井神社には、ふたつの石が社宝として伝えられていて、神功皇后ゆかりの「鈴石」は打つと鈴のような音がしたことから鈴ヶ森の地名の由来になったといわれています。また「烏石」は江戸時代の書家松下烏石が寄進した鳥の模様のある珍しい自然石です。石は非公開ですが、境内にはこの烏石を記した烏石碑(1741年)を始め、江戸時代の文化人達の筆塚や書学碑があります。
大田区文化財
鈴石・鳥石(非公開)と江戸文人石碑群
鈴石は、社伝によれば、延暦年間(782年〜806年)に武蔵国の国司であった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石とされる。これを打つと鈴のような音がしたことから、「鈴ケ森」の地名の由来となったと伝えられる。また鳥石は、鳥の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の書家、松下烏石(?〜1779年)が寄進した。鈴石・鳥石は、ともに屋内に保管されている。江戸文人石碑群は、この烏石の寄進の由来を記した烏石碑をはじめ、松下鳥石の門人等が建立寄進したもので、向かって右から次のように並んでいる。
狸筆塚 文化六年(1809年)
?(=退)筆塚 天明六年(1786年)
竹岡先生書学碑 寛政八年(1796年)
烏石碑 元文六年(1741年)
これらは、かつて弁天池周辺にあったが、神社の境内整備に伴って現在地に移された。
社殿の左の池の中に弁天島があり、ここに琵琶を持つ弁財天(東海七福神)が祀られています。
磐井神社には、かって社名の由来にもなった「磐井の井戸」があり、東海道往来の旅人に重宝されていました。「この水を飲む時は、心正しければ清水。邪心があれば塩水になる」と言い伝えがあり、霊水・薬水とも呼ばれていたそうです。境内にあった井戸は第一京浜国道の建設により神社前の歩道上に残されています。
大田区文化財
磐井の井戸
この井戸は「磐井」と呼ばれる古井戸で、社名の由来となっている。東海道往来の旅人に利用され、霊水又は薬水と称されて古来有名である。この位置はもと神社の境内であったが、東海道
(現第一京浜国道)の拡幅により、境域が狭められたため、社前歩道上に遺存されることになった。現在飲むことはできないが、土地の人々は「この井戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪ならば塩水」という伝説を昔から伝えている。
境内に、東海七福神のおめぐり図が掲示されています。
@大黒天
品川神社
文治三年(1187年)、源頼朝公が、安房国の洲崎明神(天比理乃当ス)を当地にお祀りしたのを創始とする。後に、鎌倉時代末に二階堂道蘊公が宇賀之売命を、室町時代中頃に太田道灌公が素盞鳴尊を祀る。また、徳川家康公は関ヶ原合戦出陣の際に当社にて戦勝をご祈願され、以降、徳川歴代将軍より庇護を受ける。
A布袋尊
養願寺
正安元年の創建と伝えられ、天台宗明鏡山善光院養願寺と号し、御本尊は虚空蔵菩薩を安置する。福徳智恵の御利益を授かる丑寅年生まれの守本尊として信仰を集め、「品川の虚空蔵さま」と呼ばれている。本堂に鎌倉時代制作善光寺式阿弥陀如来三尊、江戸時代製作の不動三尊像、布袋尊が安置されている。
B寿老人
一心寺
当山一心寺は江戸時代末期安政二年に当時の世上開国日本の幕開けの頃、品川の土地に町民一体となり町内発展と守護の為創建、旧東海道筋において当山は裏鬼門の方角に向いて守護する寺であります。本尊は不動明王であり、代々住職は大本山成田山、高野山、智積院にて弟子が住職を勤めております。
C惠比須
荏原神社
飛鳥から奈良へ、和銅二年(709年)の創建。龍神を祀る元品川宿の総鎮守。品川・貴布禰大明神、天王社と称す。天正十九年家康公より神領を寄進され歴代将軍より庇護を受ける。東京遷都の際には、明治天皇の内待所となり、菊花御紋章を賜る。尚、陛下の御幸は四度に上る。天王祭神面神輿海中渡御は全国に知られる。
D毘沙門天
品川寺
承応元年(1652年)、権大僧都弘尊法印の中興で、真言宗海照山普門院品川寺と号し、本尊水月観世音菩薩は太田道灌公の念持仏と伝えられている。寺宝の大梵鐘から「鐘の寺」と呼ばれている。安置されている毘沙門天は御丈三尺余、足利期のものと思推せられ高野山伝来の由緒深き御尊像として信仰を集める。
E福禄寿
天祖諏訪神社
浜川町と元芝の鎮守の御社・氏神様として仰ぎ親しまれる天祖神社・諏訪神社は古く神明宮・諏訪社と称し、かつては両社とも東京湾に面し立会川をはさんで並び祀られていた。天祖神社創建は、建久年間の記録から西暦1100年〜1190年頃と思われ、諏訪神社は松平土佐守下屋敷近くにあり、寛永八年(1631年)以前の創建と思われる。
F弁財天
磐井神社
当社の起源は敏達天皇の二年八月といわれ、千四百年余の歴史を誇っている。「日本三代実録」で官社に列せられたとの記あり、その後の「延喜式神名帳」にも当社の名が記されている。幾度かの戦火をくぐってきたがその古の姿は「江戸名所図絵」等に「鈴森八幡宮」の名で記録され、多くの参拝者で賑わったと伝えられる。
ゴール地点の京浜急行大森海岸駅に着きました。
ということで、品川区で二十番目の「20.東海七福神コース」を歩き終えました。次は品川区で最後の「21.荏原七福神コース」を歩きます。
戻る